日々是栄和

麻雀 Column - 6 - 残酷な客観性のテーゼ

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Column - 6 -


 言葉というものはその時代の世相、風潮、あるいはマクロ的存在意義などを反映して常に変化する。
 以前に使用されていた意味とは違う使われ方をすることがごくごく自然に行われる。

 最近気になった例では 『 ありえない 』 というものがある。

 本来的には 『 様々な要因や指標を吟味かつ検討した結果、可能性が限りなくゼロに近い 』という使用法であろう。
 この 『 限りなくゼロに近い可能性 』 というものが、個々人における生活基準の多様化に伴い、
 その汎用性が失われつつあるのが現状である。

 数字というものは客観的なものである、という見方が一般的である。
 しかし、データというものは常にテーマと同居しているもので、無作為の数字の羅列には何ら意味はなく、『 人間 』が介在して
 初めてデータというものの価値が付加される。
 そして、人間が介在すれば、そこに不確定性原理が働くのはある意味当然なのかもしれない。

 先日の日記にも書いたが、麻雀を例にとって考察してみる。

 8巡目に西家の僕がリーチをかけた。待ちは258pで3面待ちである。
 だがその後、10巡目に親が追っかけリーチ。カン5m待ちである。
 僕の手牌と河の情報から、5mは既に3枚切られている。
 残り一枚の5mを僕がイッパツで引かされる確率は何%か。

 この命題を解いてみよう。

 まず、ポンチーカンがない状態であると仮定して、残り牌の枚数を算出。

 1.) 配牌 13枚 × 4 + 各家の切った牌 ( 10 + 10 + 9 + 9 ) = 80

 5mが王牌に含まれる可能性のことも考慮すると、

 2.) 牌全数 132枚 - 80枚 = 残り牌 52枚

 しかしここで、南家か北家の手牌に既に組み込まれている可能性を考慮すると、

 3.) 残り牌 52枚 + 二家の手牌 13枚 × 2 = 78枚

 よって、親のリーチにイッパツで残り一枚の5mを引かされる確率は

 A.) 1 / 78 = 1.28%

 ということになる。

 この1.28%というものは動かさざるべき真実である。同じ状況であれば、この数字自体はまったく変化しない。
 導き出された 『 1.28% 』 という数字から、何を考えるか、が人間の習性であろう。
 曰く、 『 ありえない 』 と言うのは簡単である。実際にそう口にする人も多い。
 だが、1.28%というものは限りなくゼロに近い可能性であるかどうか。

 宝くじの1等に当たる確率は 1/2,500,000 程度。
 最近はやらなくなったので正確なところは把握していないが、パチンコの確変が起こる確率は1/350~1/500程度。
 交通事故による死者の数は毎年変動するが、10000人前後と仮定しても、1/12000で自分も事故で死ぬかもしれない。
 そういった数字と比較して、1.28%をどう考えるか。
 つまり、 『 ありえない 』という言葉は既に 『 信じられない 』という意味合いに変化している。

 これはどういうことであろう。
 『 可能性 』 という非常にロジカルな指標を吟味するはずの言葉が、 『 信じられるか、信じられないか 』
 というごくごく主観的な判断によって発せられる言葉へと変化している。
 逆説的に言えば、この言葉を反映している世相というものは、主観性に満ち満ちた世の中ということになる。

 人間の脳というものは構造的に不安に耐えられない。
 不安概念として最も一般的なものは『 死 』である。『 死 』という概念から発せられる不安を回避するために、
 人間は宗教を開発した。
 ではなぜ『 死 』という概念が発達したのかというと、人間は未来予測をする唯一の動物だからである。

 三次元で暮らす我々にとって、時間軸を五感で認識することはできない。
 しかし、脳はその四次元的な概念を、ややデフォルメしているとはいえ認識している。
 したがって、人間は未来予測をしながら生きていく。そしてその予測は、脳の根本的な構造からすると、実際の人生よりも
 安穏としたものでないと不安が募り生きてゆけない。

 1.28%の確率で失敗する可能性がある。
 100回やって1回か2回だ。
 今回は成功するかもしれない。失敗するかもしれない。

 時間軸を身体的なセンサーで認識し得ない人間にとって、最大の不安は 『 いつ 』 である。
 どんな人間も最終的には死ぬのだが、『 いつ 』 死ぬのかはわからない。
 1.28%で失敗するのだが、 『 いつ 』 失敗するのかわからない。

 この不安を取り除くために開発された概念が『 ツキ 』や『 運 』といったものであることは説明を過たない。
 1.28%という可能性で失敗したのだから運が悪い、『 ありえない 』 ということになる。

 しかし、これはどうだろうか。
 失敗する可能性があったから失敗したわけで、それは当然の帰納である。

 だが人間の行動における判断というものは定量的ではなく、常に定性的である。True か False しか存在しない。
 98.72%という、充分に高い確率にかけて安穏とした状態を保っていたにもかかわらず失敗したことに対する主観的意見である。

 この部分の判断に客観性を持たせることは可能だろうか。
 人間である以上、永続的に分母を拡大することは不可能であり、母集団には個々人の限界が必ず存在する。
 人間がいつか死ぬのと同じように、例えば一生のうちで麻雀を打てる局数というものは不定であるが有理である。
 ただ未来予測と同じように、『 いつ 』終わりが来るのかは人間にはわからない。

 よって一次かそれ以上の変数によってしか判断基準に客観性を求めることは不可能なのだろうか。
 True と False を並べた場合、それらの分布は不等分布であり、我々が日常必要とするタイムスパンに区切って観察した場合は
 必ず偏差が生じているはずである。
 この偏差を議論することは『 流れがある 』『 流れはない 』ということを議論することと同じくらい不毛なのであるが、
 人間が未来予測から解放され得ない以上、ミクロ的状況にある相対的な基準を設けることは可能ではないのか。

 と、ここしばらく考えている。

 だが、テーゼとしての定義以上のものは創作し得ない気もするし、それで良いような気もする。
 幻想もまた、人間に与えられた残酷な機能の一つであるから。


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