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失われた勝利と…人的資源? ゲーム「Hearts of Iron 2」


「人命以外何も失ってはいない」とは朝鮮戦争の休戦を求める金日成の要請に対して、ヨシフ・スターリンの返した返答だ。
できればこの様なセリフを人前で言える指導者の下で兵隊などやりたくないものだ。

農業集団化により数百万人の餓死者を出し、大粛清により再び百数十万人が犠牲となり、独ソ戦により三度2000万人もの死者を出したといわれる。
この草むす屍の山は一体かの国に何をもたらしたのか? それは歴史的必然だったのか?

Hearts of Iron 2(以下hoi2)はスウェーデンはparadox社製のセミリアルタイム制戦略級ストラテジーゲームだ。
第二次世界大戦を全世界規模で再現したゲームでは最大規模を誇り、プレイヤーは175か国という膨大な選択肢の中から一国を選んで担当し、
陸海空軍はもとより外交と内政、産業と貿易までもコントロールして勝利を目指す。

もっとも、175ヵ国の中には誰もが知っている超大国から、「この国って第二次大戦に参加してないじゃん!」という国まで、
とにかく当時地球上に存在したありとあらゆる国家、場合によっては山賊に毛の生えたような軍閥すら選択できる。

この手のミリタリーゲームはおおよそ3つに分類できる。
兵士1人、戦車1両までに細分化された戦術級、ある場所での大規模な戦闘の流れを、師団級の目線で追う作戦級、そして国家戦略すらもコントロールする戦略級。
たとえば戦術級では総統官邸、あるいはクレムリン、ホワイトハウスetcの乱心ぶりなど知ったことではないし、
戦略級では場末の戦場で1個小隊が飢えと伝染病にもがき苦しんでいることなどをつぶさに再現したりはしない。

hoi2には工業力や石油、希少資源の備蓄状況といった数値の他に「人的資源」という数値がある。
歩兵や戦車、はたまた軍艦を作る際にはここから必要な人的資源が引かれる。また損耗した部隊へ補充を行う際にも人的資源を必要とする。
すなわちこの値は徴兵可能な労働人口を示しており、軍備とは人的資源を工業力でもって軍事力に変換すること、というゲームデザインになっているのだ。

たとえば、歩兵師団を作るためには10の人的資源が必要だ。アメリカやソ連と言った巨大な国家なら1日あたり1単位以上の人的資源を得られるが、
大抵の国は1日あたり0.5も得られれば良い方である。そしてこのゲームでドイツが敗れる大抵の理由は「人的資源の枯渇」だというのがなんともヒストリカルだ。

となると、気になるのは人的資源1単位が何人の青年を意味するか? である。先程も述べたように歩兵師団を作るのに必要な人的資源は10単位だ。
第二次大戦中の歩兵師団の編成は、各国によってばらつきがあるものの、概ね1万人前後である。そこから人的資源1=1000人、という関係が成り立つ。
これは多くのプレイヤーが気になる事象のようで、HoI2のコミュニティでは良く話題になる事でもある。

今、プレイヤーが配下の陸軍に命令を下したとしよう。数個師団がかりで敵軍が占領している州へ攻撃をかけたとする。
……残念ながら攻撃は失敗してしまった。夜に攻撃を仕掛けてしまい、しかも渡河だったために効率よく攻撃が出来なかった。

プレイヤーは呪詛の言葉を吐きつつ戦力補充を行おうとする。工業力の一部を補充に回すのだ。

「全部隊の補充に必要な人的資源は7.82です」

このメッセージを見た時、プレイヤーは何を思うだろうか。敗北の責任は当然自分にある。しかし傷ついたのは自分ではない。
推定7820人の若者が命を散らしたとしても、すぐさま部隊の能力低下となって現れるわけでもない。実際問題プレイヤーは痛くもかゆくもない。

末端の兵士達に思いを馳せることはあっても、だからといって侵攻、もとい聖戦だか解放だか保護占領だかの手を緩めたりはしない。
ここに、戦略級シミュレーションとしての深さがある。国家の絶対的な指導者ともなると、国民一人一人の生き死になど見えるはずがない。
二十数年の人生を送ってきたであろう青年らを鑑みることはなく、あらゆる項目は数字に変換されて計上される。「役人思考」を体験できるわけだ。

独裁者気取りになってしまっているという事に、プレイヤーは嫌でも気付かされる。
この文章を読んでいるあなたも基本的には平和主義者だろう。グロテスクな映像には血の気も引くし、戦争がないことにこしたことはない。
しかし世界地図を前に「兵科記号で表されるコマ」を見たあなたは、立った今敵陣に到着した部隊に無慈悲にも攻撃命令を下すのだ。
戦争をしなければゲーム終了までに4桁の人的資源をプールしておくことも可能だが、ひとたび拡張主義に走れば
領土、イデオロギー、民族、歴史、果てにはプレイヤーの気分で戦争を起こし、人的資源を湯水の如く注ぐこともできる。
「兵士が畑で取れる」と言われてはばからないソ連ですら、独ソ戦で無茶な戦略を立て、敗北を重ねれば最終的に人的資源が尽きることもある。

往々にして無視される原則だが、基本的に戦争は損得で考える物だ。しかし陣取りゲームをプレイしているとどうしても
「領土が増えた、国力上がった」という観点でしか「得」を計算できなくなる。
しかし、現実のドイツ軍や日本軍の占領地政策、あるいはもっとさかのぼってイギリスやフランスの植民地経営を見れば
「新たに得た領土から放っておいてもドンドン資源と金が上納されてもうウハウハ」というのは相当夢物語であることが見て取れる。
それこそ「トータルでプラスになった植民地はインドだけ」などと言われるほど経営はカツカツであり、
傀儡国家や自治組織を作り上げて維持費を減らそうと努力してもなお、赤字で足が出る方がはるかに多かった。

戦争の結果プレイヤーの国が多数の領土と資源を獲得したとして、果たしてそれは消耗された人的資源に見合った物なのか?
将来誕生するかも知れなかった未来のビル・ゲイツやジョン・レノン、黒澤明やエジソンを死なせてまで得る価値があったのかどうか。
ピカソの「ゲルニカ」のように紛争の結果生まれた芸術も確かにある。だが戦争によって、少なくともそれと同数以上の芸術が死産を起こし、
多数の「未来のピカソ」が筆を折ったであろう事は想像が付く。
真に国家百年の計を考えるならば、ヘンリー・モーズリー沢村栄治のような悲劇を起こしてまで戦争を起こす価値があるかどうか、
よくよく考えるべきである。が、現実の戦争がそうであるように、ゲームの中でも個人の存在は無視あるいは抑圧され顧みられることは少ない。

21世紀に入ってなお、人口と国力はイコールで結ばれている。であるから、国土を蹂躙され民が倒れることを避けるため、
すなわち人的資源≒国民のために屈辱的な和平を飲み込むこともこのゲームでは出来る。自らが小国であることを自覚しているなら、
デンマークやルクセンブルクのように抵抗らしい抵抗をしないことも、時と場合によっては「黒字」になりうるのだ。

仲の悪い隣国を若者の血を流して今打ち倒すか、次の100年のためにプライドを捨て堅忍不抜の日々を送るか。
どちらを選択するかはプレイヤーの判断一つである。

国土を蹂躙され人的資源が枯渇し、荒れ果てた祖国をゲーム画面に見たとして、過去の指導者達は何を思うだろうか。
あるいはやっぱり「あの国は潰しておくべきだった」とか言っちゃうんだろうか?

最終更新日 2010-04-27




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最終更新:2013年12月31日 01:30