コラム > ファンタジー異世界のラス・カサスをさがして

ファンタジー異世界のラス・カサスをさがして


※本項は趣旨がとっちらかっており改訂が必要である。が、暫定的に公開する

はじめに

これは特定の作品やキャラクターに対して言うわけではないのだが。現実世界でうだつの上がらない主人公が、異世界に転生さえすれば
たちまち頭角表し人気者に、なんていうのはいくら何でも都合が良すぎはしないか? それでいてやっていることと言えば、ハーレム作ったり
剣戟したりと現実と何一つ変わらない。今時魔法の使える女子高生など掃いて捨てるほど居るし、星の数ほどあるナントカ学園を覗けば
くるくる回りながら異能バトルしている連中だってカラス並みにどこにでも居る。

大航海時代、欧州の冒険者達は3つのGと呼ばれるGlory,Gold,Gospel すなわち栄誉・黄金・福音(=宗教的情熱)を求め海を渡ったという。
海を渡った先で彼らが数百年分もの「歴史の負債」を刷りまくったのは今更言うまでもない。大まじめに、温厚に、紳士的に振る舞う冒険者や
征服者だって、そりゃ中には居ただろう。紳士的な征服ってなんだよって気もするが。しかしあらゆる歴史書は彼らがろくでもない連中だったと
異口同音に告げている。それでもコンキスタドールの皆が皆、生まれついての悪人で残虐残忍、外道な犬畜生というわけでもなかろう。
もしそうだとしたら、彼らの出身地ヨーロッパはかような連中が闊歩する秩序も無ければ法律もない人外の地だということになってしまう。
んなこたぁない。農奴や魔女裁判始め今の視点から見ると頂けない点があるにせよ、新大陸で繰り広げられたような
人が百万単位で死ぬような過酷極まる収奪と殺戮劇は行われなかった。

とすると、我々は以下のように推論せざるを得ない。
「人間は倫理のタガが外れると凶悪残忍になりうる。そして新大陸には倫理のタガを外す何かがあった」
目をつむって想像してみると良い。はるばる海を越えた先には見知らぬ大地。人も言葉も服も季候も生えている草木も違う……。
コンキスタドール達にとって新大陸は文字通りの「異世界」だった。だからこそ「それまでの世界」の倫理はことごとく打ち破られてしまった。
あとに残ったのは異世界に適応した新たな倫理、すなわち研ぎ澄まされた3つのGへの渇望だけである。

異世界に転生したラノベ主人公に必要なのは、実は「異世界になじむこと」ではなく「異世界での成り上がりのために現実世界の倫理のタガを外すこと」
ではないか。現実世界でのダメ人間ぶりが異世界で何の悪影響ももたらさないのと同じく、異世界でどう悪さしようが現実での評点は変わらない。
そこでは一切の容赦も遠慮も要らない。法と道徳を守り慎ましく生きていく、というような倫理観を持って生きればおそらくは長生きできるだろうが、
それでは結局現実世界と同じチンケで燻っている人間に落ち着くのが関の山だ。エロ同人的な、「学校中の女子生徒を催眠にかけたので調教三昧」とか
「世界に雄が俺だけなのでヤりまくり」なんていう、ぶっ壊れた状況に見合ったぶっ壊れた倫理を持つ奴が一番上手く成り上がれるに決まっている。
なんだか機会主義みたいな言いぐさだが、いかにもゲーム的な能力をがっぽり与えられたり現実世界の知識を持ったまま異世界に
転生するなんていうあらすじ自体、1532年11月16日のフランシスコ・ピサロ一行に加わっているくらいの幸運なのだから、活かさない手はない。

中世ファンタジー世界でも、農奴や奴隷から搾取しまくったり村の老婆を火あぶりにしたり占領地から金と女を略奪しまくったり
異教徒の首をはねたりするのはまぁ日常茶飯事だろう。とするならば、自分だけが21世紀の価値観や善悪や規範で動くことがどれだけの意味や
価値を持つだろうか。自分の感情や良心に背くような生き方はイヤだ、というなら意味を持つだろう。しかし一旗揚げて「俺TUEEEE!」がしたいなら
それは足かせにしかならない。「それって人としてどうよ」という突っ込みは可能であり、妥当でもある。だが宝くじで大金持ちになったとか、
遺産相続で大金が転がり込んできたせいで、つまり偶然の幸運によって人が変わってしまったという話はごまんとある。人間、状況に応じて
案外ころりと倫理を変化させるのだろう。(…と書いていたら「宝くじで大金を手に入れたので金の力で異世界を救う」などという、そのまんまな話が
書籍化までされているのを見つけて笑ってしまった。何をか言わんや)

異世界で立身出世するのに必要なのはありきたりなチート能力でもなく伝説の武器でもなく美少女の相棒でもない。
捕らえたインカ皇帝に身代金として部屋一杯の黄金を差し出させ、しかし解放せずに殺害するような倫理観。おそらくそれだけなのだ……。


追記と言う名の本題

「それだけなのだ」と断言するにはあまりに根拠がないものの言い方であり、正直言ってその辺に転がっている
一山幾らのライトノベル批判でしかないので、「未知の戦士とのたたかい」という本を引き合いにもうちょっとまっとうなことを書きたい。
この本は16世紀末に活躍した本物のコンキスタドールであるベルナルド・デ・バルガス・マチューカの著作2篇をまとめた物であり、
コンキスタドールを「泥棒、人間のクズ、チンピラ、ゴロツキ、犯罪者(CV:玄田哲章)」とのぐらいの勢いで批判するラス・カサスの有名な著作
「インディアスの破壊についての簡潔な報告」に対する反論である「ラス・カサス司教を駁し征服戦争を擁護する」と
南米で征服戦争を行うためのハウツー本である「インディアス戦争への手引き」から成っている。前者は先ほど書いた
「ろくでもない連中だったと異口同音に告げている」や「人が百万単位で死ぬような過酷極まる収奪と殺戮劇」に対する反論である。

本書の解説から言葉を借りつつ要約する。彼はスペインのインディアス領有の正当性はローマ教皇アレクサンデル6世の
贈与大勅書によって決定済みとしすぐさま個々の論点に移る。コンキスタドールとして最前線で征服戦争を行ってきた
自身の経験からラス・カサスの著作の事実誤認や勘違い、正確でない点を次々と指摘する。インディオへの武力行使は侵略でなく、
法にもとづいて行われる懲罰であり、コンキスタドールたちが戦いの場で武器を取る以外では決して無意味な殺傷・虐待を
していないことを主張すると共に、インディオ達が純真無垢で素朴で素晴らしい人たちであるとするラス・カサスの主張に反対する。
軍人マチューカがその目で見たインディオ達はそんな生やさしくて都合の良いお人好しでは断じてなかったのだ。
彼は著作の中でインディオが時に人肉を食べることや拷問を行うことを繰り返し述べ、スペイン人は人馬が一体の
生き物であるというような誤解が解け、生身の人間であると理解するや否や武器を取り反乱を始めた、との主張を行う。
ラス・カサスが残虐であると指摘した事件のいくつかを、それらが発生した「発端」と「情況」を取り込んで説明し直し、
彼とは180度異なる見解を導き出す。この「発端―情況」方式によって全てをひっくり返し、本書を引用すると
「かくして、ラス・カサスがコンキスタドールにかける犯罪容疑はことごとく消滅し、スペイン人はインディオとの戦争を好まず、
戦争を仕掛ける意思もないが、インディオはスペイン人への服従を拒むか、平和を結んだとしてもすぐに反乱を起こすため、
懲罰を科すための戦争を誘発するという論法ができあがる」。
それで、結局マチューカの言う事は正しいのか。再び引用する。
「具体的な事象にたいする反駁は、それだけをとり出してみれば、説得力がないというわけではない。むしろ、その逆であろう。
(略)この意味で、マチューカの『ブレビシマ』(引用者注:ラス・カサスの「~についての簡潔な報告」のこと)批判は軍人マチューカ
に与えられた現場では有効性をもつ。しかし、コロンによるインディアスの『発見』にはじまるインディアスの過去と現在を見定め、
インディアス破壊の『法則』に気付いたラス・カサスと対比すれば、マチューカの無知は明らかであろう。マチューカがとらえる次元での
『発端―情況』をさらに大きく包摂する真の『発端―情況』が存在する。ラス・カサスは『死者の島と化したエスパニョーラ島』に
インディアスの『発端』を見つけたのである」。

とどのつまり、紛争地からの同情心溢れるウェットなルポに兵器マニアが「UH-60は戦闘ヘリじゃない!」「BMP-1は戦車じゃない!」と
噛みつくような物であり、それ自身は正しいのだろうが、どこまで行っても重箱の隅であり木を見て森を見ずな言葉であることと似ている。

さて、マチューカらコンキスタドールは「文」の戦線でラス・カサスと戦う一方、当然「武」の戦線でもインディオ達と戦わなければならなかった。
「インディアス戦争への手引き」で彼は具体的にその方法を述べている。統領に必要な心構えや徳から始まり、良い兵士の募集方法や
兵士に必要な装備、現地での火薬製造、渡河や野営の仕方、インディオが使う武器や戦術、待ち伏せの仕方や彼らが仕掛けてくる
グアサバラ(決戦)の迎え撃ち方を事細かに記述している。例えば河を渡るにしても、どのようにして橋を架けるか、その際に使う木はどんな木か、
綱を渡して渡河する時はどうするか、火薬を濡らさずに渡るにはどうすべきかとひとつひとつが細かい。
マチューカはインディオ達が用いる毒と罠について何度も記し、彼らが「いったん退却しはじめると、そのまま総崩れになる」ものの
「勝つ見込みがあると判断すると、彼らは、世界のどの戦士にもまして、執拗に勝利を追い求める。三日でも四日でも、
食事も休憩も取らず、敵[エスパーニャ人]を追跡する」手強さを持つことを強調している。
マチューカはまた「兵士は、できれば、全員が[火縄]銃士であることが求められる。銃士であれば、[実質的に]兵士の数は倍増する。
つまり、銃士が百人であれば、百人が百人とも戦力になるからである」と銃の持つアドバンテージを力説する。
銃はあらゆる状況でインディオ達の装備する弓矢や投げ槍を上回る射程を持っているとし、不意を突かれた場合や火縄に着火
できない場合に備え銃士にも剣を持たせるようにとの指摘もあるが、あくまで銃が使えない場合のサブウェポンとしての記述にとどまる。

ようやく話は異世界ファンタジーへの征服旅行へと戻る。現代の知識や兵器を持ち込めばファンタジー世界の「野蛮人」たちをいともたやすく
征服できるだろうか。「これ以上航海を続けたら船ごと世界の端から落ちてしまう」と怖がる船員(この話もかなり怪しいらしいが)を
押さえ込むのは話術とカリスマ性と時に脅迫であって、wikipediaに書いてあるような知識では無理だ。この点において現代の知識や見識が
どれくらい役に立つかははなはだ怪しい。少なくともインディアスという異世界でインディオという異世界人と戦ったコンキスタドール達
にとっては簡単なことではなかった。新大陸の征服を容易にした原因はまずもって伝染病だった。一説によると、1491年当時の
南北アメリカには約1億人の人々が住んでいたが、その内の9割が伝染病によって死亡したという。伝染病による死者数の推計は
難しいらしいが、ちょっと見方を変えればマチューカの「俺達コンキスタドールはそんなに手荒なことはしていない」と
ラス・カサスの「旧大陸にも無いような大都市がどんどん廃墟になっている」が矛盾することなく両立するかもしれない。そもそも
「現代の知識や兵器を持ち込んで…」という発想自体、古き悪しき時代の旧大陸の、それも一番ダメな「文明―野蛮」の考えであり、
それ自体が最大最悪の死亡フラグである。旧大陸の「文明―野蛮」の世界観を批判した日本人は、にも関わらずパラオの少女に
ぶったまげるような校歌を歌わせたり、重慶を爆撃した後訳の分からん感想を言って露骨な「文明―野蛮」の世界観を表明した。
そしてその日本人に対し「文明―野蛮」の世界観を持つアメリカ人と戦うに及んで「野蛮」なはずの抗日ゲリラと同じ戦法を取り入れた。
マチューカが「かの地の住民[インディオ]が実践する戦法は数限りなくあり、われわれはそのいくつかを彼らから学び、
使っている。これらの戦法は彼らに対抗するうえで有益である」と事も無げに認めたように。

野蛮人に負ける俺達文明人とは何だ? その考えに辿り着いたとき、「文明―野蛮」の世界観はいったん取り消すことを迫られた
どころか、戦法を真似るためには相手を注視せざるを得なかった。マチューカはインディオの身体的特徴や装身具、通信手段から
体に色を塗るために用いる染料まで記している。非常に残念なことに、「未知の戦士とのたたかい」に収録されている
「インディアス戦争の手引き」は全六部のうち前半三部が、それも原典から圧縮編集省略されている(それでも読む価値はある)のだが、
省略された第四部では植民・統治論が、第五部と第六部ではインディアスの水路誌と自然史が記述されているという。ここから
マチューカがラス・カサスとは別ベクトルでインディオ達を深く観察していたことが分かる。同じように日本人は抗日ゲリラを研究し、
アメリカ人は日本兵を研究した。極論しよう。その観察研究こそが相互理解のための第一歩だが、しかしファンタジー世界を荒らし回る
主人公達は決してその段階へ辿り着かない。悔しさに顔を歪ませ、脂汗を流しながら書くが、異世界への転生者が直面する戦闘の現実は
ベトナムにおけるアメリカ軍やアフガンにおけるソ連軍のようには決してならない。なぜなら「チート」という、何かを説明したようでいて
何も説明していない言葉により彼らの勝利は約束されているからだ。そこでは「チート」ゆえに一切の論証が必要とされない。
おれがいくらベトナムやアフガンでの事例を挙げても「いかさま」の前にはまったく無力である。敗北したわけでもないのに
戦法を真似ようなどと考えるはずがない。しかしそれゆえ「文明―野蛮」の世界観が見直されることもない。
よって、「武」の戦線において異世界に住む住人達の将来は相当暗い。

では「文」の戦線ではどうだろうか。こちらはさらに絶望的である。インディオ達にはラス・カサスがいた。戦中戦後の日本人には
ルース・ベネディクトやジョン・ダワーがいた。ファンタジー世界の住人には誰もいない。ましてやただハーレムを作ったり、
現代知識を生かしてナンチャラ農法を推進したり水洗トイレを発明したりすることしかしない主人公が、ラス・カサスの発見した
「発端―情況」という枠組みに気がつくはずもない。異世界ファンタジー、異世界トリップを主題としたオンライン小説において
地誌が占める割合は酷く小さい(少なくとも今日ざざざっと流し読みした限りでは)。

文武両方の戦線で敗北したファンタジー世界の住人には正義や文明の名の下に行われる一方的かつ独善的な抑圧が待っている。
人間の想像力の数だけ存在するはずのファンタジー文化やファンタジー文明は、今や右を向いても左を向いてもノーフォーク農法と
ジャガイモの栽培を行い、子細の語られない謎帝国と性的魅力だけが取り上げられるエルフばかりが闊歩する極めて均質的で
「文明的」な世界と相成った。そこではコンキスタドールがなし得なかった、「野蛮」の完全な征服と支配が完成しているのだ。

勝手気ままに異世界を征服するチート野郎が、ラス・カサスの言う
「まるで猛り狂った獣と変わらず、人類を破滅に追いやる人々であり、人類最大の敵」になるまで、もう猶予はない。







最終更新日 2019-09-02









.
最終更新:2019年09月02日 07:33