地下妄の手記 五島慶太と西武軌道

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五島慶太と西武軌道

 文庫版171頁

   東急vs.西武といえば、血みどろの死闘と言うイメージがあるが、『五島慶太伝』に思いがけない記述

  があった。東京府知事に招かれて官舎に行くと、三井物産の社長がいて、西武鉄道を引き受けてくれ

  ないかと頼まれている。

    そこで、彼は阿部知事からの依頼によって新宿から荻窪に至る道路上に西武鉄道を軌道として建

  設する案を立てた。(中略)それを幸い阿部知事からの依頼であったため、どうやら許可になって、彼

  は、荻窪から新宿までの軌道を建設し、これを川越鉄道に合併したのである。

   これは一九二〇年のことだという。つまり、五島は自分の会社の地下鉄に向けては何の動きも見せ

 ず。別の会社のために新宿から先を建設していたことになる。

 として、旧西武と現西武を混同させるように、かつ後に越沢本『東京の都市計画』に現れる「西武高速鉄

道」が五島の手になるように示唆するような、歪曲を上記、『五島慶太伝』からの引用を装って行っている。

 以下、三鬼陽之助の「五嶋慶太伝」(日本財界人物伝全集 東洋書館刊1954年)の原文を

挙げる。

       西武鉄道の建設に着手

   彼が鉄道省をやめて、武蔵電鉄の建設に従事していたとき、のちに、三井物産の社長となった南条

  金雄と、東京府知事阿部浩の二人が会いたいとのことで、芝公園にあった、府知事の官舎に訪問した

  ところ、南条がおり、自分は三井物産の関係でロンドン、アメリカ等海外に長くいて、日本のことを一向

  知らないうちに親爺が西武鉄道を引き受けて、その建設もできず困っている。これを君が何とかものに

  してくれないかとの話であった。これにはたしか今、相模鉄道の社長をしている川又貞次郎も関係して

  いた。そこで、彼は阿部知事からの依頼によって新宿から荻窪に至る道路上に西武鉄道を軌道として

  建設する案をたてた。しかし、淀橋、成子坂附近は道路の幅員が非常に狭いため、車輌の運転がなか

  なかむつかしいとのことで容易に許可にならなかった。それを幸い阿部知事からの依頼であったため、

  どうやら許可になって、彼は、荻窪から新宿までの軌道を建設し、これを川越鉄道に合併したのである。

  当時の営業成績はどうであったか記憶がないが、しかし、この合併によって彼が阿部知事および南条

  から依頼をうけた件は終わり、義理をはたしたので、彼は西武鉄道から一切手をひいたのである。