地下妄の手記 この項余談ながら

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この項余談ながら 京成上野地下線についての嘘



 11月上旬に引越しをしました。御蔭で、wikiの記事作成、更新もままならず、中断。
 しかし、新居で書棚などの整理のため、読み返すと興味深い記述のある旧い書誌が
種々出て来ました。
旧い、と言っても20年ほど前のものですが、博動駅の絡みで、第二次大戦末期の京成
の上野公園・日暮里間の運行休止事情についての記事がありました。
秋庭氏が「帝都東京・隠された地下網の秘密[2]」202頁で1945年3月10日の東京
大空襲にかこつけて、空襲時地下鉄に人を避難させなかったにも拘らず、役人はこの
休止線の地下で快適な避難暮らしをしていたと、言うような書き様をしている、上野の山
の地下線についてです。
こんな書き様です。

   ・・・一九四五(昭和二十)年三月十日。東京大空襲。わが国では地下鉄に避難する
   ことはできなかった。二五〇キロ爆弾が投下されれば、銀座線の駅はひとたまりも
   なく、トンネルのなかを爆風が走ると説明されていた。
    だが、この日、鉄道省を始めとする官公庁の職員は、上野の山の地下につくられ
   た、京成地下鉄のトンネル内に寝泊まりしていた。電車の車両をホテル代わりにし
   ていたのだという。

 まぁ、前巻で昭和19年五島慶太の運輸通信相就任を記述するに際し鉄道省が運輸
通信省に変わっている事書いていながら「鉄道省を始め」と書いているのはご愛嬌なん
だろうか?
 秋庭氏が「・・・いたのだという」、あるいは「・・・という」と書く時は、思いつきか、捏造で
事実がない時なんだけれど。

さて、引用とするには微妙に長い記事なのだが、要約をせずに挙げることにします。
秋庭氏の嘘の実態を明らかにし続けるためにも。

「民営鉄道の歴史ある景観Ⅱ」(佐藤博之・浅香勝輔著 古今書院昭和63年7月1日
初刷)142頁以降「地下駅 1博物館動物園駅(京成)」
その158頁~

   ともあれ、その存続をめぐってまだまだ揺れそうな同駅ではある。しかし、この地下線
  が第二次世界大戦末期の一時期、運行が休止され、列車は日暮里折り返しとなり、
  運輸省の「地下司令部」になりかけた事実を知る人は、意外に少ない。
   さきほども引用した『京成電鉄五十五年史』の七二八ページの「年譜」の昭和二〇
  (一九四五)年四月九日の項に、

    上野公園・日暮里間の地下鉄営業を休止して運輸省に貸付

  と、たった一行の記載があるのみで、それを裏付ける詳しい記述は無い。
   たまたま、昭和六二(一九八七)年一月下旬、小田急電鉄の常務取締役であられた
  秋草裕氏(現・小田急建材ベストン株式会社取締役社長)と会談中、この京成の地下線
  に話題が及んだ際、第二次世界大戦中に国有鉄道の車両をこの地下線に運び込んだ、
  その責任者だった方をご紹介申しあげよう、というご厚意のお申し出があった。

   その「生き証人」とも言うべき人は、現在、小田急建設株式会社の取締役会長の
  柴田元良氏である。若き日の柴田氏が、運輸省の東京鉄道局上野管理部施設課長
  に在任されたのは、敗戦直前の昭和一九(一九四四)年一二月から翌年八月までで、
  その間に、この地下線内の司令室建設のエピソードが展開されたのである。
   昭和六二(一九八七)年九月一〇日の昼下がり、筆者の一人である浅香は、秋草氏
  に伴われ、柴田氏から親しくその間のお話をうかがう機会を得た。
   工学博士の学位をも持たれる柴田氏は理路整然と、四〇余年前のその京成地下線
  での秘史を、鮮明にお話くださったが、以下は当日の柴田氏の談話の要旨である。

    第二次世界大戦も敗色が濃くなったころ、アメリカ空軍の空襲が激化するにした
   がい、当時の運輸省の司令業務に支障がないように、どこか地下に司令室を設け
   たいと、いろいろと探した結果、京成電気軌道〔昭和二〇年六月二五日に京成電鉄
   と社名変更〕の日暮里-上野公園〔現在の京成上野〕間の地下線区間を借り受け、
   戦時下で使用されないまま放置されている一・二等寝台車を、この地下線区間へ搬
   入し、宿泊設備も整った司令室に仕立てようということになった。
    戦局が悪化してきた昭和二〇(一九四五)年五月ごろから着工した。国有鉄道の
   日暮里駅南方〔鶯谷方〕の山手・京浜東北の両線の北行線の線路に、一〇番ポイント
   を入れ、京成の地下線入り口に向けて線路を敷いた。当時は山手・京浜東北の両線
   が線路を共用していたので、山側の谷中霊園側には、このような線路を設ける余裕も
   あり、今もあそこにある外人墓地などを崩すこともなく、軌条が敷けた。しかし、京成の
   国有鉄道こ線橋の西詰付近に取りつくまで〔図-87の写真の右手の石垣の下に、
   それらしい空き地が今も残っている〕に、かなりの急勾配・急曲線の線状で、墓地の
   裾を上がって行くこととなった。
    京成の地下線内は複線敷であったが、当時の国有鉄道の一・二等寝台車を複線分
   入れるには、車両限界の点で無理があったので、当時は一・三七二メートル軌間の
   京成〔現在は一・四三五メートル軌間〕の複線を、国有鉄道の一・〇六七メートル軌間
   の単線に改めて搬入することにした。複線敷の中央部を単線として使用することにな
   ったわけである。ところが、京成の軌条を取りはずす作業に、予期しない苦労が存在
   した。ずい道内で湿度が高いせいか、犬釘がさびついていて、枕木から取り除くのに
   非常に難儀した。
    日暮里駅南方からの寝台車の搬入作業には、当時の上野保線区の職員が当たった。
    毎晩、終電車が通ったあと、田端機関区から、入れ換え用のC一一やC一二などの
   タンク〔蒸気〕機関車を借りてきて、マイテ・スイテ・マイネ・マロネ・スロネなどの高級
   車両を、一両ずつ推進〔あと押し〕で、あの地下線へ運び込んだ。その推進のとき、
   急勾配・急曲線の引き込み線上で、何回か機関車が脱線して往生した。高級車両を
   全部で二〇両搬入した。車両と車両の間の両端に、爆風をよけるために砂のバッグ
   を積んで置いた。
    終戦直前の七月に完成したが、ずい道内の湿気のため通信線が通じず、通信の
   効用が発揮されなかった。あの当時は、通信線が裸線で、現在のように発達して
   いなかったので、やむをえなかったと思う。結局、終戦までその「地下司令室」は使用
   されず、「幻の司令室」に終わった。
    聞くところによると〔柴田氏は、終戦直後の八月二〇日付で、大阪鉄道局に転任
   された〕、その地下線へ搬入した高級車両群は、終戦後すぐに引き出され、占領軍用
   の車両に転用されたという。

  柴田氏は、その後、昭和三七(一九六二)年から三年間、国鉄理事をされ、昭和
 四〇(一九六五)年に小田急電鉄に専務取締役で迎えられ、昭和四四(一九六九)
 年から昭和五六(一九八一)年まで小田急電鉄の副社長を務められ、現在は前記
 のように小田急建設の取締役会長の職におられる。──柴田氏のお話をうかが
 いながら、四〇余年前の戦時下、この博物館動物園駅の地下ホームの前の線路
 に、寝台車などが並んでいた奇妙な光景を想像し続けていた。