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大東京の地下400年 九層倍の嘘 和蘭編」(2008/11/16 (日) 11:58:16) の最新版変更点

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<p align="left"><font size="4">大東京の地下400年 九層倍の嘘 和蘭編</font></p> <p align="left"><font color="#0000FF"> <strong> 9」家康は何故、江戸に幕府を開いたのだろうか?</strong></font></p> <p align="left">  答えは、そこに何もなかったから、</p> <p align="left"><font color="#0000FF">  もし、家康が居城を大阪や駿府に選んでいれば、すでにある城や城下町を取り壊さなければ<br /> 「大砲による攻撃に耐えられる城づくり」はできなかった。しかし、当時の江戸は一面に原生林と湿原が広がっていて、城づくりを妨げるものは何もなかった。</font></p> <p align="left">  でもって、</p> <p align="left"><font color="#0000FF">オランダの築城術を知った瞬間から、家康には江戸以外の選択肢はなかったはずだ。</font></p> <p align="left">  ってのが、秋庭式江戸開闢説</p> <p align="left">   家康が、秀吉に関東に封じられた時ってのが、1590年その時から関ヶ原の1600年まで、いやさ、征夷大将軍宣旨の1603年の13年間、江戸は仮住まいで、その上で、和蘭の築城術とやらを見たら良い卦だったって事でしょうかね?と言うか250万石経営の中心地一体どこにあったんでしょうか?<br />   10年間、当時の江戸は一面に原生林と湿原が広がっていて、何も無かったところに雌伏して10年家康よく関ヶ原が戦えましたね。<br />   秋庭さん、一度信長の野望ってゲームやってみた方が良いよ。</p> <p align="left"><br /><font color="#0000FF"><strong>  10」江戸城はオランダの「築城術」に学んでつくられた?</strong></font></p> <p align="left">  おうおう、描き方変えちゃって(笑</p> <p align="left">  地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 54頁15行目~55頁6行目で</p> <p align="left"><font color="#FF6600">    十五世紀の後半になると、大砲は持ち運びが可能となった。フランスのシャルル八世は、この<br />    新しい武器を携え、次から次へと城を落としていった。正面に高い塔がそびえ、左右に大きく広が<br />    っている城は、かっこうの標的でしかなくなっている。石で築かれた城壁も、鉄の柵も、鉄の扉も、<br />    大砲の前にはなす術がなかった。城は二時間で跡形もなくなり、あたりは火の海と化していた。</font></p> <p align="left">  こんなこと書いてるから、<br />   「当時の大砲、榴弾、破裂弾じゃないから燃えないよって」つもりで<a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/54.html">ここ</a>に、こう書いたらこれだ。</p> <p align="left"> <font color="#0000FF"> (前略)正面に高い塔がそびえ左右に大きく城壁が広がっている城は格好の標的となり、<br />       石の城壁も鉄の扉も柵も大砲で吹っ飛び、2時間で城は崩壊した。</font> <br />                                              99の謎34頁</p> <p align="left">  それといっしょに、</p> <p align="left"><font color="#0000FF">  16世紀前半、フランスとスペインが衝突した時、フランスが56門、スペインが30門、併せて86門の大砲による連続砲撃が2時間も続いたと伝えられている。こうして、大砲の攻撃に耐えられる城をつくることが築城の最大の課題となった。</font></p> <p align="left">  てぇ与太話は、この合戦は野戦だから城は関係ないよって教えてあげたのに、理解が足らんのか?</p> <p align="left">  ところでアンタ、時間単位は「2時間」、多角形は「五角形」、距離は「ヤード法」しか知らんの?</p> <p align="left">  これは新ネタなのかな?</p> <p align="left"><font color="#0000FF">    この課題に挑戦したのが、イタリアのレオナルド・ダ・ピンチだ。1505年に円形の<br />     宮殿が、1517年には正五角形の宮殿「ファルネーゼ宮殿」が建てられている。いずれ<br />     も設計者不明だが、ダ・ピンチの築城理論に基づいて設計されたはずだ。<br /></font> <br />   ファルネーゼ宮殿って、ビッラ・ファルネーゼの方なのかな?ローマ市内のプラツッオ・ファルネーゼは1517年だけど、カプラローラの五角形のビッラ・ファルネーゼはジャコモ・バロッツイ・ダ・ビニョーラ(Jacomo Barozzi da Vignola)の設計で、1559年から1570年じゃなかったっけ?しかも、城郭だけど、ビッラの建物自体が五角形なんじゃなかった?窓とか剥き出しだよ築城理論を装飾的に使ったのかな?ダ・ビンチ後50年もたってからさ。<br /><br /><br />  ───── <font color="#FF0000">平成20年11月14日追記</font> ─────</p> <p align="left">  ここんところを別なとこで書いてたかとは思うけれど、きちんとフォローしていなかったので、追記しときます。</p> <p align="left"><font color="#000080"> 一方、ヨーロッパ最強のフランスが落とすことができなかったルクセンブルグでは川<br />  と湖に囲まれた城がつくられていた。対岸から大砲を撃っても弾丸が届かない。城への道<br />  に兵を向けると、道の両側が切り立っていて、上から攻撃されると逃げようがなかった。<br />  オランダでは、フランスの攻撃に備えて、イタリア式の五角形の城と水に囲まれたルクセ<br />  ンプルグの城の長所をひとつにしたような城が建ちはじめ、1527年にはオランダ式築<br />  城術の指南書というべき書物が出版される。</font></p> <p align="left">   15~16世紀において、ルクセンブルグという国は存在したのでしょうか?オランダという国は存在したのでしょうか?フランスは、元ブルゴーニュー公国領、当時スペイン領のルクセンブルグなる地域をどうやって攻撃できたんでしょうか?また、これらスペイン植民地ネーデルラント17州のうち北方低地へフランスが攻撃を仕掛けたと言う事実、と言うかフランスの攻撃に備える理由はどの辺にあったんでしょうか?スペイン領ネーデルラントの方がつまりスペインの方が脅威だったと思うんですがね。<br />   だから、</p> <p align="left"><font color="#000080">  オランダでは、フランスの攻撃に備えて、イタリア式の五角形の城と水に囲まれたルクセ<br />  ンプルグの城の長所をひとつにしたような城が建ちはじめ、</font></p> <p align="left">   なんてことはありませんでした、稜堡式要塞と都市が一体となっていたものはオランダに限らず、フランスやスペインなども含めたヨーロッパ各地に構築されましたが、別に、「イタリア式の五角形」に限りませんでしたし、「水に囲まれ」ているのは、別に「ルクセンプルグの城」にインスパイヤーされたわけでもありませんでした。秋庭さんの好きな「ナールデン」は6角形の12稜堡の街でしたね。</p> <p align="left"><font color="#000080">  1527年にはオランダ式築城術の指南書というべき書物が出版される。</font></p> <p align="left">   アルブレヒト・デューラーがハンガリー・ボヘミアのフェルディナンド王に献呈した「都市と城郭と広場の防備についての教訓」、一般には、デューラーの「築城論」と言うもののことでしょうか?<br />   1527年の築城論って、他に無いようなんですけど。これのどこが「オランダ式築城術」の指南書なんでしょうか?デューラーは元々はハンガリーの人で、ニュールンベルグで仕事を為し、亡くなった。いわゆる「ドイツ中世の秋」最大の芸術家の一人ではありますな。1520~21年には確かにネーデルランドを旅されていますが、ぜんぜん築城とは関係ない話ですし、デューラーの「築城論」はローマ仕込、しかも出来ますものは方形、もしくは円形の城塞都市なんですが。</p> <p align="left"> ───── <font color="#FF0000">平成20年11月14日追記</font> ───── ENDE<br /><br /><br /><font color="#0000FF">  リーフデ号が寄港したインドネシアのバタビア</font></p> <p align="left">   って、当時インドネシアって言ったんですか?バタビアは、現ジャカルタのオランダ植民地(東インド会社支配時代含む)当時の名称で、リーフデ号寄港時には、バタビアと言っていなかったと思うんだが。しかも、五角形の城とやら、GoA王国当時のベンテン・ウジュン・パンダンのことを言っているのなら、あれは四角形じゃなかったか知らん。</p> <p align="left">  相変わらず書き換え凄いね。</p> <p align="left"><font color="#0000FF"><strong>  11」「城を囲む水」と「地下空間」こそオランダ式築城術</strong></font></p> <p align="left"><font color="#0000FF"> オランダの「水の下に眠る城」ナールデンは、広大な運河のなかにある。16世紀に城が<br /> 建設された当時の大砲では、運河があるため砲弾は城に届かなかった。大砲から城を守る<br />  のは石の城壁でもなく金属の砲弾でもなく、水だったのだ。</font></p> <p align="left">  まぁ、ここは後から突っ込むとして、次のとこからがスゴイよ(笑</p> <p align="left"><font color="#0000FF"> 城を取り囲む水には、もうひとつ大きな役割があった。砲撃のたびに火薬が爆発するの<br /> で砲床や砲身はすぐに熱くなる。砲室の温度が上がりすぎると大砲の性能に悪い影響を与<br /> えるので水で冷やさなければならなかった。大砲の内部を洗浄するときにも、砲撃を受け<br /> て城内に火が出たときにも水が要る。武器弾薬を保管しておく場所にも水が使われた。<br /></font>      400年99の謎 35~36頁</p> <p align="left"><br /><font color="#FF6600"> オランダの築城理論「広大な水の下の城」には、もう一つ、大きな長所があった。<br />   実は、大砲というものは大量の水を必要とした。<br />  砲台では、砲撃のたびに火薬弾薬が爆発している。砲床や砲身などはすぐに高温になる。<br />  砲室の温度が上がりすぎると、各種の機器が正しく作動しなくなる。このような事態を避ける<br />  には、大量の冷却水が必要だった。<br />  また、爆発を繰り返しているところでは洗浄という作業も欠かせなかった。一定時間以上、<br />  砲撃を続けるためには、当時は、洗浄できるかどうかが決め手とされていた。<br />  さらには、敵の砲撃を受けたとき、</font><font color="#FF6600">その消火にあたるのも水だった。砲撃の応酬になったとき<br />  は、武器弾薬を保管しておく場所にも水が利用された。砲台にとっては、水は何よりも貴重な<br />  軍事資源だったのだという。<br /></font>      地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊)</p> <p align="left"><br />   <a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/70.html">ここ</a>で全否定されたもんだから、微妙に修正して切り抜けようと以下も合せてあの手この手と、ようやりまんなぁ。<br />   <a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/70.html">あそこ</a>で書かなかったけど、湿けった火薬ほど性質の悪いものは無いから、火薬庫には水は近付けないもんなんだよ。</p> <p align="left"><font color="#0000FF"> ナールデンは「水が城を囲み、水が市街地を囲む」典型的なオランダ式都市要塞だが、<br /> 砲台が分散しているため、どこか一方から多数の大砲で集中砲火を浴びせられると太刀打<br /> ちできない。<br />  そこで、兵力を増員したり、大砲を移動したりして集めるために、人と大砲を自由に動<br /> かせる地下道網が最初からつくられていて、城の中心には広大な地下空間が広がっている。</font></p> <p align="left">冒頭の、「<font color="#0000FF">運河があるため砲弾は城に届かなかった。</font>」ってのは何なのかね?届かない砲弾の集中砲火って?太刀打ちする必要ないじゃん。</p> <p align="left"><font color="#0000FF">今でも公共施設の多くが地下にあるが、当時の城の中枢機能も地下にあった。そこから市<br /> 街地に地下道が縦横に走っていたという。大砲の性能が上がって砲弾が届くようになって<br /> も、いざとなれば運河の下の地下道を利用して安全に城から脱出することもできた。<br /></font>      400年99の謎 36頁</p> <p align="left">地下網の秘密[2」では、</p> <p align="left"><font color="#FF6600">ナールデンという城郭都市は、十七世紀にこのような形に建設された。わが国では江戸時代<br /> の初期にあたっている。このオランダの都市は当時の状態をよく保存していて、いまでも、<br /> 都市の中心には大きな地下空間が広がっている。公共施設の多くが地下にあり、市内には<br /> 地下道が縦横に走っている。城郭都市ナールデンはヨーロッパで初めて、地下に「城」が建設<br /> された都市になるのだという。</font></p> <p align="left">  微妙に微妙に辻褄合せに掛かっているように見えるんだがなぁ。全然功を奏していないけど。</p> <p align="left"><br /><font color="#0000FF"> 地下鉄南北線の遺跡調査では、江戸城内濠の半蔵濠と千鳥ケ淵の地下に空間のあること<br /> を断面図で明らかにしている。江戸城にも地下空間があったはずだ。<br />  赤坂見附近くの弁慶濠と市ヶ谷-飯田橋間の外濠の地下には現在、地下鉄の車両基地が<br /> ある。この2つの地下空間は、オランダ式築城術で江戸城が建てられたときに、外濠建設<br /> と同時につくられたものと考えている。<br /></font>      400年99の謎 36頁</p> <p align="left">  繰り返しになるけど、<br />   この遺跡調査団は、「<font color="#FF0000">地下鉄7号線溜池駒込間遺跡調査会</font>」ですから、地下鉄7号線すなわち南北線の経路、それも駅部分などの開削工区を調査したわけです。<br />   江戸城内濠の半蔵濠と千鳥ケ淵ってどこの南北線の沿線?</p> <p align="left">  この項って言うか、何か訳の判らん多稜郭話は、全部、地下網の秘密[2]からの駄ビングなんで、大体<a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/70.html">ここ</a>を見てもらったら、酷っでぇい嘘だってのが解ると思います。<br />   次も新ネタの(コミック版でやっているけど)、酷っでぇい嘘!しかも二項続けての。</p> <p align="left"><font color="#0000FF"><strong>12」発見!ドイツにも江戸にそっくりの城塞都市があった!</strong></font></p> <p align="left"><font color="#0000FF">ドイツのノルトライン・ウェストファ-レン州といっても、どこかわかる人は少ないだ<br /> ろう。最新の統計で人口が100万人を超えたドイツ第4の都市ケルン、デュッセルドル<br /> フ、ドルトムントなど大都市が集中する、ル-ル工業地帯を抱える州だ。<br /> その州都デュッセルドルフから北東へ120キロ、ドルトムントから北へ60キロほど行<br /> ったところに、ミュンスターランドと呼ばれる農業地帯がある。その中心ミュンスターか<br /> ら半径40~70キロには、畑と牧草地と林がほどよく配置されている。<br />  このミュンスターランドで「真珠のごとき光を放っている」とされているのが「水城」<br /> だ。ここを訪れる観光客の多くが、ミュンスターの市街地だけでなく、周囲の村や町に点<br /> 在する掘割で囲まれた古城を見て回る。<br />  ここは今も昔も平野で、城を築く山がない。17世紀の初め、ミュンスターの人々が二重<br /> 三重の堀をつくり、南を流れるライン川の支流から水を引いて城塞を築いたのだ。その後、<br /> 手を加えられたものも含め多くの城が今も残っている。<br />  このミュンスターの城を描いた当時の銅版画が残っている。周囲を堀で囲まれたなかに<br /> 五角形(少し形を崩して北西方向に傾いているが)の城下町があり、その中心に城がある。砲<br /> 台らしきものが外に突き出ている。<br />  これを見たとき私は、「江戸に似ている」と、直感的に思った。今の東京の地図から江<br /> 戸の面影を見ることはできないが、森鴎外が1909(明治42年につくった「東京方眼図」<br /> で見ると、江戸とミュンスターが実に似ている。<br />  江戸初期に掘削された神田川から外濠そして汐留川が、ミュンスターの城を囲む掘割と<br /> 同じように江戸城を取り囲んでいる。その内側には、崩れてはいるが五角形のエリアがあ<br /> り、中心にある江戸城の周囲には内濠が掘られている。</font></p> <p align="left"> これも再々言うけど、「筆力が無いんだから、ちゃんと絵図を出さなきゃ、読者に言わんとすることが伝わんないでしょうが。」でも要らん書き込みと、一部を隠すなんて、改竄しちゃ駄目だよ。<br />   そら、[実録コミック 東京地下(迷宮)の謎」18頁で秋庭さんがどっかの築城術か何かの本から、無断複写してきたミュンスターの図から無断複写したもんだけど、ミュンスターと東京の牽強付会図ね。出典元、タイトルだけじゃ駄目なんだよ。<br /> Festungsbau-Kunstund-Technik、<br /> 綴り間違えてる?<br /> Festungsbau - Kunst und Technik じゃないの?</p> <p align="left"><img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=125&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E5%8D%B0%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC.jpg" /> </p> <p align="left">で、五角形って言ってるけど、五角形か六角形か、もっと多角なのか定かで無いんだよね、ミュンスター</p> <p align="left"> <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=125&amp;file=%EF%BC%91%EF%BC%96%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC.jpg" /></p> <p align="left"><br /> 「千年王国の惨劇 ミュンスター再洗礼派王国目撃録」(平凡社2002年刊)附図より</p> <p align="left">   で、この「千年王国の惨劇 ミュンスター再洗礼派王国目撃録」ってのが何かって言うと、次の嘘ッコの事が書かれている本です。</p> <p align="left"><font color="#0000FF"><strong>13」ヨーロッパで戦争から人々を救ったオランダ式築城術</strong></font></p> <p align="left"><font color="#0000FF"> 日本では戦国時代といわれ、諸国の武将が天下統一を目指して戦っていたころ、ヨーロ<br /> ッパではローマ教皇を支持するカトリック勢力とローマ教皇の支配に反発するプロテスタ<br /> ント勢力が各地でぶつかり、凄惨な戦争が起きていた。<br />  家康が天下を統一して幕府の支配が確立したころ(1618年)にドイツでは「三十年戦<br /> 争」が起きている。プロテスタント勢力の反乱をきっかけに勃発した宗教戦争から対立す<br /> る民族による戦争になり、やがてハプスプルグ家とヨーロッパ諸国を巻きこんだ国家間の<br /> 覇権争いに発展した戦争だ。<br />  この戦争のなかで権力に振り回され国土を荒らされたのが、ミュンスターのようなドイ<br /> ツの小国、都市国家であった。ミュンスターの城ができあがったのは1630~1640<br /> 年ごろと思われる。ここにいたのは宗教改革を目指す勢力でも過激な再洗礼派だった。<br />  彼らは神聖ローマ帝国からの独立を目指して当初はプロテスタント勢力と手を結んでい<br /> たが、やがて意見の対立からプロテスタント勢力からはじき出され、仕方なくプロテスタ<br /> ントでありながらカトリック勢力と手を結ぶ。<br />  非常に危うい位置にあったミュンスターの再洗礼派は、周りの勢力から自らを守るため<br /> には強固な城塞をつくる必要に迫られたのだ。結局、独立はかなわなかったが、最新の築<br /> 城術で建てられた城は、そこに暮らす人々を守った。<br />  宗教改革といえば、カトリック勢力は、戦国時代のころからアジアに多くの宣教師を送<br /> りこんでいる。日本にもやってきて諸大名に西洋文化を伝えるとともに、その力を借りて<br /> 布教活動を行なったことはよく知られている。<br />  リーフデ号が日本に漂着したとき、オランダの商船ということで、ウイリアム・アダム<br /> スとヤン・ヨーステンの処刑を求めたのはカトリックの宣教師たちだった。しかし、家康<br /> は彼らの要求を無視して2人を重用し、宗教戦争を起こさせなかった。</font></p> <p align="left">  ミュンスターで、再洗礼派が跋扈したのは、1534年から1535年の1年半ほどの間でした。<br />   結局彼等は、ミュンスターの堅固な城壁に守られることなく、ミュンスター司教とその援軍によってなぶり殺しにされます。<br />   まぁ、中で、フリュクチュドールもかくやってぇか、連合赤軍の最後もかくやって言うか、な悲惨な粛清ゴッコもやってましたんで。異端な上に、神の軍隊(傭兵ですけどね)に嬲り殺されちゃうんですから、天国にも行けず、全然救われないんですけど。再洗礼派。</p> <p align="left">   で、三十年戦争ってのは、その時から70年ほどたって起こった戦争でしょ、ミュンスター講和って、再洗礼派が嬲り殺しになってから、都合100年後なんです。</p> <p align="left">   ミュンスターの中心には、城はなかったし、この城郭都市の大きさが秋庭さんの五角形より大分に小さかったと言うことを次の図でご確認ください。</p> <p align="left"> <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=125&amp;file=%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E8%A9%B3%E7%B4%B0.jpg" /></p> <p align="left"> 「千年王国の惨劇 ミュンスター再洗礼派王国目撃録」(マイスター・ハインリヒ・グレシュベック著 C.A.コルネリウス編 倉塚平訳 平凡社2002年刊)巻末附図</p> <p align="left"> </p>
<p align="left"><font size="4">大東京の地下400年 九層倍の嘘 和蘭編</font></p> <p align="left"><font color="#0000FF"> <strong> 9」家康は何故、江戸に幕府を開いたのだろうか?</strong></font></p> <p align="left">  答えは、そこに何もなかったから、</p> <p align="left"><font color="#0000FF">  もし、家康が居城を大阪や駿府に選んでいれば、すでにある城や城下町を取り壊さなければ<br /> 「大砲による攻撃に耐えられる城づくり」はできなかった。しかし、当時の江戸は一面に原生林と湿原が広がっていて、城づくりを妨げるものは何もなかった。</font></p> <p align="left">  でもって、</p> <p align="left"><font color="#0000FF">オランダの築城術を知った瞬間から、家康には江戸以外の選択肢はなかったはずだ。</font></p> <p align="left">  ってのが、秋庭式江戸開闢説</p> <p align="left">   家康が、秀吉に関東に封じられた時ってのが、1590年その時から関ヶ原の1600年まで、いやさ、征夷大将軍宣旨の1603年の13年間、江戸は仮住まいで、その上で、和蘭の築城術とやらを見たら良い卦だったって事でしょうかね?と言うか250万石経営の中心地一体どこにあったんでしょうか?<br />   10年間、当時の江戸は一面に原生林と湿原が広がっていて、何も無かったところに雌伏して10年家康よく関ヶ原が戦えましたね。<br />   秋庭さん、一度信長の野望ってゲームやってみた方が良いよ。</p> <p align="left"><br /><font color="#0000FF"><strong>  10」江戸城はオランダの「築城術」に学んでつくられた?</strong></font></p> <p align="left">  おうおう、描き方変えちゃって(笑</p> <p align="left">  地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 54頁15行目~55頁6行目で</p> <p align="left"><font color="#FF6600">    十五世紀の後半になると、大砲は持ち運びが可能となった。フランスのシャルル八世は、この<br />    新しい武器を携え、次から次へと城を落としていった。正面に高い塔がそびえ、左右に大きく広が<br />    っている城は、かっこうの標的でしかなくなっている。石で築かれた城壁も、鉄の柵も、鉄の扉も、<br />    大砲の前にはなす術がなかった。城は二時間で跡形もなくなり、あたりは火の海と化していた。</font></p> <p align="left">  こんなこと書いてるから、<br />   「当時の大砲、榴弾、破裂弾じゃないから燃えないよって」つもりで<a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/54.html">ここ</a>に、こう書いたらこれだ。</p> <p align="left"> <font color="#0000FF"> (前略)正面に高い塔がそびえ左右に大きく城壁が広がっている城は格好の標的となり、<br />       石の城壁も鉄の扉も柵も大砲で吹っ飛び、2時間で城は崩壊した。</font> <br />                                              99の謎34頁</p> <p align="left">  それといっしょに、</p> <p align="left"><font color="#0000FF">  16世紀前半、フランスとスペインが衝突した時、フランスが56門、スペインが30門、併せて86門の大砲による連続砲撃が2時間も続いたと伝えられている。こうして、大砲の攻撃に耐えられる城をつくることが築城の最大の課題となった。</font></p> <p align="left">  てぇ与太話は、この合戦は野戦だから城は関係ないよって教えてあげたのに、理解が足らんのか?</p> <p align="left">  ところでアンタ、時間単位は「2時間」、多角形は「五角形」、距離は「ヤード法」しか知らんの?</p> <p align="left">  これは新ネタなのかな?</p> <p align="left"><font color="#0000FF">    この課題に挑戦したのが、イタリアのレオナルド・ダ・ビンチだ。1505年に円形の<br />     宮殿が、1517年には正五角形の宮殿「ファルネーゼ宮殿」が建てられている。いずれ<br />     も設計者不明だが、ダ・ビンチの築城理論に基づいて設計されたはずだ。<br /></font> <br />   ファルネーゼ宮殿って、ビッラ・ファルネーゼの方なのかな?ローマ市内のプラツッオ・ファルネーゼは1517年だけど、カプラローラの五角形のビッラ・ファルネーゼはジャコモ・バロッツイ・ダ・ビニョーラ(Jacomo Barozzi da Vignola)の設計で、1559年から1570年じゃなかったっけ?しかも、城郭だけど、ビッラの建物自体が五角形なんじゃなかった?窓とか剥き出しだよ築城理論を装飾的に使ったのかな?ダ・ビンチ後50年もたってからさ。<br /><br /><br />  ───── <font color="#FF0000">平成20年11月14日追記</font> ─────</p> <p align="left">  ここんところを別なとこで書いてたかとは思うけれど、きちんとフォローしていなかったので、追記しときます。</p> <p align="left"><font color="#000080"> 一方、ヨーロッパ最強のフランスが落とすことができなかったルクセンブルグでは川<br />  と湖に囲まれた城がつくられていた。対岸から大砲を撃っても弾丸が届かない。城への道<br />  に兵を向けると、道の両側が切り立っていて、上から攻撃されると逃げようがなかった。<br />  オランダでは、フランスの攻撃に備えて、イタリア式の五角形の城と水に囲まれたルクセ<br />  ンプルグの城の長所をひとつにしたような城が建ちはじめ、1527年にはオランダ式築<br />  城術の指南書というべき書物が出版される。</font></p> <p align="left">   15~16世紀において、ルクセンブルグという国は存在したのでしょうか?オランダという国は存在したのでしょうか?フランスは、元ブルゴーニュー公国領、当時スペイン領のルクセンブルグなる地域をどうやって攻撃できたんでしょうか?また、これらスペイン植民地ネーデルラント17州のうち北方低地へフランスが攻撃を仕掛けたと言う事実、と言うかフランスの攻撃に備える理由はどの辺にあったんでしょうか?スペイン領ネーデルラントの方がつまりスペインの方が脅威だったと思うんですがね。<br />   だから、</p> <p align="left"><font color="#000080">  オランダでは、フランスの攻撃に備えて、イタリア式の五角形の城と水に囲まれたルクセ<br />  ンプルグの城の長所をひとつにしたような城が建ちはじめ、</font></p> <p align="left">   なんてことはありませんでした、稜堡式要塞と都市が一体となっていたものはオランダに限らず、フランスやスペインなども含めたヨーロッパ各地に構築されましたが、別に、「イタリア式の五角形」に限りませんでしたし、「水に囲まれ」ているのは、別に「ルクセンプルグの城」にインスパイヤーされたわけでもありませんでした。秋庭さんの好きな「ナールデン」は6角形の12稜堡の街でしたね。</p> <p align="left"><font color="#000080">  1527年にはオランダ式築城術の指南書というべき書物が出版される。</font></p> <p align="left">   アルブレヒト・デューラーがハンガリー・ボヘミアのフェルディナンド王に献呈した「都市と城郭と広場の防備についての教訓」、一般には、デューラーの「築城論」と言うもののことでしょうか?<br />   1527年の築城論って、他に無いようなんですけど。これのどこが「オランダ式築城術」の指南書なんでしょうか?デューラーは元々はハンガリーの人で、ニュールンベルグで仕事を為し、亡くなった。いわゆる「ドイツ中世の秋」最大の芸術家の一人ではありますな。1520~21年には確かにネーデルランドを旅されていますが、ぜんぜん築城とは関係ない話ですし、デューラーの「築城論」はローマ仕込、しかも出来ますものは方形、もしくは円形の城塞都市なんですが。</p> <p align="left"> ───── <font color="#FF0000">平成20年11月14日追記</font> ───── ENDE<br /><br /><br /><font color="#0000FF">  リーフデ号が寄港したインドネシアのバタビア</font></p> <p align="left">   って、当時インドネシアって言ったんですか?バタビアは、現ジャカルタのオランダ植民地(東インド会社支配時代含む)当時の名称で、リーフデ号寄港時には、バタビアと言っていなかったと思うんだが。しかも、五角形の城とやら、GoA王国当時のベンテン・ウジュン・パンダンのことを言っているのなら、あれは四角形じゃなかったか知らん。</p> <p align="left">  相変わらず書き換え凄いね。</p> <p align="left"><font color="#0000FF"><strong>  11」「城を囲む水」と「地下空間」こそオランダ式築城術</strong></font></p> <p align="left"><font color="#0000FF"> オランダの「水の下に眠る城」ナールデンは、広大な運河のなかにある。16世紀に城が<br /> 建設された当時の大砲では、運河があるため砲弾は城に届かなかった。大砲から城を守る<br />  のは石の城壁でもなく金属の砲弾でもなく、水だったのだ。</font></p> <p align="left">  まぁ、ここは後から突っ込むとして、次のとこからがスゴイよ(笑</p> <p align="left"><font color="#0000FF"> 城を取り囲む水には、もうひとつ大きな役割があった。砲撃のたびに火薬が爆発するの<br /> で砲床や砲身はすぐに熱くなる。砲室の温度が上がりすぎると大砲の性能に悪い影響を与<br /> えるので水で冷やさなければならなかった。大砲の内部を洗浄するときにも、砲撃を受け<br /> て城内に火が出たときにも水が要る。武器弾薬を保管しておく場所にも水が使われた。<br /></font>      400年99の謎 35~36頁</p> <p align="left"><br /><font color="#FF6600"> オランダの築城理論「広大な水の下の城」には、もう一つ、大きな長所があった。<br />   実は、大砲というものは大量の水を必要とした。<br />  砲台では、砲撃のたびに火薬弾薬が爆発している。砲床や砲身などはすぐに高温になる。<br />  砲室の温度が上がりすぎると、各種の機器が正しく作動しなくなる。このような事態を避ける<br />  には、大量の冷却水が必要だった。<br />  また、爆発を繰り返しているところでは洗浄という作業も欠かせなかった。一定時間以上、<br />  砲撃を続けるためには、当時は、洗浄できるかどうかが決め手とされていた。<br />  さらには、敵の砲撃を受けたとき、</font><font color="#FF6600">その消火にあたるのも水だった。砲撃の応酬になったとき<br />  は、武器弾薬を保管しておく場所にも水が利用された。砲台にとっては、水は何よりも貴重な<br />  軍事資源だったのだという。<br /></font>      地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊)</p> <p align="left"><br />   <a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/70.html">ここ</a>で全否定されたもんだから、微妙に修正して切り抜けようと以下も合せてあの手この手と、ようやりまんなぁ。<br />   <a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/70.html">あそこ</a>で書かなかったけど、湿けった火薬ほど性質の悪いものは無いから、火薬庫には水は近付けないもんなんだよ。</p> <p align="left"><font color="#0000FF"> ナールデンは「水が城を囲み、水が市街地を囲む」典型的なオランダ式都市要塞だが、<br /> 砲台が分散しているため、どこか一方から多数の大砲で集中砲火を浴びせられると太刀打<br /> ちできない。<br />  そこで、兵力を増員したり、大砲を移動したりして集めるために、人と大砲を自由に動<br /> かせる地下道網が最初からつくられていて、城の中心には広大な地下空間が広がっている。</font></p> <p align="left">冒頭の、「<font color="#0000FF">運河があるため砲弾は城に届かなかった。</font>」ってのは何なのかね?届かない砲弾の集中砲火って?太刀打ちする必要ないじゃん。</p> <p align="left"><font color="#0000FF">今でも公共施設の多くが地下にあるが、当時の城の中枢機能も地下にあった。そこから市<br /> 街地に地下道が縦横に走っていたという。大砲の性能が上がって砲弾が届くようになって<br /> も、いざとなれば運河の下の地下道を利用して安全に城から脱出することもできた。<br /></font>      400年99の謎 36頁</p> <p align="left">地下網の秘密[2」では、</p> <p align="left"><font color="#FF6600">ナールデンという城郭都市は、十七世紀にこのような形に建設された。わが国では江戸時代<br /> の初期にあたっている。このオランダの都市は当時の状態をよく保存していて、いまでも、<br /> 都市の中心には大きな地下空間が広がっている。公共施設の多くが地下にあり、市内には<br /> 地下道が縦横に走っている。城郭都市ナールデンはヨーロッパで初めて、地下に「城」が建設<br /> された都市になるのだという。</font></p> <p align="left">  微妙に微妙に辻褄合せに掛かっているように見えるんだがなぁ。全然功を奏していないけど。</p> <p align="left"><br /><font color="#0000FF"> 地下鉄南北線の遺跡調査では、江戸城内濠の半蔵濠と千鳥ケ淵の地下に空間のあること<br /> を断面図で明らかにしている。江戸城にも地下空間があったはずだ。<br />  赤坂見附近くの弁慶濠と市ヶ谷-飯田橋間の外濠の地下には現在、地下鉄の車両基地が<br /> ある。この2つの地下空間は、オランダ式築城術で江戸城が建てられたときに、外濠建設<br /> と同時につくられたものと考えている。<br /></font>      400年99の謎 36頁</p> <p align="left">  繰り返しになるけど、<br />   この遺跡調査団は、「<font color="#FF0000">地下鉄7号線溜池駒込間遺跡調査会</font>」ですから、地下鉄7号線すなわち南北線の経路、それも駅部分などの開削工区を調査したわけです。<br />   江戸城内濠の半蔵濠と千鳥ケ淵ってどこの南北線の沿線?</p> <p align="left">  この項って言うか、何か訳の判らん多稜郭話は、全部、地下網の秘密[2]からの駄ビングなんで、大体<a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/70.html">ここ</a>を見てもらったら、酷っでぇい嘘だってのが解ると思います。<br />   次も新ネタの(コミック版でやっているけど)、酷っでぇい嘘!しかも二項続けての。</p> <p align="left"><font color="#0000FF"><strong>12」発見!ドイツにも江戸にそっくりの城塞都市があった!</strong></font></p> <p align="left"><font color="#0000FF">ドイツのノルトライン・ウェストファ-レン州といっても、どこかわかる人は少ないだ<br /> ろう。最新の統計で人口が100万人を超えたドイツ第4の都市ケルン、デュッセルドル<br /> フ、ドルトムントなど大都市が集中する、ル-ル工業地帯を抱える州だ。<br /> その州都デュッセルドルフから北東へ120キロ、ドルトムントから北へ60キロほど行<br /> ったところに、ミュンスターランドと呼ばれる農業地帯がある。その中心ミュンスターか<br /> ら半径40~70キロには、畑と牧草地と林がほどよく配置されている。<br />  このミュンスターランドで「真珠のごとき光を放っている」とされているのが「水城」<br /> だ。ここを訪れる観光客の多くが、ミュンスターの市街地だけでなく、周囲の村や町に点<br /> 在する掘割で囲まれた古城を見て回る。<br />  ここは今も昔も平野で、城を築く山がない。17世紀の初め、ミュンスターの人々が二重<br /> 三重の堀をつくり、南を流れるライン川の支流から水を引いて城塞を築いたのだ。その後、<br /> 手を加えられたものも含め多くの城が今も残っている。<br />  このミュンスターの城を描いた当時の銅版画が残っている。周囲を堀で囲まれたなかに<br /> 五角形(少し形を崩して北西方向に傾いているが)の城下町があり、その中心に城がある。砲<br /> 台らしきものが外に突き出ている。<br />  これを見たとき私は、「江戸に似ている」と、直感的に思った。今の東京の地図から江<br /> 戸の面影を見ることはできないが、森鴎外が1909(明治42年につくった「東京方眼図」<br /> で見ると、江戸とミュンスターが実に似ている。<br />  江戸初期に掘削された神田川から外濠そして汐留川が、ミュンスターの城を囲む掘割と<br /> 同じように江戸城を取り囲んでいる。その内側には、崩れてはいるが五角形のエリアがあ<br /> り、中心にある江戸城の周囲には内濠が掘られている。</font></p> <p align="left"> これも再々言うけど、「筆力が無いんだから、ちゃんと絵図を出さなきゃ、読者に言わんとすることが伝わんないでしょうが。」でも要らん書き込みと、一部を隠すなんて、改竄しちゃ駄目だよ。<br />   そら、[実録コミック 東京地下(迷宮)の謎」18頁で秋庭さんがどっかの築城術か何かの本から、無断複写してきたミュンスターの図から無断複写したもんだけど、ミュンスターと東京の牽強付会図ね。出典元、タイトルだけじゃ駄目なんだよ。<br /> Festungsbau-Kunstund-Technik、<br /> 綴り間違えてる?<br /> Festungsbau - Kunst und Technik じゃないの?</p> <p align="left"><img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=125&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E5%8D%B0%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC.jpg" /> </p> <p align="left">で、五角形って言ってるけど、五角形か六角形か、もっと多角なのか定かで無いんだよね、ミュンスター</p> <p align="left"> <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=125&amp;file=%EF%BC%91%EF%BC%96%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC.jpg" /></p> <p align="left"><br /> 「千年王国の惨劇 ミュンスター再洗礼派王国目撃録」(平凡社2002年刊)附図より</p> <p align="left">   で、この「千年王国の惨劇 ミュンスター再洗礼派王国目撃録」ってのが何かって言うと、次の嘘ッコの事が書かれている本です。</p> <p align="left"><font color="#0000FF"><strong>13」ヨーロッパで戦争から人々を救ったオランダ式築城術</strong></font></p> <p align="left"><font color="#0000FF"> 日本では戦国時代といわれ、諸国の武将が天下統一を目指して戦っていたころ、ヨーロ<br /> ッパではローマ教皇を支持するカトリック勢力とローマ教皇の支配に反発するプロテスタ<br /> ント勢力が各地でぶつかり、凄惨な戦争が起きていた。<br />  家康が天下を統一して幕府の支配が確立したころ(1618年)にドイツでは「三十年戦<br /> 争」が起きている。プロテスタント勢力の反乱をきっかけに勃発した宗教戦争から対立す<br /> る民族による戦争になり、やがてハプスプルグ家とヨーロッパ諸国を巻きこんだ国家間の<br /> 覇権争いに発展した戦争だ。<br />  この戦争のなかで権力に振り回され国土を荒らされたのが、ミュンスターのようなドイ<br /> ツの小国、都市国家であった。ミュンスターの城ができあがったのは1630~1640<br /> 年ごろと思われる。ここにいたのは宗教改革を目指す勢力でも過激な再洗礼派だった。<br />  彼らは神聖ローマ帝国からの独立を目指して当初はプロテスタント勢力と手を結んでい<br /> たが、やがて意見の対立からプロテスタント勢力からはじき出され、仕方なくプロテスタ<br /> ントでありながらカトリック勢力と手を結ぶ。<br />  非常に危うい位置にあったミュンスターの再洗礼派は、周りの勢力から自らを守るため<br /> には強固な城塞をつくる必要に迫られたのだ。結局、独立はかなわなかったが、最新の築<br /> 城術で建てられた城は、そこに暮らす人々を守った。<br />  宗教改革といえば、カトリック勢力は、戦国時代のころからアジアに多くの宣教師を送<br /> りこんでいる。日本にもやってきて諸大名に西洋文化を伝えるとともに、その力を借りて<br /> 布教活動を行なったことはよく知られている。<br />  リーフデ号が日本に漂着したとき、オランダの商船ということで、ウイリアム・アダム<br /> スとヤン・ヨーステンの処刑を求めたのはカトリックの宣教師たちだった。しかし、家康<br /> は彼らの要求を無視して2人を重用し、宗教戦争を起こさせなかった。</font></p> <p align="left">  ミュンスターで、再洗礼派が跋扈したのは、1534年から1535年の1年半ほどの間でした。<br />   結局彼等は、ミュンスターの堅固な城壁に守られることなく、ミュンスター司教とその援軍によってなぶり殺しにされます。<br />   まぁ、中で、フリュクチュドールもかくやってぇか、連合赤軍の最後もかくやって言うか、な悲惨な粛清ゴッコもやってましたんで。異端な上に、神の軍隊(傭兵ですけどね)に嬲り殺されちゃうんですから、天国にも行けず、全然救われないんですけど。再洗礼派。</p> <p align="left">   で、三十年戦争ってのは、その時から70年ほどたって起こった戦争でしょ、ミュンスター講和って、再洗礼派が嬲り殺しになってから、都合100年後なんです。</p> <p align="left">   ミュンスターの中心には、城はなかったし、この城郭都市の大きさが秋庭さんの五角形より大分に小さかったと言うことを次の図でご確認ください。</p> <p align="left"> <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=125&amp;file=%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E8%A9%B3%E7%B4%B0.jpg" /></p> <p align="left"> 「千年王国の惨劇 ミュンスター再洗礼派王国目撃録」(マイスター・ハインリヒ・グレシュベック著 C.A.コルネリウス編 倉塚平訳 平凡社2002年刊)巻末附図</p> <p align="left"> </p>

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