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『天地始之事』について 『天地始之事』とは長崎県の外海地方に伝わるカクレキリシタンの神話です。その起源はもちろん聖書とカトリックの伝承に由来するものですが、長い潜伏期間の間に伝承されるうちに元々あった民間信仰に基づく独自の世界観を表現するに至り、仏教、神道や民俗信仰などとも概念上の混交も見られます。また外海、五島系統のキリシタンに伝わるバスチャン暦やオラショの神話的起源についても説明しており、ひとつの民族の世界観を体現したものとしての神話の構成要件を満たしているとも言えます。 標題 1 天地始之事 2 マサンの悪の実中天に遣ること 3 天帝人間を助けん為、御身を分けさせ給事 4 羅尊国帝王死去之事 5 朝五ヶ条のオラッショの事 6 ベレンの国ヨロウ鉄国中吟味する事 7 ヨロウ鉄より御身を取に来る事 8 御主カルワ竜ヶ岳に連行奉事 9 盲目金に目のくるる由来の事 10 キリントの事 11 御身後世助初めてなさしめたもふ事 12 役々を極めさせたもう事 13 此世界過乱之事 14 追加 1.天地始之事  聖書の最初の部分に由来することは明白でその内容も聖曹フものと大きな違いはありませんが、詳細な部分では相違があります。 神デウスは世界と人間を7日で作ったというくだりは聖書と共通しており、『天地始之事』の記述ではその創造の描写とともにキリシタンの神デウスの偉大さが強調されています。それはデウスは「弐百相の恩位」、「四十二相の御装」と持つとする仏教風の表現にもみることができます。この数字は つまり仏教の表現を用いながらその上をいくものであるという事を意味したかったものと考えられます。  『天地始之事』においては最初の人間アダン(アダム)とヱワには最初から2人の子供タンホウとチコロウが授けられていました。(小学館『カクレキリシタンの聖画』によればこの2人の名前の由来は日本語の"太郎"、"次郎"を宣教師が聞き違えたものを日本の信者に教えたものだそうです。) またアダンにも仏教風の位階が授けられていました。  かつて最も強大な天使であったのが堕落し、悪魔となったルシファー(『天地始之事』ではジュスフェル)のについてもここでは語られています。しかし『天地始之事』ではジュスフェルは神デウスに反抗したことによって堕落させられたのではありません。ジュスフェルは数万のアンジョ(天使)とアダン、ヱワに対し「此じゅすふぇる、天帝(デウス)同然也。よって、われを拝みめされ」と言い、それに従い一部のアンジョとアダン、ヱワは彼を拝んだということは確かに書かれていますが、このことについてはデウスは何のお咎めもなく済ましています。表面的には仏教徒を装う事を余儀なくされていた潜伏キリシタンにとってこのくだりは大きな精神的支えとなったことでしょう。またその際ヱワ、アダンらがに自らの罪を悟り、後悔の念から唱えた言葉がカクレキリシタンに伝わるオラショの一つ「後悔こんちりさん」の起源であるとされています。このようにオラショやキリシタン固有の行事の起源を神話的出来事に求める記述は他の部分でも登場します。民族や集団固有の風習や儀礼に神話的な裏付けを持たせること、別の言い方をすれば神話に民族の起源と宇宙の歴史を結びつける役割を持たせることは普遍的にみられる現象です。  『天地始之事』においても人間は楽園から追放され、後悔の日々と死の運命を受け入れざるを得なくなったことは記されています。しかしここで人間を楽園から追放される原因となったのは蛇ではなく、先ほどのジュスフェルでありました。ジュスフェルは旧約聖書の蛇のごとくヱワにマサンの実(マサンとはポルトガル語で林檎の意)と呼ばれる果実を勧め、ヱワはアダンにそれを勧めました。それを知ったデウスに人間は許しを請いますが、先程のようにはいかず、マサンの実の効果によって"あだんはっと仰天して、吐きいださんとすれども、のどにかかり、その甲斐なく、あら、悲しや、ゑわもあだんも、たちまちに"と"天の快楽"を失い後悔の日々を送ることとなってしまった様子が緊張感のあるリズムで書かれています。またこのときに唱えたのが「科のオラッショ」の始まりであるとされています。このくだりでは『旧約聖書』で強調された人間が神に背いた罰として地上で有限の生と死を受け入れなければならなくなってしまったことは語られず、神に背いたこと自体に対する深い罪悪感と後悔の気持ちが前面に出されています。"ゑわの子供はこれより、下の下界に住み、畜生を食し、月星を拝み、後悔して、まいるべし"というデウスの発言は江戸時代禁教下のキリシタンの状況を髣髴とさせ、踏絵を強制され表面的ではあるにせよ自らの神への信仰を否定せざるをえなかった潜伏キリシタンの人々の精神を象徴しているようでもあります。  人間にマサンの実を勧めたジュスフェルの方は"鼻ながく、口ひろく、手足は鱗、角をふりたて、すさまじく有様"になりそれでもデウスに許しを請いますが言うまでもなく叶わず、雷の神とされ天と地上の間の中天をさまよう事となります。彼に従ったアンジョも同様に天狗となり中天に下されました。カトリックの神話では悪魔は地下の地獄に落とされたとされておりこの点で異なります。布教時代に宣教師が悪魔diaboを天狗と訳したことから後に日本人信者がそのように解釈したものと考えられます。しかし神と人間との間に邪魔をするものが存在し、人間が直接神と交流することができないという思想はグノーシス主義やカタリ派等の二元論的な色合いの濃い宗派と共通するものがあります。
**『天地始之事』について 『天地始之事』とは長崎県の外海地方に伝わるカクレキリシタンの神話です。その起源はもちろん聖書とカトリックの伝承に由来するものですが、長い潜伏期間の間に伝承されるうちに元々あった民間信仰に基づく独自の世界観を表現するに至り、仏教、神道や民俗信仰などとも概念上の混交も見られます。また外海、五島系統のキリシタンに伝わるバスチャン暦やオラショの神話的起源についても説明しており、ひとつの民族の世界観を体現したものとしての神話の構成要件を満たしているとも言えます。 ---- 標題 1 天地始之事 2 マサンの悪の実中天に遣ること 3 天帝人間を助けん為、御身を分けさせ給事 4 羅尊国帝王死去之事 5 朝五ヶ条のオラッショの事 6 ベレンの国ヨロウ鉄国中吟味する事 7 ヨロウ鉄より御身を取に来る事 8 御主カルワ竜ヶ岳に連行奉事 9 盲目金に目のくるる由来の事 10 キリントの事 11 御身後世助初めてなさしめたもふ事 12 役々を極めさせたもう事 13 此世界過乱之事 14 追加 ---- 1.天地始之事  聖書の最初の部分に由来することは明白でその内容も聖曹フものと大きな違いはありませんが、詳細な部分では相違があります。 神デウスは世界と人間を7日で作ったというくだりは聖書と共通しており、『天地始之事』の記述ではその創造の描写とともにキリシタンの神デウスの偉大さが強調されています。それはデウスは「弐百相の恩位」、「四十二相の御装」と持つとする仏教風の表現にもみることができます。この数字は つまり仏教の表現を用いながらその上をいくものであるという事を意味したかったものと考えられます。  『天地始之事』においては最初の人間アダン(アダム)とヱワには最初から2人の子供タンホウとチコロウが授けられていました。(小学館『カクレキリシタンの聖画』によればこの2人の名前の由来は日本語の"太郎"、"次郎"を宣教師が聞き違えたものを日本の信者に教えたものだそうです。) またアダンにも仏教風の位階が授けられていました。  かつて最も強大な天使であったのが堕落し、悪魔となったルシファー(『天地始之事』ではジュスフェル)のについてもここでは語られています。しかし『天地始之事』ではジュスフェルは神デウスに反抗したことによって堕落させられたのではありません。ジュスフェルは数万のアンジョ(天使)とアダン、ヱワに対し「此じゅすふぇる、天帝(デウス)同然也。よって、われを拝みめされ」と言い、それに従い一部のアンジョとアダン、ヱワは彼を拝んだということは確かに書かれていますが、このことについてはデウスは何のお咎めもなく済ましています。表面的には仏教徒を装う事を余儀なくされていた潜伏キリシタンにとってこのくだりは大きな精神的支えとなったことでしょう。またその際ヱワ、アダンらがに自らの罪を悟り、後悔の念から唱えた言葉がカクレキリシタンに伝わるオラショの一つ「後悔こんちりさん」の起源であるとされています。このようにオラショやキリシタン固有の行事の起源を神話的出来事に求める記述は他の部分でも登場します。民族や集団固有の風習や儀礼に神話的な裏付けを持たせること、別の言い方をすれば神話に民族の起源と宇宙の歴史を結びつける役割を持たせることは普遍的にみられる現象です。  『天地始之事』においても人間は楽園から追放され、後悔の日々と死の運命を受け入れざるを得なくなったことは記されています。しかしここで人間を楽園から追放される原因となったのは蛇ではなく、先ほどのジュスフェルでありました。ジュスフェルは旧約聖書の蛇のごとくヱワにマサンの実(マサンとはポルトガル語で林檎の意)と呼ばれる果実を勧め、ヱワはアダンにそれを勧めました。それを知ったデウスに人間は許しを請いますが、先程のようにはいかず、マサンの実の効果によって"あだんはっと仰天して、吐きいださんとすれども、のどにかかり、その甲斐なく、あら、悲しや、ゑわもあだんも、たちまちに"と"天の快楽"を失い後悔の日々を送ることとなってしまった様子が緊張感のあるリズムで書かれています。またこのときに唱えたのが「科のオラッショ」の始まりであるとされています。このくだりでは『旧約聖書』で強調された人間が神に背いた罰として地上で有限の生と死を受け入れなければならなくなってしまったことは語られず、神に背いたこと自体に対する深い罪悪感と後悔の気持ちが前面に出されています。"ゑわの子供はこれより、下の下界に住み、畜生を食し、月星を拝み、後悔して、まいるべし"というデウスの発言は江戸時代禁教下のキリシタンの状況を髣髴とさせ、踏絵を強制され表面的ではあるにせよ自らの神への信仰を否定せざるをえなかった潜伏キリシタンの人々の精神を象徴しているようでもあります。  人間にマサンの実を勧めたジュスフェルの方は"鼻ながく、口ひろく、手足は鱗、角をふりたて、すさまじく有様"になりそれでもデウスに許しを請いますが言うまでもなく叶わず、雷の神とされ天と地上の間の中天をさまよう事となります。彼に従ったアンジョも同様に天狗となり中天に下されました。カトリックの神話では悪魔は地下の地獄に落とされたとされておりこの点で異なります。布教時代に宣教師が悪魔diaboを天狗と訳したことから後に日本人信者がそのように解釈したものと考えられます。しかし神と人間との間に邪魔をするものが存在し、人間が直接神と交流することができないという思想はグノーシス主義やカタリ派等の二元論的な色合いの濃い宗派と共通するものがあります。

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