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忘れられないあの言葉


はじめに

記憶に残る言葉というものは、誰にでも一つや二つあるだろう。それは面と向かって言われたものだったり、小説の文章だったり、
ラジオで聞いたものだったりする。おれにもひとつどうしても忘れられない言葉がある。今から10年以上昔、その言葉は突然おれの耳に
入ってきた。その音は今も心の奥でこだまし続け、今もなお「あの言葉は何だったのだろう」と考えることがある。

生きてる木を切るなんて! あなた生きてないんですか!

この言葉が忘れられない。

本文

この言葉でググったら当時の記録を書き留めているサイトがいくつか出てきた。大体のあらすじは以下のとおりだ。

旧正田邸取り壊しの際に、取り壊しに反対する人たちがいた。彼らの反対もむなしく解体工事は現実のものとなったが、
解体されるまさにその日も、今まさに取り壊さんとする工事業者へ何人かが抗議を行い。その活動がテレビで放映された。
俺自身の記憶とネットの記録とを総合するに、2003年1月16日、午後6時のフジテレビのニュース番組でその言葉を聞いたらしい。
だいぶ昔にテレビで見たことだけは覚えていたのだが、10年以上前とは思わなかった。

庭に植えられている木を作業員が切ろうとする。彼に向かって抗議に来ていたオバチャンはこう言ったのだ。
「生きてる木を切るなんて! あなた生きてないんですか!」

慌てふためくオバチャンをよそに木は切られ家は取り壊されていく。テレビに映った映像は、覚えている限りではこのようなものだ。
実はこの記憶は少し誤っており、阻止行動により遅延があったため家屋の本格的な取り壊しが始まったのは3月25日からだそうだ。
ともあれこの言葉は衝撃的だった。訳が分からなかった。まるで理解できなかった。支離滅裂だった。
なぜ生きている木を切ると生きていないことになるのか。生きていない人間が生きている木を切ることなどあるのか。
「じゃああんたは肉も食わないし野菜も食べないのか」という反論は当時でも思いついたが、オバチャンの言葉はその後も長く耳に残り続けた。
なんだか上手く理解できないまま時は過ぎ去ったのだが、もう一度この言葉を考えて、そろそろ始末を付けたい。
とりあえず、このオバチャンの言葉を分解してみよう。

A:前提1「木は生き物だ」
B:前提2「あなた生きてないんですか(反語)」→「作業員も生き物である」
C:AとBから導きたい結論「木を切るのはよくない」

ようするにこういう感じになるのだろうか。ここまで書いた時点でひとつ発見したことがある。
この言葉を気味悪く思っていた理由のひとつは、AとBをどう組み合わせてもCを得られる気がしない点ではないだろうか。
生きているものが生きていないものを弄ぶことはままあるし、生きていないものが生きているものを殺めることもある(水害とか地震とか)。
そして何より、生きているものが生きているものを生きるために殺めるのは、洋の東西を問わず古来から続いている。
ところが彼女は木に対して「生きているから」という理由で「殺すな」と言っている。彼女の考えを厳密に実行しようとするにはベジタリアンでは足りず、
根菜のように収穫することと殺すことがイコールの野菜も食べてはならないことになる。果実や木の実のように
「収穫しても植物は死なない」ものだけを選んで食べるベジタリアンのことをフルータリアンというが、このオバチャンがそうだとは思わない。
このオバチャンは食生活上の主義主張で木を切るなと言っているのではなく、旧正田邸の庭に生えている木だからこそから切るなと言っているのだから。

だとすれば、オバチャンが言うべきは「生きているから切るな」ではなく「旧正田邸の木だから切るな」でなくてはおかしい。
言葉を濁したがためにあやふやなセンテンスになってしまっているではないか。彼女はなぜ言葉を濁したのか?
それは「俺が私が好きな旧正田邸の木だから切るな」という主張は、どう考えてもむき出しのエゴになってしまうからだろう。
取り壊しに反対する人たちは皇族をリスペクトしている。でなかったらわざわざ抗議活動なんてしないだろうし。
けれどリスペクトする故に、「取り壊してもいいよ」という皇后の意思に真っ向から刃向かう訳にもいかない。
それゆえ一方では「その『意思』は財務省に無理矢理言わされて……」みたいな陰謀めいた話が出てくるし、
また一方では「国家の財産だから壊さないで」みたいにトーンダウンした抗議しかできない。
日本の歴史や文化が、みたいな言い方をしてしまうと、なんだかそっち系の人みたいで余計に賛同を得られなくなってしまう。

それを分からないオバチャンでもあるまい。だから言うに事欠いて「生きてる木を切るなんて」と口に出してしまった……と、こんな所だろうか。
「まぁそんなに木が惜しかったら植木屋さんにでもお願いして植え替えてもらえばいいんだけどたぶんそんなにまで執着はないか」
などと書いてある当時のブログ記事を見つけたがまさにその通りで、その木のみが大切なのではなく、
木や家屋と言った構成物からなる「旧正田邸」という「完成された全体」が大切なのだろう。
壊されたのが塀だったら、あるいは屋根だったらこのオバチャンはなんと言って抗議したのだろうか?
塀や屋根は生きていないからぶっ壊しても良い、なんて事は絶対に言わないだろう。

かように、オバチャンの言葉は作業員に対する八つ当たり以外の何物でもない、という実も蓋もない結論が導き出される。

だけどなおも喉に引っかかるものがあるのだ。論理のぶっ飛びっぷりが凄まじくておれを離さない。
このオバチャンと言葉についてググっていたら以下のようなエッセイを見つけた。
最初に断っておくけれど、私は別に、保存運動にケチを付ける積もりはない。
だが、工事用トラックを追い返した人たちが、激高して語る言葉にある種のおかしさを感じたことは事実だった。
 「明日は、陛下が手術なさる日なんだ。そういう時に、取り壊し工事に取りかかるとは、言語同断じゃないか。
役人の非常識がここまで来ているのには呆れるよ」
天皇が手術を受ける前日だから、解体工事に着手してはならないという理屈は果たして成り立つだろうか。この二つの間に、
密接な関係があるとは到底思えない。しかし、言っている当人は大真面目で、この論理の正当性を毫も疑っていないのである。

http://www.asahi-net.or.jp/~VS6H-OOND/syoda.html
ああ、そういうことか。「言っている本人が、自分の少々ピントのずれた理屈にまったく疑いを持っていない奇妙さ」が原因なのか。

貴重な歴史的財産だから壊すな」なら理解できる。「近隣住民にとって心のよりどころの建物を何としても残したい」でも、
うさんくせーとか嘘つけぇーとか思うがまだ分からないでもない。そのような大義名分を掲げても取り壊しを阻止できず、
切羽詰まった人々は論理でなく感情に訴えるために「生きてる木を切るな」「手術する日だから壊すな」という言葉を使った。
だけど、最初から大して興味の無かった人たちにとってそれは突然放たれた訳の分からない言葉だった。
それは、思いが募るあまりに盛大に空回りした言葉だった。ほとんど泣き叫びや悲鳴に近い言葉だった。
ゆえに、おれの脳裏に焼き付いて離れないのだろう。




参考:
【解体妨害】旧正田邸、抗議行動起きるPart2【デストローイ】 | ログ速@2ちゃんねる(net) http://www.logsoku.com/r/2ch.net/news/1042692807/
スレッドの中でも「生きてる木を切るなんて」について言及するレスが散見される。




最終更新日 2015-10-02








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最終更新:2015年10月02日 21:25