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序章?前相撲にも成れぬ 論外コード」(2012/02/14 (火) 20:50:44) の最新版変更点

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<h2>序章?前相撲にも成れぬ 論外コード<br />  </h2> <p>  序章? 序の口どころか、番付にも上がれぬ前相撲、それにも上がれぬ新弟子検査落ちの様なお話。<br /><br />          <strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">森鷗外の「帝都地図」</span></strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /><br />          </span><strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">序章「鷗外コード」</span></strong><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         森鷗外が作った地図の謎</span><br />           文豪・森鷗外は一九〇九(明治四十二)年、左のような地図を発表している。タイトルは「東<br />          京方眼図」、左上に「森林太郎立案」とある。林太郎は鷗外の本名である。<br />           だが、鷗外が地図を作っていたということは、あまり知られていないと思う。また、鷗外の作<br />          品だけに、すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな<br />          いようだ。左の地図には多くの謎があるにもかかわらず、いまもその謎はほとんど解明されてい<br />          ないのである。<br />           まず、「森林太郎立案」とあるものの、地図を緯度、経度の方眼で表すという手法は、江戸時<br />          代の伊能忠敬のころから用いられていたもので、とくに鷗外が立案したとは考えられないのであ<br />          る。それでは、このとき鷗外は何を立案したのだろうか。<br />           また、この地図は北が上、つまり方位は正しく描かれているにもかかわらず、右下をご覧いた<br />          だきたい、方位マークのようなものが書かれているが、そのマークは大きく左に傾いているので<br />          ある。<br />           文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、この地図では上野公園に「上」<br />          の字がなく、「野公園」とある。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の<br />          方眼には「新橋」という字が上下逆さに善かれていて、しかも、そこは「新橋」ではないのである。<br />          さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がな<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">い。この地図には赤丸や赤い三角、赤い</span><font face="Times New Roman, serif">×</font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">や旗のようなマークまであるが、それは地図記号には</span><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">存在しないもので、しかもどこにも説明がないのである。</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">                                                 (森鷗外の「帝都地図」 4頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />    <span style="font-size:x-large;">「<span style="color:rgb(255,0,0);">左のような地図</span>」</span>と5ページ目に挙っているのがこれ。<br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%95%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg" alt="" /><br />     で、何か気になるこの<span style="font-size:x-large;">白線</span>、<br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%95%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E7%9F%A2%E5%8D%B0%E4%BB%98.JPG" alt="" /><br />    前項で挙げた、坂崎氏の「一葉からはじめる…」附録の「東京方眼図」全体を愚生が写真で撮ったものを見ると、<br /><br />            <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%EF%BC%A3%EF%BC%A1%EF%BC%93%EF%BC%94%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%94%E5%9D%82%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%9E%9A%E3%82%82%E3%81%AE.jpg" alt="" /><br /><br />   矢印部分折り目の位置が、白線と一致しちゃいました(笑<br /><br /></font> <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"> どういう事かは言うまでもありませんね。</span></span><br /><br /> 繰り返し言います。<span style="font-size:small;"><br /><br /></span><span style="font-size:x-large;">  坂崎氏の「一葉からはじめる…」(<span style="color:rgb(0,0,255);"><span style="background-color:rgb(255,255,255);">2004年刊</span></span>)</span>、<span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(255,0,0);">秋庭さん</span>の「森鷗外の…」(<span style="color:rgb(255,0,0);">2011年刊</span>)です</span><span style="font-size:x-large;">。</span><br /><font face="Times New Roman, serif"><br />          </font> だが、鷗外が地図を作っていたということは、あまり知られていないと思う。また、鷗外の作<br />          品だけに、すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな<br />          いようだ。<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />     鷗外全集とかにこのことは載ってますし、秋庭さんも書いていますが、主人公が東京方眼図を使う鷗外の「青年」の話は有名ですね。<br /><br />          </font>すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな<br />          いようだ。<font face="Times New Roman, serif"><br /><br />    そりゃ秋庭さんの様なけったいな解釈をする人は他におりませんが、森林太郎立案と言うことの「立案」については評価も解釈も定まってますけれど。<br /><br />   </font>        文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、この地図では上野公園に「上」<br />          の字がなく、「野公園」とある。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の<br />          方眼には「新橋」という字が上下逆さに善かれていて、しかも、そこは「新橋」ではないのである。<br />          さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がな<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">い。</span><br /><font face="Times New Roman, serif"><br />    「上野公園」の「上」の字は描き漏らしちゃったんだと思われます。「馬場先門」ですが、この地図のできる4年前、明治38年に撤去されていますので、「馬場先」で正しいかもしれませんね。「い」の「六」の新橋については、後の項で秋庭さんが複写した図が出てきますのでその時にでもふれたいと思います。赤い鳥居のマークとかは、神社には社格というものや、由来が有りますので「暗号」だのへったくれだのでは無く、明治42年当時の状況で判断する必要があるんじゃないでしょうか?「東京10社」に含まれていても、官幣社でないからとか、根津と東照宮の本来の祭神は権現だったりとか、場所的にランドマークにならないからと言うような、もっと単純なことが理由かもしれませんし。<br /><br />   まぁ、6~7頁ここからが佳境というか、病膏肓と言うか(笑<br /><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         </span><strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">地図のルールから外れた地図</span></strong><br />           左は地図の中心、旧江戸城周辺である。矢印①の先に「天神ハシ」とある。そこから「平河<br />          橋」へと細い矢印が延びている。この矢印は鴎外が書いたものだが、この地図には何も説明がな<br />          く、その後の鴎外研究でも意味は説明されていない。「ハシ」とカタカナで書かれている理由も<br />          わかっていないという。<br />           矢印②の先には 「北白川御銅像」 とある。つまり、北白川宮の 「宮」がないのである。ここ<br />          で明治という時代について、いまさら私が説明する必要はないと思う。こういうことが単なるミ<br />          スではすまなかった時代である。また、ほとんどの読者は「御銅像」という言葉を初めて目にし<br />          たのではないだろうか。ふつうは、銅像に「御」はつけないものだからである。<br />           矢印③には「近衛歩兵第一旅団司令部」とある。しかしながら、鴎外はこれを「近衛歩」で改<br />          行し、以下、「兵第一」「旅団司」「令部」という、不思議な改行をくりかえしている。なぜ、最<br />          後の行にまとめて「司令部」と書かないのだろう。しかも当時、そこにあったのは旅団司令部で<br />          はなく、近衛師団司令部だったのである。<br />           また、矢印④の先には 「愛生」とあるが、当時、そこにそのような町は存在せず、それ以前も<br />          以後もそのような町はなかった。つまり、それは鴎外が作った架空の町名である。その右には<br />          「梨本宮」「宮内大臣」などとあるが、通常、地図では「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すも<br />          のである。しかも、その邸宅の建物どころか、位置を示すポイントもないから、どこにその邸宅<br />          があるのかもわからない。つまり「東京方眼図」は、地図の決まりにのっとっていない 〝地図″<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">なのである。</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">                                                  (森鷗外の「帝都地図」 6頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br /><br /></font>          <span style="font-size:x-large;">「</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">左は地図の中心、旧江戸城周辺である。</span></span><span style="font-size:x-large;">」</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />          </font> <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印①の先</span></span>に「天神ハシ」とある。<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">そこから</span></span><span style="font-size:x-large;">「平河橋」へと</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">細い矢印が延びている</span></span>。<br />          この<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印</span></span>は<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">鷗外が書いた</span></span>ものだが、この地図には何も説明がなく、その後の鴎外研究でも意味は説明<br />          されていない。<font face="Times New Roman, serif"><br /><br />   と仰るのがこの図です。</font><br /><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%97%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E7%AD%89%E5%9B%B3.jpg" /><br /><br />    でっ、仰るところの、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印</span></span>なるものを、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">秋庭さんの附録</span></span>で見てみるとこんな感じ。<br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E3%81%95%E3%82%93%E7%89%88%E7%9B%97%E7%94%A8%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E5%85%83.JPG" alt="" /><br /></font><font face="Times New Roman, serif"><br />    <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">7頁の白黒の図</span></span>より、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「矢印」</span></span>とやら<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">ボヤけて</span></span>ませんか?とても、同じものとは思えない。そこで、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">坂崎氏の</span></span>縮小版<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「東京方眼図」</span></span>を<span style="font-size:x-large;">見て</span>みると、<br /><br />         <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E5%9D%82%E5%B4%8E%E7%89%88%E7%B8%AE%E5%B0%8F%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E5%85%83.JPG" alt="" /><br /><br />    何か、こっちの方が鮮明で、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">7頁の図に近い様な</span></span>(笑 というか<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">そっくり</span></span>(笑<br /><br />    </font>        この<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印</span></span>は<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">鷗外が書いた</span></span>ものだが、<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />   だそうですので、オリジナル</font>の<font face="Times New Roman, serif">明治42年春陽堂刊行「森林太郎立案 東京方眼圖」現物を当たってみた。<br /><br />         </font><font face="Times New Roman, serif"><img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E7%89%88%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E5%85%83.JPG" /><br />                                                    大阪府立中央図書館蔵「東京方眼圖」(明治42年春陽堂刊)部分<br /><br />    <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">どこに鷗外の書いた矢印があるんでしょうか?</span></span><br />   <br />   さて、秋庭さんも次項でお書きの通り、<span style="font-size:x-large;">この明治42年刊</span>の<span style="font-size:x-large;">東京方眼圖</span>が<span style="font-size:x-large;">昭和46年頃から昭和60年頃まで</span>、何度か<span style="font-size:x-large;">「日本近代文学館」から復刻刊行</span>されています。その復刻版の該当部分がこれだ。<br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%97%EF%BC%91%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%BE%A9%E5%88%BB%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E4%B8%80%E6%99%82%E5%85%83.JPG" /><br />                                        大阪市立中央図書館蔵日本近代文学館復刻「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」(昭和50年ほるぷ社刊)</font>部分<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />     インクが散ったものか、明治42年版に無い汚れの様な点が、ついてますね。<br />    どうやら、<span style="font-size:x-large;">坂崎氏</span>の<span style="font-size:x-large;">複製元</span>が明らかになったようです。<span style="font-size:x-large;">「日本近代文学館」の復刻版ですね。</span><span style="font-size:x-large;">坂崎氏</span>判型としては4割位、図としては実質2割程度の<span style="font-size:x-large;">縮小掛けちゃった</span>ものだから、曲線と少し離れていた、日本近代文学館復刻版の汚れが<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">印刷の潰れ</span></span>で、曲線と接するように<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印</span></span><span style="font-size:x-large;">に見えなくも無い</span>様な、<span style="font-size:x-large;">くっ付き方</span>をしてしまった訳ですね。<br />   まぁ、秋庭さんのやることはこんなもんですが、坂崎氏もこんな調子で、出典を書かないわ、勝手に改版(縮小)して地図の比率を変えちまうわじゃ、オリジナルは保護期間が切れたとは言え、復刻版の著作権やオリジナルと復刻版の著作者人格権をどう考えているのやら?<br />   どうなんでしょうかね?自称編集者さん?<br /><br />   この、</font><font face="Times New Roman, serif"><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">──森鷗外の「帝都地図」隠された地下網の秘密──</span></span></font><span style="font-size:x-large;"><font face="Times New Roman, serif">で使われている</font></span><font face="Times New Roman, serif">自称「森林太郎原案(発表)東京方眼図」の<span style="font-size:x-large;">図版は、</span>ほとんど(<span style="font-size:x-large;">9割</span>)<span style="font-size:x-large;">が</span>坂崎重盛著<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「一葉からはじめる東京町歩き」</span></span>(実業之日本社2004年刊)の附録<span style="font-size:x-large;">からの</span>コピーです。つまり<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:xx-large;">パクリ</span></span>。残りの<span style="font-size:x-large;">1割は</span>、<span style="font-size:x-large;">図書館から</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">パク</span></span>った</font><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"><font face="Times New Roman, serif">日本近代文学館復刻「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」</font></span></span><font face="Times New Roman, serif">(昭和50年ほるぷ社刊)</font><span style="font-size:x-large;"><font face="Times New Roman, serif">の</font></span>部分<span style="font-size:x-large;">複製</span>です。秋庭さんと洋泉社の面目躍如ってところですかね(笑<br /><br />   ところで、「森林太郎立案 東京方眼圖」は、秋庭さんが後の項で示されるように、一枚物の地図と、174頁の索引部と26枚の一枚物地図を分割して綴り込んだ冊子からなっています。秋庭さんは一枚物地図と冊子は別立ての様に書かれていますが、一体不可分なものです。なので、その冊子に綴り込まれた分割された「平河橋」、「天神ハシ」部分「ほ」の「三・四・五」を<font face="Times New Roman, serif">、日本近代文学館復刻「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」</font>から挙げておきます。<br /><br /><font face="Times New Roman, serif"><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%95%EF%BC%90%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%E5%86%8A%E5%AD%90%E9%83%A8%E3%81%BB%E4%B8%89%E5%9B%9B%E4%BA%94%E6%8E%B2%E7%A4%BA%E7%94%A8.jpg" /><br />            </font><font face="Times New Roman, serif">大阪市立中央図書館蔵日本近代文学館復刻「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」(昭和50年ほるぷ社刊)</font><font face="Times New Roman, serif">冊子</font>「ほ」の「三・四・五」<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />    ご覧の通り、あれは<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印ではありません。</span></span>お濠と土手の<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">彩色ミスですね</span></span>。</font><font face="Times New Roman, serif">一枚物地図には</font><font face="Times New Roman, serif">似た様な</font><font face="Times New Roman, serif">漏れ欠けが結構ありますが、</font><font face="Times New Roman, serif">冊子の分割図では相当に補正がなされています。そんな一枚物図上の漏れ欠けが、秋庭さんの「暗号」とやらのネタ元になってるんですけどね。<br /><br />    </font>        矢印②の先には 「北白川御銅像」 とある。つまり、北白川宮の 「宮」がないのである。ここ<br />          で明治という時代について、いまさら私が説明する必要はないと思う。こういうことが単なるミ<br />          スではすまなかった時代である。また、ほとんどの読者は「御銅像」という言葉を初めて目にし<br />          たのではないだろうか。ふつうは、銅像に「御」はつけないものだからである。<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />   「北白川御銅像」が「北白川宮」のことだとどうして判るのか?<br /><br />           </font>矢印③には「近衛歩兵第一旅団司令部」とある。しかしながら、鴎外はこれを「近衛歩」で改<br />          行し、以下、「兵第一」「旅団司」「令部」という、不思議な改行をくりかえしている。なぜ、最<br />          後の行にまとめて「司令部」と書かないのだろう。しかも当時、そこにあったのは旅団司令部で<br />          はなく、近衛師団司令部だったのである。<font face="Times New Roman, serif"><br /><br />    なんで、師団司令部と旅団司令部の位置の違いが判るのか?<br /><br />          </font>「梨本宮」「宮内大臣」などとあるが、通常、地図では「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すも<br />          のである。しかも、その邸宅の建物どころか、位置を示すポイントもないから、どこにその邸宅<br />          があるのかもわからない。<br /><br />   なんで、──「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すもの──「邸」が付くものだと判ったんだろう?<br /><br />   ひょっとして、この秋庭さんが大好きな「小林又七謹製」内務省の地図でもご覧になったのかしら。<br /><font face="Times New Roman, serif"><br /><img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%94%E5%B9%B4%E9%80%93%E4%BF%A1%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E7%95%AA%E5%9C%B0%E7%95%8C%E5%85%A5%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%85%A8%E5%9B%B3.jpg" /><br /><br />                                          明治44年番地界入東京全図(東京逓信管理局製作著作 小林又七発行)<br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">  でも、これをご覧になっていたのなら。<br />   いや、絶対ご覧になっていますよね(笑<br />   だって、秋庭さんの書いておられる司令部の位置とか「宮」とか、「邸」とかの「情報、状況」が判る地図資料って、「番地界入東京全図」の他にないじゃありませんか(笑</span></span><br /><br />           </font> また、矢印④の先には 「愛生」とあるが、当時、そこにそのような町は存在せず、それ以前も<br />          以後もそのような町はなかった。つまり、それは鷗外が作った架空の町名である。<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />    なんて<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">お馬鹿なこと</span></span>は<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">普通は</span></span>お書きにならないはずですよね。だって、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「愛生」</span></span><span style="font-size:x-large;"><span style="font-size:medium;">って</span></span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">病院名</span></span><span style="font-size:medium;">ですものね。<br />   それが何で?</span></font><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"><font face="Times New Roman, serif">「</font>それは鷗外が作った架空の町名である。」</span></span><font face="Times New Roman, serif">になるんでしょうか?<br /><br /><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         </span><strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">〝鷗外コード〟を読み解く</span></strong><br />           すなわち、この地図は特別な目的のために作られている、と考えられるのである。かつてレオ<br />          ナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」などに残した暗号が〝ダ・ヴィンチ・コード〟なら、こ<br />          の地図の多くの謎は〝鷗外コード″と呼べるのではないだろうか。本書は、そのコードを解き明<br />          かそうというものである。<br />           本書付録としてカラーの「東京方眼図」がある。鷗外がわざわざカラーで印刷していることか<br />          ら、赤い色にテーマがあると想像できる。道路の上に延びている赤い筋は、当時開通したばかり<br />          の路面電車、のちの都電のルートである。筋の途中にある赤丸は、都電の停留所があったところ<br />          だ。ここで、左の図の銀座周辺をご覧いただきたい。<br />           都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中<br />          には都電の停留所を示す赤丸もある。だが、路面電車が水の中を走るはずもなければ、水の中に<br />          停留所があるわけもない。こういうとき、この筋は地下鉄のルートを表していると解釈されると<br />          思う。常識をもって考えれば、ほかには解釈が存在しないだろう。東京には戦前の早い時期から<br />          地下鉄が走っていたのである。<br />           つまり、この地図は東京の地下を描くという、特別な目的のために作られていた。それは当然<br />          のことながら〝公式の歴史″とは異なっているが、本書はかつて江戸という都市がどのように築<br />          かれ、明治時代にその地下がどう改造され、また、鷗外がそれにどうかかわっていて、なぜ、鷗<br />          外がこのような地図を作るに至ったかということを、歴史上の文書、資料、法律などから解明し<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ようというものである。</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">                                                  (森鷗外の「帝都地図」 8頁)<br /><br />   以前にも申し上げたけれど。</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">〝ダ・ヴィンチ・コード〟</span></span>なんて言葉が出てきた時点で、お話の<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">信憑性が</span></span>格段に<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">落ちる</span></span>から<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">〝ダ・ヴィンチ・コード〟</span></span>云々何てお<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">止めなさい</span></span>と。<br />   ましてや、原本からじゃない、<span style="font-size:x-large;">坂崎重盛著「一葉からはじめる東京町歩き」</span>の<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">附録</span></span>から秋庭さんが得意技で<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「駄ビング」</span></span>しまくった地図、即ち同一性が保証されていない<span style="font-size:x-large;">図版資料で</span>「地下妄」を<span style="font-size:x-large;">〝鷗外コード″</span>たらと言われて語られても、そりゃあもう、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">“論外コード”</span></span>だよねと言うしかないんですが。<br /><br />            <span style="font-size:x-large;">本書付録として</span>──坂崎重盛著「一葉からはじめる東京町歩き」から<span style="color:rgb(255,0,0);">パクって来た</span>──<span style="font-size:x-large;">カラーの「東京方眼<br />        図」がある。</span><br />            (中略)<br />            ここで、左の図の銀座周辺をご覧いただきたい。<br />            都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中<br />           には都電の停留所を示す赤丸もある。だが、路面電車が水の中を走るはずもなければ、水の中に<br />           停留所があるわけもない。こういうとき、この筋は地下鉄のルートを表していると解釈されると<br />           思う。常識をもって考えれば、ほかには解釈が存在しないだろう。 <br /><br />    と仰る「左の図」なるもの、帝国ホテルの東側まで外濠が来ているとされる、本文の9頁に挙げられているこの図です。<br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%99%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E8%AB%96%E5%A4%96%E3%81%AA%E9%83%A8%E5%88%86%E5%9B%B3.jpg" /><br />   上で説明しましたが、「森林太郎立案 東京方眼圖」は、一枚物の地図と、174頁の索引部と26枚の一枚物地図を分割して綴り込んだ冊子か らなっています。一枚物地図と冊子は一体不可分なものです。なので、その冊子に綴り込まれた分割された秋庭さん曰くところの「銀座周辺」を<font face="Times New Roman, serif">、明治42年“発表”(笑 の「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」</font>から挙げておきます。<br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E7%89%88%E5%86%8A%E5%AD%90%E5%88%86%E5%89%B2%E5%9B%B3%E7%89%88%E3%81%BB%E4%B8%83%E7%B8%AE%E5%B0%8F.jpg" alt="" /><br /><br />    画像が小さくてよく判らないかもしれないので、<br /><br />           都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中<br />           には都電の停留所を示す赤丸もある。<br /><br />    と秋庭さんが主張される該当部分、帝国ホテルの東側をもう少し拡大してお目に掛けます。<br /><br />           <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E7%89%88%E5%86%8A%E5%AD%90%E5%88%86%E5%89%B2%E5%9B%B3%E7%89%88%E3%81%BB%E4%B8%83%E9%83%A8%E5%88%86.JPG" alt="" /><br /><br /><br />    はて?「ほ」の「七」方眼のどの辺に<br /><br /> 都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中<br />           には都電の停留所を示す赤丸もある。<br /><br />  が、あるものやら?<br /><br />                                                             OP:平成24年2月14日</p>
<h2>序章?前相撲にも成れぬ 論外コード<br />  </h2> <p>  序章? 序の口どころか、番付にも上がれぬ前相撲、それにも上がれぬ新弟子検査落ちの様なお話。<br /><br />          <strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">森鷗外の「帝都地図」</span></strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /><br />          </span><strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">序章「鷗外コード」</span></strong><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         森鷗外が作った地図の謎</span><br />           文豪・森鷗外は一九〇九(明治四十二)年、左のような地図を発表している。タイトルは「東<br />          京方眼図」、左上に「森林太郎立案」とある。林太郎は鷗外の本名である。<br />           だが、鷗外が地図を作っていたということは、あまり知られていないと思う。また、鷗外の作<br />          品だけに、すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな<br />          いようだ。左の地図には多くの謎があるにもかかわらず、いまもその謎はほとんど解明されてい<br />          ないのである。<br />           まず、「森林太郎立案」とあるものの、地図を緯度、経度の方眼で表すという手法は、江戸時<br />          代の伊能忠敬のころから用いられていたもので、とくに鷗外が立案したとは考えられないのであ<br />          る。それでは、このとき鷗外は何を立案したのだろうか。<br />           また、この地図は北が上、つまり方位は正しく描かれているにもかかわらず、右下をご覧いた<br />          だきたい、方位マークのようなものが書かれているが、そのマークは大きく左に傾いているので<br />          ある。<br />           文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、この地図では上野公園に「上」<br />          の字がなく、「野公園」とある。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の<br />          方眼には「新橋」という字が上下逆さに善かれていて、しかも、そこは「新橋」ではないのである。<br />          さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がな<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">い。この地図には赤丸や赤い三角、赤い</span><font face="Times New Roman, serif">×</font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">や旗のようなマークまであるが、それは地図記号には</span><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">存在しないもので、しかもどこにも説明がないのである。</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">                                                 (森鷗外の「帝都地図」 4頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />    <span style="font-size:x-large;">「<span style="color:rgb(255,0,0);">左のような地図</span>」</span>と5ページ目に挙っているのがこれ。<br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%95%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg" /><br />     で、何か気になるこの<span style="font-size:x-large;">白線</span>、<br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%95%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E7%9F%A2%E5%8D%B0%E4%BB%98.JPG" /><br />    前項で挙げた、坂崎氏の「一葉からはじめる…」附録の「東京方眼図」全体を愚生が写真で撮ったものを見ると、<br /><br />            <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%EF%BC%A3%EF%BC%A1%EF%BC%93%EF%BC%94%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%94%E5%9D%82%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%9E%9A%E3%82%82%E3%81%AE.jpg" /><br /><br />   矢印部分折り目の位置が、白線と一致しちゃいました(笑<br /><br /></font> <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"> どういう事かは言うまでもありませんね。</span></span><br /><br /> 繰り返し言います。<span style="font-size:small;"><br /><br /></span><span style="font-size:x-large;">  坂崎氏の「一葉からはじめる…」(<span style="color:rgb(0,0,255);"><span style="background-color:rgb(255,255,255);">2004年刊</span></span>)</span>、<span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(255,0,0);">秋庭さん</span>の「森鷗外の…」(<span style="color:rgb(255,0,0);">2011年刊</span>)です</span><span style="font-size:x-large;">。</span><br /><font face="Times New Roman, serif"><br />          </font> だが、鷗外が地図を作っていたということは、あまり知られていないと思う。また、鷗外の作<br />          品だけに、すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな<br />          いようだ。<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />     鷗外全集とかにこのことは載ってますし、秋庭さんも書いていますが、主人公が東京方眼図を使う鷗外の「青年」の話は有名ですね。<br /><br />          </font>すでに多くの人に研究され、評価も解釈も確定しているかというと、そんなこともな<br />          いようだ。<font face="Times New Roman, serif"><br /><br />    そりゃ秋庭さんの様なけったいな解釈をする人は他におりませんが、森林太郎立案と言うことの「立案」については評価も解釈も定まってますけれど。<br /><br />   </font>        文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、この地図では上野公園に「上」<br />          の字がなく、「野公園」とある。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の<br />          方眼には「新橋」という字が上下逆さに善かれていて、しかも、そこは「新橋」ではないのである。<br />          さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がな<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">い。</span><br /><font face="Times New Roman, serif"><br />    「上野公園」の「上」の字は描き漏らしちゃったんだと思われます。「馬場先門」ですが、この地図のできる4年前、明治38年に撤去されていますので、「馬場先」で正しいかもしれませんね。「い」の「六」の新橋については、後の項で秋庭さんが複写した図が出てきますのでその時にでもふれたいと思います。赤い鳥居のマークとかは、神社には社格というものや、由来が有りますので「暗号」だのへったくれだのでは無く、明治42年当時の状況で判断する必要があるんじゃないでしょうか?「東京10社」に含まれていても、官幣社でないからとか、根津と東照宮の本来の祭神は権現だったりとか、場所的にランドマークにならないからと言うような、もっと単純なことが理由かもしれませんし。<br /><br />   まぁ、6~7頁ここからが佳境というか、病膏肓と言うか(笑<br /><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         </span><strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">地図のルールから外れた地図</span></strong><br />           左は地図の中心、旧江戸城周辺である。矢印①の先に「天神ハシ」とある。そこから「平河<br />          橋」へと細い矢印が延びている。この矢印は鴎外が書いたものだが、この地図には何も説明がな<br />          く、その後の鴎外研究でも意味は説明されていない。「ハシ」とカタカナで書かれている理由も<br />          わかっていないという。<br />           矢印②の先には 「北白川御銅像」 とある。つまり、北白川宮の 「宮」がないのである。ここ<br />          で明治という時代について、いまさら私が説明する必要はないと思う。こういうことが単なるミ<br />          スではすまなかった時代である。また、ほとんどの読者は「御銅像」という言葉を初めて目にし<br />          たのではないだろうか。ふつうは、銅像に「御」はつけないものだからである。<br />           矢印③には「近衛歩兵第一旅団司令部」とある。しかしながら、鴎外はこれを「近衛歩」で改<br />          行し、以下、「兵第一」「旅団司」「令部」という、不思議な改行をくりかえしている。なぜ、最<br />          後の行にまとめて「司令部」と書かないのだろう。しかも当時、そこにあったのは旅団司令部で<br />          はなく、近衛師団司令部だったのである。<br />           また、矢印④の先には 「愛生」とあるが、当時、そこにそのような町は存在せず、それ以前も<br />          以後もそのような町はなかった。つまり、それは鴎外が作った架空の町名である。その右には<br />          「梨本宮」「宮内大臣」などとあるが、通常、地図では「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すも<br />          のである。しかも、その邸宅の建物どころか、位置を示すポイントもないから、どこにその邸宅<br />          があるのかもわからない。つまり「東京方眼図」は、地図の決まりにのっとっていない 〝地図″<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">なのである。</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">                                                  (森鷗外の「帝都地図」 6頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br /><br /></font>          <span style="font-size:x-large;">「</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">左は地図の中心、旧江戸城周辺である。</span></span><span style="font-size:x-large;">」</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />          </font> <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印①の先</span></span>に「天神ハシ」とある。<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">そこから</span></span><span style="font-size:x-large;">「平河橋」へと</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">細い矢印が延びている</span></span>。<br />          この<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印</span></span>は<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">鷗外が書いた</span></span>ものだが、この地図には何も説明がなく、その後の鴎外研究でも意味は説明<br />          されていない。<font face="Times New Roman, serif"><br /><br />   と仰るのがこの図です。</font><br /><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%97%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E7%AD%89%E5%9B%B3.jpg" alt="" /><br /><br />    でっ、仰るところの、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印</span></span>なるものを、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">秋庭さんの附録</span></span>で見てみるとこんな感じ。<br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E3%81%95%E3%82%93%E7%89%88%E7%9B%97%E7%94%A8%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E5%85%83.JPG" /><br /></font><font face="Times New Roman, serif"><br />    <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">7頁の白黒の図</span></span>より、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「矢印」</span></span>とやら<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">ボヤけて</span></span>ませんか?とても、同じものとは思えない。そこで、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">坂崎氏の</span></span>縮小版<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「東京方眼図」</span></span>を<span style="font-size:x-large;">見て</span>みると、<br /><br />         <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E5%9D%82%E5%B4%8E%E7%89%88%E7%B8%AE%E5%B0%8F%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E5%85%83.JPG" /><br /><br />    何か、こっちの方が鮮明で、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">7頁の図に近い様な</span></span>(笑 というか<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">そっくり</span></span>(笑<br /><br />    </font>        この<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印</span></span>は<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">鷗外が書いた</span></span>ものだが、<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />   だそうですので、オリジナル</font>の<font face="Times New Roman, serif">明治42年春陽堂刊行「森林太郎立案 東京方眼圖」現物を当たってみた。<br /><br />         </font><font face="Times New Roman, serif"><img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E7%89%88%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E5%A4%A7%E5%85%83.JPG" alt="" /><br />                                                    大阪府立中央図書館蔵「東京方眼圖」(明治42年春陽堂刊)部分<br /><br />    <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">どこに鷗外の書いた矢印があるんでしょうか?</span></span><br />   <br />   さて、秋庭さんも次項でお書きの通り、<span style="font-size:x-large;">この明治42年刊</span>の<span style="font-size:x-large;">東京方眼圖</span>が<span style="font-size:x-large;">昭和46年頃から昭和60年頃まで</span>、何度か<span style="font-size:x-large;">「日本近代文学館」から復刻刊行</span>されています。その復刻版の該当部分がこれだ。<br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%97%EF%BC%91%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%BE%A9%E5%88%BB%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E5%B9%B3%E6%B2%B3%E6%A9%8B%E4%B8%80%E6%99%82%E5%85%83.JPG" alt="" /><br />                                        大阪市立中央図書館蔵日本近代文学館復刻「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」(昭和50年ほるぷ社刊)</font>部分<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />     インクが散ったものか、明治42年版に無い汚れの様な点が、ついてますね。<br />    どうやら、<span style="font-size:x-large;">坂崎氏</span>の<span style="font-size:x-large;">複製元</span>が明らかになったようです。<span style="font-size:x-large;">「日本近代文学館」の復刻版ですね。</span><span style="font-size:x-large;">坂崎氏</span>判型としては4割位、図としては実質2割程度の<span style="font-size:x-large;">縮小掛けちゃった</span>ものだから、曲線と少し離れていた、日本近代文学館復刻版の汚れが<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">印刷の潰れ</span></span>で、曲線と接するように<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印</span></span><span style="font-size:x-large;">に見えなくも無い</span>様な、<span style="font-size:x-large;">くっ付き方</span>をしてしまった訳ですね。<br />   まぁ、秋庭さんのやることはこんなもんですが、坂崎氏もこんな調子で、出典を書かないわ、勝手に改版(縮小)して地図の比率を変えちまうわじゃ、オリジナルは保護期間が切れたとは言え、復刻版の著作権やオリジナルと復刻版の著作者人格権をどう考えているのやら?<br />   どうなんでしょうかね?自称編集者さん?<br /><br />   この、</font><font face="Times New Roman, serif"><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">──森鷗外の「帝都地図」隠された地下網の秘密──</span></span></font><span style="font-size:x-large;"><font face="Times New Roman, serif">で使われている</font></span><font face="Times New Roman, serif">自称「森林太郎原案(発表)東京方眼図」の<span style="font-size:x-large;">図版は、</span>ほとんど(<span style="font-size:x-large;">9割</span>)<span style="font-size:x-large;">が</span>坂崎重盛著<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「一葉からはじめる東京町歩き」</span></span>(実業之日本社2004年刊)の附録<span style="font-size:x-large;">からの</span>コピーです。つまり<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:xx-large;">パクリ</span></span>。残りの<span style="font-size:x-large;">1割は</span>、<span style="font-size:x-large;">図書館から</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">パク</span></span>った</font><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"><font face="Times New Roman, serif">日本近代文学館復刻「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」</font></span></span><font face="Times New Roman, serif">(昭和50年ほるぷ社刊)</font><span style="font-size:x-large;"><font face="Times New Roman, serif">の</font></span>部分<span style="font-size:x-large;">複製</span>です。秋庭さんと洋泉社の面目躍如ってところですかね(笑<br /><br />   ところで、「森林太郎立案 東京方眼圖」は、秋庭さんが後の項で示されるように、一枚物の地図と、174頁の索引部と26枚の一枚物地図を分割して綴り込んだ冊子からなっています。秋庭さんは一枚物地図と冊子は別立ての様に書かれていますが、一体不可分なものです。なので、その冊子に綴り込まれた分割された「平河橋」、「天神ハシ」部分「ほ」の「三・四・五」を<font face="Times New Roman, serif">、日本近代文学館復刻「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」</font>から挙げておきます。<br /><br /><font face="Times New Roman, serif"><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%95%EF%BC%90%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%E5%86%8A%E5%AD%90%E9%83%A8%E3%81%BB%E4%B8%89%E5%9B%9B%E4%BA%94%E6%8E%B2%E7%A4%BA%E7%94%A8.jpg" alt="" /><br />            </font><font face="Times New Roman, serif">大阪市立中央図書館蔵日本近代文学館復刻「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」(昭和50年ほるぷ社刊)</font><font face="Times New Roman, serif">冊子</font>「ほ」の「三・四・五」<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />    ご覧の通り、あれは<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">矢印ではありません。</span></span>お濠と土手の<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">彩色ミスですね</span></span>。</font><font face="Times New Roman, serif">一枚物地図には</font><font face="Times New Roman, serif">似た様な</font><font face="Times New Roman, serif">漏れ欠けが結構ありますが、</font><font face="Times New Roman, serif">冊子の分割図では相当に補正がなされています。そんな一枚物図上の漏れ欠けが、秋庭さんの「暗号」とやらのネタ元になってるんですけどね。<br /><br />    </font>        矢印②の先には 「北白川御銅像」 とある。つまり、北白川宮の 「宮」がないのである。ここ<br />          で明治という時代について、いまさら私が説明する必要はないと思う。こういうことが単なるミ<br />          スではすまなかった時代である。また、ほとんどの読者は「御銅像」という言葉を初めて目にし<br />          たのではないだろうか。ふつうは、銅像に「御」はつけないものだからである。<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />   「北白川御銅像」が「北白川宮」のことだとどうして判るのか?<br /><br />           </font>矢印③には「近衛歩兵第一旅団司令部」とある。しかしながら、鴎外はこれを「近衛歩」で改<br />          行し、以下、「兵第一」「旅団司」「令部」という、不思議な改行をくりかえしている。なぜ、最<br />          後の行にまとめて「司令部」と書かないのだろう。しかも当時、そこにあったのは旅団司令部で<br />          はなく、近衛師団司令部だったのである。<font face="Times New Roman, serif"><br /><br />    なんで、師団司令部と旅団司令部の位置の違いが判るのか?<br /><br />          </font>「梨本宮」「宮内大臣」などとあるが、通常、地図では「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すも<br />          のである。しかも、その邸宅の建物どころか、位置を示すポイントもないから、どこにその邸宅<br />          があるのかもわからない。<br /><br />   なんで、──「梨本宮邸」「宮内大臣邸」などと記すもの──「邸」が付くものだと判ったんだろう?<br /><br />   ひょっとして、この秋庭さんが大好きな「小林又七謹製」内務省の地図でもご覧になったのかしら。<br /><font face="Times New Roman, serif"><br /><img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%94%E5%B9%B4%E9%80%93%E4%BF%A1%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E7%95%AA%E5%9C%B0%E7%95%8C%E5%85%A5%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%85%A8%E5%9B%B3.jpg" alt="" /><br /><br />                                          明治44年番地界入東京全図(東京逓信管理局製作著作 小林又七発行)<br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">  でも、これをご覧になっていたのなら。<br />   いや、絶対ご覧になっていますよね(笑<br />   だって、秋庭さんの書いておられる司令部の位置とか「宮」とか、「邸」とかの「情報、状況」が判る地図資料って、「番地界入東京全図」の他にないじゃありませんか(笑</span></span><br /><br />           </font> また、矢印④の先には 「愛生」とあるが、当時、そこにそのような町は存在せず、それ以前も<br />          以後もそのような町はなかった。つまり、それは鷗外が作った架空の町名である。<br /><font face="Times New Roman, serif"><br />    なんて<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">お馬鹿なこと</span></span>は<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">普通は</span></span>お書きにならないはずですよね。だって、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「愛生」</span></span><span style="font-size:x-large;"><span style="font-size:medium;">って</span></span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">病院名</span></span><span style="font-size:medium;">ですものね。<br />   それが何で?</span></font><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"><font face="Times New Roman, serif">「</font>それは鷗外が作った架空の町名である。」</span></span><font face="Times New Roman, serif">になるんでしょうか?<br /><br /><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         </span><strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">〝鷗外コード〟を読み解く</span></strong><br />           すなわち、この地図は特別な目的のために作られている、と考えられるのである。かつてレオ<br />          ナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」などに残した暗号が〝ダ・ヴィンチ・コード〟なら、こ<br />          の地図の多くの謎は〝鷗外コード″と呼べるのではないだろうか。本書は、そのコードを解き明<br />          かそうというものである。<br />           本書付録としてカラーの「東京方眼図」がある。鷗外がわざわざカラーで印刷していることか<br />          ら、赤い色にテーマがあると想像できる。道路の上に延びている赤い筋は、当時開通したばかり<br />          の路面電車、のちの都電のルートである。筋の途中にある赤丸は、都電の停留所があったところ<br />          だ。ここで、左の図の銀座周辺をご覧いただきたい。<br />           都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中<br />          には都電の停留所を示す赤丸もある。だが、路面電車が水の中を走るはずもなければ、水の中に<br />          停留所があるわけもない。こういうとき、この筋は地下鉄のルートを表していると解釈されると<br />          思う。常識をもって考えれば、ほかには解釈が存在しないだろう。東京には戦前の早い時期から<br />          地下鉄が走っていたのである。<br />           つまり、この地図は東京の地下を描くという、特別な目的のために作られていた。それは当然<br />          のことながら〝公式の歴史″とは異なっているが、本書はかつて江戸という都市がどのように築<br />          かれ、明治時代にその地下がどう改造され、また、鷗外がそれにどうかかわっていて、なぜ、鷗<br />          外がこのような地図を作るに至ったかということを、歴史上の文書、資料、法律などから解明し<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ようというものである。</span><font face="Times New Roman, serif"><br /></font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">                                                  (森鷗外の「帝都地図」 8頁)<br /><br />   以前にも申し上げたけれど。</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">〝ダ・ヴィンチ・コード〟</span></span>なんて言葉が出てきた時点で、お話の<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">信憑性が</span></span>格段に<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">落ちる</span></span>から<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">〝ダ・ヴィンチ・コード〟</span></span>云々何てお<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">止めなさい</span></span>と。<br />   ましてや、原本からじゃない、<span style="font-size:x-large;">坂崎重盛著「一葉からはじめる東京町歩き」</span>の<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">附録</span></span>から秋庭さんが得意技で<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「駄ビング」</span></span>しまくった地図、即ち同一性が保証されていない<span style="font-size:x-large;">図版資料で</span>「地下妄」を<span style="font-size:x-large;">〝鷗外コード″</span>たらと言われて語られても、そりゃあもう、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">“論外コード”</span></span>だよねと言うしかないんですが。<br /><br />            <span style="font-size:x-large;">本書付録として</span>──坂崎重盛著「一葉からはじめる東京町歩き」から<span style="color:rgb(255,0,0);">パクって来た</span>──<span style="font-size:x-large;">カラーの「東京方眼<br />        図」がある。</span><br />            (中略)<br />            ここで、左の図の銀座周辺をご覧いただきたい。<br />            都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中<br />           には都電の停留所を示す赤丸もある。だが、路面電車が水の中を走るはずもなければ、水の中に<br />           停留所があるわけもない。こういうとき、この筋は地下鉄のルートを表していると解釈されると<br />           思う。常識をもって考えれば、ほかには解釈が存在しないだろう。 <br /><br />    と仰る「左の図」なるもの、帝国ホテルの東側まで外濠が来ているとされる、本文の9頁に挙げられているこの図です。<br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%99%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E8%AB%96%E5%A4%96%E3%81%AA%E9%83%A8%E5%88%86%E5%9B%B3.jpg" alt="" /><br />   上で説明しましたが、「森林太郎立案 東京方眼圖」は、一枚物の地図と、174頁の索引部と26枚の一枚物地図を分割して綴り込んだ冊子か らなっています。一枚物地図と冊子は一体不可分なものです。なので、その冊子に綴り込まれた分割された秋庭さん曰くところの「銀座周辺」を<font face="Times New Roman, serif">、明治42年“発表”(笑 の「</font><font face="Times New Roman, serif">東京方眼圖」</font>から挙げておきます。<br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E7%89%88%E5%86%8A%E5%AD%90%E5%88%86%E5%89%B2%E5%9B%B3%E7%89%88%E3%81%BB%E4%B8%83%E7%B8%AE%E5%B0%8F.jpg" /><br /><br />    画像が小さくてよく判らないかもしれないので、<br /><br />           都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中<br />           には都電の停留所を示す赤丸もある。<br /><br />    と秋庭さんが主張される該当部分、帝国ホテルの東側をもう少し拡大してお目に掛けます。<br /><br />           <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=156&amp;file=%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E7%89%88%E5%86%8A%E5%AD%90%E5%88%86%E5%89%B2%E5%9B%B3%E7%89%88%E3%81%BB%E4%B8%83%E9%83%A8%E5%88%86.JPG" /><br /><br /><br />    はて?「ほ」の「七」方眼のどの辺に<br /><br />           都電を表す赤い筋が、グリーンで描かれた外堀の中へと延びている。矢印のように、外掘の中<br />           には都電の停留所を示す赤丸もある。<br /><br />  が、あるものやら?<br /><br />                                                             OP:平成24年2月14日</p>

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