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「日本築城史」からの捏造」(2006/07/27 (木) 00:51:33) の最新版変更点

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<h3> 「新説 東京地下要塞」に於ける「日本築城史」からの捏造</h3> <br> ここまで、原著を貶めて、なお懲りずにやりますか? 浄法寺朝美氏、彼岸に在って絶対怒っていると思います。<br> 前掲「日本築城史からの下品な捏造」では<span style= "color: rgb(255, 0, 0);">赤字</span>で捏造部分書き分けられましたが、今回は書き分けすら困難です。<br> <br> そこで一応、以下、秋庭氏の文章で「日本築城史」と食い違う、あるいは同史に存在しない部分を<span style="color: rgb(0, 102, 0);">緑字</span>で、浄法寺朝美氏の「日本築城史」からの記述で秋庭氏の文章が誤りである部分を<span style="color: rgb(0, 0, 153);">青字</span>で書き分けることにしました。なんかほとんど<span style="color: rgb(0, 0, 153);">真っ青</span>ですね。<br> <br>   「新説 東京地下要塞」(秋庭俊著 講談社刊2006年)49頁四~七行目~51頁<br> <br>     築城本部の浄法寺朝美大佐は、戦前、陸軍の地下建設を統轄する立場にあった。戦後、大佐は『日本築城史』『日本防空史』を著し、明治以後の砲台建設について記している。 <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);"> 陸軍が最初に砲台を建設したのは一八七六(明治九)年、東京湾の左右両岸、観音崎と富津だったということである。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <br> 「日本築城史」の観音崎と富津、建設時期が違いますけど<br> <br> 日本築城史36頁~37頁<br> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">明治9(1876)年12月,省内予算の流用によって,観音崎地区に砲台建造地の一部を買収したが,これが明治維新後における,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">国防工事に関する事業の第一歩であった。引き続き明治11年から12年にわたり,富津崎の測量および地質調査を終った。</span><br>  明治12(1879)年参謀本部に海岸防御取調委員が置かれ その常任委員となった陸軍工兵大尉西田明則は「東京湾要塞建設論」<br> を山県卿に提出したが,火砲の射程上,観音崎と富津との海上に,3箇の海堡を設置する必要があるという意見で,ついに世紀の<br> 大事業である第1,第2,第3海堡が構築されることになった。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">明治13(1880)年4月には,観音崎と三軒家間の軍道(観音崎トンネル</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">を含む)が着工され 同年6月,工兵第1方面は観音崎第1砲台の建設工事に着手した。</span><br> <br> 日本築城史128頁<br>           <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">6 観音崎地区の砲台</span><br>  1)北門第一砲台(<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">観音崎第一砲台</span>)<br>  観音崎トンネル山頂の南寄りに,<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">明治13(1880)年6月5日起工,同17(1884)年6月27日竣功し,27(1894)年9月,23口径24センチ</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">カノン砲2門の据付けを終え,日清役の戦備についた。</span>両砲座問の高い横墻には,交通のためのトンネルがあり,地下掩蔽壕もある。<br>  掩蔽壕は左右2室に分かれている。左横墻下にも地下壕があり,右横墻上には観測所がある。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">本砲台は北門第2砲台とともに,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">わが国洋式砲台の囁矢である。38(1905)年2月弾廠を竣功したが,大正2(1913)年廃止となり,同4年防御営造物より除籍された。</span><br>  なお,観音崎地区の北門第一,同第二,同第三,南門第一,南門第二,第三,第四各砲台の砲台築造費の合計は,約45万8000円,<br> 観音崎弾薬本庫築造費約4万8000円である。その他軍道築造費・通信施設費・用地買収費(1砲台分3000円から5000円程度)が加わった<br> ものが築城費となり,その他火砲費・同据付費などの備砲費とその他の兵器費が投入された。<br> <br>  2)北門第二砲台(<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">観音崎第二砲台,だんだん砲台</span>)<br>  観音崎トンネルを抜けると,逆行のⅤ字道路があり,やや昇った右側に,斜坂となった70メートルほどのトンネルがある。<br>  このトンネルを出た右側に,<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">一砲座ごとに海に向って下る,段々に構築された6門の砲台である。明治13(1880)年5月26日,わが国</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">最初の洋式砲台として着工され(第一砲台とほとんど同時),同17(1884)年6月27日竣工した。明治22(1889)年,4砲座の備砲を</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">終ったが,各砲座は皆異なった砲種であった。</span>これらを他に転用し,明治27(1894)年6月,4砲座に26口径24センチカノン砲4門を<br> 据付け,日清戦争に備えた。明治30(1897)年3月,第5・第6砲座の備砲を終り,ここに6門編成の24センチカノン砲の段々砲台となって,<br> 明治37(1904)年2月,日露戦争の戦闘配備についた。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">大正14(1924)年付属施設を除き,本砲台は除籍された。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <br>  3)北門第三砲台(観音崎第三砲台)<br>  北門第二砲台のトンネル入口前をまっ直ぐに登りつめ,T字路を左折し,トンネルを通りぬけると,山腹を切り取った山上に,本砲台跡<br> がある。<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">明治15(1882)年8月起工,同17年6月竣工し,27(1894)年9月,28センチ榴弾砲4門の据付けを完了し,戦備についた。震災に</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">よる破壊が甚だしく,大正14(1925)年7月除籍された。</span>ここに南門または北門というのは地名ではなく,観音崎地区砲台の監守衛舎が,<br> 北(三軒家寄り)と南(鴨居寄り)にあって,砲台入口に柵門が置かれていた。これを通称北門・南門といったところから,砲台名に転化<br> したものである。<br> <br> 日本築城史140頁<br>            <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">9 房総地区の砲台</span><br style= "color: rgb(0, 0, 153);"> <span style="color: rgb(0, 0, 153);">1)富津元洲堡塁砲台</span><br>  <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">千葉県富津町字元洲にある。砂洲が東西に細長く発達し,富津岬を形成しているが,その基部に明治14(1881)年8月起工,同17(1884)</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">年6月竣工し,25年3月28センチ榴弾砲6門と,12センチカノン砲4門の据付けを完了し,日清戦争時,戦闘配備についた。</span><br>  日露戦争には28榴6門と,12カ2門が戦備についた。砂丘上に高く積土した扁平五角形の堡塁で,堡塁の周囲は,幅2・30メートルの外壕<br> とし,海水を引き入れている。積土の上に,28榴6門の砲座を間隔を置いて,東西に配置し,その後方に地下掩蔽部を設け,各種の用途に<br> 供した。砲列の両端にコンクリート造円形の観測所を設けた。日露戦争中,37年11月28榴2門は撤去され攻城砲として旅順に送られた。<br>  <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">大正4(1915)年9月,旧式となって除籍され,</span>その後は陸軍技術本部の大砲試射場となり,外壕外の12カ砲座が使用された。<br>  またフランスから購入した,24センチ大列車砲2門(射程5万メートル)の試験も,主にここで実施した。堡塁はいま千葉県立公園で,<br> 近くこの付近一帯は,国立公園となる予定である。堡塁はほぼ原形を止めている。富津岬の先端に第1海堡があるが,接続部が切れて,<br> かなりの水深があり,大潮の干潮以外,徒渉は困難である。<br> <br> <br>   「新説 東京地下要塞」(秋庭俊著 講談社刊2006年)49頁八行目~50頁二行目<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    観音崎、富津周辺には、当時つくられた地下道が縦横に走って</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">いて、いつ崩壊、崩落するかわからないため、いたる所に立入</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">禁止の札が立てられている。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    なぜ、砲台周辺に地下道をつくる必要があったかというと、列</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   強の艦隊による砲撃のさなか、武器弾薬を輸送し、人員を移動さ</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   せるためである。</span><br style= "color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    観音崎、富津に限らず、砲台は敵軍の攻撃目標となる。そんな</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   所に弾薬庫をつくるわけにはいかない。『日本築城史』によれ</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   ば、明治初期、陸軍は砲台と弾薬庫を五〇〇メートル離して建設</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   し、その間を地下道で結んでいたという。二点を結ぶルートは、</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   多いにこしたことはないそうである。</span><br> <br> そんなことは、「日本築城史」の何処にも書いてありません。観音崎、富津については、上記の通り大正期に除籍されてますし、「当時作られた地下道」についての記述何ざありません。以下<span style="color: rgb(0, 0, 153);">真っ青</span>ですが要塞内の交通についての概説です。<br> <br> 日本築城史86頁~87頁<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">      6 交通,通信その他の施設</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 要塞内の各施設を連絡するための地上交通路は,わが国の海岸要塞が,高地や山上に設けられた特性上戦時火砲の移動については</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">考えない固定砲の関係で,交通路は主として補給品運搬用の車馬を対象として作られている。経始は地形に応じ,大量の土工を避け,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">等高線をたどりながら,徐々に上下し,道路勾配は,登坂車両の晩上力から,20分の1以下に抑えている。最小曲半径は18メートル位</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">であるが,-般に電光形の七曲り式のものが多く・曲折部には広場を設けて,車両の旋回に資している。道路巾員は排水溝を含めて</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">3メートル(実巾員2・7メートル)のものが多く,探照灯交通路は,巾員1.8メートル,観測所の交通路は,巾員1メートルである。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 舗装はなく,路面は除積土のまま搗き固めるか,小砂利を敷いた程度である。山腹道では,路面を山側に傾けて,そこに設けた</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">排水溝に,路面および山斜面の雨水を落し,貯水槽に導くようにしたものが多い。交通路構築のための土工用具は,切取用具として</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">円匙・鶴はし・十字鍬・じょれん・掛矢などを用い,岩石掘削用具として,鉄挺・鉄楔・鉄矢・石割槌・石工槌・石工のみ・石工</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">玄翁などを用いている。硬岩掘削には火薬を用いている。運搬用具としては,円匙・もっこ・パイスケ・一輪車・荷車などを用いて</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">いる。切取斜面の傾斜は,土質のよい場合は1分の1,土質不良の場合や,斜面が高いときは3分の2にしている。積土は,透水性の</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">砂質土を悪土として用いず,一様な尋常土(粘土分も砂分も偏って多くない普通の土)を良土として用い,5分の1程度の緩い勾配</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">とし,これを薄層に搗き固め・土羽打をし,表面に草を植えるのが-般である。積土の下に,土留石垣やコンクリート擁壁を設けた</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style="color: rgb(0, 0, 153);">ものもある。</span><br style= "color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 工事を実施する場合,まず道路をよくして,トラック輸送をするのが常識であるが,大正以降の築城工事においては,まず工事の</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">秘匿が要求され,昼夜を問わず,頻繁なトラック輸送や・大きな道路の行きどまりは,それだけで砲台の構築と位置を明示するもの</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">であったから,厳に注意された。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 砲塔砲台の口径40センチの砲身重量は,約120トン,35センチの砲身重量は約100トンもあり・砲塔アーマープレートの厚さ30センチ</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">で1片60トンないし70トンもあり,これらを山上の砲台建設地に引き揚げるにも,特に交通路を設けず,軌道と神楽桟によって,偽装</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">秘匿しつつ実施した。築城用のセメント・砂・砂利・鉄筋・木材の運搬も,海岸から山上までの歩小径を,男女人夫の臂力によって,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">ボツボツ運び上げる方式を取ったものが多い。しかし海正面に暴露しない交通路のある場合には,山頂の砲台や観測所まで,一車線</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">のトラック道を構築したものもある(金谷砲台など)。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 地下交通路としては,弾薬本庫の連絡通路,砲塔砲台内の連絡通路,堡塁内の連絡通路・第2海堡に造られた各砲台の連絡通路,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">要塞内軍道のトンネルなど,いずれも小規模なもので・国境要塞における大規模な地下連絡交通路とは,比較にならない。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <br> 「<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">要塞内軍道のトンネルなど</span>」と書いてあるからと言って早とちりしないように。これは「<span style="color: rgb(0, 0, 153);">観音崎と三軒家間の軍道(観音崎トンネル</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">を含む)</span>」と言うように、軍道の一部にトンネルがあるという意味です。<br> <br> 特に言えば、<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">『日本築城史』によれば、明治初期、陸軍は砲台と弾薬庫を五〇〇メートル離して建設し、その間を地下道で結んでいたという。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <br> 日本築城史に、このような記述は一切ありません。<br> 実は、秋庭俊氏の「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」(洋泉社版90頁、新潮社版104頁)の壱岐要塞黒崎砲台の項で、秋庭氏が次の様に勝手に言っているだけです。<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">『築城史』の地図では、この砲台から地下弾薬庫までの地下線路の距離は約五〇〇メートル、地下弾薬庫から地下弾丸庫(文庫版では砲弾庫)までも、約五〇〇メートル、地下に敷設されていた線路の長さは、合計二キロを越えている。</span><br> <br> 「日本築城史」260頁、浄法寺朝美氏は壱岐要塞黒崎砲台について、次の様に書かれています。<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">弾薬庫は砲台後方300メートルの谷地の山腹に,半掘開式として内庫・外庫を構築し,内庫は2連を連接し気密弾薬庫とした。外庫の庫積は長さ60メートル,巾三〇メートルである。工事費は14万円であった。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <br> つまり、秋庭氏は、「日本築城史」260頁の「図84 黒崎砲台」の地図から勝手に距離を出されている訳です。で図によれば、砲台からの道はまず「弾丸庫」次に「填薬庫」そして「地下火薬庫」に繋がっています。<br> <br> <img src= "http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=42&amp;file=%E5%A3%B1%E5%B2%90%E9%BB%92%E5%B4%8E%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E7%AF%89%E5%9F%8E%E5%8F%B2%EF%BC%92%EF%BC%96%EF%BC%90%E9%A0%81.JPG" style="width: 689px; height: 559px;"><br> <br> <br> 黒 崎砲台そのものは山腹傾斜地の地下に構築されていますけれど、「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」(洋泉社版91頁、新潮社版103頁)の無断複写 図の、砲弾を載せた台車が出入りしようとしている「左入口」部分見ると判りますが、石垣になっていますよね。つまり、此処から先の補給関係道路は地上に露 出してる訳です。<br> その上、黒崎砲台は「日本築城史」によれば、<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">本砲塔(40センチ2連装)砲の射撃間隔は2分で,16分間に8回の斉発を行ない,16発を発射し,必中弾2発を期待していた。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">・・・中略・・・給弾薬室の後方に接して,砲側弾火薬庫を設け,180発分の40センチ砲弾(16インチ砲弾)と,同数の装薬鑵を収蔵し,</span><br> <br> つまり、弾薬の補給無しで、連続180分の砲戦が可能、必中弾約22発。これで戦闘中に地下道使って弾薬補給?もうそんな戦争負け負けですね。<br> 通信連絡用の道路を地下にする必要何も無いんですね。だから「砲台」から「弾丸庫」、「填薬庫」そして「地下火薬庫」までの道路は地上なんです。<br> <br> 勿論黒崎は昭和八年竣工の砲台で、明治初期の砲台じゃありませんけども。しかし秋庭氏はこれを元に明治の要塞を論じておられるのです。<br> <br>   「新説 東京地下要塞」(秋庭俊著 講談社刊2006年)50頁三行目~六行目<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    明治初期から中期にかけて、大砲の性能は飛躍的に伸びていた。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">  観音崎と富津の砲台は、射程が五~一〇キロだったが、日清戦争時、</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">  大砲の射程距離は五〇キロを超えていた。つまり、東京湾を防衛する</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">  にしても、もはや海岸に砲台をつくる必要はなかった。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    市内(いまの都内)のどこからでも東京湾に砲弾が届いた。</span><br> <br> 日本築城史20頁~21頁<br> <br> 42年12月要塞整理案審査委員会が設けられまず要塞整理案を策立し,旧式となった,戦術価値の少ない砲台の審査を開始した。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">明治45(1912)年8月にいたり,海岸要塞砲として,45式24センチ榴弾砲と45式15センチカノン砲を制式に定めた。この45式24Hの最大射程は,1万300メートルと伸びたが,</span>大 口径強装薬のために,発射衝力が大きく,地表では砲が傾くので,砲床を地面下に埋没して,地耐力を大とし,発射衝力に抗堪させたが,大きな掘削土量とな り,多大の時間と労力を必要とした。後では地質堅硬な所か,岩盤地を選定し,厚い砲床コンクリートを打設して,後座衝力に抗堪させたが,これで砲の傾斜は 救われた。<br> <br>  4)大正以降の火砲<br> その後大正8(1919)年10月,海岸要塞砲の制式砲として,7年式15センチ速射カノン砲・ 7年式10センチ速射カノン砲・7年式30センチ長榴弾砲・7年式30センチ短榴弾砲の四種を決定した。速射カノン砲は後装式となり・前装式のように長大 な撞杖を使うことも,装薬装弾のため砲口を下げて,砲身の位置を変える必要もなく,掩護物の陰で装填ができ,圧搾式弾丸が用いられるようになり,発射速度 がいちじるしく向上した。また大正9年11月には,海岸砲台構築要領が制定された。<br>  海岸要塞火砲も,国産による優秀砲が逐次製造されるようにな り,大正11(1922)年には,11年式7センチカノン砲が制式となった。大正12年2月には,旧式な砲台を廃止または除籍し,新式な砲台とするため, 要塞再整理要領が裁可され急ぎ朝鮮海峡と津軽海峡に対する砲台建設要領が定められた。東京湾要塞においては,同年9月1日の関東大震災で,各砲台に相当な 被害を受けたので,震災復旧と要塞再整理事業を,同時に起し,以後約10年間に面目を一新するようになった。すなわち洲の崎第1,大房岬,千代ケ崎,城ケ 島の各砲台の他,坂田(洲崎第2)金谷,≡崎,剣崎,千駄崎の各砲台が,いずれも浦賀海峡より外の東京湾外に,前進構築きれ,火砲の射程は伸び,弾丸効力 は増し,砲台の約半数は,優秀な砲塔砲台となった。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">大正14(1925) 年,10センチカノンの要塞砲は,最大射程1万5,300メートルとなり,昭和8(1933)年には1万8,200メートルに達するようになった。また7 年式15センチカノンは,固定砲架とし,最大射程1万8,100メートルであったが,昭和11(1936)年には,2万6,200メートルとなり,</span>方向射界度は120度と非常に広角となり,高低射界度は-7度から+45度と,これまた非常に大きくなった。<br>  かく改良された15センチ砲は<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">同 年7月,96式15センチカノン砲として仮制式が決定した。これが主要諸元は,砲身長786センチ,砲身重量6,781キロ,砲車重量2万5,000キ ロ,弾量50キロ,弾丸初速毎秒860メートル,最大射程2万6,200メートルで,従来の7年式15センチの最大射程1万8,100メートル,</span>方向射界度40度,砲身長596センチ,砲車重量1万400キロ,弾重40キロ,初速毎秒735メートルに比較すれば,10数年間における進歩は,まことに著しいものであった。<br>  一方,<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">96式24センチ榴弾砲の性能も向上し,最大射程は,1万6,000メートルとなり,</span>方向射界度120度,高低射界度0から+65度,砲身重量8,360キロ,火砲重量3万7,560キロ,弾量185キロ,初速毎秒530メートルとなった。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">この榴弾砲は,最弱装薬として射角20度で砲弾を発射すると,射距離は3,400メートル,</span>公算躱避は約8メートルで,命中精度も著しく向上した。<br>  海岸砲台の火砲は常に艦載砲と同等に進歩発展を遂げ,敵艦と交戦して,これを駆逐するか,撃沈するようになっていた。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">昭 和11(1936)年における海岸砲の有効射程は,口径7・5センチカノンが1万5,000メートル,10センチカノンが1万8,200メートル,15セ ンチカノンが2万6,200メートル,30センチカノンが2万7,000メートル,40センチカノンが3万2,000メートル,口径15センチ榴弾砲が1 万5,000メートル,24センチ弾榴砲(榴弾砲の誤植?)が1万6,000メートル,30センチ長榴弾砲が1万4,000メートルであった。</span>射程は火砲年式と装薬量などで異なり,30センチ榴弾砲は長榴,短榴とも余り射程は伸びていなかった。<br> <br> 大 鑑巨砲の権化、大和級45口径46センチ砲の最大射程が4万1200メートルだったと思います。有効射程での砲戦距離って3万5000~4万までだったと 思いますが。もちろん砲の有効射程を一概には言えませんけど、要塞砲って海抜の高いところに設置できれば、有効射程伸びますよね。でも、「日清戦争時、大 砲の射程距離は五〇キロを超えていた。」って何処の世界の話なんでしょうね。<br> <br> <br> 「新説 東京地下要塞」54頁および55頁写真<br>   <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">  坂下通りに戻り、少し歩いたところで、レンガづくりの建物が目に入った。『日本築城史』</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">  のなかから抜け出してきたような建築だった。左上がその写真である。『日本築城史』には</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style="color: rgb(0, 102, 0);">  次のようにある。</span><br>     4 弾  薬  庫<br>    火砲の弾薬を備蓄するために、要塞には火薬本庫・火薬支庫・弾丸本庫が必要である。<br>    明治時代これらの建物は、四周の外壁を煉瓦積みとして火災に備え、内壁は木組板張り、<br>   屋根は土居瓦葺で・屋上に避雷針を立て、床は木組揚床である<br> <br> <img src= "http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=42&amp;file=%E6%96%B0%E8%AA%AC%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E8%A6%81%E5%A1%9E%E5%BC%BE%E8%96%AC%E5%BA%AB%E9%A2%A8%E5%91%B3.JPG" style="width: 638px; height: 1117px;"><br> <br> 日本築城史82頁<br>            4 弾  薬  庫<br>  火砲の弾薬を備蓄するために,要塞には火薬本庫・火薬支庫・弾丸本庫が必要である。<br> 明治時代これらの建物は,四周の外壁を煉瓦積みとして火災に備え,内壁は木組板張り,<br> 屋根は土居瓦葺で,屋上に避雷針を建て,床は木組揚床である(図8)。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">これらの他,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">火砲・弾薬用の補助建築物として,弾廠(信管・工具類用)・砲具庫(砲具および砲手</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">入用具)・装薬調製所・炸薬填実所が作られたが,いずれも木造平家建である。</span><br> <br> <br> 図も平屋ですね、でも秋庭氏の写真の建物は、二階建てに見えますね。図によく似た建物は「日本築城史」にも、写真が掲載されています。<br> <br> <img src= "http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=42&amp;file=%E5%8F%8B%E5%B3%B6%E7%AC%AC%EF%BC%95%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E5%BC%BE%E4%B8%B8%E6%9C%AC%E5%BA%AB%E8%B7%A1%E7%AF%89%E5%9F%8E%E5%8F%B2%EF%BC%96%EF%BC%94%E5%86%99%E7%9C%9F.JPG" width="771" height="261"><br> <br> 「友島第5砲台,弾丸本庫跡」となってますから、これが将に弾薬庫と断言はしませんけど、秋庭氏の写真よりは由緒は正しいと思います。煉瓦造りだからといって、煉瓦が剥き出しとは限らない。漆喰で化粧していないとは限らない。とも思いますけどね。<br> <br> <br>
<h3> 「新説 東京地下要塞」に於ける「日本築城史」からの捏造</h3> <br> ここまで、原著を貶めて、なお懲りずにやりますか? 浄法寺朝美氏、彼岸に在って絶対怒っていると思います。<br> 前掲「日本築城史からの下品な捏造」では<span style= "color: rgb(255, 0, 0);">赤字</span>で捏造部分書き分けられましたが、今回は書き分けすら困難です。<br> <br> そこで一応、以下、秋庭氏の文章で「日本築城史」と食い違う、あるいは同史に存在しない部分を<span style="color: rgb(0, 102, 0);">緑字</span>で、浄法寺朝美氏の「日本築城史」からの記述で秋庭氏の文章が誤りである部分を<span style="color: rgb(0, 0, 153);">青字</span>で書き分けることにしました。なんかほとんど<span style="color: rgb(0, 0, 153);">真っ青</span>ですね。<br> <br>   「新説 東京地下要塞」(秋庭俊著 講談社刊2006年)49頁四~七行目~51頁<br> <br>     築城本部の浄法寺朝美大佐は、戦前、陸軍の地下建設を統轄する立場にあった。戦後、大佐は『日本築城史』『日本防空史』を著し、明治以後の砲台建設について記している。 <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);"> 陸軍が最初に砲台を建設したのは一八七六(明治九)年、東京湾の左右両岸、観音崎と富津だったということである。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <br> 「日本築城史」の観音崎と富津、建設時期が違いますけど<br> <br> 日本築城史36頁~37頁<br> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">明治9(1876)年12月,省内予算の流用によって,観音崎地区に砲台建造地の一部を買収したが,これが明治維新後における,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">国防工事に関する事業の第一歩であった。引き続き明治11年から12年にわたり,富津崎の測量および地質調査を終った。</span><br>  明治12(1879)年参謀本部に海岸防御取調委員が置かれ その常任委員となった陸軍工兵大尉西田明則は「東京湾要塞建設論」<br> を山県卿に提出したが,火砲の射程上,観音崎と富津との海上に,3箇の海堡を設置する必要があるという意見で,ついに世紀の<br> 大事業である第1,第2,第3海堡が構築されることになった。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">明治13(1880)年4月には,観音崎と三軒家間の軍道(観音崎トンネル</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">を含む)が着工され 同年6月,工兵第1方面は観音崎第1砲台の建設工事に着手した。</span><br> <br> 日本築城史128頁<br>           <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">6 観音崎地区の砲台</span><br>  1)北門第一砲台(<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">観音崎第一砲台</span>)<br>  観音崎トンネル山頂の南寄りに,<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">明治13(1880)年6月5日起工,同17(1884)年6月27日竣功し,27(1894)年9月,23口径24センチ</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">カノン砲2門の据付けを終え,日清役の戦備についた。</span>両砲座問の高い横墻には,交通のためのトンネルがあり,地下掩蔽壕もある。<br>  掩蔽壕は左右2室に分かれている。左横墻下にも地下壕があり,右横墻上には観測所がある。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">本砲台は北門第2砲台とともに,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">わが国洋式砲台の囁矢である。38(1905)年2月弾廠を竣功したが,大正2(1913)年廃止となり,同4年防御営造物より除籍された。</span><br>  なお,観音崎地区の北門第一,同第二,同第三,南門第一,南門第二,第三,第四各砲台の砲台築造費の合計は,約45万8000円,<br> 観音崎弾薬本庫築造費約4万8000円である。その他軍道築造費・通信施設費・用地買収費(1砲台分3000円から5000円程度)が加わった<br> ものが築城費となり,その他火砲費・同据付費などの備砲費とその他の兵器費が投入された。<br> <br>  2)北門第二砲台(<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">観音崎第二砲台,だんだん砲台</span>)<br>  観音崎トンネルを抜けると,逆行のⅤ字道路があり,やや昇った右側に,斜坂となった70メートルほどのトンネルがある。<br>  このトンネルを出た右側に,<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">一砲座ごとに海に向って下る,段々に構築された6門の砲台である。明治13(1880)年5月26日,わが国</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">最初の洋式砲台として着工され(第一砲台とほとんど同時),同17(1884)年6月27日竣工した。明治22(1889)年,4砲座の備砲を</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">終ったが,各砲座は皆異なった砲種であった。</span>これらを他に転用し,明治27(1894)年6月,4砲座に26口径24センチカノン砲4門を<br> 据付け,日清戦争に備えた。明治30(1897)年3月,第5・第6砲座の備砲を終り,ここに6門編成の24センチカノン砲の段々砲台となって,<br> 明治37(1904)年2月,日露戦争の戦闘配備についた。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">大正14(1924)年付属施設を除き,本砲台は除籍された。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <br>  3)北門第三砲台(観音崎第三砲台)<br>  北門第二砲台のトンネル入口前をまっ直ぐに登りつめ,T字路を左折し,トンネルを通りぬけると,山腹を切り取った山上に,本砲台跡<br> がある。<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">明治15(1882)年8月起工,同17年6月竣工し,27(1894)年9月,28センチ榴弾砲4門の据付けを完了し,戦備についた。震災に</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">よる破壊が甚だしく,大正14(1925)年7月除籍された。</span>ここに南門または北門というのは地名ではなく,観音崎地区砲台の監守衛舎が,<br> 北(三軒家寄り)と南(鴨居寄り)にあって,砲台入口に柵門が置かれていた。これを通称北門・南門といったところから,砲台名に転化<br> したものである。<br> <br> 日本築城史140頁<br>            <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">9 房総地区の砲台</span><br style= "color: rgb(0, 0, 153);"> <span style="color: rgb(0, 0, 153);">1)富津元洲堡塁砲台</span><br>  <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">千葉県富津町字元洲にある。砂洲が東西に細長く発達し,富津岬を形成しているが,その基部に明治14(1881)年8月起工,同17(1884)</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">年6月竣工し,25年3月28センチ榴弾砲6門と,12センチカノン砲4門の据付けを完了し,日清戦争時,戦闘配備についた。</span><br>  日露戦争には28榴6門と,12カ2門が戦備についた。砂丘上に高く積土した扁平五角形の堡塁で,堡塁の周囲は,幅2・30メートルの外壕<br> とし,海水を引き入れている。積土の上に,28榴6門の砲座を間隔を置いて,東西に配置し,その後方に地下掩蔽部を設け,各種の用途に<br> 供した。砲列の両端にコンクリート造円形の観測所を設けた。日露戦争中,37年11月28榴2門は撤去され攻城砲として旅順に送られた。<br>  <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">大正4(1915)年9月,旧式となって除籍され,</span>その後は陸軍技術本部の大砲試射場となり,外壕外の12カ砲座が使用された。<br>  またフランスから購入した,24センチ大列車砲2門(射程5万メートル)の試験も,主にここで実施した。堡塁はいま千葉県立公園で,<br> 近くこの付近一帯は,国立公園となる予定である。堡塁はほぼ原形を止めている。富津岬の先端に第1海堡があるが,接続部が切れて,<br> かなりの水深があり,大潮の干潮以外,徒渉は困難である。<br> <br> <br>   「新説 東京地下要塞」(秋庭俊著 講談社刊2006年)49頁八行目~50頁二行目<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    観音崎、富津周辺には、当時つくられた地下道が縦横に走って</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">いて、いつ崩壊、崩落するかわからないため、いたる所に立入</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">禁止の札が立てられている。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    なぜ、砲台周辺に地下道をつくる必要があったかというと、列</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   強の艦隊による砲撃のさなか、武器弾薬を輸送し、人員を移動さ</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   せるためである。</span><br style= "color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    観音崎、富津に限らず、砲台は敵軍の攻撃目標となる。そんな</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   所に弾薬庫をつくるわけにはいかない。『日本築城史』によれ</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   ば、明治初期、陸軍は砲台と弾薬庫を五〇〇メートル離して建設</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   し、その間を地下道で結んでいたという。二点を結ぶルートは、</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">   多いにこしたことはないそうである。</span><br> <br> そんなことは、「日本築城史」の何処にも書いてありません。観音崎、富津については、上記の通り大正期に除籍されてますし、「当時作られた地下道」についての記述何ざありません。以下<span style="color: rgb(0, 0, 153);">真っ青</span>ですが要塞内の交通についての概説です。<br> <br> 日本築城史86頁~87頁<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">      6 交通,通信その他の施設</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 要塞内の各施設を連絡するための地上交通路は,わが国の海岸要塞が,高地や山上に設けられた特性上戦時火砲の移動については</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">考えない固定砲の関係で,交通路は主として補給品運搬用の車馬を対象として作られている。経始は地形に応じ,大量の土工を避け,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">等高線をたどりながら,徐々に上下し,道路勾配は,登坂車両の晩上力から,20分の1以下に抑えている。最小曲半径は18メートル位</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">であるが,-般に電光形の七曲り式のものが多く・曲折部には広場を設けて,車両の旋回に資している。道路巾員は排水溝を含めて</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">3メートル(実巾員2・7メートル)のものが多く,探照灯交通路は,巾員1.8メートル,観測所の交通路は,巾員1メートルである。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 舗装はなく,路面は除積土のまま搗き固めるか,小砂利を敷いた程度である。山腹道では,路面を山側に傾けて,そこに設けた</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">排水溝に,路面および山斜面の雨水を落し,貯水槽に導くようにしたものが多い。交通路構築のための土工用具は,切取用具として</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">円匙・鶴はし・十字鍬・じょれん・掛矢などを用い,岩石掘削用具として,鉄挺・鉄楔・鉄矢・石割槌・石工槌・石工のみ・石工</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">玄翁などを用いている。硬岩掘削には火薬を用いている。運搬用具としては,円匙・もっこ・パイスケ・一輪車・荷車などを用いて</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">いる。切取斜面の傾斜は,土質のよい場合は1分の1,土質不良の場合や,斜面が高いときは3分の2にしている。積土は,透水性の</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">砂質土を悪土として用いず,一様な尋常土(粘土分も砂分も偏って多くない普通の土)を良土として用い,5分の1程度の緩い勾配</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">とし,これを薄層に搗き固め・土羽打をし,表面に草を植えるのが-般である。積土の下に,土留石垣やコンクリート擁壁を設けた</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style="color: rgb(0, 0, 153);">ものもある。</span><br style= "color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 工事を実施する場合,まず道路をよくして,トラック輸送をするのが常識であるが,大正以降の築城工事においては,まず工事の</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">秘匿が要求され,昼夜を問わず,頻繁なトラック輸送や・大きな道路の行きどまりは,それだけで砲台の構築と位置を明示するもの</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">であったから,厳に注意された。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 砲塔砲台の口径40センチの砲身重量は,約120トン,35センチの砲身重量は約100トンもあり・砲塔アーマープレートの厚さ30センチ</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">で1片60トンないし70トンもあり,これらを山上の砲台建設地に引き揚げるにも,特に交通路を設けず,軌道と神楽桟によって,偽装</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">秘匿しつつ実施した。築城用のセメント・砂・砂利・鉄筋・木材の運搬も,海岸から山上までの歩小径を,男女人夫の臂力によって,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">ボツボツ運び上げる方式を取ったものが多い。しかし海正面に暴露しない交通路のある場合には,山頂の砲台や観測所まで,一車線</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">のトラック道を構築したものもある(金谷砲台など)。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);"> 地下交通路としては,弾薬本庫の連絡通路,砲塔砲台内の連絡通路,堡塁内の連絡通路・第2海堡に造られた各砲台の連絡通路,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">要塞内軍道のトンネルなど,いずれも小規模なもので・国境要塞における大規模な地下連絡交通路とは,比較にならない。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <br> 「<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">要塞内軍道のトンネルなど</span>」と書いてあるからと言って早とちりしないように。これは「<span style="color: rgb(0, 0, 153);">観音崎と三軒家間の軍道(観音崎トンネル</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">を含む)</span>」と言うように、軍道の一部にトンネルがあるという意味です。<br> <br> 特に言えば、<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">『日本築城史』によれば、明治初期、陸軍は砲台と弾薬庫を五〇〇メートル離して建設し、その間を地下道で結んでいたという。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <br> 日本築城史に、このような記述は一切ありません。<br> 実は、秋庭俊氏の「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」(洋泉社版90頁、新潮社版104頁)の壱岐要塞黒崎砲台の項で、秋庭氏が次の様に勝手に言っているだけです。<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">『築城史』の地図では、この砲台から地下弾薬庫までの地下線路の距離は約五〇〇メートル、地下弾薬庫から地下弾丸庫(文庫版では砲弾庫)までも、約五〇〇メートル、地下に敷設されていた線路の長さは、合計二キロを越えている。</span><br> <br> 「日本築城史」260頁、浄法寺朝美氏は壱岐要塞黒崎砲台について、次の様に書かれています。<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">弾薬庫は砲台後方300メートルの谷地の山腹に,半掘開式として内庫・外庫を構築し,内庫は2連を連接し気密弾薬庫とした。外庫の庫積は長さ60メートル,巾三〇メートルである。工事費は14万円であった。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <br> つまり、秋庭氏は、「日本築城史」260頁の「図84 黒崎砲台」の地図から勝手に距離を出されている訳です。で図によれば、砲台からの道はまず「弾丸庫」次に「填薬庫」そして「地下火薬庫」に繋がっています。<br> <br> <img src= "http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=42&amp;file=%E5%A3%B1%E5%B2%90%E9%BB%92%E5%B4%8E%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E7%AF%89%E5%9F%8E%E5%8F%B2%EF%BC%92%EF%BC%96%EF%BC%90%E9%A0%81.JPG" style="width: 689px; height: 559px;"><br> <br> <br> 黒 崎砲台そのものは山腹傾斜地の地下に構築されていますけれど、「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」(洋泉社版91頁、新潮社版103頁)の無断複写 図の、砲弾を載せた台車が出入りしようとしている「左入口」部分見ると判りますが、石垣になっていますよね。つまり、此処から先の補給関係道路は地上に露 出してる訳です。<br> その上、黒崎砲台は「日本築城史」によれば、<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">本砲塔(40センチ2連装)砲の射撃間隔は2分で,16分間に8回の斉発を行ない,16発を発射し,必中弾2発を期待していた。</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">・・・中略・・・給弾薬室の後方に接して,砲側弾火薬庫を設け,180発分の40センチ砲弾(16インチ砲弾)と,同数の装薬鑵を収蔵し,</span><br> <br> つまり、弾薬の補給無しで、連続180分の砲戦が可能、必中弾約22発。これで戦闘中に地下道使って弾薬補給?もうそんな戦争負け負けですね。<br> 通信連絡用の道路を地下にする必要何も無いんですね。だから「砲台」から「弾丸庫」、「填薬庫」そして「地下火薬庫」までの道路は地上なんです。<br> <br> 勿論黒崎は昭和八年竣工の砲台で、明治初期の砲台じゃありませんけども。しかし秋庭氏はこれを元に明治の要塞を論じておられるのです。<br> <br>   「新説 東京地下要塞」(秋庭俊著 講談社刊2006年)50頁三行目~六行目<br> <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    明治初期から中期にかけて、大砲の性能は飛躍的に伸びていた。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    観音崎と富津の砲台は、射程が五~一〇キロだったが、日清戦争時、</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">  大砲の射程距離は五〇キロを超えていた。つまり、東京湾を防衛する</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">  にしても、もはや海岸に砲台をつくる必要はなかった。</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">    市内(いまの都内)のどこからでも東京湾に砲弾が届いた。</span><br> <br> 日本築城史20頁~21頁<br> <br> 42年12月要塞整理案審査委員会が設けられまず要塞整理案を策立し,旧式となった,戦術価値の少ない砲台の審査を開始した。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">明治45(1912)年8月にいたり,海岸要塞砲として,45式24センチ榴弾砲と45式15センチカノン砲を制式に定めた。この45式24Hの最大射程は,1万300メートルと伸びたが,</span>大 口径強装薬のために,発射衝力が大きく,地表では砲が傾くので,砲床を地面下に埋没して,地耐力を大とし,発射衝力に抗堪させたが,大きな掘削土量とな り,多大の時間と労力を必要とした。後では地質堅硬な所か,岩盤地を選定し,厚い砲床コンクリートを打設して,後座衝力に抗堪させたが,これで砲の傾斜は 救われた。<br> <br>  4)大正以降の火砲<br> その後大正8(1919)年10月,海岸要塞砲の制式砲として,7年式15センチ速射カノン砲・ 7年式10センチ速射カノン砲・7年式30センチ長榴弾砲・7年式30センチ短榴弾砲の四種を決定した。速射カノン砲は後装式となり・前装式のように長大 な撞杖を使うことも,装薬装弾のため砲口を下げて,砲身の位置を変える必要もなく,掩護物の陰で装填ができ,圧搾式弾丸が用いられるようになり,発射速度 がいちじるしく向上した。また大正9年11月には,海岸砲台構築要領が制定された。<br>  海岸要塞火砲も,国産による優秀砲が逐次製造されるようにな り,大正11(1922)年には,11年式7センチカノン砲が制式となった。大正12年2月には,旧式な砲台を廃止または除籍し,新式な砲台とするため, 要塞再整理要領が裁可され急ぎ朝鮮海峡と津軽海峡に対する砲台建設要領が定められた。東京湾要塞においては,同年9月1日の関東大震災で,各砲台に相当な 被害を受けたので,震災復旧と要塞再整理事業を,同時に起し,以後約10年間に面目を一新するようになった。すなわち洲の崎第1,大房岬,千代ケ崎,城ケ 島の各砲台の他,坂田(洲崎第2)金谷,≡崎,剣崎,千駄崎の各砲台が,いずれも浦賀海峡より外の東京湾外に,前進構築きれ,火砲の射程は伸び,弾丸効力 は増し,砲台の約半数は,優秀な砲塔砲台となった。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">大正14(1925) 年,10センチカノンの要塞砲は,最大射程1万5,300メートルとなり,昭和8(1933)年には1万8,200メートルに達するようになった。また7 年式15センチカノンは,固定砲架とし,最大射程1万8,100メートルであったが,昭和11(1936)年には,2万6,200メートルとなり,</span>方向射界度は120度と非常に広角となり,高低射界度は-7度から+45度と,これまた非常に大きくなった。<br>  かく改良された15センチ砲は<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">同 年7月,96式15センチカノン砲として仮制式が決定した。これが主要諸元は,砲身長786センチ,砲身重量6,781キロ,砲車重量2万5,000キ ロ,弾量50キロ,弾丸初速毎秒860メートル,最大射程2万6,200メートルで,従来の7年式15センチの最大射程1万8,100メートル,</span>方向射界度40度,砲身長596センチ,砲車重量1万400キロ,弾重40キロ,初速毎秒735メートルに比較すれば,10数年間における進歩は,まことに著しいものであった。<br>  一方,<span style= "color: rgb(0, 0, 153);">96式24センチ榴弾砲の性能も向上し,最大射程は,1万6,000メートルとなり,</span>方向射界度120度,高低射界度0から+65度,砲身重量8,360キロ,火砲重量3万7,560キロ,弾量185キロ,初速毎秒530メートルとなった。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">この榴弾砲は,最弱装薬として射角20度で砲弾を発射すると,射距離は3,400メートル,</span>公算躱避は約8メートルで,命中精度も著しく向上した。<br>  海岸砲台の火砲は常に艦載砲と同等に進歩発展を遂げ,敵艦と交戦して,これを駆逐するか,撃沈するようになっていた。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">昭 和11(1936)年における海岸砲の有効射程は,口径7・5センチカノンが1万5,000メートル,10センチカノンが1万8,200メートル,15セ ンチカノンが2万6,200メートル,30センチカノンが2万7,000メートル,40センチカノンが3万2,000メートル,口径15センチ榴弾砲が1 万5,000メートル,24センチ弾榴砲(榴弾砲の誤植?)が1万6,000メートル,30センチ長榴弾砲が1万4,000メートルであった。</span>射程は火砲年式と装薬量などで異なり,30センチ榴弾砲は長榴,短榴とも余り射程は伸びていなかった。<br> <br> 大 鑑巨砲の権化、大和級45口径46センチ砲の最大射程が4万1200メートルだったと思います。有効射程での砲戦距離って3万5000~4万までだったと 思いますが。もちろん砲の有効射程を一概には言えませんけど、要塞砲って海抜の高いところに設置できれば、有効射程伸びますよね。でも、「日清戦争時、大 砲の射程距離は五〇キロを超えていた。」って何処の世界の話なんでしょうね。<br> <br> <br> 「新説 東京地下要塞」54頁および55頁写真<br>   <br> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">  坂下通りに戻り、少し歩いたところで、レンガづくりの建物が目に入った。『日本築城史』</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style= "color: rgb(0, 102, 0);">  のなかから抜け出してきたような建築だった。左上がその写真である。『日本築城史』には</span><br style="color: rgb(0, 102, 0);"> <span style="color: rgb(0, 102, 0);">  次のようにある。</span><br>     4 弾  薬  庫<br>    火砲の弾薬を備蓄するために、要塞には火薬本庫・火薬支庫・弾丸本庫が必要である。<br>    明治時代これらの建物は、四周の外壁を煉瓦積みとして火災に備え、内壁は木組板張り、<br>   屋根は土居瓦葺で・屋上に避雷針を立て、床は木組揚床である<br> <br> <img src= "http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=42&amp;file=%E6%96%B0%E8%AA%AC%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E8%A6%81%E5%A1%9E%E5%BC%BE%E8%96%AC%E5%BA%AB%E9%A2%A8%E5%91%B3.JPG" style="width: 638px; height: 1117px;"><br> <br> 日本築城史82頁<br>            4 弾  薬  庫<br>  火砲の弾薬を備蓄するために,要塞には火薬本庫・火薬支庫・弾丸本庫が必要である。<br> 明治時代これらの建物は,四周の外壁を煉瓦積みとして火災に備え,内壁は木組板張り,<br> 屋根は土居瓦葺で,屋上に避雷針を建て,床は木組揚床である(図8)。<span style="color: rgb(0, 0, 153);">これらの他,</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">火砲・弾薬用の補助建築物として,弾廠(信管・工具類用)・砲具庫(砲具および砲手</span><br style="color: rgb(0, 0, 153);"> <span style= "color: rgb(0, 0, 153);">入用具)・装薬調製所・炸薬填実所が作られたが,いずれも木造平家建である。</span><br> <br> <br> 図も平屋ですね、でも秋庭氏の写真の建物は、二階建てに見えますね。図によく似た建物は「日本築城史」にも、写真が掲載されています。<br> <br> <img src= "http://www3.atwiki.jp/619metro?cmd=upload&amp;act=open&amp;pageid=42&amp;file=%E5%8F%8B%E5%B3%B6%E7%AC%AC%EF%BC%95%E7%A0%B2%E5%8F%B0%E5%BC%BE%E4%B8%B8%E6%9C%AC%E5%BA%AB%E8%B7%A1%E7%AF%89%E5%9F%8E%E5%8F%B2%EF%BC%96%EF%BC%94%E5%86%99%E7%9C%9F.JPG" width="771" height="261"><br> <br> 「友島第5砲台,弾丸本庫跡」となってますから、これが将に弾薬庫と断言はしませんけど、秋庭氏の写真よりは由緒は正しいと思います。煉瓦造りだからといって、煉瓦が剥き出しとは限らない。漆喰で化粧していないとは限らない。とも思いますけどね。<br> <br> <br>

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