コラム > 戦う少女の現実認識

戦う少女の現実認識


美少女+ミリタリーという組み合わせがそれなりに市民権を得るようになって数年。そろそろ評価や展望を語れる程度には成熟しただろう。
全く以て主観的な意見だが、この手の作品はやたら航空機モノが多いように感じる。その理由を自分なりに探ってみたい。

まずヒーロー性がある点。キャラクターは各々航空機に乗って切った張ったの活躍をする。基本的にスタンドプレーが主体で
ロボアニメ的ヒーローっぽさを演出出来る。これが例えば軍艦を舞台にした話だと、下は50人の潜水艦から上は5000人を超える原子力空母まで
様々な艦種はあるが、主人公一人が頑張ったからどうなったという話ではなくなる。群像劇チックな作品よりキャラが立った作品でないと、可愛い女の子を出す意味が無くなる。
陸モノも同様だ。主人公が敵兵を10人、100人撃ち殺したからってどうなるわけでもないしキャラクターが泥まみれホコリまみれ、さらには返り血まみれとなるのは
どうにも見栄えが悪い。同じ銃と軍服を着て誰が誰だか見分けがつかない、というのはリアルっぽいけどやはり可愛い女の子でやる必然性を感じない。
「戦場のヴァルキュリア」ではヘルメットを被らせないだのパンチラしそうな軍服で戦わせるだのという暴挙(褒め言葉)で、
「ストライクウィッチーズ」*1では下品(褒め言葉)と紙一重のデザインでもってこれを解決したが、違和感は残る。

比べて航空機モノならどうだ、ヒコーキ毎に個性も出せるしハデハデなマーキングも良い、痺れる異名を持った格好いい悪役も出せるだろう。
最初はチームプレーのチの字も無い主人公が仲間の良さを学んでいくという王道な展開も出来るぞ。メカが好きな連中にもウケるはずだ。

何がラッキーって第一にシーンを切り離せること。戦場と非戦場(飛行場とか航空基地とか)が分離され、平和な日常と血みどろのバトルが切り離される。
日頃はさえないけれどもいざ戦いになると人が変わったように暴れ回る、なんていうキャラは少なくない。常在戦場な陸海ではちょっと無理だ。
次に人殺しにまつわる戦争哲学をうじうじと語らなくて済む。「相手がザクなら人間じゃないんだ」というアレである。
加えて「敵」を人間でない物にしてしまえば最高だ。誰の心も痛むことなく殺し合いを演じることが出来る。
ここまでくると最早戦争ではなく戦争ごっこっぽさが漂うが、歴史認識なんて物騒なものを掲げた怖い人達が来ないことが約束されているので、
往々にして用いられる演出でもある。FPSなんかをやっているとつい忘れてしまいがちになるが、
現実の戦争がカッコイイものだったり気持ちの良いものだったりとは到底思えない。
しかし実際問題として、戦闘機に乗ってドンパチってのはとにかく見栄えもすればカッコも良いのだ。当時からパイロットは人気でモテモテだったし、
パイロットとして従軍した人の手記を読めばワクワクもする。一方「陸戦もの」はどうにも受けが悪い。
歩兵が塹壕で数時間に及ぶ猛砲撃をじっと耐える中で徐々に精神を病み…とかいう構図は手記に出てくることはあれども、ハッキリ言って受けないだろうね。
唯一「スナイパーもの」は映画でもゲームでも別格の評価を受けているが、これとて結局ヒーローっぽさが受けてるわけだし。
陸の王者である「戦車もの」ですら、「戦闘機もの」に比べたら数も人気も桁違いだと思う。

いわゆる美少女ミリタリーものに対し、戦争は部活動じゃねーんだぞとか、主人公が暴れてはい勝ちましたなんて
シナリオはつまらないとかいうタカ派な主張もよく分かる。じゃなきゃ戦争物とバトル物の区別がつかないからだ。
ただし、キャラクター主体の作風になりがちなアニメやライトノベルでどこまでそういう場面を描けるかどうかは別の問題だろう。
「Das Boot」を登場人物全員女の子でやらせて、オチまで同じだったとしたら間違いなくディスクが割られる

第一次世界大戦に従軍したイタリア人作家・政治家エミリオ・ルッスの「戦場の一年」にこんなエピソードがあった。
敵の狙撃兵に常に狙いを付けられている銃眼の前に敢えて立つ事で、自らの勇気を示そうとした騎兵隊の中尉は著者が止める間もなく撃ち殺されてしまったが、
しかし同じ銃眼の前に無謀な作戦と無茶な要求で知られる将軍が立ったときには何故か銃弾が撃ち込まれてこなかったのだ。
あれこれ話してわざと長時間彼を銃眼の前に立たせていたのに、である。それにしてもこの将軍が凄い。
兵士に塹壕から身を乗り出して立つ事を強制した挙げ句重傷を負わせたり、立ち止まり背嚢をおろしただけの兵士を銃殺するよう命じたり、
ファリーナ型鎧なる重さ50kg以上もあるという鎧*2を着させた工兵にペンチ一本で鉄条網を破壊させようとして全滅させたり
やりたい放題だ。この将軍が死んだとの噂が立ったときにはコニャックによる盛大な乾杯が催され、
乾杯前のスピーチで「我が軍にとっての幸運」「神の手が降臨なさった」などとはやし立てるのだが、
いざグラスを掲げようとした瞬間にその将軍が現れるのだ。あまりにも出来すぎているが、事実は小説よりも奇なりとはこのことか。
ラバから転落し崖下に落ちそうになったこの将軍を助けてしまった兵士は仲間に酷く暴行されたというのだから本気である。
「敵ではなく味方のせいで理不尽で不合理な酷い目*3に遭う『戦う美少女』」が出てくる方が現実に即しているというお話だが、
一体誰がそんな物を見たがるだろうかという疑問はついて回る。大多数の人間は派手なドンパチが見たいのであって、胸くその悪い上司を見たい訳じゃない。

ともあれ、我々の常識と一番乖離しているのは死に様と生き様である。つまりこういうことだ。
「この女の子達本当に戦争してるの? なんかサバゲーっぽくない?」
万単位で敵味方とも死にまくってるって設定なのに主人公の部隊は誰も死なないとか、割とよくある話である。
あるいは逆に、深く人物像が描かれる前にあれよあれよとフラグを立ててモブキャラ同然にご退場したりとか。
「サバゲーっぽさ」を打ち消すために、例えば戦争映画ならスプラッターとばかりに血糊をまき散らしたり、
これ見よがしに死体を散乱させたり、敵兵とのちょっとしたドラマを入れたりする。「ザ・パシフィック」で
日本兵の遺体から写真が出てきたシーンや、「Tali-Ihantala 1944」で負傷したフィンランド兵を味方の所まで*4
担いで行ってやるソヴィエト兵のシーンなんかは、ベタと言えばベタだが何とも言えない
「うわぁ、人間同士が戦争してんだなぁ」感が出て個人的には非常に好感が持てる。

いやまぁ、主人公御一行が死んでしまっては文字通り話にならないので仕方ないっちゃ仕方ないんだけどね。
現実の戦争ではその人が「俺は主人公だ」と思う思わざるに関わらず死んでしまうし、ほんのつまらない行為ひとつでその命運が分かれたりする。

「ガンダム」みたいに続き物の話なら身内のクルーから、「コンバット!」みたいに1話完結ならその回で配属された新兵が死んだりして、
それに対するレギュラー陣の台詞からそのキャラクターの死生観を感じることもできるだろうが、
この手法もやはりキャラクターを前面に押し出した作風では厳しいだろう。ともすれば「うじうじとうっとうしいキャラ」と見られかねないからだ。
しかしそれを逆手にとって、キャラがピンチになっても「どうせ腹に風穴開くわけでもないんでしょ」と冷めた見方をするのは、あんまりだ。

ここに現実に対する認識のギャップがある。今すぐにでも家に帰りたい、殴られれば痛い、撃たれれば死ぬ、敵兵は家族が居る普通の人間です、という
誰でも認識している事実がスパッと切り落とされている。だがそれは戦争賛美だとかリサーチ不足が原因ではない。
美少女が出てくるミリタリーという嘘を仕上げるための「お約束」だ。人が死ねばリアルだなんて極端なことは言わないが、
多くの戦争物が人が傷ついたり苦しんだりすることによって、あるいはそんな中でもヒーヒー良いながらしぶとく耐え抜く姿を描く事によって
戦争っぽさやその悲惨さ、極限状態での人間性を描いているのは間違いない。

サバイバルゲームを見せられるのでは皆退屈だ。派手な戦闘シーンは見たいけど女の子が撃たれるのはちょっと…。
この二つの欲求をどう解決するかは作者の力量の問題となる。

前置きが長くなったが今回の作品紹介である。「天空のリリー」と「蒼穹の女神」前者は第二次大戦・後者は第一次大戦を舞台とした
女性だけの航空部隊で成長していく主人公を描いている作品だ。大まかな設定や史実に沿った「リアル系」な雰囲気など、よく似ている。
「戦争してる空気」を描くために前者は実在した女性航空機部隊をモチーフとし、後者は最後の最後にトンでもないどんでん返しを用意している。
ひいき目に見ても大傑作とは言い難いこの2作だがその裏には深い、余りにも深い物があるように感じられてならないのだ。

とまぁとりあえず本の裏に書いてあるイントロダクションを引用してみるのでイメージを掴んで頂けたら幸いだ。

「1941年、第二次世界大戦中のソビエト連邦。反ドイツ気運が高まるなか、エンゲルス基地では女子パイロットによる飛行機連隊が創設されようとしていた。
志願したのは、10代から20代のまだ若い少女たち――。戦闘機パイロットを目指す仲間、ライバルたちとともに空に憧れ、空を愛する少女、
リリー・リトヴァグの挑戦が始まる。かつて実在した、女子だけの飛行機連隊を舞台に描く、空戦×歴史ファンタジー登場!」(天空のリリー)

激化する大戦が大陸中を席巻する世界――。16歳の少女エリィカは、ちょっと無謀だけどたぐいまれな資質を持った元気印の士官候補生。
エースパイロットになって、戦死したお姉さまの敵を討つという使命に燃える彼女が配属されたのは、通称「女神中隊」と呼ばれる
第111戦闘飛行中隊だった。ところがこの部隊、腕は一流だがひとクセもふたクセもある個性派ぞろいの問題部隊!?
少女パイロットたちが大空を翔ける空戦ファンタジー、発進!!(蒼穹の女神)

両者とも空戦ファンタジーと銘打ってあるところに何か例えようのない物を感じるが、どうだろう。
両作品の「現実っぽさを演出するための道具」を順番に見ていこう。イントロダクションでも言及されているとおり、天空のリリーは実在した女性航空機部隊が元ネタで、
そこで戦った女性達の記録を本としてまとめたのがブルース・マイルズの「出撃!魔女飛行隊」だ。この本はべらぼうに面白いのだが、中身の資料には
疑問符を付けざるを得ない点がある。筆者がテレビ業界出身で面白くなるよう演出を付け加えたこと、またソ連崩壊前で手に入る情報に限りがあったことなどがその理由だ。
これは「天空」と同時期(すごい偶然もあったものである)に出版された「世界の傑作機WWIIヤコヴレフ戦闘機」に詳しく記載されている。

さて、その「女の子だらけの航空隊」はもちろん戦争をしている訳であるから死傷者が出る。その内訳を見てみると、
女性航空部隊の立ち上げ役で連隊長でもあるマリア・ラスコヴァは実戦を向かえる前に事故死、史上初の敵機を撃墜した女性パイロット(である可能性のある)
ヴァレリー・ホムヤコヴァは撃墜して日が経たない内に離陸の際に事故で死亡。リリア本人も失神するほど出血するような負傷を経験したり、
その2ヶ月後になにやら良い男女関係であったソロマティンが事故死。その1月後には親友であるブダノヴァが戦死。そしてその1月後についにリリアも行方不明に…。

記録を見てみると以外と事故死が多いことが分かる。事故で死んでしまうなんて不謹慎だが全く以て格好良くない。
おのれドイツめ許さん! などと雪辱に燃えることも出来ないし、思わず涙するような演出に出来るわけでもない。
バトル物の登場人物は、それこそ「監督:富野由悠季」とか「主演:アーノルド・シュワルツネッガー」とかクレジットされていない限り、
最後に一言負け惜しみとか憎まれ口とか、散り際の台詞を喋る権利が与えられている。クサいと思うかも知れないが様式美のような物だ。
現実はそんなに甘くない。最後の一言を言うどころか誰にも知られぬままひっそりと死んでしまうこともある。
気がついたら居ない。飛行場へ帰ってこない。そういうシニカルな死に様の方がずっと多かったはずだ。
リリア自体、「未帰還だから多分死亡」って事にされてたし事実遺体が確認されたのは30年以上立ってからだった。
彼女らに出来るのは精々機体に弔いの文字をペイントすることぐらいだった。(実際にそういう写真が残っている)

「蒼穹」に関しては何をか況やである。第一次大戦の死者2千万人。そのうちの1人が死んだところで別にどうって事じゃない、というのは
「西部戦線異状なし」でとっくにやっている。騎士道なんていう物が辛うじて残っていた頃だから、撃墜して捕虜にしたパイロットの
無傷を祝って食事に招いて乾杯、なんてこともあったらしいが、それが非常に希なケースであることは「こういう話が美談として残っていること」から推測がつく。
それはともかく作品のオチが凄い。主人公の中隊が飛行場として使用している牧場だが、実は敵国の民間人から徴発したものだった。そこに住んでいた家族のうち両親は
出稼ぎに、ショタ・ロリの兄妹は牧場に残ったまま部隊のマスコットとして何かと可愛がられてきた。ある日両親の元へと引き取られていくが、両親の住まいがたまたま
戦線から目と鼻の先だったために戦場となってしまう。その戦場というのがよりにもよって毒ガス戦の戦場である。毒ガスを使用した遊軍だが、風向を読み違え敵もろとも
味方やら一般人やらを巻き添えにしてしまい――というもの。大量の死体が無機質に埋め立てられていく描写とか、前述の兄妹が名簿に「埋葬済み」となってるだけで行方知れず、とか、
ライトノベルにあるまじき凄惨さである。「凄惨さである」などと書いてみたが、戦争で凄惨でない死に方などありゃしないからやり切れない。
文章的にも統計的にもセンテンス1つで万単位の人間が死んだりするのは三国志からスペイン風邪までよくあることで、そこに爽快感とか格好良さなどは存在しない。

訳の分からない怪物に頭からガブリ、とか乗ってるロボットのコクピットをグサリ、とかそういうのも確かに悲惨だろう。
だけどその悲惨というのはつまり、怪我をした人やペットを見て可哀想と思うのと余り変わらない物理的悲惨さとでも言うべき物だ。
近代以前の戦場なら餓死の危機が常に存在するし、近代以後も凍死病死が繰り返されてきた。極端な例を挙げると、太平洋戦争での日本兵の死因は
「餓死・飢餓的状況による病死」だけで6割にも上るという。*5
抗生物質が出回るようになったのが第二次大戦中だと言うことを考えれば、銃弾そのもので死ぬ兵士より銃弾による傷で死んだ兵士の方が遙かに多いはずだ。
家族に看取られることもなく誰に撃たれたかも分からず、言葉も分からない異国で死ぬ兵士は死体はそこそこ綺麗だろうが、精神的悲惨さは察するに余りある。
つまり両手両足のみならず首と胴体が泣き別れするような死に方をしても、それは痛々しいだけで統計的には現実的ではない。
銃創で痛みに苦しみながらゆっくりと息絶えてしまう方が現実的だが、そんな風に死ぬ可愛いキャラクターなど誰も見たくない。
戦場のど真ん中にいるはずなのに、彼女達から現実的死生観が奪われてしまうというおかしな現象が起こっている。

だがしかし。偉い人はなかなかうまいことを思いつく物で、これら航空機モノ・メカモノは乗機が撃墜されてしまうというシチュエーションでもって
「死生観」を受け手に感じさせることができる。つまり鉄屑になってしまった愛機は自分の稚拙さや傲慢さ、兵士としての落ち度、未熟さをを象徴する物であり、
その時点で主人公は一度「死んだ」のだ。同時に、主役機交代というイベントは精神的成長を遂げた(はずの)主人公が「生まれ変わる」イベントでもある、って訳。

「大衆的英雄精神を発揮してドイツ兵を皆殺しに」「ともあれカルタゴは滅ぼすべきで後には塩を撒いてやる」
なんて過激な台詞を言わせている作品も、探せばあると思う。だがそんな戦争的イデオロギーむき出しの台詞を
アニメ絵の女の子に言わせてなんとする。それよか「わたしは仲間のために戦うの」とでも言わせた方がいろんな意味で穏当という物だ。
何も美少女が出てくるアニメやライトノベルで「戦争の悲惨さ」を描く必要はない。
先に挙げた「戦場の一年」のように、それらを綿密に描いた映画や小説が別にあることを我々は知っている。
要するに萌えキャラに「わたしの使命はドイツ人を殺して殺して殺しまくることです」って言わせて面白いかと言うことだ。
被弾炎上する戦闘機や戦車の中で血まみれになりながら「助けてお母さん!」とか「死にたくない!」とか「痛い! 痛いよぉ!」とか
絶叫する女の子を見てスカッとした気分になるかと言うことだ。ちょっと興味あるかもだって? そんなこと言う奴はシベリアで頭を冷やして来なさい。
薄っぺらいかろうがバカの一つ覚えだろうが、だから何だというのだ。超能力があるわけでも何とかの生まれ変わりでも超人でもない。
そういう人物を主人公の戦闘機・戦争・リアル系作品と大前提を決めた時点で話が大筋決まってしまう。この2作が似たような話になってしまうのも仕方がないのだ。

ぼろ切れのように人と物を消耗して、それを資源と工業力と人的資源でドカンと補充して、またボロボロとすり減らす。というのがマクロな視点で見た過去二つの大戦であって、
航空機搭乗員だって「歩兵よりマシ」なレベルでしかない。史実での例を挙げると、日本軍がひたすらに勝ちまくっていたイメージのある開戦当初の南方方面において、
陸軍航空隊は41年12月から42年3月までの間に保有する約700機の航空機のうち588機を喪失し、一方で549機が補充されている。
たったの3ヶ月、しかも連戦連勝だったはずの期間にも関わらず航空機が丸ごと入れ替わるくらいの消耗を強いられていた事になる。
パイロットという点から見てみると、海軍の精鋭部隊である台南航空隊の搭乗員のうち開戦時のフィリピン攻撃に参加した45名中、
開戦から7ヶ月以内に4割の18名が戦死している。目を覆わんばかりの消耗戦だが、これが数年にわたって続くのだから覆い隠しようがない。参考元はここね。

世の中には戦闘機数百機とか車輌ン百台とかを撃破した化け物みたいな航空機搭乗員もいるが、それらは数年かけて達成された記録であり、
総力戦という枠組みではすぐに「お代わり」が出てくる程度でしかない。個人の頑張りや特筆すべきエピソードはどうしても埋没してしまう。

結局これは解けないパズルなのだ。大抵の場合、現実に即した展開だと面白みも爽快感もない。面白くスカッとするような話の軍事的妥当性は怪しい。
しかし、戦争映画ならともかくライトノベルに前者を求めるのは酷すぎる。というより不向きなメディアである。
戦争物ライトノベルは航空機というファクターによりキャラクター性を主張させることには成功したが、現実認識という点では未だ多くの問題を抱えている。
今の我々に出来ることはひとつ、自分でその「現実認識」をするしかない。「天空のリリー」を読む時は傍らに「世界の傑作機No.138」を、
「蒼穹の女神」を読む時は「歴史群像シリーズ 第一次世界大戦 上・下」を置くのだ。*6

創作は創作として認識し現実は現実として認識する。そうすればもっと美少女+ミリタリーな作品を愛せると思うのだが、どうだろう。

まとめ
  • 航空機モノは昨今の主流であるキャラクター重視の作風と相性が良い
  • キャラクター重視だと戦争における無常さや悲惨さ、死生観を描きにくい
  • リアル過ぎれば悲惨なだけで、カジュアル過ぎればただのバトル物となる
  • むしろ受け手が現実認識を補うべきではないか



参考資料

ここ米国で『ストライクウィッチーズ』が蛇蝎の如く嫌われるのはなぜ?: AskJohnふぁんくらぶ
http://ask-john.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-c39a.html#more
Ask John: Why the Strike Witches Hate?
http://www.animenation.net/blog/2010/04/07/ask-john-why-the-strike-witches-hate/

本筋とはあんまり関係ないが、日本人よりは銃とか戦争が身近な人たちの現実認識。
リアル云々の前に「ANIMEにおける創造的意欲の減退傾向と視聴者離れの悪しき要因である」って結論が出てくるのが米国流?

その98 「出撃! 魔女飛行隊」――空を舞う魔女たちの翼
http://www.geocities.jp/ajiposo2000/oshirase98.html
その155 対独爆撃部隊ナイトウィッチ――乙女たちの挽歌
http://www.geocities.jp/ajiposo2000/oshirase155.html


最終更新日 2012-07-01






.
最終更新:2013年12月31日 01:40

*1 よく考えればこれも広義の航空機モノか

*2 と本文には書かれているが、イタリア軍研究家の吉川氏によると工兵用鎧は兜とボディーアーマー合わせて11kgだそうだ。中世~近世の常識的な鎧の重量を考えても、こちらの方が妥当に思える

*3 時には命を落とすような

*4 つまりフィンランド兵がたむろするところまで!

*5 「餓死(うえじに)した英霊たち」より

*6 日本語で書かれた第一次大戦の航空戦について書かれた良い出版物あったら教えて下さい