What's 平ゼミ?

「平ゼミ」とは、宮城県内の高校生であれば、誰でも参加することのできるサークルです。いろんな方のお話しを聞いたり、あちこち出かけてさまざまな人や事柄に出逢ったり、時には美味しいものを食べながら、わたしたちが生きている今の世界、日本について、考え、行動し、発信します。

「平和」ってどんなもの? 「平和」を支えるものってなに? わたしたち高校生には何ができるの? そんなことを思っているあなた、ぜひ、わたしたち「平ゼミ」の仲間になりませんか?

みやぎの高校生平和ゼミナール(略称:平ゼミ)のあゆみ

 1985年11月、教育研究宮城集会(女川)の「平和教育」分科会に参加した一部の教員(85年原水爆禁止世界大会参加者)の中から、宮城県にも高校生平和ゼミの組織を作れないものか、という声が起こり、12月から高校教員(3)大学院生(1)の4名から成る「宮城高校生平和ゼミナールの設立を模索する会」が月1回のペースで話し合い(検討)を始めました。

 1986年6月22日、「一日平和学校準備会」と題し、講演と平和教育の実践例の紹介を行いました。

その後も「新入生歓迎の集い(春の集い)」「夏の集い」「一日平和学校」を柱に、全国高校生平和集会に参加したり、他県の平ゼミとの交流や平和について勉強などをしてきました。昨年夏は長崎で貴重な平和学習を行うことができました。

2004年度実行委員長 村上ちひろ(宮城野高3年)

年度

新入生歓迎の集い

夏の集い

一日平和学校(秋)

その他の活動

1986

講演「正義に基づく平和を 高校生の平和活動の意義」

「自衛隊って悪いの?」

講演「戦争の中の私と青春」
講演「被爆体験から平和を学ぶ

栗原高校生平和の集い・
埼玉高校生平和ゼミとの交流会

1987

映画「戦場ぬ童」

「原発を考える」

講演「広島での被爆体験」

大学生協平和ゼミとの交流

1988

ビデオ「三宅は売らない」

「軍都仙台の史跡めぐり」

講演「昭和の戦争と天皇」

朝鮮学校と交流会・
宮城県母親大会で活動報告

1989

スライド「日本の朝鮮支配」

「王城寺ヶ原演習場見学」

映画「子どもたちの昭和史」

 

1990

ビデオ「原爆・そこがしりたい」

子どもの権利条約を学ぶ

黒坂正文ピースボイスコンサート

「福島高校生平和ゼミ」と交流

1991

発表「校則について」

航空自衛隊松島基地見学

講演「子どもの権利条約って何」

愛知の高校生自治を知る集い・
被爆体験を聞く集い 参加

1992

「高校生活を考えよう」

「障害者の問題とは」

「語り合おう、高校生と平和」

「みやぎ高校生フェスティバル」
「全国高校生自主活動交流会」参加

1993

「高校生活を考えよう」

「強制労働って何?」

ビデオ「元従軍慰安婦訴訟問題」

「日朝高校生交流集会」で報告

1994

講演「日本の朝鮮に対する植民地支配」

「元従軍慰安婦 宋神道さんを囲む集い」

報告「マツシロに学ぶ」

冬の討論「いじめを考える」開催

1995

戦後50年、いま平和を考える

「被爆体験を聞く」

戦後50年とこれからの平和

高知県幡多ゼミナールの勉強

1996

講演「沖縄がいま考えていること」

「王城寺ヶ原って何」

沖縄問題

「東北王城寺原大集会」参加

1997

「米軍は映画スター? ~米軍の実態を知ろう~」

「Let's go 王城寺ヶ原」

「知ってる? 新ガイドライン」

「第1回 東北高校生平和集会」
「歴教協」宮城大会「基地・保安」
分科会で報告

1998

「なぜなに!? 新ガイドライン」

核問題を考える

「今私達にできることは?」

「第2回東北Teen's平和集会」

1999

「仙台空襲に学ぶ」

平和を考える

「考えよう。日の丸・君が代」

「第3回東北Teen's平和集会」 

2000

「平和文化国際年」を知ってますか

「軍都仙台の史跡めぐり」

「少年法って何だろう?」

 

2001

「今高校生にできること」

「いっしょに考えよう   原爆のこと平和のこと」

 

2002

「アフガニスタンを知ろう」

全国高校生平和集会参加報告

「SADAKOを知っていますか」

 

2003

「朝鮮は日本だったか?」

「イラクってどこ? ~戦争は続いてるの?~」

 

2004

「食のへぇ~ゼミ ~味わって知ろうインドとベトナム」

高教組文化行事プレ企画みやぎ高校生のつどい共催「世界の子ども平和像『せこへい』を仙台へ!」

プレ春の集い「わたしたちの知らないインド」

平ゼミにかかわって考えること

高校3年生になって、さあこれから受験生だ、少しは勉強もしなきゃ。と気持ちを引き締めかけたときのこと。世界史の先生が、「帰りに東北大見学に連れてってやるから、平ゼミの実行委員会に行かないか」田舎の高校生で、交通費が高くって、仙台にはめったに行けなかったわたし。そして、学校のロッカーの上に転がっていたB29の破片がものすごく気になっていたわたしは、「行きます行きます」と思わず即答していました。これがわたしの平ゼミとの出会いです。

当時わたしは、図書委員でもありました。秋の図書館まつりで、戦時中の生活を調べて展示しよう、という話が持ち上がっていました。そのなかで、そういえばあのB29の破片はどういう謂れがあるの? という疑問が持ち上がっていたところでした。山岳部の先生が不忘山で拾ってきたというその、1メートルくらいの、鈍い銀色で、ぺらぺらしたその思いのほか軽い破片から、わたしたちは、これに乗っていた若いアメリカ兵たちを思い浮かべました。冬山に墜落し取り残されて、どこにも誰にも助けの求めようもなく凍え死んでいった彼らのことを。そして、耐え難い夏の日に繰り返し語られる、学校の山小屋に伝わる怪談のうらにあった、哀しい戦争の事実のひとコマをみて、愕然としたのでした。彼らにだって、彼らが爆撃した地上にだって、未来があったはずなのに。

わたしはそのことをレポートにして、第1回一日平和学校の分科会で報告しました。よく晴れた神無月の日。会場の仙商には、思いのほかたくさんの高校生が集まっていて、3つの分科会はそれぞれ教室が人であふれるほどでした。高校でこんな話しをする相手が少ないと嘆いていたわたしにとって、同じ話題を語ることができる仲間がこんなにたくさんいるということは大きな驚きであり、喜びでした。昼休みも、食事を取る間も惜しんで、当時流行っていたレクダンスをみんなで踊りました。その仲間との交流は、今もなお続いています。

そして、紆余曲折を経た挙句に高校の教員になってしまったわたしは、まるで宿命のように平ゼミに帰ってきました。そこには、人数こそ少ないけれど、あのときのわたしや仲間と同じような疑問や願い、思いを持った高校生がいました。そのことがすごくうれしくて、わたしは今も生徒たちとがんばっています。

わたしたちが淡々と日常生活を送り、当たり前のように学校生活に親からの自立に恋に将来に悩み苦しみ、そして自らの未来を日々選んでいけるのは、何よりこの日本が「平和」であるからです。この日常が続いて当たり前、というしあわせを、誰も奪う権利はありません。そして、このしあわせをもたない人々がそれを求めるということも、至極当たり前のことです。この当たり前のことを続けていくために、わたしたちは平ゼミで学び、行動し続けるのです。

みやぎの高校生平和ゼミナール推進委員  山内 洋美

最終更新:2005年07月09日 03:57