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「水の下に眠る城は何故燃えた?②」(2006/12/01 (金) 00:00:07) の最新版変更点
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<h4>水の下に眠る城は何故燃えた? ②</h4>
<br>
<br>
センセのこの章のエピソードの種本は何なんだろう?「参考文献一覧」って、直接の盗用元だけを書く<br>
とこじゃなくて、記述に当たって参照し、見解等を引用した先を書くとこなんだが、全然理解してらっしゃら<br>
ない。だから、以下の見解にはその「参考文献」の提示すら無し。要するに、記述の裏付け、真実性の担<br>
保が全然できていないんだよね。まぁ、記述そのものは歪曲と捏造の塊ですから、「参考文献」挙げよう<br>
が無いのかも。<br>
<br>
地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 54頁8行目~14行目<br>
<br>
十六世紀の半ば、わが国に鉄砲が伝来している。ヨーロッパで最新式の火縄銃だったようだ。<br>
この火縄銃が歴史を大きく変えたのはご存知のとおりである。しかし、この火縄銃がつくられる<br>
前も、つくられた後も、ヨーロッパの戦争の主 役は大砲だった。<br>
十四世紀の前半、大砲という武器が誕生した。その当時の弾丸は石だったのだという。多数の<br>
石を詰めるにはかなりの技術が必要とされ、 プロの職人が二時間かけて一発を装填していた。<br>
当時、大砲というものは、備えつけというのか、据えおきのタイプがほとんどで、教会の鐘をつく<br>
っていた職人たちが、城には大砲を納入していた。<br>
<br>
<br>
「ヨーロッパ」とは何処を指すのでしょう?文章のつながりから言うと、十四世紀の前半、大砲と言う武器<br>
が誕生した(何処で?)時以降少なくとも十七世紀まで、「ヨーロッパの戦争の主役は大砲だった」と言う事<br>
になるのでしょうか?<br>
大砲が効果的に使われたとする嚆矢は1453年オスマン帝国によるコンスタンティノーブルの攻囲戦と<br>
言うのが、戦史の常識です。まぁ、東ローマ帝国の首邑ですし、この時使われたウルバン砲の開発者は<br>
ハンガリー人ですから、「ヨーロッパの戦争」かもしれませんね。<br>
さて、このときをはじめ、砲は何の目的に使われたのでしょうか?<br>
「その当時の弾丸は石だったのだという。多数の石を詰める・・・」<br>
と言うことで、散弾の様に石をばら撒く事での対人殺傷力でしょうか?それは無いですよね。秋庭氏自身が<br>
「多数の石を詰めるにはかなりの技術が必要とされ、プロの職人が二時間かけて一発を装填していた。」と<br>
書かれているぐらいですから、接近戦には向きませんよね。城側からの砲撃だとしても、二時間かけて一発<br>
発射となると、同じ正面に何門配置しないとならないのか。高いんですよ大砲って。青銅製の鋳物ですから。<br>
結局、妨害も無く、ゆっくり石を装填出来る局面を考えたら、包囲攻城戦での城砦攻撃用だと。実際そう<br>
でしたコンスタンティノーブル攻囲戦でも「テオドシウスの城壁」破りに使われたと言う事ですから。<br>
14世紀から17世紀の間に、「ヨーロッパ」で火砲が「戦争の主役」となった史実があるのでしょうか?<br>
これは、次の段もそうですが、秋庭氏の「ヨーロッパ」において城砦のと言いますか、城塞都市の隔壁の<br>
施工法の変化について過度に強調せんがためのこじ付けです。<br>
<br>
地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 54頁15行目~55頁6行目<br>
<br>
十五世紀の後半になると、大砲は持ち運びが可能となった。フランスのシャルル八世は、この<br>
新しい武器を携え、次から次へと城を落としていった。正面に高い塔がそびえ、左右に大きく広が<br>
っている城は、かっこうの標的でしかなくなっている。石で築かれた城壁も、鉄の柵も、鉄の扉も、<br>
大砲の前にはなす術がなかった。城は二時間で跡形もなくなり、あたりは火の海と化していた。<br>
「ナイフでバターを切るかのごとく」<br>
フランス軍は実に手軽に城を落としていった。フランス軍がきたと聞いただけで、城主は城を明<br>
け渡すようになった。数千年かけて築かれてきた「築城」の理論は、このとき、完全に崩壊していた。<br>
<br>
火砲の可搬性が向上した結果、シャルル八世は何処で「次から次へと城を落としていった。」のでしょうか。<br>
歴史によると、「ナポリ公国」の継承権を主張して、小国群立するイタリアに攻め込んだんですね。<br>
で、衝力による破城槌として使われた砲は、石積みの城壁を崩していったのでした。砲弾(石ですけど)が<br>
当たった衝撃で跳ね跳ぶ隔壁材で殺傷されるとか、そんな損害はあったかもしれませんが、榴弾、即ち炸裂<br>
弾ではなかった、石や銅や鉄で出来た当時の砲弾は、直接的な殺傷力はそれほどなかったんです。<br>
殺傷力より、兎に角、崩されちゃう訳ですな防壁が。何も「城は二時間で跡形もなくなり、あたりは火の海と<br>
化していた。」なんてことが無くとも良いんです。実際そんなことは無かったんですが、一日当たり8発くらい<br>
しか撃てないんですから当時の砲は。だから30門砲を持っていっても、二時間なら30発しか撃てないんです。<br>
まぁ、シャルル八世の持ち歩いた砲は比較的発射が容易であったとは言われてますが。城が跡形も無くなる<br>
必要も、辺り火の海と化す必要もなかったんです。何故ならば、当時の城砦は隔壁の一部でも完全に崩され<br>
ちゃったら、そこからの兵の浸透を防ぎようが無いんですよ。それ以前から、弩であるとか、投石器への対応<br>
力に問題のあった高い石組みの城壁、それによって攻囲側の歩兵の城郭内への浸透を防ぐと言う形の旧来<br>
からの籠城と言う戦術が不可能になっちゃった。<br>
それで崩す余地の無い、土堤形で、正面が広く、濠や河で区隔された稜堡型の城砦になっていき、しかも、<br>
破砕部や、砲撃の結果で生じる瓦礫によって濠や河が埋め立てられて啓開された進撃路、そこからの攻囲側<br>
の歩兵の浸透に対しては、小銃の集中で阻止するという戦法が確立していく訳なんですね。<br>
ところで、このときのシャルル八世の軍が「手軽に城を落としていった」情景については一般に<br>
「バターに針を突き通すごとく」<br>
と言う風に言われた様なんですが、「ナイフ」と「針」どっちが正確な訳なんでしょうね。<br>
しかし、城を落とすのを形容して「手軽に」って言わないでしょう?「容易に」とか、「容易く」とか、言うんじゃない<br>
でしょうか。<br>
<br>
地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 55頁7行目~12行目<br>
<br>
十六世紀前半、鉄砲伝来からさかのぼること三十年、フランス軍とスペイン軍がヨーロッパの中部で<br>
衝突している。すでにヨーロッパ全土に攻城砲が広まっていた。<br>
このときフランス軍が持っていた大砲は五十六門、スペイン軍は三十門、戦闘開始からの二時間は、<br>
両軍による連続砲撃の応酬となった。戦争の犠牲者は、ほとんどが大砲の犠牲者だった。<br>
ヨーロッパではそれ以前の城づくりは姿を消し、城の敷地である縄張りを広く、城そのものは低くつく<br>
るよう一変している。<br>
<br>
<br>
さて、前項で私は年表を提示し、「鉄砲伝来からさかのぼること三十年、フランス軍とスペイン軍がヨーロッパ<br>
の中部で衝突して」いた場所を<br>
1515年 「マリニャーノの戦い」のことかな?<br>
と書きましたが、秋庭氏は得意とされる、何時、何処でと言うことを挙げなかったり、暈したり、時間軸を延び<br>
縮みさせたりと言う操作を駆使され事実を歪曲されますので、実際のところこの「戦い」が何を指すのか正確な<br>
ところが、わかりませんでした。しかし、これも書棚の整理で出てきた、<br>
「戦略の歴史 ジョン・キーガン著、遠藤利国訳 1997年心交社刊」<br>
369頁「ラヴェンナの会戦(一五一二年)」の様子から、こちらの会戦であろうと推定いたしました。<br>
該当部分を記しておきますが、秋庭氏がこの会戦の説明の後に、「ヨーロッパではそれ以前の城づくりは姿を<br>
消し、城の敷地である縄張りを広く、城そのものは低くつくるよう一変している。」と書かれていることと、この会<br>
戦には意味的なつながりがないこと、関係がないことが、この該当部分からも理解できるものと考えます。<br>
<br>
「ラヴェンナでは、フランス軍はスペイン軍を阻止しようと前進した。このときのフランス軍にはドイツ人<br>
傭兵の大部隊が含まれていたが、この傭兵たちは略奪者の一団で、イタリア戦役ではかつてヘレニズム<br>
世界の戦争でペロポネソス戦争の生き残りのギリシャ兵が行ったのと似たような行動をとっていた。<br>
フランス軍には五十四門の可動式の大砲があったが、スペイン軍の大砲は約三十門で、塹壕に<br>
据えつけられていた。フランス軍の砲撃は、容赦なかった。スペイン軍騎兵はやむをえず突撃した<br>
が、フランス軍はこれを粉砕。これでドイツ傭兵部隊が前進したが、塹壕で食い止められ、死に物<br>
狂いの白兵戦が始まった。<br>
勝敗の帰趨を決めたのは、スペイン軍の背後に回りこんだフランス軍の二門の大砲だった。その<br>
砲火で混乱に陥ったスペイン軍はついに退却したのである。」<br>
<br>
フランス軍の砲門数が秋庭氏では五十六門となっていますが、あれですかね、五十四門にスペイン軍の<br>
背後に回り込んだ二門を加えて五十六門という意味なんでしょうかね?<br>
もちろん「ラヴェンナ」は当時ローマ教皇領でしたので秋庭氏の言う「ヨーロッパの中部」が何処かと言え<br>
ば「イタリア戦争」真っ盛りな場所であったことは言うまでもなく、当時統一国家としての名が無かったと言え、<br>
実際にはイタリアと言う狭い範囲での出来事を「ヨーロッパ」と言う表現で針小棒大に語る意図が見え隠れ<br>
している様に思えます。<br>
本項における秋庭氏の説は、すべて地域名において曖昧かつ、いい加減なものばかりです。<br>
多分、地域名を暈すことによってオランダ、ヤン・ヨーステン、江戸城、壕の下と、歪曲の連鎖を完成させ<br>
たかったんだと思います。<br>
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<h4>水の下に眠る城は何故燃えた? ②</h4>
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センセのこの章のエピソードの種本は何なんだろう?「参考文献一覧」って、直接の盗用元だけを書く<br>
とこじゃなくて、記述に当たって参照し、見解等を引用した先を書くとこなんだが、全然理解してらっしゃら<br>
ない。だから、以下の見解にはその「参考文献」の提示すら無し。要するに、記述の裏付け、真実性の担<br>
保が全然できていないんだよね。まぁ、記述そのものは歪曲と捏造の塊ですから、「参考文献」挙げよう<br>
が無いのかも。<br>
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地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 54頁8行目~14行目<br>
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十六世紀の半ば、わが国に鉄砲が伝来している。ヨーロッパで最新式の火縄銃だったようだ。<br>
この火縄銃が歴史を大きく変えたのはご存知のとおりである。しかし、この火縄銃がつくられる<br>
前も、つくられた後も、ヨーロッパの戦争の主役は大砲だった。<br>
十四世紀の前半、大砲という武器が誕生した。その当時の弾丸は石だったのだという。多数の<br>
石を詰めるにはかなりの技術が必要とされ、プロの職人が二時間かけて一発を装填していた。<br>
当時、大砲というものは、備えつけというのか、据えおきのタイプがほとんどで、教会の鐘をつく<br>
っていた職人たちが、城には大砲を納入していた。<br>
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「ヨーロッパ」とは何処を指すのでしょう?文章のつながりから言うと、十四世紀の前半、大砲と言う武器<br>
が誕生した(何処で?)時以降少なくとも十七世紀まで、「ヨーロッパの戦争の主役は大砲だった」と言う事<br>
になるのでしょうか?<br>
大砲が効果的に使われたとする嚆矢は1453年オスマン帝国によるコンスタンティノーブルの攻囲戦と<br>
言うのが、戦史の常識です。まぁ、東ローマ帝国の首邑ですし、この時使われたウルバン砲の開発者は<br>
ハンガリー人ですから、「ヨーロッパの戦争」かもしれませんね。<br>
さて、このときをはじめ、砲は何の目的に使われたのでしょうか?<br>
「その当時の弾丸は石だったのだという。多数の石を詰める・・・」<br>
と言うことで、散弾の様に石をばら撒く事での対人殺傷力でしょうか?それは無いですよね。秋庭氏自身が<br>
「多数の石を詰めるにはかなりの技術が必要とされ、プロの職人が二時間かけて一発を装填していた。」と<br>
書かれているぐらいですから、接近戦には向きませんよね。城側からの砲撃だとしても、二時間かけて一発<br>
発射となると、同じ正面に何門配置しないとならないのか。高いんですよ大砲って。青銅製の鋳物ですから。<br>
結局、妨害も無く、ゆっくり石を装填出来る局面を考えたら、包囲攻城戦での城砦攻撃用だと。実際そう<br>
でしたコンスタンティノーブル攻囲戦でも「テオドシウスの城壁」破りに使われたと言う事ですから。<br>
14世紀から17世紀の間に、「ヨーロッパ」で火砲が「戦争の主役」となった史実があるのでしょうか?<br>
これは、次の段もそうですが、秋庭氏の「ヨーロッパ」において城砦のと言いますか、城塞都市の隔壁の<br>
施工法の変化について過度に強調せんがためのこじ付けです。<br>
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地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 54頁15行目~55頁6行目<br>
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十五世紀の後半になると、大砲は持ち運びが可能となった。フランスのシャルル八世は、この<br>
新しい武器を携え、次から次へと城を落としていった。正面に高い塔がそびえ、左右に大きく広が<br>
っている城は、かっこうの標的でしかなくなっている。石で築かれた城壁も、鉄の柵も、鉄の扉も、<br>
大砲の前にはなす術がなかった。城は二時間で跡形もなくなり、あたりは火の海と化していた。<br>
「ナイフでバターを切るかのごとく」<br>
フランス軍は実に手軽に城を落としていった。フランス軍がきたと聞いただけで、城主は城を明<br>
け渡すようになった。数千年かけて築かれてきた「築城」の理論は、このとき、完全に崩壊していた。<br>
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火砲の可搬性が向上した結果、シャルル八世は何処で「次から次へと城を落としていった。」のでしょうか。<br>
歴史によると、「ナポリ公国」の継承権を主張して、小国群立するイタリアに攻め込んだんですね。<br>
で、衝力による破城槌として使われた砲は、石積みの城壁を崩していったのでした。砲弾(石ですけど)が<br>
当たった衝撃で跳ね跳ぶ隔壁材で殺傷されるとか、そんな損害はあったかもしれませんが、榴弾、即ち炸裂<br>
弾ではなかった、石や銅や鉄で出来た当時の砲弾は、直接的な殺傷力はそれほどなかったんです。<br>
殺傷力より、兎に角、崩されちゃう訳ですな防壁が。何も「城は二時間で跡形もなくなり、あたりは火の海と<br>
化していた。」なんてことが無くとも良いんです。実際そんなことは無かったんですが、一日当たり8発くらい<br>
しか撃てないんですから当時の砲は。だから30門砲を持っていっても、二時間なら30発しか撃てないんです。<br>
まぁ、シャルル八世の持ち歩いた砲は比較的発射が容易であったとは言われてますが。城が跡形も無くなる<br>
必要も、辺り火の海と化す必要もなかったんです。何故ならば、当時の城砦は隔壁の一部でも完全に崩され<br>
ちゃったら、そこからの兵の浸透を防ぎようが無いんですよ。それ以前から、弩であるとか、投石器への対応<br>
力に問題のあった高い石組みの城壁、それによって攻囲側の歩兵の城郭内への浸透を防ぐと言う形の旧来<br>
からの籠城と言う戦術が不可能になっちゃった。<br>
それで崩す余地の無い、土堤形で、正面が広く、濠や河で区隔された稜堡型の城砦になっていき、しかも、<br>
破砕部や、砲撃の結果で生じる瓦礫によって濠や河が埋め立てられて啓開された進撃路、そこからの攻囲側<br>
の歩兵の浸透に対しては、小銃の集中で阻止するという戦法が確立していく訳なんですね。<br>
ところで、このときのシャルル八世の軍が「手軽に城を落としていった」情景については一般に<br>
「バターに針を突き通すごとく」<br>
と言う風に言われた様なんですが、「ナイフ」と「針」どっちが正確な訳なんでしょうね。<br>
しかし、城を落とすのを形容して「手軽に」って言わないでしょう?「容易に」とか、「容易く」とか、言うんじゃない<br>
でしょうか。<br>
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地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 55頁7行目~12行目<br>
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十六世紀前半、鉄砲伝来からさかのぼること三十年、フランス軍とスペイン軍がヨーロッパの中部で<br>
衝突している。すでにヨーロッパ全土に攻城砲が広まっていた。<br>
このときフランス軍が持っていた大砲は五十六門、スペイン軍は三十門、戦闘開始からの二時間は、<br>
両軍による連続砲撃の応酬となった。戦争の犠牲者は、ほとんどが大砲の犠牲者だった。<br>
ヨーロッパではそれ以前の城づくりは姿を消し、城の敷地である縄張りを広く、城そのものは低くつく<br>
るよう一変している。<br>
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さて、前項で私は年表を提示し、「鉄砲伝来からさかのぼること三十年、フランス軍とスペイン軍がヨーロッパ<br>
の中部で衝突して」いた場所を<br>
1515年 「マリニャーノの戦い」のことかな?<br>
と書きましたが、秋庭氏は得意とされる、何時、何処でと言うことを挙げなかったり、暈したり、時間軸を延び<br>
縮みさせたりと言う操作を駆使され事実を歪曲されますので、実際のところこの「戦い」が何を指すのか正確な<br>
ところが、わかりませんでした。しかし、これも書棚の整理で出てきた、<br>
「戦略の歴史 ジョン・キーガン著、遠藤利国訳 1997年心交社刊」<br>
369頁「ラヴェンナの会戦(一五一二年)」の様子から、こちらの会戦であろうと推定いたしました。<br>
該当部分を記しておきますが、秋庭氏がこの会戦の説明の後に、「ヨーロッパではそれ以前の城づくりは姿を<br>
消し、城の敷地である縄張りを広く、城そのものは低くつくるよう一変している。」と書かれていることと、この会<br>
戦には意味的なつながりがないこと、関係がないことが、この該当部分からも理解できるものと考えます。<br>
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「ラヴェンナでは、フランス軍はスペイン軍を阻止しようと前進した。このときのフランス軍にはドイツ人<br>
傭兵の大部隊が含まれていたが、この傭兵たちは略奪者の一団で、イタリア戦役ではかつてヘレニズム<br>
世界の戦争でペロポネソス戦争の生き残りのギリシャ兵が行ったのと似たような行動をとっていた。<br>
フランス軍には五十四門の可動式の大砲があったが、スペイン軍の大砲は約三十門で、塹壕に<br>
据えつけられていた。フランス軍の砲撃は、容赦なかった。スペイン軍騎兵はやむをえず突撃した<br>
が、フランス軍はこれを粉砕。これでドイツ傭兵部隊が前進したが、塹壕で食い止められ、死に物<br>
狂いの白兵戦が始まった。<br>
勝敗の帰趨を決めたのは、スペイン軍の背後に回りこんだフランス軍の二門の大砲だった。その<br>
砲火で混乱に陥ったスペイン軍はついに退却したのである。」<br>
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フランス軍の砲門数が秋庭氏では五十六門となっていますが、あれですかね、五十四門にスペイン軍の<br>
背後に回り込んだ二門を加えて五十六門という意味なんでしょうかね?<br>
もちろん「ラヴェンナ」は当時ローマ教皇領でしたので秋庭氏の言う「ヨーロッパの中部」が何処かと言え<br>
ば「イタリア戦争」真っ盛りな場所であったことは言うまでもなく、当時統一国家としての名が無かったと言え、<br>
実際にはイタリアと言う狭い範囲での出来事を「ヨーロッパ」と言う表現で針小棒大に語る意図が見え隠れ<br>
している様に思えます。<br>
本項における秋庭氏の説は、すべて地域名において曖昧かつ、いい加減なものばかりです。<br>
多分、地域名を暈すことによってオランダ、ヤン・ヨーステン、江戸城、壕の下と、歪曲の連鎖を完成させ<br>
たかったんだと思います。<br>
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