地下妄の手記

私の引用は善い引用??

最終更新:

匿名ユーザー

- view
管理者のみ編集可

私の引用は善い引用??

「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」単行本で、変だなぁ変だなぁと思っていた疑問が、文庫版で馬脚を顕してくださったので、やっぱり、と

  単行本56頁

   皇居内の断面図が左にある。この図は江戸城跡を横切るラインではなく、それより

  少し北のものと、少し南のものということになる。このデータは遺跡調査団から、直接、

  受け取ってはいるものの、『発掘が語る千代田の歴史』 でもすでに公開されている。

   千鳥ケ淵と半蔵濠に矢印がある。お堀の下に広大な地下空間がある。このような空間が

  内堀をぐるりと囲んでいる。この断面図を掲載することについては、遺跡調査団の方に

  了解をとった。

  安全保障、テロ対策についても、軍事評論家、新聞の編集委員の方などに意見を聞いた。

  もともと、このデータがすでに印刷物として広まっていることもあって、支障はないもの

  という結論に到っている。ここには、このように、四〇〇年の長きにわたって、国民には

  隠されてきた地下網がある。

「このデータは遺跡調査団から、直接、受け取ってはいるものの、」ならば、何故、その受け

取ったデータを掲載しないのか?

何故、図版上では「江戸城内の地層断面想定図(『新編 千代田区史』より)と本文にも、

巻末の【参考文献一覧】にも記載のない資料名が書かれているのか?

そして、何故、そのデータたる『新編 千代田区史』所載の「江戸城内地層断面想定図」を

「地下網の秘密[2]」に複写掲載するのに「遺跡調査団の方に了解を取った。」と言わねば

ならないのか?



「帝都東京・隠された地下網の秘密[2] 秋庭俊著 洋泉社刊 2004年」


この遺跡調査団なるものが何かを、秋庭氏は単行本でボカして居られました。

  単行本32頁でのこの様に、

   「四谷の地下に、かつての四谷があった」

    東京の遺跡調査団の副団長、北原糸子教授は、つまり、そう述べているのでは

   なかろうか。

私は単行本を拝見した当時、単行本34頁の記述

   東京の遺跡調査は、十年前(センセがこの本を上梓されたのは、平成16年)、

   地下鉄南北線の建設とともにスタートした。

   地下鉄工事が土の中を掘り進んでいくところで、平行して遺跡の発掘調査を行う。

とあるので、調査団とは「地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡調査会」の実調部隊かと考え営団

地下鉄(当時)が刊行した「地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡発掘調査報告書」など眺めてみ

ましたが、

   上記「東京の遺跡調査団の副団長、北原糸子教授は、」とか、

   「遺跡調査団は、この後も、以前の地面を発見している。たとえば、皇居北の丸では、

   地下一二メートルの深さに以前の地面があった。」

   あるいは、

   「その後、このような発掘調査は、再開発地区にも広げられた。紀尾井町、平河町、

   永田町、霞が関、丸の内などでも、ボーリングの作業などに平行して遺跡発掘が行わ

   れている。遺跡調査団は、首相官邸の裏庭でも、念入りな調査を行っている。

と書かれており、「地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡発掘調査報告書」と相当に異なるもののよう

でしたので、きっと違う調査団だと、あるいは、例の如くセンセの歪曲かと思っておりました。

何故ならば、最初の発掘調査は平成元年9月に開始されており、上記十年前と平仄が合わない

こと。

組織を見る限り、北原糸子氏は平成4年度から参与として参加されていること。6年度以降で

副団長となられたやも知れませんが、四谷の発掘時は参与であられたこと。

北の丸、首相官邸裏庭、霞が関、丸の内では「地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡調査会」による

調査は行われていないこと。

これらが符合しなかったからです。




「和泉伯太藩上屋敷跡 地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡発掘調査報告書1 4頁 地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡調査会編 帝都高速度交通営団発行 平成6年)

ところが、今般の文庫版まず36頁

   「四谷の地下に、かつての四谷があった」

    溜池・駒込間の遺跡調査団の副団長、北原糸子氏は、つまり、そう述べているのでは

   なかろうか。

とか、文庫版37頁から38頁で以下のように書き換えられた単行本34頁の

   この遺跡調査団を組織したのは、「地下鉄7号線溜池駒込間遺跡調査会」である。

   平成元年、地下鉄南北線の建設に平行してスタートした。

   地下鉄工事が土の中を掘り進んでいくところで、平行して遺跡の発掘調査を行う。

と言う記述で、やはり「遺跡調査団」は「地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡調査会」の「調査団」

だったかと言うことで、変だなぁが少し判ってきました。

文庫版65頁で以下の様に書き換えられている、単行本56頁の「江戸城内の地層断面想定図

(『新編 千代田区史』より)にかかわる記述

   文庫版65頁

   皇居内の断面図が67頁にある。この図は江戸城跡を横切るラインではなく、それより

  少し北のものと、少し南のものということになる。このデータは遺跡調査団から、直接、

  受け取ってはいるものの、『新編千代田区史』や『発掘が語る千代田の歴史』 でも

  すでに公開されている。

   千鳥ケ淵と半蔵濠に矢印がある。お堀の下に広大な地下空間がある。このような空間が

  内堀をぐるりと囲んでいる。この断面図を掲載することについては、遺跡調査団の方に

  了解をとった。

  安全保障、テロ対策についても、軍事評論家、新聞の編集委員の方などに意見を聞いた。

  もともと、このデータがすでに印刷物として広まっていることもあって、支障はないもの

  という結論に到っている。ここには、このように、四百年の長きにわたって、国民には

  隠されてきた地下網がある。

いつのまにやら、『新編千代田区史』が書き加えられてます。

「このデータは遺跡調査団から、直接、受け取ってはいるものの、」と書かれていますが、

「地下鉄7号線溜池・駒込間遺跡調査会」の「調査団」は江戸城内の発掘調査に直接は携わって

いませんから、「江戸城内の地層断面想定図」を遺跡調査団から受け取ることに何の意味も、

ありませんし、書類の信憑性の憑拠にもなりません。

同様に、何故、「この断面図を掲載することについては、遺跡調査団の方に了解をとった。」

のか意味不明となります。

この断面図の著作権は千代田区に帰属しているはずです。出典が、「新編 千代田区史」

(1998年刊)ですから。



「帝都東京・隠された地下網の秘密[2] 秋庭俊著 新潮社刊 2006年」



まぁ、文庫版の【参考文献一覧】によれば、

   千代田区 『新編 千代田区史』一九八八

とありますから、秋庭先生の手元には、遺跡調査団から託された別の『千代田区史』がある

のかもしれません。

ところで、どっちが本当の千代田区史掲載の「江戸城内の地層断面想定図」なんだろう?


拡大図はこちら↓



「帝都東京・隠された地下網の秘密[2] 秋庭俊著 洋泉社刊 2004年 57頁」




「帝都東京・隠された地下網の秘密[2] 秋庭俊著 新潮社刊 2006年 67頁」
記事メニュー
目安箱バナー