コラム > scrap3

自分では面白いと思ったネタが他人にはイマイチだったり、あるいは逆に書いた自分はあまり面白くないネタが
他人のツボにはまったりする。書くのにちょっと時間のかかった、書き捨てるには惜しいものをここに残す。
誰かをちょっぴり笑わせたり得した気になったりさせたらこれ幸い。




僕と彼女と聴音機

空中聴音機という軍用機材がある。要するにでかいラッパで敵機の出す騒音を聞き取り距離や方位を測ろうというもので、
レーダーが本格的に普及する第二次大戦初期まではどこの国にもあった。写真はここ参照。
この聴音機だが、西欧では盲人に操作させることがあった。というのも盲人は聴覚が優れていると考えられていたためだ。
日本でも盲人を「聴音兵」として動員していたようだが、彼らに聴音機を操作させていたかはよく分からん。
「障害者の社会参加」の美名の元に駆り出される彼らは「兵隊になれない役立たず」という負い目があったために
ややもすれば健常者よりなお過酷な任務に付いていた。

徐々にレーダーに取って代わられた聴音機だが英本土空襲、独本土空襲、日本本土空襲のいずれも「無いよりマシ」理論で
相当数が投入されたはずであり、とりわけ英本土空襲の頃にはレーダー網も万全とは言えず、人間の目や耳による探知は
防空システムにガッチリ組み込まれていた。(断言できるほど手元に資料が無いので「だろう」「はず」ばっかだな! 許して!)
1940年の夏ですよ。バトルオブブリテンの真っ最中なんですよ。ホーム・ガードの戦車兵になろうとして、戦争の事なんてなんにも
知らない少年がワクワクしながら登録手続きをするんですよ。ホーム・ガードの小僧っ子ごときを戦車に乗せてくれるわけ無いのにね!
というか戦車なんてひとつ残らずダンケルクに捨ててきちゃったし! 戦車どころか軍服まで足りてない状況で、しょせん民兵でしかない
ホーム・ガードはこんな訳分からん兵器しか持たせて貰えないのだ!

すっかりふて腐れた少年にさらに追い打ちを掛けるように、「君はどこそこの防空監視所勤務ね」のひと言が。完全にやる気を無くしつつ
指示された海沿いのへんぴな村へ行ってみたら、そこにあるのは前の大戦からずっと倉庫で埃を被っていた空中聴音機と全盲の美少女ですよ。
今日も今日とて白い手で聴音機のハンドルを回して敵機を探す彼女にボーイミーツガールでフォーリンラブって寸法です。分かりやすいな!
たまーに敵機の音を捉えても、電話も無線もないから情報を伝えられない。私物の自転車漕いで村で唯一電話が引いてある
郵便局まで行くのが少年の仕事な訳です。たった二人の監視隊。空襲警報が鳴れば聴音機の隣に掘られたタコ壺のように狭い防空壕に
彼女の手を引いて入るわけです。座るのがやっとの防空壕で小さくなってると、遠くの街がバカスカ爆撃を喰らっている音だけが聞こえるわけだ。
やべー、こっち来たらどうしようとか思ってると「今日はもう帰るみたい。音が遠くなっているから」って彼女が事も無げに言うんです。
目が見えていないっていうけど俺よりよく見えてるやん、と少年は感心することしきり。ありもしない「ドイツ兵空挺降下」のニュースに
慌てふためいたり、手に手を取って散歩したり、視線に気がつかないだろうと思って胸元見てたら思いっきり感づかれたりと
そんなこんなで仲良くなる二人とは裏腹にとうとう彼らの村にも爆撃機がやってきて……。

あっ、これデッドエンドかバッドエンドかどっちかにしかならない話だわ。アニメなら鉄砲担いだ空飛ぶ魔女が助けてくれるのにね。
残念ながらRAFは損耗が補充を上回るくらいの死に体なのだ。恨むなら妖精大好きダウディングおじさんを恨んでくれ……。



精動運動とメシウマの話

ちくま新書の「理想だらけの戦時下日本」を読んでいる。
国民精神総動員運動(精動運動)の背景と実情を分析した話。なんというか、読んでいていろ
いろトホホな気分になってくる本だ。たとえば日の丸の取り扱い。「昔は祝祭日には国旗を掲
揚していた」というが、その昔ですら掲揚率は一割半。新聞記事で「壁掛けや机がけに流用し
ないで」と注意しないといけないほどぞんざいに扱われていた。新聞の投書曰く、出征する兵
士を見送った後の駅のホームには小国旗がそこかしこに捨てられていて悲しい、という。逆に
「国旗を正しく取り扱おう」みたいな運動が推進されたらされたで「出征軍人に寄せ書きした
日の丸を送るのは国旗を汚すことになるのでけしからん」「バーやカフェの宣伝マッチに日の
丸を使うな」というあまりにもしょうもない議論が起こる。(なんか2ch的というかツイッタ
ー的だな!)「日の丸弁当を普及させよう→北海道の家庭じゃ梅干しなんて作りません→じゃ
あ漬け物でもOK」という、ギャグみたいなことを旭川市では大まじめでやっていたらしい。

さて、続いて贅沢廃止運動が起こり大都市の富裕層を狙い撃ちにしていろいろ愉快なことをし
た。婦人団体の協力を得て街頭へ繰り出した人々は市内の目抜きの場所に立って「自粛カー
ド」なるものを身なりのよい女性に手渡す。そこには「華美な服装は慎みましょう、指輪はこ
の際全廃しましょう」と記されていた。さらに教科書でもおなじみ「贅沢は敵だ/日本人なら
贅沢はできないはずだ」の立て看板が東京市内だけで1500本も立った。何も好き好んでこん
なことをやっているわけではない。その背景には庶民の、精動運動による格差社会の平準化の
期待があった。なるほど精動運動でおれたち貧乏人の暮らしぶりも貧しくなる。しかしそれ以
上に金持ち連中の暮らしもぐっと下方に押し下げられる。暮らし向きが同じ十分の一になるに
しても100が10になるのと1万が千になるのとでは絶対的なダメージが違う…。

今日的に言えば「メシウマ」といえるこのほの暗い感情は社会のあちこちに吹き出した。国の
威を借りた平民のおばちゃんが雑誌片手に上流階級のご婦人に日頃の恨みとばかりにだめ出
ししまくる。さぞ溜飲を下げたことだろう。アメリカ人ジャーナリストの観察によれば「街で
豪華な着物や派手な洋服を身につけている女性は、愛国者に呼び止められ、説教される」。身
なりのいいご婦人が一掃されると、上記の日の丸議論のように、今度は平々凡々で人畜無害な
国民同士で不毛な「贅沢指摘合戦」が始まる。(この辺にネット世界と同じものを感じるがう
まく言葉にできない)

「戦時下の国民は精動運動に掛け金をおいた。戦争が社会を平準化する。国民は期待し
た。戦況が悪化していく。社会は下方平準化する。社会に暗い情念が渦巻くようにな
る。『贅沢は敵だ!』下流階層の多数派が内心ほくそ笑む。平時であれば生け垣を巡ら
す大号邸で暮らす令嬢が勤労奉仕や防火訓練で人前に出てくる。彼女がどのように見ら
れたかは想像に難くない。下方平準化社会は不健全な社会だった。さらに恣意的で不徹
底な戦時統制経済が社会のモラルの荒廃を招く」

娯楽目的のスキーは御法度だったが、健康増進のためと言えば許された。売り惜しみ、買いだ
め、闇取引をしたものが経済的勝利者となり、まじめに自粛自戒して耐乏生活を送っているも
のが嘲笑された。そして、経済の戦争になると結局下流階層は金持ちに勝てない。彼らは金・
コネ・闇市を使ってわりと好き勝手やっていた。彼らが本当に没落したのは、敗戦による新円
切り換え・預金封鎖・財産税のトリプルパンチを食らった後である。しかしその頃には、そん
な没落した富裕層を見てあざ笑うはずの国民たちは明日の晩飯にも事欠く生活で、とてもそん
な余裕はなかった。国民がようやく生活を立て直した頃には、戦後のどさくさで一儲けした成
金たちが新たな富裕層として君臨していたのだ。

「平等な社会は実現しなかった。国民は賭けに負けた」



演劇には練習がつきものだという話

卒業式の練習というのがどうにも嫌いだった。

部活の練習は試合のためだ。楽器の練習は発表するためだ。じゃあ卒業式の練習は一体全体何の
ため誰のためにやるのか? 少なくとも卒業生のためでは無いらしい。卒業生が「卒業式をおご
そかに行いたいので是非練習につきあって欲しい」などと言うところは見たことが無い。在校生
のためでも無いらしい。卒業式に出たいかどうかを確認された覚えはないし、そもそも在校生が
居なくとも卒業式は何の問題も無く行える。だいたい、合唱の声が美しくなかったり教頭が「
礼!」と叫ぶたびに上げ下げされる頭が多少ばらばらだったりして、誰の何が困るのか? 「先
生や下級生の皆様にお世話になりました」って、おれはお世話になったつもりもお世話したつも
りもないし、教師のことを殴ってやろうかと思ったことはあっても恩義を感じたことは無い。勝
手に代表して話を進められても困る。「涙の卒業式」「感動の卒業式」という名の共同幻想を現
出させるため、大人も子供も一緒くたに水戸黄門並にワンパターンな行為を繰り返す。次の日に
なれば自分すらその中身を忘れるような薄っぺらいスピーチをいつまでもやっている校長も、そ
こでは舞台装置の一つに過ぎない。「いじめられていたので本当は出たくも無い」「嫌いな教師
の顔をこれ以上見たくない」「卒業式なんて何の意味も無い」という意見はハナから無かったこ
とにされ、生徒一人一人の名前を呼んでいるようで個人をまったく無視しているという逆転した
現象がそこでは見られる。教員とか、保護者とか、来賓として招かれた暇なOBや市議会議員を観
客とした下らない演劇。それが卒業式であると中高時代のおれは考えていた。

高校3年の卒業式のことだ。大学受験が終わった安堵感もあっておれは式の最中にもかかわらず
うとうと居眠りをしていた。ステージ上では在校生を代表して女子生徒が何事かをべらべらしゃ
べっている。ところがその女子生徒は、自分が話している中身に自分で感極まったのか、涙を流
し始める始末。そのまま涙声になって送辞を続ける彼女。眠気が吹っ飛んだ頭で左右を見回せ
ば、そこにはスピーチを満足そうに見つめる「観客」たち。卒業式=感動=涙 みたいな安っぽ
い概念にがっちり捕らえられてその先棒を担ぐ、いや担いでいるという認識すら無く、あくまで
自然体のまま、まったく自分自身の内からわき出したと言わんばかりの「感動」を表現する女子
生徒が薄気味悪くて仕方が無かった。その実彼女は「涙もろくて先輩思いな模範的在校生」とい
役割を演じているに過ぎない。そして役割通りに涙を流した瞬間、筋書き通りの「感動」
が演出される。

勝手に感動している壇上の彼女も、卒業生の名前を20名分とて言えまい。では彼女の言葉は誰に
向けて話されているのか。彼女の言葉だけではない。あの壇上で卒業式の名を借りて好き放題放
たれる言葉は、誰をますます勇敢にし、誰をますます正しく、誰をますます自由にしてくれるの
だろうか。あのおかしな光景はいったい何だったのか? 今もっておれはその答えを探してい
る。


……読み返してみるとなんかこの文章、すっげぇ私怨入ってるな(笑)。笑って読み飛ばしてく
れれば幸い。おれと似たようなことを考えている人がネット上に結構居たのでリンクを張ってお
きます。



行く人来る人逃げる人

「特攻に殉ず―地方気象台の沖縄戦」を読んでて思ったことをつらつらと。

これ、沖縄戦が舞台の話ではあるけど、同時に沖縄へ行く人去る人の話でもあるんだなぁ、と。
沖縄県知事が敵前逃亡同然に逃げ出したって話は「いや、実はそうじゃないんだ」という擁護ま
で含めて有名だけど、「観測業務は四六時中、絶対に絶やしてはならない」と言っていた地方気
象台の台長も架空の会議をでっち上げて逃亡、それに怒っていた台長代理兼無線課長も後に転勤
工作をして県外へってなぁ……。上の人間がそうするなら当然下の人間もする。昭和19年1月に9
8人居た気象台の職員は20年2月には37人にまで減っていた。この数字には修業年限が短縮され卒
業扱いとなった16、17歳の青二才が十数名含まれているのだからほぼ壊滅と言える。とはいえ皆
が皆逃げ出したわけでも無い。東京への転勤を蹴ってまで残る者。残るつもりだったのに中央へ
帰還せよと辞令が出た者。覚悟を決めて沖縄へ赴任するつもりだったのに、空襲で列車が止まり
船が無くなり、ついには飛行機を待つ間に戦闘が始まりついに渡航できなかった者。石垣島へ赴
く途中に那覇で足止めを食らい沖縄戦に巻き込まれた者。本当にいろんな人たちが居たようだ。

例えばさぁ、君が昭和19年冬の沖縄に(0079年12月末のア・バオア・クーでもなんでも好きなよ
うに読み替えて!)いると想像してみてよ。運良く本土からお呼びがかかったとするじゃん。職
場の同僚に転勤を伝える際、まぁ表面上は「本当はここに残りたいんですけど……」みたいな事
は言うでしょうよ。でも本心では多かれ少なかれ「これで戦地から脱出できるぜ! やったぜ!
」と思っちゃうでしょ。それは別に恥ずかしいことでも何でも無い。質でも量でも圧倒的に勝る
敵が来週にでも攻め込んでくるかもしれないんだから、逃げ出したいと思うのは自然なことだ。
ついこの前には十・十空襲があって那覇市街が壊滅したばかりなんだし。「知事や台長みたいに
策を弄して積極的に逃げ出そうとはしない。同僚や仲間に申し訳ないと本心から思っている。し
かし転勤を断って残る勇気も無く、『辞令だからしかたない』との言い訳を盾に沖縄から去る」
ってのが最大公約数的振る舞いなんじゃないかな。繰り返すが大なり小なり誰だってそう考える
のであって、良いとか悪いとかの話ではない。

けれども。

けれども残った人々が居た。自分の部隊に命令が下って好む好まず関係なく沖縄に放り込まれた
のなら、他人の都合で左右される自分の運命をぼやきながらも覚悟を決めることはさほど難しく
ないだろう。それこそさっきの「命令だから仕方ない」ってやつだ。されど自分自身で選択した
運命、それも十中八九死ぬような運命への覚悟を決めるのは並大抵ではない。気象台・海軍気象
部隊の人々を突き動かしたのは何だったのか。いろいろな考え方があると思う。

……と、格好つけて書いてみたが、「観測・通信機材をかき集めるためあちこちに出張って、昔
の貸しをネタに機材をゲット。公用出張扱いなので出張旅費が支払われるけれども移動は軍用
機、食事と宿泊は軍施設で済ませているので金がかからず、もの凄い勢いで貯まった金で宴会を
開きまくり。そのせいで『気象班は和気あいあいで酒が飲み放題』と転属希望者が次々」とかユ
ーモアのあるエピソードもあったりする。こういう気の合う仲間のために残る! ってやつなん
だろうなぁと。



猫おばさんとアンチまとめwikiの話

例えば。

ゲームでもアニメでも漫画でもいいが、期待外れだったり出来が良くなかったりムカつく要素の
あるものに2chやブログやツイッターで愚痴を言うというのはよくあることだろう。2chのアンチ
スレに居着く、というのもまぁ分かる。しかし。そこからさらに一歩進んでアンチまとめwikiな
るものをぶっ建て、そこで情報交換するというのにはもの凄い違和感を覚える。「そんなものに
費やす負のエネルギーを楽しいものを探すのに使ったら」などという、通り一遍の言葉では表現
しきれない、何か超えてはならない一線というものを「2chのアンチスレ」と「アンチまとめwik
i」の間に感じてしまうのだ。もちろん人によってしきい値は異なろう。アンチスレを見てるっ
てだけで十分非生産的だと思う人も多数いるに違いない。だが、「アンチまとめwiki」という単
語に、おれは不思議と強烈な忌避感を感じる。

「不幸になりたがる人たち(春日武彦著 文春新書)」という本で似たようなエピソードが載っ
ていた。結構長くなるが引用する。

世の中には、口に出して言ってしまうとミもフタもないが、感覚的には案外とはっきり
している事象というものがある。米国の推理作家ローレンス・ブロックは元アル中探偵
のマット・スカダーもののシリーズで有名だけれど、ニューヨークで古本屋を営む泥棒
バーニィのシリーズも結構人気がある。わたしにはバーニィもののほうが好みに合って
いるが、シリーズ六作目の『泥棒は野球カードを集める』(田口俊樹訳 ハヤカワ・ポ
ケット・ミステリ 1996)には、バーニィとガールフレンドとが「四匹目の猫」と「猫
おばさん」との関連について話す場面が出てくる。ガールフレンドの彼女が力説すると
ころによれば、誰であろうと猫を一匹だけ飼うのは問題がない。もう一匹飼ってみるの
も構わない。仲間が増えてかえって良い。さらに三匹目の猫を飼うのも差し支えは無
い。ただし、三匹目が限度であり「境界線」であると彼女は主張するのである。四匹目
の猫を飼ったときに、すでに一線を越えてヒトは「猫おばさん」化してしまうというの
である。

「何を?」
「一線を越えちゃったってこと」
「なんの線? それを超えたというのは?」
「”猫おばさん”になったってこと」私は黙ってうなずいた。ようやくわかってきた。
「わたしの言っているような女の人って、あなたにもわかるでしょ?」と彼女は続けた。
「どこにでもいるわ。友達がいなくて、ほとんど家の外に出ることもなくて、死んだあとで、
家に三十匹も四十匹も猫がいたことがわかるってやつ。さもなければ、アパートの一室
に三十匹、四十匹の猫と閉じこもっちゃって、不潔さと悪臭で同じアパートの住人たちが
立ち退きを求めて訴えるってやつ。時々、こんな事件も起こるわね。一見普通に見えた
人の正体が、火事とか強盗とかで明らかになるってやつ。それが”猫おばさん”なのよ、
バーン。わたしはそんなふうにはなりたくないの」

ずいぶん飛躍した意見ではある。五匹も六匹も猫を飼いつつマトモな人間はいくらでも
いるだろう。一匹しか飼っていないのに頭のオカシイおばさんだっているに違いない。
だが、イメージとしては、たしかに四匹目の猫が正常と異常との境界であるといった意
見にはある種のリアリティーがあるように思われる。もちろん様々な付帯条件が必要で
はあろうが、とにかく猫が三匹をオーバーしたとき、頭の隅で徐々にアラームが鳴りは
じめるということであり、そのような感覚的・直感的判断というものを侮ったり、ある
いは「差別や偏見だ!」といった偏狭な正論で葬り去ってしまうことは、決して世の中
を住みやすくする要素とはならないように思えるのである。

四匹目の猫とアンチまとめwikiを同列に扱って良いものかどうか。もちろん人によって意見は違
うだろう。だがおれは、そこにアンタッチャブルな何かを、「猫おばさん」を見てしまったとき
と同じような不安を感じずにはいられないのである。勝手な話だと承知してはいるのだが。



サソリとしての本能を乗り越えろ!の巻

サソリくんが川を渡ろうとしてカエルくんに頼んだ。
「僕を背中に乗せて向こう岸まで連れて行っておくれよ」
けれどカエルくんは「そう言って、途中で僕の背中をぶすりと刺すつもりだろう」と嫌がった。
するとサソリくんは「そんなことしないよ。そしたら僕も溺れてしまうじゃないか」と言った。
それもそうだと納得したカエルくんはサソリくんを乗せて川を渡り始めたけれど、中ほどに
来たところで突然サソリくんはカエルくんの背中にしっぽの針を突き立てた。
溺れながらカエルくんはサソリくんに聞いた。
「どうして刺したんだい。君まで沈んでしまうのに」
サソリくんはこう答えた。
「ごめんよカエルくん。これが僕の本能(nature)なんだ」
有名なサソリとカエルの寓話である。ネット上でも様々な解釈がされていて面白い。果たしてサソ
リくんは本能の赴くまま巻き込み自殺的に死ぬしかなかったのか。サソリくんは「獲物の背中を見
たら刺しちゃうのは自分の本能」とはっきり認識している。これってちょっと凄くないか。だって
「俺はホモ・サピエンスだから本能で○○しちゃうかも…」とか「自分は老or若/男or女だから本
能で××しないよう気を引き締めなくちゃ」なんて言ってる人間など見たことがない。「本能」と
訳しても「性(さが)」と訳しても良いが、とにかくサソリくんの自己認識レベルはもう哲学者と
かのそれである。

そこまで自分が何者かを理解しているサソリくんがカエルくんの背中を刺さずに済む方法。それは
もうサソリを辞めることではないか。サソリである以上「サソリのくびき」からは逃れられない。
彼(彼女?)は自分がサソリであることに気がついた。自分ではどうしようもない本能が自分を突
き動かすことさえあることも発見した。そこまでたどり着いたのなら、あとはサソリを辞めるだけ
だった。本能が命じるままやたらめったら獲物に針を突き刺すだけのその他大勢のサソリは、自分
が何者であるかすら知らない。知らないのだから、自分を辞めることも出来ない。

何もおれはサソリくんに切腹しろなどと言っている訳ではない。サソリくんには「サソリであるこ
とを辞めたサソリ」、メタ-サソリとかサソリ-TypeBとかになって欲しかった。サソリくんが「サ
ソリのくびき」から解かれサソリを辞めたとき、彼(彼女?)ほどに自分を省みない人間たちもま
た、男でありながら男の本能が引き起こすトラブルを回避し、日本人でありながら日本人的本能が
呼ぶ失態を避けられるようになるのだろう。人間の未来を尻尾のある哲学者に託すのは正直かなり
気が引けるところではあるが。



私はロボットではありません(たぶん)の巻

「私はロボットではありません」

おれは黙ってチェックを入れて認証を突破する。しかし本当におれはロボットではないのか? 決
められた時間に起きて、決められた時間に出勤して、決められた仕事をして、決められた時間に帰
る。この世界の賃金労働者のほとんどがそうであるように、おれもまた交換可能で代替可能な機械
の一部に過ぎない。自分がロボットとどう違うのかを証明するのはますます困難になりつつある。
「いや、人間にはそれぞれ個性や意見があるじゃないか」と言うかもしれない。しかし例えばおれ
の意見や考えって、実はおれ自身が生み出した物なのではなく何かからのコピーや引用じゃないの
か? ネットや新聞や本からのつぎはぎで作られた、誰かと似たような「自分の意見」「自分の考
え」を持ち、誰かと似たようなスマホを使って、誰かと似たような意見を発信する。おれって頭の
先からつま先までもう典型的な、どこにでもいる、なんでもない、ごくごく普通の、全く無害で平
均的な人間になってんじゃないか?
いや、もちろんささやかな楽しみはあるよ。あるけどね。「家畜が餌を食うことは家畜自身のよろ
こびであるからといって、それが資本の再生産過程の一環であることには変わりがない(マルクス)
」んだろ? カレーにするかカツ丼にするか、トヨタにするかホンダにするか程度の自由って何だ
よって思うの。いやいや確かに「世の中の人間の9割9分は平凡で特徴の無い普通の人間だろ。そう
いう人たちこそが社会を回しているんだろ」という理屈は疑いようも無く全く正しい。正しいが、
しかしそれはおれがロボットで無いことの証明には全くならない。それどころか「工場の溶接ロボ
ットや自動旋盤も確かに平凡で特徴が無いよな」みたいに思っちゃうの。おれってただのバイオロ
ボットじゃないかと時々哲学めいた事を考えちゃうわけさ……。


「私はロボットではありません」


今度この認証を見た時、果たしておれはチェックを入れることが出来るだろうか。



女騎士たちの戦場を用意しろ!の巻

確か宮武一貴だったと思うのだが、ダンバインのメカデザインについて「ファンタジー世界だろう
と職人が工具を使って作っている以上、遅かれ速かれ工業デザインの要素が発生する」的なことを
言っていたと思う(全然別の人だったらごめん)。ネットを見れば、中世の騎士が着る全身鎧は一
人一人の体格に合わせて作られたオーダーメイドだから非常に高価で他人が着ることは出来ない、
一子相伝で少しずつ手直しされ長期間にわたり使用された…みたいな話がまことしやかに語られて
いる。それらの「伝説」がどれくらい正しいのかはさておくとして、15-16世紀にはMunition armour
と呼ばれる規格化された大量生産品の鎧が発明されている。異世界ファンタジーであろうといつ
かはこのような量産品が生まれてくるのは間違いあるまい。工業的に大量生産された武器と鎧が普
及すれば、同じ出で立ちをした無名かつ無数の兵士達で戦場が埋め尽くされるのに時間は掛からな
い。それぞれが形の異なる美しい鎧を身にまとい戦場を賭ける女騎士たちの居場所はどんどん少な
くなっていくのだろう。もしくはオルレアンの乙女のように実戦力としての期待をされていないマ
スコット・広告塔として生きながらえていくのだろうか。宣伝役に徹することを考えた場合、実用
性が無くとも派手で格好良くてエロい鎧を着込むというのはあり得よう。いわゆる姫騎士的な見栄
え重視の鎧を身につける女騎士と実用一辺倒の鎧を身につける女騎士とで二極化が進む訳だ。「指
揮官としての女騎士」と「兵士としての女騎士」と言い換えることが出来るかもしれない。

華やかなくっころ系女騎士の真の敵はオークでもゴブリンでも触手でもない。それは工業機械なの
だ……。



環境保護を唱えるなら息をするな?の巻

思想や主張の純潔性を求めて止まない人たちがいる。例えば平和運動家に「戦争を批判するなら戦争の産物である缶詰を食うな・GPS
を使うな」とか「軍用ネットワークとして作られたインターネットを使うな」とか食って掛かる人たちがそれだ。後者は誤った俗説で
あるが未だにこのフレーズは好んで使われる。(詳細はこことかここを参照)
震災の後「原発に反対するなら電気を使うな」なんて言説が出てきたが、それと同じだ。こういうことを言っている人たちは「中国の
批判をするなら漢字を使うな」とか「化成肥料や農薬を使った野菜を食べたいなら化学兵器を肯定しろ」とか「ペットを飼いたいなら
肉を食うな」とか言われたらどうするつもりなのだろうか。あるいは逆に「環境保護を唱えるならマイカーを保有するな」「宇宙ロケ
ットとその副産物(気象衛星やGoogle Earthとか)を使いたいならナチスを賛美しろ」と言い出さないのは何故だろうか。

原発推進派は核兵器を賛美しないといけないのか? 護憲派でなければ憲法が保障する諸権利を行使できないのか? 捕鯨に反対する
なら牛や豚も食べてはだめなのか? アメリカの下僕でなければiPhoneを使ってはならないのか? アニメが好きならアニメーターの
貧困を黙認しないといけないのか? 1日8時間労働が適用されるのは社会主義に影響された労働者だけなのか? 中華料理が好きなら
中国政府も好きでなければならないのか? ティーガー戦車を格好いいと思うならナチスも格好いいと思わねばならないのか? 警察
の不祥事を糾弾する人は町のお巡りさんに助けを求めてはならないのか?

もちろん、まったくもってそんなことはない。

もしこのようなことを言っているマダム・ヌーみたいな人たちがいるとするならば、彼らは「ある主張をする人物はその内面も清廉潔
白で全く後ろめたいことが無く、完璧に言動一致していなければならない」と思い込んでいるのだろう。例えば、彼らは市民デモに過
激派の絞りカスみたいな連中が参加していることを目ざとく見つけ、「こんな怪しい連中がデモに参加している。だからデモのお題目
は間違いであり嘘だ」と言い出す。彼らは何が気に入らないのか。「怪しい連中」のせいで純真無垢かつ純潔でなければならないデモ
の主張が「汚染」され、デモの正当性までが無くなったと考えているのだ。彼等はナイーブなまでに純潔性を求めているため、ある人
物や団体の主張に瑕疵や言動不一致な点がわずかでもあれば、どんな主張だろうと偽善で嘘で不正になると思っている。だが、主義主
張や価値観が異なっても利害の一致で共闘するのは政治の世界のみならず家庭や企業でも起こっていることだ。それに指さしたって何
も良くはならない。国会で全会一致で成立した法案なんていくらもあるが、「共産党が賛成しているからこの法案はダメ!」と叫んだ
ところで条文が変わるわけはない。良い人達が悪いことをすることもあるし、悪い人たちが良いことをすることも出来る。「この番組
良いこと言ってるな」と思ったら青汁や健康食品のCMだったりするようなものだ。どだい純粋で純情だからといって主張が正しいとは
限らない。カルトの信者が熱心に教祖の言うことに耳を傾け、篤い信仰心を持ち、ゴミ拾いの奉仕活動や町内の草むしりに無私で取り
組むいい人であったとしても、カルトであることに変わりはない。主張を戦わせるべき「場」は個々人の人柄というフィールドではな
い。

「アグネス・チャンは日本ユニセフ協会の大使として募金を求める一方で豪邸に住んでいる。だから嘘つきで人でなしで人間の屑だ」
なんて言いがかりと根は同じだ。彼女に限らず自分の財産をわざと見せびらかすような人間は悪趣味だし、寄付金を横領していたらそ
りゃ犯罪に違いない。それはともかくとして、慈善事業に純潔性を求めるとどうなるか。「慈善事業をする人間はもう目が眩むほどの
聖人君子でなければならない」「慈善事業は無償でしなければならない、やる人は素寒貧にならないといけない」なんてルールが出来
たら誰も慈善事業なんてしなくなるに決まっている。ビル・ゲイツが現役時代のマイクロソフトはあくどい模倣をしていたりするが、
だからといってビル&メリンダ・ゲイツ財団のやっている慈善事業が偽物で誤りということにはならない。マザー・テレサにすら生前
から黒い噂があったそうだが、だから彼女のやった事は詐欺でデタラメで悪党だとしてしまったら、一体どこの誰がまともな慈善家な
のか? そうやって慈善家の最低基準を押し上げてどこの誰が救われるのか? もっと言えば、「あいつは偽善者、こいつは偽者」と
指を差すだけの「純潔性警察」は何人の困窮者を助けたのか?

舟が沈みそうになれば呉の人間や越の人間とでも協力するし、インコや文鳥を飼いながら平気でフライドチキンを食べるのが人間だ。
完全無欠で潔癖な人間などいやしない。君だって後ろめたいことの一つや二つあるだろ。けれどそんなあやふやでグレーで日和見な人
間達こそが、苦労しながら社会を良い方向へ変えてきた。つまりどういう事か。おれや君のようなダメ人間ですら社会をより良くでき
るのだ。そんな事を言われてもやる気は出ないだろうが(書いてるおれも全然出ない)出ないなら出ないなりに、せめてやる気のある
人にナンセンスな純潔性問答を仕掛けることは止めた方がよい。

余談。「インターネット軍事技術伝説」を調べているうちに「数学は暗号技術の発展により軍事技術の一分野になった」とか凄いこと
を書いている人を見かけたが、本気なんだろうか。この理屈なら「砲弾の飛距離を求めるために物理学は軍事技術になった」とか、
「銃や大砲を製造するために冶金学は軍事技術になった」とか何でもかんでも軍事技術に出来てしまう。自衛隊が自衛隊のために自衛
隊の予算で全く新しい筋トレ法を発明したからといって、筋トレ法が「軍事技術」とやらになるはずもない。トリアージはナポレオン
時代のフランス軍が始めたとされるが、トリアージのことを救急医療とか救急医学に分類することはあっても「軍事技術」と分類する
ことは普通ない。軍事技術とはいったい何を指すのかぜひ聞いてみたいところだ。



オークにだって家庭や仕事があるだろう、の巻

アルティシモのトークのために作っていたのだが、分量が多くなりすぎて近況欄掲載用に方向を変えたネタ。「senka要員じゃない
オークの生き様」とか書いてみたかったんだよ…。↓以下本文↓

オークに関してはありとあらゆる人々がありとあらゆる罵詈雑言を浴びせている。やれ不潔だ、知能が低い、やられ役だ……。本当
か? 本当にそうなのか? いや絶対に違う。そんなへなちょこな種族が人間やエルフとの生存競争を生き延びることができるはずが
ないし、本当にバカで間抜けでドジだとしたら、オークに負ける女騎士や女エルフはさらにおバカだということになってしまう。そこ
で、彼等を擁護するための本をネットオークションでようやく手に入れることができたので、その一部を抜粋して紹介する。著者のク
ッコロニウスは従軍経験があり、一兵卒として参加した戦いでオーク軍に手ひどい敗北を喫したのをきっかけにオークの生態に興味が
湧いたそうだ。そんな彼があちこちを訪ね歩いてオークの社会・文化・軍事についてまとめたのが以下の著作である。

民明書房刊 クッコロニウス著「女騎士のためのオーク早わかりガイド―戦い方からsenkaのされ方まで―」より
――オークの戦士階級は優れてエリートである。通常の場合、市民権を有する家庭、すなわち兵役と参政権という二つの栄誉を与えら
れた家庭の長男が兵士の卵としてオーク戦士団へ迎え入れられる。彼等は兵役を優れた者にのみ与えられる名誉と考えており士気は極
めて旺盛である。戦士団の兵士はオークの戦争目的が一族の繁殖と繁栄のために良質な母体を獲得することにあるとよく理解している
ため[訳注:つまり健康で美しい女性をさらって子供を産ませるのが目的ということ]戦争で獲得した捕虜、とりわけ女性は非常に丁寧
に扱う。一般に想像される、金にも性にも貪欲で品の無いごろつき兵士という印象は彼等には全くふさわしくない。そのようなイメー
ジに似つかわしいのは補助戦士団であり、こちらは市民権の無いオークたちから構成される。食い扶持を得るために、あるいは戦場で
の略奪目当てに参加した者も多く、文字通りの野蛮人と呼んで差し支えない。補助戦士団は戦闘においては偵察と囮を兼ねて真っ先に
使いつぶされるため士気は低く、武具を自前で揃えなくてはならないため装備の面でも正規軍に劣る。その点については淡い同情を禁
じ得ない。
兵役に就くオークは15歳になると同時に戦士団に入り、そこで兵士としての訓練を受ける。特筆すべき点として、戦士団は単なる兵士
養成にとどまらず教養や学問をも教える機関であることか挙げられる。事実、兵士から学者や官吏の道へと進むオークというのはまま
見られる。戦士団に所属するオークには兵役期間の終わりというものがなく、基本的には彼等が望むだけの間兵士でいられる。その間
の生活や給金は戦士団によって保障されるため、多くの兵士が可能な限り長く居続けようとする。戦士団から引退する主な理由は以下
の通り:重い戦傷のため、または加齢や病気のために兵士としての努めを果たせなくなる。一人っ子のため家を継ぐ必要がある。戦場
で妻となる女性を得ることに成功し、家庭を築くことにした。集団生活に飽きて気楽な故郷が恋しくなった。学問や政治に興味が出て
そちらを目指してみたくなった。商売に関心を持つようになりオーク交易組合に籍を移すことになった。
最後の一つは特に重要である。オーク交易組合はオーク戦士団の下部組織であり、卸売・金貸し・両替・倉庫業とおおよそあらゆる商
業活動を手がけている。彼等は森に住む種族であるが、そこで産出する貴重な香木を始めとしたいくつかの高級木材については専売を
許されており、相当な金額を稼ぎ出しているという。様々な商売から得られた利益の一部は戦士団に還元され、武具の調達は言うに及
ばず、兵士の福利厚生や傷病兵士、遺族への見舞金などにあてられている。つまりオーク戦士団は自分で自分を養うことができるので
ある。
これは極めて重要なことを示唆してはいないだろうか? 我々人間は常日頃オークのことを野蛮人だとあざ笑っているが、この点に関
しては我々の方が野蛮人に見えてならない。軍隊を招集して戦を行うのは、突き詰めれば自らの存在を永続化させるためである。諸侯
が自らの血筋と領土を永続化しようとするなら、仁徳に加えて金庫から溢れるほどの金銀が必要なことを認めなければならない。健全
な財政を欠いた単なる軍事的勝利にいかほどの意味があろうか?[訳注:クッコロニウスはこの著作が書かれる約1年前に起きたショー
クシュー戦役について遠回しに批判している。交通の要所であるセン川の支配を巡って人間軍とオーク軍との間に戦端が開かれたのだ
が、人間軍の司令官フナリ卿は自分たちが兵数でかなりの劣勢にあることに悩んでいた。彼は戦勝の暁にはセン川での水運の独占を認
めることを担保として商人ギルドから多額の融資(実質的には投資)を受けることに成功し、その資金でもって大規模な傭兵軍を組織
し戦闘に臨んだ。緒戦はもくろみ通り勝利を得ることができたものの、莫大な戦費がじわじわ軍全体を苦しめることとなる。末端の傭
兵に対する給金の遅配・一部未払いが横行するようになり、脱走者が相次いだ。それを見計らったかのようにオーク軍は反撃に転じ、
ショークシューの戦いにおいて人間軍に大勝を収めた。戦局は逆転し、セン川はオークが支配するようになったのである]
――オークの戦士1部隊は指揮官1名、副官2名、旗持ち2名を含めた100名から成るのが通例である。彼等は密集隊形による白兵戦を好
むが、これは人間・エルフその他の種族とオークとの間に圧倒的な体力と筋力の差があるためである。白兵でオーク戦士団と正面切っ
て戦える人間の兵士は重く頑丈な鎧に身を包んだ重装歩兵くらいのものであるが、このような歩兵は大変貴重な戦力であり、戦闘の決
定的場面まで温存されるのが普通である。そのため、オークと戦う側は弓矢、クロスボウ、スリング、投げ槍とあらゆる手段を用いて
射撃戦に持ち込もうとするのが常套手段である。戦場で対峙するオーク戦士団と人間の軍勢との間では、いかにうまく接近するか、い
かに近づかれずに攻撃するかを巡って長時間の駆け引きが行われる。双方が有利な位置に付けないまま日暮れを迎えたため勝敗が翌日
に持ち越された例も少なくない。
――オークの戦士が持つ最も基本的な武器は棍棒である。太さは男性のスネほどもあり、長さは3カビタス半[訳注:肘から中指の先ま
での間の長さに由来する身体尺。1カビタスはおよそ45cm]から4カビタスほど。よく乾燥させたカシの木から作られており、折れるこ
とを想定して2本携行する。オークによっては3本以上携行したり、長短2種類の棍棒を用いることもよくある。これほど長い棍棒は槍
としても機能する。実際オーク戦士団では棍棒による打撃のみならず「突き」の訓練もするそうである。オークが金属製の武器や飛び
道具をあまり使わない理由として、ソクオチのニコマリヌスは宗教的な理由やオークの不器用さを挙げているが、これは正確ではな
い。オークたちがコミクェーと呼ぶ戦闘、「母体の獲得」ではなく純粋な軍事的勝利を求めるために行われる決戦では恐ろしいほど巨
大な戦斧や長槍を見ることが出来る。これらの武器にはもちろん鉄製の刃が付けられているし、またオークの体格にふさわしい長弓の
使用もいとわない。これは矢の飛距離がエルフのそれの4割増しという強力な武器であり、あまりにも強い筋力を求められるためエル
フには弦を引ききることさえ出来ない。矢には錐を意味するモヒカと呼ばれる鏃が取り付けられている。この細長い鉄製の鏃とオーク
の強靱な腕力が組み合わさることで、放たれた矢は人間が着込んで戦うことのできるもっとも頑丈な鎧でさえ布きれのように貫いてし
まう。しかし普段の戦いでは彼等はこれらの破壊的武器をめったに用いないのだ。すでに述べたようにオークの戦争とは母体獲得のた
めの戦争である。戦場で凜々しく勇敢に戦う人間の女騎士やエルフの女弓兵は母体としての価値がとりわけ高いとされる。強い母体か
ら強い子供が生まれると考えるのは実に自然な発想である。そのような価値ある母体をむやみに傷つけないよう、あえて弱い武器を使
っているのだ。そのぶん自分たちが無用な傷を負う危険があり、貴重な鉄資源は主として防具用に振り向けられている。オーク戦士団
の兵士は皆が金属製の兜、盾、籠手、すね当てを支給されている。巨大な胴体を守るための鎧を作るだけの鉄は無いようであり、通常
は当て物付きの革製鎧を身につけている。人間の軍勢を打ち倒した際の「戦利品」として回収した金属製鎧を継ぎ接ぎした手製の鎧が
まれに見られるというが、平均的な鎧の重さとオークの体格を考えた際、その重量は並大抵のものではない。


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最終更新:2018年04月23日 07:59