地下妄の手記

後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 肆

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後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 肆



 秋庭さんの虚妄の構成方法の柱は、省略に拠る改竄ですが、同様に歴史的な時間経過に対して最もポピュラーに駆使されるのは、時間軸や発生時期をずらす、あるいは時期の異なるものを同一の時期のように表現する手法です。
 典型例がこのmori-chi さんのブログにありますが、以下の「新宿大ガード」などもその典型ではないでしょうか?

      新宿大ガード

      浅草、新橋、人形町が震災で壊滅し、東京の盛り場は一変した。一九二五 (大正一四)年、新
     しい新宿駅が完成するとともに東口の二幸前(現・アルタ前) に市電の線路が延伸し、青バスの
     ターミナルがつくられ、西武鉄道が開通した。新宿東口に突如として未曾有の雑踏が現出したの
     だという。

       あの明るい白いタイル張りの新宿駅の地下道は、機械文明の明るい氾濫だ。早朝から深夜
      まで間断なしの人間の群、カバンを待ったサラリーマン、お弁当片手に和服、かかとの高い
      靴をはいた女事務員、女車掌、プロ芸術家、イートン・クロップに刈り込んだ前髪が三筋ば
      かり垂れ下がっている洋装のモダンガールが、紅棒でやけにこすりつけた唇をゆがめ、肩で
      風を切って群衆のなかを泳ぐ。

     東京日日新聞の新宿特集である。

     遊郭は三味線のかわりにレコードを回し、ダンスホールではアッパッパーを着た娼妓が相撲取
    りのような腕で酒を注ぎ、カフェーは銀座より俗っぽかったということだが、その間に三越、伊
    勢丹が相次いで進出し、中村屋は喫茶部を設け、材木問屋だった紀伊国屋は書店に転向した。
     「月はデパートの屋根に出る」。新宿はわずか数年の間にまったく新しい盛り場、一大中心地にな
    っていたという。
     一九二四(大正一三)年、小田急、三井、東急の地下鉄認可が没収され、翌年、東京市に四路
    線の認可が与えられた。新宿方面に関しては、束京市は当初、左図の⑤のようなルートの地下鉄
    を申請していた。いま、プリンスホテルが建っている新宿駅の大ガードを起点とし、市街地、防
    衛庁、市谷、三番町、内堀を渡って代官町、皇居・蓮池濠から東京駅へというルートである。当
    時、いまの防衛庁の敷地に陸軍の士官学校があり、参謀本部の防空壕がつくられていたことは周
    知の通りである。
     三番町の宮内庁分室付近には賀陽宮が邸宅を構え、代官町の東京国立近代美術館工芸館には近
    衛第一師団が陣取っていた。この地下鉄が千鳥ヶ淵を渡っているルートには、戦後、首都高が建
    設されている。蓮池濠と東京駅の中間には、当時、枢密院があった。いまでも旧枢密院や皇宮警
    察の本部がある。このようなルートをいったん申請した後、東京市はすぐに変更しているもの
    の、私はこれが「地下鉄新宿線」の本命ではなかったかと思う。

 
秋庭さんの最初の4行を起源別の時期でみると、

    1923(大正12)年 関東大震災

    1925(大正14)年 東口に新しい新宿駅完成

    1925(大正14)年 東口に二幸が存在

    1925(大正14)年 市電新宿追分~新宿駅前延伸

    1925(大正14)年 青バスターミナル(バスストップの事か?)設置

    1925(大正14)年 西武軌道(鉄道)開通?

でも実際は「新宿駅100年のあゆみ」や「新宿区史」等から起すと、

  1919(大正8)年  青バス(東京乗合自動車) 新宿駅前~洲崎 運行開始

  1922(大正11)年 市電新宿追分~新宿駅間延伸(1922/04/10)

    1923(大正12)年 関東大震災         これは一緒

  1925(大正14)年 第3代新宿駅本屋完成  南口から東口に本屋が移動。

  1925(大正14)年 新宿駅東口(現アルタの位置)に「三越分店」(昭和5年現在地に移転)開店

  1926(大正15)年 西武軌道青梅架道橋下~新宿駅間営業開始 (1926/09/15、青梅架道橋ガード下までは1922年開業)

  1930(昭和5)年  二幸が出店(現アルタの位置それまでは追分や中村屋の並びなどにあった昭和2年法人化)

全然違う。
 続いて、

       あの明るい白いタイル張りの新宿駅の地下道は、機械文明の明るい氾濫だ。早朝から深夜
      まで間断なしの人間の群、カバンを待ったサラリーマン、お弁当片手に和服、かかとの高い
      靴をはいた女事務員、女車掌、プロ芸術家、イートン・クロップに刈り込んだ前髪が三筋ば
      かり垂れ下がっている洋装のモダンガールが、紅棒でやけにこすりつけた唇をゆがめ、肩で
      風を切って群衆のなかを泳ぐ。

     東京日日新聞の新宿特集である。

特集かどうか分かりませんが、「新修 新宿区史」(昭和42年刊)には、「淀橋誌考」からの孫引きだがとして、

 昭和五年六月二日、東京日日新聞

 淀橋誌考所収
 あの明るく白いタイル張りの新宿駅の地下道は、機械文明の明るい人間の氾濫だ。早朝から深更まで間断なしの人間の群、カ
バンを持ったサラリーマン・お弁当片手に和服・かかとの高い靴をはいた女事務員・女車掌・プロ芸術家・イイトン・クロップ
に刈り込んで前髪が三筋ばかり垂れ下っている洋服のモダンガールが、紅棒でやけにこすりつけた唇をゆがめ、肩で風を切っ
て、この群衆の中を栗鼠の如く泳ぐ。雑沓をたくみに利用する不良少年、少女のすばしっこい目ざしなど、都会のモダニズムの
尖端が新興郊外生活者の、あわただしい肩摩の中から生れ出るところ。
 四分毎に発着する中央線電車、六分毎の山手線電車、小田原急行電車、それに信州・甲府からの列車で四つのプラットフォー
ムに吐き出される乗客を合わせると、一日平均の乗降客十八万四千七百人、省電を利用して新宿に降りる客の一番多いのは、東
中野二千二百十五人、次は中野千七百九十六人、渋谷千七百八十四人、高田馬場千六百七十三人、高円寺千五百六十人、上野千
二百四十三人、阿佐ヶ谷九百四十六人、あとは大塚・原宿・池袋・荻窪・小田原急行の東北沢などの順で脚・脚、あわただしく
疲れたいろんな脚が、正面・駅南口・小田急の三つの入口から急テンポで、新宿の盛り場に吐き出される。
 赤いネオン・サインの灯がゆれて流れる。円タクの列、電車が五台もならんでいるラッシュアワーの中を縫って、急カーブ切
る乗合自動車の窓から健康な女車掌の手が直角にさしのペられる。優しい声、敏捷な新しい職業婦人の活動によって群衆は運ば
れる。この東京乗合自動車一日の乗降客七千余人、市の乗合自動車六千六百二十人、甲州街道乗合自動車三千五百人平均。
 中野杉並方面に通ずる西武電車(もとの新宿荻窪間都電)の新宿、一日の乗降客は二万九千八百人、代々木八幡へ通ず京王電
車は二万四百五十人、新宿中心に市電の乗降客の動きは大久保線二万千八百八十四人、築地・本所緑町方面六万七千九百七十一
人、省電・小田原急行・西武・京王電車・市電・青バス・円太郎・甲州街道乗合の乗降客の合計三十四万千九百二十五人、附近の淀
橋・大久保・四谷等の人出を併せると四十万人以上というおびただしい大衆が、新興盛り場新宿に毎日呑吐されているわけだ。

 朱書きは秋庭さんの記述と異なるか、秋庭さんが書いていない部分です。昭和5年(1930年)の記事ですよ、秋庭さんが提示してるのは、大正14年から6年後の記事。

      突如として未曾有の雑踏が現出

6年掛の「突如」と言うことですか。

 なお、

      あの明るく白いタイル張りの新宿駅の地下道

は、新宿駅の東西連絡地下道(完成昭和2年4月)の事のようです。そして、この地下道は大ガードとは何の関係もありません。


     遊郭は三味線のかわりにレコードを回し、ダンスホールではアッパッパーを着た娼妓が相撲取
    りのような腕で酒を注ぎ、カフェーは銀座より俗っぽかったということだが、その間に三越、伊
    勢丹が相次いで進出し、中村屋は喫茶部を設け、材木問屋だった紀伊国屋は書店に転向した。
     「月はデパートの屋根に出る」。新宿はわずか数年の間にまったく新しい盛り場、一大中心地にな
    っていたという。

この部分は「東京日日新聞の新宿特集」からの盗用かどうかは不明です。が秋庭さんは今度はそれぞれの起源を暈してますので、以下に時機を勘案しながら、トピック毎に並べて見ました。

遊郭の集約
  大正10年 それまで新宿通り沿いに並んでいた内藤新宿以来の遊女屋を新宿二丁目に集約。
          娼妓(公娼)はダンスホールに出入りできない。

三越の進出
  大正12年 新宿追分に「三越マーケット」
  大正14年 新宿駅東口(現アルタ)に「三越分店」
  昭和5年  現在地に移転「三越新宿支店」

ほてい屋百貨店開店
  大正14年 新宿追分に開店(現伊勢丹本店の位置、ビルの完成した大正15年開店説もあり)

中村屋喫茶部設置
  昭和2年  カリー、ボルシチの提供

紀伊国屋
  昭和2年  田辺茂一薪炭問屋から書店へ業態変更、現在地に開店。「材木問屋」って、それは田辺氏の御祖父さんの代までの商い。

松屋の出店
  昭和4年  新宿京王ビルに開店
  昭和8年頃 撤退

二幸の出店
  昭和5年  新宿駅東口(現アルタ)の「三越分店」後「支店」の跡地に移転開店。

伊勢丹の出店
  昭和8年  ほてい屋の西隣に開店
  昭和10年 ほてい屋吸収合併(11年説もあり)

 
      「月はデパートの屋根に出る」

 何で括弧で括ってあるのだろう?と調べてみました、何と、1929(昭和4年)年の映画「東京行進曲」(菊池寛原作 溝口健二監督 日活)の主題歌(西条八十作詞 中山晋平作曲)4番からのパクリだったんですね。
 正しくは、

  「月もデパートの屋根に出る」

 だから盗用なんです。
 詩文で「てにをは」を変えちゃったら、しかも、該当部分だけ取り出したら、詩文の主題と異なるものになります。


 項題が「新宿大ガード」なのですが、内容のどこに大ガードがあるんでしょう?1925年1月の「大ガード」を起点として洲崎・砂町までと称する、本当に、大ガードを起点としたかどうかすら分からない東京市の地下鉄出願。
 その出願では免許すら下りず、3月に「東京都市計画高速鉄道網」が内務省から告示されたので、それに合わせて、出願路線が変更され、5月に免許取得した、
どこにも詳細な経由地を書いていない、「角筈─東京駅─洲崎─砂町」を、「千代田線建設史」の「図4 東京市出願路線図(1925)」の図だけで勝手に、

市街地、防衛庁、市谷、三番町、内堀を渡って代官町、皇居・蓮池濠から東京駅

などと妄想して、それを確認もせずに書いてるだけで、項題が「新宿大ガード」?何それ?

mori-chi さんの様にちゃんと確認しなくっちゃ。

で、私も調べてみた。
大正14年(1925年)時点では、前に書いたように、新宿じゃないんだよね、大ガードの辺りは。豊多摩郡淀橋町大字角筈。
それでは、青梅街道と院鉄、省線との関係を見てみたい。

 明治41年   青梅街道踏切に木造跨線橋

 明治44年頃  逓信地図に拠れば、新宿通りと青梅街道とが踏切で直結している。現大ガード附近、秋庭さんがプリンスホテル前と言う新宿郵便局と西方寺に挟まれた細い通りが鉄道線を潜っている。

 大正10年   青梅街道大ガード拡張工事完成 青梅街道は、踏切で省線を越えていて、車馬については開かずの踏切と評判が極めて悪かった。
           そこで、踏切より北三十mの所にガードを設けた。「拡張」とあるのは、北三十mと言うのが、西方寺の北側の道路のところらしく、この道は線路を潜っていたらしい。拡張と言うのはその連絡通路を作り直したからだと思われる。

西武軌道の延伸
 大正15年    青梅架道橋下~新宿駅間営業開始(大正11年淀橋~ガード下までは開業済み)

            以上「ステーション新宿」(新宿歴史博物館編平成5年刊)年表より

ところで、「土木建築工事画報」昭和11年10月号にこんな記録が

 「新宿驛構内青梅街道架道橋擴築工事」 (昭和11年1936年夏)
 「16m桁間を32mに拡幅。」

ここに記事があります。

  http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/12_10.html

  つまり、昭和11年までは「新宿大ガード」×0.5 だったんですね。「大ガード」ならぬ「中ガード」?「新宿青梅街道架道橋」は、大ガードなどと言う 意味ありげな記号じゃありません。大ガードや、西武新宿、新宿プリンスホテル附近は、秋庭さん脳内の戦前の地下鉄とやらとは、何の縁も所縁もないもので す。

 ところで、

        私はこれが「地下鉄新宿線」の本命ではなかったかと思う。

 秋庭さんの、「地下鉄新宿線」って「対抗」も「単穴」も「連下」、「穴」も「無印」も、出走馬皆「地下鉄新宿線」、一体何頭いることやら。


平成19年9月2日追記


 上記において

     遊郭は三味線のかわりにレコードを回し、ダンスホールではアッパッパーを着た娼妓が相撲取
    りのような腕で酒を注ぎ、カフェーは銀座より俗っぽかったということだが、その間に三越、伊
    勢丹が相次いで進出し、中村屋は喫茶部を設け、材木問屋だった紀伊国屋は書店に転向した。
     「月はデパートの屋根に出る」。新宿はわずか数年の間にまったく新しい盛り場、一大中心地にな
    っていたという。

 この部分は「東京日日新聞の新宿特集」からの盗用かどうかは不明です。

 と書きましたが、確認したところ、東京日日新聞に、上記に該当する記述はありませんでした。
 東京日日新聞は昭和5年6月1日より17日まで、囲み記事「盛場の縦と横 新宿の巻」を15回に亘り掲載しました。その中の2回目があの6月2日の

 あの明るく白いタイル張りの新宿駅の地下道は、機械文明の明るい人間の氾濫だ。早朝から深更まで間断なしの人間の群、カ
バンを持ったサラリーマン・お弁当片手に和服・かかとの高い靴をはいた女事務員・女車掌・プロ芸術家・イイトン・クロップ
に刈り込んで前髪が三筋ばかり垂れ下っている洋服のモダンガールが、紅棒でやけにこすりつけた唇をゆがめ、肩で風を切っ
て、この群衆の中を栗鼠の如く泳ぐ。雑沓をたくみに利用する不良少年、少女のすばしっこい目ざしなど、都会のモダニズムの
尖端が新興郊外生活者の、あわただしい肩摩の中から生れ出るところ。

 からはじまる記事です。
 で、全15回の記事を確認しましたが、「遊郭は三味線のかわりにレコードを回し」云々などの記述はありませんでした。
「ダンスホールではアッパッパーを着た娼妓が相撲取りのような腕で酒を注ぎ」等と言う、「玉の井」辺りの様な場末な臭いの記事はありませんし、「カフェー は銀座より俗っぽかったということだが」、これには秋庭さん得意の「という」と言う捏造時の「修辞」が付いていますが、そんな記述もありません。
 記事全体に流れる基調は、「都会のモダニズムの尖端が新興郊外生活者の、あわただしい肩摩の中から生れ出るところ。」であり、カフェのおネェさんも、そ こに現れるセルの眼鏡のおニィさんも私鉄沿線の新興郊外生活者だとする記事なので、銀座と新宿のカフェの対比はありませんでした。
 ひょっとすると、この「盛場の縦と横」は「新宿の巻」の後には、「銀座の巻」の連載が始まっていますから、そこで、「新宿のカフェの様な俗っぽさは銀座には微塵もなく」なんて、記述があったのかしら?
老朽化した都立中央図書館のマイクロフィルムリーダーでは長時間の閲覧は苦痛以外のなにものでもなく、私には、そこまで読む気力はありませんでした。

 なお、この、東京日日新聞のマイクロひょっとしたら秋庭さんは見てるのかもしれません。
 と言うのは、この記事を「東京日日新聞の新宿特集である。」と言っているところと、実は、「洋装のモダンガールが、」のところ、「新修 新宿区史」(昭和42年刊)では「洋服のモダンガールが、」となっているのですが、日日新聞の原文は「洋装」になっているところなどで、ひょっとしたらと思うのですね。
 一方で、本当のネタ元は、「新宿駅八十年のあゆみ」(田久篤次著1964刊)かなと思ったりしてます、と言うのは、この冊子の22頁の田辺茂一氏の寄稿に

  ぼくは明治の終わり近く、新宿の終点に数棟の納屋
をもった炭問屋の子倅として生まれ、紀伊国屋書店は、
ぼくが昭和二年の一月に開業したもので父からの家
業ではない。紀伊国屋と言う家号は昔からのもので、
祖父はこの家号で材木問屋をやっていた。紀伊国屋
はぼくで八代になる。

と言う記述があります。世に流布するたいていの紀伊国屋に関する記事は、薪炭商、あるいは炭問屋から書店に転じたとしており、祖父が材木問屋と言うところ まで言及したものを見ないこと、その記事の直後に「昭和五年の新宿駅附近」と言う題で上記東京日日の記事が「淀橋誌考所収」として来ているからです。
 また、「新宿特集」は「東京日日」、「新修 新宿区史」では「深更」となっているところが、「新宿駅八十年のあゆみ」では秋庭さんの記述の通り「深夜」となっていますのでこの頁からの盗み臭いなと思うわけです。

 なお、大ガードですが、「大正10年拡張工事完成」ではなく、「大正10年完成」と見て良いようです。東京と都市計画局の課長が書いて、部長が監修した「新宿・街づくり物語─誕生から新都心まで三〇〇年─」(川村茂著勝田三良監修 鹿島出版会1999年刊)に、

   大正10(1921)年に、靖国通りの新宿大ガードが開通するまでの間は、

 まぁ、靖国通りは大正時代には無い訳ですが、次章にも影響するので書いておきます。間口18mの大ガードは大正10年に出来上がったと言うことです。



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