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「文句があるならお前が作れ」のその先に


はじめに

あるものに対して批判を行った際、テンプレと言っても良い反論がある。すなわち「文句があるならお前が作ってみろ/やってみろ」というものだ。
  • 「妻の飯が不味い」に対して「お前が作れ」
  • 「飯屋の飯が不味い」に対して「お前が作れ」
  • 「公務員の怠慢への批判」に対して「お前がやってみろ」
  • 「政治家の腐敗への批判」に対して「お前が政治家になれ」
  • 「漫画がつまらない」に対して「お前が書いてみろ」
  • 「アニメがつまらない」に対して「お前が作ってみろ」
  • 「このゲームの運営無能だろ」に対して「お前が運営してみろ」…etc

上記はほんの一例だ。確かに「お前がやって見ろ」という反論が一理あるときもある。批判のようでいてその実八つ当たりでしかないこともある。
けれどもこの反論が行きすぎればそれは、手放しの賛美だけを求める不健康な世界になってしまう。政治家にならないと政治について語れないなら
選挙も民主主義もあったもんじゃないってのは想像が付くからね。とはいえ嫁の作る晩飯とアニメとの間にはかなりの差がある。
それらを一緒くたにして、同じ言葉で考えても良いのだろうか。ちょっとだけ考えてみようじゃないか。

本文

まず上記の「○○がダメ→じゃあお前が○○しろよ」をいくつかのパターンに分けたい
  • 自分と問題との距離が近く、問題解決が比較的容易(嫁さん―ご飯―自分)
  • 自分と問題との距離が遠く、問題解決が比較的困難(政治家―国政―自分)
  • 自分と問題との間にあるのが金銭的関係だけ(漫画家―漫画―自分)
  • 自分と問題との間に金銭的関係すらない(フリーソフト、テレビ番組、動画投稿サイト、基本無料ゲームなど)

おおざっぱにこの4つに分類して話を進めてみたい。まずは最初のケースを考えてみる。妻の飯が不味い、という不満・批判に対して
「じゃあお前が作れ」はどこまで有効だろうか。ここで考えるべきは自分が問題の当事者であり、しかも問題を引き起こしている人とも
非常に近しいことだ。ここでは問題解決に必要なコストは相当に軽減される。極端な話、妻を姑の元に送って鍛えてもらうとか、
料理教室に通わせるとか、一緒に作って指導するとか、もう諦めて自分が全ての料理を作ってしまうとか、様々な解決方法が存在する。
もちろん、そう簡単に解決できるのなら不味い飯に苦しむ夫などこの世に存在しないのも事実ではあるが…。
食材費は出しても料理を作る手間賃は出してないでしょ、とか、主婦なんだからそれくらい当たり前だろ、なんてややもすれば大喧嘩に
なりそうな要素はあえて肯定的に捕らえたい。「金を出して、その対価として料理を作ってもらう」なんて関係になったら、
後述する漫画家と自分との関係と同じものになってしまう。そこでは金銭関係の結果としてのみ食事が存在する訳で、当然夫婦関係は
最悪なまでに冷え込んでいるだろう。「じゃあ金はいらないからもう作らない」なんて方向に話がこじれたら、結局両者とも得をしない。
関係が密接で直接的な利害関係者である分、様々な爆弾と様々な方策――金の要るものも要らないものも――を抱え込んでいるわけで、
ここでの「お前が作れ」は、「数多ある解決方法の一つ」でしかないとの留保を付ければ、有効な反論ではないだろうか。
ただし念には念で追記するが、理屈は理屈で別として、人としての倫理的モラル的な話として、不味いと言っている人が金も出さなきゃ
料理を手伝うわけでもないくせに口だけ出す人物のような場合「お前が作れ」の有効性は増すし、金も出して手伝いもしてその上
あれこれの手段を実行して、それでも万策尽きたような場合には有効性がぐっと減ることは頭に置いておきたい。

さて次だ。あの政治家は言う事が支離滅裂だし汚職疑惑があるしで許せんとか、この国の政治は歪で腐ってる。国会が空回り
しまくりじゃないか、とかいう主張に対する「じゃあお前が政治家になりゃあいいだろ」の有効性を考える。ヨメの飯が不味い、と違って
自分と問題との間には相当な距離があり、金を積んだり特訓したりすれば二,三ヶ月で解決するといった話でもない。
何かの間違いで自分が議員バッジを付けたり官僚として霞ヶ関で勤める事になったとしても、それだけで問題が解決するわけではない。
嫌いなあの議員はいつまでも議員だろうし、役人の怠慢が劇的に良くなるわけでもない。そんな簡単に内部から改革・変革が出来るなら
とっくに世の仲良くなってるはずだ。ところで今している話はある特定個人に対する不満だろうか。それともあるシステムに対する不満だろうか。
ある悪党を倒してもシステム自体がダメダメなら何度でも似たような悪党が出てくるだろうし、システムそのものを革命するには
途方もない労力が必要だ。成功するかどうか分からないのに自分の人生を投げ打ってまで不平不満の源とぶつかってやろうという考えは
なかなかに厳しい。とはいえ、多くの批判者がその事を隠れ蓑にして安全な位置から好き放題言っているだけだろ、という批判もまた
妥当なものだ。肝心なことを思いだそう。官公庁や国会は日常生活からはほど遠いものの、それでも我々が利害関係者であることは事実だ。
となると、現実的には投票から始まりブログやSNSでの主張、デモや陳情、ビラまきや街頭演説、行くまで行っても暴動や蜂起といった行為に
落ち着くのだろう。それらがどこまで意義のあるものかはまた別の議論だ。結論、ここでの「お前がやれ」はかなりの無茶振りである。ただし、
「お前も利害関係者なんだからお前の出来る範囲で活動しろ。黙って指をくわえているな」という言い方ならかなりの有効性を持つと思われる。

じゃあ次に行こう。「この漫画/ゲームつまんねーよ。買わなきゃ良かった」「このラーメン屋マズ過ぎ。金返せ」に対する「じゃあお前が作れよ」だ。
ここでは両者の間にあるのは金銭的な繋がりだけで、基本的に赤の他人であって利害関係者ですらない。すごい漫画やラーメンを作るよう
働きかけるにしても精々応援くらいしか出来ず、すごい物が仕上がっても手に入れるためには必ず金を払う必要がある。どこまで行ってもドライな
関係だが、「お前がやれ」と言い出すとちょっと話が変になる。ある漫画家が書いた漫画、あるラーメン屋のラーメンがダメだから自分が漫画家や
ラーメン屋になったとしても、その原因である「もともとの」漫画家やラーメン屋の店主が改心するわけではない。
「そんな事を言ったら前二つだってそうで、自分で飯を作っても嫁の料理下手が直るわけではないし、自分が政治家になっても悪徳政治家が
消えるわけではないじゃないか」と思うかも知れない、しかし少なくとも「不味い飯」「ダメな政治家」から逃れることは出来る。だって今や
自分が料理を作る側であり、自分が政治を行う側なんだもの。直接的な利害関係者であるがゆえに、自分のポジションを変えることで
問題が無害にはなる(その変わり誰かに不味い飯やダメな政治を提供している可能性はある)。だけど漫画家やラーメン屋ではそうはいかない。
自分がどれだけ傑作漫画やうまいラーメンを作っていても、「もともとの」つまらない漫画や不味いラーメンは依然としてそこに存在する。
利害関係もなければ繋がりも希薄ゆえに、金を払った側が何を言っても聞く耳持たずにいることが出来るし、どれだけ良い物を作っても
見向きもしないことが出来る。まぁもっとも、人の感想をまったく聞かずに喰っていける物作りなんて、それこそ芸術家とか陶芸家だけなんだろうけどさ…。
まとめよう。金銭だけの繋がりしかないビジネスライクな関係で「お前がやってみろ」は何の問題解決にもならない。
いや、それどころか「この○○イケてないよ!」という愚痴すら何の意味もない。そのような不満は直接作り手に伝える必要がある。
ただし何の関係もない客の一人、ファンの一人として拳ひとつで伝える以上、スルーされる可能性は高い。
「乗り回していたフェラーリの設計がポンコツだったのでエンツォ・フェラーリに直接文句を言いに行ったら『文句があるならトラクターでも乗ってろ』と
無下に扱われてキレたのでスポーツカーを作る決意をした」とはフェルッチオ・ランボルギーニの有名な伝説だ(この話実はフィクションらしい。マジかよ)。
だけど、彼がいくら頑張って良い車を作ってもフェラーリにとっては知ったこっちゃ無い。無情である。だけども、金を払って買ったんだから、
少なくともその分は文句を言ったって構わないだろう。500円分の文句、1000円分の不満ってどうやって測るんだよ、との問題も起こるが。

さーて最後だ。金銭的関係すら無いケース。ネットの各種サービスやテレビ番組を考えてみる。実のところ、タダで何がしかのサービスを
受けているように見えて、その裏では大量の広告がバラ撒かれていたり、利用者の情報を抜かれて商売されたりといったケースが一定数
存在するだろうが、とにかくここでは完全無料で何らかの物が提供されていることを前提にして話を進める。ここでは不満を言う側と
言われる側には直接的な関係は全くなく、しかも言うことを聞いてやるだけのインセンティブ、つまり代金も無い。
送り手は何を言われたって聞いてやる必要は無いし、一方で受け手は送り手を説得するための道具にも欠ける。
漫画家やラーメン屋なら「もう買わない/食べない」と啖呵を切ることだって出来るが、テレビ番組ではそうはいかない。誰もその番組を
見なければ視聴率が落ち、それをスポンサーに突っ込まれ、巡り巡って番組の中身が変わるかも知れない。けれど、そうなったところで
中身を変えるのも変えるよう圧力を掛けたのも視聴者じゃない。つまり言うことを聞いてやったって金にならない。
だから2chの運営にブーブー文句を言ってもなしのつぶてだし、googleの各種サービスの改悪に不平不満を言っても元に戻しはしない。
無料ゆえに大勢の客が集まることは、まともな批判者も居ればまるでなっちゃいない言いがかりを付けてくる奴まで大量の声を受け取ることにも繋がる。
それをいちいち役に立つ意見と役に立たない意見とで振り分ける手間暇を考えれば、最初から生の声を相手にせず上がってくるデータだけで
判断するというのも分からないではない。無料で配信・放送されてるアニメの批評は恐らくラーメン屋の批評より簡単だ。
少なくとも後者は実際に身銭を切る必要がある。「嫌なら見るな」「嫌ならやめろ」という、いつもの言葉が出てくるのには無料であることも
関係しているのだろう。ラーメンは食べるのと金を出すのが同時だ。「もう喰わねぇよ」はあっても「嫌なら喰うな」は無い。
「お前がアニメ作ってみろ」と「嫌なら見るな」の間にほとんど差はなく、批判者に対する批判と判断するほかないとおれは考える。
じゃあ何か、つまらないバラエティ番組やダメなソーシャルゲームに文句を言っちゃいけないのかといえば、当然そんなことは無い。
けれども不満を2chやtwitterに書き込んだって、いやそれどころか公式サイトの「お問い合わせ」から長文を送りつけたって、
どうにかなると期待しない方が良い。金を出さない客は客ですらないのだ。


以上4つのパターンをそれぞれ個人的に分析してみた。全ての「じゃあお前がやって見ろよ」がこの4つで分類できるとは思わないし、
最後のパターンについてはもうちょっと考えてみる必要がある(アニメのディスクを買えば好き放題言ってもいいのか? とか
重課金しているプレイヤーは運営に注文付ける事ができるのか? とか)それでもあなたが思考する上で何かの役に立てば幸甚である。







最終更新日 2015-11-24








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最終更新:2015年11月24日 23:56