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自由へのドラム缶 ゲーム「メタルマックス2」「メタルマックス2:リローデッド」


ゲームの良し悪しを語る尺度の一つに「自由度」という言葉がある。
人によって「自由」の定義が異なり、また絶対の基準があるわけではないので、おおむね同ジャンル・同シリーズ内での
相対評価として表現される。一時期*1「DQ,FFに代表される自由度の低い国産ゲームはクソ!」
「TESシリーズやGTAシリーズみたいに自由度が高い洋ゲーは神!」なんて言うしょうもない善悪二元論が展開されるくらいには、
ゲームにとって重要視される要素となった。

ところで「自由度の高いゲーム」は本当に自由度が高いのだろうか?
例えば悪しき「一本道ゲーム」「ムービーゲーム」として目の敵にされているFFだって、リストアップしていけば数十個くらいは
「自由な」点を見つけられるだろう。「町中を歩く一般市民をいきなり撃ち殺せるなんて凄く自由度が高い~」なんて文脈で語られる
GTAシリーズも、同様にリストアップすれば数百個か、数千個、ひょっとしたら1万を超える「自由な」点を見つけられるはずだ。

しかし例えば、将棋のパターン数は10の220乗だという。囲碁に至っては10の360乗もある。
極論すれば、囲碁の前ではDQだろうとTESシリーズだろうと五十歩百歩であり、等しく「自由度の欠片もないゲーム」となってしまう。

だが、この結論には2つ誤りがある。
ひとつ、「リアルの人生」という自由度が青天井、いやおそらく無限にある*2ゲームについて言及していない点。
ふたつ、アクションゲームあるいはロールプレイングゲームとボードゲームを同じ基準で語っている点。

比較。そう比較だ。一体何と比較して「自由度が高い」「自由度が低い」と語っているのか、語るべきなのか。
ここではSFCのゲーム、「メタルマックス2」とそのリメイクである「メタルマックス2:リローデッド」をネタに
自由度について少しだけ考えてみたい。

1993年に発売された「メタルマックス2」は今の目で見ても「自由度の高い」ゲームと言える。
一応大まかな目標はある物の、それを無視してひたすら戦車の改造に精を出したり、その戦車で賞金首と戦ったり、
酒場の客にタダ酒をふるまい「お大尽様」と感謝されたり、彼女にインテリアを送ったりなどなどなど…。
「ゲーム序盤でいきなり命の恩人の女性と結婚してエンディングを迎える」なんて事が出来る時点でその凄さはおわかり頂けると思う。

さて、ゲーム終盤にデスクルスという町に寄ることが出来る。*3元刑務所だった建物を町として利用しているという何とも怪しい町だが、
見学と称して中に入ることが出来る。しかしそれは罠で、この施設は今も監獄として機能し続けているのだった。
色々あって主人公一同は囚人になってしまい、メシにありつくためにプレイヤーは看守に命令されるまま
並んだドラム缶を押しては戻し、押しては戻しを延々と繰り返し続ける。

ムシケラ! めしが くいたきゃ ここにある ドラムかんを 残らず みぎまで おせ!
ムシケラ! おわったら ほうこくに こい! さあ とっとと はじめろ!
おそいぞ! ムシケラ! オレは グズは 大きらいだ! やりなおしだ! もとに もどせ!

無論、押しても経験値が入るわけでもお金が増えるわけでもない。端まで押すと元に戻せと言われ、元に戻すとまた端まで押せと言われる。
その日のノルマを達成すると、メシを食べる許可と「明日はノルマを2倍にする」という残酷な決定が告げられる。
食堂で「ハナがまがりそうなほどクサイめし」を食べ、翌日も、翌々日もひたすらドラム缶を押し続ける。
最初は「今何往復目か」を頭に入れつつ押すのだが、ノルマが1日目の4倍になる3日目ともなるとそれすらおぼつかなくなる。
ドラム缶を押すことそれ自体に意味はない。人間のやる気とか根気とか言う物をただひたすらに奪う事を除いて。

ドストエフスキーは「死の家の記録」でこんなことを言っている。
「たとえば、水を一つの桶から他の桶に移し、またそれをもとの桶にもどすとか、砂を搗(つ)くとか、土の山を一つの場所から他の場所へ移し、
 またそれをもとへもどすとかいう作業をさせたら、囚人はおそらく、(それがどんなに凶悪な囚人であっても)四、五日もしたら首をくくってしまう」

今まで自由を謳歌し戦車に乗ってブイブイ言わせていたプレイヤーも、今はただの囚人である。単調な作業を繰り返し続けるうちに
「これバグってるんじゃないのか?」という考えが本当に起こってくる。囚人仲間に話してみると、ドラム缶押しや囚人生活に
奴隷的快感を見いだしてしまった人間もいて、嫌が応にもプレイヤーも心が病んでくる。デスクルスにおいて主人公とプレイヤーに自由はない。
ドラム缶を押す自由と押さない自由くらいはあるかもしれないが、その2者にどれくらいの違いがあるだろうか。

あんた ドラムかんは もう おしたかい? [→はい いいえ]
「いみもなく ドラムかんを おしてるとな ときどき ふっと おもうんだよ。
「オレって・・・・ ドラムかんを おすために うまれてきたんじゃ ないかな・・・・ そう おもうんだよ。

しにてェ・・・・。

かなわぬ ユメじゃがな・・・・ もしも このデスクルスが かいほうされたらな・・・・
わし 宿屋をやりたいのォ・・・・。
「そとの人間は めずらしがって オリのなかに とまりたがると おもうんじゃ。
「でな わざと きゃくの名前を よびすてにしたり、そとから へやのカギを かけたりな・・・・。
うけると おもうんじゃ。

最終的に、プレイヤーは脱獄し町を解放することになる。再び「自由」を手にしたとき、それはよりいっそう輝きと価値を増しているはずだ。
デスクルスでの一連のイベントは「囚人としての抑圧・全く自由のない状態」をプレイヤーに経験させることにより、
今まで空気のように扱われていた「自由」を再認識させ、さらに深みを出すことに成功している。
自由度の高いゲームの中に恐ろしく自由を制限されるイベントを仕込むことで、元からあった自由が何倍にも増幅されていくわけだ。
「囚」という文字は「人」を「囲う」事を表している。囚人には文字通り自由が無い。それと比べれば監獄の外にはなんと自由があふれていることか。

解放後のデスクルスには以前と変わらずドラム缶が置かれており、いつでも押すことが出来る。
気の向くままに、自分の意思でもって押す。それは強制されて押すのとはまた違った意味を持つだろう。

べつに だれに めいれいされた わけでもねえのに みんな ときどき ドラムかんを おしに くるのさ。
「どうしてだ? なつかしいのか? [→はい いいえ] 
「わかんねえな・・・・ おれには。
「・・・・おしても いいんだぜ! なつかしい ドラムかんをよ!

知らず知らずのうちにプレイヤーはドラム缶を押しに来る。自由の味を再確認するために。





まとめ
  • 「自由度」を何と比較するか?
  • ドラム缶押しを経験することで自由を噛みしめ直す。比較対象は自分自身



参考
METAL MAX2 町の人たち名言集
http://web.archive.org/web/20070520185018/http://ww41.tiki.ne.jp/~nau-tilus/metalmax/kotoba.htm
本文中にあるゲーム内の台詞の一部をここから引用しました

メタルマックス2 ドラム缶押す ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4648605




最終更新日 2012-01-21





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最終更新:2012年01月21日 20:09

*1 ひょっとしたら今も?

*2 どうやって数えればいいんだ?

*3 寄らなくても良い