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いわゆる気違いの分析


本項はいかなる人物や団体を差別する意図を持っておりません。
差別的・侮蔑的と思われる単語や文章が存在する可能性がありますので、
不快に感じた方はお読みにならないことをお勧めいたします。


この世界にはいわゆる「気違い」と呼ばれる人が存在する。
本来は発狂した人間、著しく常軌を逸した人間を指す言葉だが、その定義は実に曖昧で
現在ネット上では単なる罵倒語として気軽に使用されている。
とはいえ、「こいつ、本当におかしいんじゃねぇか」と思ってしまうような人がネット・リアルを問わず
実在するのは間違いなく、その非論理的な振る舞いに一種の気持ち悪さを感じてしまう事もある。

何故人は気が狂うのか。あるいは「あいつは狂っている」と感じるのか。
そもそも狂うとはなんなのか。ネット上の「気違い」と呼ばれる人々を題材にちょっとだけお付き合い願いたい。

ネット上に現れる「気違い」の特徴として、一応文章でのやりとりが出来ることが挙げられる。
当然と言えば当然で、テキストベースの意思疎通が出来ないならネット上で「観測」されることもない。
掲示板やフォーラムの正常な進行を妨げる行為も無いではないが、普通これらは「荒らし」として分類される。
次に、まともな人間から見ると無茶苦茶な理屈を振りかざし、根拠にならない根拠でもって自説を主張する事が挙げられよう。
いかな論理的反論を行っても決して自説を曲げることはなく、都合の悪い意見は見なかったことにする。
胡散臭い出典を根拠にしたり、妄想に妄想を重ねた推測を展開することもままある。
「気違い」を言い負かして「申し訳ございません。私の主張は何もかもが間違っておりました。どうぞお許しください」
と言わせるのは絶対に不可能である。

しかし、である。ネット上の論争で言い負かされ「お許し下さい」などと謝罪する人を見たことがあるだろうか。
少なくとも筆者は記憶にない。あらゆる論争は双方の意見が平行線のまま収束するか、
完全な証拠を出され自説を否定されてしまった方が黙る事で決着を見る。
普通、人は自説を否定されるのは快く思わない。まして相手がタガが外れてしまった「気違い」ならなおさらだ。
「気違い」を言い負かしてやろうなどという考えは今すぐ捨てるべきである。
だがなぜ、「気違い」は集中砲火のような反論や決定的根拠を出されながらも自分の意見の絶対性を疑わないのだろうか。

それは自分の意見がまったく「正しい」と確信しているからに他ならない。
そしてまた、ある人の「正しさ」を外から変えることは事実上不可能だ。

一例を挙げよう、かつてのアステカでは人身御供が日常的に行われていた。
彼らは太陽がいずれ消滅する物だと信じ、生け贄を捧げればそれを先延ばしに出来ると考えていた。
生け贄は生きたままナイフで腹を割かれ、手づかみでもぎ取られたまだ動いている心臓が神に捧げられた。
時として生け贄を獲得するための戦争すら起こしたと言われている。今の我々の目から見れば、
彼らは皆「気違い」かもしれない。少なくともヨーロッパから渡ってきたスペイン人にとってはそうだったはずだ。

しかしアステカ人自身は自分たちが狂っているとは微塵も思っていなかったに違いない。
それどころか人身御供はごく当たり前の行為だったはずだ。
彼らには彼らなりの理屈や理由が存在している訳で、自分たちの「正しさ」を確信していた。
「いや、そんなのおかしい。生け贄なんて野蛮だ」というのは結局スタンスの違いでしかない。

全ては立ち位置やイデオロギー、信条といったスタンスの違いに収束するのではないだろうか。

玉音放送から2週間と経っていない1945年8月26日。日本政府は「特殊慰安施設協会」なる
占領軍の兵士のための慰安所を設立した。進駐軍の先遣隊150名が厚木飛行場に到着したのは8月28日だから、
進駐軍の到着より早く進駐軍のための慰安所が設立されたことになる。設立の理由として
「進駐軍兵士による暴行・強姦を防ぐため」「日本の婦女子の操を守るため」という物が挙げられたが、
国策による国営慰安所であることは疑いようがなかった。

状況が状況とはいえ、つい先月まで鬼畜米英と罵っていた相手のために「大和撫子の肉体」を
何の悪びれもなく提供する国営慰安所を戦争に負けるや否や即座に、しかも自ら作ってしまう日本政府は
つい先月までの日本政府から見れば、「気違いの集まり」と迷い無く断罪されるだろう。
しかしいずれの日本政府も、国家と国民の利益のために行動していた*1のだから、
これも結局スタンスの違いと言えるだろう。

どんなに狂っていると思える人間であっても彼には彼なりの「正しさ」が「根拠」が存在する。
それら正しさだの根拠だのがどの程度客観的かは、アステカの例の通り程度問題でしかない。
「この世界は神が7日で作った」も「クジラは頭が良いから殺して食うのは野蛮」も「全てはコミンテルンの陰謀」も、
主張している人達からすればごく当たり前の主張であり、根拠があり、正しさがある。
どんなふざけた主張でも探せば根拠だの事実だのは出てくる物だ。
「気違い」を言い負かすことは出来ない。そもそも同じ土俵にいないのだから。前提が違う。

「気違い」であろうと意見を主張する権利は認めなければならない。これはもう大前提である。
「気違い」がその権利を行使すれば、あなたにはその主張に対して共感したり反論したるする権利が与えられるが、
何度も言うとおり言い負かすことは不可能である。考えるだけ時間の無駄である。
明確に間違っている反社会的な意見であろうと、相手は主張を取り下げることはない。
そもそも「この気違いは間違っている。俺は正しい」という意見自体不毛な物だと言うことは理解していただけるだろう。
「気違いに刃物」という言葉がある。端から見れば何をしでかすか分かった物ではないが、刃物を振り回している本人には
明確かつ絶対な理由が*2存在しているはずだ。だからなすがまま放っておけと言うのではない。言葉で説伏させるのは無理だ、と言っているのだ。

そしてもう一つ大事な点があるのだが、あなた自身も「気違い」になる可能性が十分存在する。
例えば筆者は「昆虫食なんてありえねー」と思っているのだが、昆虫を常食している人達からすれば筆者も「気違い」となるかもしれない。
繰り返すが何がまともで何が「気違い」かはスタンスの違いでしかないのだ。
「このアニメつまらねぇ。褒めてる奴は気違い」という考えをあなたが持ったとしよう。
手元にはいくらかの根拠が、その妥当性はともかくとしてあるはずだ。
あなたが意固地であればあるほど、褒めている奴は「信者」であり「気違い」となる。しかし相手は相手で褒めるに足る根拠があり、
相手からすればあなたが「アンチ」であり「気違い」である。どちらが優勢か劣勢かは単純に頭数と声の大きさで決まる。
「気違い」と呼ばれる人がやたら声が大きいのは良くあることとしても、マジョリティかマイノリティかは意見の正しさには関係がない。

私の意見は「気違い」によって圧殺されるほど根拠が薄いのか。いやそんなことは無い、
どう見ても自分の意見の方が正しいのだから「気違い」には好き放題言わせておこう。という発想はまずもって起こらない。
「気違いな主張」(とあなたや私、相手が思っている主張)が世にはびこる事ほど人間許し難い物は無く、
そんな主張が普遍的な物となることは別段害が無くとも嫌な物なのだ。
だから、今日も今日とてネットのあちこちで不毛なすれ違いが繰り広げられている。自分にとっての「気違い」な主張を潰すために。

対象がお菓子だとかゲームだとかいう日常生活を送る上でクリティカルで無いものだったとしても、
「世の中全員がなんと言おうと俺は俺の意見を変えるつもりはない」という強い考えを持てる人間は少ない。
人間、自分の主張が世の中で認められていれば安心感があるものだ。だがしかし、「テコでも自分の意見を変えない」というのは
まさに「気違い」の特徴ではないのか。この意味でまともな人間とそうでない人間、自我の強い人間と「気違い」の差はどんどん無くなっていく。
もう何度も何度も言うが、丁か半か、右か左か、信者かアンチか、上か下か、0か1かと言った極端なラベリングは全てスタンスである。
「この世界は右を向いても左を向いても気違いだらけだ!」と感じた場合、高い確率で「気違い」扱いされているのはあなたの方である。

「こいつは気違いだ!」という直感は、その人はあなたと正反対のスタンスを持っている事を示しているに過ぎない。
そしてほぼ間違いなく、その人との議論は成り立たない。どちらも疑いようが無く自分が正しいと信じているだけに
議論(という名の罵り合い)はどちらにも利益をもたらさない。「気違い」が非論理的で、非科学的で、
検証不可能で、無茶苦茶な主張を並べていたとしても、それはあなたとは別の「論理構成の神」に奉じているだけなのだ。
「天地創造を信じる地質学者」「幽霊が大好きな物理学者」が居たって構わない。自分の中で対立するスタンスを上手に処理している人々だ。

「自分と違う意見でも尊重する」という議論の初歩の初歩は、「相手は気違いだから」という実は根拠でも何でも無い根拠によって
いとも簡単に無視される。「お前の主張は間違っている。俺の主張は正しい」といくら証拠を出してみたところで
その証拠が相手にとって論理的かどうかは定かではない。相手もあなたも自分の「正しさ」を確信しているだけに、話はいっそう面倒なことになる。

今度「気違い」に遭ったら、カッカせずに「自分とはスタンスが違う人だ」とスルーして欲しい。
きっとその方が時間を有意義に使えるはずだ。



まとめ
  • 立ち位置やイデオロギー、価値観、宗教、信条、好みといったスタンスが違えば人は容易に「気違い」を発見できる
  • ゆえに、あなた自身も「気違い」と見られる可能性は常にある
  • 「気違い」と呼びたくなるほどスタンスの異なる人とは議論が成立しないので、言い負かそうなどと思ってはならない
  • そのような「気違い」を見つけてもスルーするのが賢明である



最終更新日 2012-08-09




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最終更新:2012年08月09日 01:52

*1 少なくともそう主張していた

*2 我々には意味不明な理由であっても