地下妄の手記 大東京の地下400年 九層倍の嘘 焦爛編

大東京の地下400年 九層倍の嘘 焦爛編


  その人が発言してもいないこと、思ってもいなかったことを勝手に忖度(捏造)して、その人格を歪曲し、自己の都合に良い様な見解の憑拠とする、ビジネスモデル。
  秋庭さんの専売品だと思っていた、この重篤な人権侵害を、いとも軽やかに実行なさる方が、秋庭さん中村克さん以外にも複数存在することに、迂闊にも最近気が付いた次第。
  特に、この方なんですが、

http://www.kofuku-no-kagaku.or.jp/profile/
http://www.irhpress.co.jp/pickup/h0253_254.shtml

  どうやらビジネスモデルとしては、この方の方が古かったようですね。
  こう言うの、生きている方、意思の表明が出来る方からは、金輪際なさらないんですな。
  なんで、死んだ方からじゃなきゃ出て来ないんでしょうね。霊力があるなら、死んでいようと生きていようと、対象物の意思はイタコさんの口から出てこなきゃ変じゃないですか。
  ネーム・ドロッピング的に、著名な方が
亡くなられてから、つまり自分の意思と責任において発言が困難
になってから、「亡くなられた方は彼岸からこの様に仰っています」、と御託宣なさる訳なんですけれど、何で著名な方ばかりなんでしょうね?やはり歴史的な実績が御有りになるから、それが歴史書とかで、本人さんの行為と認定されているからなんでしょうか。
  中村さんのように、「オバマはこう考えているに違いありません」とか秋庭さんのように「北原副団長はこう言いたかったのではないだろうか」とか生身の人、それこそ生きている人も死んじゃった人も関係無しの、十把一絡げで人格の捏造しちゃう、ビジネスモデルとの違いは、亡くなられた方の、それこそ死人に口無しなところで、所謂口寄せをなさると言う巧妙さがあるところなんでしょうね。
  でも、松下さんみたいな、新ボトケ、まだ生暖かい体温が世の中のあっちこっちに残っている方の「霊言」って不味くないのかな?名誉毀損、原則故人でも成立しちゃうでしょ。色んな権利は孫まで残るから、直接的な被害が出かねないじゃないですか。最後は信教の自由で逃げるつもりなんでしょうけど、際どい阿漕な商売ではありますよね。
  これに較べりゃ、中村克も、秋庭俊も児戯に等しいと言うことなんでしょうが。


  それはさておき、秋庭さん、角川から暮れには出します新刊。
  森林太郎創案「東京方眼図」で浮かび上がる東京の地下たら何たら、と仰ってた2008年10月から1年半。角川本はおろか、何の新しいものも無く、ご本人の社会への露出も皆目に消息不明、音信不通。

  これが、秋庭さんの諸作の虚偽性、その作法の手段たる盗用、捏造、改竄、歪曲にマスコミ各位が気付かれて、真実と称する(ノン)フィクションが如何に悪質なものか理解された結果ならば、御同慶の至りなのでありますが、如何なものでしょうか。

  斯様に張り合いの無いことでもあり、暫く記事作成も止っておりましたが、この地下妄と言うビジネスモデル、出しゃぁ売れると言う結構美味しい商いなんで、2年も空けば、ほとぼりも冷めたってことで、またぞろ怪しげな蠢動もあるやと、何しろ春ですから。丸ノ内線建設史ももうすぐ著作権の保護期間切れますし、予防接種のつもりで、取り敢えず、チョッとずつでも引き続きその虚偽性を晒して行くことにしましょう。


  49」利光送電図の謎──海軍省の中庭に地下鉄夕-ミナル!

   東京市内外交通委員会の計画にある、新宿から四谷までが高架で、四谷から溜池までが
  地下という「新宿・葵線」は、新宿で西武鉄道と連絡することになっていた。というのも
  西武鉄道の創業者・堤康次郎と後藤新平が懇意だったことから、といわれている。

   しかし、この路線の認可を受けたのは堤康次郎の西武ではなく、利光鶴松の小田急だっ
  た。なのに、地下鉄新宿駅は、今新宿プリンスホテルがあるところ、西武・新宿駅にあっ
  た。認可を受けた後に小田急が提出した「送電図」(前ページ)を見ると、明らかだ。


  この部分は「新説 東京地下要塞」(講談社刊)からの駄ビングですが、駄ビングとしての劣化はありません。元々が劣化記事だからですが。
  この駄ビング記事は、ここで既に否定していますし、駄ビングを改めて論考するのも無駄ですので、
はい、この部分は──「後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道」 壱──参照

はい、否定。論考終わり。
まぁ、念の為申し上げれば、秋庭さん自身も再々に亘って、ご自分の話が極めて怪しいことに、上記本文をはじめ論及されています。

   東京市内外交通委員会の計画にある、新宿から四谷までが高架で、四谷から溜池までが
  地下という「新宿・葵線」

内外交通委員会の「新宿・葵線」とやらは、新宿─四谷は当時は存在しなかった今の靖国通り、この靖国通りに当る経路を高架で走る計画。一方以下に記載のとおり、「そこから丸ノ内線と同様に新宿御苑前、四谷三丁目、四谷と走ってくる」と、今の丸ノ内線は地下線になっている上に新宿通りを走ってますけど、書いてて矛盾に気づかなかったんですかね。

  そこから丸ノ内線と同様に新宿御苑前、四谷三丁目、四谷と走ってくるが、四谷の駅は
  JR
の四ッ谷駅ではなくて、今の丸ノ内線の四ツ谷駅の場所にある。単なる机上のプラン
  なら、わざわざJRの駅から離す理由がない。なぜだろうか?

  もうひとつ、不思議なのは、認可されたのは日比谷公園から新宿までだったが、送電図
  では、ルートは日比谷公園の外、海軍省の中庭に起点が置かれている。となれば、この地
  下鉄は一般の国民が利用する地下鉄ではなかったのだろうか?
  当時地下鉄の軍事的な利用が考えられて何の不思議もない。そもそも東京に地下鉄を
  つくることが求められたのは、空爆に耐えられる防空都市づくりのためだった軍事的利
  用が地下鉄建設の第一の目的だったのだ

はい、この部分は──「後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道」 弐──参照

はい、否定。論考終わり。
これも、ついでに言うと、送電図では、秋庭さんの言う「利光の地下鉄」は海軍省の中庭を走っていません。海軍省の北「司法省・大審院(現在の法務省)」のところを走っています。



  不思議といえば、まだある。小田急はその後、日比谷公園から大塚までの地下路線を返
  上して、東京-小田原間を地上で結ぶ路線(今の小田急線に近いルート)に変更している。そ
  して、「新宿葵線」の起点を新宿プリンスホテルから新宿三丁目に変更している。


  はい、この部分も──「後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道」 参──参照

はい、否定。論考終わり。

  同じ「新宿葵線」では、1923(大正12)年に東京市が終点の葵町から東京駅までの路
  線を計画。その半年後に小田急から地下鉄の認可を引き継いだ京王電鉄が、「新宿葵線」
  の起点・新宿三丁目から新しいルートを申請している。
  新宿プリンスホテルの下を通って左にカープ、千駄ヶ谷、今の大江戸線国立競技場前駅
  付近に向かうルートの申請をしている。当時は練兵場しかなかった千駄ヶ谷だ。どう考え
  ても、京王電鉄の事情でなく軍事的な事情による変更としか考えられない。
  東京の地下はビジネスとしての魅力をしだいに失い、本来の軍事色を濃くしていく。


はい、この部分は全部歪曲、捏造の産物ですね。
──
虚言の極北 「新宿・都営軌道」 ヒィィィィィ(゚◇゚;ノ)ノ──

──
【補遺】 虚言の極北 「新宿・都営軌道」 ヒィィィィィ(゚◇゚;ノ)ノ──

はい、秋庭さんの妄言極まれり。


50」四方八方に地下道がつくられた国会議事堂の地下の謎

 国会議事堂の建設が始まったのは1920(大正9)年とされている。しかし、当時、官
庁の設計を担当していた大蔵省の下元連氏の著書『国会議事堂建築の話』によると、19
18
(大正7)年7月に工事に着手したとある。


 変ですね?下元連の著書の着手日付と対比するなら、1920(大正9)年はどの資料から引っ張ってきたかも書くべきじゃないのでしょうか。そして、地下本の輝かしい第一作「帝都東京・隠された地下網の秘密」で、さんざ引っ張り出して嘘ばっかり吐き捲くり、原設計者の名誉を蔑ろにし倒した議事堂設計コンペの記事がどっかへ行ってしまっているんですが?

 この2年間、どのような工事がなされていたのだろうか? 何か公にできない工事がな
されていたのだろうか? その詮索はともかくとして、話を前に進めよう。

 だから議事堂設計コンペはどうしたの。秋庭さんの一連の著作の目的は、その「公にできない工事」とやらの真実を暴くことだったんじゃないのですか?何処ぞのオバハン見たいに「公にできない工事」を詮索することなんですか?「この2年間、」工事がされたのかされなかったのか、どんな工事がされたのか、証拠を出して明確にするのが、秋庭さんの仕事じゃないの?

 『総覧日本の建築』1987)という事典によると、国会議事堂は工事開始から16年かか
1936年に完成している。その間に関東大震災を挟んでいるとはいえ、想像以上に
長期間を費やしてつくられたことがわかる。

 後の段落で、「帝国議会議事堂建築報告書」を出しておられるのに、何で、単なる建築物の便覧のような 『総覧日本の建築』の記事を信用するのかが意味不明ですね。
 で、その記事をある部分で信用するが、ある部分では信用しないと自分の都合で使い分けするのは如何なものなんでしょうか。1936年の16年前は1920年、この着工年は『総覧日本の建築』を信用しないんですね。だって、だって下元によれば、「国会議事堂の工事は1918年から始まった」って書いちゃってるじゃないんですか?
 「帝国議会議事堂建築報告書」は大蔵省営繕管財局が編纂した正式な現国会議事堂の建築記録として刊行され内外諸官庁、教育機関、図書館、各国大使等にも贈呈されたものですから、秋庭さんは、異説を上げるなら、公式の記録についてもちゃんと対比しないといかんのじゃないの?

 驚いたことに、国会議事堂は「施工者不詳」とされている。古代の神社仏閣やピラミッ
ドならいざ知らず、今からわずか70年ほど前の建物、ましてや国家的建築物だ。施工者が
隠されているとしか思えないが、隠す理由が私にはわからない。


 「施工者不詳」と言うのは、「総覧日本の建築」にそう書いてあるだけです。で、「総覧日本の建築」の凡例を見ると、「f.施工 元請のみ記した。」とあります。施工者不詳、「隠されているとしか思えないが」何んてことは無いんです。「帝国議会議事堂建築報告書」には営繕管財局による国の直轄事業と書かれてませんか?直轄事業に元請はありませんから。

わからないといえば、「SRC3階」と書かれていて、地下はないということになっ
ているが、国会議事堂と衆参両院の議員会館、分館とはエスカレーターのある地下道でつ
ながっていることはよく知られている。なぜ、『総覧 日本の建築』はそれを伏せている
のだろうか?


 SRC3階」も複数の資料ではなく、「総覧日本の建築」の国会議事堂の欄にそう書かれているだけです。これも「総覧日本の建築」の凡例には「g.規模・構造 (前略)近代洋風建築、現代建築は地上階数(塔屋を除く)、延べ床面積を記した。」と書かれています。地下の有無や階数には責任をもっていないんです「総覧日本の建築 日本建築学界編 3東京」は。
  秋庭さん自身が下で書いているように、正式の建設記録「帝国議会議事堂建築報告書」に地下駐車場建設の記録があるんですから、『総覧 日本の建築』にもし秋庭さんの言う様な記述があるなら、『総覧 日本の建築』が間違っていると言うことでしょう。別に誰も隠している訳じゃありません。秋庭さんも読まれた様に「帝国議会議事堂建築報告書」は都立中央図書館とか、で自由に閲覧できるのですから。自由に閲覧できるのは、この「帝国議会議事堂建築報告書」が、内外にばら撒かれたと言うくらいの量、外国公館とか関係者に配られ公開されてたからなんですね。

地下といえば、わが国最初の地下駐車場というと、建築関係の本には1960年につく
られた「丸の内駐車場」と書かれているが、戦前の「帝国議会議事堂建築報告書」には、
国会議事堂の左右に地下駐車場が建設されたことが書かれている。


 戦前の「帝国議会議事堂建築報告書」

って、何でそんな印象操作をやるのかな?国会議事堂の正式な建設記録なんだから、国会議事堂が出来た
2年後の1938年に刊行されているんで、国会議事堂が戦前に出来ているんだから、建設記録も戦前に出ているに決まっているじゃない。

 1924(大正13)年に建築家・中村順平が設計した「大東京復興計画案・平面図」=
「東京近郊」という地図を見ると、国会議事堂から四方八方に道路が延びている。地上の
道路の方向とは関係なく延びているから地下道のようだ。
これを同じ計画案の「新旧道路比較図」に照合すると、それらは「在来道路」とされて
いて、議事堂がつくられる以前につくられたらしい。

 国会議事堂を囲むようにある地下道は、今の首都高環状線と首都高新宿線に合致し、外
堀に沿って延びる地下道は溜池辺りに地下拠点があり、議事堂裏の地下道は江戸時代の玉
川上水のルートと合致する。
右下に延びるルートは千代田線に、正面に向かっているルートは丸ノ内線に、その先は
有楽町線に合致し、議事堂前庭辺りが地下拠点のようだ。わからないのが右上に向かうル
ートで、まっすぐ延長すると、上野公園から千住大橋(今の日比谷線のルート)につながっ
ている。
国会議事堂は、どうやら地下道が集中する地下拠点につくられたらしい。となると、つ
くられたときには地下があり、その下にある地下拠点や地下道につながるルートもつくら
れたはず。だから、工事期間が16年にもなったのだろう。
しかし、それはすべて国家機密であり、機密の露見を怖れて施工者も地下も陸軍によっ
て隠されてしまったのだろうか。


この戯言については、「大東京の地下400年 九層倍の嘘 錯乱編」の中で、

>  もう、何度も言うの嫌になってきたけど、筆力が無いんだから、ちゃんと絵図を出さなきゃ、読者に言わ>んとすることが伝わんないでしょうが。ここで言う「東京近郊」って何?「はじめに」に挙げておられる自著
>の本からコピーしたので、オフセットのモアレだらけの、中村順平著「東京の都市計画を如何にすべき
>乎」から盗んできたあの図のこと?
> あれの何処に、

>    2つの鬼門を結ぷラインと見事に重なる
>    議事堂から右上に伸びる地下道

>  があるんですか?議事堂からの十方に伸びているように見える白い道路状のものの内、北から東に
>向いているものは、いづれも内堀通りに当たるものに突き当たるとそこから先伸びていないんですが。

と書いたけど、ハィッこれ、



解像度が悪いとか仰いますな。これ神戸市立中央図書館所蔵の「東京の都市計画を如何にすべき乎」に付いてる「大東京市復興計画案 平面図」のコピーです。その今回のテーマ、皇居周辺部分を拡大しています。元の図版そのものが凡そ2メートル四方の「東京近郊」をA4程度に縮小して、銅版に焼いてそれで刷ってますので相当潰れています。そのままでは小さ過ぎて分かりませんので、5倍位に拡大してあります。
  中央が皇居です、皇居の左下、放射状の道路の中心が国会です。秋庭さんの言う「国会議事堂から四方八方に道路が延びている。」と言う実際です。どの道路も1キロも行かずに他の道路と接続していて、実質そこで途切れている、それ以上の延長など何処にも描かれていないものです。
  中村さん元々はこの図について「地下の設計図」と言っていました、描かれた道路が後の東京の地上に存在しないから、この設計図以降に作られた道路が示されているのだと。「地下の設計図」だと。それが今逆転しています。

「東京近郊」という地図を見ると、国会議事堂から四方八方に道路が延びている。地上の
道路の方向とは関係なく延びているから地下道のようだ。
これを同じ計画案の「新旧道路比較図」に照合すると、それらは「在来道路」とされて
いて、議事堂がつくられる以前につくられたらしい。


  地下の道路はこの中村順平の設計図以前に作られたものだと。変わってきています。

  国会の左上に「大公使館」右並びに「官省」と潰れた文字で書かれています。これが中村順平の計画です。都市の政治の中心は閑静な場所にあると言うのが、彼の都市計画で、大・公使館と役所は都市の中心地域に集中させると言うものでした。ですから、道路も山手線の東、銀座なり築地なりの商業の中心の稠密に較べると閑散としているのです。地下の道路が何故商業地域で稠密なのか、秋庭さんは少しも説明していません。
  まぁ、何が凄いって、地上の道か、地下の道かこの図から区別できると言う、秋庭さん。その妄想力の凄さには敬服の他ありませんね。


  ところで、秋庭さんが、「帝都東京・隠された地下網の秘密」以来、あっちこっちで書いている、そしてその出典を絶対明かにしない記事が有ります。

  例えば、「帝都東京・隠された地下網の秘密」(洋泉社2002年刊)の248頁4行目…その先は靖国神社、地下の名所「法大・地下七階校舎」、…
とか、
  「大東京の地下鉄道99の謎」(二見書房刊)の『74」[市ヶ谷駅]地下43メートル「九段~新宿共同溝」は、どこに隠されている?』

  「市谷田町」といえば、靖国神社の西側、法政大学のキャンパスのあるところだ。
  同大学の「54年館」と呼ばれる建物には、なんと地下7階がある。
  なぜ地下7階を造ったのかは、謎なのだ。
    一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その14 参照

こう書かれている、法政大学の「54年館」

   法政大学の23区内の学舎は主に市ヶ谷キャンパス(千代田区富士見)と市ヶ谷田町校舎となる。また、竣工年で表示する校舎名は53年館(現存せず、現ボアソナード・タワー)、55年館、58年館が富士見にあり、市ヶ谷田町校舎は以前は62年館と呼ばれていました。あと、大学院棟が92年館でしたかね?で、 54年館なるものは存在しません。53、55、58年館は当時の工学部教授大江宏の設計になるものです。地下7階があると言う54年館とやら誰の設計なんでしょうか?

    地下の名所「法大・地下七階校舎」、…

何故こんな話が出て来たのか、最近前記の「総覧日本の建築 日本建築学界編 3東京」のページを繰っていて、国会議事堂の項から程近いところにこんな記事を見つけました。



ご覧の通り秋庭さんが「事典」と称する「総覧日本の建築」では法政大学に54年館は存在しません。そして、この「事典」の、法政大学55年館の建坪面積「672㎡」と58年館の「地上2階、地下7階/13,006㎡」なる記述の凄まじさはどうでしょう。
 どうも、この58年館の「地上2階、地下7階」これが秋庭さんの妄想の元となったことは、想像に難くない話でしょうが、地上7階、地下1階の55年館、単純計算で1フロアー当り84平米ってどんな校舎なんでしょうか。
 実は「総覧日本の建築」一事が万事この調子です。生憎私が図書館から借りた本には「正誤表」は付いて居ませんでしたが、もし、付いていたなら、「別冊 正誤表」として100頁位のものが付いてくるんじゃないか、そんな気にさせるほどの、どうしようもない校閲(編集担当者が執筆者の調整も含めて、上手く対応できなかったと言うことなのでしょう。曲りなりにも学者たる執筆者の、校閲しない無責任さも問題ですが。)なのです。
もう少し例を挙げるなら、87頁「日本橋、高島屋東京店(旧日本生命館)」には、「SRC造地上8階地下2階/3,092㎡」とあります。地上部分のフロアーで凡例に延べ床面積とある3,092㎡を割ったら、1階当り386.5㎡簡単に言やぁ、平面で20m×20mの建坪の百貨店、増床を繰り返すのが百貨店と言えど、幾らなんでも。まだ、83頁京橋の明治屋ビル、高島屋と同じ地上8階地下2階5,456㎡のがありえる数字で書かれている様な気がします。
そう、これが秋庭さんの言う、「建築の事典」の正体です。


51」天皇の名を冠した新道路に託した後藤新平の「地下」への思いとは?

  本項も「新説 東京地下要塞」(講談社刊)からの駄ビングです。基本的な検証は以下で集約できますので以下からのピックアップでその虚偽性を明らかにしていきましょう。

  後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 陸
  後生 だからやめてくれ 新宿・都営軌道 漆

  先ず、最初の2行から上記「…陸…」から検証をコピー(赤字で示します)するだけで秋庭式歪曲術が分かります。何せ秋庭さんの記事は新味の欠片も無い粗悪な駄ビングですから。 

    1923(大正12)年9月に関東大震災が起きると後藤新平は、すぐに山本権兵衛内閣の
   内務大臣に就任。帝都復興院総裁を兼務して「帝都復興」計画を立案する。


 後藤新平が震災の翌日に親任されたのは山本権兵衛内閣の内務大臣。これは8月に大命が下った第二次山本内閣の組閣、これが難航して 9月1日が組閣の日、その日に震災が起きちゃった。皇居にも火が及ぼうかと言う状況で、この親任式は赤坂離宮で行われたくらい大変な状況の中での山本内閣の船出。
復 興の詔書が出たのが9月12日。たしかに、救援活動も行われている最中の、被災から日の浅い時期でしたから、早いと言えばそうなのですが、あまりの被災状況に、「東京はもうダメポ」っと言う様な気分が出て来てるし、遷都論みたいなものも人々の口に上される様な、政治的、経済的、社会的な安定を欠きそうな危うい事態になってたから、それを沈静化させるためにも、東京を帝都として復興させるのだと言う宣言を早々に出す必要があったんでしょうね。
そして、後藤は帝都復興院総裁に「就任」したんじゃないんだもんね。先に9月2日山本内閣の内務大臣に天皇から任じられていて、兼職として、9月27日に官制としての帝都復興院総裁に任じられたから、内務大臣と兼任したんだもんね。だから、虎ノ門事件で山本内閣瓦解して内務大臣を免じられたら、兼職としての帝都復興院総裁じゃなくなってる訳でしょ。後藤の恣意に由って帝都復興院総裁になったんじゃなくて、内務大臣になると復興院総裁が付いてくるということなんですね。


    「これまで道路がどこにあったかは考えなくてよい」と、東京の都市再設計を部下に命じ
   たといわれるだけに、後藤の計画は、当時の国家予算の2年分に相当する30億円をかける
   大計画だった。
    しかし、これまであった道路がなくなる、新しい道路のために土地を奪われるとなると、
   後藤の計画は猛反対にあって、当初の予算のおよそ10分の134000万円に予算が
   縮小されてしまう。それでも後藤が強く主張したのは道路建設であった。


 この部分については「…陸…」でも「復興計画の推移については、mori-chi氏の適切な考究」と書かせていただいた“【秋庭系東京地下物語'07《隠蔽》】(第6話)隠された後藤新平「帝都復興」の秘密・その1”
をご覧いただきたい。

  
    東京の外周を一周する環状道路を「明治通り」、東京を東西に横断する道路を「大正通
   り」、東京を南北に縦断する道路を「昭和通り」と、天皇の名を冠して後藤は、「帝都復興」
   計画の柱にしたのだ。その年の12月に皇太子殿下の馬車が狙撃される「虎ノ門事件」が起
   きて翌年1月に山本内閣が総辞職したため、後藤はわずか4カ月で内務省を去ったが、道
   路建設事業は実施され、「大正通り」以外は完成する。

  この部分も、上記「…陸…」から検証をコピーするだけで、秋庭さんの矛盾は明らかでしょう。

 ところで、「昭和通り」、「明治通り」何時名付けられたんでしょうか?
復興計画は大正12年の計画です。「明治通り」と後で出てくる「大正通り」(現靖国通りの東の部分)はその時点で名が付いたと言うことかもしれませんが、

道路に天皇の名を冠するというのは、後藤が市長時代に何度も軍部に計画をつぶされたことか
ら思いついたものだといわれ、つまり、軍部の反対を突破するための秘策だったということであ
る。
(新説 東京地下要塞 講談社刊「天皇の名がつけられた道」より:出典明示の為付記)

「昭和通り」はこの説明と矛盾しますけど。「大正通り」も諡号ですから、この説明からは矛盾となりませんか?「天皇の名」を「元号」と変えてみたところで、「昭和通り」は矛盾じゃありませんかね。

   ここでは、一時は、新潮社編集がビビッたか、「天皇の名」を「元号」と書き換えられたのですが、諸勢力からの実力行使の可能性が消えたと考えられたのか、「天皇の名」に戻されました。結果後藤が大正帝がご在位、摂政殿下ご輔弼にもかかわらず、「大正」、「昭和」と「天皇の御名」を幹線道路に付けたと言う、大正帝に「大正」と言う諡号がおくられるかどうかも分からない時点(「元号一致」が確立されていない状況があった。)で道路を名付けたと言う、事跡の捏造をされているのです。

    「大正通り」は、両国と新宿をまっすぐに結ぶはずだったが、市ヶ谷の外濠がネックとな
   り、計画の東部分、九段にある靖国神社から両国までの直線道路が敷設されて「靖国通り」
   と名づけられた。戦後、外濠の西側、新宿までの道路も「靖国通り」と呼ぶようになった
   が、道路は外濠で分断されている。

  この部分は、今度は上記「…漆…」から検証をコピーするだけで、秋庭さんの矛盾は明らかです。


 「後藤の秘策」功を奏さなかったと言うのでしょうか?昭和2年にスタートした「明治」と大正13年にスタートした「昭和」は陸軍に効き目があって、「大正」が効き目が無かった?天皇の名と言う効果にはそんな斑があるわけですか?

      市谷の外堀を東西に横断できなかったそうである

市ヶ谷の外掘を東西に横断できなかったことにどんな問題があるのでしょうか?「八億円計画」でも、「復興計画甲案」でもこの「幹線第二号」と言われるこの通りは市ヶ谷の外掘りを東西に横断する計画にはなっておらず、現在と同様に九段方向から言うと東南から北西?に中央総武線と外掘りを乗り越える計画でした。そりゃそうでしょう東西に横断する形式だと、少なからずある外掘り通りを神楽坂下、飯田橋方向に向かう車両に不便がでますもの。

ひょっとして、「大正通りは新宿と両国をまっすぐに結べば速度を落とさずに市ヶ谷を通過できるから便利である、市ヶ谷の外掘りを東西に横断すべきである。」と冷蔵庫氏のようなことを考えているのか?秋庭さんは。

もともと、「後藤の?」どの計画も両国と新宿をまっすぐに東西に結ぶ道路とするつもりはありませんでした。神田駿河台の南への張り出しをクリアするため、大正通り(靖国通り)の当初の計画も神田錦町付近で南に逃げています。市ヶ谷の西でも南に逃げていますが、これは陸軍の妨害でも何でもなく、市ヶ谷の台地を避けるためです。その西でも靖国通りは富久町の辺りまで、新宿通りが走る尾根と大久保通りが走る尾根の間の谷地を通っていますので、その谷の地形に沿って微妙の北に南にとブレながら新宿三光町へと向かっていきます。
完全なまっすぐに何の意味も無いのです。

代替案として靖国神社から両国へ向かう道路が敷設され、靖国通りと名づけられている。

代替案ではありませんし、復興計画各案では、新宿と両国を結ぶ道路でもなく、靖国神社から両国へ向かう道路でもありません。基本は内堀通りから九段坂上を経て両国へと向かう道路と言う建設目的でした。

   秋庭さんはろくに政治的信条も、思想的意思も無いのに、出身が出身だけに、自由、人権、民主見たいな風情でその内実は自己の利益だけを確保するのに汲々としている旭日系文化人的なスタンスを取りたがる様です。
   だから、少なからず旭日が加担した、戦争慫慂、侵略慫慂の帝国主義的国策について、その加担の責任の摩り替えとして、加担新聞人による印象操作の結果としての戦前、我が国は天皇制の下、薩長系官僚、政治家、軍と財閥に支配される軍国、帝国主義国家で、市民と称する国民は存在しない世界だったとステレオタイプに規定しちゃっています。
   そのステレオタイプな妄想の結果、明かであるはずの国家機密、国家政策が、隠された、明かでなく曖昧なものとして、描かれ、板垣然り、大隈然り、原敬然り、そして後藤然り、旭日好みの人物像がありそうな者達を、権力の中に在った者達を、反権力の英雄の如くに仕立て上げる。それが秋庭さんの手口です。そして、チンケな犯罪者「秋庭俊」を彼らに同定して、汚名を雪ぐのです。気持ち的にね。
   取り敢えず以下では陸軍が悪者です。

外濠の地下にどのような国家機密が隠されているのか、もちろん誰も語ってくれないが、
東京の地下を握っていた陸軍が道路建設を許さなかったことは確かだ。新しい道路を敷く
となると、あちこちで地下道網にぶつかるからだ。


   陸軍には東京の地下をいじる、責任も権限も何もありませんでした。再々申し上げますが、例え戦前であっても大日本帝国は法治国家であり、法に無いことは官庁である「陸・海軍」すなわち軍部なるものにも出来ませんでした。秋庭さんは要塞地帯法であるとか、軍機保護法であるとかによって国家機密たる地下網の秘密が護られているとか仰っていますが、地下網を作ること、管理することについての法律について一度も言及されたことがありません。そんな法は無いからです。


 都市計画に明るく、内務大臣の経験もある後藤がそれを知らなかったわけはない。知っ
ていて、あえて復興計画に入れたのには、奥の深い、大きな意図が後藤にあったはずだ。
天皇の名を冠しているのは、後藤の並々ならぬ決意と理解すべきだろう。

  秋庭さんは、地下網の造成と、管理についての法を顕かに出来ないばかりか、後藤の「奥の深い、大きな意図」についても顕かにしたことはありません。何故なら、秋庭さんそのどちらも具体的なものを思い付いていないからです。だから、「奥の深い、大きな意図」考えていないから、説明できません。もとより後藤は、幹線道路に「明治」、「大正」、「昭和」など天皇の名を冠してなど居ませんでした。
  最低限の馬鹿にでも解る話をしましょうか。
  後藤は大正13年を以って、震災復興から離れています。従って、後藤が復興計画において「昭和通」を既に命名していたとしたら、大正13年の時点で、「昭和」と言う諡号と元号が定まっていた事になります。
  秋庭さんその証拠を出していただけますか。

 完成した明治通りにも昭和通りにも、陸軍が秘かに計画していた地下道のルートがあり、
これを知った後藤が、意図的に道路を敷いたのではないだろうか。



  まずもって、日本語として意味不明なのですが、敢えてそこに突っ込まずに、聞くけれど、上記の「新しい道路を敷くとなると、あちこちで地下道網にぶつかるからだ。」と言う言い草からは、もう、そこには地下妄が完成していると言うことになっているはずだが、「陸軍が秘かに計画していた地下道のルートがあり、」で何で計画に逆戻りするのかな?
  で「後藤が、意図的に道路を敷いた」理由は何?「いやがらせ?」、いずれ、「奥の深い、大きな意図」に拠っているんでしょうから、「奥の深い、大きな意図」とやらを具体的に説明してくださいね。

 後年、アメリカの都市計画の専門家ビアード博士を招き、陸軍による地下建設に警告を
発する(詳しくは項目68で述べる)後藤のことだ、国家機密とされている地下道網を国民に
知らせ、東京の地下を国民のものにすべきだ、という考えが隠されていると、私には思え
てならない


  チャールズ・エー・ビーアド博士( Charles A. Beard )の最初の来日は震災前の1922年(大正11年)でその時は都市計画概要書を23年6月に後藤に報告し、正式な報告書は震災勃発時には印刷中だった。二度目が震災後の1923年(大正12年)10月7日で、10月28日には復興に関するレポートが朝日グラフで取り上げられている。

と神奈川大学21世紀COEプログラム人類文化研究のための非文字資料体系化中の北原糸子氏「災害写真デジタル化作業の憂鬱」

http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/tyosa/No04/050-058.pdf

に、記述がある。北原先生は、秋庭さんによって、ご存命な方なのに勝手にその心情を評定された方である。

  さて、秋庭さんは「東京百年史」(東京百年史編集委員会 1973年東京都刊)の記述を「警告」と仰っているようなのですが、この、C.A.ビアード、チャールズ・エー・ビーアド(ビアード)博士とは何者か?秋庭さんが上記で、

     アメリカの都市計画の専門家ビアード博士

と言い、「項目68」では

     都市計画の権威として知られていたビアード博士

と書くビアード博士は、アメリカの歴史学者、政治学者でした、「都市計画」と言うより「都市行政」を研究していました。
  後藤新平の招請により震災前の1922年に来日し、東京市政調査会の顧問として後藤から与えられた4つの課題を遂行しました。「東京市政論」から「東京百年史」が写したそれは、
   1.大学・専門学校の学生と日本の主要都市の市民に、自治政、とくに市政に対する深い興味
     を起こさせること。
   2.租税・受益者負担・交通など具体的な都市問題に関するアメリカの実例を知らせること。
   3.市政調査会の組織・調査研究方法などに関する指導を授けること。
   4.東京市政の実際的な調査研究に基づいて、もし自分が東京市長だったならという仮定の
     もとで、博士自身の助言を与えること。
と書かれています。
  ビアード博士は、「都市計画」なんて軟なもんじゃなく、地方行政、都市行政についての実際的な政治学者として、後藤の負託に応え、ときに食事の時にもタイプライターを叩くと言う打ち込み様で、東京市の行政制度について、実調し、将来に亘っての都市政策の検討、その政策を建てる為の調査の仕組みも含めて報告と提言を1923年6月に「東京市政に関する意見概要」として行っています。
  これが北原先生の言う都市計画概要書です。
  本「大東京の地下400年 99の謎」巻末の資料一覧に、「東京の行政と政治」とある本は、震災直後ビアード博士再来日時にもたらされた上記報告「東京市政に関する意見概要」の完全版で1923年12月に日本語訳され刊行されました。翻訳書名「東京市政論」と言い、東京市政調査会より刊行となっています。「東京市政論」は後日、1964年都政調査会より「東京の行政と政治」(副題「東京市政論」)として、再訳再刊されていて、「東京の行政と政治」と言う再訳時の書名は、英文原文のタイトルが“The Administration and Politics of Tokyo.”だった事に拠っています。
  もう、これだけで、

   ビアード博士を招き、陸軍による地下建設に警告を発する(詳しくは項目68で述べる)後藤のことだ、

と言う言い草が、どれだけ、ビアード博士と後藤新平を愚弄しているかが判ろうというものですし、以下の
、秋庭さんが、「街路」とは地下の道の事だとビアード博士が言っていると言う、「項目68」他で引き合いに出される「東京百年史」のこの記述

   「国および宮内省の所有する街路にも、もとより建設修理点灯せねばならぬ。それを市民が負担する法はない。」

  この記事の意図が、全然秋庭さんの地下妄等とは関係の無いことも、「東京百年史」読むまでもなく分かろうと言うものじゃ在りますまいか。

  この「国および宮内省の所有する街路にも、…。」の元の文が、1924年震災直後に再来日を果たしたCharles A.Beard博士の「ビーアド博士東京復興に関する意見」(市政調査資料第五号 財団法人東京市政調査会 大正131018日発行)の21頁~22頁にかけてあります。それは関東大震災からの復興の財政についての項「三 国庫交付金(及び補助金)の基礎」の中に書かれていました。

 何人が復興費を支払うべきか。利己的な見方をすれば本問題は極めて煩わしいものとなる。東京の一部人士は復興費の全部若しくは大部分を国庫に押付けようとして居る。地方の一部人士は東京市に負担させきりにしようとして居る。
 両者共固より誤って居る。茲に適用し得る公正の原則を提示する。そは総ての思慮ある市民の承認を得べきものである。
  第一に、国、府及び市は各自の庁舎を自ら再築すべきことは、何人も承認するところであろう。
  第二に、主として帝都としての美観を高め若しくは要求を充たさんがために新たに建設せらるヽ
   総ての大小街路の費用は、国に依って支弁せらるべきである。
  第三に、商業市、工業市及び住宅市としての東京に関する改良費は大部分受益土地に賦課
   する受益者負担金及び市金庫に依って支弁さるべきである。
  次に同一の改良事業に依って市と帝都とが倶に利益を受くる場合は、その経費の分担に関しては、外国の学説並びに実際に於いて或る一定の原則が樹立されて居る。この点は私の最初の報告書に述べてあるが、茲にその原則だけを略記する。
  (イ)国及び宮内省は市内の大地主である。東京市内に於ける有租地総面積は一一、五四七、
〇一九坪であり、
国及び宮内省の所有する土地総面積は四、一九〇、五一一坪である。

    これ等の財産に隣接する街路は、固より建設、修理並びに点灯せねばならぬ。その他の
    改良事業も私人の有租財産に対すると同様に官有財産に対しても施さねばならね(ぬ誤
    植)。公正の原則に拠れば、専ら国及び宮内省を利する市の改良事業のために東京市民
    租税を納めねばならぬという法はない。加うるに、東京市内には無数の官吏が生活して
    居る。彼等は国の事務を執るために市の街路その他の施設を使用する。故に厳密なる公
    正の立場より言えば、国庫は市の経常費の大部分および改良費の大部分を支弁せねばな
    らぬ。例えばアメリカの首都ワシントンに対して合衆国の国庫が市の主要経費の約半分を
    支弁し居るが如きそれである。


  孫引き曾孫引きで、かつ原文の意のあるところを無視し、部分だけを盗んで来て、自己に都合の良い様に種々捏造した理屈で、改めて修飾して事実を歪曲する、秋庭さんならではの虚言の名人芸ですね。