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水の下に眠る城は何故燃えた?③」(2007/01/31 (水) 00:36:28) の最新版変更点

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<h4>水の下に眠る城は何故燃えた?③</h4> <br> 私は、本稿等について、「水の下に眠る城は何故燃えた?」と項題をつけましたが、それは、秋庭氏が、<br> <br> &gt;大砲の攻撃に備えて本格的な城を築いたのは、おそらく、わが国では、徳川家康が最初で最後だった。<br> <br> と称する江戸城並びに江戸の町にどれだけ頻繁に火災が発生したか、幕府の藩屏たる大名、旗本の被災がどれほどであったか?<br> 江戸城と、政治都市江戸が火事災害に、こんなに脆弱で?「大砲の攻撃に備えて本格的な城」って意味有るのかぁ?<br> と言う点について秋庭氏はなぁんにも考えて無い、調べてもいないんだろうなと思ったからでした。<br> あれほど、明治以降の都市計画について、危機管理だとかなんだとか言いまくる秋庭氏が。<br> <br> 江戸の火事については、それこそ「江戸の火事」(黒木喬著 同成社1999年刊)からの孫引きですが、気象学者、災害史家の荒川秀俊氏の「災害の歴史」によれば、慶長6年(1601年)~慶応3年(1867年)の間の大火は28回。<br> 自治(警察)官僚魚谷増男氏の「消防の歴史四百年」によれば同期間に49回。<br> 大火の規模とか、程度をどう見るかで違うのでしょうけれど、記録から確認された火災は吉原健一郎氏の研究では大小合わせて1798件あったと言うことのようです<br> 。明暦、明和、文化を三大火事と呼ぶなど、頻々と大火事に見舞われていることは歴史の授業などでも、繰り返し教えられた話です。<br> 大 火と言うとどのくらいか、当時は焼失面積の記録なんてものを正確にとりませんから、会津の誉れ帝大総長山川健次郎は火元から焼け止まりまで線を引いて、 15町(直線距離で1.6キロメートル)以上の火事を大火としていたとの事ですが、現代の都市火災でまず、1.6キロは焼けない。<br> で、この基準で言うと江戸期全期と明治14年までの間約280年間に93回大火があったんだそうで。<br> まぁ、萌えに萌えじゃなかった、燃えてるんです。<br> な んか、火事による破壊と再生と言うか、火事と言う名の消費と言うか、このメカニズムで江戸の経済が支えられていたという、穿った物言いをする人まで居る位 に。燃してると言うか燃えてると言うか。「火事と喧嘩は江戸の華」と言う「喧嘩」だって、消口争いの町火消同士の喧嘩だという見方もあるくらいに、江戸の 火事は日常だったわけです。<br> そんな中その江戸の中心であって、秋庭氏が<br> 「大砲の攻撃に備えて本格的な城を」あるいは、「当時のオランダの城づくりと同じだった。」<br> と主張される、江戸城自体の被災を、「江戸の火事」にも引用されている「江戸火消年代記」(藤口透吾編著 創思社1962年刊)の「消防歴史年表(江戸篇)東京消防庁・小鯖英一氏調べに依る」を元にして、チョッと年表にしてみました。<br> <br> 1600年9月15日    関が原の戦い<br> 1603年         家康征夷大将軍宣旨江戸幕府開府江戸城修築開始<br> 1605年         秀忠、将軍襲職<br> 1606年12月12日   江戸城火(慶長11年)<br> 1607年         駿府にて大御所政治開始<br> 1612年1月24日    城内尾張藩邸より桜田一帯焼失(元和7年)<br> 1615年         大阪夏の陣<br> 1616年         家康薨去<br> 1634年7月23日    西の丸炎上(寛永11年)<br> 1636年         江戸城築城完成<br> 1639年8月11日    江戸城火(寛永18年)<br> 1657年1月18~19日 明暦(3年)大火で天守閣焼失 以降本丸はじめ度々火災焼失(江戸三大大火他)<br> 1747年4月16日    二の丸炎上(延享4年)<br> 1768年6月16日    江戸城竹橋内雷火(明和5年)<br> 1827年<br> ~1880年       武田斐三郎(たけだあやさぶろう 生・没年)<br> 1834年2月10日    江戸城火(天保5年)<br> 1838年3月17日    西の丸火(天保9年)<br> 1844年5月10日    本丸火(天保15年・弘化元年)<br> 1852年5月22日    西の丸火(嘉永5年)<br> 1855年10月3日    江戸城百人番所火(安政2年)、10月24日江戸城紅葉山火<br> 1857年         五稜郭工事開始(安政4年) <br> 1859年10月17日   本丸炎上(安政6年)<br> 1863年6月3日     西の丸炎上(文久3年)<br> 1866年(慶応2年)  五稜郭工事完了。<br> 1873年4月9日     皇城火(明治6年)<br> <br> 上 記年表に記しましたとおり大きなもので、天守が焼失した明暦大火(振袖火事)が有名ですが、他にも延享四年(1747年)4月二の丸が全焼。天保九年 (1838)3月西丸全焼、切手門と外塀が焼けた。天保十五年(1844年)本丸大奥から出火し本丸全焼。となっております。<br> 大砲の攻撃には備えても、内府殿火事はトンとお忘れだったのですね。<br> 「水の下に眠る城」は本当に何故燃えたんでしょうね?<br> <br>
<h3>水の下に眠る城は何故燃えた?③</h3> <br> 私は、本稿等について、「水の下に眠る城は何故燃えた?」と項題をつけましたが、それは、秋庭氏が、<br> <br> &gt;大砲の攻撃に備えて本格的な城を築いたのは、おそらく、わが国では、徳川家康が最初で最後だった。<br> <br> と称する江戸城並びに江戸の町にどれだけ頻繁に火災が発生したか、幕府の藩屏たる大名、旗本の被災がどれほどであったか?<br> 江戸城と、政治都市江戸が火事災害に、こんなに脆弱で?「大砲の攻撃に備えて本格的な城」って意味有るのかぁ?<br> と言う点について秋庭氏はなぁんにも考えて無い、調べてもいないんだろうなと思ったからでした。<br> あれほど、明治以降の都市計画について、危機管理だとかなんだとか言いまくる秋庭氏が。<br> <br> 江戸の火事については、それこそ「江戸の火事」(黒木喬著 同成社1999年刊)からの孫引きですが、気象学者、災害史家の荒川秀俊氏の「災害の歴史」によれば、慶長6年(1601年)~慶応3年(1867年)の間の大火は28回。<br> 自治(警察)官僚魚谷増男氏の「消防の歴史四百年」によれば同期間に49回。<br> 大火の規模とか、程度をどう見るかで違うのでしょうけれど、記録から確認された火災は吉原健一郎氏の研究では大小合わせて1798件あったと言うことのようです<br> 。明暦、明和、文化を三大火事と呼ぶなど、頻々と大火事に見舞われていることは歴史の授業などでも、繰り返し教えられた話です。<br> 大 火と言うとどのくらいか、当時は焼失面積の記録なんてものを正確にとりませんから、会津の誉れ帝大総長山川健次郎は火元から焼け止まりまで線を引いて、 15町(直線距離で1.6キロメートル)以上の火事を大火としていたとの事ですが、現代の都市火災でまず、1.6キロは焼けない。<br> で、この基準で言うと江戸期全期と明治14年までの間約280年間に93回大火があったんだそうで。<br> まぁ、萌えに萌えじゃなかった、燃えてるんです。<br> な んか、火事による破壊と再生と言うか、火事と言う名の消費と言うか、このメカニズムで江戸の経済が支えられていたという、穿った物言いをする人まで居る位 に。燃してると言うか燃えてると言うか。「火事と喧嘩は江戸の華」と言う「喧嘩」だって、消口争いの町火消同士の喧嘩だという見方もあるくらいに、江戸の 火事は日常だったわけです。<br> そんな中その江戸の中心であって、秋庭氏が<br> 「大砲の攻撃に備えて本格的な城を」あるいは、「当時のオランダの城づくりと同じだった。」<br> と主張される、江戸城自体の被災を、「江戸の火事」にも引用されている「江戸火消年代記」(藤口透吾編著 創思社1962年刊)の「消防歴史年表(江戸篇)東京消防庁・小鯖英一氏調べに依る」を元にして、チョッと年表にしてみました。<br> <br> 1600年9月15日    関が原の戦い<br> 1603年         家康征夷大将軍宣旨江戸幕府開府江戸城修築開始<br> 1605年         秀忠、将軍襲職<br> 1606年12月12日   江戸城火(慶長11年)<br> 1607年         駿府にて大御所政治開始<br> 1612年1月24日    城内尾張藩邸より桜田一帯焼失(元和7年)<br> 1615年         大阪夏の陣<br> 1616年         家康薨去<br> 1634年7月23日    西の丸炎上(寛永11年)<br> 1636年         江戸城築城完成<br> 1639年8月11日    江戸城火(寛永18年)<br> 1657年1月18~19日 明暦(3年)大火で天守閣焼失 以降本丸はじめ度々火災焼失(江戸三大大火他)<br> 1747年4月16日    二の丸炎上(延享4年)<br> 1768年6月16日    江戸城竹橋内雷火(明和5年)<br> 1827年<br> ~1880年       武田斐三郎(たけだあやさぶろう 生・没年)<br> 1834年2月10日    江戸城火(天保5年)<br> 1838年3月17日    西の丸火(天保9年)<br> 1844年5月10日    本丸火(天保15年・弘化元年)<br> 1852年5月22日    西の丸火(嘉永5年)<br> 1855年10月3日    江戸城百人番所火(安政2年)、10月24日江戸城紅葉山火<br> 1857年         五稜郭工事開始(安政4年) <br> 1859年10月17日   本丸炎上(安政6年)<br> 1863年6月3日     西の丸炎上(文久3年)<br> 1866年(慶応2年)  五稜郭工事完了。<br> 1873年4月9日     皇城火(明治6年)<br> <br> 上 記年表に記しましたとおり大きなもので、天守が焼失した明暦大火(振袖火事)が有名ですが、他にも延享四年(1747年)4月二の丸が全焼。天保九年 (1838)3月西丸全焼、切手門と外塀が焼けた。天保十五年(1844年)本丸大奥から出火し本丸全焼。となっております。<br> 大砲の攻撃には備えても、内府殿火事はトンとお忘れだったのですね。<br> 「水の下に眠る城」は本当に何故燃えたんでしょうね?<br> <br>

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