地下妄の手記

日本築城史からの下品な捏造続き

最終更新:

619metro

- view
管理者のみ編集可

下品な捏造 続き

極 めてまっとうな、「近代の沿岸築城と要塞」についての概史たる「日本築城史」を読めば読むほど、秋庭氏の一連の著作に於ける、手前勝手な「死人に口なし」 な、そして、二次資料原典が希少本であったり、出典をぼかすことで、何れも参照が容易でない、読者の検証が近付き難いことを利用して、原典を好き放題改竄 したり、原著者の意図と異なる見解を原著者の意見表象とする、何とも下品で薄汚い、やり口に腹が立ってきます。
まぁ、本サイトはそれを連綿と示し続けざるを得ないサイトですので、以下も続くことになりますか。疲れることですが。

地下網の秘密[2]単行本86頁、文庫版99~100頁、

 

知られざる砲台

洲崎第-砲台の断面図が左にある。これが戦前の砲台のスタンダードなのだという。このようなタイプは「カノン砲塔砲台」と呼ばれ、重さ一トンの弾丸を三〇キロ先まで飛ばすことができる。このような砲台について、以下、浄法寺大佐。

  砲室は地上暴露であるから、これを砲身とともに秘匿するため、付近に倭樹を植え、所々に常緑の植木鉢を配し(洲崎第一砲台その他)、砲塔を松林の緑端に設 けて付近の民家に類似せしめる(城が島砲台その他)など、各砲塔砲台とも、それぞれ工夫を凝らし、航空写真によって不備な部分は補修改善した。

 

 明治後期以降に建設された砲台は、つまり、このような偽装が施されていて、国民にはその存在は隠されていた。しかも、戦後になっても、なぜか、政府はその存在を明らかにしてはいないようだ。

 



「日本築城史」74頁

   砲室は地上暴露であるから,これを砲身とともに秘匿するため,付近に倭樹を植え,
 所々に常緑の植木鉢を配し(洲崎第1砲台その他),砲塔を松林の緑端に設けてその陰
 影下に置き(大房岬砲台その他),砲塔に鉄骨小屋組を固定し,亜鉛板葺屋根を設けて,
 付近の民家に類似せしめる(城が島砲台その他)など,各砲塔砲台とも,それぞれ工
 夫を凝らし,航空写真によって不備な部分は補修改善した。

 


省略により、原文の意味がはっきり損なわれていることがわかると思います。

 

なお、この記述に付随する、洲崎第一砲台の図が、地下網の秘密[2]単行本と文庫版では以下の様に異なっています。

619metro?cmd=upload&act=open&pageid=38&file=%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E7%B6%B2%E3%81%AE%E7%A7%98%E5%AF%86%EF%BC%BB%EF%BC%92%EF%BC%BD%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC+%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.JPG

 

 

何故そうなったのかと言うと、

日本築城史の上記の記述は砲塔砲台の全般的な説明をしている部分なのですが、この記述の直ぐ上に、「45口径30センチカノン砲塔砲台」の図があったから、

単行本で

洲崎第-砲台の断面図が左にある。これが戦前の砲台のスタンダードなのだという。このようなタイプは「カノン砲塔砲台」と呼ばれ、重さ一トンの弾丸を三〇キロ先まで飛ばすことができる。

と最初に書いてしまい、「洲崎第一砲台」が、「戦前の砲台のスタンダード」にしたかったからだと思われます。
後日洲崎第一砲台の図と異なることを何方かに指摘されたのでしょう、文庫版では正当分が無断複写されています。
洲崎第一砲台は、日本築城史144から145頁にあるように、

「本砲台は鎮海湾要塞の張子灯砲台・対馬要塞の豊砲台・壱岐要塞の黒崎砲台とともに,わが国4大砲台の1つで,かつその最初のものである。」
と言うことですので、秋庭氏としては、重さ1トンの巨弾を三十キロ先まで飛ばせる砲台が沢山存在して欲しかったんだと思います。


地下網の秘密[2]単行本79~80頁、文庫版90~91頁、

  『日本築城史』では、しかし、東京に築かれた地下砲台はすべて省略されている。

この後、大佐は『日本防空史』という本もまとめていて、いずれの本も一九七〇年代に書かれているものの、

「本来ならば、防空政策立案者、施策者、指導者、当事者が、それぞれの専門分野を担当して、『日本防空史』を完成すべきものと考えたのであるが、諸種の事情で困難であったので、あえて独自で製作した」

   とも述べている。「あえて独自で製作した」という言葉は、私は、「諸種の事情」というものが政府の圧力だったと述べているのだと思う。それだけに、東京の地下砲台がすべて省略されているのだと思っている。

 

 

 


 



浄法寺氏は別に、上記の様なことは言っていません、「東京の地下砲台」などと言う存在しないものを、どうやって記録すると言うのでしょう、存在しないものは省略のしようもありません。「日本築城史」と秋庭氏の戯言に、どれだけの隔たりがあることか。

それを示すために、以下、「日本築城史」の「序」文と、同史の梗概とも言うべく本文冒頭に記述されている「概説」を挙げておきます。



なお、地下網の秘密[2]文庫版89~91頁、では、

 「・・・、いずれの本も一九七〇年代に書かれているものの、・・・」が

 「・・・、いずれの本も終戦から何十年もたってから書かれているにもかかわらず、・・・」

と書きあらためられていることにも注目されたい。




 古代から近代まで,国土を守るため築城た対する国民の努力が払われ,独

立保全の一環をになった。

 太平洋戦争敗戦によって,明治以来のわが国築城要塞に関する第一級の機

密図書は,軍令によって全部焼却された。各要塞の重要施設は進駐軍によっ

て破壊された。明治以来の沿岸築城と要塞の有様を,何とか残したいと考え

ていたところ,焼却を免がれた。舞鶴,広島,下関,長崎,佐世保,豊予の

六要塞の機密図(竣工図)181葉を入手することができた。今となっては貴

重な資料である。しかし,これではとても不足なので,自ら各要塞の築城の

跡を調査した。また各要塞の築城と備砲に従事した人々に,資料を求め,記

臆を尋ね,各要塞のあった市町村図書館長に資料を求めたが,軍機保護法と

要塞地帯法があったがため,資料は微々たるものしか集らず,各人の記臆,

承によるものがかなりあるが,微力ながら,今のうちに整理,記述しておか

伝なければ,明治,大正,昭和にわたる全国沿岸築城の歴史が失なわれる虞

があるので,あえて執筆したのが本書である。

 砲台の構造および要塞の編成については,文章で意を尽し得ないものが多

いので,努めて図面,写真を多くし,読解を容易にするようにした。

 内容に精粗があるが,資料の関係であり,更に広く資料を求め,今後更に

現地を尋ねて,構築物の現地研究並びに十分な考証と併せて,研究考察を進

め,他日,粗な部分の増補を期している。

 築城には莫大な国費を使ったものであるし,その功罪を記するのも,無意

味ではないと思う。また勝敗は兵の常である。勝者は常に勝者ではなく,敗

者いつも敗者とは限らない。築城要塞に敗戦の要素があれば,これを有りの

ましに観察し,国民の批判を仰ぐのが,真の軍事の在り方と考えた次第であ

る。

 築城に関する設計図書および竣工図書は,一連番号を付されて,陸軍築城

部本部の機密図書室に数千冊保管されていた。各要塞には,その要塞に属す

る術工物の竣工図のみが,術工物の引継と同時に手渡たされた。軍事機密・

軍事極秘の書類ばかりであった。終戦後は要塞地帯法も軍機保護法も消滅

し,自由に旧砲台や観測所電灯所などに出入することができる。兵器は撤去

され,構築物は爆破されたものもあるが,原形を止めているものも多い。し

たがって築城を調査研究される人々に,現物と対照されながら,本書が何等

かの手掛りとなれば幸であり,また旧砲台地は,今多くは観光地となってい

るから,絶佳な風景を眺め,暗い洞窟に入って近代築城を味わわれるのも,

興味あることかも知れない。

 

 


昭和46年11月1日

 

 

                     浄法寺 朝 美

 


原典のままに複写しているので、上記の内以下の二行は誤植もそのままに記述しました。

「承によるものがかなりあるが,微力ながら,今のうちに整理,記述しておか

伝なければ,明治,大正,昭和にわたる全国沿岸築城の歴史が失なわれる虞」

念のため。

 

1概  説

築城とは,ある地域の戦術的価値を高めるために,その土地に適合する軍事施設を造

ることをいい,防御的性格の施設配備を行なうことである。濠を掘り・土塁・石垣を築

き,櫓を建て,あるいは台場や砲台を構築するなど・これみな築城である。近世までの

築城は内を城といい,外を郭という城郭を築く・主として土木工事を指した。

城は天子あるいは国主・大名の居住するところで・城濠・城塁・城櫓・城府を構えた。

城主が入って城と称した。近代の築城は,櫓や天守閣などのない・一般に親しみのない

地下施設が主で,大砲も隠されていた。櫓や天守のような著明なものは-挙に火砲で破

壊されてしまうからである。

 要塞とは,敵軍の侵入を防ぐため・要害の地に築いた砦で・塞と砦を同義とした。近

代の要塞は,軽易な臨時応急的な要塞を除き,保塁・保塁砲台あるいは砲台の相当多数

が,かなり広い要地に集散し,その地域を軍事集団的に強化したものをいうようになっ

た。したがって個々の築城を実施するものと・築城要塞を守備するものとは・その管理

においても,組織においても異なった。近代の築城は工兵の主管となり,築城が完成し

て要塞となれば砲兵の主管となった。野戦築城や永久築城は工兵が構築し(野戦築城は・

構築時期,資材,作業器材の関係で各兵科がこれに当ることも多い)永久要塞の砲台の

操砲,射撃,観測は砲兵が実施するのが通則であった。野戦築城は・野戦築城教範によ

る,強度の劣る軽微なものである。永久築城(要塞)は,その設置の場所によって,国

境築城(要塞),沿岸(海岸)築城,島嶼築城,要地(都市)築城に分けられる。わが国

はソ満国境に,一連のあるいは拠点式築城を実施したが・本書からは除外した。

 またわが国の要地築城は,たとえば京浜地区防空のように・都市防空が重点であって・

別に都市防空として記述する予定なので・本書からは除外した。父島・奄美大島・膨湖

島の築城は,旧海軍の要望による島嶼築城であるが・いずれも島の海岸近くに構築され

沿岸築城に含めて支障がないので,これを一括して記述し,本書の目的とした。古代の

水城,中世の元冠防塁,近世の台場,近代の沿岸築城は・いずれも対外的のものである

が,封建大名の沿岸築城はたまたま大名が領地の沿岸に築城した内国的なもので本書の

目的外であるが,築城の時代的変遷を知る上に重要である。本書は近代の沿岸築城につ

いて記述するが,つなぎとして近世築城の台場を記述することとした。

 なお永久築城は,平時から戦略戦術上の重要地域に,堅固に構築するものをいい,軽

易な野戦築城に対して,区別していうものである。ただ近代の戦例に見るように永久築

城あるいは永久要塞という,永久なるものは,ほとんどない。永久に敗れないもの,永

久に古くならないものはないからである。堅牢無比といわれたマジノ要塞,ジーグフリ

ード要塞,旅順要塞,青島要塞,コレヒドール要塞,シンガポール要塞,ソ満国境要塞,

わが国各地の沿岸要塞など,いずれも永久築城要塞といわれたが,占領あるいは敗戦に

よって破壊されたものも多く,また少数の兵力をもって,要塞に拠り,長期間,侵攻の

大軍を悩まし,大損害を与え,友軍の次期作戦に寄与したものもある。

 築城と勝利の労効相償い,戦勝に導いたものもあるが,これが永久要塞の本質である。

攻者は必要あれば,莫大な犠牲を顧みず,要塞の攻略を企図し,反復戦力を投入するか

ら,結局増援のない孤立無援の要塞は,陥落するに至るのが常であり,沖縄や硫黄島が

その例である。

 わが国沿岸築城の歴史は,古代築前に築いた水城に始まり,鎌倉時代の元冠の防塁は,

今にその跡が残っている。吉野時代の戦乱によって,各地の領主が山城を築き,室町時

代の後期から,群雄割拠時代となって,各地に多くの平山城,平城が築かれた。

 近世の江戸時代となってからも,各地に大名城郭が築かれ,尊王壊夷論の激しい最中

に,外国艦船に対し,江戸湾沿岸台場や,長崎,平戸,函館,宗谷,鹿児島,馬関など

に台場が構築され,外国艦船と戦争を開始したものもあった。明治,大正,昭和にわた

り,富国強兵の国策に則り,沿岸築城も活発となり,枢要な軍港,港湾,海峡に要塞が

建設された。

 日清戦争後は,新領土の台湾,膨湖島に要塞を建設し,日露戦争後は,関東州の旅順,

大連に要塞を建設したし,明治43(1910)年韓国併合後は,朝鮮各地に要塞が建設され

た。大正10(1921)年ワシントン会議の前年には父島,奄美大島要塞の建設に着手した

し,昭和7(1932)年満州国独立後は,ソ満国境に国境要塞の建設を開始した。太平洋

戦争突入直前には,笹幌島,宗谷海峡,中城湾,船浮,狩侯などに臨時要塞を建設した。

太平洋戦争中,サイパン,テニアン,硫黄島,マキン,タラワ,クエゼリン,ペリリュ

ー,アンガウル,沖縄の諸島に,野戦築城あるいは準永久築城を実施し,また本土決戦

のために,わが国沿岸各地に野戦築城または準永久築城施設を実施した。

 築城は,社会的背景,軍事外交的背景,兵器の進歩,戦略戦術の変化,科学技術特に

築城技術の進歩,経済的発展などに則応して変遷した。

 わが国の築城は,都城,府城(築前太宰府前面に築いた水城や大野城)に始まるが,

楼殿その他の建物が木造であったから,兵火によって,その多くは焼失し,城塁のみか

残っている。中世に至っても,地方武士の経済力は低く,自然の地形を利用して,小規

模な築城をした。武器は弓,矢,刀,槍であった。櫓なども千本柱を建て,上部に足場

を作ったもので,城郭建築として見るべきものはなかった。戦国時代に入って,各地の

大名は競って城を築き,数百の城が完成し,築城術は進歩した。鉄砲が伝来したから,

城は大規模となり,組織的に複雑となった。末期には天守閣が出現した。近世となって,

城はますます大規模となり,防御的性格のみでなく,地方の政治,経済,文化の中心と

なり,領内統御の施設となった。城は平山城,平城となり,城郭縄張りの複雑巧緻さは,

世界に類例を見ないものとなった。築城技術の進歩と,封建大名の権力によるものであ

って,大きな石塁を築き,天守閣を建て,己が権力を誇示した。近代となり兵器の進歩

は著しく,砲の威力,航空機の発達(爆撃)艦船の進歩に対応する築城の防御配置およ

び編成,守備作戦の方針および任務,構築の原則および要領に変化を来たした。

 築城材料も土,石材.木材から煉瓦,コンクリート,鉄筋コンクリート,金属材料と

発達し,これら材料を駆使する設計,施工法も進んで,近代築城となった。

 近代築城は主構築物は地下とし,鉄筋コンクリート造である。砲座は,露天のものは,

偽装迷彩し,砲塔砲台は厚い鋼のアーマープレートで覆われ,隠顕砲台といって,平時

は全く穿井に隠れ 射撃時地面上に現われ,射撃が終れば,再び穿井に隠れるというも

のもあった。弾薬庫,観測所,電灯所(探照灯の発電所,掩灯所,照明座などをまとめ

て電灯所という)も,地下鉄筋コンクリート造で,敵眼から発見されないような掩蔽法

が講ぜられ,術工物は極力小型として,分散配置し,砲爆撃による被害の局限を図った。

主要構築物は,砲爆弾の直撃に耐える耐弾構造物である。

 太平洋戦争で戦った沿岸砲台は少ない。一線級砲台は戦わずして,敗戦となり,その

構造強度の価値を判断することはむずかしい。戦った要塞砲台は三線級の劣弱な中城湾

臨時要塞,羅津要塞,高雄要塞ぐらいのもので,その他の沿岸要塞との戦闘を,米軍は

これをさけた。要塞は取り残されたのである。しかしペリリュー島,硫黄島,沖縄本島

のように,野戦築城と坑道洞窟をもって,人的,物的に圧倒的な戦力の米軍に対して,

長期間にわたって持久し,よくその任務を達成したものもある。

 


最後の六行青字部分ですが、秋庭氏は末尾五文字をこう書き換えておられます。

地下網の秘密[2]単行本72~73頁、文庫版82~83頁

太平洋戦争で戦った沿岸砲台は少ない。一線級砲台は戦わずして敗戦となり、その
構造強度の価値を判断することはむずかしい。戦った要塞砲台は三線級の劣弱な中城湾
臨時要塞、羅津要塞、高雄要塞ぐらいなもので、その他の沿岸要塞との戦闘を、米軍は
これをさけた。要塞は取り残されたのである。しかし、ペリリユー島、硫黄島、沖縄本島
のように野戦築城と坑道洞窟をもって、人的、物的に圧倒的な戦力の米軍に対して、
長期間にわたって持久し、よくその任務を達成したのである。

記事メニュー
目安箱バナー