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この項余談ながら」(2006/11/21 (火) 00:47:57) の最新版変更点

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<h3>この項余談ながら 京成上野地下線についての嘘</h3> <br> <br>  11月上旬に引越しをしました。御蔭で、wikiの記事作成、更新もままならず、中断。<br>  しかし、新居で書棚などの整理のため、読み返すと興味深い記述のある旧い書誌が<br> 種々出て来ました。<br> 旧い、と言っても20年ほど前のものですが、博動駅の絡みで、第二次大戦末期の京成<br> の上野公園・日暮里間の運行休止事情についての記事がありました。<br> 秋庭氏が「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」202頁で1945年3月10日の東京<br> 大空襲にかこつけて、空襲時地下鉄に人を避難させなかったにも拘らず、役人はこの<br> 休止線の地下で快適な避難暮らしをしていたと、言うような書き様をしている、上野の山<br> の地下線についてです。<br> こんな書き様です。<br> <br>    ・・・一九四五(昭和二十)年三月十日。東京大空襲。わが国では地下鉄に避難する<br>    ことはできなかった。二五〇キロ爆弾が投下されれば、銀座線の駅はひとたまりも<br>    なく、トンネルのなかを爆風が走ると説明されていた。<br>     だが、この日、鉄道省を始めとする官公庁の職員は、上野の山の地下につくられ<br>    た、京成地下鉄のトンネル内に寝泊まりしていた。電車の車両をホテル代わりにし<br>    ていたのだという。<br> <br>  まぁ、前巻で昭和19年五島慶太の運輸通信相就任を記述するに際し鉄道省が運輸<br> 通信省に変わっている事書いていながら「鉄道省を始め」と書いているのはご愛嬌なん<br> だろうか?<br>  秋庭氏が「・・・いたのだという」、あるいは「・・・という」と書く時は、思いつきか、捏造で<br> 事実がない時なんだけれど。<br> <br> さて、引用とするには微妙に長い記事なのだが、要約をせずに挙げることにします。<br> 秋庭氏の嘘の実態を明らかにし続けるためにも。<br> <br> 「民営鉄道の歴史ある景観Ⅱ」(佐藤博之・浅香勝輔著 古今書院昭和63年7月1日<br> 初刷)142頁以降「地下駅 1博物館動物園駅(京成)」<br> その158頁~<br> <br>    ともあれ、その存続をめぐってまだまだ揺れそうな同駅ではある。しかし、この地下線<br>   が第二次世界大戦末期の一時期、運行が休止され、列車は日暮里折り返しとなり、<br>   運輸省の「地下司令部」になりかけた事実を知る人は、意外に少ない。<br>    さきほども引用した『京成電鉄五十五年史』の七二八ページの「年譜」の昭和二〇<br>   (一九四五)年四月九日の項に、<br> <br>     上野公園・日暮里間の地下鉄営業を休止して運輸省に貸付<br> <br>   と、たった一行の記載があるのみで、それを裏付ける詳しい記述は無い。<br>    たまたま、昭和六二(一九八七)年一月下旬、小田急電鉄の常務取締役であられた<br>   秋草裕氏(現・小田急建材ベストン株式会社取締役社長)と会談中、この京成の地下線<br>   に話題が及んだ際、第二次世界大戦中に国有鉄道の車両をこの地下線に運び込んだ、<br>   その責任者だった方をご紹介申しあげよう、というご厚意のお申し出があった。<br> <br>    その「生き証人」とも言うべき人は、現在、小田急建設株式会社の取締役会長の<br>   柴田元良氏である。若き日の柴田氏が、運輸省の東京鉄道局上野管理部施設課長<br>   に在任されたのは、敗戦直前の昭和一九(一九四四)年一二月から翌年八月までで、<br>   その間に、この地下線内の司令室建設のエピソードが展開されたのである。<br>    昭和六二(一九八七)年九月一〇日の昼下がり、筆者の一人である浅香は、秋草氏<br>   に伴われ、柴田氏から親しくその間のお話をうかがう機会を得た。<br>    工学博士の学位をも持たれる柴田氏は理路整然と、四〇余年前のその京成地下線<br>   での秘史を、鮮明にお話くださったが、以下は当日の柴田氏の談話の要旨である。<br> <br>     第二次世界大戦も敗色が濃くなったころ、アメリカ空軍の空襲が激化するにした<br>    がい、当時の運輸省の司令業務に支障がないように、どこか地下に司令室を設け<br>    たいと、いろいろと探した結果、京成電気軌道〔昭和二〇年六月二五日に京成電鉄<br>    と社名変更〕の日暮里-上野公園〔現在の京成上野〕間の地下線区間を借り受け、<br>    戦時下で使用されないまま放置されている一・二等寝台車を、この地下線区間へ搬<br>    入し、宿泊設備も整った司令室に仕立てようということになった。<br>     戦局が悪化してきた昭和二〇(一九四五)年五月ごろから着工した。国有鉄道の<br>    日暮里駅南方〔鶯谷方〕の山手・京浜東北の両線の北行線の線路に、一〇番ポイント<br>    を入れ、京成の地下線入り口に向けて線路を敷いた。当時は山手・京浜東北の両線<br>    が線路を共用していたので、山側の谷中霊園側には、このような線路を設ける余裕も<br>    あり、今もあそこにある外人墓地などを崩すこともなく、軌条が敷けた。しかし、京成の<br>    国有鉄道こ線橋の西詰付近に取りつくまで〔図-87の写真の右手の石垣の下に、<br>    それらしい空き地が今も残っている〕に、かなりの急勾配・急曲線の線状で、墓地の<br>    裾を上がって行くこととなった。<br>     京成の地下線内は複線敷であったが、当時の国有鉄道の一・二等寝台車を複線分<br>    入れるには、車両限界の点で無理があったので、当時は一・三七二メートル軌間の<br>    京成〔現在は一・四三五メートル軌間〕の複線を、国有鉄道の一・〇六七メートル軌間<br>    の単線に改めて搬入することにした。複線敷の中央部を単線として使用することにな<br>    ったわけである。ところが、京成の軌条を取りはずす作業に、予期しない苦労が存在<br>    した。ずい道内で湿度が高いせいか、犬釘がさびついていて、枕木から取り除くのに<br>    非常に難儀した。<br>     日暮里駅南方からの寝台車の搬入作業には、当時の上野保線区の職員が当たった。<br>     毎晩、終電車が通ったあと、田端機関区から、入れ換え用のC一一やC一二などの<br>    タンク〔蒸気〕機関車を借りてきて、マイテ・スイテ・マイネ・マロネ・スロネなどの高級<br>    車両を、一両ずつ推進〔あと押し〕で、あの地下線へ運び込んだ。その推進のとき、<br>    急勾配・急曲線の引き込み線上で、何回か機関車が脱線して往生した。高級車両を<br>    全部で二〇両搬入した。車両と車両の間の両端に、爆風をよけるために砂のバッグ<br>    を積んで置いた。<br>     終戦直前の七月に完成したが、ずい道内の湿気のため通信線が通じず、通信の<br>    効用が発揮されなかった。あの当時は、通信線が裸線で、現在のように発達して<br>    いなかったので、やむをえなかったと思う。結局、終戦までその「地下司令室」は使用<br>    されず、「幻の司令室」に終わった。<br>     聞くところによると〔柴田氏は、終戦直後の八月二〇日付で、大阪鉄道局に転任<br>    された〕、その地下線へ搬入した高級車両群は、終戦後すぐに引き出され、占領軍用<br>    の車両に転用されたという。<br> <br>   柴田氏は、その後、昭和三七(一九六二)年から三年間、国鉄理事をされ、昭和<br>  四〇(一九六五)年に小田急電鉄に専務取締役で迎えられ、昭和四四(一九六九)<br>  年から昭和五六(一九八一)年まで小田急電鉄の副社長を務められ、現在は前記<br>  のように小田急建設の取締役会長の職におられる。──柴田氏のお話をうかが<br>  いながら、四〇余年前の戦時下、この博物館動物園駅の地下ホームの前の線路<br>  に、寝台車などが並んでいた奇妙な光景を想像し続けていた。<br> <br>

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