日々是栄和

麻雀 Column - 3 - 麻雀における作為

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Column - 3 -

 

麻雀には3つの側面があると思う。
 
 1. 効率化を極める道筋
 
 2. 連綿と続くツキとの闘い
 
 3. 打ち手同士の作為のぶつかり合い
 
 麻雀は数理のゲームである。その側面は否めない。
 数多く打てば、自ずと効率の良し悪しが成績に反映される。
 その効率化の極め方が、長い目で見た『 強い 』『 弱い 』を隔てる一指標になることは間違いない。
 
 また、ごく短いスパンで観察すると、麻雀とは運のゲームである。
 効率化が100%でない以上、バイアスを掴むことができるかどうかが麻雀の機微であると思う。
 ツイてるときは和了れるし、ツイてないときは何をしても上手くいかない。
 麻雀とは、この『 ツキ 』を巡って争うゲームであるとも言える。
 
 そしてごくごく瞬間的なパースペクティヴにおいて、麻雀とは打ち手同士の作為のぶつかり合いである。
 セオリーを踏襲するか否か。枚数が少ない和了牌を相手より先に掴めるかどうか。
 そこには数多くの心理的要素が錯綜し、騙し騙され、一つの局面に一喜一憂する。
 良いぶつかり合いをした試合は、やはり心地良い後味が残る。
 
 こういった側面は、各々デジタルだオカルトだと論争されているが、結局のところそれは、見るべき
 タイムスパンが違うに過ぎない。
 デジタル派は一局の局面に固執しないが、オカルト派は勝ち負けへの分岐点のようなものにこだわる。
 また、人間が打つ以上、心理的要素が皆無ということにはならない。
 
 大事なことは『 作為 』であって、日々のフォームを形成するのも、一発逆転に向けて手作りする
 のも、今までとは違うことをしてみようというこの『 作為 』である。
 この試行錯誤を繰り返し、自分独自のものへと消化する仕組みが『 強くなる 』過程である。
 
 そうして日々打ち方を研究するわけであるが、あとから自分の打ち筋を見直して『 ??? 』と
 思うときがある。
 しかも、そういう時は一発逆転ができていたりもするわけだ。
 
 そのときの狙いが今となってはわからないものも多く、牌効率や自分のフォームに鑑みても何故そう打った
 のか説明できないものがある。
 
 一つ実戦例を。
 
 南4局 南家 23,200点持ちの2位 トップは北家の38,800点 その差 15,600点
 競技ルールである。
 
 この半荘はトップ目の北家が2/3の和了を取るほどツキまくっていた。
 残りの三家は1~2度和了するものの、ツモられたり放銃したりでマイナス目。
 何とか振り込まないよう努力していた僕が2着目だが、その点差はハネ満ツモでも追いつかず、
 倍満を和了するしかない。
 
 そんな状況で下記の配牌。
 
 ドラ 
 
 
 
 ドラドラでペンチャン持ちとはいえイーシャンテン。良い配牌であると言える。
 しかしこれは競技ルールなので、イッパツもウラドラもなく、リーチしても高目マンガンしかない。
 配牌からの最速の聴牌は
 
      待ち
 
 まーこういう形であろう。
 よしんばピンフとイーペーコを狙って、
 
 
 
 でも高目ツモってハネ満。
 さてどうしたものか。良い配牌なのでチャンスをものにしたい。
 
 とりあえず手なりで進める。4巡目でペンチャンを落とし以下の形で聴牌。
 
 
 
 ペンチャンを落としたがほぼ当初の予定通りの聴牌。
 あとから見たときは『 もうここでリーチでいいでしょ 』なんて思っていたのだがこのときはさにあらず。
 
   ツモ 
 
 ここで  を切っている。タンヤオを狙っていったのかもしれないが不明。
 しかも次巡、
 
   ツモ 
 
 で  切り。はてさて。
 もうこうなると普段の僕の打ち筋ではなくなる。以下は、
 
   ツモ    切り
   ツモ    切り
 
 と手をダブつかせ始める。おそらく四暗刻を狙ったのだと思う。
 しかし次巡、対面から出た2枚目の  をポン。
 
     切り
 
 四暗刻狙いが崩れて致し方なくポン。
 しかし次々巡、
 
    ツモ    切り
 
 待望のドラをツモって聴牌。
 
  
 
 次巡  をツモり加カン、リンシャンはならなかったがその次巡、  をツモって和了。
 トイトイ、サンアンコウ、タンヤオ、ドラ3で倍満であった。
 
 あとから見返してみて『 なんだかなー 』と思う手牌進行である。
 だがこのときは何らかのインスピレーションが働き、和了をもぎ取ったと言える。
 しかし、こんな和了が狙って毎回できるわけもなく、ごくごく短いタイムスパンの『 作為 』の例である。
 
 この雑考では理論的な組み立てがどうのこうのいっているが、僕は打ち手としてのインスピレーションを
 重要視している。
 ある選択肢において、AかBかを選択するのはただの『 勘 』だが、そのどちらでもない選択肢を
 模索するのはこの『 インスピレーション 』ではないかと思う。
 
 どんな理論も、その発展の過程において人間のインスピレーションに頼ってきた。
 『 1%の発想と99%の汗 』とはその通りで、発想がなければいくら汗をかいてもダメなのであるし、
 着想を得ただけで努力しなければものにならない。
 
 麻雀における『 作為 』とは、それほどに重要であるとふと思う。

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