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第一章「鷗外の地図が見つかった」ってことで。仕込んじゃいましたぁ!」(2012/05/15 (火) 12:29:30) の最新版変更点

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<h2>第一章「鷗外の地図が見つかった」ってことで。仕込んじゃいましたぁ!<br />  </h2> <p><br /><br />   テレビ制作業界では、捏造することを「仕込む」と言うようで報道バラエティーとかでも結構やっておられるようです。でっ、そんなテレビ制作業界出身の秋庭さんですからお書きになっていることほぼ総てが、捏造、歪曲、改竄と「仕込み」のオンパレード。<br />   今回の──森鷗外の「帝都地図」隠された地下網の秘密──白眉はこれでしょうか。<br /><br />           <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><b>鷗外の地図</b></span><br />          「鷗外の地図が見つかったんですよ」<br />           扉を開けると同時に声をかけられた。二〇〇三年のことである。当時の文京区立本郷図書館の<br />          一角には森鷗外の記念室があったから、私はすぐに後ろを向いた。記念室の窓に明かりがあった。<br />          「地図、ですか」<br />           借りていた本をカウンターに載せ、私はもう一度、振り向いた。文豪で、軍医で、鷗外は語学<br />          も達人だったと聞いてはいたが、地図まで作っていたとは知らなかった。<br />          「見ますか」と聞かれたときは驚いた。<br />          「ぜひ」という声に力が入ってしまった。図書館の人とはみな懇意にしていたから、<br />          「たぶん、記念室にとっては十年に一度の大ニュースですね」<br />           廊下を歩きながら、そんなことをいった。<br /><br />    <span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」との出会い2003年ですか?</span>2008年以前には「東京方眼圖」の「と」の字、おくびにも漏らされておられなかった秋庭さん。<br />   秋庭さんが、<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」に言及されたのは、2008年10月(配本9月)二見書房刊「大東京の地下400年99の謎」が初出でしたよね。</span><br />   今回前半で多用された<span style="font-size:x-large;">「ミュンスター」</span>の話なんかも<span style="font-size:x-large;">初出</span>は、<span style="font-size:x-large;">2008年9月</span>でしたかね?<br /><br />   2008年10月(配本9月)二見書房刊「大東京の地下400年99の謎」でのミュンスターと千代田区辺の外濠との比較では「東京方眼圖、東京方眼圖」と喚き倒しておられながらも「東京方眼圖」はおろか図と名の付くものはお示しにならなかった。別の頁で歪な「正五角形」を描くために「東京方眼図」を使われておられましたけれど。<br /><br />   「ミュンスター」初出はコミック版の「実録コミック 東京地下(迷宮)の謎」18頁のこんな図でしたかしらん。、2008年9月はでしたかね?もちろん無断複製で掲載ですよね(笑<br /><br />   <br /><br /><br />            <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%98%E5%B9%B4%EF%BC%98%E6%9C%88%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E8%BF%B7%E5%AE%AE%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC.jpg" alt="" /><br /><br />   複写元の書名“Festungsbau-Kunstund-Technik” 綴り、お間違えでしたっけ?“Festungsbau - Kunst und Technik”と確か当時指摘させていただいたような(笑  <br />   今回は出典を書かれず、「参考文献」で綴りは正しくお届けのようですが、<br /><br />            Hartwig Neumann 『Festungsbau - Kunst und-Technik』 Area Verlag,2004<br /><br /><span style="font-size:x-large;">当時は</span><span style="font-size:x-large;">昭文社あたりの</span>2007年版<span style="font-size:x-large;">地図</span><span style="font-size:x-large;">をお使い</span>でしたよね?<span style="font-size:x-large;">2003年に「東京方眼圖」から地図の複製を取られたはずなのに。</span><br /><br />   それが<span style="font-size:x-large;">今回は</span>比較図として、<span style="font-size:x-large;">坂崎氏の「一葉からはじめる東京町歩き」</span>(実業之日本社2004年刊)<span style="font-size:x-large;">からパクッた地図</span>からこんな図を…。<br /><br />            <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%A8%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E7%9B%97%E7%94%A8%E5%9B%B3.jpg" /><br /><br />   で、ミュンスターの図パクリ元の“Festungsbau - Kunst und-Technik”さしずめ「要塞建築 美と技」とでも訳すんでしょうか?これもドイツで2004年10月刊ですね。<br />   <span style="font-size:x-large;">ずいぶん長くかかられたんですねぇ。お勉強とご調査に</span>(笑<br />   <span style="font-size:x-large;">何で2003年</span>なんですか?<br /><br />  <span style="font-size:x-large;"> 坂崎氏の「一葉からはじめる…」(<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="background-color:rgb(255,255,255);">2004年刊</span></span>)</span>、<br /><br />   だからですか(笑<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">           「鷗外の地図が見つかったんですよ」<br />           <span style="font-size:x-large;">扉を開けると</span>同時に声をかけられた。<br /></span><br />  <span style="font-size:x-large;"> どの扉</span>を開けたんですか?「森鷗外記念本郷図書館」の玄関の扉ですか?<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">           一角には森鷗外の記念室があったから、私はすぐに<span style="font-size:x-large;">後ろを向いた。記念室の窓に明かりがあった。</span><br />            「地図、ですか」<br />           借りていた本を<span style="font-size:x-large;">カウンター</span>に載せ、私は</span><span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(51,102,255);">もう一度、振り向いた。</span></span><br />                (中略)<br /><span style="color:rgb(51,102,255);">           <span style="font-size:x-large;">廊下を歩きながら、</span>そんなことをいった。</span>(記念室に向かう廊下があったんですか?)<br /><br />    <span style="font-size:x-large;">鷗外記念室</span>は<span style="font-size:x-large;">一体何処に</span>あったんですかね?<span style="font-size:x-large;">位置関係すごくおかしい</span>んですが。<br /><br /><br />           初めに室長の部屋に通され、「この本を書かれた方です」と職員に紹介された。室長の机の上<br />          には、私の書いた『帝都東京・隠された地下網の秘密』がおかれていた。お祝いの言葉を述べる<br />          とすぐに私は事務室に通され、壁に張られた地図を見上げた。このときのことは、いまでもよく<br />          覚えている。しばらくのあいだ、私は感想を口にすることもできなかった。<br /><br />    秋庭さんの記事からは鷗外記念室というのは室長室と事務室からなっているようなんですが、展示室もあったんですよね、「新発見鷗外の地図」って企画展を されたと言う展示室もあったんですよね。展示室と室長室と事務室って一階にそんなにスペースがあったんでしょうか?一階。本郷図書館のカウンターとか一般の 書架とかもあったんですよね一階。<br />   展示室と室長室と事務室の位置関係ってどうなってたんでしょうか?<br /><br />   「森鷗外記念本郷 図書館」が「本郷図書館」として鷗外ゆかりの観潮楼跡地から移転したのが2006年でしたよね。で図書館が入っていた建物に「鷗外記念室」が残って、これ が2008年4月に休館(室)して今年(2012年)鷗外生誕150年の年に、同地に森鷗外記念館として再開する予定です。<br />    秋庭さんが、「東京方眼圖」に言及されたのは、2008年10月が最初ですよね。地元ですから本郷図書館は利用されたことはあったんでしょうけれど、ひょっとして、鷗外記念室すなわち展示室に入ったこと無いんじゃないですか?<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">         室長の机の上には、私の書いた『帝都東京・隠された地下網の秘密』がおかれていた。</span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">何で</span>、誂えた様に秋庭さんの(当時の)最新刊が室長さんの<span style="font-size:x-large;">机の上にあった</span>んでしょうか?誰かの<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「仕込み」</span></span>ですか(笑<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">         お祝いの言葉を述べるとすぐに私は事務室に通され、</span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">事務室を通って室長室に入られた</span>んじゃなかったんですか?<span style="font-size:x-large;">廊下と室長室と事務室との位置関係</span>レイアウトが<span style="font-size:x-large;">すごく好い加減</span>なんですが。って言うか?何で室長と面通しなんでしょうか?<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">         壁に張られた地図を見上げた。<br /></span><br />   すっごく違和感があったんですよね。「壁に張られた地図」、地図を壁に貼る必然ってなんですか?貼る剥がす、で<span style="font-size:x-large;">一番汚損のリスクの高い壁に貼る</span>なんて行為を<span style="font-size:x-large;">貴重な地図で何故やる</span>のか?<br />   記念室にとって、とても貴重な一枚ものの東京方眼圖なんですよね、いくら大きめとは言え新聞全紙に満たない地図壁に貼らずとも大き目の作業机に広げて、検証が終われば元の通りに折り畳んで取り敢えず保存するか、大きな図書館によくある地形図なんかを保存する地図棚の引き出しに入れるかするんじゃないのでしょうか?秋庭さんが主張説明されるような「森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、」たにしては、<span style="font-size:x-large;">信じられない資料の取り扱い方</span>です。<br /><br />          一面に文字ばかり広がっている。それがすべて手書きで、思い思いの方向を向いている。「総<br />          理大臣」「大蔵大臣」などとあるが、それは人物を表す言葉である。「川上銅像」「大村銅像」と<br />          あるものの、位置を示す点がないから、どこに銅像があるかわからない。また、この地図には建<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">物がひとつもなく、赤い四角や旗のようなマークは、本来の地図記号には存在しないものである。</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 20頁)</span><br /><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">鉄道の線路も国鉄でもなければ私鉄でもなく、警察や郵便局のマークもない。つまり、この地図</span><br />          は地図の決まりにのっとっていないのである。<br /><br />    明治42年の民間の案内地図に「本来の地図記号」って何なのかなぁ?でっ、<span style="font-size:x-large;">2003年</span>これが<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」の初見</span>なんですよね秋庭さん。<br />   ところが、その3年後の<span style="font-size:x-large;">2006年頃</span>まで、<span style="font-size:x-large;">「戦前」は民間の地図作成は禁止されていた</span>とか秋庭さん<span style="font-size:x-large;">言いたくっていませんでしたか?</span>春陽堂刊の民間の地図「東京方眼圖」を見た後に執筆刊行された、2003年12月に出された<span style="font-size:x-large;">『帝都東京・隠された地下網の秘密[2]』でも</span>そう仰っていたし、2006年刊の<span style="font-size:x-large;">新潮文庫版でも記述を改めておられません</span>でしたよね。<br />   そんな秋庭さんがこんなことを書かれる、<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         <span style="font-size:x-large;">室長の机の上には、私の書いた『帝都東京・隠された地下網の秘密』がおかれていた。</span><br /></span><br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"> 「仕込み」</span></span>以外の何なんでしょうか?<br /><br />   ところでこれに続く室長の机の上にあったとされる「帝都東京・隠された地下網の秘密」(2002年11月洋泉社刊)由来の長いだけの中身のまるで無いモノローグ「ベトナムネタ」の粗悪な駄ビングについては、前項──<a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/157.html"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">第一章「鷗外の地図が見つかった</span>」ってことで。そこんとこ宜しく!</a>──で詳述しましたので中身も無いので、画面の無駄を省くため省略して、次ぎ行きます。<br /><br /><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><b>「東京方眼図」の〝公式の解釈〟</b></span><br />          扉の音がして室長が中に入ってきた。壁際にいた職員が机に戻り、私は改めてお祝いの言葉を<br />          述べた。地図の感想を尋ねられてから、十五分ほど経っていただろうか。そろそろ頭のなかが整<br />          理されていた。<br />          「この地図には森林太郎立案とありますけれども……」と切りだすと、<br />          「そうですね」<br />           室長はうなずいて壁に目をやった。私が尋ねようとしていることが、よくわかっている、とい<br />          うことらしかった。<br /><br /> 「扉の音がして室長が中に入ってきた。壁際にいた職員が机に戻り、私は改めてお祝いの言葉を述べた。」<span style="font-size:x-large;">だからぁ「森鷗外記念室の室長の部屋」ってどこにあるの?「森鷗外記念室室長」はどこから「森鷗外記念室の職員の部屋」に入ってきたの</span>でしょうか?<span style="font-size:x-large;">「職員の部屋」</span>も<span style="font-size:x-large;">「室長の部屋」</span>も相当に広そうなんですけれど、「文京区立森鴎外記念本郷図書館」の<span style="font-size:x-large;">一階ってどんだけ広かったんですか?</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"><br /></span></span><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         「ぜひ」という声に力が入ってしまった。図書館の人とはみな懇意にしていたから、</span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">図書館の人とみな懇意</span>だったことと、<span style="font-size:x-large;">鷗外記念室の人と懇意</span>だったことは<span style="font-size:x-large;">一致するんですか?</span>懇意だったとして<span style="font-size:x-large;">鷗外のことを研究している</span><span style="font-size:medium;">と</span>か、<span style="font-size:x-large;">明治の文壇事情を調べている</span>とかの<span style="font-size:x-large;">形跡も無い様な秋庭さん</span>に、何で図書館と<span style="font-size:x-large;">別立て</span>の部屋で<span style="font-size:x-large;">勤務</span>している<span style="font-size:x-large;">「鷗外記念室」の人</span><span style="font-size:x-large;">が声を掛けるんでしょうか、</span>「鷗外記念室の人」とも懇意だったんですか?でも「室長」とだけは懇意じゃなかったんですね?ふぅん。 <br /><br /><br />          地図に緯度と経度を書き入れるという手法は、一七七九(安永八)年の「改正日本輿地路程全<br />          図」で導入され、一八二一(文政四)年の伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」にも緯度と経度が<br />          入れられていた。明治政府もそれを引き継ぎ、当初から緯度、経度入りの地図を作っていたから、<br />          それは鷗外が考えたことではない。<br /><br /> 東京方眼図のどこに「緯度と経度を書き入れ」られていると?<span style="font-size:x-large;">描き込まれているのは方眼の縦横線</span>でしょ。敢えて言っても「緯線」と「経線」様の線<span style="font-size:x-large;">あくまでも「方眼の枠線」</span>ですよね、<br /><br />           そうすると、このとき鷗外は何を立案したのか? まず、私はそれを尋ねた。<br />          「この地図には縦に十一個、横に八個の方眼があります。縦には数字の番号、横には『いろは』<br />          がつけられていますから、『い四』『ろ五』などと方眼を特定することができます。鷗外は、これ<br />          に合わせて東京の地名を網羅した索引を編纂しました。<br />          『東京方眼図』という本は、二六頁の携帯用の地図と、一七〇頁あまりの地名索引の二部構成に<br />          なっています。索引で『日本橋』を引くと『に六』とありますから、地図で『に六』の方眼を見<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">れば、すぐに日本橋が見つかります。</span><br />                                          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 27頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />          </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">つまり、東京の町や村がどこにあるか、ひと目でわかるようになったということです。この地</span><br />          図によって、市民は初めて自由に東京を行き来できるようになった、といわれています」<br />           室長はそう説明した。<br />          「その本は明治時代に出版されたのですか」<br />          「そうです」<br />           室長がうなずいた。<br />          「つまり、鷗外が立案したのは、方眼と索引を対応させることだったんですか」<br />          「そう考えていいと思います」<br />           何となく、もっともらしく聞こえるが、その程度のことを鷗外は「自分が立案した」と大書す<br />          るだろうか。私の頭に疑問がわきだしてきた。その後の鷗外研究でも同じように解釈されている。<br />          つまり、室長の説明が〝公式の解釈″ということだが、私には納得できなかった。<br /><br />   <span style="font-size:x-large;">〝<span style="color:rgb(255,0,0);">公式の解釈</span>″</span>って<span style="font-size:x-large;">呆れた。</span>本物の<span style="font-size:x-large;">明治四十二年刊</span>「森林太郎立案 <span style="font-size:x-large;">東京方眼圖</span>」の冊子<span style="font-size:x-large;">表二部分に、</span>こんな紙が貼ってあります。<br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E8%A1%A8%E4%BA%8C%E4%BD%BF%E3%81%84%E6%96%B9.jpg" alt="" /><br /><br /><span style="font-size:x-large;">  ──此(この)書及圖のもちゐかた。「肴町」といふ處に往かんとおもはば、五十韻(おん)の順序にて、「サ」の部を順次に見るべし。六〇乃至(ないし)六一面に「サカナマチ」といふ町東京に三箇所あるを悉(ことごと)く記(しる)せり。本郷のならば「本郷區駒込」にて、圖の縦は「ほ」横は「二」の方眼内にあり。其他準(なぞら)へて知るべし。──</span><br /><br />   と書かれています。<span style="font-size:x-large;">鷗外何を立案したか「公式の解釈」も何も、</span>それこそ「鷗外が書いた」こんな<span style="font-size:x-large;">紙まで貼ってある</span>のに、<span style="font-size:x-large;">どの方向に持って行きたいんだか(笑</span><br />   ここまで、8割方は「室長」さんの説明も正確ですね。<br />   なお、「特選 名著復刻全集 近代文学館─作品解題─」(1971年刊)の稲垣達郎氏による東京方眼圖の復刻に当たってによれば、明治42年の初版時には冊子に誤丁の様なものがあり完本には以下の様に変更されたものが貼り込まれていたとのこと、<br /><br /><br />    最初のものの半分くらいで、文句もちがっている。右横<br />    書きで「本圖索引の注意」とある下に、八字を縦書き一行に、「本<br />    圖索引は之を五十音に依り編成したり故に検索の際例せば『銀座』<br />    若くは『中橋』を捜らんとせば『キ』の部或は『ナ』の部を引けば<br />    其部に(に六・七)乃至(は六)の指示を見るペく之に総て方眼圖<br />    の(に・六七)(は六)を索むれば其處に『銀座』若くは 『中橋』<br />    は一見の下に分明すべし」とある。<br /><br />  のだそうです。参考として上記しておきます。<br /><br /><br /><b>         索引と一致しない地図</b><br />           左はその『東京方眼図』の本の索引で、アイウエオ順の「イ」のページである。旧仮名遣いだ<br />          から、いまとなっては漢字のほうが読みやすいかと思う。初めの「イウラクチャウ」は有楽町、<br />          次の「イウレイザカ」は幽霊坂である。幽霊坂は三つあって、「に四」「へ四」「と三」とあるが、<br />          地図のページを見ると、ひと目で見つかるどころか、全然見つからない。幽霊坂はひとつとして<br />          載っていないのである。<br /><br />    秋庭さんが「<span style="font-size:x-large;">左はその『東京方眼図』の本の索引で、</span>…」と言うのは──森鷗外の「帝都地図」なんたら──の29頁の、この<span style="font-size:x-large;">日本近代文学館復刻</span>の「森林太郎発案 東京方眼圖」<span style="font-size:x-large;">から<span style="color:rgb(255,0,0);">パクって</span>来た</span>これのことですが、<br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%92%EF%BC%99%E9%A0%81%E7%B4%A2%E5%BC%95%E5%9B%B3%EF%BC%91%EF%BC%8D%EF%BC%91.jpg" alt="" /><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">狭い地図</span><span style="font-size:x-large;">の中に、</span>「坂の名前」個別に書いたら潰れるでしょ字が。だから<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」</span>のどこにもどんな<span style="font-size:x-large;">坂の名前</span>も一切<span style="font-size:x-large;">記されていません。</span><br /><br />          次の「イウレイザカ」は幽霊坂である。幽霊坂は三つあって、「に四」「へ四」「と三」とあるが、<br />          地図のページを見ると、ひと目で見つかるどころか、全然見つからない。幽霊坂はひとつとして<br />          載っていないのである。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">  「通り」の名前すら載っていない地図に「坂」の名が載ってなくて当たり前</span>で。だから<span style="font-size:x-large;">幽霊坂の位置については、</span>上の図にも「<span style="font-size:x-large;">イウレイザカ幽霊坂駿河台淡路町一丁目、淡路坂南隣、神田に四</span>」と「<span style="font-size:x-large;">イウレイザカ幽霊坂新坂、神楽坂逢坂間、 牛込へ四」と「イウレイザカ幽霊坂雑司ケ谷町豊川町間西端横町、小石川と三</span>」位置情報が<span style="font-size:x-large;">書き込まれている</span>わけでしょ。<br /><span style="font-size:x-large;">  </span><span style="font-size:x-large;">牛込の幽霊坂の「新坂」と言う別称</span>には、新しく拓かれた坂の意味があったのかもしれません、<span style="font-size:x-large;">だから索引の「シ」の項にも挙がっています。</span><br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E7%B4%A2%E5%BC%95%E6%96%B0%E5%9D%82.jpg" /><br /><br /><span style="font-size:x-large;">索引そのものをきちんと読まずに「ない、ない」と言い募られてもネェ。</span><br /><br />          「イキザカ/壱岐坂」「イキドノザカ/壱岐殿坂」という坂も、やはり地図の上にはない。「幾世<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">橋」もなければ「石嶋橋」もない。次のページの「市ヶ谷停車場」には「へ五」と書かれている</span><br />                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 28頁)</span><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">が、この地図には市ヶ谷駅もないのである。いまの中央線(当時は甲武線)は、この本が出版さ</span><br />          れる二十年も前に開業し、市ヶ谷駅はすでに存在していたが、鷗外はこの駅を載せていないので<br />          ある。<br /><br />   <span style="font-size:x-large;">鉄道駅</span>については、どの駅についても、<span style="font-size:x-large;">駅の位置付近に駅名が書き込まれているだけ</span>で、正確に特定されているわけではないし、当時の基準としてプライオリティーが今と違っていたので無かったのか?単に書き漏らしたのかも判らないんだから<span style="font-size:x-large;">、大体で「へ五」の辺で「市谷なんたら」とあって、鉄道線路上のどこかにあるって見当付くから地図に駅名が表示されてなくても当時の地図ユーザーにとってどうと言うことはないじゃないですか。<br /></span><br /><br />           この地図で市民が自由に東京を行き来できるようになった、ということだったが、本当にそう<br />          だろうか。<br />          「この本の大きさは、江戸時代の切絵図を参考にしたといわれていまして、一ページに三つの方<br />          眼が縦に並んでいます」<br />           室長が解説を続ける。<br />           とはいえ、この地図の方眼は縦に十一個、横に八個である。十一も八も、三では割り切れない。<br />          つまり、一ページに三個ずつ方眼を載せていけば、どうやっても余りが出るから、大きな空白が<br />          できてしまうことになる。案の定、左の図のように第一ページには「い二」の方眼しかなく、上<br />          下は空白である。<br />          上の部分の空白は、本来「東京方眼図」というタイトルの「東」という字が方眼いっぱいに、<br />          でかでかと書かれることになっていたが、それでは読者に違和感を与えるだけだからと、空白に<br />          したのではなかったのか。<br />          数が割り切れないのも、文字が大きすぎるのも、それはもともと、この地図が本として出版す<br />          るために作られていたのではなく、大きな一枚図が初めに完成していて、それを多少強引に携帯<br />          用の本に収めようとしたため、このような不体裁になったように思えてならない。<br />          いまの〝公式の解釈〟では、『東京方眼図』は方眼と索引を対応させたことが画期だとされて<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">いるが、それならなぜ、区名や町名が方眼をまたがって書かれているのだろう。</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 30頁)<br /><br />    何か<span style="font-size:x-large;">どこかの解説からの無断転載</span>かなんかなのか知れないけれど、<span style="font-size:x-large;">「室長」の話を勝手に膨らましすぎじゃないですか?</span><br /><br /></span><span style="color:rgb(255,0,0);">        「この本の大きさは、江戸時代の切絵図を参考にしたといわれていまして、一ページに三つの方<br />          眼が縦に並んでいます」<br /></span><br />    「<span style="font-size:x-large;">この本の大きさは、江戸時代の切絵図を参考に</span>…」どこの解説書にそんなことが?「<span style="font-size:x-large;">菊縦半裁変型本、いわゆる袖珍本よりやや長め</span>」(「特選 名著復刻全集 近代文学館─作品解題─」稲垣達郎氏)の<span style="font-size:x-large;">どこが「江戸時代の切絵図」なんだか?</span>本当に「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物は<span style="font-size:x-large;">そう言ったのか?</span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /></span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         </span>それはもともと、この地図が本として出版するために作られていたのではなく、大きな一枚図が初め<br />          に完成していて、</span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /><span style="font-size:x-large;">  誰かそれを否定したんですか?</span>27頁に戻りますが、「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」に「口寄せ」させたこの説明でも「<span style="font-size:x-large;">この地図</span>(一枚もの地図)」に「<span style="font-size:x-large;">合わせて東京の地名を網羅した索引を編纂し</span>」、「<span style="font-size:x-large;">本は…一七〇頁あまりの地名索引</span>」<span style="font-size:x-large;">と言っている</span>じゃありませんか。<br /><br /></span>        「この地図には縦に十一個、横に八個の方眼があります。縦には数字の番号、横には『いろは』<br />          がつけられていますから、『い四』『ろ五』などと方眼を特定することができます。鷗外は、これ<br />          に合わせて東京の地名を網羅した索引を編纂しました。<br />          『東京方眼図』という本は、二六頁の携帯用の地図と、一七〇頁あまりの地名索引の二部構成に<br />          なっています。索引で『日本橋』を引くと『に六』とありますから、地図で『に六』の方眼を見<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">れば、すぐに日本橋が見つかります。</span><br />                                          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 27頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />          </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">つまり、東京の町や村がどこにあるか、ひと目でわかるようになったということです。この地</span><br />          図によって、市民は初めて自由に東京を行き来できるようになった、といわれています」<br />           室長はそう説明した。<br /><br />    どうしても<span style="font-size:x-large;">一枚もの</span>の<span style="font-size:x-large;">地図</span>が、<span style="font-size:x-large;">2003年に</span>「鷗外記念室」で<span style="font-size:x-large;">発見されて</span>、それに<span style="font-size:x-large;">自分が</span><span style="font-size:x-large;">立ち会った</span><span style="font-size:x-large;">ことにした</span>いようですね<span style="font-size:x-large;">秋庭さん</span>としては、<br /><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">        </span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> そもそも、当時の市民が行ってみたいと思っていたところは、三越や銀座のカフェー、浅草十</span><br />          二階(凌雲閣)などだったが、「方眼図」にはどれも載っていない。また、当時の路面電車には路<br />          線名があって、どれに乗れば新宿に行けるとか、渋谷に行くにはどこで乗り換えるという情報が<br />          不可欠だったが、「方眼図」には路線の区別もなければ停留所名もない。この地図を使って、ど<br />          こにどうやって行けというのだろう。<br /><br />   この<span style="font-size:x-large;">地図の刊行</span>(秋庭式では発表)は<span style="font-size:x-large;">明治42年6月</span>でしたかしらん?三越が「<span style="font-size:x-large;">今日は帝劇明日は三越</span>」と謳われたのが<span style="font-size:x-large;">大正2年</span>、5階建てだかの百貨店本館が大正3年の竣工。<span style="font-size:x-large;">銀座のカフェー</span>も<span style="font-size:x-large;">明治44年</span>がその起源。<span style="font-size:x-large;">浅草十二階</span>はこの時期寂れに寂れてたんじゃなかったかしら。<span style="font-size:x-large;">昇るより眺める</span>んだったら、<span style="font-size:x-large;">浅草に行けばいい</span>んじゃないのかな?銀座のカフェーなんて当然劇場より小さいんだから明治42年に存在しても描き込みようが無いかと思うんですが。<br /><br /><br />           だいたい、市民が東京を行き来するための地図なら、路面電車の会社にでもまかせておけばよ<br />          いことである。デフォルメした路線図で十分、正確な地図を作る必要もない。文豪であり、軍医<br />          でもあった鷗外が、そんな地図を作るために労力を割くだろうか。この地図はそんな目的のため<br />          に作られたものではなかったはずである。<br /><br />    まったくその通り「だいたい、市民が東京を行き来するための地図なら、路面電車の会社にでもまかせておけばよいことである。デフォルメした路線図で十分、正確な地図を作る必要もない。」だから、<br /><br /><font face="Times New Roman, serif">         </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">つまり、東京の町や村がどこにあるか、ひと目でわかるようになったということです。この地</span><br />          図によって、市民は初めて自由に東京を行き来できるようになった、といわれています」<br />           室長はそう説明した。<br /><br />    ここまでは何から引いたか判りませんが「森鷗外記念室室長」の「発言」は正しい、「江戸時代の切絵図を参考に…」を除いては。秋庭さんが突っ込むようなおかしな話ではありませんね。</p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;">          <b>分割された地図と一枚図の地図</b><br />          「つまり『東京方眼図』という本では、地図がこまかく分割されていましたから、大きな一枚図<br />          を見た人はほとんどいなかったはずです」<br />           室長が顔を上げ、話を続けた。<br />          「当時、一枚図も出回っていたという方もおりますが、当記念室では、そのような事実は確認で<br />          きていません。また、本の地図を切って貼り合わせれば一枚の大きな地図ができたでしょうが、<br />          そのようなことをした例も確認できていません」<br />           「そうですか」<br />           室長の口調に押されて、私は相槌を打った。<br /><br /> 「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物が、どの様な方なのか?文京区の学芸員の方なのか?別途にお仕事を持たれていて、文京区から「森鷗外記念室」の運営を委託されていた「森鷗外記念会」に参加されていた研究者の方なのか、<span style="font-size:x-large;">その正体が良く分からない</span>のですがいづれにしても<span style="font-size:x-large;">その様な立場の方なら絶対に仰らないようなことを、秋庭さんは仰ったと言っておられます。</span><br /><br /><br />           <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%9B%B8%E5%8D%B0.jpg" /><br /><br />   これは、<span style="font-size:x-large;">明治42年春陽堂刊森林太郎立案東京方眼圖の索引(分割地図入り)の中表紙です。</span>「大阪府立図書館 <span style="font-size:x-large;">明治四十二年八月十八日</span>」との<span style="font-size:x-large;">蔵書印が捺されて</span>います。<br /><br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E4%B8%80%E6%9E%9A%E7%89%A9%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%9B%B8%E5%8D%B0.jpg" /><br /><br />   こちらは、<span style="font-size:x-large;">明治42年春陽堂刊森林太郎立案東京方眼圖の一枚もの</span>の方ですが、こちらにも、「大阪府立図書館 <span style="font-size:x-large;">明治四十二年八月十八日</span>」との<span style="font-size:x-large;">蔵書印が捺されて</span>いますね。<span style="font-size:x-large;">蔵書の管理番号も</span>、“24987”と<span style="font-size:x-large;">同一</span>になっています。本来は80cm×56cmの図版なんですが、秋庭さんにもこの蔵書年月日とこれが一枚もの東京方眼図だと解るように折り畳んだ状態でコピーしたものです(もちろん図書館所蔵の地図類は著作権保護期間が切れたものでも全体を複写することが許されていないことも踏まえてのことですが)。なお、索引冊子と、一枚もののこの明治42年版は、現在は「大阪府立中央図書館」に所蔵されています。明治42年の刊行時一枚ものの地図と索引と分割地図が収められた冊子はほぼ一体として売られていたものと思われます。<br />   また、一枚ものの地図の存在は鷗外自身が、明治43年刊の「青年」の中で書いていますよね。<br /><br />    純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。二三歩すると袂から方眼図の小さく折ったのを出して、<br />    見ながら歩くのである。<br /><br />   索引冊子は「小さく折ったの」って訳にいきませんものね。<br />   つまり、「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物の<br /><br />           「つまり『東京方眼図』という本では、地図がこまかく分割されていましたから、大きな一枚図<br />          を見た人はばとんどいなかったはずです」<br />           室長が顔を上げ、話を続けた。<br />          「当時、一枚図も出回っていたという方もおりますが、当記念室では、そのような事実は確認で<br />          きていません。また、本の地図を切って貼り合わせれば一校の大きな地図ができたでしょうが、<br />          そのようなことをした例も確認できていません」<br /><br /><span style="font-size:x-large;">と言う発言は</span>、彼が学芸員か或いは研究者かの類の人物であれば<span style="font-size:x-large;">絶対するはずが無いのです。</span>そして、<span style="font-size:x-large;">秋庭さんに</span>わざわざこんな<span style="font-size:x-large;">説明をする必然も皆無</span>です。だって、<span style="font-size:x-large;">嘘をついてこんな風に</span>そのことをさっき“ノンフィクション”の著書まで見ちゃった<span style="font-size:x-large;">作家、秋庭さんに書かれたら、</span>学芸員としての或いは研究者としての<span style="font-size:x-large;">信用ゼロになっちゃいますからね(笑</span><br /><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「戦後しばらくしてから、戦前の地図集が編纂されることになりまして、その会議に私も記念室</span><br />                                       <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 32頁)</span><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">の一員として出席し、『東京方眼図』も入れてほしいと主張しましたが、こま切れの地図だから</span><br />          ということで除外されてしまいました。そういうことなら、一枚図を探そうということになりま<br />          した。誰だってこま切れの地図を作るはずはありませんからね。どこかに一枚図があるはずと思<br />          い、記念室をあげての大捜索が行なわれました」<br />           鷗外の自宅の書庫はもちろんのこと、出版社や鷗外の立ち回り先、親族の家も一軒一軒訪ね歩<br />          いて探したが、見つからなかったという。それなら、本の地図をコンピュータに取り込んで一枚<br />          につなげようという話も出たそうだが、本が古くて紙が歪んでいるため、うまくつながらないと<br />          業者に断られたという。<br /><br />  <span style="font-size:x-large;"> 「室長」一体何歳だよ(笑</span><br /><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         「戦後しばらくしてから、戦前の地図集が編纂されることになりまして、</span>…」<br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /> 「<span style="font-size:x-large;">戦後しばらく</span>」ってどの戦後?「湾岸戦争」かしらん(笑 <span style="font-size:x-large;">もう完全に秋庭さんの時間感覚</span>じゃないですか。</span>「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物がもし普通の時間軸で生きておられるなら<span style="font-size:x-large;">絶対にその口から出てこない表現、</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 「戦後」とか「戦前」とかって<span style="font-size:x-large;">漠然としたおかしな時制持ち出して</span>読者の<span style="font-size:x-large;">錯誤を期待</span>するのって、完全に秋庭史観と言うか「<span style="font-size:x-large;">秋庭時空</span>」(笑 大東亜戦争が1945年に敗戦で終わってからどの辺あたりまでを「戦後しばらく」って言うのかしらん?</span>東京五輪の1964年頃?その時点で戦後19年経ってますけど(笑<br />  で、2003年ってそれから更に39年後ですよ。流石に「明治」の前の元号を「江戸」と言う秋庭さんならではの書きっぷりで(笑<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「戦後しばらくしてから、戦前の地図集が編纂されることになりまして、その会議に私も記念室</span><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">の一員として出席し、『東京方眼図』も入れてほしいと主張しましたが、こま切れの地図だから</span><br />          ということで除外されてしまいました。 </span> <br /><br /><span style="font-size:x-large;">   「戦前の地図集の編纂」なら、本来の地図の作成者とか研究者とかがやる話でしょ?なんで「森鷗外の研究」それも「文学的業績」を主に管理していた鷗外記念室の出る幕があったんでしょうか?</span><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          鷗外の自宅の書庫はもちろんのこと、出版社や鷗外の立ち回り先、親族の家も一軒一軒訪ね歩<br />          いて探したが、見つからなかったという。</span><br />          <br />   「<span style="font-size:x-large;">鷗外の自宅の書庫</span>」ってどこ?「<span style="font-size:x-large;">森鷗外記念文京区立本郷図書館</span>」って昭和37年に<span style="font-size:x-large;">鷗外の</span><span style="font-size:x-large;">自宅、</span><span style="font-size:x-large;">終の棲家</span>だった「<span style="font-size:x-large;">観潮楼</span>」が<span style="font-size:x-large;">戦災で焼けた跡地に建てられた</span>んじゃなかったのかしらん?「<span style="font-size:x-large;">森鷗外記念室室長</span>」さんはそれを<span style="font-size:x-large;">すっかり忘れておられる</span>ようですけど(笑<br /><br /> 「出版社」って「春陽堂」さん?秋庭さん今回坂崎氏の縮尺「東京方眼図」(実業之日本社刊)を無断複写するに当たり、ちゃんと「春陽堂」さんに仁義きった?<br /><br />  <span style="color:rgb(255,0,0);">         鷗外の自宅の書庫はもちろんのこと、出版社や鷗外の立ち回り先、親族の家も一軒一軒訪ね歩<br />          いて探したが、見つからなかったという。</span><br /><br />   出版社や鷗外の立ち回り先、親族の家も一軒一軒訪ね歩いて探したけれど、国立国会図書館と、日本近代文学館と京都府立図書館と大阪府立図書館は確認しなかったのね(笑<br />   「鷗外の立ち回り先、」鷗外犯罪者扱いかよ(笑<br /><br />          「その一枚図がこのたび出てきたというわけです」<br />           室長の顔がほころんだ。<br />          「ご存じのように、このたび記念室が移転することになりまして、書庫の整理をしていましたと<br />          ころ、突然、この地図が出てきました。書庫の底で眠っていたということです。親族の方のお話<br />          では、これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがないということでした。つま<br />          り、一枚図を見た人はいないということで、記念室としましては〝初公開″と銘打って展示をし<br />          ようかと検討しているところです」<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   一体いつの話よ?</span><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          「ご存じのように、このたび記念室が移転することになりまして、書庫の整理をしていましたと<br />          ころ、</span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">これ2003年の話でしょ?</span>記念室と言うか、<span style="font-size:x-large;">本郷図書館の分離は2006年。</span>その時<span style="font-size:x-large;">記念室は</span>そのまま旧森鷗外記念文京区立本郷図書館に<span style="font-size:x-large;">残って、</span><span style="font-size:x-large;">2008年に</span>記念館建設のため<span style="font-size:x-large;">一旦閉館</span>ですよね。2006年の「本郷図書館の移転」以外に<span style="font-size:x-large;">2003年に「ご存じのようにこのたび記念室」一体どこに移転するんですか?</span><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          「ご存じのように、このたび記念室が移転することになりまして、書庫の整理をしていましたと<br />          ころ、突然、この地図が出てきました。書庫の底で眠っていたということです。親族の方のお話<br />          では、これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがないということでした。つま<br />          り、一枚図を見た人はいないということで、記念室としましては〝初公開″と銘打って展示をし<br />          ようかと検討しているところです」<br /></span><br />    こんなことなんで<span style="font-size:x-large;">初対面の秋庭さんに話さにゃならんの</span>でしょうか、<span style="font-size:x-large;">極めて説明的に(笑</span><br />   <br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         親族の方のお話では、これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがないということ<br />          でした。</span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">  一体いつこの地図は発見されたの</span>でしょうか?「親族の方のお話」ということは、<span style="font-size:x-large;">秋庭さんに大公開する前に、親族から話を聞いている訳</span>だから、<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが見る</span><span style="font-size:x-large;">何日か前に発見されたのかな?</span>で、その間ずっとこの<span style="font-size:x-large;">貴重な地図は</span>事務室の<span style="font-size:x-large;">壁に</span>貼られて<span style="font-size:x-large;">野晒しですか(笑</span><br /><br />           いまどき、それくらいは当然のキャッチコピーだから躊躇するには及ばない──そのとき、私<br />          はそんなことを述べたが、いま思えば、それはこの地図のことも、室長のことも、何もわかって<br />          いなかったからである。<br /><br />    大丈夫か秋庭さん?「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物の<span style="font-size:x-large;">発言でっち上げて。<br /><br /></span> <span style="color:rgb(255,0,0);">        いま思えば、それはこの地図のことも、室長のことも、何もわかっていなかったからである。</span><br /><span style="font-size:x-large;"><br />   </span>誰が読んでも捏造じゃん。と言うか<span style="font-size:x-large;">以下は</span>只管「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物<span style="font-size:x-large;">への誹謗中傷、人格の否定と毀損</span>ですが、<span style="font-size:x-large;">人権侵害とか大丈夫なんでしょうか?</span><br /><br />          それから十年、私は「東京方眼図」について調べ続けているが、このときの室長の話は嘘では<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ないものの、首をかしげたくなるようなことが少なくない。まず、初めに挙げておかなければな</span><font face="Times New Roman, serif"><br />                                        </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 33頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br />          </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">らないことは、二十年も前にすでに一枚図が出版されていたということである。</span><br />          一九八四(昭和五十九)年、日本近代文学館から名著復刻全集の一巻として『東京方眼図解<br />          説』という本が出版されている。この本に一枚図がついていた。本書巻末についている地図と同<br />          じものである。ところどころ、方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれているものの、地<br />          図の輪郭と文字はまったく同じで、一般の人には真偽の見分けがつかないと思う。その本の解説<br />          には、次のようにある。<br /><br />            『東京方眼図』は一枚ものと帖仕立本と、両方そろわないと不完全なのだ。帖仕立本も稀観<br />           にぞくするようになったが、一校図の方は、さらに稀観である。稀観中の稀観といえるだろ<br />           う。</p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;">          つまり、明治時代に出版された『東京方眼図』という本には一枚図がついていなかった。が、<br />          それでは不完全だから、「復刻版」ではそれをつけたということである。<br />           ただし、この一枚図は、印刷の専門家が見ると、オリジナルの完成図の版下を使って地図と文<br />          字を作ったあと、赤色の部分を新たに書き足しているため、寺院マークの形や大きさなどが少し<br />          違っているということである。<br /><br /> あらあら、<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><font face="Times New Roman, serif">        </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">…、二十年も前にすでに一枚図が出版されていたということである。</span><br />          一九八四(昭和五十九)年、日本近代文学館から名著復刻全集の一巻として『東京方眼図解<br />          説』という本が出版されている。<br /></span><br /><br />   何かすごい話になってますねぇ。<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」</span>の<span style="font-size:x-large;">一枚図</span>が<span style="font-size:x-large;">復刻</span>されたのは秋庭さんが<span style="font-size:x-large;">「鷗外記念室」で一枚物が見つかったと称される時を遡ること二十年前ではありません。</span>日本近代文学館から「特選名著復刻全集近代文学館」の30巻として「東京方眼圖」が復刻された最初は1971年(昭和46年)、2003年を遡ること<span style="font-size:x-large;">32年前に</span>図書月販を発売元として<span style="font-size:x-large;">なされています。</span>以降何回か復刻がなされ、<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが図書館で見繕った1984年の復刻分は最晩期のものです。</span><br />   相変わらず取材力と言うか調査能力低いですね、秋庭さん。って言うか、「東京方眼図解説」って昭和59年に日本近代文学館から出た名著初版本復刻珠玉選の「東京方眼図」でしょうか?<br />   日本近代文学館のHPで同館の閲覧可能図書の蔵書検索をかけると<br /><br />  </p> <table><tbody><tr><td nowrap="nowrap">表題</td> <td>:</td> <td>東京方眼圖 / 森林太郎立案</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">その他の表題</td> <td>:</td> <td>東京方眼図</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">巻冊次</td> <td>:</td> <td>: [セット]</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">版表示</td> <td>:</td> <td>複刻</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">シリーズ</td> <td>:</td> <td>特選名著複刻全集近代文学館 / 名著複刻全集編集委員会編集</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版者</td> <td>:</td> <td>日本近代文学館</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版地</td> <td>:</td> <td>東京</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版者</td> <td>:</td> <td>図書月販 (発売)</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版地</td> <td>:</td> <td>東京</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版年</td> <td>:</td> <td>1971</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版年月日</td> <td>:</td> <td>昭和46.5</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">数量・大きさ</td> <td>:</td> <td>索引174p ; 22×9cm (全図:80×56cm 折りたたみ20×14cm)</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">注記</td> <td>:</td> <td>春陽堂 明治42年刊の複製</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">注記</td> <td>:</td> <td>箱入</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">注記</td> <td>:</td> <td>発売者: 図書月販→ほるぷに変更</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">著者標目</td> <td>:</td> <td>森, 鴎外(1862-1922)</td> </tr></tbody></table><p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;">   と言うように、最初期の復刻版名が出てきます。この時30作品が初版本ほぼそのままの形で復刻されていて、別巻として<span style="font-size:x-large;">「特選 名著復刻全集 近代文学館─作品解題─」(1971年刊)</span>が出ています。その中の<span style="font-size:x-large;">「東京方眼図」の解題を稲垣達郎氏がなされていて、</span><span style="font-size:x-large;">秋庭さんが<span style="color:rgb(255,0,0);">パクッた</span>、</span>この部分<br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><br />           ………………………………………………………………その本の解説には、次のようにある。<br /><br />            『東京方眼図』は一枚ものと帖仕立本と、両方そろわないと不完全なのだ。帖仕立本も稀観<br />           にぞくするようになったが、一校図の方は、さらに稀観である。稀観中の稀観といえるだろ<br />           う。<br /><br />            つまり、明治時代に出版された『東京方眼図』という本には一枚図がついていなかった。が、<br />           それでは不完全だから、「復刻版」ではそれをつけたということである。<br /></span><br />  は<span style="font-size:x-large;">いつもどおり秋庭さんの都合のいいとこ取り</span>です。<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが「室長」の話をでっち上げ</span>るために、何を<span style="font-size:medium;">どう</span><span style="font-size:x-large;">パクって</span>、何をどう<span style="font-size:x-large;">歪曲し</span>、何をどう<span style="font-size:x-large;">書かなかったか</span>…。<br />   「特選 名著復刻全集 近代文学館─作品解題─」で上記秋庭さんの盗用部分の半ページ前で稲垣達郎氏は<br /><br />    『東京方眼図』は、一枚ものと区分別合冊の帖仕立本とのふたつか<br />    ら成り立っている。東京全図を方眼図に区切って、縦横の線に符号<br />    と番号を付けた。その上、別冊をつくって、検索を便にした。この<br />    別冊帖仕立本に、特に工夫が凝らされている。くわしい東京地名索<br />    引によって、未知や疑問の場所を、たやすく探り当てることができ<br />    るようになっている。これまでに、幾多の東京地図ができているけ<br />    れども、こうした方式のものは、かつて考案されなかった。分析と<br />    整理の科学精神の内在が、これをさせたのであろう。</p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;"> と書いておられます。<br /><br />   <span style="font-size:x-large;">「東京全図を方眼図に区切って、縦横の線に符号と番号を付けた。その上、別冊をつくって、検索を便にした。」</span><br /><br />  秋庭さんの逃げ方はこうです。<br /><br />          <span style="font-size:x-large;">明治時代に出版された『東京方眼図』という<span style="color:rgb(255,0,0);">本</span>には一枚図がついていなかった。<br /></span><br />  秋庭さんは、解題での稲垣氏の、──明治42年6月に一枚物の図が先行して出され、それを追って同年8月に索引冊子が出された様な──書き振りを隠して「東京方眼図」=索引冊子で、一枚物の図はほとんど出回らなかった、と言うように歪曲し、以降の「室長」の「思惑」をでっち上げるために使われたのです。<br />  実際のところ<br /><br />         <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%EF%BC%A3%EF%BC%A1%EF%BC%93%EF%BC%94%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%94%E5%9D%82%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%9E%9A%E3%82%82%E3%81%AE.jpg" alt="" /><br /><br />   一枚物の図には<span style="font-size:x-large;">「明治四十二年六月</span> 森林太郎発案」とあります。<br /><br />   これは日本近代文学館の復刻版の奥付ですが、<br /><br />         <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%E5%A5%A5%E4%BB%98.jpg" alt="" /><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">明治四十二年八月</span>での印刷、発行と書かれています。<br />   二ヶ月のギャップがありますから、別立ての様に見えます。稲垣氏も、解題では他の要素も含め別立ての様に読める書き方になっていますが、他の要素も考えられます。少なくとも<span style="font-size:x-large;">一枚物の図が先行していることをネグっていることは秋庭さんの嘘のキモです</span>が、別立てであったかどうか、実際は同梱ではなかったか、については次のような疑問を提起しておきます。<br /><br />   冊子奥付には、「實價金六拾銭」とありますが、一枚物の図には価格表示がありません。普通地図を単体で売価も書かずに売りますか?冊子には「森」の検印がありますが、一枚物地図には検印がありません。検印は印税検印ですから、地図単体販売ならば地図本体に価格も検印もないのはおかしくありませんか。<br /><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         一九八四(昭和五十九)年、日本近代文学館から名著復刻全集の一巻として『東京方眼図解<br />          説』という本が出版されている。</span><span style="color:rgb(255,0,0);">この本に一枚図がついていた。本書巻末についている地図と同<br />          じものである。ところどころ、方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれているものの、地<br />          図の輪郭と文字はまったく同じで、一般の人には真偽の見分けがつかないと思う。その本の解説<br />          には、次のようにある。</span><br /><br />   ハァ?「<span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(255,0,0);">本書巻末</span></span><span style="color:rgb(255,0,0);">についている<span style="font-size:x-large;">地図と同じもの</span>である。</span>」って、<span style="font-size:x-large;">坂崎氏</span>の「一葉からはじめる…」から<span style="font-size:x-large;">パクッた地図</span>のことですか?<br />   そらぁ、「…同じもの…」でしょう。<span style="font-size:x-large;">坂崎氏は日本近代文学館名著復刻全集の東京方眼図から複製されています</span>から、<span style="font-size:x-large;">それを駄ビング</span><span style="font-size:x-large;">した</span>「<span style="color:rgb(255,0,0);">本書巻末についている</span><span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(255,0,0);">地図</span></span>…」は<span style="font-size:x-large;">同じもの</span>ですよね。でっ、何が「<span style="color:rgb(255,0,0);">ところどころ、方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれている</span>」んでしょうか?同じものでずれる?そのずれている部分を提示しないで、復刻版の一枚物の図と秋庭さんが坂崎氏からパクッた地図に違いがあるってどう実証されるんでしょうね。<br /> 大体、<br />   <br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         日本近代文学館から名著復刻全集の一巻として『東京方眼図解説』という本が出版されている。</span><span style="color:rgb(255,0,0);">この本に一枚図がついていた。</span><br /><br />  んじゃなくて、愚生が事実を書いて差し上げますが<br /><br />          日本近代文学館から「○○ 名著復刻全集」の一巻として『東京方眼圖』と言う一枚物の地図一葉と索引と一枚物地図を分割して<br />          一冊にした冊子を一体としたものが復刻されている。この復刻に別冊もしくは別巻で「○○ 名著復刻全集 解題」がついていた。<br /><br />  と言うのが正解。愚生が「○○ 名著復刻全集」と書くのは、「特選 名著…」とか「精選 名著…」とか複数回の復刻が行われているからで、その復刻全集なんだから、<span style="color:rgb(255,0,0);">『東京方眼図解説』</span> なんて「本」はついてきませんしそれに一枚図が付録になることはありません。<br /><br />    <br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          つまり、明治時代に出版された『東京方眼図』という本には一枚図がついていなかった。が、<br />          それでは不完全だから、「復刻版」ではそれをつけたということである。<br />           ただし、この一枚図は、印刷の専門家が見ると、オリジナルの完成図の版下を使って地図と文<br />          字を作ったあと、赤色の部分を新たに書き足しているため、寺院マークの形や大きさなどが少し<br />          違っているということである。</span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">どこの「<span style="color:rgb(255,0,0);">印刷の専門家</span>」</span>ですか<span style="font-size:x-large;">「<span style="color:rgb(255,0,0);">オリジナルの完成図</span>」意味不明、「<span style="color:rgb(255,0,0);">版下</span><span style="color:rgb(255,0,0);">を使って地図と文字を作った</span>」意味不明、「<span style="color:rgb(255,0,0);">赤色の部分を新たに書き足し</span>」意味不明</span>ですが。「○○ 名著復刻全集 解題」には「復刻について」と言う復刻の方法についての解説があります。<br /><br />   ②区分図の色は印刷上の違いらしい色ちがいがありページ<br />    によって川の色や赤線の色が異なる。川の色は薄青緑と<br />    水色と不足丁分の鮮明な水色との三種、赤は朱赤と本赤<br />    の二種であるが、複刻本ではそれぞれ一色に統一した。<br /><br />   これは冊子の区分図に関しての復刻方法の解説の一部です。稲垣氏等「名著複刻全集編集委員会」は明治・大正・昭和前期の近代日本文学作品それぞれが発表された際の初版本は、文学作品のみならず、編集、印刷、製本も文学史上あるいは技術史上からも一体で残すべき価値があるとの考えから、それぞれのできる限りの再現を行われています。原点との相違については製本装丁方法、使用紙にいたるまで、説明があるのです。もし、秋庭さんの「<span style="color:rgb(255,0,0);">印刷の専門家</span>」なるものの「<span style="color:rgb(255,0,0);">ということ</span>」(「という」は秋庭さんが嘘吐く時の枕詞)のようなことがあれば必ず解説されています。まぁ、秋庭さんの様な陰謀論者は、文科省所管の「公益財団法人 日本近代文学館」は「政府」の一員──この手の組織は秋庭さんの都合次第で「民間」になったり「政府」になったりします。──ですから「都合の悪いことは隠しているのだ」と仰るかもしれませんが。<br /><br />  <span style="font-size:x-large;">秋庭さんに降りたと思しき「<span style="color:rgb(255,0,0);">印刷の専門家</span>」の霊言は、愚生のような印刷の素人から見ても不思議なことを仰っておられます。<br /></span><br /><span style="font-size:x-large;">  「<span style="color:rgb(255,0,0);">オリジナルの完成図</span>」</span>そもそも「<span style="color:rgb(255,0,0);">オリジナル</span>」とは何なのでしょうか?<span style="font-size:x-large;">復刻版のオリジナルは、</span><br /><br />     複刻版底本は編集部所蔵本、ジャケットの底本は山田朝一氏を通じて某氏所蔵のもの、<br />     一枚図は日本近代文学館所蔵のものをそれぞれ使用した。<br />     (特選名著複刻全集近代文学館作品解題より)<br /><br /><span style="font-size:x-large;">  日本近代文学館所蔵の春陽堂が明治42年に平版で刷った「東京方眼圖」ですので、「<span style="color:rgb(255,0,0);">オリジナルの完成図の版下を使って地図と文字を作った</span>」と言うことになれば、「<span style="color:rgb(255,0,0);">版下</span>」というのは、明治42年に平版で刷るために石版や亜鉛版或いはアルミ版等の刷版をつくるための原稿図を編集配置した図版と言うことになりますが、明治42年の版下が残っていたのでしょうか?「<span style="color:rgb(255,0,0);">印刷の専門家</span>」の霊言はそう言っているのですが。</span><br /><br />          <span style="color:rgb(255,0,0);">地図と文字を作ったあと、赤色の部分を新たに書き足しているため、</span><br /><br />   明治42年の「東京方眼圖」は地図の輪郭線と方眼の罫線、文字は黒(墨)、川、海等の水面は水色(浅葱)、鉄軌道線や兵営、大使館等の一部のランドマークっぽいものが朱赤の三色で刷られています。印刷物は基本的には原稿どおりの刷り上がりとなりますので、「東京方眼圖」のはこの三色で描かれた原稿を刷版、上記の様な印刷インクの乗るもの、に複製して刷ります。三色といっても色を掛け合わせた様な複雑なものではありませんが、印刷するには刷版、木版画で言う版木、は黒色のインク、水色のインク、赤色のインク用の三枚すなわち三版必要です。三版の刷版を作るには、原稿のそれぞれの色部分のみを複製して刷版に複製することになります。当時はカラーの写真製版黎明期ですので、色分解した写真製版ではなく原稿地図の各色ごとにハンドトレースしてこれを版下として、刷版にベンガラ紙などでハンドトレースしたか、各色ごとにハンドトレースした版下から写真版を作り刷版に転写したのではないかと思われます。その上で、印刷工程では用紙にまず黒色インクの版で地図の輪郭線と方眼の罫線、文字を刷り込み、次に水色インクの版で川、海等の水面を刷り、最後に赤色インクの版で鉄軌道線や兵営、大使館等の一部のランドマークっぽいものを刷り込むという手順で造られていると推定されます。<br />   三版一色づつの刷重ね、明治42年のことですので各回の刷位置の位置決めは手作業で行われ、かつ工程の品質管理も職人ごとのスキルに依存しているために、<br /><br />  <span style="color:rgb(255,0,0);">        …ところどころ、方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれているものの、地図の輪郭と文字はまったく同じ…</span> <br /><br />   一枚一枚の刷り上りが異なります。<br />   一方復刻版は、解題にある様に明治42年に刷られて販売された印刷物「東京方眼圖」の一枚物の図と冊子の保存程度の良いものを原稿として──現在の印刷の工程では、黄・赤・青・黒に色分解するのですが──この原稿の「東京方眼圖」の刷色は混色の無い黒色、水色、赤色ですのでこの三色を抽出するかたちで色分解した写真から三版の平版の刷版をつくり明治42年当時の工程にしたがって、黒色のインク、水色のインク、赤色のインクを和紙に刷重ねたと、これも推定されます。写真版原板の位置決め、刷版の位置決め用紙の位置決め明治42年に比べて機械力や光学精度が相当に向上していますので、原稿の「<span style="color:rgb(255,0,0);">方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれている</span>」は忠実に再現されています。<br />   これらの事柄から言えることは<span style="font-size:x-large;">秋庭さんの「印刷の専門家」は存在そのものが捏造か</span>、専門家のまともな話を秋庭さんが歪曲したか、理解できないままに書いたかのいづれかです。<br /><br />           森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、一枚図の大捜索を行なったが見つけら<br />          れず、結果的に近代文学館に先を越された状況にあった。しかし、オリジナルを入手したことで、<br />          「復刻版」の完成図は鷗外が作ったオリジナルではなく、戦後に作られたものだとわかり、名誉<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">を回復。逆に「これまで一度も本物の一枚図を確認したことはない」という立場に転じ、堂々と</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 34頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />           </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">〝初公開″と銘打った展示を決定した、というわけである。</span><br /><br />   もう、完璧に意味不明な妄想ですね。<br /><br />           <span style="color:rgb(255,0,0);">森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、</span><br /><br />   「<span style="color:rgb(255,0,0);">公式の拠点</span>」今現在どうなってるんでしょうか?鴎外記念室。<br />   前出の様に<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">これ2003年の話でしょ?</span></span>記念室と言うか、<span style="font-size:x-large;">本郷図書館の分離は2006年。</span>その時<span style="font-size:x-large;">記念室は</span>そのまま旧森鷗外記念文京区立本郷図書館に<span style="font-size:x-large;">残って、</span><span style="font-size:x-large;">2008年に</span>記念館建設のため<span style="font-size:x-large;">一旦閉館</span>ですよね。<br /><br />   そして今年旧本郷図書館跡地すなわち観潮楼跡地に「<a href="http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_academy_moriougaikinen.html">文京区立森鷗外記念館</a>」として再開される予定で、現在は文京区役所アカデミー推進課が開館準備にあたっておられる様なのですが、<br /><br />   http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_academy_moriougaikinen.html<br /><br />   従来「森鷗外記念室」の運営は、「森鷗外記念会」と言う森鷗外記念室創設の主体となった委員会を前身とする会員制の任意団体に委託されていました。その運営活動の中で、企画展や資料叢書の刊行などがなされていました。<span style="font-size:x-large;">「森鷗外記念室」は</span>そんな<span style="font-size:x-large;">民</span>(記念会)と<span style="font-size:x-large;">官</span>(文京区)の<span style="font-size:x-large;">協働</span>で成り立っている<span style="font-size:x-large;">組織</span>なので秋庭さんの言う「<span style="color:rgb(255,0,0);">公式の拠点</span>」とは何なのか。秋庭さんのこの<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、一枚図の大捜索を行なったが見つけら<br />          れず、結果的に近代文学館に先を越された状況にあった。しかし、オリジナルを入手したことで、<br />          「復刻版」の完成図は鷗外が作ったオリジナルではなく、戦後に作られたものだとわかり、名誉<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">を回復。逆に「これまで一度も本物の一枚図を確認したことはない」という立場に転じ、堂々と</span><br /><font face="Times New Roman, serif">          </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">〝初公開″と銘打った展示を決定した、というわけである。</span></span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">妄想の上</span>で、「公式」である<span style="font-size:x-large;">必要</span>があるから文京区<span style="font-size:x-large;">=</span><span style="font-size:x-large;">公式の拠点と「銘打っ」ておられる</span>わけです。<br />   自称文京区在住で、だから旧森鷗外記念文京区立本郷図書館に土地鑑──移転前に建物の前くらいは通ったかもしれない──が一応あるとする秋庭さんが<span style="font-size:x-large;">一枚物の</span>図の<span style="font-size:x-large;">発見</span>に立ち会ったと言うこと<span style="font-size:x-large;">を捏造する</span>ために<br /><br />           「……これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがないということでした。つま<br />          り、一枚図を見た人はいないということで、記念室としましては〝初公開″と銘打って展示をし<br />          ようかと検討しているところです」<br /><br />    この「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物の発言を秋庭さんは「<span style="font-size:x-large;">口寄せ</span>」して<span style="font-size:x-large;">捏造</span>をされたわけですね。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">    オリジナルの一枚物の「東京方眼圖」を公式の拠点たる森鷗外記念室が発見<br />    従って、それは鷗外様御親筆<br />    なので公式の拠点は企画展示を実施<br />    その発見に事実上立ち会った秋庭さん<br />    ゆえに秋庭さんの提示資料は本物</span><br /><br />   「……これは<span style="font-size:x-large;">たった一枚のオリジナル</span>で、……」っても、<span style="font-size:x-large;">所詮は</span>明治42年の<span style="font-size:x-large;">市販印刷物</span>なんだが。それとも版下か原稿だとでも言いたいのか?ならそう書くべきだがそんな証明はひとつもない。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   要するに自己正当化のために、歴史上の著名人鷗外が「政府」の陰謀である「秋庭式地下妄」を暴こうとして一枚物の「東京方眼圖」を「発表」(発案)したことにしたかったんですね。</span><br /><br />           もうひとつ、首をかしげるのは、室長が書庫から一枚図が出てきたとしていることである。諸<br />          般の事情から、そういう話が作られたと思われるのだ。実際のところは、鷗外の親族から入手し<br />          たに違いない、と私は思っている。<br /><br />    これも<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが</span>「室長が書庫から一枚図が出てきたとしていることである。」と<span style="font-size:x-large;">口寄せ</span><span style="font-size:x-large;">しているだけ</span>ですね。でっ、妄想の証拠「…、と私は思っている。」が出ました。<br /><br />           なぜなら、本当に書庫の底から見つかったとしたら、親族には何度コピーされたかわかるはず<br />          がない。「これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがない」 といえるのは、オ<br />          リジナルを手元に保管していた人物だけである。<br /><br />    だから、明治42年にある程度の数刷られた市販印刷物の「東京方眼圖」にコピーがどうのこうのって秋庭さんが言うところの「鷗外研究の公式の拠点の『室長』」が研究者なら言うはずのないことを秋庭さんだけが言い切れるのはなぜかってことです。<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          ………………………………………………………ただ、この事実を明らかにしてしまうと、以前<br />          行なった大捜索の際、鷗外の親族がこの地図を出さなかったことがあからさまになるため、親族<br />          が悪者になりかねない。そうしたことを配慮して、「書庫から見つかった」としていたのではな<br />          いかと思う。</span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">  明治42年にある程度の数刷られた市販印刷物の「東京方眼圖」を、とうの昔に戦災で焼けて無くなっている「鷗外の自宅の書庫はもちろんのこと、…探したが、見つからなかった」、当の焼け跡の跡地に建った、「文京区立森鷗外記念本郷図書館」内にあった「森鷗外記念室」の「室長」なる人物が絶対発言しないことを秋庭さんは口寄せしている訳です。</span><br /><br />           なぜ、初めに親族が一枚図を出さなかったかということについては、この地図が何を目的とし<br />          て作られたかということと深く関係があるのではないだろうか。本書を読み進めていくうちに、<br />          おのずとわかっていただけると思う。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   これだけ前提となる事実が存在しないのだから、「この地図が何を目的として作られたか」は「本書を読み進めて」いっても判らないと思うが。</span><br /><br />           まもなく 〝初公開″ の展示が始まり、記念室には連日、文壇の大御所や有名作家が現れ、室長<br />          は親族のわきで満面の笑みを浮かべていた。それを見ていて私は思った。この展示によって、近<br />          代文学館が先に一枚図を公開した「復刻版」は、人々の記憶から永久に消し去られてしまうので<br />          はないか。そして、それこそが室長が心の底で望んでいたことではなかったのかと。<br />           わが国はヨーロッパ諸国に比べると、民主主義の歴史が浅いから、〝公式の記録″ と 〝民間の<br />          記録″ が異なっている場合、公式のものが優先されてしまう。室長はそれがわかっているから、<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">あえてこのような展示をしたということである。</span><br />                                          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 35頁)<br /><br /><br /><br />   この「</span><span style="font-size:x-large;">〝初公開″の展示</span>」<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">がいつ行われたのか、秋庭さん<span style="font-size:x-large;">は時期を明らかにされていません。</span>秋庭さんによれば「</span><span style="color:rgb(255,0,0);">森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、</span>」ているわけですから、この<span style="font-size:x-large;">展示について</span>は文京区に<span style="font-size:x-large;">記録が</span>残っているはずですが、<span style="font-size:x-large;">見当りません。</span><br />   <br />         <span style="color:rgb(255,0,0);">…記念室には連日、文壇の大御所や有名作家が現れ、…</span><br /><br />   秋庭さん「大御所」の意味解ってる?「大御所」って当代に原則一人しかいないか、全然該当者が居られないか、なものなんですが。2003年の文壇に「大御所」っていらしたのでしょうか?2003年度の文壇の大御所、はて該当作無しなんじゃないかしら(笑「有名作家」って御近付になる前の島田荘司さんかしら(笑<br />   鷗外業績の本流でもない、文壇の大御所にも有名作家にも係わるもののない、東京案内<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">でしかない一枚物の印刷物「東京方眼圖」</span>を見に何で「…連日、文壇の大御所や有名作家が現れ、…」なきゃならないのか?それを確認していた秋庭さん、余程暇だったんでしょうか(笑<br /><br />         <span style="color:rgb(255,0,0);">…室長は親族のわきで満面の笑みを浮かべていた。…</span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br />    御親族がお輿になる理由がわかりません。壁に貼り付けた一枚物の印刷物「東京方眼圖」を秋庭さんが主張する</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「</span>〝初公開″の展示」<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">だからと</span>は<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">言え、</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">親族としては「室長」の脇に居なきゃならない何の責任も義理もないんですが。親族「ホスト」なの?「ゲスト」なの?何で居らっしゃるの?<br />   と言うか秋庭さんはどうやって親族って判ったんだろう?鷗外の親族って極々一般の人で見分けがつかんと思うのですが、リボン徽章とか胸バラ徽章とかに「親族」とか入ってたんだろうか?苗字が「森」でない方とか色々だろうし、「室長」が秋庭さんに紹介とかは</span>「…文壇の大御所や有名作家…」も含めて<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">そんな義理はなさそうだし。<br /><br /></span><span style="color:rgb(255,0,0);">        ………………………………………………。それを見ていて私は思った。この展示によって、近<br />          代文学館が先に一枚図を公開した「復刻版」は、人々の記憶から永久に消し去られてしまうので<br />          はないか。そして、それこそが室長が心の底で望んでいたことではなかったのかと。<br />           わが国はヨーロッパ諸国に比べると、民主主義の歴史が浅いから、〝公式の記録″ と 〝民間の<br />          記録″ が異なっている場合、公式のものが優先されてしまう。室長はそれがわかっているから、<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">あえてこのような展示をしたということである。</span></span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br />    全国の図書館等に<span style="font-size:x-large;">何百枚と所蔵</span>されている<span style="font-size:x-large;">「復刻版」</span>、或いは<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが</span>「発見」に事実上<span style="font-size:x-large;">立ち会った</span>とする<span style="font-size:x-large;">明治42年</span>「<span style="font-size:x-large;">発表</span>」の</span><span style="font-size:medium;"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物</span></span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">の印刷物「<span style="font-size:x-large;">東京方眼圖</span>」の「<span style="font-size:x-large;">発見</span>」<span style="font-size:x-large;">以前から</span>、<span style="font-size:x-large;">国立国会図書館はじめ</span>枢要な図書館等に<span style="font-size:x-large;">所蔵</span>され<span style="font-size:x-large;">公開</span>されていた</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物の<span style="font-size:x-large;">印刷物</span><span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」</span>、或いは<span style="font-size:x-large;">「復刻版」の元</span>となった愛書家より</span><span style="font-size:x-large;">昭和46年5月以前</span>に公益財団法人日本<span style="font-size:x-large;">近代文学館</span><span style="font-size:x-large;">に贈与された</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物の印刷物<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」は</span>今「</span>人々の記憶から永久に消し去られてしまう」どころか事実、現実として<span style="font-size:x-large;">〝公式の記録″として残っている</span>のですが、「室長」それが理解できないような、秋庭さん並のヴァカなんでしょうか?<br />   そう「室長」秋庭さん並のヴァカなんです。だって、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「室長」秋庭さんの捏造</span></span>ですもの。<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">以上見ての通り、<span style="font-size:x-large;">「室長」</span>なる人物<span style="font-size:x-large;">の発言</span>、その<span style="font-size:x-large;">内心</span>を表象するものは、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">秋庭さんの口から出たもの以外にありません。</span></span>でその<span style="font-size:x-large;">内容</span>あるいは<span style="font-size:x-large;">事実関係</span>は</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">以上見ての通り</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><span style="font-size:x-large;">全て</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">嘘</span></span><span style="font-size:x-large;">。</span><br /><br /><br /></span> 何故、<span style="font-size:x-large;">秋庭さん</span>が一枚図の<span style="font-size:x-large;">発見に立ち会ったことにしたかった</span><span style="font-size:medium;">か。</span>秋庭さんは「オリジナル」な「東京方眼圖」を見ているのだと、<span style="font-size:x-large;">秋庭本</span>で掲示する「<span style="font-size:x-large;">東京方眼図」は「オリジナル</span><span style="font-size:x-large;">」鷗外</span>が直接いじった<span style="font-size:x-large;">原稿図</span>ですよとでも<span style="font-size:x-large;">言いたかった</span>んでしょうね。こんな<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">嘘</span></span><span style="font-size:x-large;">を吐くために。</span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br />          </span><strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">改竄された「東京方眼図」</span></strong><br />           展示が終わって、一枚図の「東京方眼図」が壁から外されたところで、私は第一号のコピーを<br />          とらせていただいた。翌日、一枚図は国会図書館に送られ、その後、全国の図書館で公開されて<br />          いる。<br />           じつは、本書付録の「東京方眼図」は全国で公開されているものと同じであって、私が持って<br />          いる第一号のコピーではない。左ページにあるのが私の持っている第一号コピーである。親族が<br />          「一度も複写されていない」といっていたから、正真正銘のオリジナルのコピーである。<br />           二つの矢印の先をご覧いただきたい。陸地測量部の前から東に向かって細い一本の線が延びて<br />          いる。これが折り目のたぐいでないことば、堀や川などの水中に断続的に続いていることから、<br />          おわかりいただけよう。この線は隅田川の河口にある八丁堀の川口町へと続いていて、緯度経<br />          度の線より少し明るい赤色だった。ところが全国公開されている一枚図では、この線が消されて<br />          いるのである。<br />           この線は方眼の中間に書き足されているから、誰が見ても横線が一本多く見えた。それは中世<br />          ヨーロッパの地図などで用いられていた、都市建設の座標軸、地下道の基準線を描く手法と同じ<br />          もので、詳細は後述するが、鷗外はそれにならって余分な線を描き込んでいたはずである。とこ<br />          ろが、いま全国で公開されている一枚図では、海や湖、川や堀などが新たなグリーンで塗り直さ<br />          れ、この線が塗りつぶされているから、基準線が見つけられなくなってしまった。このような赤<br />          色の基準線は、このほかにも上野不忍池の中央を横切っているものがあったが、それも塗りつ<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ぶされている。</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 36頁)</span><br /><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 戦後六十年を過ぎ、二十一世紀を迎えたわが国では、個人の作品を政府が改竄することは許さ</span><br />          れていないはずだが、明らかに改竄されているのである。仮に私の解釈が見当外れだったとして<br />          も、他人の作品に手を入れてはならないはずである。<br />           なぜ、このようなことが行なわれたのだろうか。その謎を解くには、東京の地下の真実を知る<br />          必要があると思う。それを知れば、「東京方眼図」を鷗外が発表した目的も、室長の言葉の意味<br />          も、そして何よりも謎だらけの「東京方眼図」を読み解くこともできるはずである。初めて一枚<br />          図を見てから十年、私はそう考えている。<br />           その間、私は東京の地下の透明化を訴えてきた。それはなぜ、ある地図では地下鉄が交差して<br />          いるのに別の地図では離れているのか、また、なぜ戦後に開通した地下鉄のトンネルが「二〇〇<br />          ヤード」という戦前に使われていた単位で設計、施工されているのか、といった文書資料にもと<br />          づいたアプローチもあれば、実際にそのトンネルを確認し、なぜ開通したばかりのトンネルが百<br />          年も前に作られたコンクリートのように変色して水がしたたっているのか、といった現場の状況<br />          からのアプローチもあった。が、本書ではそうした疑惑の掘り起こしともいうべき部分はカット<br />          し、「方眼図」の謎の解明に集中した。したがって、そういう疑惑の現状については、いままで<br />          の著書などを参考にしていただきたい。<br />           森鷗外は文豪であり、軍医であり、さらには当時の公衆衛生の権威でもあった。その知識は広<br />          く、しかも深いから、私ひとりでこの作品をすべて解き明かすことはできそうにないが、私なり<br />          の説明がついたものを公開することで、江戸初期から四百年、私たち市民の目から隠されてきた、<br />          東京の地下の真実を読者に理解していただければと願っている。そして、それが「東京方眼図」<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">に込められた鷗外の思いを伝えることにもなる、と考えている。</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 38頁)<br /><br />    さて、<span style="font-size:x-large;">秋庭さん</span>は以下の通り、「室長」の<span style="font-size:x-large;">犯罪を暴いて</span>おられる。<br /><br /></span>         展示が終わって、一枚図の「東京方眼図」が壁から外されたところで、私は第一号のコピーを<br />          とらせていただいた。<span style="color:rgb(255,0,0);">翌日、一枚図は国会図書館に送られ、</span>その後、全国の図書館で公開されて<br />          いる。<br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /></span><span style="font-size:x-large;"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「…</span>翌日、一枚図は国会図書館に送られ、…」</span>何で国会図書館?既に本館、関西館等合わせて6セットも<span style="font-size:x-large;">明治42年刊の「東京方眼圖」を保有する国会図書館に</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">文京区民の財産</span></span>(価格的なものではなく、文献資料としての)<span style="font-size:x-large;">が誰にも断りなく何故送られるのだろうか?</span><br /><span style="font-size:x-large;">   秋庭さんは、「室長」が<span style="color:rgb(255,0,0);">区の財産</span>を勝手に処分したと仰っている</span>のではないだろうか。<span style="font-size:x-large;">「室長」</span><span style="font-size:x-large;">には</span>文京区として国会図書館に、「森鷗外記念文京区立本郷図書館森鷗外記念室」の書庫の底(書庫の底って何だよ)で発見された、一枚物の「東京方眼圖」を<span style="font-size:x-large;">貸与あるいは譲渡する権限があったのか?</span><br /><br />   <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">ないよね。</span></span>秋庭さん的には「室長」が存在し、公式な職務の様だから、<span style="font-size:x-large;">文京区の財産を勝手に処分したら</span>それは<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">背任</span></span>と言う刑法犯罪になります。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   </span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">秋庭さん何故正式に「室長」の行為を告発しないんだろう?政府の陰謀の格好の証拠になるのに。</span></span><br /><br />   一方で、こんなことを書かれた「室長」と文京区何故秋庭さんに抗議をしないのだろう?そちら側から見れば実に立派な「室長」に対する人権侵害なのに。<br />   「…その後、全国の図書館で公開されている。」その様な事実はありません。そんな手順をどこ(公共図書館、大学図書館、私設図書館)の誰が企画し、どこの (図書館)が、どこ(国会図書館?)に何を依頼し誰が手配するのか?公開にはそれぞれに金がかかる。一枚物の図の移送だって、美術品(貴重品)扱いでしかるべく荷造りし、専門業者に輸送を委ねなければできません。公開っていうのはそれぞれの立場に応じての公式の行事 だから案内とか、資料とか、何らかの記録が残るだろうに、そんな記録はありません。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">  要するに、「森鷗外記念室」での<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物の印刷物「東京方眼圖」も、「室長」も秋庭さんの捏造です。</span></span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /><br /></span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">  存在しない「事実」、存在しない「人物」これでは、抗議も告発もどちらも、しようがありません。</span><br /></span></span><br />    更に不思議な話<br /><br />           じつは、本書付録の「東京方眼図」は全国で公開されているものと同じであって、私が持って<br />          いる第一号のコピーではない。左ページにあるのが私の持っている第一号コピーである。親族が<br />          「一度も複写されていない」といっていたから、正真正銘のオリジナルのコピーである。<br /><br />   秋庭本<span style="font-size:x-large;">付録</span>の<span style="font-size:x-large;">「東京方眼図」</span>は「一葉から始める」の付録から<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">パクッた</span></span><span style="font-size:x-large;">物で、</span><span style="font-size:x-large;">元は</span>公益財団法人日本近代文学館の<span style="font-size:x-large;">「復刻版」</span>だと言うことは別項で触れたとおりです。<br />   秋庭さん何で、「第一号のコピー」とやらをとられたんでしょうか?今までの文章を見る限り、秋庭さんには、その時点で一枚物の「東京方眼圖」の部分コピーをとらなければならない必然がないのですが。<br /> あの、どんなに<span style="font-size:x-large;">怪しげな情報でも、自分の都合にあったものはリニアにすぐに自著に取り入れ、<span style="color:rgb(255,0,0);">盗用</span>、<span style="color:rgb(255,0,0);">歪曲</span>、<span style="color:rgb(255,0,0);">改竄</span>をしまくった、秋庭さんが、</span>何で<span style="font-size:x-large;">2003年に確保した</span>と自称する<span style="font-size:x-large;">資料</span>を後生大事に<span style="font-size:x-large;">2011年末まで抱え込んでおられたのかなぁ?</span>不思議ですねぇ。何で<span style="font-size:x-large;">今頃</span>「東京方眼図」だのその<span style="font-size:x-large;">「…正真正銘のオリジナルのコピー…」</span>だの<span style="font-size:x-large;">が現れて来る</span>んですか?やはり<span style="font-size:x-large;">秋庭さんは神の手の持ち主</span>なんでしょうかね。<br />   しかし、<span style="font-size:x-large;">奇体な日本語</span>ですねぇ、<br /><br />            ………………………………………………<span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(255,0,0);">正真正銘のオリジナルのコピー</span></span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">   何故、全紙で撮られなかったんでしょうね?</span>正真正銘のオリジナルのコピーであることを証明する方法は、全紙で全体をコピーするか、全体を写真複製で撮るしかないのではありませんか?少なくとも<span style="font-size:x-large;">題号や「明治四十二年六月森林太郎立案」「春陽堂」などの表示部を無視して</span>どうやって、<br /><br />           ………………………………<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">左ページにあるのが私の持っている第一号コピーである。</span></span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">挙証できるんでしょうね?</span><br /><br />          …………………………………………………………………………………………………<span style="color:rgb(255,0,0);">親族が<br />          「一度も複写されていない」といっていた</span>……………………………………………………………<br /><br /> とは、<span style="font-size:x-large;">「室長」が言っていたのを秋庭さんが聞いたと、秋庭さんが言っているだけの話、</span>これが何か証拠性を持っているのでしょうかね?<br /><br />          ……………………………………左ページにあるのが私の持っている第一号コピーである。親族が<br />          「一度も複写されていない」といっていたから、正真正銘のオリジナルのコピーである。<br />           二つの矢印の先をご覧いただきたい。陸地測量部の前から東に向かって細い一本の線が延びて<br />          いる。これが折り目のたぐいでないことば、堀や川などの水中に断続的に続いていることから、<br />          おわかりいただけよう。この線は隅田川の河口にある八丁堀の川口町へと続いていて、緯度経<br />          度の線より少し明るい赤色だった。ところが全国公開されている一枚図では、この線が消されて<br />          いるのである。<br />           この線は方眼の中間に書き足されているから、誰が見ても横線が一本多く見えた。……………<br />   <br />    なるほどこういう<span style="color:rgb(255,0,0);">嘘</span>を吐くためだったんですか。秋庭さんの仰る「左ページ」と言うのがこれです。<br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%94%B9%E7%AB%84%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%A6%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE.jpg" /><br /><br /><br /><br />          ………これが折り目のたぐいでないことば、堀や川などの水中に断続的に続いていることから、<br />          おわかりいただけよう。<br /><br /><br />   などと、まぁ、いかにももっともらしい構成ですけれど。<span style="font-size:x-large;">チョッと拡大</span>していくともう<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">歪曲</span></span><span style="font-size:x-large;">がバレバレ。</span>まず左側の矢印部分<br /><br />           <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E6%94%B9%E7%AB%84%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%A6%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE.JPG" /><br /><br /><br /><br />   秋庭さんが書き足した矢印で示されている線、その右の方への延長線上町名表示、「<span style="color:rgb(255,0,0);">南鍛</span>」冶町とか中「<span style="color:rgb(255,0,0);">橋</span>」町とかの<span style="font-size:x-large;">文字潰れ</span>てますが、これは何でしょうね。<span style="font-size:x-large;">「折り目のたぐい」で潰れてる</span>んじゃないのかなぁ(笑<br />   そして右側矢印部分<br /><br />        <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E3%81%84%E3%82%84%E3%81%A3%E3%80%81%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E6%94%B9%E7%AB%84%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B%E3%82%89.JPG" alt="" /><br /><br /><br />   この辺がキレイに出ているので、日本近代文学館復刻版のこの部分を挙げておきます。もし秋庭本37頁の図が秋庭さんの言う様な「正真正銘のオリジナルのコピー」ならば、復刻版では潰れていない文字が潰れているのは変でしょう?<br /><br />        <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%95%EF%BC%99%E5%B9%B4%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%E4%B8%80%E6%9E%9A%E5%9B%B3%E9%83%A8%E5%88%86.jpg" /><br /><br />   で念のため明治42年6月刊行(秋庭式では「発表」)の大阪府立中央図書館所蔵(修理中ですが)の一枚物の「東京方眼圖」のオリジナルのコピー(笑)の該当部分を挙げておきます。<br /><br /><img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E7%89%88%E4%B8%80%E6%9E%9A%E5%9B%B3%E9%83%A8%E5%88%86%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%88%86.jpg" /><br /><br />    ご覧の様に、基本的に秋庭さんが「基準線」と言う場所は、「東京方眼圖」を折りたたむ時最初に二つに折る部分なので、必ずこの辺りに折り目が来ます。したがって、秋庭さんの「オリジナルのコピー」と少しズレた所の文字が潰れたりしていますが、秋庭さんの言う「基準線」とは折り部分がずれていますので、<br /><br /><br />          ………………………………………ところが全国公開されている一枚図では、この線が消されて<br />          いるのである。<br />           この線は方眼の中間に書き足されているから、誰が見ても横線が一本多く見えた。それは中世<br />          ヨーロッパの地図などで用いられていた、都市建設の座標軸、地下道の基準線を描く手法と同じ<br />          もので、詳細は後述するが、鷗外はそれにならって余分な線を描き込んでいたはずである。とこ<br />          ろが、いま全国で公開されている一枚図では、海や湖、川や堀などが新たなグリーンで塗り直さ<br />          れ、この線が塗りつぶされているから、基準線が見つけられなくなってしまった。このような赤<br />          色の基準線は、このほかにも上野不忍池の中央を横切っているものがあったが、それも塗りつ<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ぶされている。<br /></span>        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 戦後六十年を過ぎ、二十一世紀を迎えたわが国では、個人の作品を政府が改竄することは許さ</span><br />          れていないはずだが、明らかに改竄されているのである。仮に私の解釈が見当外れだったとして<br />          も、他人の作品に手を入れてはならないはずである。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   秋庭さんの言うように、戦後の政府が、「基準線」を消したのなら、この明治42年の「東京方眼圖」には「基準線」があるはずですが、なぜ「緯度経度の線より少し明るい赤色」の線が無いのでしょうかね?</span><br /><br />           ………………、このほかにも上野不忍池の中央を横切っているものがあったが、それも塗りつ<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ぶされている。</span><br /><br />    秋庭さんが37頁に挙げた「オリジナルのコピー」にはその部分は範囲外でコピーされていませんけれど。秋庭さんが掲示する<span style="font-size:x-large;">「正真正銘のオリジナルのコピー」</span>は──森鷗外の「帝都地図」隠された地下網の秘密──を通じて<span style="font-size:x-large;">このページにしか挙っていない</span>ようなのですが。もっと言えば、この「基準線」(折り目だけど)なるものが載る「オリジナルのコピー」、以降御本の巻末まで、妄説でこれっぽっちも登場せずに、使われずに論及なさっておられないのですが。後で「南北の基準線」なるものも出てきますが、これはさすがにそれらしい折り目が見つけられなかったのか、方眼の縦線をそのままお使いになっておられます。<br /><span style="font-size:x-large;">  御本の妄説の論証にお使いの図は、「オリジナルのコピー」ではなく、坂崎重盛氏の「一葉からはじめる東京町歩き」から<span style="color:rgb(255,0,0);">盗んで</span>(坂崎氏は日本近代文学館の復刻版から<span style="color:rgb(255,0,0);">パクっ</span>て)きた縮刷版の一枚物の<span style="color:rgb(255,0,0);">図ばっかり</span>ですけど。<span style="color:rgb(255,0,0);">そんな</span>ことばかりしてる<span style="color:rgb(255,0,0);">人</span>が、</span><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 戦後六十年を過ぎ、二十一世紀を迎えたわが国では、個人の作品を政府が改竄することは許さ</span><br />          れていないはずだが、明らかに改竄されているのである。仮に私の解釈が見当外れだったとして<br />          も、他人の作品に手を入れてはならないはずである。</span><br /><br />    政府の改竄をでっち上げるって。ねぇ、<span style="font-size:x-large;">それってギャグですよね。</span>ねっ、ねっ。<span style="font-size:x-large;">「他人の作品に手を入れ」どころか、<span style="color:rgb(255,0,0);">盗用の盗用</span>をした人が。</span>えっ?<br /><span style="font-size:x-large;">  「森鷗外記念室」での「東京方眼圖」の発見を<span style="color:rgb(255,0,0);">でっち上</span><span style="color:rgb(255,0,0);">げ</span>、「室長」なる人物を<span style="color:rgb(255,0,0);">でっち上げ</span>た、<span style="color:rgb(255,0,0);">捏造家</span>が、<span style="color:rgb(255,0,0);">嘘吐き</span>が何を言うかと思えば、</span><br /><br />          なぜ、このようなことが行なわれたのだろうか。その謎を解くには、東京の地下の真実を知る<br />          必要があると思う。それを知れば、「東京方眼図」を鷗外が発表した目的も、室長の言葉の意味<br />          も、そして何よりも謎だらけの「東京方眼図」を読み解くこともできるはずである。初めて一枚<br />          図を見てから十年、私はそう考えている。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">  多分秋庭さんは、明治42年版の一枚物の「東京方眼圖」を見てないのではないかと思います。</span><br />   次の三枚の図有楽町一丁目付近を見ていただくとそれが判ります。<br />    まず、秋庭さんの「オリジナルのコピー」の有楽町一丁目付近。秋庭さんを真似て矢印を付けてみました、灰色の矢印の先に「二丁目」の「目」の字があります。「二」に較べてひどく細くなっていますが「目」です。<br /><br />                  <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%93%EF%BC%97%E9%A0%81%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.JPG" /><br /><br />   日本近代文学館復刻版の有楽町一丁目付近。緑の矢印の先の「二丁目」の「目」これも細いですね。何故この「目」が細くなっているのか、下の赤い矢印の指すところを見てみると、判りますよね。縦の折り目だからです。しかもこの復刻版のこの部分と秋庭さんの「オリジナルのコピー」とはそっくりです。<br /><br />                 <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE.JPG" /><br /><br />    そして大阪府立中央図書館の間違いなく、明治42年六月刊行同年八月所蔵の一枚物の「東京方眼圖」の有楽町一丁目付近。緑の矢印の先「二丁目」の「目」細くないですね。左側の一丁目の「目」とほぼ同じ普通の幅の「目」の字です。赤い矢印を見るまでもなく、ここが縦の折り目だと言うのが良く分かると思います。<br />   <br />  <br />                 <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE.JPG" /><br /><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">   世の中に数十枚は現存すると思われる本当のオリジナル明治42年版の一枚物の</span>「東京方眼圖」、復刻版と明治42年版比較すると刷り重ねの位置が異なるため、水色の青がずれているのがわかると思いますが、当時の平版印刷の技術では一枚一枚刷り上がりが異なっていたかと言う事なのでしょう。復刻版は元になった日本近代文学館所蔵の明治42年版の<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物の</span>「東京方眼圖」は重ね刷りの位置決めが正しかったので水色の青が外堀の線図の中に収まっています。それだけ刷に違いがあるわけですから、2003年に「森鷗外記念室」で「書庫の底」とやらから発見された一枚物の東京方眼図から秋庭さんが取られたという「オリジナルのコピー」が日本近代文学館の復刻版と同じエラーを持っていること、しかもそれは復刻版印刷時に折と係わりなく発生しています(復刻版の折り目の部分を開いても「目」は細いまま)。<br /><span style="font-size:x-large;">  冒頭より、──2003年に「森鷗外記念室」で「書庫の底」とやらから発見された一枚物の東京方眼図──はその出来事、登場人物全て秋庭さんによる<span style="color:rgb(255,0,0);">虚構</span>、<span style="color:rgb(255,0,0);">捏造</span>であることを明らかにしてきたわけですが、この秋庭さんの「オリジナルのコピー」に至っては日本近代文学館の復刻版の「オリジナルのコピー」であると断言しておきます。ひょっとしたら、坂崎重盛氏の「一葉からはじめる東京町歩き」(2004年実業之日本社刊)の付録の「オリジナルのコピー」かも知れません。これなら数千枚も出回っていますので、秋庭さんの妄想通りに折り目が擦れ汚れで線の様に見えるものがあったかも知れませんから。<br /></span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /></span><span style="font-size:x-large;"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">要するに、今回の</span>──森鷗外の「帝都地図」隠された地下網の秘密──<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">は如何にも元テレビ屋の秋庭さんならではの「<span style="color:rgb(255,0,0);">仕込み</span>」で成り立ってるって事らしい(笑</span></span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /><br />                                                                                   OP.20120514<br /></span></p>
<h2>第一章「鷗外の地図が見つかった」ってことで。仕込んじゃいましたぁ!<br />  </h2> <p><br /><br />   テレビ制作業界では、捏造することを「仕込む」と言うようで報道バラエティーとかでも結構やっておられるようです。でっ、そんなテレビ制作業界出身の秋庭さんですからお書きになっていることほぼ総てが、捏造、歪曲、改竄と「仕込み」のオンパレード。<br />   今回の──森鷗外の「帝都地図」隠された地下網の秘密──白眉はこれでしょうか。<br /><br />           <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><b>鷗外の地図</b></span><br />          「鷗外の地図が見つかったんですよ」<br />           扉を開けると同時に声をかけられた。二〇〇三年のことである。当時の文京区立本郷図書館の<br />          一角には森鷗外の記念室があったから、私はすぐに後ろを向いた。記念室の窓に明かりがあった。<br />          「地図、ですか」<br />           借りていた本をカウンターに載せ、私はもう一度、振り向いた。文豪で、軍医で、鷗外は語学<br />          も達人だったと聞いてはいたが、地図まで作っていたとは知らなかった。<br />          「見ますか」と聞かれたときは驚いた。<br />          「ぜひ」という声に力が入ってしまった。図書館の人とはみな懇意にしていたから、<br />          「たぶん、記念室にとっては十年に一度の大ニュースですね」<br />           廊下を歩きながら、そんなことをいった。<br /><br />    <span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」との出会い2003年ですか?</span>2008年以前には「東京方眼圖」の「と」の字、おくびにも漏らされておられなかった秋庭さん。<br />   秋庭さんが、<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」に言及されたのは、2008年10月(配本9月)二見書房刊「大東京の地下400年99の謎」が初出でしたよね。</span><br />   今回前半で多用された<span style="font-size:x-large;">「ミュンスター」</span>の話なんかも<span style="font-size:x-large;">初出</span>は、<span style="font-size:x-large;">2008年9月</span>でしたかね?<br /><br />   2008年10月(配本9月)二見書房刊「大東京の地下400年99の謎」でのミュンスターと千代田区辺の外濠との比較では「東京方眼圖、東京方眼圖」と喚き倒しておられながらも「東京方眼圖」はおろか図と名の付くものはお示しにならなかった。別の頁で歪な「正五角形」を描くために「東京方眼図」を使われておられましたけれど。<br /><br />   「ミュンスター」初出はコミック版の「実録コミック 東京地下(迷宮)の謎」18頁のこんな図でしたかしらん。、2008年9月はでしたかね?もちろん無断複製で掲載ですよね(笑<br /><br />   <br /><br /><br />            <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%98%E5%B9%B4%EF%BC%98%E6%9C%88%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E8%BF%B7%E5%AE%AE%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC.jpg" /><br /><br />   複写元の書名“Festungsbau-Kunstund-Technik” 綴り、お間違えでしたっけ?“Festungsbau - Kunst und Technik”と確か当時指摘させていただいたような(笑  <br />   今回は出典を書かれず、「参考文献」で綴りは正しくお届けのようですが、<br /><br />            Hartwig Neumann 『Festungsbau - Kunst und-Technik』 Area Verlag,2004<br /><br /><span style="font-size:x-large;">当時は</span><span style="font-size:x-large;">昭文社あたりの</span>2007年版<span style="font-size:x-large;">地図</span><span style="font-size:x-large;">をお使い</span>でしたよね?<span style="font-size:x-large;">2003年に「東京方眼圖」から地図の複製を取られたはずなのに。</span><br /><br />   それが<span style="font-size:x-large;">今回は</span>比較図として、<span style="font-size:x-large;">坂崎氏の「一葉からはじめる東京町歩き」</span>(実業之日本社2004年刊)<span style="font-size:x-large;">からパクッた地図</span>からこんな図を…。<br /><br />            <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%A8%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E7%9B%97%E7%94%A8%E5%9B%B3.jpg" alt="" /><br /><br />   で、ミュンスターの図パクリ元の“Festungsbau - Kunst und-Technik”さしずめ「要塞建築 美と技」とでも訳すんでしょうか?これもドイツで2004年10月刊ですね。<br />   <span style="font-size:x-large;">ずいぶん長くかかられたんですねぇ。お勉強とご調査に</span>(笑<br />   <span style="font-size:x-large;">何で2003年</span>なんですか?<br /><br />  <span style="font-size:x-large;"> 坂崎氏の「一葉からはじめる…」(<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="background-color:rgb(255,255,255);">2004年刊</span></span>)</span>、<br /><br />   だからですか(笑<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">           「鷗外の地図が見つかったんですよ」<br />           <span style="font-size:x-large;">扉を開けると</span>同時に声をかけられた。<br /></span><br />  <span style="font-size:x-large;"> どの扉</span>を開けたんですか?「森鷗外記念本郷図書館」の玄関の扉ですか?<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">           一角には森鷗外の記念室があったから、私はすぐに<span style="font-size:x-large;">後ろを向いた。記念室の窓に明かりがあった。</span><br />            「地図、ですか」<br />           借りていた本を<span style="font-size:x-large;">カウンター</span>に載せ、私は</span><span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(51,102,255);">もう一度、振り向いた。</span></span><br />                (中略)<br /><span style="color:rgb(51,102,255);">           <span style="font-size:x-large;">廊下を歩きながら、</span>そんなことをいった。</span>(記念室に向かう廊下があったんですか?)<br /><br />    <span style="font-size:x-large;">鷗外記念室</span>は<span style="font-size:x-large;">一体何処に</span>あったんですかね?<span style="font-size:x-large;">位置関係すごくおかしい</span>んですが。<br /><br /><br />           初めに室長の部屋に通され、「この本を書かれた方です」と職員に紹介された。室長の机の上<br />          には、私の書いた『帝都東京・隠された地下網の秘密』がおかれていた。お祝いの言葉を述べる<br />          とすぐに私は事務室に通され、壁に張られた地図を見上げた。このときのことは、いまでもよく<br />          覚えている。しばらくのあいだ、私は感想を口にすることもできなかった。<br /><br />    秋庭さんの記事からは鷗外記念室というのは室長室と事務室からなっているようなんですが、展示室もあったんですよね、「新発見鷗外の地図」って企画展を されたと言う展示室もあったんですよね。展示室と室長室と事務室って一階にそんなにスペースがあったんでしょうか?一階。本郷図書館のカウンターとか一般の 書架とかもあったんですよね一階。<br />   展示室と室長室と事務室の位置関係ってどうなってたんでしょうか?<br /><br />   「森鷗外記念本郷 図書館」が「本郷図書館」として鷗外ゆかりの観潮楼跡地から移転したのが2006年でしたよね。で図書館が入っていた建物に「鷗外記念室」が残って、これ が2008年4月に休館(室)して今年(2012年)鷗外生誕150年の年に、同地に森鷗外記念館として再開する予定です。<br />    秋庭さんが、「東京方眼圖」に言及されたのは、2008年10月が最初ですよね。地元ですから本郷図書館は利用されたことはあったんでしょうけれど、ひょっとして、鷗外記念室すなわち展示室に入ったこと無いんじゃないですか?<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">         室長の机の上には、私の書いた『帝都東京・隠された地下網の秘密』がおかれていた。</span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">何で</span>、誂えた様に秋庭さんの(当時の)最新刊が室長さんの<span style="font-size:x-large;">机の上にあった</span>んでしょうか?誰かの<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「仕込み」</span></span>ですか(笑<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">         お祝いの言葉を述べるとすぐに私は事務室に通され、</span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">事務室を通って室長室に入られた</span>んじゃなかったんですか?<span style="font-size:x-large;">廊下と室長室と事務室との位置関係</span>レイアウトが<span style="font-size:x-large;">すごく好い加減</span>なんですが。って言うか?何で室長と面通しなんでしょうか?<br /><br /><span style="color:rgb(51,102,255);">         壁に張られた地図を見上げた。<br /></span><br />   すっごく違和感があったんですよね。「壁に張られた地図」、地図を壁に貼る必然ってなんですか?貼る剥がす、で<span style="font-size:x-large;">一番汚損のリスクの高い壁に貼る</span>なんて行為を<span style="font-size:x-large;">貴重な地図で何故やる</span>のか?<br />   記念室にとって、とても貴重な一枚ものの東京方眼圖なんですよね、いくら大きめとは言え新聞全紙に満たない地図壁に貼らずとも大き目の作業机に広げて、検証が終われば元の通りに折り畳んで取り敢えず保存するか、大きな図書館によくある地形図なんかを保存する地図棚の引き出しに入れるかするんじゃないのでしょうか?秋庭さんが主張説明されるような「森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、」たにしては、<span style="font-size:x-large;">信じられない資料の取り扱い方</span>です。<br /><br />          一面に文字ばかり広がっている。それがすべて手書きで、思い思いの方向を向いている。「総<br />          理大臣」「大蔵大臣」などとあるが、それは人物を表す言葉である。「川上銅像」「大村銅像」と<br />          あるものの、位置を示す点がないから、どこに銅像があるかわからない。また、この地図には建<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">物がひとつもなく、赤い四角や旗のようなマークは、本来の地図記号には存在しないものである。</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 20頁)</span><br /><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">鉄道の線路も国鉄でもなければ私鉄でもなく、警察や郵便局のマークもない。つまり、この地図</span><br />          は地図の決まりにのっとっていないのである。<br /><br />    明治42年の民間の案内地図に「本来の地図記号」って何なのかなぁ?でっ、<span style="font-size:x-large;">2003年</span>これが<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」の初見</span>なんですよね秋庭さん。<br />   ところが、その3年後の<span style="font-size:x-large;">2006年頃</span>まで、<span style="font-size:x-large;">「戦前」は民間の地図作成は禁止されていた</span>とか秋庭さん<span style="font-size:x-large;">言いたくっていませんでしたか?</span>春陽堂刊の民間の地図「東京方眼圖」を見た後に執筆刊行された、2003年12月に出された<span style="font-size:x-large;">『帝都東京・隠された地下網の秘密[2]』でも</span>そう仰っていたし、2006年刊の<span style="font-size:x-large;">新潮文庫版でも記述を改めておられません</span>でしたよね。<br />   そんな秋庭さんがこんなことを書かれる、<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         <span style="font-size:x-large;">室長の机の上には、私の書いた『帝都東京・隠された地下網の秘密』がおかれていた。</span><br /></span><br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"> 「仕込み」</span></span>以外の何なんでしょうか?<br /><br />   ところでこれに続く室長の机の上にあったとされる「帝都東京・隠された地下網の秘密」(2002年11月洋泉社刊)由来の長いだけの中身のまるで無いモノローグ「ベトナムネタ」の粗悪な駄ビングについては、前項──<a href="http://www3.atwiki.jp/619metro/pages/157.html"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">第一章「鷗外の地図が見つかった</span>」ってことで。そこんとこ宜しく!</a>──で詳述しましたので中身も無いので、画面の無駄を省くため省略して、次ぎ行きます。<br /><br /><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><b>「東京方眼図」の〝公式の解釈〟</b></span><br />          扉の音がして室長が中に入ってきた。壁際にいた職員が机に戻り、私は改めてお祝いの言葉を<br />          述べた。地図の感想を尋ねられてから、十五分ほど経っていただろうか。そろそろ頭のなかが整<br />          理されていた。<br />          「この地図には森林太郎立案とありますけれども……」と切りだすと、<br />          「そうですね」<br />           室長はうなずいて壁に目をやった。私が尋ねようとしていることが、よくわかっている、とい<br />          うことらしかった。<br /><br /> 「扉の音がして室長が中に入ってきた。壁際にいた職員が机に戻り、私は改めてお祝いの言葉を述べた。」<span style="font-size:x-large;">だからぁ「森鷗外記念室の室長の部屋」ってどこにあるの?「森鷗外記念室室長」はどこから「森鷗外記念室の職員の部屋」に入ってきたの</span>でしょうか?<span style="font-size:x-large;">「職員の部屋」</span>も<span style="font-size:x-large;">「室長の部屋」</span>も相当に広そうなんですけれど、「文京区立森鴎外記念本郷図書館」の<span style="font-size:x-large;">一階ってどんだけ広かったんですか?</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"><br /></span></span><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         「ぜひ」という声に力が入ってしまった。図書館の人とはみな懇意にしていたから、</span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">図書館の人とみな懇意</span>だったことと、<span style="font-size:x-large;">鷗外記念室の人と懇意</span>だったことは<span style="font-size:x-large;">一致するんですか?</span>懇意だったとして<span style="font-size:x-large;">鷗外のことを研究している</span><span style="font-size:medium;">と</span>か、<span style="font-size:x-large;">明治の文壇事情を調べている</span>とかの<span style="font-size:x-large;">形跡も無い様な秋庭さん</span>に、何で図書館と<span style="font-size:x-large;">別立て</span>の部屋で<span style="font-size:x-large;">勤務</span>している<span style="font-size:x-large;">「鷗外記念室」の人</span><span style="font-size:x-large;">が声を掛けるんでしょうか、</span>「鷗外記念室の人」とも懇意だったんですか?でも「室長」とだけは懇意じゃなかったんですね?ふぅん。 <br /><br /><br />          地図に緯度と経度を書き入れるという手法は、一七七九(安永八)年の「改正日本輿地路程全<br />          図」で導入され、一八二一(文政四)年の伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」にも緯度と経度が<br />          入れられていた。明治政府もそれを引き継ぎ、当初から緯度、経度入りの地図を作っていたから、<br />          それは鷗外が考えたことではない。<br /><br /> 東京方眼図のどこに「緯度と経度を書き入れ」られていると?<span style="font-size:x-large;">描き込まれているのは方眼の縦横線</span>でしょ。敢えて言っても「緯線」と「経線」様の線<span style="font-size:x-large;">あくまでも「方眼の枠線」</span>ですよね、<br /><br />           そうすると、このとき鷗外は何を立案したのか? まず、私はそれを尋ねた。<br />          「この地図には縦に十一個、横に八個の方眼があります。縦には数字の番号、横には『いろは』<br />          がつけられていますから、『い四』『ろ五』などと方眼を特定することができます。鷗外は、これ<br />          に合わせて東京の地名を網羅した索引を編纂しました。<br />          『東京方眼図』という本は、二六頁の携帯用の地図と、一七〇頁あまりの地名索引の二部構成に<br />          なっています。索引で『日本橋』を引くと『に六』とありますから、地図で『に六』の方眼を見<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">れば、すぐに日本橋が見つかります。</span><br />                                          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 27頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />          </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">つまり、東京の町や村がどこにあるか、ひと目でわかるようになったということです。この地</span><br />          図によって、市民は初めて自由に東京を行き来できるようになった、といわれています」<br />           室長はそう説明した。<br />          「その本は明治時代に出版されたのですか」<br />          「そうです」<br />           室長がうなずいた。<br />          「つまり、鷗外が立案したのは、方眼と索引を対応させることだったんですか」<br />          「そう考えていいと思います」<br />           何となく、もっともらしく聞こえるが、その程度のことを鷗外は「自分が立案した」と大書す<br />          るだろうか。私の頭に疑問がわきだしてきた。その後の鷗外研究でも同じように解釈されている。<br />          つまり、室長の説明が〝公式の解釈″ということだが、私には納得できなかった。<br /><br />   <span style="font-size:x-large;">〝<span style="color:rgb(255,0,0);">公式の解釈</span>″</span>って<span style="font-size:x-large;">呆れた。</span>本物の<span style="font-size:x-large;">明治四十二年刊</span>「森林太郎立案 <span style="font-size:x-large;">東京方眼圖</span>」の冊子<span style="font-size:x-large;">表二部分に、</span>こんな紙が貼ってあります。<br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%96%B9%E7%9C%BC%E5%9B%B3%E8%A1%A8%E4%BA%8C%E4%BD%BF%E3%81%84%E6%96%B9.jpg" /><br /><br /><span style="font-size:x-large;">  ──此(この)書及圖のもちゐかた。「肴町」といふ處に往かんとおもはば、五十韻(おん)の順序にて、「サ」の部を順次に見るべし。六〇乃至(ないし)六一面に「サカナマチ」といふ町東京に三箇所あるを悉(ことごと)く記(しる)せり。本郷のならば「本郷區駒込」にて、圖の縦は「ほ」横は「二」の方眼内にあり。其他準(なぞら)へて知るべし。──</span><br /><br />   と書かれています。<span style="font-size:x-large;">鷗外何を立案したか「公式の解釈」も何も、</span>それこそ「鷗外が書いた」こんな<span style="font-size:x-large;">紙まで貼ってある</span>のに、<span style="font-size:x-large;">どの方向に持って行きたいんだか(笑</span><br />   ここまで、8割方は「室長」さんの説明も正確ですね。<br />   なお、「特選 名著復刻全集 近代文学館─作品解題─」(1971年刊)の稲垣達郎氏による東京方眼圖の復刻に当たってによれば、明治42年の初版時には冊子に誤丁の様なものがあり完本には以下の様に変更されたものが貼り込まれていたとのこと、<br /><br /><br />    最初のものの半分くらいで、文句もちがっている。右横<br />    書きで「本圖索引の注意」とある下に、八字を縦書き一行に、「本<br />    圖索引は之を五十音に依り編成したり故に検索の際例せば『銀座』<br />    若くは『中橋』を捜らんとせば『キ』の部或は『ナ』の部を引けば<br />    其部に(に六・七)乃至(は六)の指示を見るペく之に総て方眼圖<br />    の(に・六七)(は六)を索むれば其處に『銀座』若くは 『中橋』<br />    は一見の下に分明すべし」とある。<br /><br />  のだそうです。参考として上記しておきます。<br /><br /><br /><b>         索引と一致しない地図</b><br />           左はその『東京方眼図』の本の索引で、アイウエオ順の「イ」のページである。旧仮名遣いだ<br />          から、いまとなっては漢字のほうが読みやすいかと思う。初めの「イウラクチャウ」は有楽町、<br />          次の「イウレイザカ」は幽霊坂である。幽霊坂は三つあって、「に四」「へ四」「と三」とあるが、<br />          地図のページを見ると、ひと目で見つかるどころか、全然見つからない。幽霊坂はひとつとして<br />          載っていないのである。<br /><br />    秋庭さんが「<span style="font-size:x-large;">左はその『東京方眼図』の本の索引で、</span>…」と言うのは──森鷗外の「帝都地図」なんたら──の29頁の、この<span style="font-size:x-large;">日本近代文学館復刻</span>の「森林太郎発案 東京方眼圖」<span style="font-size:x-large;">から<span style="color:rgb(255,0,0);">パクって</span>来た</span>これのことですが、<br /><br />          <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%92%EF%BC%99%E9%A0%81%E7%B4%A2%E5%BC%95%E5%9B%B3%EF%BC%91%EF%BC%8D%EF%BC%91.jpg" /><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">狭い地図</span><span style="font-size:x-large;">の中に、</span>「坂の名前」個別に書いたら潰れるでしょ字が。だから<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」</span>のどこにもどんな<span style="font-size:x-large;">坂の名前</span>も一切<span style="font-size:x-large;">記されていません。</span><br /><br />          次の「イウレイザカ」は幽霊坂である。幽霊坂は三つあって、「に四」「へ四」「と三」とあるが、<br />          地図のページを見ると、ひと目で見つかるどころか、全然見つからない。幽霊坂はひとつとして<br />          載っていないのである。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">  「通り」の名前すら載っていない地図に「坂」の名が載ってなくて当たり前</span>で。だから<span style="font-size:x-large;">幽霊坂の位置については、</span>上の図にも「<span style="font-size:x-large;">イウレイザカ幽霊坂駿河台淡路町一丁目、淡路坂南隣、神田に四</span>」と「<span style="font-size:x-large;">イウレイザカ幽霊坂新坂、神楽坂逢坂間、 牛込へ四」と「イウレイザカ幽霊坂雑司ケ谷町豊川町間西端横町、小石川と三</span>」位置情報が<span style="font-size:x-large;">書き込まれている</span>わけでしょ。<br /><span style="font-size:x-large;">  </span><span style="font-size:x-large;">牛込の幽霊坂の「新坂」と言う別称</span>には、新しく拓かれた坂の意味があったのかもしれません、<span style="font-size:x-large;">だから索引の「シ」の項にも挙がっています。</span><br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E7%B4%A2%E5%BC%95%E6%96%B0%E5%9D%82.jpg" alt="" /><br /><br /><span style="font-size:x-large;">索引そのものをきちんと読まずに「ない、ない」と言い募られてもネェ。</span><br /><br />          「イキザカ/壱岐坂」「イキドノザカ/壱岐殿坂」という坂も、やはり地図の上にはない。「幾世<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">橋」もなければ「石嶋橋」もない。次のページの「市ヶ谷停車場」には「へ五」と書かれている</span><br />                                        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 28頁)</span><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">が、この地図には市ヶ谷駅もないのである。いまの中央線(当時は甲武線)は、この本が出版さ</span><br />          れる二十年も前に開業し、市ヶ谷駅はすでに存在していたが、鷗外はこの駅を載せていないので<br />          ある。<br /><br />   <span style="font-size:x-large;">鉄道駅</span>については、どの駅についても、<span style="font-size:x-large;">駅の位置付近に駅名が書き込まれているだけ</span>で、正確に特定されているわけではないし、当時の基準としてプライオリティーが今と違っていたので無かったのか?単に書き漏らしたのかも判らないんだから<span style="font-size:x-large;">、大体で「へ五」の辺で「市谷なんたら」とあって、鉄道線路上のどこかにあるって見当付くから地図に駅名が表示されてなくても当時の地図ユーザーにとってどうと言うことはないじゃないですか。<br /></span><br /><br />           この地図で市民が自由に東京を行き来できるようになった、ということだったが、本当にそう<br />          だろうか。<br />          「この本の大きさは、江戸時代の切絵図を参考にしたといわれていまして、一ページに三つの方<br />          眼が縦に並んでいます」<br />           室長が解説を続ける。<br />           とはいえ、この地図の方眼は縦に十一個、横に八個である。十一も八も、三では割り切れない。<br />          つまり、一ページに三個ずつ方眼を載せていけば、どうやっても余りが出るから、大きな空白が<br />          できてしまうことになる。案の定、左の図のように第一ページには「い二」の方眼しかなく、上<br />          下は空白である。<br />          上の部分の空白は、本来「東京方眼図」というタイトルの「東」という字が方眼いっぱいに、<br />          でかでかと書かれることになっていたが、それでは読者に違和感を与えるだけだからと、空白に<br />          したのではなかったのか。<br />          数が割り切れないのも、文字が大きすぎるのも、それはもともと、この地図が本として出版す<br />          るために作られていたのではなく、大きな一枚図が初めに完成していて、それを多少強引に携帯<br />          用の本に収めようとしたため、このような不体裁になったように思えてならない。<br />          いまの〝公式の解釈〟では、『東京方眼図』は方眼と索引を対応させたことが画期だとされて<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">いるが、それならなぜ、区名や町名が方眼をまたがって書かれているのだろう。</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 30頁)<br /><br />    何か<span style="font-size:x-large;">どこかの解説からの無断転載</span>かなんかなのか知れないけれど、<span style="font-size:x-large;">「室長」の話を勝手に膨らましすぎじゃないですか?</span><br /><br /></span><span style="color:rgb(255,0,0);">        「この本の大きさは、江戸時代の切絵図を参考にしたといわれていまして、一ページに三つの方<br />          眼が縦に並んでいます」<br /></span><br />    「<span style="font-size:x-large;">この本の大きさは、江戸時代の切絵図を参考に</span>…」どこの解説書にそんなことが?「<span style="font-size:x-large;">菊縦半裁変型本、いわゆる袖珍本よりやや長め</span>」(「特選 名著復刻全集 近代文学館─作品解題─」稲垣達郎氏)の<span style="font-size:x-large;">どこが「江戸時代の切絵図」なんだか?</span>本当に「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物は<span style="font-size:x-large;">そう言ったのか?</span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /></span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         </span>それはもともと、この地図が本として出版するために作られていたのではなく、大きな一枚図が初め<br />          に完成していて、</span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /><span style="font-size:x-large;">  誰かそれを否定したんですか?</span>27頁に戻りますが、「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」に「口寄せ」させたこの説明でも「<span style="font-size:x-large;">この地図</span>(一枚もの地図)」に「<span style="font-size:x-large;">合わせて東京の地名を網羅した索引を編纂し</span>」、「<span style="font-size:x-large;">本は…一七〇頁あまりの地名索引</span>」<span style="font-size:x-large;">と言っている</span>じゃありませんか。<br /><br /></span>        「この地図には縦に十一個、横に八個の方眼があります。縦には数字の番号、横には『いろは』<br />          がつけられていますから、『い四』『ろ五』などと方眼を特定することができます。鷗外は、これ<br />          に合わせて東京の地名を網羅した索引を編纂しました。<br />          『東京方眼図』という本は、二六頁の携帯用の地図と、一七〇頁あまりの地名索引の二部構成に<br />          なっています。索引で『日本橋』を引くと『に六』とありますから、地図で『に六』の方眼を見<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">れば、すぐに日本橋が見つかります。</span><br />                                          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 27頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />          </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">つまり、東京の町や村がどこにあるか、ひと目でわかるようになったということです。この地</span><br />          図によって、市民は初めて自由に東京を行き来できるようになった、といわれています」<br />           室長はそう説明した。<br /><br />    どうしても<span style="font-size:x-large;">一枚もの</span>の<span style="font-size:x-large;">地図</span>が、<span style="font-size:x-large;">2003年に</span>「鷗外記念室」で<span style="font-size:x-large;">発見されて</span>、それに<span style="font-size:x-large;">自分が</span><span style="font-size:x-large;">立ち会った</span><span style="font-size:x-large;">ことにした</span>いようですね<span style="font-size:x-large;">秋庭さん</span>としては、<br /><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">        </span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> そもそも、当時の市民が行ってみたいと思っていたところは、三越や銀座のカフェー、浅草十</span><br />          二階(凌雲閣)などだったが、「方眼図」にはどれも載っていない。また、当時の路面電車には路<br />          線名があって、どれに乗れば新宿に行けるとか、渋谷に行くにはどこで乗り換えるという情報が<br />          不可欠だったが、「方眼図」には路線の区別もなければ停留所名もない。この地図を使って、ど<br />          こにどうやって行けというのだろう。<br /><br />   この<span style="font-size:x-large;">地図の刊行</span>(秋庭式では発表)は<span style="font-size:x-large;">明治42年6月</span>でしたかしらん?三越が「<span style="font-size:x-large;">今日は帝劇明日は三越</span>」と謳われたのが<span style="font-size:x-large;">大正2年</span>、5階建てだかの百貨店本館が大正3年の竣工。<span style="font-size:x-large;">銀座のカフェー</span>も<span style="font-size:x-large;">明治44年</span>がその起源。<span style="font-size:x-large;">浅草十二階</span>はこの時期寂れに寂れてたんじゃなかったかしら。<span style="font-size:x-large;">昇るより眺める</span>んだったら、<span style="font-size:x-large;">浅草に行けばいい</span>んじゃないのかな?銀座のカフェーなんて当然劇場より小さいんだから明治42年に存在しても描き込みようが無いかと思うんですが。<br /><br /><br />           だいたい、市民が東京を行き来するための地図なら、路面電車の会社にでもまかせておけばよ<br />          いことである。デフォルメした路線図で十分、正確な地図を作る必要もない。文豪であり、軍医<br />          でもあった鷗外が、そんな地図を作るために労力を割くだろうか。この地図はそんな目的のため<br />          に作られたものではなかったはずである。<br /><br />    まったくその通り「だいたい、市民が東京を行き来するための地図なら、路面電車の会社にでもまかせておけばよいことである。デフォルメした路線図で十分、正確な地図を作る必要もない。」だから、<br /><br /><font face="Times New Roman, serif">         </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">つまり、東京の町や村がどこにあるか、ひと目でわかるようになったということです。この地</span><br />          図によって、市民は初めて自由に東京を行き来できるようになった、といわれています」<br />           室長はそう説明した。<br /><br />    ここまでは何から引いたか判りませんが「森鷗外記念室室長」の「発言」は正しい、「江戸時代の切絵図を参考に…」を除いては。秋庭さんが突っ込むようなおかしな話ではありませんね。</p> <p lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;" xml:lang="ja-jp">          <b>分割された地図と一枚図の地図</b><br />          「つまり『東京方眼図』という本では、地図がこまかく分割されていましたから、大きな一枚図<br />          を見た人はほとんどいなかったはずです」<br />           室長が顔を上げ、話を続けた。<br />          「当時、一枚図も出回っていたという方もおりますが、当記念室では、そのような事実は確認で<br />          きていません。また、本の地図を切って貼り合わせれば一枚の大きな地図ができたでしょうが、<br />          そのようなことをした例も確認できていません」<br />           「そうですか」<br />           室長の口調に押されて、私は相槌を打った。<br /><br /> 「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物が、どの様な方なのか?文京区の学芸員の方なのか?別途にお仕事を持たれていて、文京区から「森鷗外記念室」の運営を委託されていた「森鷗外記念会」に参加されていた研究者の方なのか、<span style="font-size:x-large;">その正体が良く分からない</span>のですがいづれにしても<span style="font-size:x-large;">その様な立場の方なら絶対に仰らないようなことを、秋庭さんは仰ったと言っておられます。</span><br /><br /><br />           <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%9B%B8%E5%8D%B0.jpg" alt="" /><br /><br />   これは、<span style="font-size:x-large;">明治42年春陽堂刊森林太郎立案東京方眼圖の索引(分割地図入り)の中表紙です。</span>「大阪府立図書館 <span style="font-size:x-large;">明治四十二年八月十八日</span>」との<span style="font-size:x-large;">蔵書印が捺されて</span>います。<br /><br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E4%B8%80%E6%9E%9A%E7%89%A9%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%9B%B8%E5%8D%B0.jpg" alt="" /><br /><br />   こちらは、<span style="font-size:x-large;">明治42年春陽堂刊森林太郎立案東京方眼圖の一枚もの</span>の方ですが、こちらにも、「大阪府立図書館 <span style="font-size:x-large;">明治四十二年八月十八日</span>」との<span style="font-size:x-large;">蔵書印が捺されて</span>いますね。<span style="font-size:x-large;">蔵書の管理番号も</span>、“24987”と<span style="font-size:x-large;">同一</span>になっています。本来は80cm×56cmの図版なんですが、秋庭さんにもこの蔵書年月日とこれが一枚もの東京方眼図だと解るように折り畳んだ状態でコピーしたものです(もちろん図書館所蔵の地図類は著作権保護期間が切れたものでも全体を複写することが許されていないことも踏まえてのことですが)。なお、索引冊子と、一枚もののこの明治42年版は、現在は「大阪府立中央図書館」に所蔵されています。明治42年の刊行時一枚ものの地図と索引と分割地図が収められた冊子はほぼ一体として売られていたものと思われます。<br />   また、一枚ものの地図の存在は鷗外自身が、明治43年刊の「青年」の中で書いていますよね。<br /><br />    純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。二三歩すると袂から方眼図の小さく折ったのを出して、<br />    見ながら歩くのである。<br /><br />   索引冊子は「小さく折ったの」って訳にいきませんものね。<br />   つまり、「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物の<br /><br />           「つまり『東京方眼図』という本では、地図がこまかく分割されていましたから、大きな一枚図<br />          を見た人はばとんどいなかったはずです」<br />           室長が顔を上げ、話を続けた。<br />          「当時、一枚図も出回っていたという方もおりますが、当記念室では、そのような事実は確認で<br />          きていません。また、本の地図を切って貼り合わせれば一校の大きな地図ができたでしょうが、<br />          そのようなことをした例も確認できていません」<br /><br /><span style="font-size:x-large;">と言う発言は</span>、彼が学芸員か或いは研究者かの類の人物であれば<span style="font-size:x-large;">絶対するはずが無いのです。</span>そして、<span style="font-size:x-large;">秋庭さんに</span>わざわざこんな<span style="font-size:x-large;">説明をする必然も皆無</span>です。だって、<span style="font-size:x-large;">嘘をついてこんな風に</span>そのことをさっき“ノンフィクション”の著書まで見ちゃった<span style="font-size:x-large;">作家、秋庭さんに書かれたら、</span>学芸員としての或いは研究者としての<span style="font-size:x-large;">信用ゼロになっちゃいますからね(笑</span><br /><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「戦後しばらくしてから、戦前の地図集が編纂されることになりまして、その会議に私も記念室</span><br />                                       <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 32頁)</span><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">の一員として出席し、『東京方眼図』も入れてほしいと主張しましたが、こま切れの地図だから</span><br />          ということで除外されてしまいました。そういうことなら、一枚図を探そうということになりま<br />          した。誰だってこま切れの地図を作るはずはありませんからね。どこかに一枚図があるはずと思<br />          い、記念室をあげての大捜索が行なわれました」<br />           鷗外の自宅の書庫はもちろんのこと、出版社や鷗外の立ち回り先、親族の家も一軒一軒訪ね歩<br />          いて探したが、見つからなかったという。それなら、本の地図をコンピュータに取り込んで一枚<br />          につなげようという話も出たそうだが、本が古くて紙が歪んでいるため、うまくつながらないと<br />          業者に断られたという。<br /><br />  <span style="font-size:x-large;"> 「室長」一体何歳だよ(笑</span><br /><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">         「戦後しばらくしてから、戦前の地図集が編纂されることになりまして、</span>…」<br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /> 「<span style="font-size:x-large;">戦後しばらく</span>」ってどの戦後?「湾岸戦争」かしらん(笑 <span style="font-size:x-large;">もう完全に秋庭さんの時間感覚</span>じゃないですか。</span>「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物がもし普通の時間軸で生きておられるなら<span style="font-size:x-large;">絶対にその口から出てこない表現、</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 「戦後」とか「戦前」とかって<span style="font-size:x-large;">漠然としたおかしな時制持ち出して</span>読者の<span style="font-size:x-large;">錯誤を期待</span>するのって、完全に秋庭史観と言うか「<span style="font-size:x-large;">秋庭時空</span>」(笑 大東亜戦争が1945年に敗戦で終わってからどの辺あたりまでを「戦後しばらく」って言うのかしらん?</span>東京五輪の1964年頃?その時点で戦後19年経ってますけど(笑<br />  で、2003年ってそれから更に39年後ですよ。流石に「明治」の前の元号を「江戸」と言う秋庭さんならではの書きっぷりで(笑<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「戦後しばらくしてから、戦前の地図集が編纂されることになりまして、その会議に私も記念室</span><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">の一員として出席し、『東京方眼図』も入れてほしいと主張しましたが、こま切れの地図だから</span><br />          ということで除外されてしまいました。 </span> <br /><br /><span style="font-size:x-large;">   「戦前の地図集の編纂」なら、本来の地図の作成者とか研究者とかがやる話でしょ?なんで「森鷗外の研究」それも「文学的業績」を主に管理していた鷗外記念室の出る幕があったんでしょうか?</span><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          鷗外の自宅の書庫はもちろんのこと、出版社や鷗外の立ち回り先、親族の家も一軒一軒訪ね歩<br />          いて探したが、見つからなかったという。</span><br />          <br />   「<span style="font-size:x-large;">鷗外の自宅の書庫</span>」ってどこ?「<span style="font-size:x-large;">森鷗外記念文京区立本郷図書館</span>」って昭和37年に<span style="font-size:x-large;">鷗外の</span><span style="font-size:x-large;">自宅、</span><span style="font-size:x-large;">終の棲家</span>だった「<span style="font-size:x-large;">観潮楼</span>」が<span style="font-size:x-large;">戦災で焼けた跡地に建てられた</span>んじゃなかったのかしらん?「<span style="font-size:x-large;">森鷗外記念室室長</span>」さんはそれを<span style="font-size:x-large;">すっかり忘れておられる</span>ようですけど(笑<br /><br /> 「出版社」って「春陽堂」さん?秋庭さん今回坂崎氏の縮尺「東京方眼図」(実業之日本社刊)を無断複写するに当たり、ちゃんと「春陽堂」さんに仁義きった?<br /><br />  <span style="color:rgb(255,0,0);">         鷗外の自宅の書庫はもちろんのこと、出版社や鷗外の立ち回り先、親族の家も一軒一軒訪ね歩<br />          いて探したが、見つからなかったという。</span><br /><br />   出版社や鷗外の立ち回り先、親族の家も一軒一軒訪ね歩いて探したけれど、国立国会図書館と、日本近代文学館と京都府立図書館と大阪府立図書館は確認しなかったのね(笑<br />   「鷗外の立ち回り先、」鷗外犯罪者扱いかよ(笑<br /><br />          「その一枚図がこのたび出てきたというわけです」<br />           室長の顔がほころんだ。<br />          「ご存じのように、このたび記念室が移転することになりまして、書庫の整理をしていましたと<br />          ころ、突然、この地図が出てきました。書庫の底で眠っていたということです。親族の方のお話<br />          では、これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがないということでした。つま<br />          り、一枚図を見た人はいないということで、記念室としましては〝初公開″と銘打って展示をし<br />          ようかと検討しているところです」<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   一体いつの話よ?</span><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          「ご存じのように、このたび記念室が移転することになりまして、書庫の整理をしていましたと<br />          ころ、</span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">これ2003年の話でしょ?</span>記念室と言うか、<span style="font-size:x-large;">本郷図書館の分離は2006年。</span>その時<span style="font-size:x-large;">記念室は</span>そのまま旧森鷗外記念文京区立本郷図書館に<span style="font-size:x-large;">残って、</span><span style="font-size:x-large;">2008年に</span>記念館建設のため<span style="font-size:x-large;">一旦閉館</span>ですよね。2006年の「本郷図書館の移転」以外に<span style="font-size:x-large;">2003年に「ご存じのようにこのたび記念室」一体どこに移転するんですか?</span><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          「ご存じのように、このたび記念室が移転することになりまして、書庫の整理をしていましたと<br />          ころ、突然、この地図が出てきました。書庫の底で眠っていたということです。親族の方のお話<br />          では、これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがないということでした。つま<br />          り、一枚図を見た人はいないということで、記念室としましては〝初公開″と銘打って展示をし<br />          ようかと検討しているところです」<br /></span><br />    こんなことなんで<span style="font-size:x-large;">初対面の秋庭さんに話さにゃならんの</span>でしょうか、<span style="font-size:x-large;">極めて説明的に(笑</span><br />   <br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         親族の方のお話では、これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがないということ<br />          でした。</span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">  一体いつこの地図は発見されたの</span>でしょうか?「親族の方のお話」ということは、<span style="font-size:x-large;">秋庭さんに大公開する前に、親族から話を聞いている訳</span>だから、<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが見る</span><span style="font-size:x-large;">何日か前に発見されたのかな?</span>で、その間ずっとこの<span style="font-size:x-large;">貴重な地図は</span>事務室の<span style="font-size:x-large;">壁に</span>貼られて<span style="font-size:x-large;">野晒しですか(笑</span><br /><br />           いまどき、それくらいは当然のキャッチコピーだから躊躇するには及ばない──そのとき、私<br />          はそんなことを述べたが、いま思えば、それはこの地図のことも、室長のことも、何もわかって<br />          いなかったからである。<br /><br />    大丈夫か秋庭さん?「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物の<span style="font-size:x-large;">発言でっち上げて。<br /><br /></span> <span style="color:rgb(255,0,0);">        いま思えば、それはこの地図のことも、室長のことも、何もわかっていなかったからである。</span><br /><span style="font-size:x-large;"><br />   </span>誰が読んでも捏造じゃん。と言うか<span style="font-size:x-large;">以下は</span>只管「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物<span style="font-size:x-large;">への誹謗中傷、人格の否定と毀損</span>ですが、<span style="font-size:x-large;">人権侵害とか大丈夫なんでしょうか?</span><br /><br />          それから十年、私は「東京方眼図」について調べ続けているが、このときの室長の話は嘘では<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ないものの、首をかしげたくなるようなことが少なくない。まず、初めに挙げておかなければな</span><font face="Times New Roman, serif"><br />                                        </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 33頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br />          </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">らないことは、二十年も前にすでに一枚図が出版されていたということである。</span><br />          一九八四(昭和五十九)年、日本近代文学館から名著復刻全集の一巻として『東京方眼図解<br />          説』という本が出版されている。この本に一枚図がついていた。本書巻末についている地図と同<br />          じものである。ところどころ、方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれているものの、地<br />          図の輪郭と文字はまったく同じで、一般の人には真偽の見分けがつかないと思う。その本の解説<br />          には、次のようにある。<br /><br />            『東京方眼図』は一枚ものと帖仕立本と、両方そろわないと不完全なのだ。帖仕立本も稀観<br />           にぞくするようになったが、一校図の方は、さらに稀観である。稀観中の稀観といえるだろ<br />           う。</p> <p lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;" xml:lang="ja-jp">          つまり、明治時代に出版された『東京方眼図』という本には一枚図がついていなかった。が、<br />          それでは不完全だから、「復刻版」ではそれをつけたということである。<br />           ただし、この一枚図は、印刷の専門家が見ると、オリジナルの完成図の版下を使って地図と文<br />          字を作ったあと、赤色の部分を新たに書き足しているため、寺院マークの形や大きさなどが少し<br />          違っているということである。<br /><br /> あらあら、<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><font face="Times New Roman, serif">        </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">…、二十年も前にすでに一枚図が出版されていたということである。</span><br />          一九八四(昭和五十九)年、日本近代文学館から名著復刻全集の一巻として『東京方眼図解<br />          説』という本が出版されている。<br /></span><br /><br />   何かすごい話になってますねぇ。<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」</span>の<span style="font-size:x-large;">一枚図</span>が<span style="font-size:x-large;">復刻</span>されたのは秋庭さんが<span style="font-size:x-large;">「鷗外記念室」で一枚物が見つかったと称される時を遡ること二十年前ではありません。</span>日本近代文学館から「特選名著復刻全集近代文学館」の30巻として「東京方眼圖」が復刻された最初は1971年(昭和46年)、2003年を遡ること<span style="font-size:x-large;">32年前に</span>図書月販を発売元として<span style="font-size:x-large;">なされています。</span>以降何回か復刻がなされ、<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが図書館で見繕った1984年の復刻分は最晩期のものです。</span><br />   相変わらず取材力と言うか調査能力低いですね、秋庭さん。って言うか、「東京方眼図解説」って昭和59年に日本近代文学館から出た名著初版本復刻珠玉選の「東京方眼図」でしょうか?<br />   日本近代文学館のHPで同館の閲覧可能図書の蔵書検索をかけると<br /><br />  </p> <table><tbody><tr><td nowrap="nowrap">表題</td> <td>:</td> <td>東京方眼圖 / 森林太郎立案</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">その他の表題</td> <td>:</td> <td>東京方眼図</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">巻冊次</td> <td>:</td> <td>: [セット]</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">版表示</td> <td>:</td> <td>複刻</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">シリーズ</td> <td>:</td> <td>特選名著複刻全集近代文学館 / 名著複刻全集編集委員会編集</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版者</td> <td>:</td> <td>日本近代文学館</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版地</td> <td>:</td> <td>東京</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版者</td> <td>:</td> <td>図書月販 (発売)</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版地</td> <td>:</td> <td>東京</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版年</td> <td>:</td> <td>1971</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">出版年月日</td> <td>:</td> <td>昭和46.5</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">数量・大きさ</td> <td>:</td> <td>索引174p ; 22×9cm (全図:80×56cm 折りたたみ20×14cm)</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">注記</td> <td>:</td> <td>春陽堂 明治42年刊の複製</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">注記</td> <td>:</td> <td>箱入</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">注記</td> <td>:</td> <td>発売者: 図書月販→ほるぷに変更</td> </tr><tr><td nowrap="nowrap">著者標目</td> <td>:</td> <td>森, 鴎外(1862-1922)</td> </tr></tbody></table><p lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;" xml:lang="ja-jp">   と言うように、最初期の復刻版名が出てきます。この時30作品が初版本ほぼそのままの形で復刻されていて、別巻として<span style="font-size:x-large;">「特選 名著復刻全集 近代文学館─作品解題─」(1971年刊)</span>が出ています。その中の<span style="font-size:x-large;">「東京方眼図」の解題を稲垣達郎氏がなされていて、</span><span style="font-size:x-large;">秋庭さんが<span style="color:rgb(255,0,0);">パクッた</span>、</span>この部分<br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><br />           ………………………………………………………………その本の解説には、次のようにある。<br /><br />            『東京方眼図』は一枚ものと帖仕立本と、両方そろわないと不完全なのだ。帖仕立本も稀観<br />           にぞくするようになったが、一校図の方は、さらに稀観である。稀観中の稀観といえるだろ<br />           う。<br /><br />            つまり、明治時代に出版された『東京方眼図』という本には一枚図がついていなかった。が、<br />           それでは不完全だから、「復刻版」ではそれをつけたということである。<br /></span><br />  は<span style="font-size:x-large;">いつもどおり秋庭さんの都合のいいとこ取り</span>です。<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが「室長」の話をでっち上げ</span>るために、何を<span style="font-size:medium;">どう</span><span style="font-size:x-large;">パクって</span>、何をどう<span style="font-size:x-large;">歪曲し</span>、何をどう<span style="font-size:x-large;">書かなかったか</span>…。<br />   「特選 名著復刻全集 近代文学館─作品解題─」で上記秋庭さんの盗用部分の半ページ前で稲垣達郎氏は<br /><br />    『東京方眼図』は、一枚ものと区分別合冊の帖仕立本とのふたつか<br />    ら成り立っている。東京全図を方眼図に区切って、縦横の線に符号<br />    と番号を付けた。その上、別冊をつくって、検索を便にした。この<br />    別冊帖仕立本に、特に工夫が凝らされている。くわしい東京地名索<br />    引によって、未知や疑問の場所を、たやすく探り当てることができ<br />    るようになっている。これまでに、幾多の東京地図ができているけ<br />    れども、こうした方式のものは、かつて考案されなかった。分析と<br />    整理の科学精神の内在が、これをさせたのであろう。</p> <p lang="ja-jp" style="margin-bottom:0cm;" xml:lang="ja-jp"> と書いておられます。<br /><br />   <span style="font-size:x-large;">「東京全図を方眼図に区切って、縦横の線に符号と番号を付けた。その上、別冊をつくって、検索を便にした。」</span><br /><br />  秋庭さんの逃げ方はこうです。<br /><br />          <span style="font-size:x-large;">明治時代に出版された『東京方眼図』という<span style="color:rgb(255,0,0);">本</span>には一枚図がついていなかった。<br /></span><br />  秋庭さんは、解題での稲垣氏の、──明治42年6月に一枚物の図が先行して出され、それを追って同年8月に索引冊子が出された様な──書き振りを隠して「東京方眼図」=索引冊子で、一枚物の図はほとんど出回らなかった、と言うように歪曲し、以降の「室長」の「思惑」をでっち上げるために使われたのです。<br />  実際のところ<br /><br />         <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%EF%BC%A3%EF%BC%A1%EF%BC%93%EF%BC%94%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%94%E5%9D%82%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%9E%9A%E3%82%82%E3%81%AE.jpg" /><br /><br />   一枚物の図には<span style="font-size:x-large;">「明治四十二年六月</span> 森林太郎発案」とあります。<br /><br />   これは日本近代文学館の復刻版の奥付ですが、<br /><br />         <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%E5%A5%A5%E4%BB%98.jpg" /><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">明治四十二年八月</span>での印刷、発行と書かれています。<br />   二ヶ月のギャップがありますから、別立ての様に見えます。稲垣氏も、解題では他の要素も含め別立ての様に読める書き方になっていますが、他の要素も考えられます。少なくとも<span style="font-size:x-large;">一枚物の図が先行していることをネグっていることは秋庭さんの嘘のキモです</span>が、別立てであったかどうか、実際は同梱ではなかったか、については次のような疑問を提起しておきます。<br /><br />   冊子奥付には、「實價金六拾銭」とありますが、一枚物の図には価格表示がありません。普通地図を単体で売価も書かずに売りますか?冊子には「森」の検印がありますが、一枚物地図には検印がありません。検印は印税検印ですから、地図単体販売ならば地図本体に価格も検印もないのはおかしくありませんか。<br /><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         一九八四(昭和五十九)年、日本近代文学館から名著復刻全集の一巻として『東京方眼図解<br />          説』という本が出版されている。</span><span style="color:rgb(255,0,0);">この本に一枚図がついていた。本書巻末についている地図と同<br />          じものである。ところどころ、方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれているものの、地<br />          図の輪郭と文字はまったく同じで、一般の人には真偽の見分けがつかないと思う。その本の解説<br />          には、次のようにある。</span><br /><br />   ハァ?「<span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(255,0,0);">本書巻末</span></span><span style="color:rgb(255,0,0);">についている<span style="font-size:x-large;">地図と同じもの</span>である。</span>」って、<span style="font-size:x-large;">坂崎氏</span>の「一葉からはじめる…」から<span style="font-size:x-large;">パクッた地図</span>のことですか?<br />   そらぁ、「…同じもの…」でしょう。<span style="font-size:x-large;">坂崎氏は日本近代文学館名著復刻全集の東京方眼図から複製されています</span>から、<span style="font-size:x-large;">それを駄ビング</span><span style="font-size:x-large;">した</span>「<span style="color:rgb(255,0,0);">本書巻末についている</span><span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(255,0,0);">地図</span></span>…」は<span style="font-size:x-large;">同じもの</span>ですよね。でっ、何が「<span style="color:rgb(255,0,0);">ところどころ、方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれている</span>」んでしょうか?同じものでずれる?そのずれている部分を提示しないで、復刻版の一枚物の図と秋庭さんが坂崎氏からパクッた地図に違いがあるってどう実証されるんでしょうね。<br /> 大体、<br />   <br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         日本近代文学館から名著復刻全集の一巻として『東京方眼図解説』という本が出版されている。</span><span style="color:rgb(255,0,0);">この本に一枚図がついていた。</span><br /><br />  んじゃなくて、愚生が事実を書いて差し上げますが<br /><br />          日本近代文学館から「○○ 名著復刻全集」の一巻として『東京方眼圖』と言う一枚物の地図一葉と索引と一枚物地図を分割して<br />          一冊にした冊子を一体としたものが復刻されている。この復刻に別冊もしくは別巻で「○○ 名著復刻全集 解題」がついていた。<br /><br />  と言うのが正解。愚生が「○○ 名著復刻全集」と書くのは、「特選 名著…」とか「精選 名著…」とか複数回の復刻が行われているからで、その復刻全集なんだから、<span style="color:rgb(255,0,0);">『東京方眼図解説』</span> なんて「本」はついてきませんしそれに一枚図が付録になることはありません。<br /><br />    <br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          つまり、明治時代に出版された『東京方眼図』という本には一枚図がついていなかった。が、<br />          それでは不完全だから、「復刻版」ではそれをつけたということである。<br />           ただし、この一枚図は、印刷の専門家が見ると、オリジナルの完成図の版下を使って地図と文<br />          字を作ったあと、赤色の部分を新たに書き足しているため、寺院マークの形や大きさなどが少し<br />          違っているということである。</span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">どこの「<span style="color:rgb(255,0,0);">印刷の専門家</span>」</span>ですか<span style="font-size:x-large;">「<span style="color:rgb(255,0,0);">オリジナルの完成図</span>」意味不明、「<span style="color:rgb(255,0,0);">版下</span><span style="color:rgb(255,0,0);">を使って地図と文字を作った</span>」意味不明、「<span style="color:rgb(255,0,0);">赤色の部分を新たに書き足し</span>」意味不明</span>ですが。「○○ 名著復刻全集 解題」には「復刻について」と言う復刻の方法についての解説があります。<br /><br />   ②区分図の色は印刷上の違いらしい色ちがいがありページ<br />    によって川の色や赤線の色が異なる。川の色は薄青緑と<br />    水色と不足丁分の鮮明な水色との三種、赤は朱赤と本赤<br />    の二種であるが、複刻本ではそれぞれ一色に統一した。<br /><br />   これは冊子の区分図に関しての復刻方法の解説の一部です。稲垣氏等「名著複刻全集編集委員会」は明治・大正・昭和前期の近代日本文学作品それぞれが発表された際の初版本は、文学作品のみならず、編集、印刷、製本も文学史上あるいは技術史上からも一体で残すべき価値があるとの考えから、それぞれのできる限りの再現を行われています。原点との相違については製本装丁方法、使用紙にいたるまで、説明があるのです。もし、秋庭さんの「<span style="color:rgb(255,0,0);">印刷の専門家</span>」なるものの「<span style="color:rgb(255,0,0);">ということ</span>」(「という」は秋庭さんが嘘吐く時の枕詞)のようなことがあれば必ず解説されています。まぁ、秋庭さんの様な陰謀論者は、文科省所管の「公益財団法人 日本近代文学館」は「政府」の一員──この手の組織は秋庭さんの都合次第で「民間」になったり「政府」になったりします。──ですから「都合の悪いことは隠しているのだ」と仰るかもしれませんが。<br /><br />  <span style="font-size:x-large;">秋庭さんに降りたと思しき「<span style="color:rgb(255,0,0);">印刷の専門家</span>」の霊言は、愚生のような印刷の素人から見ても不思議なことを仰っておられます。<br /></span><br /><span style="font-size:x-large;">  「<span style="color:rgb(255,0,0);">オリジナルの完成図</span>」</span>そもそも「<span style="color:rgb(255,0,0);">オリジナル</span>」とは何なのでしょうか?<span style="font-size:x-large;">復刻版のオリジナルは、</span><br /><br />     複刻版底本は編集部所蔵本、ジャケットの底本は山田朝一氏を通じて某氏所蔵のもの、<br />     一枚図は日本近代文学館所蔵のものをそれぞれ使用した。<br />     (特選名著複刻全集近代文学館作品解題より)<br /><br /><span style="font-size:x-large;">  日本近代文学館所蔵の春陽堂が明治42年に平版で刷った「東京方眼圖」ですので、「<span style="color:rgb(255,0,0);">オリジナルの完成図の版下を使って地図と文字を作った</span>」と言うことになれば、「<span style="color:rgb(255,0,0);">版下</span>」というのは、明治42年に平版で刷るために石版や亜鉛版或いはアルミ版等の刷版をつくるための原稿図を編集配置した図版と言うことになりますが、明治42年の版下が残っていたのでしょうか?「<span style="color:rgb(255,0,0);">印刷の専門家</span>」の霊言はそう言っているのですが。</span><br /><br />          <span style="color:rgb(255,0,0);">地図と文字を作ったあと、赤色の部分を新たに書き足しているため、</span><br /><br />   明治42年の「東京方眼圖」は地図の輪郭線と文字は黒(墨)、川、海等の水面は水色(浅葱)、方眼の罫線、鉄軌道線や兵営、大使館等の一部のランドマークっぽいものが朱赤の三色で刷られています。印刷物は基本的には原稿どおりの刷り上がりとなりますので、「東京方眼圖」のはこの三色で描かれた原稿を刷版、上記の様な印刷インクの乗るもの、に複製して刷ります。三色といっても色を掛け合わせた様な複雑なものではありませんが、印刷するには刷版、木版画で言う版木、は黒色のインク、水色のインク、赤色のインク用の三枚すなわち三版必要です。三版の刷版を作るには、原稿のそれぞれの色部分のみを複製して刷版に複製することになります。当時はカラーの写真製版黎明期ですので、色分解した写真製版ではなく原稿地図の各色ごとにハンドトレースしてこれを版下として、刷版にベンガラ紙などでハンドトレースしたか、各色ごとにハンドトレースした版下から写真版を作り刷版に転写したのではないかと思われます。その上で、印刷工程では用紙にまず黒色インクの版で地図の輪郭線と文字を刷り込み、次に水色インクの版で川、海等の水面を刷り、最後に赤色インクの版で方眼の罫線、鉄軌道線や兵営、大使館等の一部のランドマークっぽいものを刷り込むという手順で造られていると推定されます。<br />   三版一色づつの刷重ね、明治42年のことですので各回の刷位置の位置決めは手作業で行われ、かつ工程の品質管理も職人ごとのスキルに依存しているために、<br /><br />  <span style="color:rgb(255,0,0);">        …ところどころ、方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれているものの、地図の輪郭と文字はまったく同じ…</span> <br /><br />   一枚一枚の刷り上りが異なります。<br />   一方復刻版は、解題にある様に明治42年に刷られて販売された印刷物「東京方眼圖」の一枚物の図と冊子の保存程度の良いものを原稿として──現在の印刷の工程では、黄・赤・青・黒に色分解するのですが──この原稿の「東京方眼圖」の刷色は混色の無い黒色、水色、赤色ですのでこの三色を抽出するかたちで色分解した写真から三版の平版の刷版をつくり明治42年当時の工程にしたがって、黒色のインク、水色のインク、赤色のインクを和紙に刷重ねたと、これも推定されます。写真版原板の位置決め、刷版の位置決め用紙の位置決め明治42年に比べて機械力や光学精度が相当に向上していますので、原稿の「<span style="color:rgb(255,0,0);">方眼や赤いマークが一ミリから二ミリほどずれている</span>」は忠実に再現されています。<br />   これらの事柄から言えることは<span style="font-size:x-large;">秋庭さんの「印刷の専門家」は存在そのものが捏造か</span>、専門家のまともな話を秋庭さんが歪曲したか、理解できないままに書いたかのいづれかです。<br /><br />           森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、一枚図の大捜索を行なったが見つけら<br />          れず、結果的に近代文学館に先を越された状況にあった。しかし、オリジナルを入手したことで、<br />          「復刻版」の完成図は鷗外が作ったオリジナルではなく、戦後に作られたものだとわかり、名誉<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">を回復。逆に「これまで一度も本物の一枚図を確認したことはない」という立場に転じ、堂々と</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 34頁)</span><font face="Times New Roman, serif"><br /><br />           </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">〝初公開″と銘打った展示を決定した、というわけである。</span><br /><br />   もう、完璧に意味不明な妄想ですね。<br /><br />           <span style="color:rgb(255,0,0);">森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、</span><br /><br />   「<span style="color:rgb(255,0,0);">公式の拠点</span>」今現在どうなってるんでしょうか?鴎外記念室。<br />   前出の様に<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">これ2003年の話でしょ?</span></span>記念室と言うか、<span style="font-size:x-large;">本郷図書館の分離は2006年。</span>その時<span style="font-size:x-large;">記念室は</span>そのまま旧森鷗外記念文京区立本郷図書館に<span style="font-size:x-large;">残って、</span><span style="font-size:x-large;">2008年に</span>記念館建設のため<span style="font-size:x-large;">一旦閉館</span>ですよね。<br /><br />   そして今年旧本郷図書館跡地すなわち観潮楼跡地に「<a href="http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_academy_moriougaikinen.html">文京区立森鷗外記念館</a>」として再開される予定で、現在は文京区役所アカデミー推進課が開館準備にあたっておられる様なのですが、<br /><br />   http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_academy_moriougaikinen.html<br /><br />   従来「森鷗外記念室」の運営は、「森鷗外記念会」と言う森鷗外記念室創設の主体となった委員会を前身とする会員制の任意団体に委託されていました。その運営活動の中で、企画展や資料叢書の刊行などがなされていました。<span style="font-size:x-large;">「森鷗外記念室」は</span>そんな<span style="font-size:x-large;">民</span>(記念会)と<span style="font-size:x-large;">官</span>(文京区)の<span style="font-size:x-large;">協働</span>で成り立っている<span style="font-size:x-large;">組織</span>なので秋庭さんの言う「<span style="color:rgb(255,0,0);">公式の拠点</span>」とは何なのか。秋庭さんのこの<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、一枚図の大捜索を行なったが見つけら<br />          れず、結果的に近代文学館に先を越された状況にあった。しかし、オリジナルを入手したことで、<br />          「復刻版」の完成図は鷗外が作ったオリジナルではなく、戦後に作られたものだとわかり、名誉<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">を回復。逆に「これまで一度も本物の一枚図を確認したことはない」という立場に転じ、堂々と</span><br /><font face="Times New Roman, serif">          </font><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">〝初公開″と銘打った展示を決定した、というわけである。</span></span><br /><br />   <span style="font-size:x-large;">妄想の上</span>で、「公式」である<span style="font-size:x-large;">必要</span>があるから文京区<span style="font-size:x-large;">=</span><span style="font-size:x-large;">公式の拠点と「銘打っ」ておられる</span>わけです。<br />   自称文京区在住で、だから旧森鷗外記念文京区立本郷図書館に土地鑑──移転前に建物の前くらいは通ったかもしれない──が一応あるとする秋庭さんが<span style="font-size:x-large;">一枚物の</span>図の<span style="font-size:x-large;">発見</span>に立ち会ったと言うこと<span style="font-size:x-large;">を捏造する</span>ために<br /><br />           「……これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがないということでした。つま<br />          り、一枚図を見た人はいないということで、記念室としましては〝初公開″と銘打って展示をし<br />          ようかと検討しているところです」<br /><br />    この「<span style="font-size:x-large;">室長</span>」なる人物の発言を秋庭さんは「<span style="font-size:x-large;">口寄せ</span>」して<span style="font-size:x-large;">捏造</span>をされたわけですね。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">    オリジナルの一枚物の「東京方眼圖」を公式の拠点たる森鷗外記念室が発見<br />    従って、それは鷗外様御親筆<br />    なので公式の拠点は企画展示を実施<br />    その発見に事実上立ち会った秋庭さん<br />    ゆえに秋庭さんの提示資料は本物</span><br /><br />   「……これは<span style="font-size:x-large;">たった一枚のオリジナル</span>で、……」っても、<span style="font-size:x-large;">所詮は</span>明治42年の<span style="font-size:x-large;">市販印刷物</span>なんだが。それとも版下か原稿だとでも言いたいのか?ならそう書くべきだがそんな証明はひとつもない。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   要するに自己正当化のために、歴史上の著名人鷗外が「政府」の陰謀である「秋庭式地下妄」を暴こうとして一枚物の「東京方眼圖」を「発表」(発案)したことにしたかったんですね。</span><br /><br />           もうひとつ、首をかしげるのは、室長が書庫から一枚図が出てきたとしていることである。諸<br />          般の事情から、そういう話が作られたと思われるのだ。実際のところは、鷗外の親族から入手し<br />          たに違いない、と私は思っている。<br /><br />    これも<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが</span>「室長が書庫から一枚図が出てきたとしていることである。」と<span style="font-size:x-large;">口寄せ</span><span style="font-size:x-large;">しているだけ</span>ですね。でっ、妄想の証拠「…、と私は思っている。」が出ました。<br /><br />           なぜなら、本当に書庫の底から見つかったとしたら、親族には何度コピーされたかわかるはず<br />          がない。「これはたった一枚のオリジナルで、一度も複写されたことがない」 といえるのは、オ<br />          リジナルを手元に保管していた人物だけである。<br /><br />    だから、明治42年にある程度の数刷られた市販印刷物の「東京方眼圖」にコピーがどうのこうのって秋庭さんが言うところの「鷗外研究の公式の拠点の『室長』」が研究者なら言うはずのないことを秋庭さんだけが言い切れるのはなぜかってことです。<br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">          ………………………………………………………ただ、この事実を明らかにしてしまうと、以前<br />          行なった大捜索の際、鷗外の親族がこの地図を出さなかったことがあからさまになるため、親族<br />          が悪者になりかねない。そうしたことを配慮して、「書庫から見つかった」としていたのではな<br />          いかと思う。</span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">  明治42年にある程度の数刷られた市販印刷物の「東京方眼圖」を、とうの昔に戦災で焼けて無くなっている「鷗外の自宅の書庫はもちろんのこと、…探したが、見つからなかった」、当の焼け跡の跡地に建った、「文京区立森鷗外記念本郷図書館」内にあった「森鷗外記念室」の「室長」なる人物が絶対発言しないことを秋庭さんは口寄せしている訳です。</span><br /><br />           なぜ、初めに親族が一枚図を出さなかったかということについては、この地図が何を目的とし<br />          て作られたかということと深く関係があるのではないだろうか。本書を読み進めていくうちに、<br />          おのずとわかっていただけると思う。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   これだけ前提となる事実が存在しないのだから、「この地図が何を目的として作られたか」は「本書を読み進めて」いっても判らないと思うが。</span><br /><br />           まもなく 〝初公開″ の展示が始まり、記念室には連日、文壇の大御所や有名作家が現れ、室長<br />          は親族のわきで満面の笑みを浮かべていた。それを見ていて私は思った。この展示によって、近<br />          代文学館が先に一枚図を公開した「復刻版」は、人々の記憶から永久に消し去られてしまうので<br />          はないか。そして、それこそが室長が心の底で望んでいたことではなかったのかと。<br />           わが国はヨーロッパ諸国に比べると、民主主義の歴史が浅いから、〝公式の記録″ と 〝民間の<br />          記録″ が異なっている場合、公式のものが優先されてしまう。室長はそれがわかっているから、<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">あえてこのような展示をしたということである。</span><br />                                          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 35頁)<br /><br /><br /><br />   この「</span><span style="font-size:x-large;">〝初公開″の展示</span>」<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">がいつ行われたのか、秋庭さん<span style="font-size:x-large;">は時期を明らかにされていません。</span>秋庭さんによれば「</span><span style="color:rgb(255,0,0);">森鷗外記念室は鷗外研究の公式の拠点として設置され、</span>」ているわけですから、この<span style="font-size:x-large;">展示について</span>は文京区に<span style="font-size:x-large;">記録が</span>残っているはずですが、<span style="font-size:x-large;">見当りません。</span><br />   <br />         <span style="color:rgb(255,0,0);">…記念室には連日、文壇の大御所や有名作家が現れ、…</span><br /><br />   秋庭さん「大御所」の意味解ってる?「大御所」って当代に原則一人しかいないか、全然該当者が居られないか、なものなんですが。2003年の文壇に「大御所」っていらしたのでしょうか?2003年度の文壇の大御所、はて該当作無しなんじゃないかしら(笑「有名作家」って御近付になる前の島田荘司さんかしら(笑<br />   鷗外業績の本流でもない、文壇の大御所にも有名作家にも係わるもののない、東京案内<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">でしかない一枚物の印刷物「東京方眼圖」</span>を見に何で「…連日、文壇の大御所や有名作家が現れ、…」なきゃならないのか?それを確認していた秋庭さん、余程暇だったんでしょうか(笑<br /><br />         <span style="color:rgb(255,0,0);">…室長は親族のわきで満面の笑みを浮かべていた。…</span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br />    御親族がお輿になる理由がわかりません。壁に貼り付けた一枚物の印刷物「東京方眼圖」を秋庭さんが主張する</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「</span>〝初公開″の展示」<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">だからと</span>は<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">言え、</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">親族としては「室長」の脇に居なきゃならない何の責任も義理もないんですが。親族「ホスト」なの?「ゲスト」なの?何で居らっしゃるの?<br />   と言うか秋庭さんはどうやって親族って判ったんだろう?鷗外の親族って極々一般の人で見分けがつかんと思うのですが、リボン徽章とか胸バラ徽章とかに「親族」とか入ってたんだろうか?苗字が「森」でない方とか色々だろうし、「室長」が秋庭さんに紹介とかは</span>「…文壇の大御所や有名作家…」も含めて<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">そんな義理はなさそうだし。<br /><br /></span><span style="color:rgb(255,0,0);">        ………………………………………………。それを見ていて私は思った。この展示によって、近<br />          代文学館が先に一枚図を公開した「復刻版」は、人々の記憶から永久に消し去られてしまうので<br />          はないか。そして、それこそが室長が心の底で望んでいたことではなかったのかと。<br />           わが国はヨーロッパ諸国に比べると、民主主義の歴史が浅いから、〝公式の記録″ と 〝民間の<br />          記録″ が異なっている場合、公式のものが優先されてしまう。室長はそれがわかっているから、<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">あえてこのような展示をしたということである。</span></span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br />    全国の図書館等に<span style="font-size:x-large;">何百枚と所蔵</span>されている<span style="font-size:x-large;">「復刻版」</span>、或いは<span style="font-size:x-large;">秋庭さんが</span>「発見」に事実上<span style="font-size:x-large;">立ち会った</span>とする<span style="font-size:x-large;">明治42年</span>「<span style="font-size:x-large;">発表</span>」の</span><span style="font-size:medium;"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物</span></span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">の印刷物「<span style="font-size:x-large;">東京方眼圖</span>」の「<span style="font-size:x-large;">発見</span>」<span style="font-size:x-large;">以前から</span>、<span style="font-size:x-large;">国立国会図書館はじめ</span>枢要な図書館等に<span style="font-size:x-large;">所蔵</span>され<span style="font-size:x-large;">公開</span>されていた</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物の<span style="font-size:x-large;">印刷物</span><span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」</span>、或いは<span style="font-size:x-large;">「復刻版」の元</span>となった愛書家より</span><span style="font-size:x-large;">昭和46年5月以前</span>に公益財団法人日本<span style="font-size:x-large;">近代文学館</span><span style="font-size:x-large;">に贈与された</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物の印刷物<span style="font-size:x-large;">「東京方眼圖」は</span>今「</span>人々の記憶から永久に消し去られてしまう」どころか事実、現実として<span style="font-size:x-large;">〝公式の記録″として残っている</span>のですが、「室長」それが理解できないような、秋庭さん並のヴァカなんでしょうか?<br />   そう「室長」秋庭さん並のヴァカなんです。だって、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">「室長」秋庭さんの捏造</span></span>ですもの。<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">以上見ての通り、<span style="font-size:x-large;">「室長」</span>なる人物<span style="font-size:x-large;">の発言</span>、その<span style="font-size:x-large;">内心</span>を表象するものは、<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">秋庭さんの口から出たもの以外にありません。</span></span>でその<span style="font-size:x-large;">内容</span>あるいは<span style="font-size:x-large;">事実関係</span>は</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">以上見ての通り</span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><span style="font-size:x-large;">全て</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">嘘</span></span><span style="font-size:x-large;">。</span><br /><br /><br /></span> 何故、<span style="font-size:x-large;">秋庭さん</span>が一枚図の<span style="font-size:x-large;">発見に立ち会ったことにしたかった</span><span style="font-size:medium;">か。</span>秋庭さんは「オリジナル」な「東京方眼圖」を見ているのだと、<span style="font-size:x-large;">秋庭本</span>で掲示する「<span style="font-size:x-large;">東京方眼図」は「オリジナル</span><span style="font-size:x-large;">」鷗外</span>が直接いじった<span style="font-size:x-large;">原稿図</span>ですよとでも<span style="font-size:x-large;">言いたかった</span>んでしょうね。こんな<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">嘘</span></span><span style="font-size:x-large;">を吐くために。</span><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br />          </span><strong><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">改竄された「東京方眼図」</span></strong><br />           展示が終わって、一枚図の「東京方眼図」が壁から外されたところで、私は第一号のコピーを<br />          とらせていただいた。翌日、一枚図は国会図書館に送られ、その後、全国の図書館で公開されて<br />          いる。<br />           じつは、本書付録の「東京方眼図」は全国で公開されているものと同じであって、私が持って<br />          いる第一号のコピーではない。左ページにあるのが私の持っている第一号コピーである。親族が<br />          「一度も複写されていない」といっていたから、正真正銘のオリジナルのコピーである。<br />           二つの矢印の先をご覧いただきたい。陸地測量部の前から東に向かって細い一本の線が延びて<br />          いる。これが折り目のたぐいでないことば、堀や川などの水中に断続的に続いていることから、<br />          おわかりいただけよう。この線は隅田川の河口にある八丁堀の川口町へと続いていて、緯度経<br />          度の線より少し明るい赤色だった。ところが全国公開されている一枚図では、この線が消されて<br />          いるのである。<br />           この線は方眼の中間に書き足されているから、誰が見ても横線が一本多く見えた。それは中世<br />          ヨーロッパの地図などで用いられていた、都市建設の座標軸、地下道の基準線を描く手法と同じ<br />          もので、詳細は後述するが、鷗外はそれにならって余分な線を描き込んでいたはずである。とこ<br />          ろが、いま全国で公開されている一枚図では、海や湖、川や堀などが新たなグリーンで塗り直さ<br />          れ、この線が塗りつぶされているから、基準線が見つけられなくなってしまった。このような赤<br />          色の基準線は、このほかにも上野不忍池の中央を横切っているものがあったが、それも塗りつ<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ぶされている。</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 36頁)</span><br /><br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 戦後六十年を過ぎ、二十一世紀を迎えたわが国では、個人の作品を政府が改竄することは許さ</span><br />          れていないはずだが、明らかに改竄されているのである。仮に私の解釈が見当外れだったとして<br />          も、他人の作品に手を入れてはならないはずである。<br />           なぜ、このようなことが行なわれたのだろうか。その謎を解くには、東京の地下の真実を知る<br />          必要があると思う。それを知れば、「東京方眼図」を鷗外が発表した目的も、室長の言葉の意味<br />          も、そして何よりも謎だらけの「東京方眼図」を読み解くこともできるはずである。初めて一枚<br />          図を見てから十年、私はそう考えている。<br />           その間、私は東京の地下の透明化を訴えてきた。それはなぜ、ある地図では地下鉄が交差して<br />          いるのに別の地図では離れているのか、また、なぜ戦後に開通した地下鉄のトンネルが「二〇〇<br />          ヤード」という戦前に使われていた単位で設計、施工されているのか、といった文書資料にもと<br />          づいたアプローチもあれば、実際にそのトンネルを確認し、なぜ開通したばかりのトンネルが百<br />          年も前に作られたコンクリートのように変色して水がしたたっているのか、といった現場の状況<br />          からのアプローチもあった。が、本書ではそうした疑惑の掘り起こしともいうべき部分はカット<br />          し、「方眼図」の謎の解明に集中した。したがって、そういう疑惑の現状については、いままで<br />          の著書などを参考にしていただきたい。<br />           森鷗外は文豪であり、軍医であり、さらには当時の公衆衛生の権威でもあった。その知識は広<br />          く、しかも深いから、私ひとりでこの作品をすべて解き明かすことはできそうにないが、私なり<br />          の説明がついたものを公開することで、江戸初期から四百年、私たち市民の目から隠されてきた、<br />          東京の地下の真実を読者に理解していただければと願っている。そして、それが「東京方眼図」<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">に込められた鷗外の思いを伝えることにもなる、と考えている。</span><br />                                         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">(第一章 鷗外の地図が見つかった 38頁)<br /><br />    さて、<span style="font-size:x-large;">秋庭さん</span>は以下の通り、「室長」の<span style="font-size:x-large;">犯罪を暴いて</span>おられる。<br /><br /></span>         展示が終わって、一枚図の「東京方眼図」が壁から外されたところで、私は第一号のコピーを<br />          とらせていただいた。<span style="color:rgb(255,0,0);">翌日、一枚図は国会図書館に送られ、</span>その後、全国の図書館で公開されて<br />          いる。<br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /></span><span style="font-size:x-large;"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">「…</span>翌日、一枚図は国会図書館に送られ、…」</span>何で国会図書館?既に本館、関西館等合わせて6セットも<span style="font-size:x-large;">明治42年刊の「東京方眼圖」を保有する国会図書館に</span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">文京区民の財産</span></span>(価格的なものではなく、文献資料としての)<span style="font-size:x-large;">が誰にも断りなく何故送られるのだろうか?</span><br /><span style="font-size:x-large;">   秋庭さんは、「室長」が<span style="color:rgb(255,0,0);">区の財産</span>を勝手に処分したと仰っている</span>のではないだろうか。<span style="font-size:x-large;">「室長」</span><span style="font-size:x-large;">には</span>文京区として国会図書館に、「森鷗外記念文京区立本郷図書館森鷗外記念室」の書庫の底(書庫の底って何だよ)で発見された、一枚物の「東京方眼圖」を<span style="font-size:x-large;">貸与あるいは譲渡する権限があったのか?</span><br /><br />   <span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">ないよね。</span></span>秋庭さん的には「室長」が存在し、公式な職務の様だから、<span style="font-size:x-large;">文京区の財産を勝手に処分したら</span>それは<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">背任</span></span>と言う刑法犯罪になります。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   </span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">秋庭さん何故正式に「室長」の行為を告発しないんだろう?政府の陰謀の格好の証拠になるのに。</span></span><br /><br />   一方で、こんなことを書かれた「室長」と文京区何故秋庭さんに抗議をしないのだろう?そちら側から見れば実に立派な「室長」に対する人権侵害なのに。<br />   「…その後、全国の図書館で公開されている。」その様な事実はありません。そんな手順をどこ(公共図書館、大学図書館、私設図書館)の誰が企画し、どこの (図書館)が、どこ(国会図書館?)に何を依頼し誰が手配するのか?公開にはそれぞれに金がかかる。一枚物の図の移送だって、美術品(貴重品)扱いでしかるべく荷造りし、専門業者に輸送を委ねなければできません。公開っていうのはそれぞれの立場に応じての公式の行事 だから案内とか、資料とか、何らかの記録が残るだろうに、そんな記録はありません。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">  要するに、「森鷗外記念室」での<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物の印刷物「東京方眼圖」も、「室長」も秋庭さんの捏造です。</span></span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /><br /></span><span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">  存在しない「事実」、存在しない「人物」これでは、抗議も告発もどちらも、しようがありません。</span><br /></span></span><br />    更に不思議な話<br /><br />           じつは、本書付録の「東京方眼図」は全国で公開されているものと同じであって、私が持って<br />          いる第一号のコピーではない。左ページにあるのが私の持っている第一号コピーである。親族が<br />          「一度も複写されていない」といっていたから、正真正銘のオリジナルのコピーである。<br /><br />   秋庭本<span style="font-size:x-large;">付録</span>の<span style="font-size:x-large;">「東京方眼図」</span>は「一葉から始める」の付録から<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">パクッた</span></span><span style="font-size:x-large;">物で、</span><span style="font-size:x-large;">元は</span>公益財団法人日本近代文学館の<span style="font-size:x-large;">「復刻版」</span>だと言うことは別項で触れたとおりです。<br />   秋庭さん何で、「第一号のコピー」とやらをとられたんでしょうか?今までの文章を見る限り、秋庭さんには、その時点で一枚物の「東京方眼圖」の部分コピーをとらなければならない必然がないのですが。<br /> あの、どんなに<span style="font-size:x-large;">怪しげな情報でも、自分の都合にあったものはリニアにすぐに自著に取り入れ、<span style="color:rgb(255,0,0);">盗用</span>、<span style="color:rgb(255,0,0);">歪曲</span>、<span style="color:rgb(255,0,0);">改竄</span>をしまくった、秋庭さんが、</span>何で<span style="font-size:x-large;">2003年に確保した</span>と自称する<span style="font-size:x-large;">資料</span>を後生大事に<span style="font-size:x-large;">2011年末まで抱え込んでおられたのかなぁ?</span>不思議ですねぇ。何で<span style="font-size:x-large;">今頃</span>「東京方眼図」だのその<span style="font-size:x-large;">「…正真正銘のオリジナルのコピー…」</span>だの<span style="font-size:x-large;">が現れて来る</span>んですか?やはり<span style="font-size:x-large;">秋庭さんは神の手の持ち主</span>なんでしょうかね。<br />   しかし、<span style="font-size:x-large;">奇体な日本語</span>ですねぇ、<br /><br />            ………………………………………………<span style="font-size:x-large;"><span style="color:rgb(255,0,0);">正真正銘のオリジナルのコピー</span></span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">   何故、全紙で撮られなかったんでしょうね?</span>正真正銘のオリジナルのコピーであることを証明する方法は、全紙で全体をコピーするか、全体を写真複製で撮るしかないのではありませんか?少なくとも<span style="font-size:x-large;">題号や「明治四十二年六月森林太郎立案」「春陽堂」などの表示部を無視して</span>どうやって、<br /><br />           ………………………………<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">左ページにあるのが私の持っている第一号コピーである。</span></span><br /><br /><span style="font-size:x-large;">挙証できるんでしょうね?</span><br /><br />          …………………………………………………………………………………………………<span style="color:rgb(255,0,0);">親族が<br />          「一度も複写されていない」といっていた</span>……………………………………………………………<br /><br /> とは、<span style="font-size:x-large;">「室長」が言っていたのを秋庭さんが聞いたと、秋庭さんが言っているだけの話、</span>これが何か証拠性を持っているのでしょうかね?<br /><br />          ……………………………………左ページにあるのが私の持っている第一号コピーである。親族が<br />          「一度も複写されていない」といっていたから、正真正銘のオリジナルのコピーである。<br />           二つの矢印の先をご覧いただきたい。陸地測量部の前から東に向かって細い一本の線が延びて<br />          いる。これが折り目のたぐいでないことば、堀や川などの水中に断続的に続いていることから、<br />          おわかりいただけよう。この線は隅田川の河口にある八丁堀の川口町へと続いていて、緯度経<br />          度の線より少し明るい赤色だった。ところが全国公開されている一枚図では、この線が消されて<br />          いるのである。<br />           この線は方眼の中間に書き足されているから、誰が見ても横線が一本多く見えた。……………<br />   <br />    なるほどこういう<span style="color:rgb(255,0,0);">嘘</span>を吐くためだったんですか。秋庭さんの仰る「左ページ」と言うのがこれです。<br /><br />          <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%94%B9%E7%AB%84%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%A6%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE.jpg" alt="" /><br /><br /><br /><br />          ………これが折り目のたぐいでないことば、堀や川などの水中に断続的に続いていることから、<br />          おわかりいただけよう。<br /><br /><br />   などと、まぁ、いかにももっともらしい構成ですけれど。<span style="font-size:x-large;">チョッと拡大</span>していくともう<span style="color:rgb(255,0,0);"><span style="font-size:x-large;">歪曲</span></span><span style="font-size:x-large;">がバレバレ。</span>まず左側の矢印部分<br /><br />           <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E6%94%B9%E7%AB%84%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%A6%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE.JPG" alt="" /><br /><br /><br /><br />   秋庭さんが書き足した矢印で示されている線、その右の方への延長線上町名表示、「<span style="color:rgb(255,0,0);">南鍛</span>」冶町とか中「<span style="color:rgb(255,0,0);">橋</span>」町とかの<span style="font-size:x-large;">文字潰れ</span>てますが、これは何でしょうね。<span style="font-size:x-large;">「折り目のたぐい」で潰れてる</span>んじゃないのかなぁ(笑<br />   そして右側矢印部分<br /><br />        <img alt="" src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E3%81%84%E3%82%84%E3%81%A3%E3%80%81%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E6%94%B9%E7%AB%84%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B%E3%82%89.JPG" /><br /><br /><br />   この辺がキレイに出ているので、日本近代文学館復刻版のこの部分を挙げておきます。もし秋庭本37頁の図が秋庭さんの言う様な「正真正銘のオリジナルのコピー」ならば、復刻版では潰れていない文字が潰れているのは変でしょう?<br /><br />        <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%95%EF%BC%99%E5%B9%B4%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%E4%B8%80%E6%9E%9A%E5%9B%B3%E9%83%A8%E5%88%86.jpg" alt="" /><br /><br />   で念のため明治42年6月刊行(秋庭式では「発表」)の大阪府立中央図書館所蔵(修理中ですが)の一枚物の「東京方眼圖」のオリジナルのコピー(笑)の該当部分を挙げておきます。<br /><br /><img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E8%94%B5%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E7%89%88%E4%B8%80%E6%9E%9A%E5%9B%B3%E9%83%A8%E5%88%86%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%88%86.jpg" alt="" /><br /><br />    ご覧の様に、基本的に秋庭さんが「基準線」と言う場所は、「東京方眼圖」を折りたたむ時最初に二つに折る部分なので、必ずこの辺りに折り目が来ます。したがって、秋庭さんの「オリジナルのコピー」と少しズレた所の文字が潰れたりしていますが、秋庭さんの言う「基準線」とは折り部分がずれていますので、<br /><br /><br />          ………………………………………ところが全国公開されている一枚図では、この線が消されて<br />          いるのである。<br />           この線は方眼の中間に書き足されているから、誰が見ても横線が一本多く見えた。それは中世<br />          ヨーロッパの地図などで用いられていた、都市建設の座標軸、地下道の基準線を描く手法と同じ<br />          もので、詳細は後述するが、鷗外はそれにならって余分な線を描き込んでいたはずである。とこ<br />          ろが、いま全国で公開されている一枚図では、海や湖、川や堀などが新たなグリーンで塗り直さ<br />          れ、この線が塗りつぶされているから、基準線が見つけられなくなってしまった。このような赤<br />          色の基準線は、このほかにも上野不忍池の中央を横切っているものがあったが、それも塗りつ<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ぶされている。<br /></span>        <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 戦後六十年を過ぎ、二十一世紀を迎えたわが国では、個人の作品を政府が改竄することは許さ</span><br />          れていないはずだが、明らかに改竄されているのである。仮に私の解釈が見当外れだったとして<br />          も、他人の作品に手を入れてはならないはずである。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">   秋庭さんの言うように、戦後の政府が、「基準線」を消したのなら、この明治42年の「東京方眼圖」には「基準線」があるはずですが、なぜ「緯度経度の線より少し明るい赤色」の線が無いのでしょうかね?</span><br /><br />           ………………、このほかにも上野不忍池の中央を横切っているものがあったが、それも塗りつ<br />          <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">ぶされている。</span><br /><br />    秋庭さんが37頁に挙げた「オリジナルのコピー」にはその部分は範囲外でコピーされていませんけれど。秋庭さんが掲示する<span style="font-size:x-large;">「正真正銘のオリジナルのコピー」</span>は──森鷗外の「帝都地図」隠された地下網の秘密──を通じて<span style="font-size:x-large;">このページにしか挙っていない</span>ようなのですが。もっと言えば、この「基準線」(折り目だけど)なるものが載る「オリジナルのコピー」、以降御本の巻末まで、妄説でこれっぽっちも登場せずに、使われずに論及なさっておられないのですが。後で「南北の基準線」なるものも出てきますが、これはさすがにそれらしい折り目が見つけられなかったのか、方眼の縦線をそのままお使いになっておられます。<br /><span style="font-size:x-large;">  御本の妄説の論証にお使いの図は、「オリジナルのコピー」ではなく、坂崎重盛氏の「一葉からはじめる東京町歩き」から<span style="color:rgb(255,0,0);">盗んで</span>(坂崎氏は日本近代文学館の復刻版から<span style="color:rgb(255,0,0);">パクっ</span>て)きた縮刷版の一枚物の<span style="color:rgb(255,0,0);">図ばっかり</span>ですけど。<span style="color:rgb(255,0,0);">そんな</span>ことばかりしてる<span style="color:rgb(255,0,0);">人</span>が、</span><br /><br /><span style="color:rgb(255,0,0);">         <span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"> 戦後六十年を過ぎ、二十一世紀を迎えたわが国では、個人の作品を政府が改竄することは許さ</span><br />          れていないはずだが、明らかに改竄されているのである。仮に私の解釈が見当外れだったとして<br />          も、他人の作品に手を入れてはならないはずである。</span><br /><br />    政府の改竄をでっち上げるって。ねぇ、<span style="font-size:x-large;">それってギャグですよね。</span>ねっ、ねっ。<span style="font-size:x-large;">「他人の作品に手を入れ」どころか、<span style="color:rgb(255,0,0);">盗用の盗用</span>をした人が。</span>えっ?<br /><span style="font-size:x-large;">  「森鷗外記念室」での「東京方眼圖」の発見を<span style="color:rgb(255,0,0);">でっち上</span><span style="color:rgb(255,0,0);">げ</span>、「室長」なる人物を<span style="color:rgb(255,0,0);">でっち上げ</span>た、<span style="color:rgb(255,0,0);">捏造家</span>が、<span style="color:rgb(255,0,0);">嘘吐き</span>が何を言うかと思えば、</span><br /><br />          なぜ、このようなことが行なわれたのだろうか。その謎を解くには、東京の地下の真実を知る<br />          必要があると思う。それを知れば、「東京方眼図」を鷗外が発表した目的も、室長の言葉の意味<br />          も、そして何よりも謎だらけの「東京方眼図」を読み解くこともできるはずである。初めて一枚<br />          図を見てから十年、私はそう考えている。<br /><br /><span style="font-size:x-large;">  多分秋庭さんは、明治42年版の一枚物の「東京方眼圖」を見てないのではないかと思います。</span><br />   次の三枚の図有楽町一丁目付近を見ていただくとそれが判ります。<br />    まず、秋庭さんの「オリジナルのコピー」の有楽町一丁目付近。秋庭さんを真似て矢印を付けてみました、灰色の矢印の先に「二丁目」の「目」の字があります。「二」に較べてひどく細くなっていますが「目」です。<br /><br />                  <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%EF%BC%93%EF%BC%97%E9%A0%81%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.JPG" alt="" /><br /><br />   日本近代文学館復刻版の有楽町一丁目付近。緑の矢印の先の「二丁目」の「目」これも細いですね。何故この「目」が細くなっているのか、下の赤い矢印の指すところを見てみると、判りますよね。縦の折り目だからです。しかもこの復刻版のこの部分と秋庭さんの「オリジナルのコピー」とはそっくりです。<br /><br />                 <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE.JPG" alt="" /><br /><br />    そして大阪府立中央図書館の間違いなく、明治42年六月刊行同年八月所蔵の一枚物の「東京方眼圖」の有楽町一丁目付近。緑の矢印の先「二丁目」の「目」細くないですね。左側の一丁目の「目」とほぼ同じ普通の幅の「目」の字です。赤い矢印を見るまでもなく、ここが縦の折り目だと言うのが良く分かると思います。<br />   <br />  <br />                 <img src="http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=158&amp;file=%E6%98%8E%E6%B2%BB%EF%BC%94%EF%BC%92%E5%B9%B4%E6%8A%98%E3%82%8A%E7%9B%AE.JPG" alt="" /><br /><br /><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">   世の中に数十枚は現存すると思われる本当のオリジナル明治42年版の一枚物の</span>「東京方眼圖」、復刻版と明治42年版比較すると刷り重ねの位置が異なるため、水色の青がずれているのがわかると思いますが、当時の平版印刷の技術では一枚一枚刷り上がりが異なっていたかと言う事なのでしょう。復刻版は元になった日本近代文学館所蔵の明治42年版の<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">一枚物の</span>「東京方眼圖」は重ね刷りの位置決めが正しかったので水色の青が外堀の線図の中に収まっています。それだけ刷に違いがあるわけですから、2003年に「森鷗外記念室」で「書庫の底」とやらから発見された一枚物の東京方眼図から秋庭さんが取られたという「オリジナルのコピー」が日本近代文学館の復刻版と同じエラーを持っていること、しかもそれは復刻版印刷時に折と係わりなく発生しています(復刻版の折り目の部分を開いても「目」は細いまま)。<br /><span style="font-size:x-large;">  冒頭より、──2003年に「森鷗外記念室」で「書庫の底」とやらから発見された一枚物の東京方眼図──はその出来事、登場人物全て秋庭さんによる<span style="color:rgb(255,0,0);">虚構</span>、<span style="color:rgb(255,0,0);">捏造</span>であることを明らかにしてきたわけですが、この秋庭さんの「オリジナルのコピー」に至っては日本近代文学館の復刻版の「オリジナルのコピー」であると断言しておきます。ひょっとしたら、坂崎重盛氏の「一葉からはじめる東京町歩き」(2004年実業之日本社刊)の付録の「オリジナルのコピー」かも知れません。これなら数千枚も出回っていますので、秋庭さんの妄想通りに折り目が擦れ汚れで線の様に見えるものがあったかも知れませんから。<br /></span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /></span><span style="font-size:x-large;"><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">要するに、今回の</span>──森鷗外の「帝都地図」隠された地下網の秘密──<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">は如何にも元テレビ屋の秋庭さんならではの「<span style="color:rgb(255,0,0);">仕込み</span>」で成り立ってるって事らしい(笑</span></span><span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br /><br />                                                                                   OP.20120514<br /></span></p>

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