地下妄の手記 一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その14

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一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その14

 吉村新吉氏の「もぐらの履歴書」読んで見ると、今まで人口に膾炙(マニア間での話では有るが)していたことと異なるお話が、それも成る程と納得できる事や、そうだったのかと言うことが多々出てくる。

 例えば、地下鉄道時代、運転手が使用電力に気を使う様子が描かれている。それは、後日東京高速との相互乗り入れの時の地下鉄と高速の対抗意識の実相として語られていることの一端となっている。

  一般に言われているのは、

青木栄一氏監修の「読む・知る・愉しむ 東京の地下鉄がわかる事典」(2004年日本実業出版刊)では、

 東京地下鉄道の1000形と比較すると、吊手や間接照明などに凝っていた1000形に対し、車内設備の面では実用一点張りの経済的な車両だった。
 しかし、走行性能は90KWモーター2台の1000形に対し、100形は75KW4台という高出力で、のちの直通運転では、高速で追いかける東京高速鉄道の車両に東京地下鉄道の車両が必死に逃げたというエピソードがまことしやかに伝えられている。

 青木氏は「まことしやかに」と書かれて、少し冷静な表現をされているが、マニア系の本・雑誌などでは、出力に劣る東京地下鉄道1000形を東京高速100形がカーチェイスさながらに後ろから煽ると言うような表現として「必死で逃げた」と書かれている。

 これに、私は違和感を持っていた、何故なら、列車と言うものは一閉塞内に一列車だから、前に地下鉄道の車両がいる限り、その後区間の信号は赤。東京地下鉄にしろ、東京高速にしろ当時最新の信号装置打子式ATS装備の車両、東京地下鉄道の車両は必死で逃げる必要が無いのだ。
 では、実相はどうだったのか、

 「もぐらの履歴書」によれば、

高速鉄道との対抗意識

──前略──

  「如何にしたら相手を困らせることができるか」で喧々囂々、

──中略──

 地下鉄の列車は運行番号の末尾に「C」高速は「K」を付して掲出した。(略)
 さてそのK車両は百馬力四個モーターなのに対してC車両は百二十馬力二個モーターである。
明らかに力が違う。しかし敵愾心から対抗しようと頑張ったのである。
 その作戦は浅草で交替して発車する際、後続がK列車となれば、新橋までは我が社の電力、
従って出来得る限り力行を少なく、遅延を恐れず客扱いも気を使わず、ゆっくりと運転。新橋
発車となれば相手さんの電気で使い放題、無理にも飛ばして回復運転。渋谷で相手運転手の顔
を眺めるのだ。カリカリしていればしてやったりだが、ワザとなのかあんまり気にしていない
様子だとガッカリ。帰りは逆で新橋まで歯を食いしばって特急運転、青山一丁目と赤坂見附間
の千分の一の勾配をパラレル投入のまま降りて来る。車体がホームにすれてガリガリと泣く。虎
ノ門を過ぎて分岐部ではオートレースよろしく体を右に左に倒して通過。そうして運転時間に
余裕をもたせて以後ゆっくりと電力を倹約して走る。もちろん高速側も負けてなるかという豪
傑がいて、渋谷を発車して二分三十秒間隔もものかは、各駅で場内待ちするほどゆっくり運転、
それが新橋を過ぎるとこれはまた雲か霞か章駄天か、一回も注意信号を見ないほど飛ばされて、
ホームはお客が満員、汗いっぱいということもあった。
 何せ車両性能がダンチなので仕方がない。

 (もぐらの履歴書 吉村新吉著 2005年文芸社刊71頁「)

  このような記録を見るにつけ、秋庭氏の歪曲、改竄、捏造、摘み食い的盗用がどれ程に酷い妄想であり、嘘であり、地に足のついた現実と乖離している事かと呆れざるを得ません。


74」[市ヶ谷駅]地下43メートル「九段~新宿共同溝」は、どこに隠されている?

関東大震災のあとの帝都復興事業で、当時の東京市長・後藤新平は、最も主要な道路に
天皇の名をつけて「明治通り」「昭和通り」を造った。そして新宿と両国をつなぐ「大正
通り」も計画していたが、陸軍の猛反対で計画は挫折する。

 自分で書いたことを本当に忘れてるのか?それとも・・・?

   関東大震災・・・・・・・・大正12年9月1日
    帝都復興事業・・・・・・大正12年9月14日以降
    東京市長後藤新平・・大正9年12月17日~大正12年4月20日

 天皇の名と元号との関係について当時の政府も時の陸軍も、後藤新平すらも秋庭さんの考えるような、「明治、大正、昭和」と同様な認識は無かった。と言うか、明治帝、大正帝、昭和帝いずれも諡号(追号)であって、震災復興計画時確定されていたと言うか、社会的に了解されていたのは明治帝だけ。繰り返しになるけど、この辺を参照してください。
 市谷と両国をつなぐ復興道路の計画はあったが、当時「大正通り」とは言っていないし、昭和の初期に漸くと盛り場の容態が整う新宿は復興計画の眼目に無かった。また、「陸軍の猛反対」の記録も無い。この事を言ったり書いたりしているのは秋庭氏だけであり、秋庭氏は憑拠を示された例がない。


 靖国神社から東を「靖国通り」として道路が建設されたことは都営新宿線の項で述べる。
それから3年後、靖国神社のある九段と新宿を結ぶ共同溝が完成している。共同溝という
のは、電気やガスを家庭や企業に配布するための配線や配管、電話線などをまとめた地下
道だ。

 九段共同溝の現実と秋庭さんの妄想については、これも繰り返しになるけど、ここに書いておきました。

 ところで、電気やガスって家庭や企業に配布(普通供給って言わないか)する以外に配線や配管する先があるのかね?

 戦前、陸軍は膨大な予算をかけて共同溝を東京の地下に建設し、国民の生活に必要なイ
ンフラだけでなく、軍事機密に属する施設や設備を地下に造っていた。大正通りの建設に
反対したのも、共同溝の上に道路が造られることで地下に隠している機密が露見すること
を恐れたから、と考えられている。

国民の生活に必要なインフラさえも陸軍の予算で構築され、それさえも機密とされたってことですか?国民の生活に必要なインフラを機密にして管理できるんですか?公にせんと管理できないでしょ。一見「共同溝」と「軍事機密に属する施設や設備を地下に造って」と取り分けられているような書き方してらっしゃるけど、文意上取り分けが出来ていないんですが。

 地下43メートルの深さに造られたという、この共同溝がどこに敷設されているかについ
ては、今もわかっていない。東京都水道局に聞いても「よくわかりません」という答えし
か返ってこない。

 おやおや、また、問合せ先「国道工事事務所」から「水道局」へ逆戻りですか?記憶の退行?

  この辺の詳細はこちら

 そこで質問を変え、「どこが一番深いのですか?」と尋ねると「市谷田
町」という答えが返ってきた。「市谷田町」といえば、靖国神社の西側、法政大学のキャ
ンパスのあるところだ。同大学の「54年館」と呼ばれる建物には、なんと地下7階がある。
なぜ地下7階を造ったのかは、謎なのだ。

  法政大学の都内の学舎は主に市ヶ谷キャンパス(千代田区富士見)と市ヶ谷田町校舎となる。また、竣工年で表示する校舎名は53年館(現存せず、現ボアソナード・タワー)、55年館、58年館が富士見にあり、市ヶ谷田町校舎は以前は62年館と呼ばれていました。あと、大学院棟が92年館でしたかね?で、54年館なるものは存在しません。53、55、58年館は当時の工学部教授大江宏の設計になるものです。地下7階があると言う54年館とやら誰の設計なんでしょうか?
 しかも、市谷田町は富士見とは外濠を挟んで対岸の新宿区(旧牛込区)になります。

その西側の外濠の地下には有楽町線が走っており、明治時代に土が埋められて濠が二分
されたという場所でもある。
有楽町線の線路図を見ると、よくわからない路線と交差しているように思える場所でも
ある。

  上記の文をつなぐと、市谷田町の西側に外濠があることになりますが?
  また、交差している「よくわからない路線」ってこの部分の事かしら?留置線(中線)から本線への亘り線にしか見えませんが。アンッ?

 

私には、九段~新宿共同溝はこのあたり、有楽町線と南北線のトンネルの下に埋もれて
いるのではないか、そう思えてならない。


 市谷田町に拘ると、九段~新宿共同溝(いつの間に「~」が入る様になったのやら?)「九段~牛込」共同溝になっちまうぞと散々教えてあげてるのに。本当に東京の地理に疎い人だこと。


75」[麹町駅]かつて、ここにも秘密の地下鉄が走っていた?

 赤坂見附駅のように2つの路線が合流していて、しかも上下線が上下に2段重ねになっ
ている駅は他にない。しかし、単に上下線が2段重ねになっている駅はいくつもある。
 前の駅まで横並びだったものを捻るように2段重ねにして、次の駅ではまた横並びに戻
すというのは、素人が考えても工事は難行し、理想的ではない。

  駅間だけ上下2段重ねにしている路線は無い。駅も含めて、2段重ねだから、秋庭さんにも2段重ねって理解できるわけでしょ。と言うか、この文から、文意が

  「前の」駅(横並び)→「単に上下線が」駅(2段重ね)→「次の」駅(横並び)

って、理解できるか?

 あえて造るとすれば、それにはそれなりの理由がほしいところだが、こうした駅のほと
んどが意味不明なのだ。

  地上の道の広さが関係している事は、各地下鉄道建設史に明記されている。

 たとえば、大江戸線の青山一丁目駅は地下5階にあって上下線は横並び。次の六本木駅
は地下5階と7階、なかを1階とばした不思議な2段重ね構造。次の麻布十番駅は、地下
6階の横並び。なぜ六本木駅が? と考えて最初は道路が狭かったのかとも思ったが、こ
んなに深けれぼ地上の道の広さは関係なさそうだ。地下6階をとばしているのもよくわか
らない。

大江戸線については記録が無いと多寡を括っているのかもしれないが、いくら深くとも、大深度地下利用法に則っていない大江戸線では地上の道の広さをはみ出した部分は、秋庭さんの大好きな「地下補償」の対象になっちまうから、地上への出口部分のみに「地下補償」を止めるためにも、二段重ねにしとるんですが。

 さらに不可解な2段重ね駅が、有楽町線の麹町駅。2段重ねといえば、時計でいえば12
時と6時の位置に線路があり、地下鉄が上下に走っているのが一般的だ。
 ところが、麹町駅の線路は2時と8時、一般的な2段重ねに比べると、60度ずれた半端
な位置に線路があるのだ。

 図示するとこんな感じになります。─(罫線)が駅のホームと思ってください。○(丸印)が軌道部分と思ってください。

  一般(秋庭語によるところの)の二段重ね。
   上段(例えばA線)     ─○
   下段(例えばB線)     ─○

  麹町駅の二段重ね。
   上段(例えばA線)     ○─
   下段(例えばB線)     ─○

  2時と8時とか、60度ずれた半端な位置とかって、書くと如何にもな言い様ですが、駅の構築プラットホームの分を車両のどちら側に取るかの違いだけで、駅隧道部の横幅は道路幅以内に収まります。このことは、有楽町線建設史の429頁に以下の様に書かれています。

この部分は道路幅が15mと狭いため駅の構造は上下型とした。この駅で採用した上
下型構造は,千代田線西日暮里~根津間で採用した上下型と異なり,ホーム部と電車線
部を上下に重ねることにより内空断面積を最少限にとどめた構造とし,工事費の削減に
努めた。

  ちなみに有楽町線では銀座一丁目駅も麹町と同様な構築ですが、ネタが捏造出来なかったか?これについては秋庭さんダンマリ。
  日テレ通り(区道)が狭いため、用地の取得に引っ掛からない建物についても、工事の影響が出ないようにするための補助工事に際しての補償とか、作業用地の一時拝借とか、麹町の駅周辺ですら大揉めに揉めたことが「有楽町線建設史」に書かれています。市ヶ谷から新宿通りまでの日テレ通り全行程に並行した線路を敷くとなると、用地補償の金額が豪いことになるだけじゃなく、この辺の大型ビル(当時)の基礎、それをクリアしてその下にトンネルを掘らなきゃならないので、工事も手間隙掛かる難工事になることが見えているから、上下二層のトンネルと駅になっているんですよ。麹町駅は。

 ここまでくると、私の頭のなかはいよいよ混乱してくる。

  別のもんで混乱しているんじゃないでしょうか?

 しかし、いろいろ調べてみた結果、そこは、あの利光鶴松が地下鉄建設の申請をしてい
たルートの上にあることがわかった。利光は、その他に平河町を起点として地下鉄新宿線
を計画していたこともある。いまの紀尾井町1丁目から麹町4丁目までを地下鉄がかつて
走っていたとすれば、しかも2段重ねで走っていたとしたら説明がつく、と私は考えてい
る。赤坂見附~麹町~市ヶ谷をつなぐ地下鉄が走っていたとしたら、麹町駅の2段重ねは
理解できるのだが……。

 利光の申請ルートとは何でしょうか?内藤新宿~大塚の免許線ですか?麹町~市谷間経由地に入っていません。麹町~平河町間も経由地に入っていません。元々秋庭さんが利光の地下鉄として主張されていた経路は三宅坂、平河町弁慶濠沿いに赤坂見附、紀之国坂上がって四谷だったのではないでしょうか?
  利光は「平河町を起点として地下鉄新宿線を計画していたこと」はありません。平河町を起点として計画されていたのは、「小田原町」への線路、後の小田急線のことです。敢えて言えば、利光が当初日比谷公園東側を起点として申請した、免許線内藤新宿~大塚の元となった4路線の経過地が日比谷~内幸町~霞ヶ関~平河町~麹町通り(秋庭さんの言う現麹町四丁目付近)~四谷見附~四谷塩町~新宿二丁目~新宿追分ですが、これも平河町は経過地であり起点ではありません。それが

   いまの紀尾井町1丁目から麹町4丁目までを地下鉄がかつて走っていたとすれば、
   しかも2段重ねで走っていたとしたら説明がつく、

   と言う根拠になるのなら、世の中のあらゆる事がこの二行で説明がつくって言っても差し支えないと思えるのですが。


76」[永田町駅]知られざる地下自動車道が駅の上を走っている?

 地下鉄の駅の上に地下道があることは珍しくなく、地下鉄の断面図にそれを見つけるこ
とがよくある。
 ここに紹介するのは半蔵門線永田町駅の断面図だ。半蔵門線は赤坂見附の交差点で丸ノ
内線と交差して地下6階の永田町駅に入り、この駅を出てすぐの平河町の交差点付近で麹
町から来る有楽町線と交差している。この図にはないが、今は南北線が半蔵門線永田町駅
の上を横切っている。
 図の左に細い長方形が2つ並んでいるのが丸ノ内線のトンネルで、上下2段重ねになっ
ているのがわかる。こうした図ではトンネルの高さは実際の10倍に描かれているので横幅
を10倍に広げないとトンネルの形にならない。
「+10」と書かれているところが半蔵門線の永田町駅だが、そのトンネルは右に上ってい
る。丸ノ内線と交差する地点まで下っていたのが上り坂に転じているのだ。地下鉄のトン
ネルは、このように常に勾配がある。
 この駅の右にそびえているのが有楽町線の永田町駅である。斜めに引かれている線はエ
スカレ一夕ー、横に引かれている線は各階の境目を表わしている。有楽町線のホームは地
下4階にあるが、その上の階の天井が高く見える。
 これは地下2階の床と3階の天井が取り払われて、ひとつのスペースになつていること
を示している。
 この建物の右にあるのが有楽町線のトンネルだ。使われているのは建物に近い2つで、
右端のトンネルはどう使われているのか公表されていない。有楽町線のトンネルは丸ノ内
線に比べると高さが低いことがわかる。
 その上下に3つずつ、高さが有楽町線の2倍ほどある大きなトンネルがある。これらの
トンネルが地下自動車道で、上は補助55号線と呼ばれている。
 この地下道の拡幅工事を有楽町線の工事と一緒に行なったということが建設記録に残っ
ている。

  秋庭さんの妄想の素、有楽町線の建設記録は次の様なものでした。下記で、「平河町二工区」と上がっている工区がその部分なんですが、「施工概要」ご覧の通り、補助55号線道路拡幅と書かれている以外に、それが地下のもんか地上のもんか何ぞと言う説明はありません。

 


  また、秋庭さんが、有楽町線のトンネルの数がどうのこうの、これらのトンネルが地下自動車道と言っている部分は、工区的には、次の「永田町一工区」に当り「施工概要」の冒頭「始端部立坑」の部分です。これが後に地上の鉄道で言えば、駅本屋、出入口や改札等の機能部分がある場所になりました。秋庭さんは、地下道の拡幅が補助55号線の拡幅と「有楽町線の建設記録に残っている」とされていますが、工区が違います。


 こうした地下道は私たち国民には戦前はもちろんのこと、戦後も隠されてきた地下網の
一部で、その改造が莫大な地下鉄建設費をさらに上げる要因になっている。

  面倒臭いので上記工区違いを敷衍した指摘を一点だけ行っておきます。

  何で、「有楽町線」の工事に付随する事象について、有楽町線の線路平面図および縦断面図をお使いにならないで、「半蔵門線」の線路縦断面図それも、平面図部分をカットしたそれで、謎掛けをされているんだろうか?

  他は私より詳しく考察されている mori-chi さんのblogなりを参照されたい。

77」[桜田門駅]庭園の地下には戦前の地下鉄の駅が隠されている?

 永田町駅から憲政記念館の南を通り、カーブしながら国会前庭を横切って桜田濠に出る
と、そこは桜田門駅だ。
 この桜田門駅について『有楽町線建設史』には、
「駅構造は始端部と中央部は2層、終端部は3層構造である。駅上床は将来地下自動車道
路を設置可能な構造とした」
 とある。
 つまり、桜田門駅は駅の上に地下自動車道路を走らせることができるように建設された、
というのだ。しかし、この建設史が書かれてから30年以上も経った現在、道路はできてい
ない。不思議な話だ。
 この道路との関連はわからないが、気になる噂話を2つ紹介しょう。ひとつは、かつて
の建設省(今の国土交通省)記者クラブで話題になった「弾丸20号」という高速道路ができ
る、という噂。国道20号と放射20号の地下に造るというから、日比谷通り、晴海通り、新
宿通りを通ることになる。この道路で丸の内、桜田門、国会議事堂、新宿の都庁を結ぶと
いうのだ。
 もうひとつは、鉄道マニアのあいだで、もっぱらの噂になった話。「有楽町線は有事ル
ートだ」という。朝霞の自衛隊駐屯地、国会議事堂、警視庁が沿線にあることと、小竹向
原、護国寺、飯田橋、永田町、桜田門、銀座一丁目の各駅に地下自動車道路が造られたり、
そのためのスペースが確保されていたりすることが噂の根拠になっている。

  護国寺、飯田橋、永田町、桜田門、銀座一丁目については、「地下自動車道路が造られていませんし、そのためのスペースも確保されていません。」
  鉄道マニアが有楽町線を有事路線と噂した根拠には「市ヶ谷」を経過する事もあったはずだけど、何処いったのかな?上記のような事情ですので、テッちゃんは固より軍ヲタも、有事路線の根拠に「自動車道路がどうたらこうたら」と言う様なことは言ってません、これは秋庭さんの創作です。

 2つともリアリティのある話だが、私はこの桜田門駅の上のスペースこそ、かつての地
下鉄新宿線だったと思っている。

  ひょっとして秋庭さんは、「駅上床」ってそこにスペース、空間が作られていると思っているのかな?設置可能な構造ってのは、この駅の上に地下自動車道路のトンネルを開削で造っても載せられる様に、なるべく平に、地下一階部分や駅構造部分が飛び出してませんよ、上に載せても大丈夫な様に丈夫に作ってますよってことなのに。

  というのも、すぐ近くに地下鉄の駅にするにはピッタリ
の場所があるからである。その場所は国会前庭の地下、地図に「地下鉄桜田門」と書かれ
ているところだ。実際に行ってみると換気口があるだけで、ときどき地下鉄の走る音が聞
こえるが本数は少ない。

  この換気口については、ここを参照ください。この換気口が8、9号連絡側線のものだとしたら、ときどき地下鉄の走る音は聞こえません。何故なら、滅多に該線を地下鉄は走らないからです。少なくとも秋庭さんが実調に赴かれた時には一日に、有って2~3本が利用するかしないかじゃなかったかと思われます。何故なら該線の目的は下記の様に検査のため、それも全検のための回送線と言うことだからです。今年から新木場発着の小田急ロマンスカー(利光の思いが具現化した?)が仕立てられることになりましたので、昼間一定時間にこのロマンスカーの走行音が聞こえるかもしれません。この換気口が8、9号連絡側線のものだとしたらね。
  でも、この換気口からはもっと頻繁に、昼間は、ほぼ2~3分間に一度、列車の走行音が聞こえます。だって、この換気口は丸ノ内線のものですから。

 ここを走っているのは8~9号線連絡側線という線路。有楽町線と千代田線の連絡線で、
有楽町線の車両を千代田線の綾瀬駅近くにある車両工場で検査するために設けられている、
という。
 しかし、この理由には頭をかしげる。起点の和光市駅にある車庫に検査設備を造るのと、
ここに地下40メートルのトンネルを掘り600メートルの線路を敷くのと、どちらがコス
トがかかるか?
 答えは明らかである。にもかかわらず、和光市駅にある車庫に検査設備を造らなかった
のだ。

  有楽町線池袋~銀座一丁目間開業は1974年10月30日。営団成増と和光市がつながったのが1987年8月25日。この間、13年間有楽町線はどうやって検査、検修してたんですかね?
  如何にも「答えは明らか」です。

 私は、ここには戦前からトンネルがあり、線路が敷かれていたと考える。地下鉄新宿線
の駅が、きっとここにあったはずだ。

  はぁっ、左様で御座いますか。それは重畳重畳(笑