地下妄の手記 大東京の地下400年 九層倍の嘘 擾乱編

大東京の地下400年 九層倍の嘘 擾乱編

31」フランスの築城理論を導入して、江戸の地下を近代化!

 砲弾の射程距離がせいぜい数百メートルだった幕末から明治初期にかけては、海上の戦
艦を砲撃しようとすれば、海岸の山の斜面に砲台をつくればよかった。
しかし、射程距離が5キロ、10キロ、20キロと延びると、山の裏側に砲台をつくること
が可能になり、そのほうが戦艦からの攻撃をかわせることから、意外な場所に砲台がつく
られるようになる。築城理論は大砲の射程距離の延長とともに変化していく。
1871(明治4)年、明治政府は上原勇作陸軍工兵大尉をフランス、ベルギーに派遣し、
フランスの新しい築城理論を学ばせている。上原大尉は帰国後、東京湾に猿島、小原台、
花立の3つの砲台を設計し、留学の成果を帝都防衛に役立てている。そして、お台場には
156門の大砲が据えられた。

  砲弾の射程距離って何じゃらほい?「射程距離」重言だとしても、一応「射程距離」「射程圏」と言う術語があるので、私もそれを使っているし、それを問題にする気は無いんだけれど。以前に書いた様に、砲弾に射程距離は無い。砲に射程はあるけどね。
  ただ、以下に注目して欲しいんだけど、幕末から明治初期と言う時期が正確に何時なのか?仮にペリー来航の1854年から、まぁ、何年でもいいんだけど、秋庭さんが「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」以来間違っている上原勇作陸軍工兵大尉のフランス留学出発の1881年明治14年まで位ってしましょうか。
  そうなんですよ、上原さん1856年のお生まれなんで、1871年明治の4年は厚顔無恥な15歳、いくらなんでもフランス留学には無理がある。で、秋庭さんこれについて「地下網の秘密[2]」洋泉社版単行本、新潮社版文庫本自著の引き写しなんで、全然調べなおしていないから、未だにこの体たらくなんですよね。それはさて置き、秋庭さんここでは、

幕末から明治初期にかけては、砲弾の射程距離がせいぜい数百メートルだった

つまり、19世紀後半に、大砲の射程が延びた、と

築城理論は大砲の射程距離の延長とともに変化していく。

と、そして、その射程が延びつつある19世紀後半に上原は、延びた結果で変化している築城理論なるものをフランス・ベルギーに学びに行って、

明治政府が導入したフランスの築城理論は、17世紀の後半にボーバンという将軍が確立
したものだ。江戸城建設のモデルとなったオランダの城と違って、「水の壁」でなく「土
の壁」で囲まれた城がつくられた。

を仕入れて来たと、こう仰っているんだけれど、17世紀後半にヴォーバンが確立したと言うそんな古い、
上原留学の200年も前の築城理論に19世紀後半に5キロ、10キロと延びた、射程の延伸を盛り込んだ変化が示されていたと?既に論理矛盾を起されているんじゃないですか?秋庭理論は。
  しかも、これほどおフランスの理論がどうたらこうたらと仰る秋庭さん、ヴォーバンの理論なんて言ってるそばから何一つ理解されていません。何一つとして。

「土の壁」といっても、地面に垂直に壁を立てるのではなく、地面の一方を高さ数メート
ルほど持ち上げる。いわば「地面の壁」で城を囲むのだ。壁の裏側には深い塹壕を掘って、
そこに半地下道をつくり、人はここを移動する。
要塞全体の形はバリエーションがあるが、中心にはオランダの城と同じような五角形が
多用されていたり、正多角形の頂点の位置に砲台を設け、敵に十字砲火を浴びせるという
考え方には変わりがない。この築城理論は、大規模な都市要塞ばかりでなく小さな山間部
の要塞にも及んでおり、その両方を混合したものにも利用できるのがメリットだ。
たとえば、外周に大規模な地下砲台を配置しておいて、それより小さい内周に地下弾薬
庫をつくり、敵が攻めてきたときに弾薬を砲台に運ぶというシステムにすれば、各砲台に
弾薬を分散配置しているよりも弾薬輸送の時間が短縮できるのだ。

  筆力無いんだから画や図で示したらって、幾ら言っても解らんらしい。何これっ?

地面の一方を高さ数メートルほど持ち上げる。いわば「地面の壁」で城を囲むのだ。

  別項で挙げた「戦略の歴史 ジョン・キーガン著、遠藤利国訳 1997年心交社刊」(164頁)の図見りゃ解ると思うけれど、「地面の一方を高さ数メートルほど持ち上げる。」どこを持ち上げるんだって?
  「土の壁」とか「地面の壁」って隔壁とか、胸壁とか、陵堡とかって書けないのかね?第一、この時代──もちろんヴォーバンの時代だけど──もう丈のある「城」は囲まなくなっています。秋庭さん自身が後の項で、

「近代築城」は、より低い位置につくるのがポイントだ。

って仰っているじゃないですか。城なんて背の高いものは格好の位置目標になっちまうんじゃないですか。

壁の裏側には深い塹壕を掘って、そこに半地下道をつくり、人はここを移動する。

  壁の裏側に深い塹壕は掘りません。 塹壕と半地下道の違いって何かな?
  塹壕ってのは銃弾や炸裂弾(破裂弾)の破片や爆圧からの避退を目的に掘るんじゃなかったっけ?
  当時炸裂弾なんてものは実用じゃなかった。それこそ、19世紀後半射程が飛躍的に延びた時代、触発、遅発信管の登場まで、炸裂弾(榴弾)なんて無かったんだよね(例外として点火薬を時限発火できるように見積もった導火索を付けた爆弾を臼砲で撃ち出すものはあった)。当時は実体弾だから壁の裏で砲弾破裂しないし、当然壁の裏だから銃弾飛んでこないし、塹壕の必要性は要塞内には無かった。だから「戦略の歴史 ジョン・キーガン著、遠藤利国訳 1997年心交社刊」(164頁)の図には塹壕も半地下道も無いでしょ。
  要塞を攻囲する側には特に工兵には塹壕は必要でしたよ、水濠を切ったり胸壁を崩したり、それこそ陵堡からのクロスファイア下をそれらの発起点に仕寄るために。ちなみにヴォーバン元帥は、築城よりも攻城を得意とされるピオニアーレだったと上記の「戦略の歴史」など物の本には記されています。

正多角形の頂点の位置に砲台を設け、敵に十字砲火を浴びせるという考え方

なぞ、そもそもに存在しないことはここに書きました。

この築城理論は、大規模な都市要塞ばかりでなく小さな山間部の要塞にも及んでおり、
その両方を混合したものにも利用できるのがメリットだ。


大規模な都市要塞と小さな山間部の要塞が混合したもの

  って何?どんな様式なのか、具体的に挙げてみぃ。ヴォーバンの業績や記録って結構残ってるから、今度角川からお出しになるかも知れない御本とやらにお挙げになったらいかがでしょう。仏版のwikipediaに結構写真や図があるようなのでフランス語がお出来になるなら、wikipedia著作権フリーらしいから盗って来られたらいかが。

たとえば、外周に大規模な地下砲台を配置しておいて、それより小さい内周に地下弾薬
庫をつくり、敵が攻めてきたときに弾薬を砲台に運ぶというシステムにすれば、各砲台に
弾薬を分散配置しているよりも弾薬輸送の時間が短縮できるのだ。


  この文章では、

各砲台に弾薬を分散配置しているよりも弾薬輸送の時間が短縮できる

  ことが何も説明されていないのですが、

「各砲台に弾薬が分散配置されていれば、弾薬輸送の時間はゼロ」

ですので、これ以上に時間が短縮されることは無いと思うのですが。

明治政府が導入した、フランスの築城理論を発展させた先に、まえがきに紹介した中村
順平の「地下東京計画」がある。オランダの築城術で生まれた「江戸の地下道」は、フラ
ンスの築城理論で「東京の地下道」へと近代化していくことになる。

  いつの間にか、中村順平の「東京の都市計画を如何にすべき乎」がフランスの250年も前の築城理論の延長上に成り立っていることにされちまいました。秋庭さんの妄想に拠れば、中村順平案はコルビュジエ風の地下要塞計画だったんじゃなかったっけ?ところでコルビュジエの「300万都市」のどの辺に「大規模な地下砲台」が企図されているのかな?


32」「市区改正」の裏側で、地下要塞計画が進められた!

 1889(明治22)年、宮城(今の皇居)に新宮殿が落成した。この年、東京では「市区改
正」と呼ばれる都市計画がスタートしている。それは江戸をヨーロッパのロンドンやパリ
のような近代都市・東京に変えようという計画であった。
この事業には陸・海軍はもとより、各省庁の代表、政治家や東京府の知事、渋沢栄一な
どの財界人も参加して、初年度から東京府の年間予算を超える膨大を予算が組まれた。そ
の財源には国家からの多額の補助金と東京府民にかけられた新しい税金が投入された。

  「市区改正」は帝都東京だけで行われたわけではありません。各地、例えば商都大阪でも当然行われていました。そしてその目玉は、東京も大阪も「築港計画」、つまり内外海運、物流、経済的基盤の確立がまず第一にあったのです。
  東京はそれが太平洋戦争後まで果たせませんでした。秋庭さんが「市区改正」を語る時、いつもそのことがスッポリ抜け落ちています。まぁ、公平性を期する意味で言えば、第一作「地下網の秘密」では「東京港は整備されず」と見当はずれだけど、9文字だけ触れてはいらっしゃいます。
  それはさて置き、

初年度から東京府の年間予算を超える膨大な予算が組まれた。
その財源には国家からの多額の補助金と東京府民にかけられた新しい税金が投入された。


 この点については、ここを御覧ください。「膨大」とか
多額」の現実が見てとれます。秋庭さんはこの予算の話を具体的に説明、証明したことは金輪際ありません。

しかし、5年経っても6年経っても、10年経っても東京は、何ひとつ変わらなかった。東
京都都市整備局が発表している『東京の都市計画の変遷』には、「市区改正」について次
のように書かれている。
東京の都市計画は、明治21年に公布された「市区改正条例」と、それに基づき明治22年
に告示された「市区改正設計」に始まる。
この市区改正設計による計画は、区部(旧15区の範周)の区域を対象としたもので、その
内容は道路、河川、橋梁、鉄道、公園、市場、火葬場、墓地からなり、明治23年に上水道
の計画が追加された。
財源難もあって、市区改正事業が大幅に遅れるなかで、最低限の項目を選ぶ形で明治36
年に「市区改正新設計」が告示された。

 上記の記述、「東京の都市計画の変遷」を秋庭さんに教えたのは、このwikiかもしれません、上のリンク先にアドレスなんぞを貼っちゃいましたから。

つまり、「市区改正」は財源難で大幅に計画の実施が遅れ、最初の計画の告示から15年
後に計画が見直された、というのが東京都の公式見解になっている。

 「東京都の公式見解」?そんなことに公式見解何って権威付が居るんですか?ここで東京都が言っているのは、公式見解じゃなくて、歴史上の事実の表明なんですが。以下の


日本建築学会編『近代日本建築学発達史』 でも「10年経っても1本の道路も敷かなかっ
た」とされている。

 「
近代日本建築学発達史」だって、実際は以下の様に歴史上の事実を表明しています。

2●2―5 事業の開始と問題の発生
22年,東京市区改正条例が施行され,ここに東京市
区改正事業が開始されたのであるが,この“100年の
大計”も数年にして多くの問題に直面した。財政的問
題から焼失跡地を優先させたため事業開始以来10年
たっても一本として完成した道路はなく,いたる所く
し状を呈し,景観的に不体裁なばかりでなく,人力車・
馬車などの急激な増加によって、交通問題は日ごとに高
まったのである。その焼失跡地さえ数年後には財政的
困窮から買収できなくなった。それは24年度から始
められた臨時事業である水道改良事業のため募集され
た公債の償還金が30万円以上50万円以内という経費
制限の枠内から支出され,加えて,物価や賃金の値
上がり,日清戦争による財政緊縮などにより毎年度道
路改正に使える金はまったくわずかなものとなってい
たことによる。事実24年度より28年度の5年間の道
路改正総額は27万円に満たなかった。

10年経っても1本の道路も敷かなかった

んじゃなくて、

10年たっても一本として完成した道路はなく

  つまり、道路は作られているんです。敷かなかったから金が掛かっていないんじゃなくて、金が無いから道路予定地も、江戸の華火事で消失した所から整備していかなきゃならなかったし、それ以外のところの整備はなかなか完成しなかったと言うことなんでしょう。
  似た様な話は現代でも決して無い訳じゃないと言うより、日本全国、くし状でいつまでたっても全線が完成しない道路って一杯有るじゃありませんか。立ち退きで揉めたりとか錯綜する権利関係でなかなか収用が進まないとかで。現代ならさしずめ都道302号線の余丁町通り、拡幅完成までの時間経過。あれ計画から何年掛かった?櫛の歯状のセットバック鉄パイプでバリケード状にしてからだって、3年以上掛かってなかったかい?
  市区改正の「地上」の建設にちゃんと、予算は使われているんです。ただ、湯水のように使える予算がなかったと言うのが歴史上の事実。途中から加わった上水道整備に1000万円の公債を発行しましたがその償還金も「市区改正」の事業費用の枠内から支出していたので、道路改正の事業費用(予算)がほとんど無かったと近代日本建築学発達史」にちゃんと書いてあるわけで、

道路も敷かなかった

完成した道路はなく

秋庭さん、得意の歪曲をされているわけなんです。


しかし、当時の資料を読むと、「財源難」とは裏腹の 「湯水のごとく予算が使われた」
形跡があった。

「湯水のごとく予算が使われた」とは、どう言う事でしょう?
市区改正の予算は市区改正以外には使えません。上水道事業は、臨時と言えど「市区改正」事業の一部ですし。重ねて言いますが、予算使途その内容についてはここで明らかになっています。
秋庭さんの言う「形跡」とは何なんでしょうか?

本当に10年以上も何も行なわれなかったのだろうか? 大きな疑問を抱い
た私は、資料を探し歩いた。

探し歩いた結果、すなわち「資料」が以下の図と言うことの様なんですが、これは、秋庭さんが

「10年経っても1本の道路も敷かなかった」とされている。

と言う状況を見出した、日本建築学会編『近代日本建築学発達史』のその「10年経っても1本の道路も敷かなかった」、正確には「10年たっても一本として完成した道路はなく」と書かれた、その箇所の上に描かれている図なんですけど、探し歩かれたんですか?同じ本に書かれている事柄を。それは回り道をされましたね(笑

ここに日本建築学会が、戦後に公開した「市区改正」 の道路計画第二案がある。ごく普
通の道路計画にしか見えないが、この地図に「1等1類」 の道路として海のなかを走る道
路が描かれている。


         秋庭さんが「道路計画第二案」とされる図

それは当時の佃島砲台と越中島砲台を結んでいる。砲台と砲台を地下道でつなぐのはフ
ランスの築城理論にあり、海底の下に道路をつくるということは地下に道路をつくること
を意味している。そして、今、都営大江戸線がここを走っている。
ただ、地下道建設には大きな問題がある。当時、イギリスで開発されたばかりのシール
ド機を使わなければ、それはできない計画なのだ。これだけでも多額の予算が必要になる。
まして江戸の地下網を近代化するとなれば、地上の都市計画は吹き飛んでしまう。

これが「形跡」なんです。つまり、「形跡」と「資料」って同じものだったんです。

さて、日本建築学会編『近代日本建築学発達史』には、「市区改正」の図版として3版、正確には「新設計」まで入れて4版掲載されています。また、図版は当時のものではなく、近代日本建築学発達史用に当該原稿の執筆者によって用意されたものです。
  まず第一図、「
市区改正」は明治17年の東京府知事芳川顕正の発案から始まりました。発案を具体化したものが「芳川案」です。


  日本建築学会編 近代日本建築学発達史 1972年 丸善刊

  これを叩き台にして内務省内に設けられた「審査会」の案、秋庭さんの言う「第二案」が明治18年に作成されました。


  日本建築学会編 近代日本建築学発達史 1972年 丸善刊

  しかし、いずれもモノならずで、明治21年最終の計画案、東京府に設けられた市区改正委員会の案が作られ、これによって市区改正が実施され始めます。
 何故第二案なんでしょう?市区改正の経過説明が長くなる からダビング文庫では割愛?でも、十分な説明が可能な「帝都東京・隠された地下網の秘密」でも「市区改正設計・第二案」とおっしゃってましたね。で、市区 改正はどの案で行われたんでしょう?第二案と言うならば、第一案があるはずで、何故それをお挙げにならないのでしょうか?
  しかも、今回は公園用地も、運河も、橋も描かれているこの図を「道路計画案」と抜かされておるわけです。相変わらずの自著盗用図の改竄ですか?
  これらの図が、「戦後公開された」のではなく、「
近代日本建築学発達史」の執筆者が同史のために作成もしくは自身の別論文などから転載された、しかも「戦後に作成された」ものであろうことは、「東京都市計画資料集成(明治・大正編)」(監修藤森照信 本の友社刊 1988年)に付された当時の原図の縮刷版や、ここで一部分ですが挙げましたが、都内の図書館なら、或いは、都道府県の中心となる図書館なら、大抵蔵書となっている東京都刊行の「東京市史稿」の附図(秋庭さんの盗用図も含め)との図式の相違のみならず、上記2図あるいは以下の図でも、「浅草」←「淺草」、「渋谷」←「澁谷」と当用漢字で書かれていることからでも理解できると思います。
  また、秋庭さんの第二案=「審査会案」には秋庭さんが後の項で「市区改正」で「坂下通り」と一緒に作られたと主張される「開運坂」どころか、もとの「坂下通り」の影も形も見られないのです。これが東京の地下の設計図なんでしょうか?砲台の位置を示す地下の図なんでしょうか?
  ところが、秋庭式では第三案になるんでしょうか?
明治22年から実施に移された「市区改正委員会」案以下のとおりなんですけど、坂下通りが記されているんですよね。判り易い様にピンクでマーキングしときましたが、秋庭さんの第二案には、開運坂どころか、この第五等の道路影も形も無いんですけど、砲台と火薬庫だかを結ぶと秋庭さんが主張されたこの道路。


  日本建築学会編 近代日本建築学発達史 1972年 丸善刊

  以上の図で、面白いのは、秋庭さんが第二案で、「海のなかを走る道路が描かれていると仰る佃島、月島の埋立地の様子でしょうか。
  
近代日本建築学発達史」の執筆者が苦心が見てとれます。市区改正委員会案が出て来て市区改正条例が公布された時期、明治21年から22年はちょうど佃島、月島の埋め立てが始まった頃に当るからです。そして、秋庭さんが「私はだまされない。」と仰る、

計画から15年も経って計画を見直し、最低限必要な事業だけ実施

した「
市区改正新設計」の頃には、本図及後述の「市区改正新設計案」図のように月島の埋め立てはほぼ完成していたからです。


  日本建築学会編 近代日本建築学発達史 1972年 丸善刊

  次に挙げる図は、東京市が1916年に刊行した「東京市史稿 市街篇 附図 2」に含まれている明治22年の市区改正「委員会案」すなわち「旧設計」図の隅田川河口部分、佃島周辺です。



この時点で、図としてはまだ月島は未造成の状態です。まさに

この地図に「1等1類」 の道路として海のなかを走る道路が描かれている。

んですね。赤い枠線は月島の造成予定部分です。つまり、秋庭さんが「
日本建築学会編 近代日本建築学発達史」から盗んで来た「市区改正第二案」なるものはあくまでも戦後の国民、市民、住民にも理解できるように戦後に作られた図なんで、これをもって海の上に道路が描かれているからって、それが、

海底の下に道路をつくるということは地下に道路をつくることを意味

なんぞしていないってことです。
この佃島の部分をもう少し拡大したのが次の図です。


「東京市史稿 市街篇 附図 2」

 佃島の南に突出して、秋庭さんが

当時の佃島砲台と越中島砲台


と書かれた片割れ「佃島砲台」が「砲臺」と書かれています。また、越中島練兵場と書かれた所に海に突出する形で張出がありますが、これが未成に終わった越中島砲台の跡の様です。どちらも幕末急造の砲台場でしたので、佃島砲台は埋め立てが完了していない状態では残っていましたが、新設計では跡形も無くなってしまいます。




  これが佃島・月島の埋め立てが完了した明治36年の「市区改正新設計案」の図です。委員会案の図と較べてください。私が「近代日本建築学発達史」の執筆者が作図に当って苦心した、と申し上げた点がご理解いただけると思います。
  また、秋庭さんの海底の道路とか地下道とかが以下に根拠の無い戯言かも、ご理解いただけると思います。

上図「市区改正新設計案」の佃島砲台があったと思しき部分、旧設計の15年後でしたっけ?との対比部分(拡大)も以下に挙げておきましょう



  別に、佃島砲台隠顕式に変わったわけじゃありませんよ。折角の新開地に邪魔だから更地に均しちゃっただけです。

もしかして、明治政府は、「市区改正」という大きなアドバルーンで国民の目をくらま
して、その裏側で秘かに地下の要塞計画を実施していたのではないだろうか? 計画から
15年も経って計画を見直し、最低限必要な事業だけ実施しても、私はだまされない。

  明治政府が未来に存在するアホを騙してどないすんねん?被害妄想じゃね?ってか「明治政府は当時の国民の目を眩ませても、私はだまされない。」ってことなら誇大妄想だな。


33」東京の地下は要塞地帯法と軍機保護法で国民から隠された!

1887(明治20)年に、初めて東京の精密な地図『東京五千分の一』が完成している
その翌年には、各省庁にあった地図室が廃止され、すべての地図は陸軍の管轄下に置かれ
ることになり、その次の年に「市区改正設計」が告示された。

   何か、如何にも意味ありげに、一年毎に物事が進むように書いておられますけれど、国家が測量を行って調製する地図の作成機関を陸軍の外局に統合する通達は明治17年に出ていてその時点で秋庭さんが言う

各省庁にあった地図室

  まぁ、実質的には内務省の地理局の測量業務が参謀本部に移ったってことなんですが。それも明治17年に。
  各省庁って土木や農業の測量図は相変わらず夫々の省庁に残ってるし、逓信地図は逓信省の肝いりで民間から出てますし。後世の住宅地図に当る商工地図は専門業者から出てるし。別にすべての地図は陸軍の管轄下に置かれていないんですが。実質的な地図統制は、昭和10年代に内務省によってはじめて実現します。つまり、

1887(明治20)年に、初めて東京の精密な地図『東京五千分の一』が完成している
そのには、内務省にあった測量基準の整備業務などが陸軍省に移管され、
測量成果物としての地形
図の作成は陸軍の管轄下に置かれることになり、その
に「市区改正設計」が告示された。

と言うことになります。要は編年体で書かれても、それぞれ無関係なものを繋がっているように見せているだけのまやかしです。

東京の地上と地下の情報を手中にした陸軍が、それを利用しない理由は何もない。「帝
都防衛」を担う陸軍は、フランスの築城理論に基づいて砲台を建設し、砲台と砲台、弾薬
庫をつなぐ地下道網の整備という大きな責務を担っていたはずだ。
完成した精密な地図に地下要塞計画図を描き、「市区改正」事業の裏側で、厖大な予算
を湯水のごとく使って陸軍は、地下要塞建設を進めていたに違いない。

 「はず違いない」と言う推量が妄想から発生していることは前項で書きました。そしてこの「はず」と「違いない」も、前項の
形跡」と「資料」って同じものと言う構成と同様なものから成り立っていることが、時間と出来事がループしている上記5行から読みとれると思います。
もちろん、「厖大な予算を湯水のごとく使って陸軍はと言う妄想の根拠が形跡」と「資料」に有る事は言うまでもありませんね。

しかし、軍事機密を公にすることはできないから、1899(明治32)年、明治政府は要
塞地帯法と軍機保護法を同時に施行して国民に目隠しをしたのだ。東京の地下を見ている
と、そんな歴史の裏側が透けて見える。

  要塞地帯法と軍機保護法の関係、目的についてはここに書きましたが、秋庭さん今も両法の条文読んでないのでしょうか?前回秋庭さんが両法に就いて書かれた時、秋庭さん「軍機」を「軍事機密」じゃなくて「軍隊の規律」と誤認していた節があったけど。今度は大丈夫?
  重ねて言い
ますが、

  ①東京は要塞地帯法の指定する地域には掛かっていません。特に秋庭さんが主
   張する「市区改正」が対象とする場所は、まるっきり掛かっていません。
  ②要塞地帯法、軍機保護法とも一般法です。一般法廷で裁かれます。従って当時
   の法律でも、軍機保護法に抵触したと言う犯罪事実を秘密にすることは出来ませ
   んでしたし、逮捕事実、起訴事実において何が軍機だったのかを明かさざるを得
   
いと言うことになります。
  ③軍機保護法は要塞地帯法によって為された行政行為の結果を軍事機密として
   保護することを目的に作られた法律でした。

  こんなもので、我が帝国陸軍は皇都の地下の秘密とやらを、どうやって護ったのでしょうか?


当時の文部省があった場所に今は東西線竹橋駅があり、駅のあるビルはなぜか地下7階
まである。海軍省があった場所には今、日比谷線霞ヶ関駅があり、霞ヶ関には地下鉄が3
路線も走っている。大蔵省と内務省のあった大手町には今、地下鉄の路線が5路線も集中
している。いずれもそうしなければならない合理的な根拠はない。

  明治初年東京に首都機能を持って来るにあたって、郭内凡そ江戸城外掘りの内側について大名屋敷は省庁用として、旗本邸は明治政府官員用として上地(知)しました、大名屋敷ってのは江戸城の東側を囲むように建ってましたから、竹平町から、大手町、丸ノ内、霞ヶ関大名屋敷ばかりなんですから、役所が入って不思議は無いんです。役所があればこそ、三菱は丸の内を手に入れ、秋庭さんは書いてませんが、同様に三井は大手町~日本橋を手に入れ、それぞれの地を拠点化したわけで、その結果、通過地としてではなく、目的地として交通機関がやって来ている訳でしょう。それを合理的根拠が無いなんてよく言うもんだ。
  霞ヶ関に地下鉄が3路線って?大手町に5路線って駅名で言ってる?地域で言えば、もっと路線は増えるよね、路線の集中ってそう言う事じゃないのかな?その地域が東京都内での拠点だから交通機関も集中する。そう言う事なんだが。

  だって、駅名で言えば、「飯田橋」はどうよ有楽町線、東西線、南北線、都営大江戸線と4路線、構内で連絡可ならば、「赤坂見附」と「永田町」だって5路線、「新宿」はどうよ丸ノ内線、都営新宿線(京王新線)、都営大江戸線、皆新宿じゃん。「渋谷」は?銀座線、半蔵門線、副都心線、「池袋」は?「日本橋」は?「銀座」は?幾らでもあるじゃん、3路線なんざ。反則っぽく言えば、「青山一丁目」や「表参道」も3路線だぜ。

考えられるのは、かつてここに地下拠点があったから、という理由だけだ。官庁の地下
なら「軍事機密」の地下網建設工事をしていても、国民の目にも耳にも入ることはない。
陸軍による地下要塞建設は、官庁の地下から始まったと、私は考えている。

  まぁ、秋庭さんにしてみりゃ、地下鉄の通っているとこ全部地下拠点だもんな。でも上記の通り地下鉄複数路線通っている駅っての、その昔の官庁の地下じゃない方が圧倒的だと思いません?



34」明治以降の要塞建設は、地下に砲台や地下道をつくった!

かつて陸軍築城本部の要塞建設を監督する立場にあつた浄法寺朝美氏(元陸軍大佐)は、
著書『日本築城史』のなかで、明治以降、陸軍が行なつた要塞建設について次のように書
いている。
「近代築城は主築物は地下とし、鉄筋コンクリートづくりだ。砲座は、露天のものは偽
装迷彩し、砲塔砲台は厚い鋼のアーマープレートで覆われ、隠顕砲台といって、平時は穿
井に隠れ、射撃時地面上に現れ、射撃が終われば、再び穿井に隠れるというものもあった。
弾薬庫、観測所、電灯所(探照灯の発電所、掩灯所、照明座などをまとめて電灯所という)も、
地下鉄筋コンクリート造りで、敵眼から発見されないような掩蔽法が溝ぜられ、術工物は
極力小型として分散配置し、砲爆撃による被害の局限を図った。主要構築物は、砲撃弾の
直撃に耐える耐弾構造物

  再々言っていることだが、引用は書き換えたらその時点でアウトやと。ここの書き換えは、、無意味な書き換えと言うか、書き換え部分、そこだけ秋庭さんの主張にしているんのが異様。

 近代築城は主築物は地下とし,鉄筋コンクリート造である。砲座は,露天のものは,

偽装迷彩し,砲塔砲台は厚い鋼のアーマープレートで覆われ,隠顕砲台といって,平時

は全く穿井に隠れ 射撃時地面上に現われ,射撃が終れば,再び穿井に隠れるというも

のもあった。弾薬庫,観測所,電灯所(探照灯の発電所,掩灯所,照明座などをまとめ

て電灯所という)も,地下鉄筋コンクリート造で,敵眼から発見されないような掩蔽法

が講ぜられ,術工物は極力小型として,分散配置し,砲爆撃による被害の局限を図った。

主要構築物は,砲爆弾の直撃に耐える耐弾構造物である

浄法寺氏は、江戸時代の城づくりと区別して明治以降の要塞建設を「近代築城」と呼ん
でいる。

 浄法寺氏は上記の記述の前では我が国での築城の成り立ちを説明されているのであって、江戸時代の城づくりと区別して明治以降の要塞建設を「近代築城」と呼んでいる訳では有りません。
該当部分は以下の通りですが、この文については、元の文全文をここに引用して置いてあります。

 築城は,社会的背景,軍事外交的背景,兵器の進歩,戦略戦術の変化,科学技術特に

築城技術の進歩,経済的発展などに則応して変遷した。

 わが国の築城は,都城,府城(築前太宰府前面に築いた水城や大野城)に始まるが,

楼殿その他の建物が木造であったから,兵火によって,その多くは焼失し,城塁のみか

残っている。中世に至っても,地方武士の経済力は低く,自然の地形を利用して,小規

模な築城をした。武器は弓,矢,刀,槍であった。櫓なども千本柱を建て,上部に足場

を作ったもので,城郭建築として見るべきものはなかった。戦国時代に入って,各地の

大名は競って城を築き,数百の城が完成し,築城術は進歩した。鉄砲が伝来したから,

城は大規模となり,組織的に複雑となった。末期には天守閣が出現した。近世となって,

城はますます大規模となり,防御的性格のみでなく,地方の政治,経済,文化の中心と

なり,領内統御の施設となった。城は平山城,平城となり,城郭縄張りの複雑巧緻さは,

世界に類例を見ないものとなった。築城技術の進歩と,封建大名の権力によるものであ

って,大きな石塁を築き,天守閣を建て,己が権力を誇示した。近代となり兵器の進歩

は著しく,砲の威力,航空機の発達(爆撃)艦船の進歩に対応する築城の防御配置およ

び編成,守備作戦の方針および任務,構築の原則および要領に変化を来たした。

 築城材料も土,石材.木材から煉瓦,コンクリート,鉄筋コンクリート,金属材料と

発達し,これら材料を駆使する設計,施工法も進んで,近代築城となった。

 近代築城は主構築物は地下とし,鉄筋コンクリート造である。砲座は,露天のものは,

偽装迷彩し,砲塔砲台は厚い鋼のアーマープレートで覆われ,隠顕砲台といって,平時

は全く穿井に隠れ 射撃時地面上に現われ,射撃が終れば,再び穿井に隠れるというも

のもあった。弾薬庫,観測所,電灯所(探照灯の発電所,掩灯所,照明座などをまとめ

て電灯所という)も,地下鉄筋コンクリート造で,敵眼から発見されないような掩蔽法

が講ぜられ,術工物は極力小型として,分散配置し,砲爆撃による被害の局限を図った。

主要構築物は,砲爆弾の直撃に耐える耐弾構造物である。

  ねっ、明治以降なんて書き方して無いんです。如何に秋庭さんが、人様の、史実を基にされた真っ当な論証を自分の都合のために歪めているかが、判ろうと言うものです。

「近代築城」は、より低い位置につくるのがポイントだ。砲台は主に地下につく
られるようになり、弾薬庫も地下につくられた。敵の砲撃や爆弾投下による被害を最小限
にするため、砲台も弾薬庫も1カ所に集中させず分散配置された、という。

  「近代築城」であろうと無かろうと、物理的にも戦術的にも、戦場では高位を占めた方が圧倒的に有利。圧倒的でなくとも一寸だけでも有利だとしても、戦闘部隊は高位を取ります。位置が秘匿できなくてもです。ですから砲台は高台に置かれました。現に秋庭さんも、坂下通りの項で、富士見坂の上に砲台があったと、高位の有利を説いておられましたよね。まぁ、富士見坂の砲台の存在そのものは、噴飯ものなので、ちゃんと否定しておいてあげましたが。どこで信心が変わったんでしょうね?
  第一、秋庭さんが過去に盗用した浄法寺大佐の「築城史」にだってこう書いてあると仰っているのですから。


地下網の秘密[2]単行本86頁、文庫版99~100頁、

  知られざる砲台

洲崎第-砲台の断面図が左にある。これが戦前の砲台のスタンダードなのだという。このようなタイプは「カノン砲塔砲台」と呼ばれ、重さ一トンの弾丸を三〇キロ先まで飛ばすことができる。このような砲台について、以下、浄法寺大佐。

  砲室は地上暴露であるから、これを砲身とともに秘匿するため、付近に倭樹を植え、所々に常緑の植木鉢を配し(洲崎第一砲台その他)

  「砲塔は地上暴露」と書かれていますよね、洲崎第一砲台は40サンチ砲だったかな?連装ですから砲塔部だって相当巨大、40口径だったとしても砲身だって8メートルは砲室から突出してるでしょうね。こんだけ暴露してるものが地下なんですかね?
  ヴォーバンどころか「近代築城」の理屈もなぁんも理解できてないんですね。そうかぁ、その理解力の無さの表出が「地下」への傾斜でしか代償できないって訳ですね。いやーっよく解りますなぁ、そのリテラシーの無さが。

砲台や弾薬庫が置かれた場所は地下道で結ばれ、その地下道は通常1キロ前後、長いと
ころでは2キロを超えた。そして地下砲台の周囲8キロは1899(明治32)年7月14日か
ら「要塞地帯法」が適用された。
同法によって要塞の防備状況は国の最高機密とされ、公表されなくなった。要塞内での
測量、撮影、地表の高低を変える土木工事、土地利用の変更、道路や鉄道の建設など、要
塞内のあらゆることに陸軍大臣や要塞司令官の許可が必要とされた。

   この辺の滓みたいな戯言についてはこちらで論破しています、一応浄法寺大佐の原文を以下にあげておきますが、詳細は面倒臭いからそちらを読んでください。ところで、「参謀本部次長」の許可とかって戯言はいつ撤回されたのかな?

 

日本築城史(浄法寺朝美著 昭和46年 原書房刊97頁~99頁)

2 要塞地帯

要塞の周囲一帯の一定区域を要塞地帯という。要塞の防備状況は,国の最重要な機密事項として公表されず,ただ明治32(1899)年制定公布の,要塞地帯法に基づいて,要塞の建設されている地帯のみが公表された。また要塞軍機の保護と防御営造物の保安を確実にするため,要塞地帯法と同時に・軍機(軍事機密)保護法が定められた。要塞地帯法では・各種のきびしい制限を設け・軍楼保護法では,各種のきびしい処罰が定められた。要塞内にある各種砲台の位置・種類・性能・形式・兵備・強度と付属機関の編成・配置・種額・性能・強度が判明すれば,攻め易く,要塞の価値は半減するからである。

要塞地帯の幅員は,防御営造物の各突出部を連絡する線を基準として,この線から外に,一定の距離250間(約455メートル)を第1区,750間(約1,370メートル)以内を第2区,2,250間(約4,100メートル)以内を第3区といい,第 1区においては,可燃物質の家屋・倉庫および高さ2間(約3.6メートル)以上の営造物・客室・固定かまどの新設が禁止された。埋葬地,高さ1.5メートル以上の可燃物質および石炭類,高さ4メートル以上の薪炭・木材の累積,水面における漁獲,採藻,艦船の繋泊,土地の掘削には,要塞司令官の許可を必要とした。第2区においては,第1区よりも制限が緩和されて,可燃質よりなる家屋・倉庫,高さ1メートル以上の築造物,埋葬地の新設,高さ2.4メートル以上の不燃物および石炭類,5メートル以上の薪炭・竹・木材の累積は,要塞司令官の許可を必要とした。第1・第2区を通じ家屋・倉庫その他築造物の増改築にも,要塞司令官の許可を要した。

なお,各区を通じて,要塞地帯内の水陸の形状の測量・撮影・模写・録取および航空と堆土・開墾など地表の高低を永久に変更する土工・溝渠・塩田・排水・灌漑・公園・育樹場・桑園・畑・耕作地の新設・変更には要塞司令官の許可を必要とした。堤防・運河・道路・橋梁・鉄道・トンネル・桟橋の新設・変更には陸軍大臣の許可を必要とするなど,土地所有権に対する制限および一般国民に対する作為禁止など相当厳重な制限が課せられていた。

なお航空は第3区の境界線の外方6,400メートルまでの上空を制限とした。犯した者は軍機保護法によって罰せられた。一般人の撮影や映画のロケーションには,許可あるいは立会を必要とし,不便ではあったが,漁業に従事し,あるいは半農半漁の部落民には,漁場や海草採取場を保護され かえって有利な面もあった。ただ要塞地帯内で,築城実施中の区域(工事現場)や,砲台およびその付属構築物(防御営造物)の周囲には警戒柵を廻らし,一般人の立ち入りを禁止したから,一般にはどんな工事が行なわれていたか,何があるかなどを窺い知ることができなかった。

要塞地帯の区域は,その区域の要所要所に掲示され「許可なくして圏内における水陸の形状を測量,撮影,模写,録取し,または航空することを禁ず」の注意と区域範囲の要図が公示されていた。陸上要塞のみのところは陸軍省の名において,軍港・要港のあるところは海軍省の名において,陸上要塞と軍港・要港のあるところは陸軍省と海軍省の両者の名において掲示した。東京湾要塞は,要塞と軍港を包含し,両省連名で,東京湾要塞地帯区域要図を示した。これには三浦半島全部・東京湾・千葉県の西側を含み,その区域は,海上の相模湾から茅が崎姥島より北上,綾瀬町・渋谷町を通って東に向い,横浜市保土ガ谷区・神奈川から東京湾を渡り,千葉県姉が崎に至る,江の島・鎌倉・大船・戸塚・横浜を含むものである。姉が崎から南総町,ここから南下して房総中央の山々を連ね,加茂町・上総町・清和村・長狭町を経て,外房州の江見町・千倉町に至り,ここから海上にでて,野鳥崎沖6キロ,洲崎沖20キロ,城が島西方沖18キロを通って北上し,先の茅が崎姥島に連なる線に包含された陸海の区域が,東京湾要塞の区域であった。千葉県においては,木更津市・富津町・天羽町・富山町・富浦町・館山市・白浜町・千倉町・丸山町・和田町・江見町などが要塞地帯内にあった。鎌倉・江の島でロケーションをするとき,要塞司令部から立会者がでるという次第であった。

大島には大島第1と第2砲台建設のための,用地買収が終ったが,未着工のため要塞

地帯法は敷かれなかった。



東京の市街地だけでなく、東京湾全体がすっぽり「要塞地帯法」の対象になって。東京
の地下は陸軍が管理するところになり、国民の目から隠されることになったのだ。

  高座渋谷(町)は東京都渋谷区にはありません。神奈川県の綾瀬町(市)は東京都足立区にはありません。

  上記の浄法寺大佐の記述通り、東京の市街地は「要塞地帯法」の対象になっていませんから、東京の地下は陸軍が管理するところとはなりませんでした。
  もういい加減になさった方がいいんじゃないですか、渋谷と綾瀬の嘘を使い続けるのは。