商法のページ(仮)


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会社法5条、商法501条、502条の背景及び趣旨から、商行為の概念について述べよ。

(1)
商法501条は絶対的商行為、商法502条は営業的商行為を、それぞれ規定している。
これらは全て、利潤をあげるための行為であるということはできるが、今日においては、利潤をあげることができる行為がこれらだけに限らないことは明らかである。
これらの条文に列挙された行為を説明するには、歴史的な背景を念頭に置く必要がある。
(2)
商行為の始まりは農業が中心だった社会において、豊作の地域と不作の地域で作物を移転させることから始まったと考えられる。
豊作の地域では安く取引される作物でも、不作の地域では高く取引されるからである。
そうして、作物の移転が行なわれるようになると、次第に市場が形成されるようになる。
このとき、異なる地域での取引において活躍したのが、両替商及び翻訳業であると考えられる。
彼らは現在の言い方で言えば、代理商ということになる。
そうして、市場には他にも取引をめぐる様々な商人が現れはじめ、条文に掲げられた行為は、そうした商人たちと、商人を補助する者たちが行なうものを個別に列挙したものであると考えられる。
(3)
しかし、中央集権化が進むにつれ、国家は商人たちの持つ富に注目し始め、次第に法によって規制するようになった。
そのとき、規制の対象とするべき商人たちを類型化するのに注目したのが、商人たちの「行為」である。
つまり、市場に集まる商人たちの「行為」に着目することで、商法という法律を適用すべき相手を類型化したのである。
そうして、市場にいる人々の行なう行為を、本来の商人立ちが行なっていたものに限らず、市場という賑やかな場所で行なわれていた行為全てを対象とすることで、商法という法律が成立したのだと考えられる。
(4)
しかし、産業革命により、利潤をあげるための行為はますます拡大し、従来のような「行為」に着目した規制は意味をなさなくなり始めた。
従来の、農作物の取引、市場での売買といったものだけでは説明のつかない行為が増え始めた以上、「行為」によって商人に規制を施すことはもはや不可能である。
そこで現れたのが、企業法論、すなわち行為そのものではなく、「一定以上の資金を投下して、継続的に利潤をあげるという方法」に注目するのである。
これによって、具体的な行為を離れて、資本主義社会に適応した、様々な利潤をあげる行為を行なう者について規制を行うことが出来るようになった。
ただし、501条や502条の場合は、具体的に行為を列挙しているため、その外延は明確であるが、企業法論の場合は、反復継続的に営利事業行なっている者を対象とする、というだけであり、その対象が極めて不明確となってしまう。
(5)
しかし、501条、502条に列挙された行為が、利潤をあげるための行為であることは間違いなかったため、上記の企業法論とこれらの商行為を列挙する考え方が併存することになった。
そのため、列挙された商行為を行い、かつ、反復継続的に利潤をあげるための行為を行なっている「商事会社」と、列挙された行為は行なっていないが、反復継続的に利益を上げるための行為を行なっている「民事会社」が併存することになった。
しかし、商事会社とのバランス上、後者に民法を適用するわけにはいかないため、旧523条は民事会社の行為についても商法の規定が準用されると定めていた。
(6)
そこで、現行会社法は5条を置き、会社が行なう行為は全て商行為である、と定めることになった。
これは、商法の適用対象として、商行為を先行させるのではなく、事業主体を先行させるとする考え方に基づくものであり、その点で非常に大きな転換を果たしていると言える。
そしてそれは、何を行なうかではなく、どのように行なうか、という「方法」に注目した考え方だと言うこともできよう。
すなわち、列挙された商行為を行なう者に商法が適用されるのではなく、「一定の資本をもって、反復継続的に事業に投下して利益を上げるという方法を採る者」に対して、商法が適用されるのである。
(7)
なお、ここで503条との関係にも言及しておく。
503条は附属的商行為を定めており、営業のためにする行為を商行為であるとした。
この規定と、前述の民事会社の関係を考えると、極めて不自然な状況が現れる。
すなわち、民事会社は本体的な営業行為は商行為ではないが、その営業のためにする行為は商行為であるとされることになるのである。
そして、その間隙を埋めるために、先述した523条が、民事会社の営業行為についても商行為規定を準用すると定めていたのである。
これは、商法を適用するにあたって、商行為という無用なフィルターをかけたために起こった矛盾であると言える。

(8)まとめ

当初は商行為によって商人を把握していた(501条、502条)。
しかし、商行為の多様化により困難になった。
そうした、商行為ではないものの、儲かる行為を行なう会社は、商事会社に対して、民事会社とされた。
そこで、営利を目的とする社団を会社と定めることで、民事会社を商法の適用対象たる会社であると扱うことにした(52条)
もっとも、民事会社は、営業として行なう行為が商行為ではないが、営業のために行なう行為は商行為であるとされた(503条)。

そこで、擬制商人(民事会社を含む)の行なう目的タル営業活動そのものにも、商行為規定を準用するという規定が置かれたのである(523条)。
こうした状況を抜本的に解決したのが、会社法5条である。
これは、商行為を先行させるのではなく、事業主体を先行させて商法を適用するという考え方であり、具体的な儲かる行為に注目するのではなく、いかにしても受けるかという方法に注目する考え方だと言える。
(以上、アルマP.21-27参照)

株式会社は何のために作られるのか。

株式会社の目的は、一つには、多数の人々からお金を集めて、大きな資本を作り、それによって反復継続的な事業に投下して利潤をあげるという目的がある。
しかし、その場合、そうしたお金は遊休資本(すなわち非産業資本)から集められるものであるということに注目されなければならない。
資本主義社会において、社会が資本家と労働者の階級に分かれていると考えた時、事業に投資を行なわない人々からお金を集め、それを運用して投資し、利益を上げることが目指されたのである。
このとき、出資者は経営能力が備わっていないのが常であるため、お金を出した人と会社の経営をする人が分離する、すなわち、所有と経営の分離が前提とされたのである。

所有と経営の分離、とは何か。

(1)
昭和25年改正以前まで、原則として取締役会の設置は強制されておらず、独人制取締役が容認されていた。
これは、株主が直接経営を行なうことができるという意味で、所有と経営が一体となっている状態であると言える。
これ似たいsちえ、昭和25年改正は、株式会社の理念のうち、多数人からお金を集めるということだけではなく、遊休資本の産業資本化を強調し、そこから導かれる所有と経営の分離を理念として導入した。
(2)
しかし、所有と経営が分離してしまうと、所有者は経営者をコントロールできないことになる。
そのため、経営者の暴走を防ぐための仕組みが必要である。
そのための仕組みが、①監査役の設置、および、②取締役会の設置である。
ドイツ型の監査役制度は、株主の利益を代表するものとして取締役会を監視させるものであり、監査役には取締役会の選解任権が与えられた。
しかし、これに対して、日本型の監査役は行為の差止めが最も大きな権限であり、自らが経営に参画することは当然認められていない。
そうであれば、業務監査ができるほど有能であるならば、業務執行そのものをやるべきであり、そもそも監査と業務とは異ならないのではないか、ということになる。
そこで、アメリカ型の会社は、監査役制度を置かず、合議制の取締役会を置くことにした。
これによって、お互いに監視を行なわせ、それぞれが差止めに加えて業務執行が行えることとしたのである。

業務監査は1950年改正前後でどのように変わったか。

(1)
会計監査とは、性格に転記がなされれているかをチェックすることであるのに対し、業務監査とは判断を伴うため、業務執行そのものである。
なお、業務監査の中には、違法性監査と妥当性監査がある。

違法性監査について、TBS損失補填事件

野村證券の経営陣がTBSの損失を補填したため、株主代表訴訟を提起された。
取締役の責任追及にあたり、①合理性、②慎重性、③違法性、④忠実義務違反でないこと、等を基準として経営判断原則の適用が判断された。
本件では、独禁法違反であったが、会社法上取締役が遵守する法例には当たらないとして、責任は認められず。
違法性監査が必ずしも客観的であるとは言えない、ということが示されたことになる。

つづき

したがって、会計監査は専門家が行なうことになり、一方で、業務執行のうち妥当性監査は業務執行そのものであるから、監査役には行なわせないことにしようというのが昭和25年改正当初の考えだった。
ところが、会計監査のできる公認会計士および税理士が調達できなかったため、やむなく監査役が会計検査をするということで残された。
したがって、アメリカ型の機関設計(すなわち、合議制の取締役会による監視)を行なったのにもかかわらず、監査役がクビの乾いちまい出残されたことになる。
(2)
本来アメリカ型の経営は、ディレクターとオフィサーから構成される。
現在の会社法の規定で言えば、ディレクター=取締役であり、オフィサー=執行役である。
ディレクターの中には社内取締役と社外取締役がおり、社内取締役は企業内部の出身者であるため、既に序列化がなされている一方、社外取締役にはそうしたしがらみは存在しない。
したがって、内部取締役がオフィサーを兼任することで、業務執行に関してはヒエラルキーがうまく働く一方、社外取締役はそうした階層構造に捕らわれずに他の取締役を牽制することができるという仕組みである。
(3)
このように、取締役会が意思決定を行ない、執行役に業務執行を行なわせるという仕組みが委員会設置会社であり、指昭和25年改正は、このようなアメリカ型の株式会社を目指そうとしたのである。
現在の会社法では委員会設置会社が設置されたが、社外取締役が各委員会の半数を占めるという要件にとどまり、厳密に要件化されなかったという点で問題があると言える。
なお、委員会は取締役会の中のワーキンググループであり、取締役しか委員になることはできない。

取締役会の役割は何か。

(1)
まず、昭和25年改正時、アメリカ型の業務監査は、業務執行そのものだったと言える。
複数の取締役からなる取締役会において、議論と監視(すなわち、監督的業務執行=妥当性監査)を行なうのである。
この点からすれば、監査役が存在する余地は無いと言える。
(2)
取締役会は業務執行そのものとして、会社の意思決定を行なうが、決定された意思に従って、実際に業務を行なう必要がある。
それを行なうために代表権限を持った者が、代表取締役であり、委員会設置会社においては執行役である。
これは、取締役会の意思決定に基づいて行動するのであるから、必ずしも会社を意のままに動かす者ではないということに注意しなければならない。
このとき、実際に業務執行を行なう者は、取締役会で議論と決定に参加した者の方が都合がよく、また会社の業務に通じている者の方がてきしていると言えるので、内部取締役が執行役あるいは代表取締役を兼務することになる。
(3)
ここで、株式会社における業務へのモチベーションの差異を検討する。
会社の資産が80億、負債が100億として、債務超過が20億の会社の場合。
直ちに清算した場合、会社の価値は80億であるが、新規事業に賭ければ50%で120億・50%で0円という場合を想定する。
このとき、債権者の期待利益は、80億>100億×50%+0円×50%=50億、であるため、即座に解散することを求める。
これに対して株主は、0円<(120-100)×50%+0×50%=10、なので、プロジェクトに投資することになる。
株主の利益を代表するのが内部取締役、債権者の利益を代表するのが社外取締役、であるとすると、両者の利害は鋭く対立することになる。
したがって、複数人の相互監査には、取締役会に利害対立をする者を沢山入れた方が良いということになる。
(4)
上記のような場合、社外取締役が過半数を占めていれば、当然プロジェクトに反対するはずであるが、日本の場合は社外取締役が過半数を占めていない(取締役会ではなく、委員会のみ過半数である)、あるいは利害対立のない社外取締役しかいないため、十分に監視が働かないことになる。
(5)
以上見たように、日本法は昭和25年改正時において、社外取締役を入れなかったため、アメリカ型の株式会社のように、取締役会において相互監視システムを作ることが出来なかった。
のみならず、日本では25年改正後、内部取締役内の派閥の長などからなる経営委員会が形成され、商法特例法では重要財産等委員会として追認された。
これは、現行法でも特別取締役として残っている。
このような会社は、本来の取締役会の役割を果たせないと言える。
(6)
昭和49年改正は、執行役(代表取締役)が経営を支配する構成は本来とは逆であるとして、改善を図った。
これには、日本の経済が発達する中で、トップ層の独占支配の弊害が明らかになってきたという背景がある。
すなわち、不正や粉飾を取締役会が監視することが出来なかったのである。
そこで出てきたのは、A案=社外取締役を入れて監督的業務執行機能すなわち業務監査を行なわせる、という本来的なアメリカの考え方。
しかし、B案=監査役に業務監査権限を任せるという考え方で改正が行なわれた。
25年改正の時に、無理矢理会計監査を任せられた監査役が、25年以来の監督的業務執行がうまくいっていないことを理由に舞い戻ったのである。
(7)
しかし、このとき取締役会制度が改正されたわけではない。
監査役に業務監査権限を付与して、取締役会による業務監査は辞めるというのならスジが通っているが、結局は両者が並ぶことになった。
そこで、、二つの機関が妥当性監査を行なうことになってしまったのである。
この時の法務省の最終見解は、監査役の監査は違法性監査、取締役の監査は妥当性監査、というものである。
(8)
なお、社外取締役について、内部取締役との対比で独立性は要求されるものの、監督的業務執行にあたっては会社内部の子とを知っていなければならないのは当然である。
社外取締役も内部取締役も、妥当性監査を「しなければならない」のである。
また、社外取締役は、銀行など影響力の強い社外からの人間が想定されるが、影響力が強すぎると逆に出身母体の利益誘導に働くのではないかとも考えられている。

委員会設置会社の成立(まとめ)

平成13年改正でできた委員会設置会社は、昭和25年改正が目指していたものである。
しかし、社外取締役が確保できなかったために、取締役会ではなく委員会についてのみ、社外取締役が半数以上を占めることとした。
なお、現在の会社法においては、制度間競争を念頭に置いている。
旧商法は、プロトタイプを探しを探し求めていたが、日本では法人資本主義(株式持ち合い)や個人企業の法人なりが跋扈し、多数人からの出資を募る+遊休資本の産業資本化という本来の理念に合致した状況ではなかったため、理念追求を諦めたのである。

有限責任とは何か

(1)
有限責任は、株主の出資を集めやすくするための仕組みであると言われる。
すなわち、経営に参画しない素人としての株主は、出資の範囲でのみ責任を負うこととし、責任の範囲を限定したのである。
これに対して、産業資本家の世界で活動していた資本家は、本来自らの才覚で経営に参画できる以上、無限責任が当然であると考えられる。
(2)
株式会社には二つ目的がある。すなわち、1塵も積もれば山となる
、2遊休資本が産業資本化する、である。
このうち、1しか負っていないのが合名会社、すなわち産業資本家のみから成る無限責任社員のみによる会社である。
彼らは、遊休資本を産業資本化したのではなく、産業資本を寄せ集めただけなのであるから、有限責任を与える必要はない。
(3)
一方、合資会社には、有限責任と無限責任の社員が存在する。
これは、商法の匿名組合と同様であり、すなわち自らが出資と営業を行なう者は無限責任を負うのであり、それに出資しただけの者は有限責任とされるのである。
(4)
こうして見ると、自ら経営に参画する者は無限責任、出資のみを行なう素人は有限責任、ということで全てが説明できるようにも思われる。
株式会社についても、株主は経営能力の無い出資者であるから有限責任を負うのだ、と考えるのである。
この考え方は、債権者に関しても同様である。
債権者は、実質的に経営をしている者によって取引を決定するのであり、自らは経営に関与しない出資者によって判断するのではないのである。
(5)
しかし、株式会社は有限責任だとすると、無限責任を負う者は誰もいないことになる。
会社においては、株主は素人であるから有限責任であるとされ、実際の経営を行なうのは、その素人に「雇われた」に過ぎない経営者だからである。
このとき、株式会社においては誰も債権者に対して最終的な責任を負わないことになる。
そこで、そうした問題を解決するために、具体的には個人企業の法人成りなどによって不当に有限責任を利用しようとする者を排除するために、法人格否認の法理や取締役の第三者責任などが用いられるようになったのである。
これは、前述した100億の会社の事例において、内部取締役=株主が債権者の犠牲の下に利益を上げようとしたことを想起すればよい。
(6)
ここで、以下のような問題を考える。
A会社が瀕死の状態のとき、Cが救済するとして、どのような方法を採るか。
この場合、負債をそのまま抱え込むことになるので、合併はできない。
そのとき、株式交換、すなわちAの株主にCの株式を渡し、代わりにAの株式を全てCが持つことにすることで、Aを子会社化する。
これによって、CはAの株式分だけのリスク=有限責任で、Aを救済(ホントは、自分の事業のテコ入れや、ブランドの利用など)することができる。
これは、Cは元々事業をやっているのだから、有限責任は必要ないはずだが、有限責任でなければこのような状態でCがAを救済するインセンティブが働かない。
その意味で、政策的に、債権者の利益を擬制にして有限責任の仕組みを利用していると言える。
LLP(有限責任事業組合)を構成する、たとえば産学共同事業やゼネコンのジョイントベンチャーなどについても同じことが言えるだろう。

商法15条が、営業と共に又は営業を廃止する場合にのみ商号を譲渡できるとするのはなぜか。

(1)
営業とは、物的財人的財の両方を指すが、グッドウィルとは、顧客の吸引力のことで、顧客とは取引先や市場での投資家なども全て含んだ概念である。
「営業」を指して、最判は「一定の目的のため組織化され、有機的一体として機能する財産(得意先関係等の経済的価値のある事実関係を含む。)」とした。
企業の最終目標はグッドウィルを高めることであり、商号は、これを載せる器である。
のれんは、グッドウィルの代表格と言えるが、これは時価評価することが出来ず、つねに取得時の評価額で扱われる。
個別の物的人的財は、動いていない時は清算価値だが、動いているとグッドウィルが発生する可能性があるので価値が高まる。
(2)
事業譲渡について、企業主地位説は、企業主の交代であると考えた。
一旦譲渡した奴は、二度と同じ営業をすることができない、という意味で、ここから競業避止義務が生まれることになる。
しかし、企業主地位を、企業の固定資産の所有者ないし利用権者たる地位、とみると、株式会社の場合は難しい。
株主を、会社のコンダクターと見ることはできないからである。
では、株式会社の首脳陣か、ということになると、これはやはり「主」であるとは言えない。
そうすると、企業主という概念は極めて曖昧であることになる。
これに対して反対する説は、鈴木説で、富山の薬売りを例にして、事実関係を中心に考えた。
ここで初めて、グッドウィルが注目されることになるが、この考え方自体は非常に極端であるというほかない。
(3)
休業中の会社の営業譲渡は、有機的一体として機能するとは言えるものの、時間の経過によってグッドウィルが低下していく可能性がある。
また、一部財産の譲渡について、売り手にとっては事業の一部であっても、買い手にとっては事業そのものになることがある。
では、得意先等の事実関係のみの譲渡はどうか。
グッドウィルは、やはり有機的組織的一体としての財産が生み出すのであって、得意先関係だけでは事業に当たるとは言えないだろう、その意味で鈴木説は妥当ではない。
(4)
では、いかなる営業譲渡が営業譲渡に当たるのか。
最判昭和40年の多数意見は、①有機的組織的一体としての財産の全部又は一部の譲渡+②営業の承継+③競業避止義務を負うこと、というのを要件としているのに対して、少数意見は、②③は不要であるとする。
多数意見は、メルクマールが多い=要件が厳しい=営業譲渡に当たるものは少ない=株主総会決議は不要となるものが多い=取引安全を重視、ということになる。
それに対して少数意見は、譲渡会社の株主の利益を保護することになる。

物的分割と人的分割

物的分割=大塚αが大塚βの株を持っている状態にする。
人的分割=大塚αの株主が大塚βの株式を持っている状態にする。

登記の意味

(1)
商業登記には代表取締役の住所や氏名、取締役の氏名が書かれているが、その他の開示との関係はどのようなものか。
すなわち、会社法911条の登記の名宛人は全ての人であり、経営陣や資本金の確認など様々な使い方をする。
それに対して442条の開示は、株主や債権者を名宛人としており、これによって取締役に対して責任追及することを可能にしている。
また、金商法24条は投資家を名宛人としており、今後株をどのように売り買いするべきかの判断に資するものである。
(2)
では、911条5号の資本金の額、13号の取締役の氏名、というのはそれぞれどのような違いがあるか。
両者とも信用力を高めるものであり、前者はお金、後者は人、と考えることはできる。
しかし、現実には会社は資本金を遙かに上回る取引を行なっており、債務の担保にはなっていない。
その一方、取締役は第三者責任によって、自らの財産を持って責任を負うこともあり得る。
したがって、両者の信用は一見したところと逆転していると言える。
(3)
不動産登記との違いはどうか。
民法177条は、物権変動は登記がなければ第三者に対抗できないとする。
これは、物権という絶対的なものが、意思のみによって譲渡されることにすると危険であるため、動産における引渡しに代わる制度として、登記による公示を用意したということによる。
これに対して商業登記は、権利時効の登記を目的とするものではなく、関係者を呼び込むための開示である。

取締役の退任登記がされていない場合はどうなるか。

設例は、退任取締役B、現代表取締役A、ABは株主総会で選ばれたが、退任したBは登記上は代表取締役の氏名も取締役の登記もない、Aの代表取締役の登記がある。
しかし、取引相手方は退任代表取締役Bと取引を継続している。
上記を前提として、取引相手方の主観的態様とその後の行為によって分類し、検討する。
すなわち、①登記を見て悪意である者、②登記を見ていないが悪意である者、③登記を見ておらず善意である者、である。
①の場合、登記を見て代表取締役の変更を知っているのだから、今後はBではなくAと取引をすることになる。
②の場合も、変更を知っているのだから上記と同様であろう。
③の場合は、変更を知らないのであるから、従前通りBと取引をすると考えられる。
この時問題になるのは、①と③のバランスの悪さである。
すなわち、①は登記を確認するというコストをかけた上、相手方の変更という行為を行なっているが、③は登記を確認しない(すなわちなんのコストもかけていない)上、従前通りの取引で済ませているのである。
これでは、コストを掛けた①ばかりが負担を負っていると言える。
また、仮に③のような態度が許されるとすれば、登記を確認しようとしない者に対し、会社が取締役の変更を主張する手段が無くなってしまうことにも成りかねない。
したがって、③のような者に対して悪意を擬制することで、取引上の不利益を課することにしたのである。

新司法試験第一問についての注意

P社がホテルとスポーツジムを経営している場合、スポーツジムの譲渡は「事業の一部の譲渡」にあたる。
仮にこれを、二つやっている事業のうち、一方の「事業の全部の譲渡」にあたると解すると、本問では譲り受け側に買い取り請求権が発生することになってしまうからである。

支配人についての考え方

(1)
支配人は、裁判上裁判外の一切の権限を持つが、その権限の構成の仕方には二つの考え方がある。
一つは①代理権集積型で、一部の代理権を有する25条の使用人に対して、あらゆる権限を与えたものが支配人であると考えるのである。
もう一つは②地位あてはめ型で、支配人という既定の地位に「選任」することで、支配人となると考えるのである。
(2)
支配人の越権行為が問題になった場合、①は24条の表見支配人の規定で対処するのに対して、②は21条3項の支配人の代理権に加えた制限の問題として対処することになる。
①は、効果帰属者たる本人が責任を免れるためには、相手方の悪意・重過失を立証する必要があるのに対して、②は、取引相手方が効果の帰属を主張するために、自らが善意であることを主張する必要がある。
①②は最初の主張立証責任が異なるが、これは前者が無権代理、後者が有権代理、として構成されることに由来する。
(3)
上記につき、外観法理との関係はどうか。
表見代理の規定である民法110条、111条、112条は、全て無権代理を前提としているが、無権代理は本来法律上の効果が本人に帰属するものではない。
にもかかわらず、超法規的措置として本人に効果を帰属させるのだから、原則たる理念から外れた規定であると言うべきである。
したがって、安易に外観法理を使ってはならず、可能な限り民法等の条文を根拠にするべきである。
(4)
その上で、表見支配人について。
表見支配人は、代理権が欠けているのだから、全ての代理権を有しているという意味での本来の支配人ではない。
したがって、当人は25条の使用人であるにもかかわらず、24条の表見支配人の規定が適用されるということになる。
そこで、代理権が9割を超えると適用可能である、というような考え方をすることになる。
それに対して、②の考え方は、法律上の地位たる支配人は全ての権限があるとされているから、その地位に欠けているところはなく、地位が欠けているとされる場合には21条3項によってうまく処理できることになる。

支配人と代表取締役は同じか?支配人は会社で一番偉いのか?

(1)
両者は裁判上裁判外の一切の権限を有しているとされるが、両者とも同じ権限を持つと考えてよいか。
取締役会で支配人は選解任されるので、両者は同じであるということはできない。
その上で、その権限の内容として、支配人は「事業」、代表取締役は「業務」というそれぞれの文言の違いに着目し、両者の代理権の範囲が異なる、と考えるのは妥当ではない。
あくまで両者が全権を有することは間違いない。
しかし、この権限は、代理人としての行為が本人に帰属する、という意味であって、どのような行為を行なうかという決定権限を意味しているわけではない。
会社の意思決定はあくまで取締役会が行なうのであり、両者はその意向を受けて業務を執行するということになるのである。
(2)
その上で、個人企業と株式会社とでは、意思決定と代表行為の距離は異なるとも言える。
すなわち、前者は本人―支配人であり、後者は株主―取締役会―支配人だからである。

使用人兼務取締役について

(1)
取締役会設置会社において、内部取締役は使用人兼務取締役であることが多い。
なぜなら、社内の業務に精通しており、また取締役会内部での内部取締役間のヒエラルキーとあいまって、業務執行がスムーズに行なわれるからである。
(2)
しかし、委員会設置会社において、使用人兼務取締役は認められていない。
なぜなら、執行役は使用人に命令する地位にある一方、取締役は執行役に対して意思決定により拘束を行なう立場にあるから、仮に使用人=取締役であるとすると、指揮系統に矛盾を生じるからである。
その一方で、使用人兼務執行役は認められている。
代表権の本質は代理権であるが、会社の代理権を有する執行役のもと、使用人はヒエラルキーをなして働く必要があり、その意味で使用人のトップと執行役が兼務されることは望ましい。
(3)
また一方で、委員会非設置取締役会設置会社における代表取締役の場合でも同じような命令系統の矛盾が起こりうるはずである。
しかし、実際には代表取締役が使用人に命令する反面、取締役は代表取締役と上下関係にあるため事実上意思決定により拘束できないから、一応矛盾は生じないことになる。
また、制度上は監査役を置くことで、一応の牽制が果たされているとも言える。

内部統制システム

大和銀甲事件を契機に問題とされた内部統制システムは、すなわち、商業使用人の責任を取締役に転化するための理論である。
しかし、通常は民法715条によって会社が使用人の行為について責任を負うのであって、取締役が責任を負うのではない。
会社法には商業使用人の責任について書いていない以上、そうならざるを得ないはずである。
そこで、直接当該使用人を監視しなかったことが善管注意義務違反になるのではなく、使用人が違法行為をした時にうまく監視できるようなシステムを作っておかなかったことをもって、善管注意義務違反だとしたのである。

商法上の表見理論


20条によると支配人の権限は「営業所」に限定されないか。

(1)
もし仮に、名古屋支店長が札幌で権限を行使できないとすると、それは「全権」ではないことになる。
仮に地理的若しくは業務的な制限があったとすれば、それは25条の商業使用人に過ぎないことになる。
(2)
しかし、大隅先生のように、地位あてはめ説に立った時、「本店又は支店の」営業所の地位に当てはめるわけだが、このとき、たとえば名古屋支店長が北海道で取引するのを想定するのではなく、本店付きの執行役本部長が全国で取引することを考えれば、その支配人はまさに全権を有していなければ動けないのであるから、地理的業務的な制限は持っていないことになるはずである。
現実論としては、名古屋支店長が北海道で取引をした時、相手方には重過失が認められるかもしれないが、名古屋支店長が北海道で取引することが全くないとは言えない以上、21条3項には必ず重過失を含めなければならないとも言えない。
上記のように考えれば、あくまで支配人は全権を持つのであって、支配人が元々地域的業務的な制限を負っているのだと考えると矛盾することになる。
(3)
確かにその考え方は、表見支配人を多用する考え方であれば成り立つかもしれない。
すなわち、支配人地位あてはめ説は、100%の権限を有していることが必要なのであって、少しでも制限を加えれば21条3項の問題となり、24条の表見支配人は出る幕がない。
一方、代理権集積型に立てば、24条表見支配人の規定は、抽象的には90%の権限を有する支配人二適用することになるのであって、営業所に業務が限定された支配人がこれにあたると考えるのである。
そしてここから、営業所とは何か、という議論が、表見法理を働かせるための基準とするために、なされることになるのである。
(4)
ここでの24条は呼称表見であり、民法のような外観に対する信頼ではない。
その点を重視すれば、支配人としての名前が重要なのであって、営業所の実体は必要ないことになる(不要説)。
しかし、現実の外観に対する信頼も含んでいると考えれば、営業所が実体として存在していることが必要となる(必要説)。
(5)
以上のように、営業所の概念は代理権集積型が24条を使うことから問題となるのであり、支配人地位あてはめ説は21条3項を使うため、問題とならないはずである。
しかしここで、支配人地位あてはめ説に立ちながら、営業所の実体不要説を取り込む考え方がある。
これは、本来24条の表見支配人の規定が働く余地がなかった地位あてはめ説において、営業所の実体が存在していなかった場合にも保護を広げようとするので、モザイクのような理論である。

名板貸し

(1)
概念法学者は、手形を法律行為であると考えた。
本来意思表示は口頭で行なうものだが、これを書面において行なうため、目的を一つに限るとした。
それはすなわち、金銭債務の負担の意思表示のみ、ということである(手形要件の限定)。
(2)
しかし、普通の法律行為は対面した当事者間でおこなうのが原則であるが、手形行為はカクチ者間でおこなうのが通常であるため、代理人との関係で、以下のようなパターンを考えなければならない。
①スズキノリフミ代理人大塚英明と署名する場合を、代理方式
②大塚英明がスズキノリフミと署名する場合を、代行方式
③代理権限を与えられていないのに、大塚英明がスズキノリフミと署名する場合(つまり代行方式)を、偽造
④大塚英明が債務を負担するつもりでスズキノリフミと署名する場合を、自己を表示するための他人名義の利用
(3)
④のパターンを考える際には、名板貸しについて理解しておく必要がある。
忠実や事件は、忠実屋に入っていた独立したペットショップが販売したインコが病気を媒介し、購入者が死亡した事件だが、これによって忠実屋が名板貸しによって責任を追求された。
基礎になる法律行為が、ペットショップとの間で成立し、かつ、表見法理によってペットショップと忠実屋が責任を連帯するということである。
しかし、この考え方を手形で利用したとすると、手形を持っている人はスズキノリフミと大塚英明の両方に請求できることになる。
しかし、一つの署名から特定される債務者は一人であるから、問題となるのである。
以下略

9条2項表見理論の問題

(1)
登記に書いてあることは、善意無重過失の人に対してはその通りの責任を負う、というものである。
これは、会社法429条を媒介にして、中小零細企業が倒産した場合に、損害金=手形金として取締役に請求させることで、有限責任を享受させないこととした。
(2)
しかし、実質的な経営者はこれで良いとして、3人の取締役の頭数をそろえるためだけに参加していた者にまで責任を負わせて善いのか、と言うことが問題となった。
裁判所刃、これを保証人に類するものとして責任を負わせたが、退任登記未了取締役の場合にはこれが大きな問題となった。
そうした場合には、退任したことを優先してよいと考えられる。
つまり、代理権に対する表見信頼と、業務執行に対する表見信頼の違いであって、表見法理はまさに

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