質疑応答その他の時間。


質疑応答


国籍法判決-司法権と立法権

LPその他で、国籍法判決を取り上げた企画が行なわれるが、判決そのものについての見解が分かれているらしい。
特にintegral氏は、結論的にも論理的にも、賛成できないという。

結論的に、ということろはさておき、論理的に、という部分はどうだろうか。
沢山の意見がついているので、確かに論理的な問題がないではないだろう、とは思う。
ただその上で、どうして多数意見が、わざわざそんなに問題のある判決を書かなければならなかったのか。
まさか、論理的な問題点に気付かなかったわけではあるまい。
理由はおそらく、現実的な救済の必要性、ということに尽きるだろう。
司法権の担い手たる最高裁として、この問題を放置しておく訳にはいかない、という強い信念である。

「裁判官は法の口である」と考えるのは、およそ人間が当事者として、そして判断者として主体となる裁判においては、一面的な見方に過ぎるだろう。
しかし、よく法解釈の際に言われるように、「これは立法論として」と言われるような分野にまで、司法権が踏み込むことに問題はないのか。
いわゆる、三権分立の問題である。

無の状態で、いわばゼロベースで考えた時、在るべき姿を構想するのは政治の問題、すなわち立法権に属する権限である。
それに対して法がなし得ること、すなわち法司法権に属する権限とは、既に存在する法律の解釈と適用である。

そうした三権分立の建前自体を疑うことは、おそらく可能であろう。
しかしながら、あくまでいまだその前提にとどまるのであれば、司法権は、法律の解釈と適用を踏み越えることをしてはならないのではないか。
現実に存在する法律を解釈して適用した「だけ」だと言いながら、その実、法が想定しない新たな価値判断を行ない、理性による論理的な文言の解釈と適用を踏み越えるのであれば。

それは、司法権の命脈たる「論理」を侵し、人間の「理性」に対する不信へとつながりかねない。

司法が長らく、謙抑的に過ぎるとすら言われてきた背景には、そうした自覚が存在していたからではないか。
理屈で法律を解釈することは、頭が固くて、融通の利かない、意固地な法律家の連中に任せておいて、柔軟で現実的な「決断」をこそ、政治が担うべきであると考えるのは、少なくとも近現代が採用した立憲主義国家の、「論理的な」帰結ではないか。

その意味において、人権や社会正義の擁護(弁護士法1条)は、弁護士の仕事ではあっても、司法権の仕事ではない。

弁護士がご飯を食べるために


仮に弁護士になったとして、どれくらい仕事をすれば生活していけるのだろうか。
「知り合いの弁護士さんは、最初の1ヶ月間は法律相談が一件もなかったみたいだよ」という話を、御坊に行った時に聞いた覚えがある。
確かに、1ヶ月間で1件も仕事がなければ、生活はできないだろうし、事務所その他の維持費も払えないだろう。
では、1日に何件仕事ができればいいのか。

この時、発想を変えてみて、自分ならどのような時に弁護士に相談するかを考えてみよう。
たとえば今この時点では、弁護士に相談したいことはさして何もない。
でも、たとえば事故が起こったとき、事件に巻き込まれたとき、友人に何か困りごとがあったとき、きっと、そういうときに弁護士に相談したくなるのだろう。
それは、いつに一回起こるのだろう。
ひょっとするとそれは、10年か20年に一度くらい、かもしれない。

でも、弁護士が顧客にし得るのは、何も一人だけではない。
たとえば1000人、たとえば10000人、弁護士の“潜在的な”顧客が、そこには存在しているはずである。

そう考えると、たとえば、10年に1回、弁護士に相談したくなることがあるとする。
10年とは365日×10=3650日である。
ということは、3650人の“潜在的な”顧客を持っていれば、1日に1件は相談があることになり、36500人の“潜在的な”顧客を持っていれば、1日に10件は相談があることになる。
問題は、「どうやって“潜在的な”顧客を抱えるか」ということだろう。
しかし、逆に言えば、その方法さえあれば、1日1件、1日に10件は仕事ができるということになるのだから、何となく、安心できる気はする。

あとは、現在の各地の弁護士の受給と現実の収支、人生において弁護士に相談する比率等を分析すれば、十分にフェルミ推定で将来像を描くことができそうだ。
ちょっとずつ、リアルになってきた。
最終更新:2008年11月30日 14:16
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