地下妄の手記 【補遺】 虚言の極北 「新宿・都営軌道」 ヒィィィィィ(゚◇゚;ノ)ノ

【補遺】 虚言の極北 「新宿・都営軌道」 ヒィィィィィ(゚◇゚;ノ)ノ


◆底本の判明

 新説 東京地下要塞 単行本149頁~150頁

       半年後、いまの京王電鉄から、認可されたルートを次のように変更したいという申請が行われて
     いる。新宿三丁目の起点から新宿プリンスホテルまで行って方向を転換し、千駄ヶ谷・国立競技場
     前駅付近へと向かいたいというもので、いまの大江戸線のルートに重なる。


          特許命令一部変更許可願

       当社電車線路起点の儀明治四十年六月二十五日内務省東甲第四一号をもって特許相蒙り、同
       命令書第一条第一項により
       東京府豊多摩郡内藤新宿町四十八番地先、行政区画の変更により、東京市四谷区新宿三丁目
       四十八番地先に御座候えども同所は、国道上に乗客輻輳の場合は貨物取り扱いの際は、一般
       の交通に支障を及ぼし侯のみならず当社事業上の不便も少なからず候につき同所五三番地と
       し、新設軌道敷に変更致し度候間其の恐縮の至りに御座候へども特許命令中第一条第一項

        一、東京市四谷区新宿三丁目五三番地に起こり、同四一三番地に至る新設軌道敷
          前項終点より東京府豊多摩郡淀橋町を経て大字千駄ヶ谷新町九三一番地に至る国道と変
          更の儀特別の御詮議をもって御許可被成下度別紙図面相添え此段奉願也

       乗客にジャマにならないよう「新設軌道敷」をつくりたいというもので、この申請は認められ
     たにもかかわらず、その後、京王はいまの新宿プリンスホテルヘ、さらに千駄ヶ谷へと地上に線
     路は敷いていない。そもそも、京王からすれば、新宿から千駄ヶ谷へと貨物の線路を敷いても、
     千駄ヶ谷ではほとんど何の商売もできなかった。いまの国立競技場周辺は、当時は陸軍の練兵場
     だったからである。地下鉄がすでにビジネスではなくなったにもかかわらず、小田急は海軍省の
     中庭にターミナル駅のある地下鉄の送電経路図を提出し、京王は千駄ヶ谷へと貨物のための「新
     設軌道敷」を申請していたということである。


のネタ元なのですが、「京王電気軌道株式会社三十年史」等の京王の社史には、この特許の変更について記述がありません。すると秋庭さんどこからこの文を持ってきたのか?
 例に拠って例のごとく、秋庭さん、歪曲、改竄、捏造記事については、その出展元を隠す方ですので、「参考文献」にも本文にも出典をお書きになっておられませんから、すぐには見付けられなかったのですが、漸くこれに違いないと言うのが見つかりました。それは、

  東京市会議事速記録第六号、及東京市会史第六巻285頁大正十三年の項

  東京市は震災で停滞していた、東京府(実質は内務省)等からの諮問事項を大正十三年五月三十日の市会に上程したのですが、その中に、大正十二年十月十六 日付での東京府内務部長から東京市長宛の照会文「軌道特許線變更ニ關スル件」が「諮問第四號」としてありました。京王電軌の申請分です。その添付書類の記 載事項がこれです。

         特許命令一部變更許可願
 當社電車線路起點ノ儀明治四十五年六月二十五日内務省東甲第四一號ヲ以テ特許相蒙リ同命令書第一條第一項ニ依リ
   東京府豐多摩郡内藤新宿町三丁目四十八番地先
       行政區劃ノ變更ニヨリ
    東京市四谷區新宿三丁目四十八番地先
 ニ御座候へ共同所ハ國道上に有之乗客輻輳ノ場合或ハ貨物取扱ノ際ハ一般ノ交通ニ支障ヲ及ホシ候ノミナラス當社事業上ノ不便モ
 尠カラス候ニ付右起點ヲ同所五十三番地トシ新設軌道敷ニ變更致シ度候間甚タ恐縮ノ至リニ御座候へ共特許命令中第一條第一項ヲ
   一、東京市四谷區新宿三丁目五十三番地ニ起リ同四十三番地ニ至ル新設軌道敷
     前項終點地ヨリ東京府豐多摩郡淀橋町ヲ経テ千駄ケ谷町大字千駄ケ谷新町九百三十一番地先ニ至ル國道
 ト變更ノ儀特別ノ御詮議ヲ以テ御許可被成下度別紙圖面相添此段奉願候也
    大正十二年九月二十五日  東京府豐多摩郡代々幡町幡ケ谷一、〇四五
          京王電氣軌道株式會社
           取締役社長 藤井諸照

内務大臣子爵 後藤新平殿
鉄道大臣    山之内一次殿
                            
 どうでしょう、あの

      新宿三丁目の起点から新宿プリンスホテルまで行って方向を転換し、千駄ヶ谷・国立競技場
      前駅付近へと向かいたいというもので、いまの大江戸線のルートに重なる。

と言う戯言を成立させるために、何をどうネグったかが一目瞭然ですね。

            同四一三番地に至る新設軌道敷

は私が推定した通り、

            同四十三番地ニ至ル新設軌道敷

でした。
 他にも、どこかの記述で、「新宿三丁目の住所表示は、戦前からほとんど変わっていない。」と言っちまったもんだから、「新宿三丁目」に曰くを持たせるため、

 東京府豐多摩郡内藤新宿町三丁目四十八番地先
        行政區劃ノ變更ニヨリ
     東京市四谷區新宿三丁目四十八番地先



      東京府豊多摩郡内藤新宿町四十八番地先、行政区画の変更により、
      東京市四谷区新宿三丁目四十八番地先


と、内藤新宿町「三丁目」を抜いておられます。また、千駄ヶ谷の位置を嘘つくため、

 淀橋町ヲ経テ千駄ケ谷町大字千駄ケ谷新町九百三十一番地先ニ至ル國道



        淀橋町を経て大字千駄ヶ谷新町九三一番地に至る国道

と、「千駄ヶ谷町」を省略するなど、例に拠っての省略による改竄のし放題。
  しかも、思わせぶりに、「虎ノ門地下鉄」の市会決議の半年後に京王の申請と書いておられますが。確かに、京王の申請は大正12年の9月25日(府内務部 長からの諮問は10月16日)ですが、震災の後始末でこの申請を市会が答申決議できたのは上記の様に、翌大正13年5月末。しかも、「虎ノ門地下鉄」打ち切りの長尾電 気局長の答弁があったのは、それ以前の大正13年3月17日の市会での出来事です。
 つまり、「虎ノ門地下鉄」と「京王電軌の起点を京王ビルディングにすること」とには、何の因果関係も関連もないと言うことです。

◆底本記事を歪曲

  これらの件の、記述の行程を追っていった結果、秋庭さんの嘘の原点が、あの聖典「帝都東京・隠された地下網の秘密」216頁からはじまる「サミット」と言 う項題だと言う事に行き当たりました。まぁ、「秋庭さんの嘘の原点」は山ほどあるんですが、その中でも大きな方って事で。

「帝都東京・隠された地下網の秘密」216頁(文庫版は288頁)

     このとき後藤は四か月間、内相の地位にあった。その一九二三年(大正十二)九月から十二月
     の間に地下鉄の申請が殺到している。申請の文書には「東京府より照会ありたるところの」など
    という文言があり、内務省のほうから申請を呼びかけていたようだ。各社そろって線路幅を「広
    軌」としているところからも、後藤の存在を読み取ることができる。

      十月十日   京浜電鉄    高輪-赤羽橋-芝公園-大手町
        同     東京地下鉄道 東京-日本橋
       十六日   京王電鉄    新宿三丁目-千駄ヶ谷
       十九日   東武鉄道    浅草-上野-東京
    十一月七日   循環鉄道    品川-上野、目黒-駒沢、渋谷-松沢、西ケ原-千住
       ニ一日   京成電鉄    浅草-押上-小岩-市川-船橋-津田沼
    十二月二七日  京浜鉄道    品川-大崎-白金-明治神宮-原宿-千駄ケ谷

     東京市はこれらの地下鉄建設に同意し、「出願線中の地下線にして本市計画中の地下鉄道線と
    交差すべき箇所は、その上部に本市軌道を敷設しうるよう相当の余地を存せしむること」という
    条件をつけている。

  このあとに有名な「国立公文書館の件」つまり、上記の路線に免許が下りていたかどうかを確かめに、国立公文書館で資料請求をしたら、「年配の女性職員」 に所属省庁を聞かれ、「この資料は非公開です」と言われ、以降「それ以来、私は国立公文書館には足を向けていない。」と言うあの件が来る訳です。

 この項題、どうも地下鉄の申請が頂点を迎えた時期と言う意味で「サミット」とされているようなのですが。
 その申請が頂点を迎えたことの資料底本が「東京市会議事速記録」と「東京市会史」でした。いつものごとく、巻末の「参考文献一覧」のどこにも文献として上がっておりませんし、本文でも出典についての御説明は勿論ありません。
 えっ?「帝都東京・隠された地下網の秘密」なら初出だから「いつものごとく」とは言わんだろうって?文庫版の「参考文献一覧」にも上がっていないんですよこれ。
 さて、京王の申請を捜して行った過程で、東京市会史第六巻二百八十三頁からはじ まる「第拾五節地方鐵道竝ニ乘合自動車ニ關スル件」の記述、それは東京市会議事速記録第六号議事日程第五乃至第十四諮問題四号以降の記録でもありますが、そこに、この「サミット」に挙げられている、申請がほぼ網羅されている ことがわかりました。
 つまり、「帝都東京・隠された地下網の秘密」216頁(文庫版は288頁)の記述は、京王の申請が付議答申された大正十三年五月三十日市会に上程された一連の「電氣軌道支線敷設特許申請ニ關スル件」(議事速記録では「電氣軌道 特許線變更申請ニ關スル件外九 件」)、これを得意の秋庭流で出典も明らかにせずに、〝捏ね上げた〟ものだったということが判明したのです。

 上記の一連の申請と言いますか、許可願いと言いますかは、大正13年5月30日の市会において、
京王の許可願いの「諮問第四號」の後「東京市会史第六巻二八五頁」に

 本案(「諮問第四號」:619注)ハ竹下延保君ノ動議に據リ、左記議案ト共ニ一括附議スルニ決シタリ。

として、一括附議する事となった「諮問第五號」以降の各社の申請と市会の答申が列記されています。

◆底本記事出典内容歪曲の詳細

 諮問第五號 これは京成電氣軌道株式會社の

 東京府南葛飾郡吾嬬町木下百八十番地ヨリ分岐シ東京市下谷區車坂町六番地二至ル電氣軌道支線
 敷設ノ件

 現葛飾区東四つ木から省線上野駅付近への支線建設申請で、秋庭さんの上記の文には有りませんが、京成の市内延伸の申請の一つです。

東京府内務部長からの諮問日付は大正十二年十月四日
京成の申請日付が大正十三年四月二十八日
東京市長から市会への提出日が大正十三年五月九日

市会の答申は「不許可處分アリ度答申セントス」

 諮問第六號 これは京成電氣軌道株式會社の、秋庭さんによると

       十一月ニ一日   京成電鉄    浅草-押上-小岩-市川-船橋-津田沼

にあたるものですが

 本所向島押上町ヨリ東京府葛飾郡寺島村千二百四十六番地ニ至ル既軌道特許線ヲ浅草區茶屋町
 三番地ヨリ千葉縣二宮村大字藥園臺ニ至ル新設軌道敷ニ變更ノ件

で、東京府内務部長からの諮問日付は大正十二年十一月三十日
京成の申請日付が大正十二年十一月二十一日
東京市長から市会への提出日が大正十三年五月九日

市内の具体的な区間は

  東京都浅草區茶屋町三番地ニ起リ隅田川ヲ渡リ本所區竹町、原庭町、松倉町、中ノ郷横川町、中ノ郷業平町、押上町、向島押上町、東京府南葛飾郡吾嬬町(以 降寺島村、本田村、亀有村、奥戸村、小岩村、千葉縣東葛飾都市川町、八幡町、中山村、葛飾村、 船橋町、千葉県二ノ宮村、津田沼ヲ経テ二宮村大字薬園臺ニ 至ル)

 もともとの押上起点の申請は「高架式鐵道ヲ敷設」で変更と言っても「地下鉄」とはどこにも書いてありません。

 また、当時の京成の軌間ですが、秋庭さんの言う「馬車」鉄道で、1,372mm、秋庭さんの言う「広軌」1,435mmより狭いものでした。

    各社そろって線路幅を「広軌」としているところからも、後藤の存在を読み取ることができる。

の各社そろってには前記の「京王」=1,372mmと、京成=1,372mm、東武=1,067mm(後述)が含まれないとなると、殺到せる地下鉄の申請3社だけになっちまいますね。秋庭さんはどうやって「後藤の存在を読み取ることができ」たのか?

この京成の特許申請に対する市会の答申は、勿論「不許可處分アリ度旨答申セムトス」

 諮問第七號 これは京濱電氣鐵道株式會社、秋庭さんによると

     十二月二七日  京浜鉄道    品川-大崎-白金-明治神宮-原宿-千駄ケ谷

にあたるものですが

 品川、青山間及青山千駄ヶ谷間ノ電氣軌道特許線路經過地變更ノ件

で、東京府内務部長からの諮問日付は大正十三年一月十八日
京浜の申請日付が大正十二年十二月二十七日
東京市長から市会への提出日が大正十三年五月九日

  もともと品川~青山については明治四十一年特許大正七年変更許可、青山~千駄ヶ谷についても大正元年特許大正三年変更許可があったものの経過地の変更 で、今回の申請は経過地の起伏を克服するためか、地上線と地下線が細かく混在するものでした。六十九間つまり125mの地下線なんてのがある申請で、13 区間もあって煩瑣になるので詳細は略しますが。

市会の答申は「左記條件ヲ附スルニ於テハ支障ナキ旨答申スルモノトス」その条件は

 一、出願線中ノ地下線ニシテ本市計畫中ノ地下鐵道線ト交叉スヘキ箇所ハ其上部ニ本市軌道ヲ敷設シ得ル様相當
   ノ餘地ヲ存セシムルコト
 二、本出願線中地上線ノ部分ハ地下又ハ高架ニ改ムルコト高架トナス部分ニ就テハ都市計畫ニ依ル既定路線ト交
  叉スル個所ニ於テ計畫幅員全幅ノ架橋ヲ爲スハ勿論將來本市ニ於テ之ヲ横断スル街路ノ計畫ヲ爲ス場合橋梁
  架設等ニ要スル費用ノ全部ハ會社ニ於テ負擔スルコト
 三、工事着手前本市ヵ必要ト認ムル線路經過地ノ部分的變更ニ就テハ本市ノ指定ニ従フコト

これが、秋庭さんの

     東京市はこれらの地下鉄建設に同意し、「出願線中の地下線にして本市計画中の地下鉄道線と
    交差すべき箇所は、その上部に本市軌道を敷設しうるよう相当の余地を存せしむること」という
    条件をつけている。

とする条件のことですが、他の申請軒並み「不許可處分アリ度」のなか、ほぼ唯一の条件付「許可アリ度」です。

 以上が「軌道法施行規則第四条」に基づく諮問への答申で法的裏付けのあるもので、
これ以降は「地方鉄道法」による照会への答申で意見聴取に類するものになります。ですから「諮問」と言う頭書きもなくなります。
 秋庭さん的には軌道法による諮問であろうが地方鉄道法による意見聴取であろうが、地上であろうが高架であろうが、「広軌」であろうが「狭軌」であろうが、もう、味噌も何とかも一緒で「地下鉄の申請」ですが。

 第七十九號 これは京濱電氣鐵道株式會社、秋庭さんによると

      十月十日   京浜電鉄    高輪-赤羽橋-芝公園-大手町

にあたるものですが、「地方鐵道敷設免許申請ニ關スル東京府内務部長ノ照會答申ノ件」で、

 芝區高輪南町ヨリ麹町區大手町ニ至ル地方鐵道敷設ノ件

で、東京府内務部長からの照会日付は大正十二年十月二十四日
京浜の申請日付が大正十二年十月十日
東京市長から市会への提出日が大正十三年三月二十六日

 東京市芝區高輪南町二十七番地先ヲ起點トシ芝區西臺町二番地先ニテ東京市電氣局電車線路ヲ
 横斷芝區赤羽町三番地先ニ至ル此間ヲ地下線トシ二哩四鎖二十節
 前項終點附近ニテ東京市電氣局電車線及古川ヲ高架横斷シ麻布區飯倉町五丁目二十七番地先ニテ
 東京市電氣局電車線路ヲ高架横斷芝區芝公園十八號地先ニ至ル此ノ間地上線二十九鎖五十節
 前項終點ヨリ麹町區大手町一丁目一番地先ニ至ル地下線二哩十五鎖ニシテ總延長四哩四十九鎖

と、地下、高架、地上、地下とこれも秋庭さんの言うような地下鉄の申請ではありません。

 市会の答申は「不許可處分アリ度旨答申スルモノトス」

 第八十號 これは東京地下鐵道株式會社、秋庭さんによると

      十月十日   東京地下鉄道 東京-日本橋

にあたるもののはずですが、

 東京府東京市芝區高輪南町ヨリ同府荏原郡入新井町ニ至ル地方鐵道ヲ敷設

あれ?今の品川の手前から、大森駅付近の路線申請だよ?
でも、照会、申請、提出それぞれの日付は

東京府内務部長からの照会日付は大正十二年十月十日
地下鉄の申請日付が大正十二年九月二十六日
東京市長から市会への提出日が大正十三年三月二十六日

別途、東京地下鐵道は大正十二年十月十日付で「東京-日本橋」申請したのでしょうか?五月三十日の市会以降に東京地下鐵道に関する照会が二件ありますが、一件は五反田-亀戸と淀橋町-車坂町で、


東京府内務部長からの照会日付は大正十三年一月十八日
地下鉄の申請日付が大正十三年一月十四日
東京市長から市会への提出日が大正十三年七月十五日

もう一件は下谷車坂町-南千住の経路変更に関するもので、

東京府内務部長からの照会日付は大正十二年八月二日
地下鉄の申請日付が大正十二年七月二十七日
東京市長から市会への提出日が大正十三年七月十五日

一応、東京地下鐵道からの申請ですから、どれも「地下鉄」ですが、
どっちにしろ、市会の答申は「不許可處分アリ度旨答申スルモノトス」です。

 第八十五號(番号飛んでますが、速記録のとおりです)
 これは、秋庭さん挙げておられませんが、成田急行電氣鐵道株式會社の申請。
 京成に対抗する東武の別働隊と言うおもむきのある会社で、東武の平井辺りから成田、と宗吾に向かおうかと、京成としては相当な脅威ではあったようですが。 まぁ、起点が

 深川區東平井町

と、秋庭さんの期待値から外れてますんで無視されたんでしょうね。

 第八十六號 これは東京循環鐵道株式會社、秋庭さんによると

    十一月七日   循環鉄道    品川-上野、目黒-駒沢、渋谷-松沢、西ケ原-千住

にあたるものですが、

本線芝區高輪南町二十六番地ヨリ下谷區上野公園櫻ヶ岡支線東京府荏原郡平塚村大字中谷戸ヨリ
同府同郡矢口村大字古市場ニ至ル外四區間ニ地方鐵道敷設ノ件

で、東京府内務部長からの照会日付は大正十二年十一月二十六日
循環の申請日付が大正十二年十一月七日
東京市長から市会への提出日が大正十三年五月五日

 秋庭さんの掲示する路線、申請の支線にあたりますが秋庭さんの記述には省略がありますし、これらの申請には、地下線とはどこにも書いてありません。

 (イ)本      線 品 川 上 野 間

 (ロ) 支     線

    一、蛇 窪 矢 口 間

    二、目 黒 駒 澤 間

    三、澁 谷 松 澤 間

    四、目 白 野 方 間

    五、西 ヶ 原 千 住 大 橋 間

 蛇窪と矢口間とは現品川区荏原から大田区矢口町の間
  經過地名左ノ如シ
  東京府荏原郡平塚村、馬込村、池上村、調布村、矢口村
 とあります。   
   
 目白と野方間とは現豊島区高田(早稲田の北の方)から中野区野方(中央線中野駅辺りか?)
  經過地名左ノ如シ
   東京府北豊島郡高田町
   同府豊多摩郡落合村、野方村
 とあります。

 これに対する 市会の答申は

 本計畫線中市内線(芝區高輪南町二十六番地荏原郡品川町境間及下谷區上野公園櫻ヶ岡、
 北豊島郡日暮里町境間) ハ同種交通機關輻輳セル部分ニ係リ一般交通上支障少カラサルニ
 付此區間ヲ除外セラルヽニ於テハ支障ナキ旨答申スルモノトス

つまり、「本線は駄目よ」って答申なんですね。


 以上見てきた中に、

     十月十九日   東武鉄道    浅草-上野-東京

がありませんね、これは、「翌月」の市会に登場します。

        第七十九號

地方鐵道敷設免許申請ニ関スル東京府内務部長ノ照會ニ答申ノ件

市会では、浅草-上野-東京ではなく、

本所區小梅瓦町ヨリ下谷區上野山下町ニ至ル地方鐵道敷設ノ件

つまり、現業平橋駅(これが当時の東武浅草駅でした)から、浅草駅(現東武浅草駅)を経由してJR上野駅接着の申請でした。

何故秋庭さんが東京と書いたかというと、

追而本願第一目的ハ別紙起業目論見書ノ通リ國有鐵道幹線卜連絡シテ交通機能ヲ完成セントスル
 儀ニ有之候得共淺草上野間ハ帝都復興ノ御計畫上至大ノ關係モ有之自然御詮議ニ日子ヲ要スル事
 カト被存候ニ付本願中業平停車場(現淺草停車場)淺草停車場間ヲ第一期線トシ淺草停車場上野間
ヲ第二期線トシテ起工致度候ニ付第一期線ハ至急御認可相成候様奉願上候又第二期線ハ復興計畫
 ノ御都合ニ依リ浅草上野間御支障有之侯場合ニハ添付圖面青線ノ如ク東京停車場ニ於テ連絡ノ事
 ニ御詮議相成候樣奉願候

  この文章を平たく言えば、東武と国鉄を直結する事がこの申請の目的です、で、「まず、業平橋から浅草を目指します、次に浅草から、上野駅──上野山下町 は現在では殆ど上野駅に取り込まれていますので、上野駅といって差し支えないと思われます──での省線との接着を目指しますが、震災復興の都合で浅草上野 が都合が悪いようなら、東京を目指しますのでよろしく」と言っているので、「東京」が出てくるわけです。

これらの、

東京府内務部長からの照会日付は大正十二年十月三十日
東武の申請日付が大正十二年十月十九日

で、東武は実測の結果で、区間を上野-浅草間に整理して変更届を出してきます。

東京府内務部長からの変更を含めての照会日付は大正十三年六月十一日
東武の変更申請日付が大正十三年六月十日
東京市長から市会への提出日が大正十三年六月二十五日

しかも、これも

 一、線路ヲ高架トシ線路下ヲ倉庫及店舗ニ充テ一ハ土地ノ利用効率ヲ擧ケ以テ市民ノ利便ヲ圖ラ
   ントス(其三)
 一、鐵筋混凝土高架式ヲ以テ市中ノ一部ヲ横斷シ非常時ニ際シ帝都ノ防火計畫ニ資セントス(其
   四)

高架鉄道であって、地下鉄じゃない。

秋庭さんは、

    各社そろって線路幅を「広軌」としているところからも、後藤の存在を読み取ることができる。

と書いておられるけれど、

重ねて言いますが、東武の軌間は申請に拠れば、

 五、軌  間 三呎六吋

目論見の中に

 二、這般ノ變災ニ鑑ミ同一軌間ノ地方鐵道カ帝都ノ中央ニ於テ國有鐵道ト直通連絡ヲナシ萬一ノ
  事變ニ際シ輸送ノ圓滑二資セントス(其二)

という一説があることからも、元来の東武の1,067mm狭軌線じゃないと接着の意味が無いんです。この話は。

そして、市会の答申は

本地區間ニハ更ニ新線ヲ敷設ス
ルノ必要ナシト思料スルヲ以テ不許可處分アリ度旨答申スルモノトス


     東京市はこれらの地下鉄建設に同意し

こんなこと、一体どこから出て来るのやら。

 以上が、「京王電軌」の

      新宿三丁目の起点から新宿プリンスホテルまで行って方向を転換し、千駄ヶ谷・国立競技場
      前駅付近へと向かいたいというもので、いまの大江戸線のルートに重なる。

を追いかけて行った結果に見る、「サミット」の実相であり、顛末です。以上補遺しておきます。

  平成19年11月14日 陸壱玖