コラム > sales

売れている物=良い物なのか?



ある製品やサービスが他と比較して優れているかどうかを述べる際、どちらがより売れているかが引き合いに出されることがある。
より売れているからより良い物なのだ、という主張はシンプルであるが故に説得力を持つが、無論常に成り立つわけでもないだろう。
その辺りの「しきい値」は探ってみるに値する物だと思われる。

まず「売れている」の定義から行いたい。ざっと思いつくのは
  1. 売り上げ個数が多い
  2. 売上金額が高い
  3. 販売者にとってより高い利益が出る
こんな所だろうか。薄利多売という言葉があるとおり、数は出てもちっとも利益にならない商品というのは数多くある。

次は「良い」の定義だ。
  1. 価格に対する満足度がより高い。ユーザが感じる「正当な価格」よりずっと安い(コストパフォーマンスが良い)
  2. 品物の絶対的な価値がより高い。金に糸目をつけないからより良い品質を求めたい。(世界一高性能な○○、的なもの)
  3. 同じ金額・同じ種類の製品の中で優劣を問う(「一番美味いカップ麺」「一番おもしろい映画」など)
  4. より多くの人々が使っている。満足度自体は問わない。
「良い」の定義は「売れている」と比べると幅があり、何を以て良い品物・サービスと呼ぶかは考える必要がある。


さて、ここで例えば
「日本人の米の消費量は一人当たり年間約60kgで、小麦の約30kgと比べてもはるかに多い。
よって日本人が一番好きな食品は米であり、米が日本で一番おいしい食品」
などと言い出したら、あなたは納得するだろうか。おいおいそりゃ違うんじゃないの、というのがまぁ普通の感想だろう。
一番消費が多いからと言って一番好きだとは限らないし、多くの人が一番好きだからと言って客観的においしさが保証されているわけでもない。
そんなことを言い出したら、この世で最もおいしい物は空気だなんて話になる。
売れている=良い というのは、「良い物はみんな欲しがり、欲しがるのだから売れ、売れるのだから金額・個数として算出される」
という前提がクリアされている場合にのみ成り立つ。一般的に貴金属や株券なんかは、持っていても別段困らない故
タダならみんな欲しがるだろうが、金を出して買うとなると話は別だ。バッグからスポーツカーまで、いわゆる「ブランド品」はみんながその価値を認め、
しかも結構な数の人が欲しいと思っているが、やはり買うかどうかは別問題だ。
例えば2011年度、ポルシェの全世界での販売台数は12万台足らずだった。一方トヨタは全世界で710万台。グループ込みだと795万台にもなる。
その差は70倍ほどである。ではポルシェ車の魅力はトヨタ車の70分の1かというと、そんな極論は受け入れられないだろう。
「売り上げは出てないが価値はある」というものは確かに存在する。逆に「純金で出来た100億円の仏像」みたいな訳分からん商品があったとして、
それがたまたま好事家に売れたからと言って「今一番売れている商品は仏像!ソースは売り上げ金額!」と力説されたって困る。

その品物を別の品物と比べる際、入手のしやすさを無視して話を進めることも出来ない。
「誰もがおいしいと必ず認める凄い食べ物」があったとしても、絶海の孤島へ泳いで買いに行かねばならないとしたら、
数字として出てくる「売り上げ金額」(=良さを示す一つの物差し)は酷い値になる。
同様に、0がいくつも付くくらい高いとかタダ同然とかいう場合でも、「売り上げ個数」「売上金額」は実態とかけ離れた数字になる。
以上は極端な例だが、歴史的に本当にあったこととしてはゴッホが挙げられるだろうか。

今こそ画家として高く評価されているゴッホだが、生前に売れた絵はたったの1枚だけだったと言われている。
売り上げ金額は400フランで、今の価値にして1000ドル相当だそうだ。これだけ見ればゴッホの「美術的価値」はそこいらの
イラストレーター以下ということになってしまう。しかしこんな主張には誰も賛同すまい。金銭的価値と芸術性という概念が
最高に相性が悪いこともあろうが、仮に彼の「芸術性」なるものを理解出来る人がいたとしても
テレビもインターネットもない19世紀末の世界でオランダの零細画家と巡り会うのは至難の業だからだ。
「入手しやすさ」について逆の発想も出来る。水は世界中のどこでも売られている・飲める飲料だが、それを根拠に
「世界で一番売れているのだから、水が世界で一番美味い」と言うことも出来るという訳だ。
(余談ながらCNNの「世界で一番うまい飲み物」調査では水が1位になっている。コーラが1位じゃなくて安心したのはおれだけだろうか)
100年前と今とでは自家用車の販売台数は文字通り桁違いの差があるだろうが、それは自動車に突然価値が出てきたわけではなく、
技術の発展によって誰でも扱える自動車が誰でも買える値段で、しかも世界中で売りに出されるようになったからに他ならない。

要するに、比較対象とは条件を揃えましょうと言うことだ。「Amazonでクリックすれば手に入る物」と「秘境に隠された凄い物」の売り上げを比べて
どちらが優れているかなどと言う議論には全く意味が無いと言うことだ。
日本国内という統一された条件で、大体同じな金額で、市場にキチンと出回る物――それこそ漫画雑誌とかアニメのディスクとか――なら
売上金額や売り上げ個数で優劣を比べることも出来るだろう。それが気に入らなければ中身を論じることになるが、
品物の価値は人によって異なり――というより異なるからこそ、売り上げという客観的な物差しで優劣を測っているわけで――これは往々にして水掛け論になる。
食品のおいしさなら「ためしてガッテン」のごとくうま味成分でも測ってカタを付ける事も出来るだろうし、
アイドルの人気比べなら投票でもすれば良いのだろうが、ゴッホの例の通り芸術性という抽象的な物が絡んでくる物、
例えば文学だとか音楽だとかは血で血を洗う争いとなる事は明白だ。明白なのだが、往々にして論争になるのはこの手の物が多かったりする。

自分が「この品物には価値がある」と思うならそれで十分だが、そこから一歩歩みを進めると途端に苦労するということなのだろうか。




まとめ
  • 「売れている」「良い」の定義を厳密にする必要がある
  • 売り上げを比べるのならば、前提条件を整える必要がある
  • 抽象的概念である「文学性」「音楽性」なんて言葉が絡むと水掛け論になりがちだ







最終更新日 2012-05-17





.
最終更新:2012年05月17日 18:10