地下妄の手記 一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その9

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      38」[御茶ノ水駅]営団がJRの近くに駅を造れなかった理由

       丸ノ内線は東京駅を出ると、右斜め方向にほぼまっすぐ北に向かう。淡路町駅をすぎた
      ところで道路をはずれ、ホテル聚楽の下あたりから左に大きくカープ、JR中央線の下を
      くぐり神田川の鉄橋を渡って御茶ノ水駅に到着する。
       地下1階のホームから地上に出てもJR御茶ノ水駅はなく、神田川を挟んで対岸にある
      駅舎を見て、「どうしてJRの駅の下に造らなかったのか?」と、ついぼやきたくなる。
      JRに隣接している駅は他に荻窪、新宿、四ッ谷、東京、池袋があるが、いずれも改札口
      から地上に出ることなく乗り換えられる。どうして御茶ノ水だけこうなのか?

あれっ?どこかで、こんなことを仰っていませんでしたか?

        2」地下横須賀線の「東京トンネル」は、100年近く前に造られていた?

         地下鉄のトンネル工事で活躍するシールド工法は、線路の下にトンネルを掘る作業では
        有効だが、ホームなどがある駅の下にトンネルを掘る場合には、駅の重量にトンネルが耐
        えられないため使われない。
         こうした場合は駅を避けるルートに変更されるのだが、都営浅草線五反田駅のように、
        地下鉄が駅の真下を走っていることがある。これは、そこのトンネルが駅が造られたとき
        か、それ以前に造られたことを示している。

 既にある駅の下に、駅は新たに造れないと、そう仰ってたんじゃなかったの?──52」[五反田駅]既設のJRの駅地下に地下鉄駅を新設できたのは、なぜ?── でもそう仰ってますよね。

      「どうしてJRの駅の下に造らなかったのか?」と、ついぼやきたくなる。

 語るに落ちるとはこのことを言うんでしょうね。

       その答えを求めて丸ノ内線の建設史をひもとくと、池袋~御茶ノ水が開通したころの丸
      ノ内線は建設費の利子すら払えないほどの赤字路線で、営団は当時の大きな盛り場だった
      神田駅に線路を延ばし、「ドル箱路線」の銀座線とつなぐ計画だったという。
       それで、神田駅に向かうのに適した神田川を渡る手前の今の場所に駅を造ったが、計画
      であって決定ではなかったので、しばらくは「仮駅」だったという。

秋庭さんの「という」は「嘘で~す」と言うことです。最初の「という」は、冒頭に「ひもとくと」がありますから、完璧に嘘だと言う事が判ろうと言うものです。前にも申しましたように、秋庭さんが「ひもとくと]と言う時は、「これから嘘を吐きます」と言う合図なのですから。

      池袋~御茶ノ水が開通したころの丸ノ内線は建設費の利子すら払えないほどの赤字路線で、
     営団は当時の大きな盛り場だった神田駅に線路を延ばし、「ドル箱路線」の銀座線とつなぐ計画

まず、建設費の利払いができないと言う記録、記事はどこにあるのでしょう?「池袋~御茶ノ水が開通」したのは昭和29年で、神田経由に計画変更されたのは昭和28年ですが。時系列が完全に歪曲されています。理論構築も矛盾だらけです。

開通時の結果:池袋~御茶ノ水が開通したころ
          丸ノ内線は建設費の利子すら払えない
          赤字路線で、
建設前の計画:営団は当時の大きな盛り場だった
         神田駅に線路を延ばし、
         「ドル箱路線」の銀座線とつなぐ計画だった。

秋庭さんが紐解いたはずの、「丸ノ内線建設史」には以下のような記述があります。

  池袋・御茶ノ水間収支概況  池袋・御茶ノ水間は東京,西銀座を経て新宿にいたる
 路線の一部開業に過ぎないので,この区間の営業収支は極めて悪い。昭和29年度の収
 支実績をみると,営業収入199,696千円に対し,人件費,、物件費,支払利息など減価償
 却前支出は605,563千円,差引償却前において405,867千円の欠損となっている。このよ
 うに償却前既に4億円以上の赤字となった原因は,同線の支払利息が405,196千円で営
 業収入の2倍を上回る過重な負担となっているためで,結局同区間においては,償却前
 において金利負担額だけが赤字となった。このような状態では既設の銀座線の好収益を
 もってしても丸ノ内線の赤字を補填できないので,決算面においては池袋・御茶ノ水間
 支払利息の一部114,670千円を繰延べて御茶ノ水・西銀座間の建設仮勘定で負担し,同
 年度丸ノ内線の損益勘定で負担する支払利息を290,526干円とし,当年度定率法による
 法定償却範囲額の36%にあたる112,000千円の減価償却を実施した。かくして昭和29
 年度丸ノ内線の収支決算は営業収入199,696千円,営業支出602,893千円差引403,197千
 円の欠損となった。
  営団全体の収支概況  昭和29年度丸ノ内線池袋・御茶ノ水間の営業収支概況は前述
 のとおりであるが,同年度営団全体の収支をみると次のとおりである。既設銀座線にお
 いては営業収入1,486,606千円,これに対する支出は減価償却前において954,690千円,
 差引531,916千円の償却前利益となった。そして同線では定率法による法定償却範囲額
 の45%にあたる119,200千円の減価償却を実施したので,支出合計は1,073,890千円,
 差引412,716千円の利益となった。よって丸ノ内線を加えた営団全体の収支は,収入
 1,686,302干円 償却前支出1,445,583千円,差引同利益240,719干円であったが,全線で
 は231,200干円の減価償却を実施したので,支出合計は1,676,783干円,差引9,519千円
 の利益となった。なお両線の減価償却実施額は同年度法定償却範囲額の40%にあたっ
 ている。このように銀座線の収益をもって丸ノ内線の欠損を補填して若干の利益を計上
 したが,営団全体として適正な減価償却を実施し得ない状態であったため,昭和29年
 度下期より出資金に対する配当をとりやめるのやむなきにいたった。

秋庭さんは経営学部卒のはずですけど、管理科学科ってところは経理はおしえないんですかね?

      建設費の利子すら払えないほどの赤字路線

 これじゃー、固定資産を拠り所にするビジネスって、開業時は皆「建設費の利子すら払えないほどの赤字」ってことじゃん、赤字をこと挙げる意味が理解出来ん。

      それで、神田駅に向かうのに適した神田川を渡る手前の今の場所に駅を造ったが、計画
     であって決定ではなかったので、しばらくは「仮駅」だったという。

既に、mori-chi blog などで、御茶ノ水は「仮駅」ではありませんと言われちゃっている様に、「丸ノ内線建設史」紐解くと、「仮駅」開業なんて書いてありません。

何でそうなっちゃったかと言うと、多分以下の書からの盗用だからでしょうね。

   また、御茶ノ水の先では神田を経て東京に向かうと急カーブになるためと、神田付近でも建設反対運動が起こり、
   ここでは用地買収で難航しないようにするた めに神田経由を断念し、御茶ノ水を当面の終点として、29年に池袋仮駅
   ─御茶ノ水間が開通した。
              (川島令三著 全国鉄道事情大研究 東京都心部篇 草思社2000年5月刊98頁)

「当面の終点」ってとこを「仮駅」にしちゃったんじゃないでしょうか。

      その後、神田駅の項で述べたように神田駅への延伸は国に認められず、かわって淡路町
     ~大手町から東京駅へ向かうルートが建設省の告示で決定した。
      いつの間にか御茶ノ水駅は「仮駅」でなくなり、丸ノ内線は右に大きくカープして現在
     のルートに線路を延ばしていった。

「淡路町~大手町から東京駅へ向かうルートが建設省の告示」前に変更申請されていた。しかもこの変更は(神田延伸が)「国に認められ」なかった何ぞと言う秋庭流トンデモが原因ではなく、以下の様な営団からの変更申請だったんです。

秋庭さんが紐解いたはずの、「丸ノ内線建設史」に(ry

     第3章 第二期工事御茶ノ水・西銀座間

       第1節 神田駅接続計画路線の変更
 最初の路線計画は御茶ノ水から国鉄線の下を横断し,神田を経由して東京駅に向うこ
 とになっていたのであるが,次の諸理由から神田駅接続を中止し淡路町経由に変更した。
 1.須田町・神田間の電車通り道路下には銀座線が敷設されているので,そこに丸ノ内
  線を並行して敷設する余地がない。
 2.この電車通りの西側裏通りに新路線を敷設するには道路幅が狭く,地質も悪いので
  施工技術上非常に困難である。
 3.神田駅より東京駅に至る間の国鉄線沿いに予定されていた都市計画道路が実現の見
  込みが立たなかった。したがって神田駅前後の国鉄線沿いの地域は工事の施行上,民
  家の立退きまたは下受けが必要となる。これは地元に大きな迷惑を及ぼすだけでなく,
  工事も困難でかつ完成期日を非常に遅らせることになる。
 4.国鉄神田駅は山手,京浜,中央各線及び地下鉄銀座線の連絡駅として激増する乗換
  客のために益々混雑を極めており,ここに丸ノ内線を更に連絡させることは当駅の連
  絡輸送に混乱を来たすおそれがある。
 5.淡路町を経由させることにより,池袋方面から都心への運転時問を短縮し,更に建
  設費も大きく節約できる。
  この理由に基き,昭和28年6月18日路線経過地を変更するための起業目論見変更認
 可の申請をし,同年10月30日にその認可があり,これにより第4号線の国鉄神田駅経
 由が淡路町経由に変更され,また東京・日比谷間の路線も次節に述べる理由により銀座
 経由に変更された。

 元々の昭和21~22年の当初計画から、6年の時間経過が神田駅の周辺整備、駅の混雑など状況の変化による変更を余儀なくさせたと言うことでしょう。

      もし最初の計画から淡路町に向かうルートであれば、本郷三丁目から延ばしてきた線路
     を神田川にぶつかる順天堂前で左折しないで、そのまま神田川を渡ってJR御茶ノ水駅の
     西側、駿河台下に通じる道路の下に駅を造ったほうが、カープに無理がなくJRとの乗り
     換えにも便利な駅が造れたのではないだろうか。

秋庭さんが紐解いたはずの、「丸ノ内線建設史」に(ry (ry

          第15節 御茶ノ水駅工事

 地下鉄御茶ノ水駅の設置については当初同駅と国鉄御茶ノ水駅と直接連絡する計画で,
次の3案を中心に検討した。
(1) 国鉄線対岸湯島側崖縁に乗降場を設ける。
(2) 国鉄線に沿い1線を川側,1線を国鉄線下に通す。
(3) 地下鉄線を全部駿河台山側に入れる。
しかし調査が進むに従って国鉄御茶ノ水駅の乗降場幅員,乗降客の混雑,電車の運
転回数などから現在のままの同駅の状態ではいずれも施工が困難であることがわかった。
 そこで国鉄線との直通連絡は他日国鉄御茶ノ水駅の改良工事を施行するとき併せて行う
こととして計画を変更し,国鉄線対岸湯島側の都電道路下に相対式乗降場の地下鉄
御茶ノ水駅を設置したのである。このため駅の乗降場間は連絡地下通路を設け,将来
この通路を延長し神田川を横断して国鉄駅との直接連絡ができるようにした。なお付近
は風致地区に指定されているため設計にあたってはつとめて周囲の景観との調和を
はかった。
 工事にあたっては径1,100mmの水道管,径600mmの下水管,径400mmのガス管等
構築に支障する地下埋設物は総てこれを移設した。掘さくは従来の方法と異なり中間土
留杭を境にして縦断方向に2分し,まず本郷台地山側の半分を掘さくして,この部分の
構築を完成し,ついで川側を掘さくして残りの構築を完成する特殊工法によった。

  外掘通り→御茶の水橋際→明大通り→駿河台下というコースは本当に「カープに無理がなく」と言えるのだろうか?駿河台下から東京駅までのコースを考えた場 合にどこかで「カーブに無理」が掛かるのではないのか?その前に、本郷通りから、明大通への短絡で神田川を渡る場合、まず、国鉄御茶ノ水駅との連絡距離は 却って離れるように見える。かつ、神田川を渡る部分は、ちょうど川の蛇行部に当り、相当に難しい工事になる様に見える。また、明大通りに沿わして駿河台下 まで勾配を開削工事で下った場合、現在の淡路町へ抜ける民地下を通るコースより、相当な急勾配が長く続く様にも思われる。何れにしろ、我々土木の素人が軽 々に「カーブに無理なく」などと言えるものではなかろう。

       にもかかわらず現在の場所に駅を造ったということは、当時の営団に淡路町~東京駅ル
      ートはなかった、と私は考えている。まさか国が認可しないとは、考えもしなかったので
      はないだろうか。こうして神田~東京の地下鉄線路を隠すために、私たち国民はその後ず
      っと不便な思いをさせられている、ということになる。

  不便とか、遠いとかって?通路として屋根があるかどうかは別として、東京駅中央線ホームと丸ノ内線「東京」の距離の方が遠いんではありますまいか?地下 で通路がつながっていると言うのは、大変便利ではあるけれど、秋庭さんが提示するところの「JRに隣接している駅は他に荻窪、新宿、四ッ谷、東京、池袋」 と言う「丸ノ内線」と「国鉄線」の駅の場所とを距離だけで比較するなら、丸ノ内線御茶ノ水駅と中央・総武線御茶ノ水駅間は新宿駅や東京駅での国鉄(当時) との連絡距離よりは近いのではなかろうか。
 「国鉄線との直通連絡は他日国鉄御茶ノ水駅の改良工事を施行するとき併せて行うこととして、」と書か れた丸ノ内線建 設史の時代から、50年を経て、なお、御茶ノ水駅には「他 日」がやって来ていない為に、「私たち国民はその後ずっと不便な思いをさせられている、ということになる。」て訳で、JR御茶ノ水駅と丸ノ内線御茶ノ水駅 がつながっていないのは営団のせいではなく、旧国鉄とJRの都合なんですけれど、まぁ、営団より旧国鉄の方が「政府」に近い?から「国民=秋庭さん」と言 うお約束の世界では桶なのかもしれませんね。


      39」[本郷三丁目駅]中学校の校庭地下に駅を造ったのは、なぜ?

       御茶ノ水方面から本郷通りを北上してきた丸ノ内線は、春日通りと本郷通りの交差点の
      手前で左にカープして春日通りに入る。
       そのカープの途中に本郷三丁目の駅がある。駅の出口が春日通り沿いにあるので気がつ
      かない人も多いが、駅は市街地の下、正確には文京区立本郷台中学校の校庭の地下にある。
      なぜ、ここに駅が造られたのだろうか。

駅の出口は春日通沿いにはありません、春日通からも、本郷通りからも一筋奥まった本郷台中学校の正門に近いところ、春日通からは80メートルほど、本郷通りからは40メートルほど入ったところに改札があります。

       丸ノ内線は基本的に・営団が建設当時、免許を持っていた4号線のルートに建設された地
      下鉄だが、場所によってさまざまな変更が加えられている。
       ここも変更された場所のひとつだ。つまり、後楽園駅から春日通りを東に進んでくる4
      号線ルートに御茶ノ水から本郷通りを進んでくる3号線ルートを、ここでつなぐことにな
      った。しかし、地下鉄は路面電車のように直角に曲がれない。
       本郷三丁目の交差点で交差するはずだった2つの路線は、手前で大きくカープするよう
      に線路を敷いてつながれたのである。

  ここで、唐突に4号線ルート、3号線ルートと出てきますので、はじめて秋庭本に接する読者にはまるで意味不明だと思います。「4号線ルート」とは、昭和 32 年建設省告示の丸ノ内線の正式名称が「東京都市高速鉄道網4号線」ですから、世間において若干の認知があるのかもしれませんが、「東京都市高速鉄道網3号 線」は銀座線のことですので、世間の認知と整合性が取れません。4号線、3号線は何なのか?ちょいと秋庭さんのネタ元を見てみましょうか。

   丸ノ内線の各区間の免許取得年月は、池袋-赤坂見附間が大正14年5月、赤坂見附-四ッ谷間が昭和
  12年2月、四ッ谷-新宿間が大正14年5月、新宿-荻窪間と分岐線が昭和33年3月となっている。
   大正14年の免許取得は東京市によるものだが、簡単にいえば当初の東京市の免許線の旧4号線の大塚
  -本郷三丁目間と四ッ谷見附-新宿間と旧3号線の本郷三丁目-東京間、それに東京高速鉄道が取得し
  た枝線の四ッ谷-赤坂見附間を新4号丸ノ内線が引き継いだものである。
   だが、そのまま引き継いだわけではない。戦災復興院は大正14年の内務省告示の東京都市高速鉄道網
  計画を改定したが、都市計画に合わせて現在の4号線を決定、従来の免許線と整合させるためにルート
  や起点を変更している。
         (川島令三著 全国鉄道事情大研究 東京都心部篇 草思社2000年5月刊97頁)

  もう少し言い方を変えると、大正14年の内務省告示に従って東京市が取得した免許の(旧)3号線のルートが

   渋谷─赤坂見附─虎ノ門─日吉町(現銀座八丁目)─数寄屋橋─永楽町(現丸ノ内一~二丁目)─昌平橋─本郷三丁目─本郷肴町─巣鴨

(旧)4号線のルートが

   角筈─半蔵門─桜田門─数寄屋橋─築地─浜町─横山町─美倉橋─上野広小路─真砂町(本郷三丁目付近)─大塚仲町(茗荷谷付近)─大塚

念の為言うと、(旧)3号線、4号線は東京市が免許を受けたものの着手できず、大倉組門野重九郎の東京高速鉄道の執拗な譲渡運動により同鉄道
に 譲渡され、〝渋谷─赤坂見附─虎ノ門─日吉町(現銀座八丁目)〟部分は五島慶太の手によって同鉄道渋谷線(現3号銀座線の一部)となったもので、最終的 にこれらの営業線と免許は昭和16年に営団に譲り渡される事になる。従って、営団は、4号線だけでなく3号線の免許も、四ツ谷─赤坂見附連絡線の免許も 持っていたわけで、その要約が川島の記述である。
 ところで、川島の

   だが、そのまま引き継いだわけではない。戦災復興院は大正14年の内務省告示の東京都市高速鉄道網
  計画を改定したが、都市計画に合わせて現在の4号線を決定、従来の免許線と整合させるためにルート
  や起点を変更している。

と秋庭さんの

      丸ノ内線は基本的に・営団が建設当時、免許を持っていた4号線のルートに建設された地
      下鉄だが、場所によってさまざまな変更が加えられている。

酷似しているんだけど。
「東京の地下鉄がわかる事典」(青木栄一監修日本実業出版篇)からの盗用対比同様、改めて全国鉄道事情大研究と秋庭地下本シリーズとの対比もいるのかなぁ?


       よくわからないのは、駅が道路の下ではなく、カープの途中に造られていること。なぜ、
      春日通りか本郷通りに駅を造らなかったのだろうか? たまたまそこに中学枚の校庭があ
      ったからよかったが、なかったらどうしたのだろうか?

春 日通り上に置いた場合は後楽園駅から500メートルほどと近すぎる。本郷通り上では、御茶ノ水に向けて下り勾配(池袋起点6kmから25‰)が急なた め、駅の設置に困難がともなうものと思われる。本郷三丁目駅はその約三分の一が本郷台中学校の校地(校庭部分)に掛かっているが、駅本屋など残り三分の二 は民地及東京メトロの所有地であり、そのことから考えると、本郷台中学校の校地がなかったとしても、そこが民地であってもその下に駅を置いたと思われるん ですが。

       もうひとつ、この駅の不思議を紹介すると、この駅を境にトンネルのなかがガラリと変
      わることだ。春日通りの4号線のトンネルでは上りと下りの線路のあいだにうす茶色の壁
      がある。その壁には少し濃い色のラインが横に走っており、2メートルの間隔で壁の下半
      分がくり抜かれている。しかし、本郷通りの3号線のトンネルは、そんな壁はどこにも見
      られない。機会があったらぜひ、あなたの目で確認していただきたい。

  御茶ノ水側、後楽園側と確認しましたが、本郷三丁目駅を境にトンネルの中ガラリと変わってませんけど。秋庭さん曰くところの4号線ルートも3号線ルート も鉄製の支柱部分もあれば、コンクリート支柱部分もあり、薄茶色の壁ってのが良く判りませんが、似たものは本郷三丁目から御茶ノ水に向かう方向の鉄製支柱 の並びの一寸後に見かけたような気がしましたけれど。正直に言いますと結構丸ノ内線速い。隧道内暗い。

       のあいだにうす茶色の壁がある。その壁には少し濃い色のラインが横に走っており、
      2メートルの間隔で壁の下半分がくり抜かれている。

なんて、区別付きません。「2003年春夏・丸ノ内線02系」(株式会社 ジャバット、大日本交通映像博物館)のDVDででも確認できるかな?
こ の壁の形などについては、ここに 戦前などと言うことはあり得ないということを書いています。秋庭さんの言うところの4号線の壁の形にしろ、3号線の柱の 形にしろ、丸ノ内線では全線に亘っていると言うことが、こと有る毎に秋庭さんが紐解かれている、丸ノ内線建設史の各区間毎に掲示されている「構築の寸法表 附図」と「普通 部隧道構築の寸法表」を見ると判ります。


       トンネルがすべて戦後に造られていれば、こういうことは起こらなかったは
      ずで、どちらかが戦前に造られたトンネルを利用していることになる。駅を道路の下に造
      れなかったのも同じ理由ではないだろうか。

ど ちらかが戦前に造られたトンネルって。丸ノ内線は国会議事堂前付近を除き、地下部分のほぼ全線が開削工法によっているので、工事の目撃者が沢山います。 その代表のような人々が当時の鉄道趣味人達。その一端は1953年当時東京教育大四回生だった中川浩一茨城大学名誉教授によるRomance Car(東 京鉄道同好会機関誌)№24のルポ「工事進む新地下鉄」──「鉄道ピクトリアル臨時増刊号特集東京地下鉄」(2005年3月)136~137頁に再録── などで伺えます。この人々は政府の回し者でも、守秘義務を負わされた人々でもないので、某和光大学名誉教授のごとくに、赫々と研究成果を語ることができま す。戦前に造られたトンネルなんて話は趣味人には最高のご馳走ですから早速に当時指摘があったはずで、大問題になっていたことでしょう。それがないんです から、そんなものは無かったんです。

       戦前に造られたトンネルは、はたして春日通りの4号線か、あるいは本郷通りの3号線
      か、それとも両方なのだろうか?

 論理矛盾じゃないのかな、前段では「どちらかが戦前に造られたトンネルを利用していることになる。」からトンネルの様子が異なっていると言っているのに、「それとも両方なのだろうか?」って。


      40」[茗荷谷駅】「ついたて」で囲んだ地上を隠れるように走る理由

       丸ノ内線には、地下鉄なのに太陽の光や雨の滴を浴びるところが4カ所もある。四ッ谷
      駅、御茶ノ水駅の手前・神田川鉄橋を渡るところ、後楽園駅、そして茗荷谷駅だ。なかで
      も住宅のすぐ近く、壁というより「ついたて」といったほうがいいようなもので両側を囲
      った線路を、恥ずかしそうに走る茗荷谷駅付近は、これが地下鉄なのか? という違和感
      を感じるところではないだろうか。

とほざいて、秋庭さんは、97頁に以下の様な写真を掲出されている。

619metro?cmd=upload&act=open&pageid=107&file=%E7%A7%8B%E5%BA%AD%E6%9C%AC%E8%8C%97%E8%8D%B7%E8%B0%B7.jpg

いかにも左右を壁に囲まれてという様な書き方に合せてのトリッキーな写真である。
ま ず奇妙なのは、写真の下のキャプション(茗荷谷駅から後楽園駅に向かって)とあるが、そうすると、これは構図から見て、ついたてと称する掘割の崖の内、 線路敷地内に入って撮られた写真と言うことになる。線路敷地内への無断立ち入りによる撮影なら、違法行為であり、取材の域を大きく逸脱したものになる。も しこれが、茗荷谷駅ホームからの撮影ならば、日本の鉄道は左側通行だから、電車は、後楽園駅から茗荷谷駅に向かって来ている事になりこのキャプションは嘘 になる。
事実、電車は茗荷谷駅のホームにまさに入線しようとしているところなのだ。手元の「鉄道ピクトリアル臨時増刊号特集東京地下鉄」 (2005年3月)の「東 京地下鉄車両履歴表」によれば、写真の車号02-625号車は02系6次車25編成のCT2つまり池袋側の先頭車、これが向かって右側の線に写っている場 合は(茗荷谷駅から後楽園駅に向かって)などということは絶対にあり得ない事なのだ。
茗荷谷駅付近の秋庭さん称するところの「ついたて」の実相は 次の写真の様なもので、

619metro?cmd=upload&act=open&pageid=107&file=%E8%8C%97%E8%8D%B7%E8%B0%B7%EF%BC%91.jpg
   茗荷谷駅を出、後楽園駅に向かう丸ノ内線電車

 壁でも衝立でもありません。切通しと言うか、掘割なんで、台地の下の隧道から台地の谷合を縫って走る地下鉄のどこが「恥ずかし」いんでしょうか?

619metro?cmd=upload&act=open&pageid=107&file=%E8%8C%97%E8%8D%B7%E8%B0%B7%EF%BC%92.jpg
  掘割に掛かる跨線橋(道路橋)から茗荷谷駅方向を見る。正面の丸い塔屋のあるビル下が茗荷谷駅。

619metro?cmd=upload&act=open&pageid=107&file=%E8%8C%97%E8%8D%B7%E8%B0%B7%EF%BC%94.jpg
 跨線橋(道路橋)からの後楽園駅方向の様子。小石川車庫を出区し本線に入る丸ノ内線電車。

茗 荷谷の駅部分を含まなけりゃ、距離にして 100メートルほどで秋庭さ ん曰くところの「小石川工場」、つまり、〝読む、知る、楽しむ東京の地下鉄がわかる辞典〟から盗んで来て知ったかぶりした「小石川CR工場」の広い敷地に 出くわす事に なる。そんな、たった100mの「ついたて」ってのは、丸ノ内線一編成分位の掘割のこと。

       本郷三丁目駅から後楽園、茗荷谷、新大塚までの4駅は、春日通りのそばを走っている
      が、なぜか道路の下を走っていない。池袋から来ると、新大塚の先でこの通りから左には
      ずれ、市街地の地下をゆったりとカープして、お茶の水女子大付近で再びこの通りにぷつ
      かる。そのまま通りを横切り、茗荷谷駅に入ると、しばらく地上を走るのだ。
       並行している春日通りをなぜ走らないのか、不思議でならないが、ここに線路が敷かれた
      とき、立ち退きを求められた住民のひとりが「地下鉄なんだから道路の下を走らせればい
      いじゃないか」と叫んだ、という話を聞いた。

  私、「帝都東京・隠された地下網の秘密」当時から不思議だったんですね。立ち退きを求められたと言う事は丸ノ内線の地上部分に引っ掛かったんだから、 「地下鉄なんだから地下を走ればいいじゃないか」ってことじゃないのかと?地下鉄は道路の下を走るものって常識が当時形成されていたってことか知らん? 「地下鉄なんだから道路の下を」と言う意味不明なのより「地下鉄なんだから地下を」の方が据わりがいいと思うんだけど。多分秋庭さんの捏造なんでしょうね この発言も。

       ここを地下鉄で通ると、その住民の気持ちがよくわかる。営団にとっても、地上を走らせ
      るのは建設コストがかかりデメリットが大きいはず。地下を走らせれば土地の所有者に地
      価の3分の1に相当する金額の地価補償をすればいいが、地上を走るとなると土地を買い
      取らなくてはならない。建設費は3倍以上に跳ね上がる。それでも地上を走らせたのには、
      どんな理由があったのだろうか?


秋庭さんが紐解いたはずの、「丸ノ内線建設史」に(ry (ry (ry

    第2章 第一期工事池袋・御茶ノ水間
          第1節 路線の選定

 第一期工事池袋御茶ノ水間路線の経過地に関しては昭和21年末から同22年にわた
り戦災復興院主催の下に地下鉄計画協議会が開催され,審議を重ねた結果次の決定を
みた。
1.都が実施する区画整理で池袋駅東口から巣鴨拘置所にぬける道路及び大塚辻町
 から大塚公園,大塚仲町,大塚窪町を通り茗渓会館前にぬける道路を新設して地下鉄
 をこの下に通す。
2.茗荷谷から台地の傾斜面を通り,春日町にぬける区間を地上線とする。
 この大綱にもとづいて路線の詳細選定に当ったのであるが,地上線の決定は次の諸理
由によるものである。
(l)本郷真砂町の坂は急勾配であるため,本郷三丁目側を経費が莫大にかかる深型隧
 道としない限り,春日町の電車通りを高架で横断しなければならない。したがって
 池袋側の一帯も高架で地表を専用し,後楽園地区の台地を渡る路線が決定的となった。
(2)後楽園駅は将来,第5号線の接触乗換を計画しておく必要から路線及び駅の位置,
 路線の方向が制約された。(昭和32年度改訂の新路線で第5号線が水道橋・春日町
  間の道路下に変更されてこの問題はなくなった。)
(3)茗荷谷付近は台地の麓にあたる崖の傾斜面を通過することにより沿線に及ぼす影
 響が少く,また路線勾配もスムースとなるので,運転上極めて経済的な路線となる。
(4)地上線部をとり入れることは建設費の大きな節減となる。
 主要駅の構想,連絡設備,特殊工法に関しても土木学会推薦の委員からなる各分科会
の報告を参考とし,他の地区は既成道路下をできる限り通す方針をとったのであるが,
巣鴨拘置所,西巣鴨二丁目,大塚町,茗荷谷及び本郷三丁目付近では民有地下の通過を
避けられなかった。
 駅間距離を延ばす方針をとり,地下線部に池袋,新大塚,本郷三丁目,御茶ノ水の4
駅,地上線部に茗荷谷,後楽園の2駅を設け文教地帯の便利を計ると同時に池袋から
都心に達する時間の短縮を計った。(図11)

 なお、地下補償とかの嘘についてはこちらを参照されたい。


       前項で述べたように、営団は認可を受けていた4号線のルートを基礎に変更を加え
      ながら丸ノ内線の建設を行なっている。新大塚から本郷三丁目までの春日通りは正に
      4号線のルートと重なっているが、そのルートをそのまま丸ノ内線に使えなかったので
      はないだろうか?と私は考えている。
       たとえば、戦前すでに4号線が完成していて、しかも、そこは国民には知らされない政
      府専用の地下鉄路線として密かに使われていたのではないだろうか? それが公になるの
      を避けるために丸ノ内線は春日通りから外れて地上を走っているのではないだろうか?

 (旧)4号線のルートが使えなかった理由は

       戦前すでに4号線が完成していて、しかも、そこは国民には知らされない政
      府専用の地下鉄路線として密かに使われていたのではないだろうか

なんてことではなく、春日通りの起伏の激しさにある。しかも、「戦災復興院主催の下に地下鉄計画協議会が開催され,」

1.都が実施する区画整理で池袋駅東口から巣鴨拘置所にぬける道路及び大塚辻町
 から大塚公園,大塚仲町,大塚窪町を通り茗渓会館前にぬける道路を新設して地下鉄
 をこの下に通す。
2.茗荷谷から台地の傾斜面を通り,春日町にぬける区間を地上線とする。

と決まったんだし、立ち退き云々って崖地沿いに土地を買収していく訳だから、

(3)茗荷谷付近は台地の麓にあたる崖の傾斜面を通過することにより沿線に及ぼす影
 響が少く,また路線勾配もスムースとなるので,運転上極めて経済的な路線となる。

地形から言って、崖下の住人には換地とか、買収の方が悪い話ではないのはいうまでもないと思われるのだが。


      41」[池袋駅]なぜ、丸ノ内線の延長線上に有楽町線新線が走る?

       丸ノ内線の線路を池袋駅からまっすぐ延ばしたところに有楽町線新線池袋駅があり、新
      線は小竹向原駅で有楽町線とつながっている。
       この新線は有楽町線の混雑緩和のためのバイパス路線で、小竹向原~新線池袋間をノン
      ストップで走っている。しかし、丸ノ内線池袋駅の位置からは丸ノ内線が延伸されればピ
      ッタリの路線に見える。そう考えて丸ノ内線の建設史をひもとくと、実際に丸ノ内線を小
      竹向原まで延伸する計画があったことがわかった。

以下の記述も含め、各路線の起点終点に関しては、こちらを参照ください。営団史の免許区間の一覧表で秋庭さんの嘘が確認できます。

       戦後初の地下鉄である丸ノ内線(池袋~御茶ノ水)が開通してから2年後の1956年の
      ことである。もともと池袋~御茶ノ水の工事が始まった1951(昭和26年当時、小竹向
      原駅が丸ノ内線の起点だったが、地下鉄工事についての営団と住民の許し合いで合意が得
      られず、小竹向原~池袋の工事を断念。1956(昭和31)年に改めて延伸計画を発表した
      のだった。

丸ノ内線の歴史を繙と、復興院の示した丸ノ内線の最初の起点は豊島区向原(都電向原駅付近)と
書かれている。これが一つの混乱の元かも知れないが、板橋区向原から成増までの延伸は1962年
(昭和37年)に決定した話であり、免許もその時に得ている。上記は嘘である。

       地下鉄工事についての営団と住民の許し合いで合意が得られず、

あるいは、以下の行のごとく「住民の合意が得られず」と言う事実も無い。免許も受けずに住民との話し
合い?なんてあり得ないこと。これもれっきとした嘘である。

       しかし、このときも住民との合意が得られず営団は計画を断念している。「三度めの正
      直」と営団が出した小竹向原~池袋の地下鉄建設計画が有楽町線と13号線の建設計画で、
      このときは池袋~小竹向原に地下道路の建設計画もついていて、ついに住民との合意が成
      立。有楽町線の建設は1970(昭和45年に着工するが、その後、起点は東武東上線和光
      市駅に変更され、小竹向原駅は途中駅となってしまう。

それ以前に昭和43年の時点で、成増まで延長免許されてます。

地下道路とやらの真実については天涯さんのブログがロストしたようですので、ネット上の無料地図等で、板橋区立向原小学校の辺りを拡大して御覧になってください。

      そこで営団が最後の手として発表したのが「有楽町線新線」の計画。まさに丸ノ内線の
      当初の計画で断念した小竹向原~池袋間だけを走る路線の計画は住民の反対もなく、
      1994(平成6)年12月に実現したのである。新線池袋駅が有楽町線池袋駅でなく丸ノ内
      線池袋駅の近くに建設されたのは決して偶然ではない。

何で、「最後の手」?何のための「最後の手」?以下が説明ですか?

       営団は40年以上かかって、ついに当初の計画をまがりなりにも実現したことになるが、
      これほど営団がこの路線の建設にこだわったのには、戦時中に当時の政府によって組織さ
      れたせいか、「認可を受けた路線は絶対に実現しなければならない」とする考えが、戦後
      も根強く残っていたことを感じさせる。

「認可を受けた路線は絶対に実現しなければならない」とする考えってのはどこかに記録として残って
いるんですか?上記で言う認可を受けた当時は計画線でしたが、認可免許線とは限らないのですが。
「戦後も根強く残っていたことを感じさせる。」何を持ってそう決め付けられるのでしょうか?必要がある
から鉄道は敷設されるのですが。東上線の混雑緩和バイパスとして、西武池袋線のバイパスとしての
有楽町線。今JRも含めた東京の郊外鉄道で、東京メトロや都交通局との相互乗り入れ無くして都心部
への乗り入れを果たした会社があるか?乗り入れなくして、沿線住民の都心連絡のニーズは果たし
えないのではないか?秋庭さん曰くところの「地下鉄の委員会」現交通政策審議会答申は戦前の地下
網を何とかするために存在するのではなく、円滑な輸送、日々の人々の移動ニーズを確実に実現する
ために存在している。

       新線のトンネルは、1983(昭和58年に有楽町線を建設したときに造ったトンネルと
      しているが、丸ノ内線建設時にすでに線路を地下に敷設していたとしても不思議はない、
      と私は思っている。

 上記を普通に読めば、「丸ノ内線を建設したときに有楽町新線を敷設した」と読めるのですが、
秋庭さんの元来の主張ってのは、「丸ノ内線建設時以前にすでに線路を地下に敷設していた」って
お話ではなかったのでしょうか?

       ちなみに、副都心線(13号線)が開業すると、副都心線と有楽町線新線はつながり、小竹
      向原駅は、またまた途中駅になってしまう。

小竹向原は既に運転上は途中駅であり、名目上の有楽町新線の西側の起点だったに過ぎません。