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五稜郭の初期設計図が左(「77頁」文庫版)にある。この計画では五稜郭がきわめて複雑な形をしている。幾何学模様のなかから、ギザギザしたものが周囲に突きだしている。実は、このギザギザしたものも、十字砲火をめざした設計である。
このギザギザの先には大砲が据えられることになっていた。ギザギザの中心のほうにも、ぐるりと大砲が設置される予定だった。このような陣形なら、敵がどこから近づいてきても、ギザギザの先からの砲撃と、中心のほうからの砲撃が交差し、十字砲火を浴びせることができた。
このきわめて複雑な幾何学模様は、オランダの築城理論、つまり、要塞のつくり方をそのままコピーしている。前章で紹介した運河に囲まれた都市、ナールデンの初期設計と同じものになる。
ナールデンという城郭都市は、十七世紀にこのような形に建設された。わが国では江戸時代の初期にあたっている。
このオランダの都市は当時の状態をよく保存していて、いまでも、都市の中心には大きな地下空間が広がっている。公共施設の多くが地下にあり、市内には地下道が縦横に走っている。城郭都市ナールデンはヨーロッパで初めて、地下に「城」が建設された都市になるのだという。
現在の都市の規模と比べると小さな城砦都市ナールデン。町には縦横それぞれ3、4本の道路が走っているだけで、くまなく歩いても1時間とかからない大きさ です。その中に高さ45mの鐘楼をもつ教会、ルネサンス様式の市庁舎、昔そのままの小さな家々、由緒ありげな店構えのカフェ、骨董店などがあり、静かな町 を散策していると17世紀にタイムトリップしたかのようです。城砦へ登ることもできます。町の周囲は緑に溢れています。かつてここに軍隊が駐屯し、戦いが あったのがウソのようです。静かな趣きがしっとりと心に響く、時間を忘れさせてくれる町がナールデンです。
「水があるところには、その下に同じ大きさの地下空間がある」 このとき登場したオランダの築城理論では、大砲から城を守るのは、石でも、金属でもなく、水だった。敵の集中砲撃のさなか、運河の下に築かれた地下道を移動することができた。
地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 55頁18行目~56頁9行目 わが国では、関ケ原の戦いに大砲が登場している。しかし、まだ、主要戦力には育っていなかった。とはいうものの、今後の戦いでは、大砲が主役になるで あろうことは、おそらく、誰の目にも明らかだった。大砲の攻撃に備えて本格的な城を築いたのは、おそらく、わが国では、徳川家康が最初で最後だった。 徳川家康はオランダ人を重宝していた。ヤン・ヨーステンは「やよす」などと呼ばれて親しまれ、この「やよす」が東京駅の「八重洲」になったのだ という。しかし、このとき家康がオランダ人を重宝しており、ヤン・ヨーステンがお堀端に住んでいたのは、それなりの理由があったからではなかったのだろう か。かつての川を地下の上水に変え、内堀や外堀の下に地下空間を築くという手法は、わが国ではいまだに伏せられているものの、当時のオランダの城づくりと 同じだった。
「かつての川を地下の上水に変え、内堀や外堀の下に地下空間を築くという手法は、わが国ではいまだに伏せられているものの、当時のオランダの城づくりと同じだった。」
地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 42頁13行目~42頁末 かつて地面だったところを川にするときは、大きく土を掘り込んでいくことになる。時にその深さは一〇メートルを越え、二〇メートルという深さに達してい る。かつて川だったところに水が流れなくなると、そこは土の道へと変えられている。実は、江戸時代の上水はこのようにして築かれている。水が流れていない 川の幅いっぱいに木の枠が建て込まれ、四角いトンネルができあがると、この木枠のトンネルの上に土が盛られ、その上が新たな街道になっている。 その後、かつての川から、再び、トンネルへ水が流される。これが上水と呼ばれるものになる。地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 58頁5行目~8行目 このように内堀、外掘の地下に広大な空間を築く手法も、上水を敷設するときと何も変わらない。川の水をいったんせきとめ、二段重ねの空間を築き、その上 だけに水を引くということになる。十六世紀前半、オランダはこのような手法で運河の下に地下道を築き、水の下に眠る城を完成している。
地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 58頁7行目十六世紀前半、オランダはこのような手法で運河の下に地下道を築き、水の下に眠る城を完成している。 地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 67頁3行目ナールデンという城郭都市は、十七世紀にこのような形に建設された。わが国では江戸時代の初期にあたっている。
「水は城を囲み、水は市街を囲む」 この地下の城から延びていた地下道は、市街の外まで広がっていた。市街の外周には、随所に砲台が配置されていた。この理論では、広大な敷地を持つことで、大砲の飛距離の先に城を築いていた。
この地下の城から延びていた地下道は、市街の外まで広がっていた。
市街の外周には、随所に砲台が配置されていた。
この理論では、広大な敷地を持つことで、大砲の飛距離の先に城を築いていた。
オランダの築城理論「広大な水の下の城」には、もう一つ、大きな長所があった。実は、大砲というものは大量の水を必要とした。 砲台では、砲撃のたびに火薬弾薬が爆発している。砲床や砲身などはすぐに高温になる。砲室の温度が上がりすぎると、各種の機器が正しく作動しなくなる。このような事態を避けるには、大量の冷却水が必要だった。
また、爆発を繰り返しているところでは洗浄という作業も欠かせなかった。一定時間以上、砲撃を続けるためには、当時は、洗浄できるかどうかが決め手とされていた。
さらには、敵の砲撃を受けたとき、その消火にあたるのも水だった。砲撃の応酬になったときは、武器弾薬を保管しておく場所にも水が利用された。砲台にとっては、水は何よりも貴重な軍事資源だったのだという。
だが、この新しい築城理論にも、欠点がないわけではなかった。それほど広大な城を築けば、どうしても戦力が分散することにな る。どこか一方に大砲が並べられ、砲撃が始まったときは、その方角を向いている砲台と兵力では、太刀打ちができなくなる。そのときは、集中砲火のさなか、 他の地区に配備されていた兵力が駆けつけ、武器弾薬を輸送し、ときに大砲も移動しなければならなかった。そのためには巨大な地下道が必要だった。 運河と同じ大きさの地下道を築く手法は、この欠点をカバーするために編みだされた。その手法が江戸幕府に伝授された。内堀や外堀、上水の下に築かれていた地下道は、つまり、単なる抜け穴ではなく、大砲がとおるためのルートだった。
地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 58頁5行目~8行目 このように内堀、外掘の地下に広大な空間を築く手法も、上水を敷設するときと何も変わらない。川の水をいったんせきとめ、二段重ねの空間を築き、その上 だけに水を引くということになる。十六世紀前半、オランダはこのような手法で運河の下に地下道を築き、水の下に眠る城を完成している。
「その手法が江戸幕府に伝授された。内堀や外堀、上水の下に築かれていた地下道は、つまり、単なる抜け穴ではなく、大砲がとおるためのルートだった。」
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