地下妄の手記 赤本屋問題は意思決定高度の問題なのか?

赤本屋問題は意思決定高度の問題なのか?

 

 航空機が着陸を行う時に、内外の要因を確認して進入、着陸を継続するか復航するかを判断する高度をデシジョン・ハイト(decision height、通常和訳:意志決定高度)と言いますが、今回の最後のパレードについては、刊行までのプロセスの中で、この意思決定高度を見誤らなければ、問題は生じなかったとする論調が多かったのではないでしょうか。
 代表的な見解は以下のようなものです。



 「〈盗作〉の文学史」(愚生もすごく読みたい本なんですが、小遣いの関係で未見です)と言う著作もある栗原裕一郎さんと言う方が、平成21年6月17日産経新聞大阪本社版夕刊に書かれた意見記事です。
 さすがに著述家らしい新聞読者にも判り易い記述で、「最後のパレード」の経緯と問題点、そして問題の解消、すなわち他に原著者(著作権者)が既に存在する創作物を出版するに当たって問題にどうアプローチしていくかについての検討をされています。
 私がこれを知ったのは、6月21日頃の2ちゃんねる記事からでした、栗原さんが6月18日に書かれたブログの一部コピー

  産経新聞大阪版6月17日付夕刊に『最後のパレード』事件にかんする記事を書きました。

が「匿名ネット族」の手によって貼られていたことからです。
 当時は、2ちゃんねるニュース速報+にスレッドを立てる元ネタが途切れかけているときでしたので、誰かがアップローダーに懸けてくれるだろうと思っていましたし、仕事も有って、図書館まで出掛けることも考えていなかったのですが、何分にも元記事が産経新聞大阪版夕刊の紙ベースの記事でしたので、「匿名ネット族」にも購読者が無く、わざわざ大阪市内の図書館まで行こうとの奇特な方も無かったのか?はたまた、記事の容態が単純に「報道記事」としてアップ(複写転載)出来ないと判断されたのか?誰も記事をネットに上げられていませんでした。で、致し方なく、当該記事の内容把握のため図書館まで赴いた次第です。

 で、上記の様なご意見としての掲載でしたので、原文を「匿名ネット族」の各位のために、単純に複写転載できないものですから、当該記事を批評する引用として掲載することにしました。だって、著者は「〈盗作〉の文学史」をものされた方ですし。「何だか、中村某の付けんでも良いキャプションみたいだ、」などと言われそうで嫌なんですけど、致し方ございません。

 この記事を読ませていただいた印象は、「硫黄泉の湯船の中の屁」です。何故って、記事の掲載日が6月17日だからです。
 内容も御覧の様に、「新聞の一般読者」には目新しい事実関係が平易に展開されて居られる。私などにはとても書けないようなアキュウレートなものですが、翻って「最後のパレード」問題を追いかけている者にとっては、5月15日の株式会社サンクチュアリ・パブリッシングと社団法人「小さな親切」運動本部との「合意」とやらで新聞2紙に掲載された「似非」謝罪文以降6月17日に至る1ヶ月間の状況は、ほぼ何にも書かれていないからです。
 5月15日以降、大きな動きがオフィシャルに出てきていないということはありますが、しかし、後半で書かれている、中見出しの言う「盗作は回避できなかったのか」と言う検証と言いますか、刊行までのプロセスの中で、この「意思決定高度」を見誤らなかったら、ここで「ベスト・プラクティスが」講じられていたら、とされる記述、これらの方法論も、ネットでは4月20日から5月初旬にかけて出揃っていたものであります。それがこと新たに、6月17日に書かれることはやはり、「硫黄泉の湯船の中の屁」、気が抜けている上に臭いすら誰も気にしない。そのような内容の記事です。更に、これらの方法論が「盗作は回避できなかったのか」についての技術論としての回避策であっても、法の精神の遵守を前提とした回避策ではないことも、「硫黄泉の湯船の中の屁」の様に愚生には思われます。
 当然のことだから、栗原氏はお書きになっていないのでしょうけれど、あれらの技術論の前提には、著作権者の許諾があります。許諾が得られなかったら掲載しない、出版しない。これが大前提です。掲載しない、出版しないそれならば著作権法違反は起こりえないと言うことになろうかと思いますが、当然のこととは言え、あれだけ「新聞の一般読者」に向けた平易なかつ正確な説明をされているのですから、この点は明示されるべきでしょう。
 これが法の精神の遵守による回避策でないことについては、「・・・両者は最初、要約すればそのような意味の抗弁をしていた。無茶苦茶である。著作権法以前に社会常識を疑われるレベルだ。」とお書きになって居られるのにもかかわらず、何故、技術論で回避が可能かと方向付けられ、あまつさえ「著作権者不明等の裁定制度」と言う、便法の規制が緩むことについてその是非を読者に提示することなく、「出版も恩恵を蒙るだろう。」と、書かれるのでしょうか。
 サンクチュアリ社は16万部だかは6月までに回収と新聞の取材に対して言いましたが、既に売り切った、37万部弱について、「小さな親切」運動本部は複製権の許諾はしていないが、著作権料は求めないということで「合意」された様ですが、社内文書から盗用されたと言う、OLC社とはこの点について話し合いがされたのだろうかは不明です。ネットから拾ったと称するエピソードについては、正当な印税支払いのための著作権者の捜索を未だにしていないようですが、これは不問なのでしょうか。少なくとも2ちゃんねる運営との話し合いが行われていると言う情報はネットから聞こえてきません。
 すなわち、裁定制度の著作権料供託について書籍刊行後、事後は認められない。だからサンクチュアリ社は刊行してしまったら、「裁定制度」の恩恵を受けようとする際に求められる著作権者を探す努力は不要、著作権者を敢えて探さなくても良い。訴えられるリスクを選択すりゃ良い。著作権法というのはそのような法律のようです。この点を説明せずに、現行の「著作権者不明等の裁定制度」は「敷居が高い」、これが緩和されると盗作は回避でき、「出版も恩恵を蒙るだろう。」と言う結論付けがなされるのは、紙面の関係、字数の関係とは言え、これも、「硫黄泉の湯船の中の屁」としか申し上げようがありません。
 大阪独特の、今は亡き夕刊紙文化の担い手「大阪新聞」の流れを汲む、産経新聞大阪本社の原稿依頼時期や掲載時期にも問題があったのかもしれません。これも、「硫黄泉の湯船の中の屁」の因かと思われます。

                                                                               平成21年6月28日付