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ブラック企業日本軍


はじめに

日本軍という組織がどうにも人命軽視で人を大事に扱わない組織だということは広く知られている。しかし具体的に、兵士をどれくら
いどう粗末に扱っているのかを横断的に述べた著作は多くない。今回は中公新書の「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」を元ネ
タに日本軍の「ブラック企業」ぶりを見てみたい。なお、本文中の引用はすべてこの本からのものである。

手荒に扱われる兵士たち

日中戦争が長期化するにつれ、陸軍では歯科治療の問題が持ち上がった。戦場では毎日きちんと歯を磨くような暇はなく、多くの兵士
が虫歯を持っていたのだ。それまで歯科治療に当たっていたのは嘱託の歯科医であり、人員不足が著しかった。前線の野戦病院には歯
科医が配属されず、やむを得ず現地の中国人歯科医に治療してもらう兵士までいたようである。1940年3月にようやく陸軍歯科医将校
制度が創設され、新たに陸軍歯科医という階級が誕生した。ところが、1945年には陸軍は550万人もの人員を抱える大組織になってい
るにもかかわらず、この陸軍歯科医将校は終戦までに約300人が任官されたに過ぎない。10万人あたり5.5人だ。この数値は民間と比べ
るとかなり低い。1940年の日本の全人口は外地にいた軍人・軍属を含めて約7310万人。同年の歯科医師数は2万3214人。10万人あたり
の歯科医師数は31.8人となる。人数比で民間のおよそ6分の1しか歯科医がいないことになる。陸軍は歯医者が嫌いだったのか? それ
とも歯医者は海軍に拉致されたのか? 無論そんなわけはない。招集された兵士・下士官の中で歯科医免許を持つ者が臨時の治療に当
たっていたとの話が残っていることから、陸軍内部にいる歯科医将校の卵をうまく吸い上げられなかったのが原因の一端のようだ。だ
が末端の兵士にとっては堪った話ではない。

歯科医が足りないと慌てていた頃、また別の問題が現れてきた。極度の痩せ、食欲不振、貧血、慢性下痢などを起こす兵士が相次いだ
のである。この「戦争栄養失調症」は食糧不足ではない兵士にも、それどころか前線で教育訓練を受けているだけの兵士にも現れた。
現代では戦争神経症として知られているこの病気だが、罹患者は同時にマラリアや赤痢などの伝染病にかかっていたケースが多かった
ことから原因を絞りきれなかった。現場の軍医レベルでは精神疾患によるものだろうと見当を付けていたが、陸軍・海軍共に敗戦まで
とうとう根本的な原因をつかめなかった。とりわけ海軍は神経症対策に本腰を入れず、なんでもかんでも「疲労」のせいにしようとし
た。問題が疲労ならば次に考えるのは「疲労回復」である。ここで海軍は極めてイージーかつ直接的な解決手段を選択した。覚せい剤
の使用である。海軍において長時間の緊張と集中を強いられる航空機搭乗員を中心にヒロポンが使われたという話は多数あるので詳細
は省略するが、一例だけ挙げる。一晩でB-29を5機撃墜した倉本十三飛曹長・黒鳥四朗中尉(両方とも終戦時の階級)のペアは暗視ホ
ルモンだと説明されヒロポンを注射されていたため、復員後に現れた原因不明の食欲不振や体調不良が覚せい剤の副作用だと終戦後し
ばらくして初めて判明した。注射をしていた軍医さえ当時は覚せい剤とは知らなかった……という笑えないエピソードが残っている。
海軍に比べれば戦争神経症について注意を払っていた陸軍も空中勤務者(パイロット)に覚せい剤を使用させていたことは変わらな
い。見方によってはもっと酷い。

一九三九年に薬剤将校に任官した宗像小一郎は、「また今問題の覚せい剤も陸軍の所産であり、ヒロポンを航空兵、又は第一線兵士の
戦力増強剤として、チョコレートなどに加えていたことも事実」だとしている(「続・陸軍薬剤将校追想録」)ここでいう「戦力増強
剤」とは一般名詞ではなく薬物名だろう。

覚せい剤入りのチョコレートをそれと知らさずに食べさせていたのでは副作用が現れても気づきようがないし、誰がどれだけ食べたか
など確認のしようも無い。なるほど「当時はヒロポンの長期服用時の副作用が知られていなかったのだから仕方がない」とか「ドイツ
だってガンガン使ってたし覚せい剤入りのチョコレートもあった」という意見もあるかもしれない。それでは投与する側はどう見てい
たのか。海軍が覚せい剤の効果を調べるために行った実験の資料が残っている。

その実験の結論は、「主観的には30分ないし1時間にして疲労を忘れ心身の爽快を感じ、[中略]これを第一線将兵に用うれば、大いに
その士気を鼓舞するものと」考えられること、「副作用としてはほとんど問題にする程度」ではないが、「特に食欲の減退を訴うる
者」がある、というものだった。しかし、この実験の最大の問題点は、「これが長期連用による影響は今後の研究にまつ」として、
覚醒剤中毒の問題をほとんど考慮していない点にあった(「除倦覚醒剤の作用について(第一章)」)

事実上の先送りであり、さじを投げた形だ。ヒロポン中毒が戦後に深刻な社会問題となったことを考えると極めて無責任である。ドイ
ツも同じく敗戦までメタンフェタミン(製品名ペルビチン:Perivitin)が広く使用されていたものの、副作用の問題が指摘され41年6
月にはあへん法の改正により一応は規制薬物となっている

疲労困憊するならせめて休みを与えればよいのだが、日本軍には他国にあったローテーションによる休暇という制度がない。請願休
暇、定例休暇という制度自体は存在したが、戦地ではこれらの休暇が認められることはなかったようだ。


兵士の肉体的精神的ケアに目が向かないのだから戦場での負傷者・落伍者への扱いはさらに過酷だ。だが「動けない者に手榴弾を握ら
せたり毒殺したりする」という光景はある日突然現れたわけではない。どころか、陸海軍とも1937年にジュネーブ条約の内容を法規綱
要に加えたり軍全体に通牒したりしている。つまりこの段階では自軍の兵士が捕虜になることを国際条約上認めていた。しかしノモン
ハン事件の後には

陸軍中央は、「捕虜を禁じる法律的根拠はないから、軍法会議の前に将校には自決させて戦死の『名誉』を与え[自決すれば戦死とみ
なすということ]、下士官兵は軍法会議で審理し負傷者は無罪、そうでないものは『抵抗または自決の意思がなかった』と見なして
『敵前逃亡罪』を適用」するという厳しい方針で臨んでいる(「日本人捕虜(上)」)

と方針が変化し、さらに悪名高い戦陣訓の登場で事実上捕虜になることが禁じられてしまう。日本側が優勢で傷病者・落伍者の後送が
さほど問題にならなかった時期はそれでもなんとかなったが、連合国軍の反攻が本格化すると凄惨な光景が起こる。

一九四四年のインパール作戦では、戦闘に敗れて退却する過程で、多くの傷病兵が行軍途中に落後した。雨期に入り激しい雨が降るな
かでの徒歩の行軍である。落伍者が出るのは当然である。しかし、軍は捕虜になるのを恐れて落伍者に対して容赦ない方針で臨んだ。
この作戦に従軍した独立輜重兵第二連隊の一兵士、黒岩正幸によれば、中隊に部隊の最後尾を歩き落伍者を収容する「後尾収容班」が
つくられたが、その実態は、「落伍兵に肩を貸すどころか、自決を勧告し、強要する恐ろしい班」だった。また、同班解散後に新たに
編成された「落伍者捜索隊」も、「落伍者を発見すると、歩けるかどうかを問いただし、歩けない者には自決を勧告し、武器を持って
いない者には小銃をかすか、手榴弾を与え、ちゅうちょすれば強制し、応じなければ射殺した」という(「インパール兵隊戦記」)

友軍を殺害して回る異常というほかない軍隊がそこにはあった。ここで少し考えて欲しい。友軍を殺すことが出来るほどモラルが崩壊
しているということは、味方からの略奪なんて当然のごとくやっているのではないか?事実やっていた。

歩兵第一三八連隊付きの軍医として、インパール作戦に従軍した中野信夫は、退却する日本軍の状況について次のような見聞を記して
いる。
この地獄の靖国街道に鬼が出没するという話が伝わってきた。小は数人、大は将校を頭に二、三十人もの強盗団が出没するのである。
日本の将兵が日本の将兵から食料を強奪するという話である。我が第二大隊の主計下士官以下、約十人がトンへで受領した食塩などの
補給食料を、帰隊の途中で拳銃や銃をかざした約二十名の日本兵の集団にまきあげられ、青くなって大体に駆け戻ってきたこともあっ
た。(「靖国街道」)
飢餓がさらに深刻になると、食料強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。一九四四年に招集さ
れ、フィリピンのルソン島で終戦を迎えた元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第一の敵は米軍、第二の敵はフィリピン人のゲリラ
部隊、そして第三の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第三の敵について次のように説
明している。
彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのであ
る。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強
盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(「比島派遣一軍医の奮戦記」)

かように兵士たちを使いつぶす軍隊だったから、当然兵員不足は深刻になる。早くも1940年には徴兵検査の基準が大幅に引き下げら
れ、44年には徴兵年齢が1歳引き下げられる。されどもまだ足りない。体格、体力に劣る補充役兵や年齢の高い予備役兵・国民兵役兵
の招集も拡大した。

一九四二年二月から華北で従軍した元陸軍衛生軍曹の桑島節郎によれば、一九四二年の時点で彼が所属していた中隊の八割が現役兵だ
ったのに、四四年の時点ではそれが約六割に低下したという。補充員に関して桑島は、一九四四年「以降に入隊した補充兵の年齢は、
いずれも三十過ぎの老兵で大半は妻子持ちであった。現役兵は年齢も若く独身であるから何も考えず、向こう見ずの無鉄砲さが売り物
である。したがって戦闘にも強いといえるが、補充兵の老兵ともなると弾丸に対する恐れは非常に強かった。いとしい妻子を故国に残
して来た身ゆえ、当然であろうと思う。はたから見ても顔にも態度にも、ビクビクしたところがあり、お世辞にも強い兵隊とはいえな
かろう」と指摘している(「遙かなる華北」)

徴兵検査の基準緩和に伴い、知的障害を持つ男性たちでさえ兵士として集められることになる。

国府台陸軍病院の軍医として、各部隊で「智能検査」を実施した浅井利勇によれば、部隊によって差があるものの、多いところでは、
「精神薄弱」が3~4%に達したという(「第二次大戦における精神神経学的経験」)

戦後、児童精神医学者となる高木俊一郎は、一九四三年一月に、第二航空軍野戦航空修理廠付きの軍医として、満州に赴任している。
任地で、逃亡を繰り返す兵士の中に知的障害者がいることに気づき、知的障害の兵士と窃盗、暴行などを繰り返す兵士によって特別作
業隊を編成することを上官に提案し、実際に実現をみている。「非行兵」八〇人、「智能年齢最低5歳くらい」の知的障害者七〇人か
らなる部隊であり、彼等の能力や性格に配慮して作業内容を決めたという(「私の歩んだ道」)

現代でさえ依然として就学・就労に困難を抱える知的障害者たちが軍隊という組織でどれほど辛苦したかは想像しがたい。


さて、ここまでまるで日本の男性は一人残らず出征したかのような書き方をしてきたが、実は日本の男子人口に占める軍人の比率は高
いわけではなかった。その比率は1930年が0.7%、1940年が4%、1944年が10%である。一方ドイツは1939年が3.6%、1943年には28%
に達している。工業技術の水準が低く多数の労働者が必要であったこと、農業の機械化が遅れたことなどが理由だ。ドイツは捕虜や占
領下の住民を労働に駆り出しているから数値が高いのだと思うかもしれないが、日本だって泰緬鉄道の建設を見れば分かるように捕
虜・支配下住民の使役は行われている。これを解決するためにさらなる「人材活用」、すなわち植民地からの兵力動員と女性の動員が
考え出された。

陸軍特別志願兵令により朝鮮では1938年から、台湾では1942年から志願兵となることが可能であった。43年からは海軍も志願兵制を施
行した。ところが志願兵の内訳を見ると、朝鮮・台湾共に応募者の割に定員がやけに少ない。1943年の陸軍特別志願兵について見てみ
よう。朝鮮では約30万人もの応募があったのに入所者数は6千人、台湾では60万人もの応募に対して入所者はわずか1000人に過ぎな
い。やる気あるのかと言いたくなるが、かと思えば双方とも1944年に徴兵制を施行していたりする。このあたりのちぐはぐさは、植民
地支配に不満を持っているであろう被支配者を軍隊に組み込むことへの恐怖心が政府内にあったこと、兵役義務を課せばその「ご褒
美」として参政権、さらには自治独立を与えなければならなくなることへの危惧があったためだ。

一方女性の動員はどうだろうか。こちらは「既婚女性は家庭に残り家を守るべし」という「家」制度のしがらみがあるせいでうまくい
かない。軍需工場などでの労働は基本的に未婚の女性に限定されており、「生めよ増やせよ」とか「産児報国」とかスローガンを掲げ
ながら未亡人の再婚に消極的だったりと足並みの乱れた対応だった。軍人・軍属としての活用も、従軍看護婦を除けば少数の女子通信
隊が編成されただけだ。


健康な男子はもういない、知的障害者も老兵も植民地からの動員も女性の活用も全部やった。となると次は少年が駆り出される。予科
練や少年飛行兵はよく知られているが、ここでは少年船員制度を紹介する。

少年船員制度は、船舶の新造と、船舶の喪失による船員の死亡とによって、船員が不足したため、短期間の教育で多数の一般船員を養
成する目的で作られたものである。船員募集の重点は国民学校高等科(国民学校は現在の小学校)卒業の少年たちに向けられ、一九四
二年一二月には普通海員養成所規則が制定され、各地に普通海員養成所が次々に設置されていった。入所資格は基本的には国民学校高
等科を卒業した一四歳以上の男子で、教育機関はわずか三ヵ月である。これによって、約四万人の少年船員が養成された(「海軍学校
50年の歩み」)。アジア・太平洋戦争での戦没船員数は六万六〇九人とされているが(「旧日本陸海軍の生態学」)、このなかには一
五歳前後の少年船員が含まれていたのである。

母数に対する船員の死亡率(43%)は陸軍(23%)や海軍(16%)のそれより高い。少年船員の胸中は察するに余りあるが、その少年
船員が動かす船に乗り込む兵士たちものんびりした航海を楽しんでいたわけではない。

船舶の喪失が激増するようになると、出港時から兵士たちの間に不安が広がった。一九四三年二月から三月にかけて実施されたニュー
ギニアへの造園輸送作戦、八一号作戦では、米豪軍の航空攻撃によって、輸送船の全船八隻と駆逐艦四隻が沈没し船団は壊滅した。
「ダンピールの悲劇」である。土井全二郎は出航前の兵士と船員の状況について、取材に基づき次のように記している。
そんなこんなで、出かける者の多くがますます「無口」になり、そして機嫌がわるかった。不安が頂点に達した出港前日の午後には、
輸送船に乗船中の将兵の間から、「とつぜん発狂者が続出」するという深刻な事態すら発生していた。それも「とうてい仮病とは思わ
れない」ほどの重症なのである。(「撃沈された船員たちの記録」)
沈没後に救助された兵士たちの精神状態も深刻だった。軍の報告書でも、「悲惨なる状況に遭遇し」、かろうじて救助された者は、
「通常、救助後、相当期間精神的感作、特に恐怖感大にして」、軍務に付かせるには支障があったと指摘されている。(「海難対策に
関する教訓」)

それでは敵のいない海なら心安らかに航海できるのかといえばそう簡単にはいかない。船舶の喪失を補うためどの船も過剰積載にな
り、船内の環境が劣悪になっていった。

一坪に完全武装の兵士五人が押し込まれれば、横になることさえ不可能である。一九四四年七月、フィリピンに向かう輸送船の船内の
状況を軍医(見習士官)の福岡良男は、「まるで奴隷船の奴隷のように、定員以上の兵が輸送船の船倉に詰め込まれ、自由に甲板に出
られぬ兵が、船倉の異常な温度と湿度の上昇のため、うつ熱病(熱射病)となり、体温の著しい上昇、急性循環不全、全身痙攣などの
中枢神経障害を起こし、多くの兵が死亡した。その都度、私は水葬に立合い、肉親に見送られることなく、波間に沈んで行く兵を、切
ない悲しい思いをして見送った」と回想している(「軍医の見た大東亜戦争」)

ブラックのブラックたるゆえん

要するにもうどこもかしこもが悲鳴を上げていたわけだ。ここまでボロクソに書くと「じゃあなんで日本は37年から45年まで8年間も
戦えたんだ。おかしいじゃないか」と言われるかもしれない。まさにそれこそおれが指摘したい点である。このコラムのタイトルに
「ブラック企業日本軍」とある。ブラック企業とは何かという定義はさておくとして、ブラック企業が企業として存在しているという
ことは、内部に自分自身を存続させる仕組みがあるということだ(3時間だけの企業なんて存在しないように)。どうやって存続して
いたかといえば、今まで見てきたとおり人を人とも思わぬ扱いをすることで、言葉を換えれば使い捨てることによって生きながらえて
きた。

使い捨てるつもりだからわざわざコストを掛けて負傷者や落伍者を「処置」する。使い捨てるつもりだから覚せい剤でもバンバン使
う。使い捨てるつもりだから後先考えずに兵士を送り込んで餓死させる。戦争である以上自国の兵士が死ぬのは避けようがない。それ
は事実だ。が、それは兵士を物のように扱ってよいという理由にはならない。ブラック企業における典型的な罵倒、「お前の代わりな
んかいくらでもいる」と同根だ。企業にとって交換可能な部品だからといってそれでおれや君が人間でなくなる訳ではない。ブラック
企業が常時人手不足であるのと同じく日本軍も兵員不足に直面した。しかしそれでも目先のコストを嫌って自己改革が行われることは
なかった。自己改革の結果クリーンになったブラック企業はもはやブラック企業と呼ばれないように、変わらない・変われないからこ
そのブラックなのだ。ブラック企業が今この瞬間もブラックであるように、日本軍も悪癖である私的制裁やいじめを無くすことは出来
なかった。

もう一点。ブラック企業や日本軍がいくら人を集めようと、そこで実際に働いてくれる(戦ってくれる)人間がいなければ組織は回ら
ない。まともに考えれば忠誠を誓う価値もないようなブラックな組織のために一生懸命になって働く社員がいるのは一見不思議に思え
るが、それこそがブラック企業を存続させるもう一つの条件であろう。社員の「洗脳」や企業の宗教化、教条化、経営者への個人崇
拝、やりがいの搾取などあの手この手が使われているのはご存じの通り。これら「内部の理屈」が不透明であることが外部との断絶を
加速させる。よって以下のような正鵠を射た、しかし心ない言葉があちこちで語られる。「なんでそんなブラック企業で働いているん
だ。心身を壊す前に辞めればいいのに」。「内部の理屈」が日本軍にも存在する。お国のために命を捧げたり勇ましく戦って戦死する
ことは極めて名誉なことであり、逆に捕虜になるくらいなら自決するのが潔いなどと学校や地域社会で教えられる。このような考えや
物の見方に噛みついているのではない。このような過激な思想を繰り返し繰り返し教え込んでもなお日本軍の士気崩壊や軍紀の弛緩は
止められなかった。ニワトリがタマゴを産み、タマゴがニワトリを生み出すように、思想のドグマ化が自己改革を阻害し、自己改革の
失敗が一層の神がかり的ドグマを要求する。ここにこそ日本軍や政府が死者には優しいが生存者には冷淡な理由が、そしてこの本の帯
に書いてある「彼等が直面した戦争と軍隊」の真実がある。

おれの仮説なのだが、ブラック企業が「まだ生きている」社員個人のがんばりで支えられているように、日本軍もまた「まだ生きてい
る」兵士個人のがんばりで戦場を支えていたのではないだろうか。ひとつ例を挙げる。多勢に無勢の米軍を相手に日本軍が多大な損害
を与え敢闘したといわれるペリリュー島の戦いである。

ペリリュー島およびその隣のアンガウル島での小規模な戦闘でのアメリカ側の損害は、第一海兵師団、第八一師団、海軍の合計で、戦
死一九五〇人、戦傷八五一六人である。また、上陸後一週間で、米軍は飛行場の制圧など、この作戦の戦略的目標を達成しているが、
この間における戦死者・戦傷者数は三九四六人であり、全損害の三八%がこの期間に集中している(Leyte)。米軍にとってたしかに大
きな損害ではあるが、戦死者でくらべると、日本軍の一万二二人に対して一九五〇人にとどまること、米軍の損害の三八%は上陸作戦
と飛行場の制圧作戦期間のものであることがわかる。先に述べたように、通信網の寸断によって日本軍の指揮中枢は早い段階で失わ
れ、部隊間の連絡もほとんど途絶えた。飛行場を制圧された後には、個々の孤立した日本軍将兵が非組織的な抵抗を続けていたのである。

大本営陸軍部「戦訓特報 第三九号 『ペリリウ』『アンガウル』島作戦の教訓」(一九四五年一月二四日付)によれば、一九四四年
九月から一一月にかけて戦われたペリリュー島防衛戦でも、米軍の艦砲射撃と銃爆撃によって、早い段階で通信連絡組織が寸断され
た。その結果、各部隊は島内各地に「健在」しているにもかかわらず、「その統一組織を喪失してあたかも全身不随」となり、島内に
「敗残兵」が割拠しているかのような状況となった(『「戦訓報」集成2』)。統一した指揮のないまま、孤立した各部隊がばらばら
に米軍と戦闘している状態である。

上陸が開始されたのは1944年9月15日だ。15日当日の米軍の死傷者は1111人であり当初見込みの2倍に達したが、一方でその日のうちに
飛行場の一角を制圧することに成功し、翌16日夕には飛行場のほぼ全域を確保している。10月に入るまでには中央の山岳地帯を除く島
の大部分を占領するに至った。日本軍の組織的抵抗の終了は11月24日で、2ヶ月近く山林に立てこもっていたことになる。組織的抵抗
の5文字だと分かりづらいが、その実は上記のように必ずしも統制の取れたものではなかった。日本側が勇敢に戦ったのは全くもって
動かしようのない事実である。しかし「米軍最強と称された第1海兵師団を戦闘不能に追い込むほどの勇戦を見せ、米軍にその精強さ
を知らしめ(出典:ミリタリークラシックスvol58)」たのは日本「軍」ではない。バラバラに孤立させられた日本「兵」たち個人個人
のがんばりだった。ブラック企業大賞にノミネートされたり厚労省の「ブラック企業リスト」にその名前が追加されたりと、どこに出
しても恥ずかしくないブラック企業のヤマト運輸には未払い残業代が約230億円もあった。これも「個人のがんばり」に全てを押しつ
けていたケースといえそうだ。ヤマト運輸を支えていたのは本社で暇してるおっさんでも黒ネコでもない。それは現場の配達員なの
だ。

「風が吹けば桶屋が儲かる」じゃないけど、「歯科医のいない軍隊は滅びる」が正しいのなら「社員に健康診断を受けさせない企業は
ブラック」などと言い換えてブラック企業発見のリトマス紙にできるかもしれない。ブラック企業ならまだ辞めることができる。しか
し兵士を辞めることは出来ない。兵役は国民の義務である。それを考えたとき日本軍兵士が遭遇した数々の苦難はいかほどだったかと
思いをはせざるを得ない。その苦難の、少なくとも一角にこの本は切り込んでいる。おすすめ。




参考サイト


最終更新日 2018-03-27





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最終更新:2018年03月27日 08:17