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小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」参」(2013/10/06 (日) 13:20:34) の最新版変更点

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<p>支離滅裂さ更に更に続きます。<br /><br /><br />          <strong>迷走する道路行政</strong><br />           1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />          す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br />           現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。<br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br />           歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から<br />          始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br />           都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる<br />          自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治<br />          体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br />                                               (43頁1行目~44頁2行目)<br /><br />   地理感覚も、地誌感覚もボロボロですね。<br /><br />           1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />          す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br /><br />   雑踏を以って銀座と言うのか?雑踏を言うなら銀座の中心は、四丁目交差点ではなく、数寄屋橋からの晴海通りの方が「にぎわ」ってい<br />  ますが。<br />   松屋デパートのすぐ北側、ティファニーもあるメルサもある、そんな二丁目。歩いても四丁目交差点からたった200メートル先、そんなアッ<br />  と言う間の距離で<br /><br />           ……それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br /><br />   どれだけ狭いんだ?銀座エリア。<br />   実際に「都電跡をお歩きになった」上での感想ならば、個人の感覚を云々しても始まりませんが。<br />   銀座発祥の地碑って、二丁目にありませんでしたか?<br />   <br />           現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。<br /><br />   中央通の規制は、東西が晴海通りのみ中央通を横断可能となっているので、柳通り、マロニエ通り、松屋通り、みゆき通り、交詢社通り、花椿<br />  通り等々中央通を横断できない部分については、実質規制状態ですね。自転車も乗車は規制なので、かつて規制時間帯に、新橋方面から京橋<br />  の明治屋へ自転車で行くのに往生した記憶があります。<br />  <br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   本当にそうなのでしょうか?また、小川氏の言う原因<br /><br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、<br /><br />   はヨーロッパの路面電車の廃止?と同様なのでしょうか?<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />  近年とはいつのことでしょうか?<br />   鉄道雑誌などでよく取り上げられるのがフランスの低床式路面電車ですが、その導入時期は<br /><br />        ナント──1985年専用線化で再生低床化は後年<br />        グルノーブル──1987年<br />        パリ・イル・ド・フランス──1992年<br /><br />   グルノーブル25年前、四半世紀前ですよ。ドイツはそれ以前からですよね。<br /><br />   欧州の都市内交通としての路面電車は高速鉄道(地下鉄や高架鉄道)やバスとの競争に敗れて一旦衰微して行ったのではないでしょうか。<br />   我が国の都市交通としての路面電車も基本は、他の都市内交通機関との競争に敗れて衰微して行ったのではないでしょうか。<br />   ある程度の大型車両、元をただせば、馬車による大量交通を可能にした道路設備と、歩車の分離が相当に進んでいた欧米に比べ、道路<br />  状況が相当に貧弱であった我が国ではありましたが、<br /><br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれ<br /><br />  た訳ではありません。交通機関としての競争に負け、公共交通機関としての必要性と税金で支えきれるかとのバランスが取れなくなった結果<br />  での廃止だったのではないのでしょうか?<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   路面電車が見直されているのでしょうか?都市域内で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を埋め<br />  るものとして、中間的な鉄道システムが見直されてきているのではないのでしょうか?<br />   そして、復活と言うからには、コミュニティー内の乗り物として従来あり、1930年頃から1950年代に掛けて一旦廃止されたものについて、<br />  道路容量に余裕があるなどの条件が既に整っていた関係で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を<br />  埋める需要が出てきた結果、復活できたのではないかと思われますが。<br />   単に省エネであるとか、環境問題によるとか、では無い合理的なニーズ、半径の小さい曲線区間の多い市内(コミュニティー内)の併用軌道<br />  から専用軌道(日本で言う新設軌道)、さらには高速鉄道の高規格線への乗り入れが可能であるとか、それらとプラットホームを介して乗降連<br />  絡が容易であることと、信用乗車制度の普及とあいまっての交通機関としてのシームレス性であるとかによって復活しているのではないかと考<br />  えられています。<br />   決して、<br /><br />                                     ……道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br /><br />  などと言う、「人間復権」のような怪しげなお題目によっているわけではありません。<br />   LRTの様な中間的な鉄道システムの中での従来の路面電車的部分を理由にして、<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   な訳ではありません。<br />   実際、各地の中間的な鉄道の沿線に「トランジットモール」なるものが占める割合は如何許りのものでしょうか?その「トランジットモール」内<br />  での時間当たりの運転本数は如何許りのものなのでしょうか?<br /><br />           自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br /><br />   交通体系をめぐる都市形態、都市計画を、安物の感情論的な、道路は歩行者のもの、歩行者優先とする正義感で語るべきではないと考え<br />  ます。<br /><br />            歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から<br />          始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。<br /><br />   本当に同様なものでしょうか?<br /><br />            歩行者を優先する概念<br /><br />  とは何でしょう?<br /><br />     大まかに言って「歩行者を優先する」こと<br /><br />  あるいは、<br /><br />     歩行者を優先すると言う大まかな考え方<br /><br />   ってことでしょうか?<br />   トランジットモールと歩行者天国、どちらも道路において歩行者を優先すると言う考え方のものではありませんし、夫々の仕組みも違います。<br />   <br />    トランジットモール──「(自動車の侵入を制限し、公共交通機関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)」とお書きになって<br />                  おられますが、「モール」って単純に道路って意味ですか?「散歩道」とか、特に米国の「モール」大規模な「商店街」<br />                  とかじゃあ無いんでしょうか?「散歩道」とか「商店街」に歩行者優先って変ですよね。本来は人が行き来するため<br />                  に存在する道なのではないんですか?それで歩行者優先って何ですか。<br />                  元来が、買物客、遊興客が移動交通し易い場所として設定されていると言う意味で、トラムやバスなどの交通機関<br />                  が人車区分されたレーンに存在しているので、歩行者優先の概念など関係しません。<br /><br />    歩行者天国────本来車両が通行する車道を規制し、車両の通行を臨時に遮断することで、車道と歩道の区別無く歩行者を往来させ<br />                 ること。遮断であるので、歩行者が往来を占有しているが、これも歩行者優先の概念など関係しません。<br /><br />                ……歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。<br /><br />   日本で最初の「歩行者天国」すなわち道路からの自動車の締め出しは、大規模なものとしては昭和44年(1969年)8月に旭川市の国道<br />  40号線の内駅 前からの総延長1キロメートルわたって8月6日から17日まで実施された「国道閉鎖」実験を嚆矢とするのではないでしょうか?<br />   また、昭和45年(1970年)8月2日に実施れた東京都の歩行者天国は銀座他新宿、池袋、浅草で同日に実施されています。<br />   「歩行者天国」と言う名称での実施ならば、この東京都の実験が最初ではありましょうが、これをしも、朝日新聞1966年の「歩行者の天国」<br />  と言う危ない表現が嚆矢ではありますし、旭川の実験以前にも小規模な自動車の遮断は各地で実施されていた訳で、1970年直前になって、<br />  具体的になってきた言葉であり、それこそ概念的には<br /><br />     歩行者天国は昭和44年(1969年)8月に実施された、旭川が日本初と言われています。<br /><br />  ではないでしょうか。<br /><br />                        都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br /><br />   どうも日本語になっていないようなのですが、<br /><br />                                                    ……都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。<br /><br />    都電の撤去とトランジットモールに何か関係があるのでしょうか?<br />    都電の撤去の目的は、〝歩ける街づくり〟だったのでしょうか?<br /><br />                   ……都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br /><br />    都電の廃止と歩行者天国の実験との間に何か関係性があったのでしょうか?<br />    道路を整備して、急増する自動車交通の通行の円滑化を図る政策という道路行政、最終的には道路の新設増強、既存道路の拡幅等を<br />  実施していく政策を具体化していく道路行政は一貫していました。その文脈の中に、財政再建団体となった都電を廃止撤去して東京都交通<br />  局の財政を健全化する計画がありました。<br />   一方で、光化学スモッグ等自動車に起因する都市公害等に対応していると言わんがためのパフォーマンスと、休日の商業地域の活性化<br />  対策。安保改定期での実質的なデモ、集会規制の一つの手段として、土・日・祝の都心道路の交通量が著しく閑散となる時期に自動車を遮<br />  断する「歩行者天国」は道路行政として何の矛盾をも生みだしていません。<br />    恒常的なものと、限定的に実施しているものは極めて大きな差異があります。小川氏は小川氏の脳内で理念が同じならば、<br /><br />     歩行者天国とトランジットモールは同一のものである<br /><br />   と仰っておられるのです。<br />    些事ですが、銀座四丁目の交差点を東西に横切る、8系統、9系統、11系統、36系統が運行されていた築地線は昭和46年(1971年)の<br />  廃止だったかと思いますが、銀座歩行者天国実施の時、この系統はどうしていたんでしょうか?当日運行されていたのならば、小川氏の様に<br />  トランジットモール=歩行者天国ならば、アクセスの一つとして広場への進入が果たされていたことになりますし、一方当日運休ならば、トラン<br />  ジットモールと歩行者天国は別物と言うことになりませんか。<br /><br />           都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる<br />          自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治<br />          体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br /><br />   道路に溢れる自動車は路面電車の廃止を含めた道路の整備によってその問題点を解消して行こうとするのが、政府や地方自治体の政策<br />  でした。現実に有効な施策でした。モータリゼーションと言う内需の拡大と自動車産業として外貨を稼ぐベースを、整備されていく道路が支え、<br />  路面電車に代わる高速鉄道や新交通システムが整備され、路面電車を廃して整備された道路環境と相まって、今日我々が享受している高度<br />  経済成長によってもたらされた果実は、1990年代に比べ絞り粕となっているかもしれないけれど、この政策によって得られているのではあり<br />  ませんか?<br /><br />           かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br /><br />    自動車、バス、トラック、乗用車、商用車、貨物車、特殊車両には人が乗り、貨物が積まれ、移動させ流通させ作業させるために、道路は<br />  自動車の走る空間になっているのではありませんか?<br />   なるほど、<br /><br />      かくして道路は、ただ人が歩行し、路面電車の走る空間となりました。<br /><br />  にしたいんですね。<br />   それが道路行政なんですか?項題を、こうお変えになったらいかがですか?<br /><br />          <strong>(小川裕夫が)妄想する道路行政</strong><br /><br />   続いての一項は文章としては些細な本末転倒ですが、小川氏のインチキな文章の構成法がよく判るパラグラフです。<br /><br />          <strong>東海道を通る一系統</strong><br />           【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上<br />          したところが【通三丁目】になります。不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、<br />          中央通りが八重洲通りと交わるところにありました。そのため、八重洲通りと誤解されや<br />          すいのですが、この〝通〟は「東海道」のことです。<br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ<br />          て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。<br />                                                (44頁3行目~10行目)<br /><br /><br />           【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上<br />          したところが【通三丁目】になります。<br /><br />   京橋-通三丁目間400メートルしかないですけど、電停の位置とかを、〝電車何たら図〟で見ただけで書いてませんか?<br /><br />            不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、<br /><br />   中央通の左右に亘って、日本橋から(町域変更後)、南へ通一、二、三丁目と言う地名がそもそもあったから【通三丁目】の電停名が後に<br />  起こったわけで、不思議なのは電停名ではなく、町名なんじゃないでしょうか?<br /><br />           この〝通〟は「東海道」のことです。<br /><br />   通一、二、三、四丁目の由来となった〝通〟は、北へは日本橋を通り過ぎて、筋交い辺りまでを「通」と呼んでいませんでしたか?<br />   現日本橋に、通一~四丁目が在った様に、現日本橋大伝馬町に通旅篭町、通油町、通塩町と言う町名がありました、これは御成(日光)<br />  街道が由来であったようですが、同じ日本橋界隈にしかも中央通沿いではなく日光、奥州街道沿いにも通を冠した町があったということは、<br /><br />           この〝通〟は「東海道」のことです。<br /><br />   とは必ずしも言い切れなくなるのではありませんか?<br />   しかも、旧町域で言うと、〝通〟は東海道の起点であろう日本橋と直接繋がって通一丁目があるのではなく、日本橋との間に、北西部分<br />  で西河岸町、北東部分で元四日市町が〝通〟の左右に存在します。〝通〟が東海道なら通1~4丁目は日本橋直接に連なっているので<br />  はないのでしょうか?<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、<br /><br />    第一京浜、中央通り、おまけで銀座通りは「国道15号線」の通称で、話の便宜上、小川氏によって<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた<br /><br />  のであって、別に国道15号線とだけ表現してこられてもよかったんです。<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ<br />          て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。<br /><br />   「国道15号線」偶々東海道と重なっただけでしょ。第一京浜の前は京濱國道だったんじゃないんですか?<br /><br />          ……江戸時代から整備されてきた東海道です。<br /><br />   少なくとも〝通〟は東海道として整備されてきたわけではありません。江戸のメインストリート、東海道、中山道、日光街道、奥州街道(に<br />  通じる道)として府内交通の中心と位置づけられた道です。<br />   第一、「中央通り」筋違から北、広小路まで「中央通り」ですし。<br /><br />          ……栄えある都電1系統が走る道路となります。<br /><br />  主客転倒なのではないでしょうか。<br />   後出しの系統番号が1番で、元東海道筋を走ってるからとこじつけて、<br /><br />          ……栄えある<br />   <br />  って、何か意味があるんですか?<br />   そんなご立派なものなら、何で、<br /><br />    栄えある廃止系統第一号<br /><br />  になっちゃったんでしょうね。<br /><br />   「明日、日本橋八つ正刻集合な」とか、東海道を京へ上る時とか、皆さん必ず、「お江戸日本橋七つ立ち」、されたんですかね?大名参勤交<br />  代するときも、あたかもそこに始発駅が存在するが如く、日本橋からお国入りに向かわれたんでしょうか?それなら、<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。<br /><br />  は、まあそうかもしれないと思いますけど、江戸屋敷から直接各木戸とか、品川、内藤新宿、千住等の宿駅を目指したんじゃないんでしょうか。<br />   上京とかに使われないんなら、〝通〟とかの整備は東海道だからと言うことにはなりませんね。<br /><br />   項題が刺激的な割りに中身が無いと言うのが小川氏の文章の特徴のようなのですが、次もそうです。まず全体を見てください。<br /><br /><br />          <strong>否定された馬車鉄道計画</strong><br />           都電の前身となる馬車鉄道が、初めて府民にお披露目されたのは、「東京馬車鉄道」が<br />          開業した明治一五(一八八二)年でした。<br />           馬車鉄道という用語は、いまや死語になっていますので、すこし説明が必要かも知れま<br />          せん。これは、道路上を自由に往来する、いわゆる馬車ではありません。馬が引っ張る客<br />          車は、道路に敷設された線路の上を走ります。電車の動力源が電気であるように、馬車鉄<br />          道は馬力で動かす鉄道です。そのため、一般的な馬車とは異なり、線路の上しか走ること<br />          ができない、現代の感覚からすると不便な乗り物です。<br />           東京馬車鉄道は、薩摩出身の実業家・五代友厚のバックアップを得て、種田誠一と谷元<br />          道之が設立したことから始まります。東京馬車鉄道は、新橋ステーション前を起点に新橋<br />          -京橋-日本橋-本町三丁目-上野山下-浅草雷門と走るルートを「甲線」、本町三丁<br />          目から分岐して浅草橋を経由して浅草雷門に至るルートを「乙線」、京橋から分岐して浅<br />          草橋を経由し浅草雷門に至るルートを「丙線」として、全三路線がありました。<br />           東京で馬車鉄道を走らせようと考えたのは、五代・種田・谷元が最初ではありません。<br />          明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出し<br />          ています。ところが政府は、林の届け出にかなり困惑したようです。一部の西洋人が馬車<br />          を走らせていたものの、馬車鉄道という一般庶民が乗り合いする〝公共交通〟はまだなか<br />          ったからです。<br />           提出された敷設願をめぐって、政府内でも議論が紛糾したものと思われます。大隈重<br />          信などは馬車鉄道計画に乗り気でしたが、まだ馬車鉄道に関する法律が整備されていない<br />          ことを理由にいったん却下されました。しかし、太政大臣の三条実美は、法律を制定し<br />          て再び検討することにします。<br />           こうして、明治七(一八七四)年に馬車鉄道に関する法律が制定されますが、林自身は<br />          法律にのっとって線路を敷設したり運行したりすることは自分の能力では難しいと辞退し<br />          ました。そこで、横浜の豪商として名を馳せていた高島嘉右衛門に馬車鉄道の運営をバト<br />          ンタッチします。<br />           貿易商だった高島は、先見の明のある人物でもありました。彼は、新橋-横浜間に鉄道<br />          が開業した際、横浜駅(いまの桜木町駅)付近の埋め立てを請け負った実績があります。<br />          しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。高島は単なる利益優先の商人ではあ<br />          りませんでした。<br />           明治政府が発足したばかりの頃、政府内では鉄道を建設するか否かで意見が二分しまし<br />          た。反対派の意見は、まだ政府が誕生して間もない、苦しい財政の中で、莫大なお金を費<br />          やしてまで鉄道を敷設する意味があるのかというものです。しかし、政府内でも特に発言<br />          力の強い伊藤博文や大隈重信が支持に回ったことから、政府内の意見は鉄道建設に傾きま<br />          す。その伊藤や大隈に鉄道の重要性を説いた人物こそが、以前から二人と友好関係のあっ<br />          た高島嘉右衛門でした。高島は、「鉄道が建設されれば日本の長さが三五里(約一三七・五<br />          キロメートル)に縮まる」と、国家の立場から鉄道の必要性を強調しました。<br />           鉄道に理解のある高島ですから、当然ながら馬車鉄道にも人並みはずれた興味を示して<br />          いました。林から馬車鉄道の事業を譲られたとき、千載一遇のチャンスと思ったはずで<br />          す。そして高島の馬車鉄道計画に、内務省も賛意を示しました。<br />           ところが、今度は東京府から反対の声があがります。馬車軌道の線路を敷設する道路の<br />          改良がいまだ完全ではないということでした。当時、人力車につづいて登場した二階建て<br />          馬車が、東京のあちこちで交通事故を頻発させていました。そうした懸念も馬車鉄道慎重<br />          論に加担したのでしょう。内務省は賛成、東京府は反対と、官の足並みは揃いません。こ<br />          うして、高島が出願した馬車鉄道は立ち消えとなりました。<br />                                   (44頁11行目~47頁12行目)<br /><br /><br />   この方の記事は、どうにも論理の組立てと言うか説明がおかしいのですが、まずは、これも小ネタから、<br /><br />           都電の前身となる馬車鉄道が、初めて府民にお披露目されたのは、「東京馬車鉄道」が<br />          開業した明治一五(一八八二)年でした。<br /><br />    「お披露目」の使い方、文章的におかしくない?「お披露目」が「開業」の年当たり前じゃないですか。それに、「された」ではなく「した」では<br />  ないのでしょうか?<br /><br />           馬車鉄道という用語は、いまや死語になっていますので、<br /><br />   歴史的「用語」に「死語」は無いんじゃありませんか?一般的な流通を言いたいのなら、「用語」ではなく、「ことば」とか「語彙」じゃあないん<br />  でしょうか?<br /><br />           馬車鉄道という用語は、いまや死語になっていますので、すこし説明が必要かも知れま<br />          せん。これは、道路上を自由に往来する、いわゆる馬車ではありません。馬が引っ張る客<br />          車は、道路に敷設された線路の上を走ります。電車の動力源が電気であるように、馬車鉄<br />          道は馬力で動かす鉄道です。そのため、一般的な馬車とは異なり、線路の上しか走ること<br />          ができない、現代の感覚からすると不便な乗り物です。<br /><br />   ご説明頂くのは結構なんですが、<br /><br />          現代の感覚からすると不便な乗り物です。<br /><br />  そんなこと仰ると、路面電車も同じことになりませんか?お書きの様に、<br /><br />          電車の動力源が電気であるように、馬車鉄道は馬力で動かす鉄道です。<br /><br />  動力が電力か畜力かの違いだけで、<br /><br />          そのため、……略……、線路の上しか走ることができない、……略……不便な乗り物です。<br /><br />   動力が電力か畜力かの違いだけで、現代の鉄道も、その意味では、<br /><br />          そのため、……略……、線路の上しか走ることができない、……略……不便な乗り物です。<br /><br />  と言う、ご説明になってしまいませんか?<br /><br />           東京馬車鉄道は、薩摩出身の実業家・五代友厚のバックアップを得て、種田誠一と谷元<br />          道之が設立したことから始まります。<br /><br />   「都史紀要33 東京馬車鉄道」62頁にこうありますね。<br /><br />    <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> この馬車鉄道は、鹿児島出身の種田誠一と谷元道之が、同郷の先輩であり、財界の重鎮であった五</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">代友厚の後楯を得て計画したものである。『五代友厚伝』はその間の事情を次のように伝えている。<br /><br />   どうなんでしょうか?<br /><br />        小川氏:五代友厚のバックアップを得て<br />        白石氏:五代友厚の後盾を得て<br /></font></font></font><br />   ナルホドナルホド。<br />   ところで、都史紀要58ページ末に<br /><br />       <font face="MS P????, monospace"><b>2</b></font><font face="MS P????, monospace"><b> 東京馬車鉄道会社の設立</b></font><br />          <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><b>出願</b></font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 高島嘉右衛門の馬車鉄道計画が却下されてから五年後の明治一三年、再び東京の目抜き通り</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">に鉄道馬車を走らせようという計画が持ち上がった。同年二月二三日、東京市街馬車鉄道建設</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">発起人種田誠一ほか三名から松田道之東京府知事に対して以下のような願書が提出された。</font></font></font><br /><br />  この様な記述があり、それで、「都史紀要」61頁には願人として<br /><br />         <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">東京市街馬車鉄道建築発起人<br /></font></font></font><br />           <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">日本橋区新右衛門町拾六番地川村伝衛同居</font></font></font><br />          <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">          川 村 伝 蔵 印</font></font></font><br />           <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">芝区三田町壱丁目四拾六番地</font></font></font><br />                  <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">          谷 元 道 貫 印</font></font></font><br />           <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">日本橋区本材木町二丁目二番地</font></font></font><br />          <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">          久 原 庄 三 郎 印</font></font></font><br />           <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">京橋区三十間堀壱丁目二番地</font></font></font><br />          <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">          種 田 誠 一 印</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font></font><br />  種田、谷元以外に、発起人2名いますけど。<br /><br />   ところでこの辺りの項、<br /><br />          <strong>否定された馬車鉄道計画</strong><br /><br />  にしろ、<br /><br />          <strong>中途半端な軌間</strong><br /><br />  にしろ、「都史紀要33東京馬車鉄道」の要約 ──パクリ── のつもりにしても何とも杜撰です。この手の盗用をなす方々の得意技は、<br />  原典が紀要の様に、歴史過程に沿って記述されているものについて、その時期、前後を入れ替えると言う手法で、盗用についての目眩ま<br />  しを掛けると言うものです。<br />   <br />           都電の前身となる馬車鉄道が、初めて府民にお披露目されたのは、「東京馬車鉄道」が<br />          開業した明治一五(一八八二)年でした。<br />           ……(中略)……<br />           東京馬車鉄道は、薩摩出身の実業家・五代友厚のバックアップを得て、種田誠一と谷元<br />          道之が設立したことから始まります。<br /><br />    この「都電跡を歩く」44頁12~13行目、45頁6~7行目の記述は、上記のとおり、「都史紀要33東京馬車鉄道」の58頁から62頁に<br />  かけての記述のパクリですが、<br /><br />           東京で馬車鉄道を走らせようと考えたのは、五代・種田・谷元が最初ではありません。<br />          明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出し<br />          ています。<br /><br />   この「都電跡を歩く」45頁11~13行目は、10年ほど時間を遡って都史紀要33の頁も10頁遡った49頁の<br /><font face="MS P????, monospace"><br />     馬車轍路規則</font><br />     <font face="MS P????, monospace"> 我が国最初の馬車鉄道が計画されたのは明治五年(一八七二)のことであった。こ</font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">の年八月、林和一なる人物が東京府<br />      を経て政府に馬車轍路敷設願を提出した。この出</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費<br />     積」(「明治七年公文録」、国立公文</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">紀要50頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">書館所蔵)によれば、</font></font></font>……以下略<br /><br />  この記述をパクって来ています。<br /><br />           小川氏:明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出しています。<br />           白石氏:<font face="MS P????, monospace">明治五年(一八七二)のことであった。こ</font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">の年八月、林和一なる人物が東京府を経て政府に馬車轍路敷設<br />            願を提出した。</font></font></font><br /><br />   「林和一と言う人」(小川氏)、「林和一なる人物」(白石氏)。そして、白石氏=「都史紀要33 東京馬車鉄道」には、ご丁寧にも<br /><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">この出</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">願書類は未見だが、</font></font></font><br /><br />  とあります。小川氏は何を以って、<br /><br />          明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出し<br />          ています。<br /><br />  と確認されたのでしょうか。出願書類の複製でもご覧になったんでしょうか。どうして解ったんですか。<br /><br />            ……。ところが政府は、林の届け出にかなり困惑したようです。一部の西洋人が馬車<br />          を走らせていたものの、馬車鉄道という一般庶民が乗り合いする〝公共交通〟はまだなか<br />          ったからです。<br /><br />  この部分は小川オリジナルですが史実の歪曲です(明治5年の乗合馬車の状況のついては別稿参照)。<br /><br />           提出された敷設願をめぐって、政府内でも議論が紛糾したものと思われます。大隈重<br />          信などは馬車鉄道計画に乗り気でしたが、まだ馬車鉄道に関する法律が整備されていない<br />          ことを理由にいったん却下されました。しかし、太政大臣の三条実美は、法律を制定し<br />          て再び検討することにします。<br /><br />  ここは、「都史紀要33」の50頁に、<br /><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、六年一〇月一四日、</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">太政大臣三条実美に、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サ</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">レハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書)として、まず精密な馬車轍路規則を制定し、それに基づいて再</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">度出願させることにしたいと伺い出ている。これは同年一一月八日認められた。<br /><br />  と書かれています。まぁ、パクリと言うか、パクって歪曲ですね。<br /><br />        小川氏:</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">大隈重信などは馬車鉄道計画に乗り気でしたが、<br />        白石氏:</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、</font></font></font><br /></font></font></font><br />  これなんかはオリジナルの残滓が漂ってますね。白石氏が史料を確認した結果の「政府はこの計画に乗り気で、」と言うのは、白石氏<br />  個人の見解部分ですが、小川氏は何を以って「<font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">大隈重信などは馬車鉄道計画に乗り気」と言う見解をもたれたのだろうか。<br />   その上、<br /><br />                                             ……</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">大隈重<br />          信などは馬車鉄道計画に乗り気でしたが、まだ馬車鉄道に関する法律が整備されていない<br />          ことを理由にいったん却下されました。しかし、太政大臣の三条実美は、法律を制定し<br />          て再び検討することにします。<br /></font></font></font><br />  なにこれ、すごい歪曲じゃないでしょうか。<br /><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><br />                        ……大蔵省事務総裁参議大隈重信は、六年一〇月一四日、</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">太政大臣三条実美に、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サ</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">レハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書)として、まず精密な馬車轍路規則を制定し、それに基づいて再</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">度出願させることにしたいと伺い出ている。</font></font></font><br /><br />   「政府内で議論紛糾」なんかして無いでしょ。総務省がぁ、内務省がぁ、って言う人が、「<font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">馬車轍路(</font></font></font>ばしゃわだちみち)、すごく便利そうだけ<br />  ど、法律作ってきちんと管理しなきゃ世の中色々問題が出るから法律作った上で適否判断した方が今後のために良くね。」って話が理解<br />  できないと言うのはどういうことでしょう。<br /><br /><br />   一体どの辺が、<br /><br />          <strong>否定された馬車鉄道計画</strong><br /><br />  なのでしょうか?<br /><br />            こうして、明治七(一八七四)年に馬車鉄道に関する法律が制定されますが、林自身は<br />          法律にのっとって線路を敷設したり運行したりすることは自分の能力では難しいと辞退し<br />          ました。そこで、横浜の豪商として名を馳せていた高島嘉右衛門に馬車鉄道の運営をバト<br />          ンタッチします。<br /><br />   「都史紀要33 東京馬車鉄道」の50頁に──こうして、明治七(一八七四)年に馬車鉄道に関する法律が制定されますが、──の実際が<br />  書かれています。<br /><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 大蔵省では、土木寮のオランダ人お雇い工師フォン・ドルーンに諸外国の事情を調査させた上で馬</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">車轍路規則案をまとめ、七年二月一四日太政大臣の許可を得ている。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> この馬車轍路規則は、市街鉄道に関してまとめられた我が国で最初の規則であるから、以下に全文</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">を紹介しておこう。文章は直訳調でぎこちなく、外国の規則類を下敷きにまとめたことをうかがわせ</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">るが、他に前例のない創始の事業であったからそれもまたやむをえないことであった。</font></font></font><br /><br />   <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">「馬車轍路規則」全文のコピーを挙げるのは煩瑣なので割愛しますが、留意すべきは、後に小川氏が「都電跡を歩く」47頁末<br />  ~48頁8行目</font></font></font>に言う<br /><br />            東京府は馬車鉄道を営業するにあたっての法律を定めていました。その法律は、次のような諸条件を含むものでした。<br /><br />  とは、相当に異なるものであると言うことです。このことは後述します。<br /><br />           こうして、明治七(一八七四)年に馬車鉄道に関する法律が制定されますが、林自身は<br />          法律にのっとって線路を敷設したり運行したりすることは自分の能力では難しいと辞退し<br />          ました。そこで、横浜の豪商として名を馳せていた高島嘉右衛門に馬車鉄道の運営をバト<br />          ンタッチします。<br /><br />   この部分について、都史紀要にはどう書かれているか、<br /><br />     紀要55頁<br /><br />         <b>高島嘉右衛門と馬車鉄道</b><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 出願人の林和一へは、右の規則に基づいて更に車路建設の道筋を詳細に</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">取調べ、絵図面を添えて願い出るように達したところ、同年(明治七年)</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">六月、林から「今般御規則等御下ケ相成、奉拝見候処、微力之私迚も成功無覚束懸念仕候」(前掲「明</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">治八年公文録」)として御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。<br /><br />   パクリと歪曲と言うか、改竄ですね。<br /><br />          小川氏:……</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">辞退しました。そこで、横浜の豪商として名を馳せていた高島嘉右衛門に馬車鉄道の運営をバトンタッチします。<br />          白石氏:</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">……御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">島嘉右衛門が引き継ぐ旨<br />               申し出たのである。</font></font></font><br /></font></font></font> <br />   何処をどう捻ったら、白石氏の<br /><br />      ……<font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。</font></font></font><br /><br />  こんな記述が引っ張り出せるんでしょうか?<br /><br />           鉄道に理解のある高島ですから、当然ながら馬車鉄道にも人並みはずれた興味を示して<br />          いました。林から馬車鉄道の事業を譲られたとき、千載一遇のチャンスと思ったはずで<br />          す。<br /><br />   流れから言って、「<font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">林和一なる人物が」は高島のダミーって含みが白石氏にはあるように思えるのですけど、少なくとも身元請人と<br />  言うことは、東京馬車鉄道の種田、谷本の後ろ盾が五代であったように、林の後ろ盾として高島がいて、<br /><br />        </font></font></font>林から馬車鉄道の事業を譲られた<br /><br />  訳ではないんじゃないんですか?元々高島の起業という話だったんでしょ。<br /><br />           貿易商だった高島は、先見の明のある人物でもありました。彼は、新橋-横浜間に鉄道<br />          が開業した際、横浜駅(いまの桜木町駅)付近の埋め立てを請け負った実績があります。<br />          しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。高島は単なる利益優先の商人ではあ<br />          りませんでした。  <br /><br />   何故こんなに好い加減なんだろう?というか、原典の読み違いなのか?地誌的理解が皆無なのか?<br /><br />          彼は、新橋-横浜間に鉄道が開業した際、横浜駅(いまの桜木町駅)付近の埋め立てを請け負った実績があります。<br /><br />   高島<font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">嘉右衛門</font></font></font>が請け負った埋め立て(入浜の築堤工事)の場所は、今の横浜駅付近です。新橋-横浜間鉄道開業当時の、<br /><br />          初代横浜駅(いまの桜木町駅)、<br /><br />  は当時の開港場横浜居留地の北側に位置していました。だから、根岸線の次駅が「関内」、開港場横浜への関門の内側なのですが。<br />   一体何の本からの受け売り、パクリなんでしょうか?<br /><br />          しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。高島は単なる利益優先の商人ではありませんでした。  <br /><br />   損得抜きで請け負った結果、埋め立て部分の線路用地以外9割程度の部分全てが高島に下げ渡しとなっていて、一般に高島の地名が<br />  埋め立ての功績に由来するものとされていますが、高島の土地に他に名付け様も無くって言うのが実際じゃないかと思われるんですが。<br />   また、開港場横浜(居留地)内外に多くの施設や権益を持っていたののではなかったのでしょうか?高島<font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">嘉右衛門。まあ、これはたいした<br />  話じゃないけれど。</font></font></font>調べない、確認しない、偉人は自分の都合でネームドロッピング。秋庭さんや梅原さんと本当に同類なんですね。<br /><br />           明治政府が発足したばかりの頃、政府内では鉄道を建設するか否かで意見が二分しまし<br />          た。反対派の意見は、まだ政府が誕生して間もない、苦しい財政の中で、莫大なお金を費<br />          やしてまで鉄道を敷設する意味があるのかというものです。しかし、政府内でも特に発言<br />          力の強い伊藤博文や大隈重信が支持に回ったことから、政府内の意見は鉄道建設に傾きま<br />          す。その伊藤や大隈に鉄道の重要性を説いた人物こそが、以前から二人と友好関係のあっ<br />          た高島嘉右衛門でした。高島は、「鉄道が建設されれば日本の長さが三五里(約一三七・五<br />          キロメートル)に縮まる」と、国家の立場から鉄道の必要性を強調しました。<br /><br />    これも、横浜で「高島屋」と言う料亭、待合政治の舞台装置を担当した高島<font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">嘉右衛門、政権と密着した商人</font></font></font>像を考えれば受け売りの評伝<br />  で単純に義侠化するのは、総務省がぁ、内務省がぁ、って言う方とも思えない書き振りですね。<br />   ひょっとして、行政や企業、利潤を求める組織的経済活動は悪、個人は善とかステレオタイプに考えておられるのでしょうか?<br /><br />          …。そして高島の馬車鉄道計画に、内務省も賛意を示しました。<br />           ところが、今度は東京府から反対の声があがります。馬車軌道の線路を敷設する道路の<br />          改良がいまだ完全ではないということでした。当時、人力車につづいて登場した二階建て<br />          馬車が、東京のあちこちで交通事故を頻発させていました。そうした懸念も馬車鉄道慎重<br />          論に加担したのでしょう。内務省は賛成、東京府は反対と、官の足並みは揃いません。こ<br />          うして、高島が出願した馬車鉄道は立ち消えとなりました。<br /><br />   さて、ここまでの記事に首を捻られた方は多いのではないかと思います。<br /><br />           東京で馬車鉄道を走らせようと考えたのは、五代・種田・谷元が最初ではありません。<br />          明治五(一八七二)年には、林和一という人が政府に「馬車轍路(線路)敷設願」を提出し<br />          ています。<br /><br />  と、<br /><br />            …。そして高島の馬車鉄道計画に、内務省も賛意を示しました。<br /><br />   林と高島、一体東京の何処に<br /><br />           馬車鉄道を走らせようと考えた<br /><br />  のでしょうか?その記述が無ければ、<br /><br />             ……、今度は東京府から反対の声があがります。馬車軌道の線路を敷設する道路の<br />          改良がいまだ完全ではないということでした。<br /><br />  という記述が意味不明になりませんか?<br /><br /><br /><br />   この項完璧に「都史紀要33 東京馬車鉄道」からのパクリですね。<br />   さて、バトンタッチした高島が何をしたか小川氏は何も書いてませんね。盗用元の「都史紀要33」の55頁末~56頁3行目までにこんな<br />  記述があるにも拘らず、<br /><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 規則に従い高島が提出した書類によると、線路は起点を新橋に置き、日本橋を経て、一は本町二丁</font></font><font face="MS ??"><font size="3"><br />      </font></font><font face="MS ??"><font size="3">目を右に折れ浅草橋から御蔵前を経て浅草広小路に至るもの、一は日本橋から、そのまま直進し、完成</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">したばかりの万世橋を経由して上野に至るものの二路線としている。馬車一八輌、馬八〇頭で運行す</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">る計画で、資本金は二二万円(一株一〇〇円、二二〇〇株)であった。</font></font></font><br /><br />   当初の林和一の願書の内容が、「都史紀要33」49頁~50頁<br /><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><br />                                                ……この出<br />    </font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費積」(「明治七年公文録」、国立公文</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">    書館所蔵)によれば、資本金(同志備金)一二万両、二頭引き二五人乗りの馬車五〇輌と馬一五〇頭を</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">備え、芝金杉橋から浅草並木町及び上野の間で営業することにしている。鉄路総延長は九〇町(約一</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">〇キロメートル)、運賃は区間制で一区間(一卜町場)二〇〇文、芝金杉から浅草並木町まで八〇〇文とする予</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">定であった。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 線路は今ひとつはっきりしない点もあるが、芝金杉を起点として新橋・日本橋・本町二丁目・浅草</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">見付を経て浅草並木町に至るものと、日本橋をそのまま直進、筋違から上野に至るものの二つであっ</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">たようだ。<br /><br /><br /><br /><br /></font></font></font><br /><br />   <font face="MS P????, monospace">紀要49頁15行目~17行目</font><br />      <strong><font face="MS P????, monospace">馬車轍路規則</font></strong><br />    <font face="MS P????, monospace">   我が国最初の馬車鉄道が計画されたのは明治五年(一八七二)のことであった。こ</font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">の年八月、林和一なる人物が東京府を経て政府に馬車轍路敷設願を提出した。この出<br />    </font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費積」(「明治七年公文録」、国立公文<br /><br />   </font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">紀要50頁<br /></font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3">    書館所蔵)によれば、資本金(同志備金)一二万両、二頭引き二五人乗りの馬車五〇輌と馬一五〇頭を</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">備え、芝金杉橋から浅草並木町及び上野の間で営業することにしている。鉄路総延長は九〇町(約一</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">〇キロメートル)、運賃は区間制で一区間(一卜町場)二〇〇文、芝金杉から浅草並木町まで八〇〇文とする予</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">定であった。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 線路は今ひとつはっきりしない点もあるが、芝金杉を起点として新橋・日本橋・本町二丁目・浅草</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">見付を経て浅草並木町に至るものと、日本橋をそのまま直進、筋違から上野に至るものの二つであっ</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">たようだ。開業後実効があがるようなら、更に新橋・四谷間、九段坂下・本町二丁目間、九段坂下・</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">筋違間にも線路を延長したいとしている。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、六年一〇月一四日、</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">太政大臣三条実美に、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サ</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">レハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書)として、まず精密な馬車轍路規則を制定し、それに基づいて再</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">度出願させることにしたいと伺い出ている。これは同年一一月八日認められた。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> 大蔵省では、土木寮のオランダ人お雇い工師フォン・ドルーンに諸外国の事情を調査させた上で馬</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">車轍路規則案をまとめ、七年二月一四日太政大臣の許可を得ている。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"> この馬車轍路規則は、市街鉄道に関してまとめられた我が国で最初の規則であるから、以下に全文</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">を紹介しておこう。文章は直訳調でぎこちなく、外国の規則類を下敷きにまとめたことをうかがわせ</font></font></font><br />       <font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3">るが、他に前例のない創始の事業であったからそれもまたやむをえないことであった。</font></font></font><br /><br />        紀要51頁<br />        馬車轍路規則<br />        <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 馬車轍路ヲ築設セント願フ者ハ、詮議ノ上年限ヲ定メテ免許スヘシ。</font></font></font><br /><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第一 轍軌ヲ填設スル路ノ表面ヨリ高カル可カラス。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第二 轍路築造ノ間又ハ之ヲ修復スルニ方テ、免許人ハ予メ管轄庁ノ許可ヲ得ルニ非サレハ道路ノ</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">往来ヲ止ムルヲ得ス。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第三 免許人ハ、其用ユル所ノ道路全幅(轍路ノ地ミニ非ス、之ヲ通セル道路ノ全幅ヲ云フ)ノ保存掃除及ヒ修復改新等ニ属スル</font></font></font><br />             <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">費用</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ノ幾部分ヲ出ス可シ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第四 管轄庁ハ官員ヲ挙ケ之二轍路ヲ監スルヲ任スヘシ。而テ其官員ハ常二工場・厩其他免許人ノ</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">操事二臨ムト雖トモ、此免許<br />             人ノ差配人ヲ指令ス可カラス。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第五 此轍路ヲ監スル官員ハ、免許人ノ制約ニ違フヲ認ムル歟、或ハ改新又ハ修理ノ須要ヲ察スル</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">時ハ、之ヲ管轄庁ニ告ケ、<br />             然ル後所要ノ令ヲ免許人ニ下スヘシ。免許人若シ十日ノ内此令ヲ奉セサ</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ル時ハ、管轄庁ハ其要旨ヲ遂クルニ至ルマテ行<br />             車ヲ禁ス可シ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第六 免許人ハ、必ス其任ニ堪ユヘキ差配人、車長、御者ヲ使用スルヲ心掛クヘシ。而テ等閑ニ由</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ル歟、或ハ警視ノ規則及ヒ<br />             市街ノ法令ヲ犯スニ由テ起ル過害ニ於テハ、常ニ其責ヲ免ル可カラス。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第七 市街ノ轍路ニ於テハ、車ノ速サ大低一時間八十丁余ニ過ク可カラス。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第八 仕法及ヒ之ニ施スノ変革ハ、予メ管轄庁ノ善シトスル所ニ従フ可シ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第九 車ハ常ニ往来ヲ妨クル少カラムカ為メ、道ノ交叉スル所及ヒ其隅角ニ必ス静息ス可カラス。<br /><br />    </font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要52頁<br /><br />         </font></font><font face="MS ??"><font size="3">第十 車ハ忽チ之ヲ静止セシムヘキ為メ、皆適応ノ駐器ヲ具スヘシ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十一 車長及ヒ御者ハ、喇叭ノ類ヲ吹キ、以テ其近ツク処ノ他ノ御者或ハ輓夫等ニ注意セシメ、</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">衝撃禍害ヲ防クヲ勉ム可シ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十二 免許人ハ、道路ヲ用ユルカ為メ、其使用ノ各車ニ付テ年々所獲ノ益金幾部分ノ税金ヲ納サ</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ムヘシ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十三 免許人達三月ノ間轍路ヲ用ヒサル時ハ、管轄庁二於テ轍路ヲ他ノ能ク此業ヲ行フニ堪ユル</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">者二貸スヘシ。若シ貸ス<br />              能ハサル時ニ方テハ、轍路ヲ一年間休止シテ後之ヲ破毀シ、物料ヲ売却シ、</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">道路ヲ修復セシム。若シ物料売却ノ価修<br />              復ノ費用ヲ償ハサルトキハ、免許人ヲシテ其不足ヲ償ハシ</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ムヘシ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十四 免許人ハ、管轄庁ノ令アレハ他ノ轍路ヲ以テ其轍路二交叉スルヲ許ス可シ。且ツ轍路ノ内</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">他ノ免許人ノ車ニ所要ノ部ハ、<br />              公正ノ修理金ヲ収メテ之ヲ乗ラシム可シ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十五 戦争其外公務ニ係ル事故有ルニ方テハ、政府ハ金ヲ下ケ渡シテ轍路ノ使用ヲ専裁スヘシ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十六 幾年間ヲ経ルノ後、管轄庁ハ、轍路車馬其他ノ諸物ヲ時価ニ関セス其元価ノ幾年間ヲ経テ</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">幾部分ノ減却シタル適当ノ<br />              価ヲ以テ免許人ヨリ買上クルノ権ヲ得可シ。</font></font></font><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第十七 免許人ハ、毎年末左ノ件々ヲ具ニ管轄庁ニ報告ス可シ。</font></font></font><br /><br />            <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第一 轍路起業金ノ原由 (略)</font></font></font><br />            <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第二 轍路築置ノ費(略)<br /><br /></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要53頁<br /><br />            </font></font><font face="MS ??"><font size="3">  第三 物料屋舎等ノ費(略)</font></font></font><br />            <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第四 轍路ノ解(略)</font></font></font><br />            <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第五 轍路上ノ勤(略)</font></font></font><br />            <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第六 出金(略)</font></font></font><br />            <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  第七 収納(略)</font></font></font><br /><br />         <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">免許人ハ、此他総テ管轄庁ニ於テ轍路ノ景況ヲ審察スルニ希望スル処ノ報告及ヒ弁明ヲ務メサルヘ</font></font></font><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">カラス。</font></font></font><br />                       <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                    (「太政類典」第二編第百七十五巻、国立公文書館所蔵)</font></font></font><br /><br />     紀要55頁<br /><br />         <b>高島嘉右衛門と馬車鉄道</b><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 出願人の林和一へは、右の規則に基づいて更に車路建設の道筋を詳細に</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">取調べ、絵図面を添えて願い出るように達したところ、同年(明治七年)</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">六月、林から「今般御規則等御下ケ相成、奉拝見候処、微力之私迚も成功無覚束懸念仕候」(前掲「明</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">治八年公文録」)として御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 規則に従い高島が提出した書類によると、線路は起点を新橋に置き、日本橋を経て、一は本町二丁<br /><br />    </font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要56頁<br /><br />      </font></font><font face="MS ??"><font size="3">目を右に折れ浅草橋から御蔵前を経て浅草広小路に至るもの、一は日本橋から、そのまま直進し、完成</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">したばかりの万世橋を経由して上野に至るものの二路線としている。馬車一八輌、馬八〇頭で運行す</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">る計画で、資本金は二二万円(一株一〇〇円、二二〇〇株)であった。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 高島の願書は、七年六月一四日、東京府知事大久保一翁を経て内務省(所管が大蔵省から内務省へ</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">代わった)へ進達されたが、その際大久保は「御指揮中一般之洪益ハ暫ク置、新橋・京橋中間ヲ除ク</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">之外市街道路狭隘ニシテ未轍路等之設置方ハ如何可有之哉」(前同書)と意見を付し、道路監督者の立</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">場から馬車鉄道の敷設に反対の意向を表明した。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 大久保は更に同年九月一四日、内務省の尋問に対し、旧町会所積金を原資として当時府下の道路修</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">繕事業を行っていた会議所の意見を添えて、「本町三丁目より浅草広小路迄実地道幅、掛ニ於而検査及</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ニ、狭キハ四間壱尺、或ハ五間三尺之場所も有之、因而轍路等取設候ハ、多少迷惑相生シ可申」(前同</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">書)と答え、内務省の再考を促している。大久保が参考のため内務省へ提出した会議所の意見は次のよ</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">うなものだった。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 高島屋嘉右衛門馬車轍路取設度願書并右書類御下渡ニ付、及評議候処、於御府御伺案之通規則方法</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 等ハ差支も無之候得共、京橋以南ハ格別、日本橋通、本町通之道幅未タ取広無之候間、道路中央ニ</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 轍路相通シ無間断往来仕候様ニ而ハ、殊ニ薄暮老人小児歩行ニ難渋可仕、街路広闊相成候迄見合候</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 様仕度奉存候也。</font></font></font><br />        <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">明治七年八月十二日</font></font></font><br />        <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">会議所 印<br /><br />    </font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要57頁<br /><br />    </font></font><font face="MS ??"><font size="3">    御掛御中</font></font></font><br />  <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                                              (前同書)</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  Ⅰで述べたように、この年府下目抜き通りの人車道区別工事が一応完了し、八月には千里軒の二階</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">建馬車二輌が新橋・浅草間の往復を始め、乗合馬車時代の幕開けを告げていた。しかし、道幅は依然</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">として狭く、単に車道部分に砂利を敷き詰めた程度の道路修築では本格的な馬車交通には充分ではな</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">く、千里軒の大馬車は開業直後から相次いで事故を起こし、九月には早くも二階建馬車が禁止される</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ありさまであった。</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> こうした状況のもとで、道路上にレールを敷設し、千里軒の大馬車よりも更に大型の馬車を走らせ</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ることに、府知事が強い危倶の念をいだいたのも無理からぬことであったと言える。</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> これに対して内務省の見解はきわめて楽観的なものであった。七年一〇月一二日付で内務卿伊藤博</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">文が太政大臣三条実美へ提出した馬車轍路敷設許可に関する伺書には次のように述べられている。</font></font></font><br />      <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">人家稠密之市街道路改正之挙ハ、於政府数百万金之鉅額ヲ費スニ非サレハ幾年ヲ経ル共其期有之間</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 敷、既ニ千里軒大馬車ノ如キ、其他是ニ類スル馬車と雖モ通行被差許候上ハ、唯此議之紛紜スル所</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 以馬車通行之可否ニ非スシテ、轍軌ヲ設タルト不設とニ有ルノミ。畢竟轍軌アレハ順行シ、轍軌ナ</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> ケレハ漫行ス。然ラハ則轍軌ヲ設クルハ都而危険之予備ニ可有之、尤道幅八間以上ノ所ノミ往復轍</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 軌ヲ設ケ、其他狭少之処ハ単轍軌相設候ハ、他ノ差支有之間数、殊ニ轍軌上右馬車往復間ハ他ノ車</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 馬縦横通行ヲ得候儀ニ付、前件同府申立も有之候ヘ共、右ハ一般之洪益相成候儀ニ而、営業之儀ハ<br /><br />    </font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要58頁<br /><br />     </font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 廿五ケ年間別紙方法之通賃銭取立、貢税并在来道路修繕、上水伏替等之節入費出金等規則約定之通</font></font></font><br />     <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> ニ而不都合も無之ニ付、願之趣ハ前書之通築造候積ヲ以許可致と存候。</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                                                 (前同書)<br /><br />    </font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 正院は高島の願書を審査した結果、内務卿の上申どおり馬車轍路の敷設を許可することとして、七</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">年一二月その指令文を起案したが、太政大臣の決裁を得ることが出来なかった。そこでやむをえず起</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">案しなおし、半年後の八年五月二四日「伺之趣難聞届候事」と却下の指令を下したのである。却下指</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">令の起案文中に「右ハ(馬車鉄道敷設のこと)目今容易御指揮不相成方可然歟」とあり、政府高官た</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ちの中に馬車鉄道敷設に対する根強い慎重論があったことをうかがわせる。千里軒の大馬車による事</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">故の続発が政府首脳の間にこの慎重論を呼び起こしたものと思われる。</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 高島の馬車鉄道計画は、こうしてついに日の目を見ることなく終わった。以後東京の目抜き通りで</font></font></font><br />    <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">は、人力車とガタ馬車の黄金時代がしばらく続くのである。</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font></font><br />  </p> <p><br /><br /><br /><br />   <br /><br /><br /><br />          <strong>中途半端な軌間</strong><br />           五代・種田・谷元が東京馬車鉄道を申請するのは、明治一三(一八八〇)年です。高島<br />          の馬車鉄道計画から、次の馬車鉄道計画が現われるまで約六年間の空白をおくことになり<br />          ます。その間、東京府は馬車鉄道を営業するにあたっての法律を定めていました。その法<br />          律は、次のような諸条件を含むものでした。<br /><br /><br />            (1)営業年限は満三〇年とすること<br />            (2)鉄軌(鉄道の軌条。レール)は車馬通行の妨げにならないこと<br />            (3)道路表面との高低差はないようにすること<br />            (4)鉄軌の横幅は内法四尺五寸以内とすること<br />            (5)橋梁および道幅五間以内の場所は単線とすること<br /><br /><br />          (4)にある、四尺五寸という単位は、一三七二ミリメートルとなります。一三七二ミリ<br />          メートルは、現在の都電の軌間と同じです。線路は二本のレールで構成されますが、軌間<br />          はそのレールとレールの間隔を指す鉄道用語です。鉄道にとって軌間は非常に重要な決ま<br />          りごとです。<br />           新橋-横浜間で開業した東海道本線は、一〇六七ミリメートル軌間で建設されました。<br />          これが脈々と受け継がれて、JRになった現在でも大半の在来線は一〇六七ミリメートル<br />          軌間になっています。軌間を揃えないと、列車が乗り入れられません。たとえば、束京駅<br />          -大阪駅間の線路を一〇六七ミリメートル軌間で、大阪駅-博多駅の線路を一四三五ミリ<br />          メートル軌間で建設したとしましょう。そうすると、東京発の列車は、大阪より西側をそ<br />          のまま走ることができず、大阪駅で乗り換えなくてはならなくなります。<br />           昭和三九(一九六四)年に開業した新幹線は、一四三五ミリメートル軌間で建設されま<br />          した。軌間が広ければ広いほど、列車はスピードを出すことができます。また、車両は大<br />          型化するので輸送力が増えます。だとしたら、最初からすべて新幹線と同じ一四三五ミリ<br />          メートル軌間で建設すればよかったのです。ところが、最初につくった新橋-横浜間が一<br />          〇六七ミリメートルで建設されてしまったために、日本の在来線は現在に至るまで一部の<br />          例外を除き一〇六七ミリメートルとなっています。<br />           これは、鉄道建設を始める際、大隈重信が一〇六七ミリメートル軌間で建設することを<br />          決定したからです。大隈が一〇六七ミリメートル軌間を選んだ理由は、一四三五ミリメートル<br />          軌間だと、それだけ広い土地を必要とし建設費用も高くつくからというものでした。<br />          一〇六七ミリメートル軌間なら、狭い国土の日本には向いていると考えたのです。<br />           大隈は軌間というものを理解していなかったので、後年になって一〇六七ミリメートル軌間<br />          で線路を建設してしまったことを後悔したといわれています。軌間が一〇六七ミリメートルに<br />          なった理由は、ほかにも諸説あって本当のところははっきりしません。<br />           世界に目を移すと、一四三五ミリメートル軌間が一般的です。そのため一四三五ミリメートル<br />          軌間を「標準軌」、一〇六七ミリメートル軌間を「狭軌」と呼びます。ところが、馬車鉄道の線路<br />          はそのどちらでもない一三七二ミリメートルで敷設されました。<br />           なぜ一三七二ミリメートルという中途半端な軌間に定められたのかは、いまもって謎の<br />          ままです。とにかく、一三七二ミリメートル軌間は、そのまま都電にも受け継がれまし<br />          た。都電荒川線の軌間も、当然ながら一三七二ミリメートルです。<br />           ちなみに現在、日本で一三七二ミリメートル軌間を採用しているのは、荒川線の他に<br />          は、馬車鉄道の線路を受け継いだ函館市電、そして、東京の三線- 東急世田谷線、井<br />          の頭線を除く京王電鉄各線、京王線と相互乗り入れを実施している都営地下鉄新宿線し<br />          かありません。そういう観点からみると、一三七二ミリメートル軌間はきわめて珍しいと<br />          いえそうです。<br />                                           (47頁13行目~51頁5行目)<br /><br /><br />          四尺五寸という単位は一三七二ミリメートル<br /><br />  では金輪際ありません。<br /><br />    四尺=(303.03mm×4)、五寸=(30.303mm×5)、四尺+五寸=一三六三.六四ミリメートル<br /><br /><br />   四呎六吋<br />    四呎=(304.8mm×4)、六吋=(25.4mm×6)、四呎+六吋=一三七一.六ミリメートル<br /><br /><br /><br /><br /><br />  </p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> この馬車鉄道は、鹿児島出身の種田誠一と谷元道之が、同郷の先輩であり、財界の重鎮であった五</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">代友厚の後楯を得て計画したものである。『五代友厚伝』はその間の事情を次のように伝えている。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  明治十二年の交、薩摩の人種田誠一、谷元道之の二名は、官命を帯びて欧米各国を視察するや、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 到る処の都市に馬車鉄道の開通せるを見て深く感ずる所あり、帰朝後幾もなくして官を辞し、東京</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> に馬車鉄道会社を創設せんとし、種々奔走する所ありしも、未だ其の力の足らざるを感じ、郷里の</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 先輩にして財界の雄たる君に謀りて之れが達成を図らんとし、相伴ふて大阪に至り、君に会して会</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 社の計画内容を示し、切に其の発起人たらんことを請へり。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  当時君は、都市に於ける交通機関の発達、改善方に関し、種々考慮せる折柄なりしを以て、両人</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> の示せる計画書を見るに及むで大に喜び、直ちに之を諾すると共に、或は両人を各方面に紹介し、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 又は自ら東西に奔走して活動を開始し、機熟して其の計画を発表し、発起人の筆頭に君の名を掲げ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> て株式の募集を開始するや、忽ちにして申込者殺到し、僅に両三日にして之を締切るの盛況を見る</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> に至れり。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                                     (五代龍作編『五代友厚伝』)</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要63頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 出願の線路は、新橋停車場前から新橋を超え、京橋・日本橋・昌平橋を経て御成道通り上野公園前</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">から下谷広徳寺前を経て浅草広小路に達する甲線路と、甲線路の本町三丁目から右折して大伝馬町通</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">り浅草橋を経て御蔵前通り浅草広小路に達する乙線路、そして、甲線路京橋際より右折し、炭谷(屋)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">橋を超えて日本橋東仲通り四日市に出、江戸橋を経て伊勢町河岸通り馬喰町通りを右折し、浅草橋に</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">至り乙線路と合する丙線路の三つであった (図</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">8</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">)。</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 甲線路のうち新橋停車場</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">前から昌平橋までは複線、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">昌平橋以北浅草田原町まで</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">は単線で、この間三カ所に</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">トロンアウト(行違線)を</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">設置することにしている。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">乙線路は、本町三丁目から</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">浅草須賀町まで単線、御蔵</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">前から浅草広小路までが複</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">線であった。丙線路は全線</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">単線である。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> ここには何も言及してい</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要64頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">ないが、乙線路のうち本町三丁目から浅草橋までは新橋から浅草方面行の専用線路、丙線路は逆に浅</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">草から京橋・新橋方面行の専用線路とし、両線合わせて往復線路として利用するつもりであったよう</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">に思われる。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 願書は、一三年四月二八日、松田府知事から内務省へ進達された。市街馬車鉄道に対する松田の態</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">度は、先の大久保一翁とは対照的に、きわめて好意的かつ積極的であった。松田はその内務省への伺</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">書の中で、「前年林和一外三名ヨリ馬車轍路取設方願出有之、其節伺出候処、御聞届不相成候得共、今</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">日ニ至リ候而ハ自ラ時勢モ異り、既ニ都下之外部品川<font face="?????? ProN W3, ?????? ProN">ゟ</font>板橋へ向ケ鉄道汽車被取設候ニ付而ハ、都下</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">之内部ニ於而通行運搬之便利ヲ開カサレハ人民之便否都府之勢衰ニ関渉不少ニ付、抑本願之如キハ今</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">日施行スヘキ時機ニ際シタル時ト存候」(前出、「明治十三年公文録」)と、馬車鉄道の必要性を熱心に説</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">いている。松田は、当時東京中央市区改造計画の立案に没頭しており、馬車鉄道は彼の都市改造構想</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">の中で都市交通の中核として位置づけられていたのであろう。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 内務省は、出願線路のうち京橋から炭屋橋・江戸橋を経て馬喰町に達する丙線路は、道路狭隘のた</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">め認められないとしつつも、市街馬車鉄道の敷設自体は「百般進歩ノ今日尤モ勧奨ス可キ挙行」であ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">るとしてこれを許可すべく、一三年六月一五日、次のように太政大臣に上申した。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 東出第三百六号</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">     東京府下市街馬車轍路設置之儀ニ付伺</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 東京府京橋区新橋際ヨリ日本橋区ヲ経テ下谷区上野広小路并浅草広小路ノ間へ馬車轍路設置営業致</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要65頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">度旨、京橋区三十間堀一丁目二番地種田誠一外三名ヨリ出願之趣ヲ以該免許ニ係ル命令書等取調、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">別紙之通同府ヨリ申立候ニ付勘考候処、抑馬車轍路ノ儀ハ欧洲諸邦ニ於テモ其設有之、乃東京府下</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">市街ノ如ク通行繁盛物貨輻輳ノ地ニシテ此設有ルニ於テ其便益固ヨリ不俟言儀ニテ、百般進歩之今</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">日尤モ勧奨ス可キ挙行ニ有之、加之即今府下馬車営業人等極テ多キヲ致居候処、啻ニ轍路ノ設無之</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ノミナラス、最初営業差許候節、其営業人ニ於テ遵守又ハ負担ス可キ精密ノ法則モ不相立ヨリ、車</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">路ニ定軌無ク、縦横路上ヲ蹂躙シ故ラニ道路ノ破壊スル有ルモ、営業人ニ於テハ素リ其責ニ任セス、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">為是道路ニ妨碍ヲ与フル而己ナラス、甚シキニ至テハ行人ヲ毀傷シ、又ハ行客ニ乗車ヲ強ル等其間</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">謂フ可ラサル弊害モ不少、自然街路取締上於テモ関係不少儀ニ候処、今轍軌ヲ設ケ通車ノ線ヲ定メ、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">且営業上之カ法則ヲ定メ営業者ヲシテ厳密遵守為致候上ハ、右等ノ弊害ヲ洗除スルニ足ル耳ナラス、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">馬車発着時間等一定致シ居、実際行人ノ便益不少ヨリ自然衆庶之信憑ヲ招キ、随テ他ノ正規無キ営</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">業者ハ自ラ跡ヲ該路線内ニ絶ツニ至リ至極便益ノ儀ニ可有之、且市街道路之儀ハ従来破潰之頻ナル</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">随テ修スレハ随テ破レ、瀕々修繕ノ工モ其破潰ヲ補フニ足ラサルノ今日、該営業者ヲシテ轍軌外幾</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">部分ノ修補ヲモ負担セシメ候上ハ自然官ノ手数ヲ省キ一挙両得ノ儀卜存候。一体府下ハ勿論、他府</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">県ニ在テモ少シク繁盛ノ地ニ在テハ馬車人力車等営業之者モ不少候処、前陳之通往々利弊相半シ、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">就中人力車ノ如キハ尤モ穏カナラサル営業ニ属シ、漸次世事ノ進歩ニ従ヒ右等営業ノ儀ハ自然廃滅</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ニ帰セサル可ラサル者ニ可有之、左候得ハ本件馬車轍路営業ノ如キハ実ニ世運ノ好機ニ投シ候儀ニ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">テ、其今日ニ在テ僅ニ府内街路ノ一二ニ創設スル轍路モ他日各地方ニ拡及スルノ端緒共相成可申、</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要66頁</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">且轍路設置ノ仕様ヨリ営業中遵守ス可キ法則其他諸般取締上ニ於テモ敢テ不都合無之、旁以馬車轍</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">路設置ノ儀ハ目下通運上ニ利便ヲ与ルノミナラス、異日御国益ヲ増進スルノ楷梯トモ相成可申卜存</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">候間、願意及許可積、尤丙線路京橋際ヨリ馬喰町ニ達スル迄ハ道路狭隘ニモ有之、旁先差止メ置、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">尚実際ノ景況二因リ便宜差許候積、指令案添、此段相伺候也。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">明治十三年六月十五日</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">内務卿松方正義</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    太政大臣三条実美殿</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 追テ別紙認許命令書之内第一条、第十五条、第十六条、第十七条并取締方命令書ノ内第三条等掛</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 紙ノ通改正削除之上可及指令ト存候也。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                                    (前出、「明治十三年公文録」)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 馬車鉄道が、ガタ馬車や人力車にとってかわる新しい都市交通機関として大いに期待されているこ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">とがわかる。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 願書は、太政官において審査の後、内務省伺どおり計画線のうち京橋際から馬喰町に達する丙線路</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">を除いて許可となった。一三年一一月二四日、松田東京府知事から願人に下した指令書は以下のとお</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">りである。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 第一万七千七十六号</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 書面馬車鉄路建築並営業之儀聞届候条、別冊命令書ニ準拠シ可致執行候事。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  但、会社設立願之義追テ何分之儀可相達候事。</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要67頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">明治十三年十一月廿四日</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">東京府知事松田道之 印</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                     (「五代友厚関係文書」、大坂商工会議所商工図書館所蔵)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> この時会社に下付された命令書は、全部で二二カ条からなり、営業路線、営業年限、鉄軌敷設方法、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">道路修繕掃除等の負担、或いは命令に違反した場合の処分方法などが定められていた(巻末参考資料</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">1</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">)。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 営業路線は先に述べたとおり。営業年限は満三〇年。鉄軌は他の車馬通行の妨害にならないように</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">一般道路の表面と高低のないようにすること。また、鉄軌の横幅は内法四尺五寸以内とする。橋梁上</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">及び道幅五間以内の場所は単線とする。鉄路線にかかる橋梁の幅員を広め、又は架け替えを必要とす</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">る場合の費用は会社負担とする。鉄軌内はもちろん、鉄軌外横幅二尺通りの道路修繕掃除等はすべて</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">会社の負担において行うこと。府庁で水道・溝渠・ガス管・橋梁架替又は修繕を要するとき、工事に</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">支障のある鉄軌はすべて会社の負担において一時撤去すること。基材鉄軌その他道路に敷設する物品</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">を他人の抵当として金員その他を借用してはならない、等等。これらの命令条件に違反した場合は、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">営業休止処分にするとされた。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">会社設立と汐留本社</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">一三年一二月二八日には会社の設立が認められた。社名を東京馬車鉄道会社</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">とし、資本金は三〇万円(一株一〇〇円、三〇〇〇株)、京橋区三十間堀三丁目</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">六番地に仮本社を置いた。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 創業にあたって発起人たちが最も苦心したのは本社位置の選定である。当初一八〇頭の馬と三〇余</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要68頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">輌の馬車で営業を始める計画であったが、これだけの馬と車を収容できるまとまった土地を確保する</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">ことは容易なことではなかった。</font></font></font></p> <p><strong><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"><br /><br /><br /><br /><br /> 命令書の変更</font></font></font></strong></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 汐留本社の建築工事と並行して、一五年一月九日から再度線路の実測を開始し、着</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">工に向けて最後の詰めに入ったが、その過程で路線などにいくつかの重要な修正が加</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">えられた。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> まず一五年四月一二日、新橋から上野に至る線路のうち、昌平橘通りを万世橋に変更することが認</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">められた(一五年二月一五日、出願)。昌平橋の強度が鉄道馬車の通行に耐えられないというのがその</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">理由であった。この昌平橋(現在の万世橋の位置に架設されていた)は、当時私費架橋のいわゆる銭取橋</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">であったから、その強度に問題があったということは十分考えられる。また会社と橋梁架設人との間</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">で渡橋賃の条件が折り合わなかったということがあったのかもしれない。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 次いで六月三〇日には、日本橋本石町三丁目角から馬喰町通りへ新たに単線を追加し、浅草橋通り</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">の線へ接続することが許可された(一五年五片一七日、出願)。日本橋から浅草橋に至る線路は、本町</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">三丁目角から横山町通りの単線だけが許されていたが、ここは東京最大の商業の中心地で最も往来が</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">激しい場所であり、しかも道路は狭く、単線ではかえって渋滞を招くという理由で、本石町通りに並</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">行線を敷設することにしたのである。本町三丁目線は浅草方面行きの専用線、本石町三丁目線は逆に</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">浅草から日本橋・新橋方面行きの専用線で、この二線を合わせて複線として使用する計画であった。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> これより先、六月一〇日には命令書第五条及び第八条但書が次のように修正され、また新たに第一</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要71頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">九条が追加されている。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 第五条</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> </font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">(</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">旧</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">)</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 橘梁上及ヒ道幅五間以内ノ場所ハ総テ単線タルヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> </font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">(</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">新</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">)</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 轍路ヲ布設スルニ当テハ尚精細ナル工事仕様書及図面ヲ出シ、轍線ノ単複、道路面昂低ノ変更、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 橋梁上模様替、修路方法及所用物料等総テ当庁ノ許可ヲ受クヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 第八条但書</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> </font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">(</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">旧</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">)</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 但、将来橋梁架替及修繕費用モ本文ノ割合ニ因り支弁スヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> </font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">(</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">新</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">)</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 但、将来橋梁架換及修繕ノ節ハ、敷板敷石ハ勿論、桁梁等卜雖モ直ニ鉄軌基材ニ接スル材料及</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  其工費ハ本文ノ割合ヲ以テ之ヲ支弁スヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 第一九条追加、従前の第一九条を第二〇条とし、以下順次繰り下げ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> (新第一九条)既ニ複線ヲ布設セル道路卜雖モ、若シ歩車道ヲ区画シテ車道幅員ノ充分ナラサル乎、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  又ハ他車馬ノ輻輳ヲ加ヘテ通行危険ナリト認ル場合ニ於テハ、自費ヲ以テ一線ヲ他ノ路線へ移</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">   サシムルコトアルヘシ。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 第八条但書の修正と第一九条の追加は、条文の不備を補ったものにすぎない。問題は第五条にあっ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">た。会社はこの条文の規定を楯にとって道幅五間以上の道路にはすべて複線の敷設を願い出たが、府</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">庁としてはたとえ五間以上の場所であっても、人<span lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp">車</span>道の区別がなく、交通量の多い場所には複線を許</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">さないつもりであった。またその逆に、条文では橋梁上はすべて単線としているが、橋によっては単</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要72頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">線ではかえって渋滞を招く場合もあるので、これも実地の状況に応じて判断するものとした。要は単</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">線か複線かの判断を含めた線路の設計及びその変更についてはその都度府知事の許可を必要とするよ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">うに改めたのである。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> この修正にもとづき、府庁は一五年七月三日、新橋・京橋・日本橋・今川橋・三橋・須賀橋の六つ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">の橋上に複線の敷設を許可した。万世橋は、人車道の区別がなく、橋幅が狭く危険であることと、橋</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">の前後がやや広い道路になっており、ここに鉄道馬車が渋滞してもさほど他の交通の妨害にならない</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">という判断から単線とされた。浅草橋も同様の理由で単線のままに据え置かれた。また同じ日、万世</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">橋以北上野山下に至る道路(西黒門町を除く)に複線の敷設を許可している。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">線路敷設工事</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 市街鉄道は普通鉄道と違い、専用軌道ではなく公道上にレールを敷設する。そのた</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">め他の交通の妨げにならないよう、まず道路を掘り下げ、地盤作りをした上で横材と</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">縦材を組み合わせ、縦材の上にレールをしっかりと固定した後、レール上面が道路表面と高低のない</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">よう埋めもどして軌道を完成させるのである。欧米諸国ではこの時軌道内外に敷石を施して道路破壊</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">を防いだが、東京馬車鉄道の場合は、単に砂利を突き固めただけであったため後に道路破壊が大きな</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">問題となった。開業当時の仕様書が見つからないので、二〇年五月に会社が四宿へ線路延長を出願し</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">たときの仕様によってその工法を見てみよう。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> まず道路の勾配に準じて幅八尺、深さ一尺二寸三分ほど地面を掘り下げ、砂利を五寸五分の厚さに</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">敷き、手木でこれを三寸まで突き固める。その上に栗の横材(枕木)を四尺間隔に敷き、この上に桧</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要73頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">砂利は単線長さ一〇間につき二立方坪使い、そのうち一坪二合二勺二才</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">は下地形に使用し、七合八勺八才は道路より振り出した砂利及び土と混</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">和して上敷に使用する(図</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">9</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">参照)。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> レール及びその附属品はすべて英国からの輸入品であった。英国製の</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">馬車鉄道のレールは凹形のいわゆる溝付きレールである。これはレール</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">を道路面と同じ高さに保ち、他の荷車、馬車等の交通の防害にならない</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">という長所がある反面、溝に小石や雪・氷がつまりやすく、脱輪事故を</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">引き起こしやすいという欠点があった。</font></font></font><br /><br /><br /><br /><br /><br />  紀要219頁<br /><br />  <strong> <font size="4">参 考 資 料</font></strong></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><br />  </p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><b>1</b></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"><b>、馬車鉄路築造并営業ヲ認許スルニ付命令書(明治</b></font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><b>13</b></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"><b>年</b></font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><b>11</b></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"><b>月</b></font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><b>24</b></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"><b>日)</b></font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  馬車鉄道路築造并営業ヲ認許スルニ付命令書</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    第一条</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">今般許可スル処ノ鉄路ハ新橋際ヨリ日本橋ヲ経テ上野広小路ニ至リ夫ヨリ下谷広徳寺前通リ浅草広小路ニ至</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">リ夫ヨリ同所蔵前通伝馬町本町同町二丁目角ニ至テ日本橋通リノ線路ニ連絡スルモノトス</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    第二条</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">鉄路営業ハ満三十箇年ヲ以テ期限トス</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    第三条</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">馬車鉄路築造ニ付之ニ属スル基材其他建築費額ノ十分ノ二身元保証金ト為シ実地起業ノ前日当庁ニ領置シ工</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">業竣工検査済ノ後之ヲ還附スヘシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 但工業半途ニ廃シ満一ケ月ヲ過キ再興セサル時ハ身元保証金ヲ以テ原形修路ノ費用ニ充テ剰余アルモノハ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  之ヲ還附シ不足アルモノハ之ヲ償ハシム</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    第四条</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">鉄軌ハ他ノ車馬通行ニ妨碍莫力ラン為メ一般道路ノ表面ヨリ昂低スヘカラス</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要220頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 但鉄軌ノ横幅ハ内法リ凡ソ四尺五寸ヲ以テ定限トスヘシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    第五条</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">橋梁上及ヒ道幅五間以内ノ場所ハ総テ単線タルヘシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    第六条</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">鉄路線ニ係ル橋梁幅員ノ狭隘ナルヲ広メ又ハ脆弱ニシテ架替ヲ要スル等ノ費用ハ営業人ノ負担タルヘシ尤其</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">狭隘ナルト脆弱ナルトハ当庁ノ鑑定ニ依ルベシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 但本条起業毎ニ管庁ノ許可ヲ受クヘシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    第七条</font></font></font><br /><br />   中略<br /><br /><br /><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    第二十二条</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要223頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">此命令書中ニ掲クル条件ニ違背シタルトキハ何ノ日何ノ時ヲ問ハズ第十四条ノ例ニ依り処分スベシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                        (「五代友厚関係文書」大阪商工会議所商工図書館所蔵)</font></font></font><br /><br /><br /><br /><br /><font color="#000000"><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">2</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">、浅草新設線特許命令書(明治</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">29</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">年</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">6</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">月</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">1</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">日)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">己第一七四号</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">   特許状</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                                    東京馬車鉄道株式会社</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">東京市下谷区下車坂町ヨリ合羽橋通リ浅草公園第六区前ヲ経テ浅草区北田原町ニ至ル間別紙命令書ヲ遵守シ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">馬車鉄道ヲ布設シ運輸ノ業ヲ営ムコトヲ特許ス</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  明治廿九年六月一日</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                                   内務大臣伯爵板垣退助 印</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">己第一七四号</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">   命令書</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第一条 今般東京馬車鉄道株式会社ニ対シ特許シタル馬車鉄道営業ハ東京市下谷区下車阪町十一番地先ヨリ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 合羽橋通リ浅草公園第六区前ヲ経テ浅草区北田原町三丁目八番地先ニ至ル里道并ニ会社ニ於テ新設スヘキ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 軌道敷ノ上ニ鉄軌ヲ布設シ既設馬車鉄道卜連絡シ一般運輸ノ業ヲ営ムモノトス</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第二条 馬車鉄道営業年限ハ明治四十六年五月マテトス</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">第三条 会社ハ本書下附ノ日ヨリ三ケ月以内ニ左ノ各号ニ準拠シ線路実測図面、工事方法書、工費豫算書ヲ</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要224頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">調製シ予メ東京府知事ノ認可ヲ請フヘシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">前項記載ノ事項ニシテ爾後変更ヲ要スルモノハ其都度更ニ認可ヲ請フヘシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">一 軌道ノ幅員ハ内法四呎六吋トス</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">二 軌道ハ単線軌道トス</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">三 鉄軌ハ凹字形ノモノヲ用イ道路卜高低ナク之ヲ布設スヘシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">四 鉄軌間及ヒ其左右各壱尺五寸通リハ大凡竪五寸横幅七寸五分乃至八寸厚サ三寸五分ノ堅石ヲ布設シ道</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  路面ト高低ナカラシムヘシ但其地盤ハ堅固ニ築造スヘシ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 右敷石ハ踏切及要衝ノ個所ハ鉄軌布設ト同時ニ布設シ其他ハ開業ノ翌年ヨリ毎年全線路ノ二分ノ一</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  ツヽ布設シ二ケ年内ニ之ヲ完了スルコトヲ得</font></font></font><br /><br /><br /><br /><br />  紀要215頁15行目~(電気鉄道 軌間とレール)<br /><br />  <font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">市会は結局星の率いる民営派が、民間資本による都市交通機関の速成を大義名分として多数を占め</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">民営に決した。これを受けて内務省は、三三年六月東京市街鉄道発起人に対して電車敷設の特許を与</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">えたのである。あわせて東京馬車鉄道会社に対しては、既設馬車鉄道線路における動力変更を認める</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要216頁(電気鉄道 軌間とレール)</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">特許状を下付した{会社の命令書受領は同年一〇月四</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">日)。出願以来足掛け八年目のことであった。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 東京馬車鉄道会社は、早速臨時株主総会を開き、社</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">名を東京電車鉄道株式会社と改め、資本金一七〇万円</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">を五〇〇万円に増資して電車への動力変更工事に取り</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">かかることになった。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 明治三六年八月ニ二日、まず同社の支線である品川</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">線町動力変更が完成して、電車営業を開業した。その</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">動力変更工事の大要は以下のとおりである。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 本社は東京市芝区浜松町二丁目元大久保邸(新橋附</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">近汽車より見ゆ)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">発電所は東京府荏原郡品川町大字商品川宿字三嶽耕地にありて(汽車の西側に見ゆ)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 汽罐は米国製パブコツク、ウイルコックス水管式公称馬力三百五十馬力のもの八台合せて弐千八</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  百馬力となる</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 煙突は東京芝井手工場製鋼鉄高さ百七十尺内径七尺二基</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 汽機は米国マツキントーシュシーモア会社製横置複式並行汽<font face="MS P????, monospace">筩</font>側面曲柄式千八百馬力のもの三</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  台、合計五千四百馬力、シリンドルの直径高圧の方三十吋低圧の方六十二吋、衝程四十二吋、</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要217頁(電気鉄道 軌間レール)</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3"> 回転一分間百七、普通箱型注水凝縮器を附す</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">発電機は米国ゼネラル会社製普通一千二百キロワット三相交流式六千六百ヴオルト、弐十五サイ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> クルのもの三台之れを各汽機へ直結と為して運転す</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">エキサイターは同社製百キロワット直流発電機電圧百二十八ヴオルト、回転弐百五十のもの弐台</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 之れを同しくマツキントーシュシーモア横置複式一列汽</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">?</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">中央曲柄式の汽機弐台へ各直結と</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> す、汽機二台に対し普通逆立円錐形注水凝縮器一個を附す</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">配電盤は発電機、エキサイター、饋電線等順序を正し之れに所要の完全なるメートル、スウィッ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> チ等を備ふ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">扛重機は米国製二十三噸用にして之に三個の電動機を取附其大は上下用廿五馬力、前後用三馬力</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 半、左右用五馬力半之に要する電流はエキサイター用発電機用より供給す</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">変流変圧所は浜松町本社構内と日本橋区今川橋との二ケ所にありて前者の電力凡一千馬力を以て</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 品川、日本橋間に、後者の凡二千馬力を以て日本橋以北以東の電車運転に供給す、発電所より</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 両変圧所まては悉く地中線とす</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">発電所より高圧電流の儘変圧所に送りコヽにて一端低圧に変じ更にロータリー、トランスフ</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> オーマーの働きに依て直流となし電車線に配電す</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">車輌は車体の総長二十五呎、客室長さ十八呎、ホイールベース六呎、四十人乗りとす</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 車台はペックハム会社製、車体(客室)は熱田の日本車輌会社と東京車輌製造所にて製造せり、</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">紀要218頁</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us"><br /></span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">  電動機は米国ゼネラル会社容量三十八馬力一個とす</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  抑制器は非常停車仕掛付のもの</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 電柱と電車線 所謂複線式にして</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">S</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">0</font></font><font face="MS P????, monospace"><font size="3"><span lang="en-us" xml:lang="en-us">B</span></font></font><font face="MS ??"><font size="3">0線を架設す、複軌道の場所は四条を要す</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 軌道は五十磅ステップ形ゲージは四呎六吋とす、枕木は二呎六吋毎に長八呎幅七吋厚六吋のもの</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  を用ふ、曲線は其最小半径三十六呎とす</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">  ○下</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">    略。</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">                           (電気之友、第一四七号、明治三六年一〇月)</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3"> 次いで一一月二五日には、品川から上野まで電車が開通した。料金は三銭均一制を採用した。翌三</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">七年二月二五日、日本橋区銀町角から小伝馬町通り浅草橋を経て浅草観音前まで開通、三月一八日に</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">は、浅草・上野間も電車に変更し、ここに二〇年余りにわたった馬車鉄道時代は完全に終わりを告げ、</font></font></font></p> <p lang="ja-jp" xml:lang="ja-jp"><font color="#000000"><font face="MS ??"><font size="3">電車時代を迎えることになったのである。</font></font></font><br />  <br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> 何でそうなるのか?</p>
<p>支離滅裂さ更に更に続きます。<br /><br /><br />          <strong>迷走する道路行政</strong><br />           1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />          す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br />           現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。<br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br />           歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から<br />          始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br />           都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる<br />          自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治<br />          体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br />                                               (43頁1行目~44頁2行目)<br /><br />   地理感覚も、地誌感覚もボロボロですね。<br /><br />           1系統は 【銀座四丁目】を抜けると、銀座の中心地からは遠ぎかっていくことになりま<br />          す。それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br /><br />   雑踏を以って銀座と言うのか?雑踏を言うなら銀座の中心は、四丁目交差点ではなく、数寄屋橋からの晴海通りの方が「にぎわ」ってい<br />  ますが。<br />   松屋デパートのすぐ北側、ティファニーもあるメルサもある、そんな二丁目。歩いても四丁目交差点からたった200メートル先、そんなアッ<br />  と言う間の距離で<br /><br />           ……それでも、【銀座二丁目】界隈は、まだ銀座のにぎわいを残しています。<br /><br />   どれだけ狭いんだ?銀座エリア。<br />   実際に「都電跡をお歩きになった」上での感想ならば、個人の感覚を云々しても始まりませんが。<br />   銀座発祥の地碑って、二丁目にありませんでしたか?<br />   <br />           現在、都電が消えた中央通りでは、週末・祝日の昼間に歩行者天国を実施しています。<br /><br />   中央通の規制は、東西が晴海通りのみ中央通を横断可能となっているので、柳通り、マロニエ通り、松屋通り、みゆき通り、交詢社通り、花椿<br />  通り等々中央通を横断できない部分については、実質規制状態ですね。自転車も乗車は規制なので、かつて規制時間帯に、新橋方面から京橋<br />  の明治屋へ自転車で行くのに往生した記憶があります。<br />  <br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   本当にそうなのでしょうか?また、小川氏の言う原因<br /><br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、<br /><br />   はヨーロッパの路面電車の廃止?と同様なのでしょうか?<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />  近年とはいつのことでしょうか?<br />   鉄道雑誌などでよく取り上げられるのがフランスの低床式路面電車ですが、その導入時期は<br /><br />        ナント──1985年専用線化で再生低床化は後年<br />        グルノーブル──1987年<br />        パリ・イル・ド・フランス──1992年<br /><br />   グルノーブル25年前、四半世紀前ですよ。ドイツはそれ以前からですよね。<br /><br />   欧州の都市内交通としての路面電車は高速鉄道(地下鉄や高架鉄道)やバスとの競争に敗れて一旦衰微して行ったのではないでしょうか。<br />   我が国の都市交通としての路面電車も基本は、他の都市内交通機関との競争に敗れて衰微して行ったのではないでしょうか。<br />   ある程度の大型車両、元をただせば、馬車による大量交通を可能にした道路設備と、歩車の分離が相当に進んでいた欧米に比べ、道路<br />  状況が相当に貧弱であった我が国ではありましたが、<br /><br />          自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれ<br /><br />  た訳ではありません。交通機関としての競争に負け、公共交通機関としての必要性と税金で支えきれるかとのバランスが取れなくなった結果<br />  での廃止だったのではないのでしょうか?<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   路面電車が見直されているのでしょうか?都市域内で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を埋め<br />  るものとして、中間的な鉄道システムが見直されてきているのではないのでしょうか?<br />   そして、復活と言うからには、コミュニティー内の乗り物として従来あり、1930年頃から1950年代に掛けて一旦廃止されたものについて、<br />  道路容量に余裕があるなどの条件が既に整っていた関係で、高速鉄道などの本格的鉄道と路面電車を含むコミュニティー内の乗り物の間を<br />  埋める需要が出てきた結果、復活できたのではないかと思われますが。<br />   単に省エネであるとか、環境問題によるとか、では無い合理的なニーズ、半径の小さい曲線区間の多い市内(コミュニティー内)の併用軌道<br />  から専用軌道(日本で言う新設軌道)、さらには高速鉄道の高規格線への乗り入れが可能であるとか、それらとプラットホームを介して乗降連<br />  絡が容易であることと、信用乗車制度の普及とあいまっての交通機関としてのシームレス性であるとかによって復活しているのではないかと考<br />  えられています。<br />   決して、<br /><br />                                     ……道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br /><br />  などと言う、「人間復権」のような怪しげなお題目によっているわけではありません。<br />   LRTの様な中間的な鉄道システムの中での従来の路面電車的部分を理由にして、<br /><br />                                                    ……、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。<br /><br />   な訳ではありません。<br />   実際、各地の中間的な鉄道の沿線に「トランジットモール」なるものが占める割合は如何許りのものでしょうか?その「トランジットモール」内<br />  での時間当たりの運転本数は如何許りのものなのでしょうか?<br /><br />           自動車社会の邪魔物として日本の路面電車は廃止に追い込まれましたが、ヨーロッパでは<br />          近年になって路面電車が復活しつつあります。道路とは自動車ものものではなく、人間の<br />          ものである──そうした理念から「トランジットモール」(自動車の侵入を制限し、公共交通機<br />          関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)の考えが推進されています。<br /><br />   交通体系をめぐる都市形態、都市計画を、安物の感情論的な、道路は歩行者のもの、歩行者優先とする正義感で語るべきではないと考え<br />  ます。<br /><br />            歩行者天国が導入された背景は、トランジットモール同様に歩行者を優先する概念から<br />          始まりました。歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。<br /><br />   本当に同様なものでしょうか?<br /><br />            歩行者を優先する概念<br /><br />  とは何でしょう?<br /><br />     大まかに言って「歩行者を優先する」こと<br /><br />  あるいは、<br /><br />     歩行者を優先すると言う大まかな考え方<br /><br />   ってことでしょうか?<br />   トランジットモールと歩行者天国、どちらも道路において歩行者を優先すると言う考え方のものではありませんし、夫々の仕組みも違います。<br />   <br />    トランジットモール──「(自動車の侵入を制限し、公共交通機関のみの侵入を認めた歩行者優先道路、第九章参照)」とお書きになって<br />                  おられますが、「モール」って単純に道路って意味ですか?「散歩道」とか、特に米国の「モール」大規模な「商店街」<br />                  とかじゃあ無いんでしょうか?「散歩道」とか「商店街」に歩行者優先って変ですよね。本来は人が行き来するため<br />                  に存在する道なのではないんですか?それで歩行者優先って何ですか。<br />                  元来が、買物客、遊興客が移動交通し易い場所として設定されていると言う意味で、トラムやバスなどの交通機関<br />                  が人車区分されたレーンに存在しているので、歩行者優先の概念など関係しません。<br /><br />    歩行者天国────本来車両が通行する車道を規制し、車両の通行を臨時に遮断することで、車道と歩道の区別無く歩行者を往来させ<br />                 ること。遮断であるので、歩行者が往来を占有しているが、これも歩行者優先の概念など関係しません。<br /><br />                ……歩行者天国は、昭和四五(一九七〇)年八月に実施された、ここ銀座が日<br />          本初といわれています。<br /><br />   日本で最初の「歩行者天国」すなわち道路からの自動車の締め出しは、大規模なものとしては昭和44年(1969年)8月に旭川市の国道<br />  40号線の内駅 前からの総延長1キロメートルわたって8月6日から17日まで実施された「国道閉鎖」実験を嚆矢とするのではないでしょうか?<br />   また、昭和45年(1970年)8月2日に実施れた東京都の歩行者天国は銀座他新宿、池袋、浅草で同日に実施されています。<br />   「歩行者天国」と言う名称での実施ならば、この東京都の実験が最初ではありましょうが、これをしも、朝日新聞1966年の「歩行者の天国」<br />  と言う危ない表現が嚆矢ではありますし、旭川の実験以前にも小規模な自動車の遮断は各地で実施されていた訳で、1970年直前になって、<br />  具体的になってきた言葉であり、それこそ概念的には<br /><br />     歩行者天国は昭和44年(1969年)8月に実施された、旭川が日本初と言われています。<br /><br />  ではないでしょうか。<br /><br />                        都電1系統が廃止されたわずか三年後のことです。都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br /><br />   どうも日本語になっていないようなのですが、<br /><br />                                                    ……都電を撤去し<br />          て自動車に便宜を図ったことは、トランジットモール本来の〝歩ける街づくり〟の理念か<br />          らはずれています。<br /><br />    都電の撤去とトランジットモールに何か関係があるのでしょうか?<br />    都電の撤去の目的は、〝歩ける街づくり〟だったのでしょうか?<br /><br />                   ……都電の廃止と歩行者天国とは、矛盾した政策でした。そこからは、当<br />          時の政府や地方自治体の道路行政の不徹底、迷走ぶりが垣間見えます。<br /><br />    都電の廃止と歩行者天国の実験との間に何か関係性があったのでしょうか?<br />    道路を整備して、急増する自動車交通の通行の円滑化を図る政策という道路行政、最終的には道路の新設増強、既存道路の拡幅等を<br />  実施していく政策を具体化していく道路行政は一貫していました。その文脈の中に、財政再建団体となった都電を廃止撤去して東京都交通<br />  局の財政を健全化する計画がありました。<br />   一方で、光化学スモッグ等自動車に起因する都市公害等に対応していると言わんがためのパフォーマンスと、休日の商業地域の活性化<br />  対策。安保改定期での実質的なデモ、集会規制の一つの手段として、土・日・祝の都心道路の交通量が著しく閑散となる時期に自動車を遮<br />  断する「歩行者天国」は道路行政として何の矛盾をも生みだしていません。<br />    恒常的なものと、限定的に実施しているものは極めて大きな差異があります。小川氏は小川氏の脳内で理念が同じならば、<br /><br />     歩行者天国とトランジットモールは同一のものである<br /><br />   と仰っておられるのです。<br />    些事ですが、銀座四丁目の交差点を東西に横切る、8系統、9系統、11系統、36系統が運行されていた築地線は昭和46年(1971年)の<br />  廃止だったかと思いますが、銀座歩行者天国実施の時、この系統はどうしていたんでしょうか?当日運行されていたのならば、小川氏の様に<br />  トランジットモール=歩行者天国ならば、アクセスの一つとして広場への進入が果たされていたことになりますし、一方当日運休ならば、トラン<br />  ジットモールと歩行者天国は別物と言うことになりませんか。<br /><br />           都電に限らず、当時は各地の路面電車が廃止された時期でもありました。道路に溢れる<br />          自動車は、高度成長期の象徴的アイテムでした。そんな経済成長の流れに政府や地方自治<br />          体は逆らえなかったのです。かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br /><br />   道路に溢れる自動車は路面電車の廃止を含めた道路の整備によってその問題点を解消して行こうとするのが、政府や地方自治体の政策<br />  でした。現実に有効な施策でした。モータリゼーションと言う内需の拡大と自動車産業として外貨を稼ぐベースを、整備されていく道路が支え、<br />  路面電車に代わる高速鉄道や新交通システムが整備され、路面電車を廃して整備された道路環境と相まって、今日我々が享受している高度<br />  経済成長によってもたらされた果実は、1990年代に比べ絞り粕となっているかもしれないけれど、この政策によって得られているのではあり<br />  ませんか?<br /><br />           かくして道路は、ただ自動車の走る空間となりました。<br /><br />    自動車、バス、トラック、乗用車、商用車、貨物車、特殊車両には人が乗り、貨物が積まれ、移動させ流通させ作業させるために、道路は<br />  自動車の走る空間になっているのではありませんか?<br />   なるほど、<br /><br />      かくして道路は、ただ人が歩行し、路面電車の走る空間となりました。<br /><br />  にしたいんですね。<br />   それが道路行政なんですか?項題を、こうお変えになったらいかがですか?<br /><br />          <strong>(小川裕夫が)妄想する道路行政</strong><br /><br />   続いての一項は文章としては些細な本末転倒ですが、小川氏のインチキな文章の構成法がよく判るパラグラフです。<br /><br />          <strong>東海道を通る一系統</strong><br />           【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上<br />          したところが【通三丁目】になります。不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、<br />          中央通りが八重洲通りと交わるところにありました。そのため、八重洲通りと誤解されや<br />          すいのですが、この〝通〟は「東海道」のことです。<br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ<br />          て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。<br />                                                (44頁3行目~10行目)<br /><br /><br />           【銀座二丁目】を通りすぎると【京橋】です。そこから、さらに五〇〇メートルほど北上<br />          したところが【通三丁目】になります。<br /><br />   京橋-通三丁目間400メートルしかないですけど、電停の位置とかを、〝電車何たら図〟で見ただけで書いてませんか?<br /><br />            不思議な電停名に感じられる【通三丁目】は、<br /><br />   中央通の左右に亘って、日本橋から(町域変更後)、南へ通一、二、三丁目と言う地名がそもそもあったから【通三丁目】の電停名が後に<br />  起こったわけで、不思議なのは電停名ではなく、町名なんじゃないでしょうか?<br /><br />           この〝通〟は「東海道」のことです。<br /><br />   通一、二、三、四丁目の由来となった〝通〟は、北へは日本橋を通り過ぎて、筋交い辺りまでを「通」と呼んでいませんでしたか?<br />   現日本橋に、通一~四丁目が在った様に、現日本橋大伝馬町に通旅篭町、通油町、通塩町と言う町名がありました、これは御成(日光)<br />  街道が由来であったようですが、同じ日本橋界隈にしかも中央通沿いではなく日光、奥州街道沿いにも通を冠した町があったということは、<br /><br />           この〝通〟は「東海道」のことです。<br /><br />   とは必ずしも言い切れなくなるのではありませんか?<br />   しかも、旧町域で言うと、〝通〟は東海道の起点であろう日本橋と直接繋がって通一丁目があるのではなく、日本橋との間に、北西部分<br />  で西河岸町、北東部分で元四日市町が〝通〟の左右に存在します。〝通〟が東海道なら通1~4丁目は日本橋直接に連なっているので<br />  はないのでしょうか?<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、<br /><br />    第一京浜、中央通り、おまけで銀座通りは「国道15号線」の通称で、話の便宜上、小川氏によって<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた<br /><br />  のであって、別に国道15号線とだけ表現してこられてもよかったんです。<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。前に述べたとおり、これが明治時代になっ<br />          て、一号国道に指定され、栄えある都電1系統が走る道路となります。<br /><br />   「国道15号線」偶々東海道と重なっただけでしょ。第一京浜の前は京濱國道だったんじゃないんですか?<br /><br />          ……江戸時代から整備されてきた東海道です。<br /><br />   少なくとも〝通〟は東海道として整備されてきたわけではありません。江戸のメインストリート、東海道、中山道、日光街道、奥州街道(に<br />  通じる道)として府内交通の中心と位置づけられた道です。<br />   第一、「中央通り」筋違から北、広小路まで「中央通り」ですし。<br /><br />          ……栄えある都電1系統が走る道路となります。<br /><br />  主客転倒なのではないでしょうか。<br />   後出しの系統番号が1番で、元東海道筋を走ってるからとこじつけて、<br /><br />          ……栄えある<br />   <br />  って、何か意味があるんですか?<br />   そんなご立派なものなら、何で、<br /><br />    栄えある廃止系統第一号<br /><br />  になっちゃったんでしょうね。<br /><br />   「明日、日本橋八つ正刻集合な」とか、東海道を京へ上る時とか、皆さん必ず、「お江戸日本橋七つ立ち」、されたんですかね?大名参勤交<br />  代するときも、あたかもそこに始発駅が存在するが如く、日本橋からお国入りに向かわれたんでしょうか?それなら、<br /><br />           ここまで、国道一五号線、第一京浜、中央通りと表わされてきた道路は、言うまでもな<br />          く江戸時代から整備されてきた東海道です。<br /><br />  は、まあそうかもしれないと思いますけど、江戸屋敷から直接各木戸とか、品川、内藤新宿、千住等の宿駅を目指したんじゃないんでしょうか。<br />   上京とかに使われないんなら、〝通〟とかの整備は東海道だからと言うことにはなりませんね。</p> <p>                                                                          OP.2013.10.06</p>

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