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♪ 重ね重ね 盗用は続くよどこまでもぉ - (2007/01/16 (火) 16:11:26) のソース

<h3>♪ 重ね重ね 盗用は続くよどこまでもぉ</h3>
<br>
ついに、「対向式」ならぬ、「対抗式」なる術語まで新造される事となりました。<br>

「立杭」(文藝別冊総特集押井守2004年6月参照)以来、秋庭氏には「亢」は禁忌かも。<br>

<br>
┌ ─ ──────  「大東京の地下99の謎」   159~161頁  ────── ─ ┐<br>

<h4>
69」プラットホームの「島式」と「対抗式」を比べると?</h4>
 現在、東京の地下鉄の駅は、「島式」と呼ばれる形式のものが多い。「島式」とは、ふた<br>

つの線路にはさまれるような形でホームが設置されている形式の駅で、上下線のどちらを<br>

利用する乗客も同じホームに立って電車を待つことになる。<br>

 これに対し、ふたつの線路を中央に並べ、その両側に別々のホームが設置された形を<br>

「対抗式」(または相対式)と呼ぶ。島式と対抗式のどちらがよいのかということは、一概<br>

にはいえない。いまでこそ、島式が主流だが、地下鉄草創期の頃はすべての駅が対抗式だ<br>

った。<br>
 対抗式にすれば、改札口などをホームといっしょにすることができ、地下トンネルの断<br>

面を単純化できる。<br>
 また、島式ホームの場合、ふたつの線路のあいだを割るようにしてホームがつくられる<br>

ため、ホームの両端でレールをカーブさせなければならないが、対抗式ではそうした細工<br>

はいらない。ただし、対抗式ホームの場合、ふたつに分かれているホームの連絡方法を考<br>

えなければならない。深い位置に連絡路を設けるか、ふたつのホームから改札口に向かう<br>

までのルートがどこかで合流するようなしくみが必要だ。<br>

 また、対抗式では2面のホームを設けるため、1面分で住む(原文の侭)島式よりも、広い<br>

地下スペースを確保しなければならない。そのほか、駅員をはじめ、改札や通路に続く階段<br>

やエスカレーター、照明等の設備、空調設備なども、すべて2面分揃えなければならず、コスト<br>

がかかるのである。島式なら、すべてを上下線で共有できるため、コストダウンが図れる<br>

という利点がある。省スペース型で、コストのかからないことが、島式ホームが地下鉄駅<br>

で圧倒的に支持されている理由だ。<br>
しかし、島式にも短所がある。上下線が同時に到着したときなど、狭いホーム上に乗客<br>

があふれ、階段やエスカレーターも混雑しやすくなる。乗降客の多い駅に島式は不向きだ。<br>

丸ノ内線の霞ヶ関駅もかつては島式ホームだったが、乗降客が増加したため、島式ホー<br>

ムをB線専用とし、隣にA線用の片側だけの対抗式ホームを設置することになったといわ<br>

れている。<br>
<br>
┌ ─ ──────  「大東京の地下99の謎」   206~208頁  ────── ─ ┐<br>

<h4>88」ホームを新設した銀座線「日本橋駅」の謎</h4>
 渋谷と浅草を結ぶ東京メトロの銀座線は、1927(昭和2)年に浅草~上野間で営業<br>

が開始され、その後徐々に延伸されてできた路線だ。その銀座線の日本橋駅に、謎めいた<br>

場所がある。<br>
 先述したように、駅のホームの形式には 「島式」と「対抗式」があり、島式はホーム1<br>

面で2線の構造、対抗式はホーム2面で2線が一般的だ。<br>
 ところが、日本橋駅には、渋谷方面行きが対抗式ホームで浅草方面行きは島式ホームの<br>

「片側利用」となっているのだ。<br>
 本来、1932(昭和7)年の開業当時から島式ホームの1面2線だったが、その後、<br>

利用客の増加にともないホームが狭くなり、渋谷方面行き用として新しく対抗式ホームが<br>

増設されたのである。<br>
 ほかにも、こうした例は東京の地下鉄でふたつの駅がある。有楽町線の霞ヶ関駅とやは<br>

り銀座線の新橋駅だ。<br>
 既存の地下鉄駅にホームを新設するということは、駅全体の強度などきわめてむずかし<br>

い問題が多く、慎重を要する工事が必要である。<br>
 ただ、このふたつの駅については、ある共通点がある。それは、それぞれの駅に戦前か<br>

ら地下空間があったということだ。霞ヶ関駅には日本海軍の地下防空壕があり、新橋駅に<br>

は東京高速鉄道がつくった新橋駅(現在は見られない)の空間があった。こうした空間が<br>

あれば、ホームの新設や増設が可能だろう。<br>
 それでは、日本橋駅の場合はどうだろう。<br>
 やはり、ここにも何らかの地下空間があったのではないだろうか。ホームに立って見ると、<br>

既存の島式ホームは古くからの駅らしく、乗降の邪魔になるほど太い円柱が林立している。<br>

また、増設されたホームも、まったく同じような構造になっていて、まるで昔からあったような<br>

つくりになっている。<br>
 もしそうならば、新ホームの壁の向こうに何かがあるのだろうか……。<br>

└ ─ ───  「大東京の地下99の謎」  159~161頁 206~208頁  ─── ─ ┘<br>

<br>
<br>
┏ ━ ━ ━ ━ ━ 「東京の地下鉄がわかる事典」 220~221頁 ━ ━ ━ ━ ━ ┓<br>

<h4>乗降ホームを増設した駅</h4>
<h4>
 ▼従来の島式ホームを活かして変則の相対式に変身</h4>
●<b>島式ホームと相対式ホーム</b><br>
 複線で走る鉄道の駅は、大別すると島式ホームの駅と相対式ホームの駅がある。島式とは、<br>

反対方向へ向かう列車が同じホームに発着するタイプで、相対式では別々のホームで乗り降り<br>

する。個別の事情もあって一概にはいえないが、古い駅ほど相対式である場合が多く、新しい<br>

地下鉄はほとんどが島式である。<br>
 建設時には将来の需要を見越して、あらかじめ準備しておくことが望ましい。地下の構造物で<br>

ある以上、あとから広げる工事はかなりの困難を伴うからである。そのため、ホーム長は将来<br>

予定されている最大編成両数に合わせて建設されることが多い。現行でいえば、南北線、三田<br>

線は現在6両編成で運転されているが、8両まで対応可能なホーム長を有している。もちろん、<br>

当面の建設費を抑えるためには、余力のある工事にも限界がある。さらには、想像以上に乗降<br>

客が増え、それまでのホーム幅ではラッシュ時の溢れる乗客をさばききれなくなった駅も多い。<br>

手狭になったホームを拡幅したい場合、相対式のホームならば、外側に掘り広げる方法が考え<br>

られる。地下の構造物である以上、実際の工事はいうほど簡単ではないが、方法としては十分<br>

考えられるもので、現にいくつもの駅で実施されている。<br>

●<b>専用のホームを新設</b><br>
 これに対し、線路に挟まれた島式ホームでは、単純にホームを広げることができない。トンネ<br>

ル内に島式ホームの新駅を開設した銀座線溜池山王駅のような超大規模の改良工事は別格<br>

にしても、何らかの対策を施す必要が生じていた。<br>
 そこで、他線への乗り換えで乗降客の多い銀座線の日本橋駅、新橋駅、丸ノ内線の霞ヶ関<br>

駅では、従来の島式ホームをA・B線どちらか一方の専用ホームとし、その反対側に新しいホ<br>

ームを新設するという改良工事が行なわれた。<br>
 1973(昭和48)年11月には丸ノ内線霞ヶ関駅に池袋方面行き専用ホームを新設し、従来のホ<br>

ームを新宿方面行きが単独で使うようになった。<br>
 次いで、1980(昭和55)年4月には銀座線新橋駅に浅草行きホームを、1984(昭和59)年4月に<br>

は日本橋駅に渋谷行きホームを新設、従来ホームとの分離を実現している。<br>

 これらの駅では、線路と線路に挟まれたホームの片側に、転落防止のための柵を取り付けて<br>

ある。かつてはそこで乗降が行なわれていた名残である。<br>

<br>
┗ ━ ━ ━ ━ ━ 「東京の地下鉄がわかる事典」 220~221頁 ━ ━ ━ ━ ━ ┛<br>

<br>
「東京の地下鉄がわかる事典」で、2ページだった記事が、妄想によって量以外でも脹らんだ<br>

と言う事のようですね。<br>
なにしろ、ホームの増設対応、銀座線の日本橋駅の他に銀座線新橋駅と<br>

&gt;有楽町線の霞ヶ関駅<br>
ですって?丸ノ内線と仰るはずが何故に「有楽町線」?新たな秘密の展開かしら?<br>

あのぅ、モシモシィ?霞が関駅の海軍防空壕って、「千代田線」の工事で取り壊されたんで、<br>

丸ノ内線とは無関係。ましてや有楽町線とは縁も所縁も。<br>

(以上5行部分H19.1.16変更一部追記)<br>
先生自身がお書きになっているんじゃなかったかな?東京高速の「新橋駅」と銀座線<br>

現「新橋駅」との間は、<br>
<br>
&gt;しかたなく、東京高速鉄道は、自前の「新橋駅」を東京地下鉄道の新橋駅より少し手前に<br>

&gt;建設する。<br>
&gt;両駅は壁で隔たれていたため、乗客は乗り換えの際、一度地上に出て、向こう側にある<br>

&gt;もうひとつの「新橋駅」まで、50メートルほど歩かされたという。<br>

(大東京の地下99の謎128頁)、<br>
<br>
とホームの新設や増設の役には立たないであろう状況だということを。<br>

<br>
──────  2007年1月12日・14日追加分  ───────<br>

両方の文章を見てて、何か変だなぁ、と思っていたのだけれど、<br>

<br>
「秋庭盗用分」<br>
&gt;丸ノ内線の霞ヶ関駅もかつては島式ホームだったが、乗降客が増加したため、島式ホー<br>

&gt;ムをB線専用とし、隣にA線用の片側だけの対抗式ホームを設置することになったといわ<br>

&gt;れている。<br>
<br>
つまり秋庭氏の説明は<br>
B線(荻窪・新宿→池袋)既存島式ホーム<br>
A線(池袋→新宿・荻窪)新設相対式ホーム片面<br>
になるが、<br>
<br>
「わかる事典」<br>
&gt; 1973(昭和48)年11月には丸ノ内線霞ヶ関駅に池袋方面行き専用ホームを新設し、従来のホ<br>

&gt;ームを新宿方面行きが単独で使うようになった。<br>
<br>
青木栄一氏と日本実業出版社の説明は<br>
荻窪・新宿→池袋(B線)新設片面(相対式)ホーム<br>
池袋→新宿・荻窪(A線)従来の(島式)ホーム<br>
なのだ。<br>
では、どちらが正しいのか?<br>
<img src=
"http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=66&amp;file=%E9%9C%9E%E3%83%B6%E9%96%A2%E6%94%B9%E8%A3%85%E5%BE%8C%E7%B8%AE%E5%B0%8F%E7%89%88.jpg">
<br>
        営団地下鉄五十年史(帝都高速度交通営団 平成3年7月発行331頁)<br>

<br>
青木栄一氏と日本実業出版社の勝ち~ぃ!<br>
秋庭センセ、そのまま丸写しだとバレると思ったんでしょうか(どう細工しようとアカンものはアカンのだが)。<br>

前項(本当にたったの2ページ前なんだよ) <a href=
"http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/55.html">68」地下鉄にも「上り線」と「下り線」がある?</a> で早速覚えた<br>

A線B線を使ってみたんでしょうね。<br>
でも、理解が、<br>
<b>A線</b>(起点から終点)=<b>上り線</b>(終点から起点)<br>

<b>B線</b>(終点から起点)=<b>下り線</b>(起点から終点)<br>

と言う生兵法で、盗んだ図表もちゃんと読まずに、頁稼ぎ、正月の餅代稼ぎとしか思ってなかった挙句。<br>

「池袋方面行き専用ホームを新設し、従来のホームを新宿方面行きが」でA線・B線取り違えちゃったのね。<br>

<br>
いやぁーっ、本当に嘘と盗みの「集大成」だわ、この本は。<br>

───1月14日追記<br>
<br>
&gt;いまでこそ、島式が主流だが、地下鉄草創期の頃はすべての駅が対抗式だ<br>

った。<br>
<br>
とお書きの「地下鉄草創期の頃」(よく読むと変な日本語だな)って、いつ頃を指すんでしょうか?<br>

「浅草・上野間」の時点ですか?だって、上で、日本橋駅についてご自身で仰っているじゃありませんか。<br>

<br>
&gt; 本来、1932(昭和7)年の開業当時から島式ホームの1面2線だったが、<br>

<br>
東京地下鉄道で言うならば、相対式は浅草から末広町まで6駅。<br>

神田以降新橋まで6駅は全部島式ですよ。<br>
新橋以東、幻の新橋駅を含め渋谷まで東京高速は全部相対式。<br>

日本で二番目に開業の「大阪市営地下鉄 梅田・なんば間」島式なんですが。<br>

だから、「わかる事典」では<br>
<br>
&gt;個別の事情もあって一概にはいえないが、古い駅ほど相対式である場合が多く、<br>

<br>
とこれは、東京の状況、古い駅って言うのは「丸ノ内線」や「日比谷線」、「東西線」をも踏まえて言っているんです。<br>

そのことを確認もせず、読みこなせずに、上記を盗用したからこそ<br>

<br>
&gt;島式と対抗式のどちらがよいのかということは、一概にはいえない。<br>

<br>
と、構築数の比較を、ホームの形式の良否の比較に読み違えたか、意図して書き換えたか。<br>

<br>
&gt;島式ホームが地下鉄駅で圧倒的に支持されている理由だ。<br>

<br>
あのね、「島式ホーム」ナショナル・ブランドの小物じゃないんですけれど。<br>

盗んだものの収束点で、「古い駅」が「草創期の頃」になっちゃうんでしょう?<br>

「期の頃」っていつ頃なんですか?<br>
<br>
──────  2007年1月12日・14日追加分 終わり  ───────<br>

<br>
次はもっとも判り易い盗用の一例です。<br>
<br>
┌ ─ ──────  「大東京の地下99の謎」   201~203頁  ────── ─ ┐<br>

<h4>
86」いまも残る閉鎖された地下鉄「萬世橋駅」の謎</h4>
地下鉄の路線網が東京の地下に張りめぐらされるなかで、その名が消えてしまった駅が<br>

いくつかある。たとえば、フランク永井の歌にもなった「西銀座駅」は現在の丸ノ内線銀<br>

座駅のことで、1957(昭和32)年の開業時は「西銀座駅」と呼ばれ、銀座線の「銀座<br>

駅」とはまったく別の駅だった。<br>
しかし、1964(昭和39)年に日比谷線が開業するとき、「西銀座駅」と「銀座駅」は<br>

日比谷線の「銀座駅」と合わせてひとつの「銀座駅」となり、「西銀座駅」はなくなった。<br>

 銀座線には開業時、「青山六丁目駅」 「青山四丁目駅」「青山一丁目駅」があったが、駅<br>

名が似ていて間違える人が多かったことから、渋谷駅~浅草駅間の直通運転が始まった頃<br>

に、青山六丁目駅は「神宮前駅」に、青山四丁目駅は「外苑前駅」と改められた。さらに<br>

神宮前駅は、千代田線開業時に「表参道駅」と再び駅名を変えている。<br>

 その他、都営三田線の「志村駅」が1968(昭和43)年に「高島平駅」になり、都営<br>

浅草線の「江戸橋駅」が89年に「日本橋駅」に駅名を変えている。<br>

 名前だけでなく駅そのものを使用しなくなった駅が、ひとつだけある。それが銀座線に<br>

あった「萬世橋駅」だ。<br>
 現在の銀座線末広町駅と神田駅の中間、神田川にかかる万世橋の近く、千代田区万世橋<br>

出張所があるあたりにあった。この駅は、銀座線の浅草駅から延びてきた路線を神田川の<br>

下をくぐって神田、銀座方面に進める計画だったが、神田川の下に路線を通す工事がむず<br>

かしいことから神田川の手前に仮駅としてつくられたもの。<br>

 1930(昭和5)年1月1日、銀座線は浅草駅~萬世橋駅間に単線で開業したが、こ<br>

の場所は神田川の下に線路を通すための勾配区間の途中にあることから、正式な駅になる<br>

ことなく翌年11月21日、神田まで路線が延伸したときに廃止された。ただ、当時の万世橋<br>

は都電が何系統も走っている交通の要衝で利用客は多かったといわれている。<br>

 萬世橋駅は廃止されたが、線路もホームもそのまま残された。電車さえ動かせば銀座線<br>

に利用客を運ぶことができる状態だった、という。それから75年も経ったが、萬世橋駅は<br>

壊されることなく現在も存在する。浅草駅から銀座線の先頭車に乗って前方を見ていると<br>

神田駅の手前で線路がふたつに分かれるのを見ることができる。<br>

 金属不足から都電のレールも剥がされた戦時中にも、ここのレールは手をつけられなか<br>

ったそうだが、この貴重な歴史的遺産が戦後一度も公開されたことがないのは、地下鉄の<br>

歴史をひもとく意味でも残念なことである。<br>
└ ─ ──────  「大東京の地下99の謎」   201~203頁  ────── ─ ┘<br>

<br>
<br>
┏ ━ ━ ━ ━ ━ 「東京の地下鉄がわかる事典」 212~214頁 ━ ━ ━ ━ ━ ┓<br>

<h4> 消えた駅、消えた駅名</h4>
<h4>  ▼駅名改称にはよほどの理由が必要!?</h4>
増えた駅がある一方で、かつては存在していたものの、いまはなくなってしまった駅もある。<br>

●<b>萬世橋駅</b><br>
銀座線の末広町~神田間には以前、「萬世橋」という名前の駅があった。これは浅草方面から<br>

伸びてきた路線が南下するためには神田川をくぐらなければならず、その工事が難航すると<br>

予想されたため、1930(昭和5)年1月1日、その手前に仮駅をつくって、単線で暫定的に開業<br>

したものである。<br>
 当時の萬世橋は都電が何系統も乗り入れる交通の要所であり、旅客需要も多かったが、<br>

勾配区間の途中にあたるので正式な駅にするわけにいかず、もともと一時的な設置として無理<br>

やりつくられていた。そのため、神田まで延伸した1931(昭和6)年11月21日に廃止されている。<br>

      * * *<br>
 また、駅自体はいまも使われているものの、名称が変更になって消えてしまった駅名もある。<b><br>

●青山六丁目駅、青山四丁目駅、神宮前駅</b><br>
 いまの銀座線渋谷~新橋間の前身である東京高速鉄道が開業したとき、渋谷を出た電車は<br>

「青山六丁目」駅、「青山四丁目」駅、「青山一丁目」駅の順で停車していたため、下車駅を間違<br>

える人も多かった。そのため、浅草~渋谷間が直通運転を始めた頃、青山六丁目駅は「神宮<br>

前」駅に、青山四丁目駅が「外苑前」駅に改称されている。<br>

 さらに神宮前駅は、その名の由来である明治神宮により近い場所に千代田線の駅ができる<br>

ことになったため、1972(昭和47)年10月20日、その名を新設駅(明治神宮前駅)に譲り、「表参<br>

道」駅と再度改称された。<br>
 ちなみに、半蔵門線ができる前の銀座線表参道駅は、現在より渋谷寄りにあった。表参道駅<br>

のBl~B3出口がやたらと離れたところにあるのは、その名残である。かつては、ここも改札外<br>

連絡駅 (→226ページ参照) のひとつだった。半蔵門線新設にあたって、1976(昭和51)年12<br>

月1日にホーム位置を変更し、現在のような乗り換えに便利な構造に生まれ変わっている。<br>

●<b>西銀座駅</b><br>
 銀座駅を使ったことのある人ならわかると思うが、銀座線と丸ノ内線の銀座駅は、日比谷線を<br>

挟んだ両側に位置している。つまり、日比谷線ができる前はまったく離れた存在であった。<br>

 丸ノ内線の銀座駅は1957(昭和32)年12月15日の開業当初、「西銀座」駅と呼ばれており、まっ<br>

たく別の、独立した駅として扱われていた。それが、両駅のあいだをつなぐような位置に1964<br>

(昭和39)年8月29日、日比谷線の銀座駅ができた。これにより、銀座駅と西銀座駅は晴れて<br>

ひとつの駅として機能することになり、西銀座駅は銀座駅に改称された。別々の駅が一諸になっ<br>

たことによる混乱を防ぐため、「銀座総合駅」という呼び方をするときもあった。<br>

●<b>志村駅</b><br>
 都営にも名称変更された駅が2駅存在する。そのひとつは三田線にある。<br>

 当時の北の終点であった「志村」駅は、大規模団地開発に併せて住居表示が変更になったた<br>

め、1969(昭和44)年8月1日に「高島平」駅と改称している。<br>

●<b>江戸橋駅</b><br>
 浅草線の人形町~宝町間にある駅は、1963(昭和38)年の開業以来、「江戸橋」駅と呼ばれて<br>

いた。<br>
 1977(昭和42)年に東西線日本橋駅が開業し、東西線および日比谷線日本橋駅との乗り換え<br>

駅になったが、名称が似て非なるものだけにわかりにくく、まぎらわしかった。地理的には江戸<br>

橋に近いので正しいのだが、より乗り換え駅であることを明確にするため、浅草線の江戸橋駅を<br>

1989(平成元)年3月19日に「日本橋」駅へと改称している。<br>

┗ ━ ━ ━ ━ ━ 「東京の地下鉄がわかる事典」 212~214頁 ━ ━ ━ ━ ━ ┛<br>

<br>
なお、「萬世橋仮駅」の構築と撤去については、「東京地下鉄道史」に正確な記述があり、その<br>

一部が、「鉄道ピクトリアル№489 1987年臨時増刊<特集&gt;帝都高速度交通営団」にも転載<br>

されています。それを読めば、<br>
<br>
&gt; 萬世橋駅は廃止されたが、線路もホームもそのまま残された。電車さえ動かせば銀座線<br>

&gt;に利用客を運ぶことができる状態だった、という。それから75年も経ったが、萬世橋駅は<br>

&gt;壊されることなく現在も存在する。浅草駅から銀座線の先頭車に乗って前方を見ていると<br>

&gt;神田駅の手前で線路がふたつに分かれるのを見ることができる。<br>

<br>
等と言うことは金輪際有り得ないことが判るはずですが。マイル法とかの秋庭系度量衡の件で<br>

「東京地下鉄道史」精読されたんじゃなかったのかしら。まぁ、「東京地下鉄道史」の著者を乾<br>

坤二と書いちゃう人ですから。<br>
しかし、まるまる盗んでも、自分の都合の悪いところだけは牽強付会した上に、<br>

<br>
&gt;金属不足から都電のレールも剥がされた戦時中にも、ここのレールは手をつけられなかったそうだが、<br>

<br>
しらーっと、嘘まで書いちゃうんですから。ホント雲国際人は一味も二味もちがいますねぇ。<br>
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