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「第二章 足元に広がる嘘 ⑥」(2006/09/16 (土) 03:39:53) の最新版変更点
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第二章 足元に広がる嘘 ⑥ 地下が機密になった日(その2)</h3>
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要塞本 64頁 地下が機密になった日<br>
<br>
一八八八(明治二一)年、市区改正条例が公布された。軍機保護法は一八九九年に公布され<br>
た。国家の機密、軍の機密を口外したり、公にした者は、国家に反逆したものとみなし、重罪に<br>
処するというものである。しかも、この法律は軍関係者のみならず、民間人にも適用されること<br>
になっていた。<br>
「未着工」「見込みなし」という報道は、そこまでなら国家の機密を暴露していないが、<br>
──東京市の予算は、陸軍に流れていた<br>
──道路を敷設するかわりに、砲台や地下道がつくられていた<br>
となると、軍機保護法に触れると解釈されていたのではないだろうか。もともと、陸軍参謀本部<br>
長・山県有朋は、この時期になって急に軍の規律を立て直そうとしていたとは思えない。軍機<br>
保護法が公布されたのは、明治中期にはじまった市区改正の真相を伏せておくためだったと考え<br>
るのが妥当ではないだろうか。おそらくこの日から、東京の地下は「機密」になったのだと思<br>
う。<br>
<br>
<br>
市区改正の報道が十分でなかったと言う秋庭氏の説明が本当に正しいのか?<br>
例えば、新聞報道と言うものは、「市区改正」が所定通り進捗している場合、ここまで出来ましたと報道してくれるのだろうか?<br>
また、出来ていないことを報道することに、「含むところ」が、当時の「政府御用紙」或いは、「政党機関紙」化していた「新聞」に<br>
無かったか。或いは、「東京日日」、「時事新報」、以外の東京で発行されていた大手新聞「二六新報」や「都新聞」には、「市区<br>
改正」に対する報道記事がなかったのか?<br>
私は推測します。前掲の様に、秋庭氏は「東京日日」、「時事新報」の実際の記事を復刻ですら見ておられないのではないか?<br>
実は、「時事新報」については「復刻版(図書館では縮刷版と称していますが)」の該当すると思われる年度で記事を探し始め<br>
ましたが、まだ、確認できません。「新説 東京地下要塞」は今までの秋庭氏の著述の中で、もっとも出典元が明らかで無い本で、<br>
「引用」元の記述が最も不足した「無断複写」本ですから、出典提示が無いのも宜なるかな、ではありますが。<br>
当時の新聞のレイアウト、特集となる記事の紙面上での扱いなど、今の新聞と大分に異なりますので、「大々的」と言うのが、<br>
どうも良く解りません。<br>
例えば、見出しなどは、一面でも、精々が16ポイント位の活字で組まれてますから、何を以って「大々的」なのか?どちらかと<br>
言えば、「大々的」という様な場面は何号にも渉る、特集的な記事がそれらしいのですが。<br>
「『一〇年経っても未着工』『全然見込みなし』東京日日新聞と時事新報は大々的にそう伝えていた」何を憑拠に、<br>
そう言えるのか?<br>
「『未着工』『見込みなし』という報道」とは見出しだけなのか?「未着工」「見込みなし」には、それなりの解説、<br>
解釈が敷衍されているのではないのか?<br>
そのことを観ずに、「『未着工』『見込みなし』という報道は、そこまでなら国家の機密を暴露していないが、」と<br>
何故に断じる事が出来るのでしょうか?<br>
さて、「軍機保護法は一八九九年に公布された。国家の機密、軍の機密を口外したり、公にした者は、」中々正確な記述<br>
ですね。「「国家の機密」の行以外は。<br>
「軍機保護法」なんですから、「軍事上秘密の事項」だけを規制してるんですよ、「国家の機密」は規定されていません。<br>
「軍機保護法」は1898年末に議会を通り、閣議で上奏決定までしていましたが、当時準備中だった「要塞地帯法」<br>
が議会を通るまで、交付手続を引き伸ばされていました。そして「要塞地帯法」と併せて1899年7月14日上奏、<br>
裁可を受けたものです。<br>
「もともと、陸軍参謀本部長・山県有朋は、この時期になって急に軍の規律を立て直そうとしていたとは思えない。<br>
軍機保護法が公布されたのは、明治中期にはじまった市区改正の真相を伏せておくためだったと考えるのが妥当では<br>
ないだろうか。」<br>
妥当な考えでない事は、この、半年以上待って公布と相容れないと言う事で明らかじゃないですか?新聞が騒ぎ出す時期<br>
まで、予見していたんですか?狂介は。第一に、山縣が陸軍参謀本部長であったのは、1884年2月~1885年12月<br>
(2回目)、で「本部長」は1888年5月に「参軍」になり、その後「総長」に名が変わっているから、日露戦で無理<br>
矢理復帰した1904年6月は「参謀総長」。<br>
「軍機保護法」は確かに、山縣の手下の「桂太郎」陸軍大臣と「川上操六」参謀総長の手によって為されましたが、<br>
そのとき山縣は、総理大臣じゃなかったっけ?<br>
その、「軍機保護法」に照らすと、「東京市の予算は、陸軍に流れていた」と「道路を敷設するかわりに、砲台や地下道<br>
がつくられていた」ことの、どちらが「軍機保護法」に触れることになるのか?<br>
当然、「軍機保護法」法律ですから、軍事機密の範囲は明らかにされている訳で、これらはどこに触れるのでしょうか?<br>
敢えて言えば、「砲台や地下道がつくられていた」ことが触れるのでしょうが、「軍機保護法」違反は、軍法ではなく、<br>
一般法で裁かれる訳だから、裁判所で「何々の咎でタイーホ」と逮捕理由を明示しなければならないと言うことがあるんで<br>
すね。だから捕まった本人にも、裁判所にも「軍事秘密」が露呈するんですよ。<br>
逆に、天皇陛下の各輔弼機関に内緒で、国家予算を流用することは、それこそ国家への反逆ですから、そっちの方で、逆<br>
に陸軍が明治国家から裁かれる事になるんじゃないでしょうか?ですから、秋庭氏の解釈は、凄いご都合主義と思われます。<br>
「おそらくこの日から、東京の地下は「機密」になったのだと思う。」と言うこの日とは?1899年7月14日のこと<br>
ですか?<br>
繰り返しますが、「軍機保護法」のどの部分で、「東京の地下」は「機密」になるんでしょうか?明治政府と言えど、<br>
「天皇の法」故に、陸軍が執行を自由に、恣意的に歪める事を認めないでしょう。<br>
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第二章 足元に広がる嘘 ⑥ 地下が機密になった日(その2)</h3>
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要塞本 64頁 地下が機密になった日<br>
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一八八八(明治二一)年、市区改正条例が公布された。軍機保護法は一八九九年に公布され<br>
た。国家の機密、軍の機密を口外したり、公にした者は、国家に反逆したものとみなし、重罪に<br>
処するというものである。しかも、この法律は軍関係者のみならず、民間人にも適用されること<br>
になっていた。<br>
「未着工」「見込みなし」という報道は、そこまでなら国家の機密を暴露していないが、<br>
──東京市の予算は、陸軍に流れていた<br>
──道路を敷設するかわりに、砲台や地下道がつくられていた<br>
となると、軍機保護法に触れると解釈されていたのではないだろうか。もともと、陸軍参謀本部<br>
長・山県有朋は、この時期になって急に軍の規律を立て直そうとしていたとは思えない。軍機<br>
保護法が公布されたのは、明治中期にはじまった市区改正の真相を伏せておくためだったと考え<br>
るのが妥当ではないだろうか。おそらくこの日から、東京の地下は「機密」になったのだと思<br>
う。<br>
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市区改正の報道が十分でなかったと言う秋庭氏の説明が本当に正しいのか?<br>
例えば、新聞報道と言うものは、「市区改正」が所定通り進捗している場合、ここまで出来ましたと報道して<br>
くれるのだろうか?<br>
また、出来ていないことを報道することに、「含むところ」が、当時の「政府御用紙」或いは、「政党機関紙」<br>
化していた「新聞」に無かったか。或いは、「東京日日」、「時事新報」、以外の東京で発行されていた大手<br>
新聞「二六新報」や「都新聞」には、「市区改正」に対する報道記事がなかったのか?<br>
私は推測します。前掲の様に、秋庭氏は「東京日日」、「時事新報」の実際の記事を復刻ですら見ておられ<br>
ないのではないか?<br>
実は、「時事新報」については「復刻版(図書館では縮刷版と称していますが)」の該当すると思われる年度<br>
で記事を探し始めましたが、まだ、確認できません。「新説 東京地下要塞」は今までの秋庭氏の著述の<br>
中で、もっとも出典元が明らかで無い本で、「引用」元の記述が最も不足した「無断複写」本ですから、<br>
出典提示が無いのも宜なるかな、ではありますが。<br>
当時の新聞のレイアウト、特集となる記事の紙面上での扱いなど、今の新聞と大分に異なりますので、<br>
「大々的」と言うのが、どうも良く解りません。<br>
例えば、見出しなどは、一面でも、精々が16ポイント位の活字で組まれてますから、何を以って「大々的」<br>
なのか?どちらかと言えば、「大々的」という様な場面は何号にも渉る、特集的な記事がそれらしいのですが。<br>
「『一〇年経っても未着工』『全然見込みなし』東京日日新聞と時事新報は大々的にそう伝えていた」何を<br>
憑拠に、そう言えるのか?<br>
「『未着工』『見込みなし』という報道」とは見出しだけなのか?「未着工」「見込みなし」には、それなりの解説、<br>
解釈が敷衍されているのではないのか?<br>
そのことを観ずに、「『未着工』『見込みなし』という報道は、そこまでなら国家の機密を暴露していないが、」と<br>
何故に断じる事が出来るのでしょうか?<br>
さて、「軍機保護法は一八九九年に公布された。国家の機密、軍の機密を口外したり、公にした者は、」中々<br>
正確な記述ですね。「「国家の機密」の行以外は。<br>
「軍機保護法」なんですから、「軍事上秘密の事項」だけを規制してるんですよ、「国家の機密」は規定され<br>
ていません。<br>
「軍機保護法」は1898年末に議会を通り、閣議で上奏決定までしていましたが、当時準備中だった「要塞<br>
地帯法」が議会を通るまで、交付手続を引き伸ばされていました。そして「要塞地帯法」と併せて1899年7月<br>
14日上奏、裁可を受けたものです。<br>
「もともと、陸軍参謀本部長・山県有朋は、この時期になって急に軍の規律を立て直そうとしていたとは思え<br>
ない。<br>
軍機保護法が公布されたのは、明治中期にはじまった市区改正の真相を伏せておくためだったと考えるの<br>
が妥当ではないだろうか。」<br>
妥当な考えでない事は、この、半年以上待って公布と相容れないと言う事で明らかじゃないですか?<br>
新聞が騒ぎ出す時期<br>
まで、予見していたんですか?狂介は。<br>
第一に、山縣が陸軍参謀本部長であったのは、1884年2月~1885年12月<br>
(2回目)、で<br>
「本部長」は1888年5月に「参軍」になり、その後「総長」に名が変わっているから、日露戦で無理矢理<br>
復帰した1904年6月は「参謀総長」。<br>
「軍機保護法」は確かに、山縣の手下の「桂太郎」陸軍大臣と「川上操六」参謀総長の手によって為され<br>
ましたが、そのとき山縣は、総理大臣じゃなかったっけ?<br>
その、「軍機保護法」に照らすと、「東京市の予算は、陸軍に流れていた」と「道路を敷設するかわりに、<br>
砲台や地下道がつくられていた」ことの、どちらが「軍機保護法」に触れることになるのか?<br>
当然、「軍機保護法」法律ですから、軍事機密の範囲は明らかにされている訳で、これらはどこに触れる<br>
のでしょうか?<br>
敢えて言えば、「砲台や地下道がつくられていた」ことが触れるのでしょうが、「軍機保護法」違反は、<br>
軍法ではなく、一般法で裁かれる訳だから、裁判所で「何々の咎でタイーホ」と逮捕理由を明示しなけ<br>
ればならないと言うことがあるんですね。だから捕まった本人にも、裁判所にも「軍事秘密」が露呈する<br>
んですよ。<br>
逆に、天皇陛下の各輔弼機関に内緒で、国家予算を流用することは、それこそ国家への反逆ですから、<br>
そっちの方で、逆に陸軍が明治国家から裁かれる事になるんじゃないでしょうか?ですから、秋庭氏の<br>
解釈は、凄いご都合主義と思われます。<br>
「おそらくこの日から、東京の地下は「機密」になったのだと思う。」と言うこの日とは?1899年7月14日の<br>
ことですか?<br>
繰り返しますが、「軍機保護法」のどの部分で、「東京の地下」は「機密」になるんでしょうか?明治政府と<br>
言えど、「天皇の法」故に、陸軍が執行を自由に、恣意的に歪める事を認めないでしょう。<br>
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