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偽善はどのくらい善なのか


大事故や自然災害が起きるたび、街頭には募金箱が設置される。そしてまたネット上では「あれは偽善だ、これも偽善だ」という
しょうもない議論が何度となく繰り返される。まるで相手を「偽善者だ!」と言えば何もかもが解決せんと言わんばかりの勢いだが、
そも善・偽善とはコインの表裏のように明白な代物なのだろうか。ちょっとだけお付き合いいただきたい。

とりあえず、辞書的な意味での善・偽善の定義を見てみよう。いずれも三省堂 大辞林より。
ぜん【善】
(1)よいこと。道理にかなったこと。また、そのようなおこない。
⇔悪
(2)〔哲・倫〕 一定の使用・行為・道徳・秩序などにおいて、人や物の性質(価値)がよいこと、
望ましくすぐれていること。また、それらをよくあらしめる根拠。真・美とならぶ基本的価値の一。
倫理学の対象とされ、人間のあらゆる営みが目指すところ、あるいは営みを律する義務の源泉とされる。

ぎぜん【偽善】
本心からではない、うわべだけの善行。 
偽善とは何であるかという疑問はすなわち、善とは何かというものになる。「良」は相対的な「よいこと」を示すが、
「善」は絶対的「よいこと」を示す。しかし、定義にもあるとおり「よいこと」「望ましいこと」は時と場所によって異なる。
絶対的基準でなくてはならないはずの「善」があやふやである以上、「偽善」もその定義が怪しい物となる……。

いや違う。違うんだよ。おれが言いたいのはこう言うことじゃない。禅問答や哲学をしたい訳じゃないんだ。

被災地に折り鶴送ったとか、タッパーに総菜詰め込んで送ったとかいう人達を無能な働き者だと小馬鹿にするのは結構だ。
でも「あぁ、馬鹿をツイッターで叩けて楽しかった」なんて感想しか出てこないお前は一体何なんだ?
私費を寄付に突っ込む会社社長に対して「従業員を搾取して得た金だろ」なんて事を言って何かが良い方向へ行くのか?
行為が美しくても心の内はそうでもないなんてことはザラにあるだろう。聖人君子じゃないんだから。
清貧をモットーとし少ない給料の中から今月の家賃を滞納してまで募金する若者とか、
ペットのえさ代から募金して、その結果ペットが餓死した貧しい年金暮らしの老夫婦とか、
テレビや新聞で取り上げられるから、というだだ漏れの自意識の元に宝くじで当たった大金を寄付した人とか、
小銭入れがパンパンで整理したかったから、なんて理由にならない理由の人とか、
そんな人たちはきっと街中にあふれているだろう。
でも彼ら彼女らを掲示板だのブログのコメント欄だので偽善者だと看破する行為にどれほどの値打ちがあるのか?

例えどんなに気持ちが込められていたとしても、そりゃ穴の開いた鍋を送られても困るでしょうよ。
けどそれは結果の問題であって、行為に対するチェックが働かなかったが故の現象だ。
つまり、当の本人はマジで心配した訳だ。そして良心の赴くまま手近なものを詰め込んで送ったんだろう。盛大に空回りしたけど。
わざわざ嫌がらせのためだけに千羽鶴作ったり段ボールに鍋を積めて料金払って送ったりなんて普通しない。
千羽鶴の人(仮)や穴の開いた鍋の人(仮)は相当に情の深い人なのだろう。自分にとっては利益がないと
分かっていながらやったんだから。結果は無茶苦茶だったけど。逆に言うと穴の開いた鍋の人(仮)は、
「そんなもの送るよりポケットに入ってる500円玉を募金した方が効果ありますぜ」と言われれば
すぐさま募金しに言っただろう。行動力は折り紙付きなんだし。だから、穴の開いた鍋の人(仮)を嬉々としてネットで叩くより
「こう言うものを送ると有りがたい!」「こう言うものを送られると困る!」っていうまとめ(これもめっきり胡散臭い単語になったね!)を
作ったり拡散したりするほうがよーっぽど意義と価値があるんじゃないか。露骨にビジネスが目的だったけど、
もしかしたら善意も0.1%くらいはあったかもしれないネスレが粉ミルクで「やらかした」のは有名な話だ。
だから行為のチェックと監視は誰かがやる必要がある。でもそれをストレス解消のおもちゃにしちゃいけない。

そもそも募金とかボランティアの最初の、そして最大の目的は「支援の手を求めている人々を援助する」事であり、
徳を積む事でも世の悪事を暴くことでも、偽善者をネットで叩くことでもない。実際に被災者にとって良い結果になるのなら、
本人がどんな人間でどんな考えを持っていようと紛れもなく善行だ。少なくとも被災者本人にとっては。
自ら行動を起こすわけでもなく周囲の人間に見境無く「偽善者」という言葉を人身攻撃の手段として浴びせることは、
少なくとも建設的で無い。「石をぶつけているのはイエスただ一人だけとなった」なんていうジョークがあるが、
「お前は心にやましい考えを持ちながら募金しようとしている。それは偽善だ」なんていう指摘をしつこくされ続ければ
誰だって萎縮してしまう。「1回だけだけど」「自己満足です」「目立ちたいから」「とにかく心配で」「いてもたってもいられないから」
「みんなやってるし」「罰ゲームの結果」などという「完璧主義」からほど遠い理由であったとしても、実際に
被災者の役に立っているのなら実にwin-winな結果となる。それで何故いけない。視覚的に分かるwin-winって結構大事よ。
モチベーションの問題もあるし。被災者の「皆さんの支援が本当に~」なんてコメントや映像がテレビ・新聞に流れてくるでしょ。
それ見て「ああ俺のチンケな募金も役に立ったかな」とか思える。これはでかいよ。
受け取った人については教えられず、一方的に募金しろ募金しろなんてメッセージばかり流れてきたらやる気無くすもんね。

そういや、世の中に数多ある「偽善者」のラベリングをもっとも熾烈に喰らっている24時間テレビなんてのもある。
よくある批判はこうだ。
「チャリティー番組とか言って、出演者は高額なギャラ貰ってるんだろ?」
「こういう番組の時だけ胡散臭そうなボランティア活動しやがって、この偽善者が」
言いたいことは分かる。分かるけれどもだ。一寸待ってくれ。日テレは視聴率が取れる、スポンサーは宣伝になる、
出演者はギャラが貰える、視聴者は特番を楽しめる、募金者はちょっと良い事した気になれる、そして要支援者は募金や
支援を受け取ることが出来る、と。得する者は居れど損する者はいない筈だ。そりゃ、中抜きやピンハネは十分考えられるし、
多分あるんだろうけど、じゃあ1年に1回日テレを批判するだけの人達が24時間テレビより大規模で「効率」の良い支援を
出来るか・やる気があるかと言われると、それは限りなく怪しい。日テレが「お前らが文句言うからもうやーめた」なんて言い出したら
確かにジャニタレ始めパーソナリティー達に金は流れなくなるだろう。でも毎年総額10億円近く募金されてるお金も雲散霧消し
要支援者にも一切の支援が無くなる訳で、それを肯定できるかと言われれば個人的には否だ。
念のために言っておくけど、いくら何でも募金をギャラに充ててる訳じゃ無いでしょうよ。常識的に考えればスポンサーから得た
番組制作費の一部がギャラとしてに割り当てられているんじゃないの。

「自己満足のための善意は迷惑」? 「感謝を期待して行うのは偽善」? はー。何様ですか。もう一度言うが
被災者にとって実際に利益となっているなら、支援者がどれだけどす黒い考えを持っていようが関係なくね?
というのがおれの言いたいことだ。だって、心は綺麗でも結果がダメだった千羽鶴の人(仮)は叩かれるんだし。
募金箱に小銭を入れる我々は神や仏でも無ければプロの慈善家でもなく、また篤志家と胸を張れるわけでもない「普通の人」だ。
被災して困っているのは血肉の通った、我々と同じ生活を営む「普通の人」であるからこそ胸が痛むのだし、
「被災した『普通の人』はもしかすればあの人達ではなく自分だったかもしれない」という想像が働くんだろう。
「普通の人」に対し、一切の煩悩を捨てて意味や価値を求めず神々しく募金しろと言われても無理な話だ。
何故コンビニやスーパーのレジに募金箱がおいてあるか考えたことはあるかい。財布を取り出す「ついで」に募金をして貰おうという
代物であって、募金箱を見た瞬間この世の善悪を飛び越え解脱し無心のまま募金して貰うためではない。
どだい、真心がこもっていようと下心があろうと金は金だ。気持ち次第で100円が200円になったりはしない。
イケナイ事をして生み出された金も世の中にはあるが、汚い金でも綺麗なことに使うことは可能だし、
第一自分の所に来た金にどんな「汚れ」が付いているか、被災者には鑑定のしようもない。
ボランティアだってそんなもんじゃないか。ヤクザの炊き出しみたいにもろに下心がまる見えなのは尺に障るという人もいるだろう。
でもそれで胃が満たされる人がいるのは事実であって、被災地にいもしない人間がヤクザの兄ちゃんを批判してみたって始まらない。
例えば一般企業が炊き出しをしてて、豚汁を調理してる従業員が一瞬でも「ちょっとは感謝されてぇなぁ」とか
「これで会社の好感度あがるかも」とか考えたら、その瞬間にその豚汁は「偽善」になるのか?
被災者の人が豚汁を地面に叩き付けて「お前の心はお見通しだ偽善者め!」と言うならまだ分からんでも無い。
だけど暖かい家の中で脳天気にネットしながら「あの会社のやってることって偽善だよな」なんて言うことに、おれは意味を感じない。

ここまで好き放題に書いたけれども、この理論武装でもって災害・事件の度に湧いて出る「偽善監視団」に挑むだけの気概はおれにはない。
「啓蒙」して回れるほどネットは狭いとも思わないし、自分にはその資格があるほど賢いのだとは毛ほどにも思わない。
札束を募金箱にぶちこめるだけの財力も、完全装備で被災地に入るだけの根性もない。
結局のところ、今の今まで罵っていた「偽善監視団」とおれとの差は他人を指さして偽善者だと叫ぶ、それだけなのだ。
そしておれ自身が述べたとおり、そうやって他人に指さすことに意味は無く、つまりおれと「偽善監視団」との差異もほとんど無い。
おれに出来ることはただ、「お前らが言うほど、偽善ってあるもんじゃないよ」とささやく、それだけなのだ…。


まとめ
  • 善偽善の定義は結構ふわふわしている。
  • 被災者にとって実際に利益となっているなら、支援者が何を考えていようが関係ないのではないか?

最終更新日 2014-04-15
4/15 内容を大幅に改訂

参考

タイガーマスク騒動に見る薄気味の悪い善意|森達也 リアル共同幻想論|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/11193
フィランソロピーってNGOなんだよね
http://web.archive.org/web/20051102112306/http://www33.ocn.ne.jp/~projectitoh/kojimaniax/ngo.html

↑これらの記事のように善意が一方的・内向きになることを危惧する見方もある。
 チェック機構がないと「俺のやってることは善行だ。だから文句を言われる筋合いはない」なんて事が起きる訳

Q 【絶対的『善』】-偽善とは何ぞや?-
http://0624blog.digbook.jp/archives/166





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最終更新:2014年04月15日 22:16