コラム > scrap2

ネタを思いつくたび、あるいは近況欄に書いた文章で「これ面白いこと書いたかも」と思った物を
まとめたのがこのページだった。もとは「スクラップヤード」というページ名だったが、
ゴミの山は見方を変えれば宝の山であり都市鉱山であり、「スクラップノート」に改名した次第。




すいとん狂想曲

「戦下のレシピ」を読んでいて思ったのだが、社会科の資料集に戦時下の食べ物として出てくるような「小麦粉で作ったすいとん」って
実のところどのくらい一般的な物だったのだろうか。といのも前掲書の中で述べられているように、主食の統制はまず炊き増えさせたり
混ぜご飯にしたりと節米から始まった。42年夏からは主食として小麦粉・うどんなども配給されるようになるが、やがてその配給すら
アテに出来なくなり、せっかく行列に並んだのに主食として配給されたのはイモだった……なんてことが平気で起きるようになる。
43年~44年にかけてイモ類・カボチャが「主食の増量材」から「主食そのもの」へと扱いが変わる一方、量・質ともに低下した配給米は
炊き増しどころか雑炊として喰うのがやっとだったという。末期には乾めん、乾パン、小麦粉が配給されたら「うんと上等」と言える状況になり、
乾燥大豆、乾燥トウモロコシ、麦、雑穀が堂々と主食として配給される。煮ても焼いても食えないがとにかく食うしかない。とはいえ
雑穀や豆をご飯に炊き込むのは消化に良くない。という訳で何でもかんでも粉にして団子にする他ない。
かくしておなじみの「すいとん」が登場することになった。

1:すいとんが登場するのは戦争後半からだった
2:そのころには小麦粉が主食として配給されるのは「当たり」といえた
3:他にも様々な主食が配給されていた
の3点から、実は戦時中に食べられていた「すいとん」に入ってるのは雑穀粉だったり魚粉だったり大豆粉の団子だったりするんじゃないか、
という仮説を立ててみたのだが…。ググって調べてみたところ、「小学生と高齢者がすいとんを食べて当時を偲び…」なんてニュースのどれを見ても
出てくるのは小麦粉のすいとん。中には当時を生きたお年寄りが調理して…なんてものもあったからレシピは間違っていないはず。うーん。

別のアプローチをしよう。小麦粉が配給されたとして一体どう調理しようか。うどんや冷や麦、あるいは
ラーメン(シナそばという名前で公定価格表に記載がある。当時すでにメジャーな食べ物だったようだ)を作るのは素人には少々辛い。
そして何より、「すいとんの団子が半煮えで不味かった」なんて話の通り大戦末期には煮炊きするガスや炭にも事欠く。麺を茹でるにも
ツユを作るのにも大量の湯を沸かす必要のある麺類はちとキツイ。となるとパンか。しかしパンはパンで手間がかかるし、オーブンなんて
そうそう無いだろうしなぁ。チャパティならフライパンだけで作れそうだが知名度が低すぎるか。もんじゃやお好み焼きは具が無い時点で論外である。

アメリカ独立戦争当時、兵士達はファイヤーケーキと呼ばれる、水で練った小麦粉をたき火に入れた石に貼り付けて焼くパンもどきを食べて
飢えを凌いだという。火の加減が出来ないため大抵生焼けだったそうだが、1945年の主婦達とてこれに毛の生えた物を作るのが精々だろう。
団子にして出し汁の中で茹でるのすいとんは実に理にかなっているわけだ。やはり小麦粉団子のすいとんは相当あったと言えそうだ。
となると気になるのは上述した「その他」の粉の使い道である。小麦粉と混ぜて使った、ぐらいが真相なのだろうか?

最後にひとつどうしようもないたとえ話をして終わりにしたい。あの手この手でようやく入手したなけなしの食料を調理中に空襲警報が
鳴ったらどうするか。調理を中断して生煮えになるのは嫌だ。かと言ってぐずぐずしていたら命が危ない。火を付けっぱなしにするのは
もっと危ないが、マッチも配給制の昨今一度火を消すと何かと面倒になる。鍋を抱えて防空壕の中に入り、生ぬるく味気ない
すいとんを食った人も結構いるんじゃないかなぁ、などと妄想してみたりするのだ。



求む、やる気のある同盟国

このサイトの体験記を読んでいると時折話題として出てくるのだが、ソ連兵から見てもドイツと比すると他の枢軸国兵士は弱体だったそうだ。
やり玉に挙がるのは例によって(ひどい!)イタリア軍だが、ルーマニア軍やハンガリー軍も結構ボロクソに言われている。

「一方、イタリア兵とも一度だけ戦う機会があったのですが、戦士としては全く使い物にならない連中で、ちょっと寒くなるとすぐさま
 ハエのように動かなくなり、死ぬほど凍えてしまうのです。(略)ところがルーマニア人、あるいはイタリア人となると、飛び跳ねることなく、
 座ったまま縮こまっているから、みんな凍えて死んでしまう。彼らは、寒さに対する備えが全くできていないんですね。」

「ドイツ軍は数が多かった上、ルーマニア軍部隊までもがこれに合流した。だが、彼らの攻撃のやり方は独特なものだったよ。
 つまり、ルーマニア軍が先頭を進み、ドイツ軍はその後からついてくる。ルーマニア兵が後退しないようにそうしたんだね。」

「戦争も終わりに近い時期ではあったが、私はルーマニア人やハンガリー人の部隊と戦ったことがある。しかし彼らはフリッツほど手強くはなく、
 ドイツ兵が最後まで戦い抜いたのに対し、これらの兵士たちはすぐに陣地を捨ててしまった。ドイツ人よりは明らかに弱かったよ。」

「言うまでもなく、イタリア人は兵隊としてはからきしだったし、(略)」

一方枢軸側から見たらどうだったか。「雪の中の軍曹」の著者であるイタリア人兵士マリオ・リゴーニ・ステルンは
「ハンガリー軍は、全軍の中でもいちばん消極的で、万事につけどうでもいいといった態度である。彼らの橇には、
ラード、サラミ、砂糖、ヴィタミン剤がこぼれんばかりに積まれているが、武器や弾薬はまったく見当たらない(97p)」と評している。
武器よりも飯が大事、なんてのはネットに一山幾らで書かれている胡散臭い「イタリア弱兵伝説」でもお馴染みのパターンだが、
ここではイタリア人によって指摘されているのだから皮肉なものだ。

とはいえハンガリー・ルーマニア両国にも理由が無いでは無い。ハンガリーは第一次大戦終結の際に色々あって
戦争状態になるわ領土奪われるわとルーマニアに対する敵意が高まっていた。ウィーン裁定でドイツの威を借りて
領土を取り返したはいいものの、下手にドイツと手を結んだせいで対ソ戦に巻き込まれてしまう。
ハンガリーにとって「敵」とはルーマニアのことであり、最初からやる気の無い戦争だったのだ。
バルバロッサの最中ですら、軍の大半が対ルーマニアのために本国に留め置かれていたというのだから普通じゃない。
ルーマニアはルーマニアでソ連・ハンガリー・ブルガリアの3国に領土を割譲させられていたという前提がある。
敵の敵は味方理論でドイツに付き、緒戦の勝利によって旧領土を奪還したのはいい。しかしその後如何に一抜け
するかが問題だった。このあたりフィンランドと似たところがあるね。

イタリアもハンガリーもルーマニアもダメ。フィンランドは旧国境まで進撃した後引きこもり状態。
誰にも頼りようが無いね。え? ブルガリア? うん、ブルガリア君はね、そもそも対ソ宣戦していないんだ。
となると残るはスロヴァキアやクロアチアか。正直軍事的貢献としては刺身のツマレベルだな…。
「真剣に戦ったのは西村君だけ」じゃないけど、「真面目に戦争してるのはドイツ人だけ」みたいなもんか。
真面目ならいいってもんでもないが。


総統「じゃあ次はイタリアとハンガリーとルーマニアとフィンランドとブルガリアと
スロヴァキアとクロアチアとスペインとヴィシー抜きな」

ろくな奴が残らねぇじゃねーかオイ。


ロシア遠征における唯一の勝者はチャイコフスキーだ的転回

「戦争のおかげで科学技術が発展した」とかドヤ顔で言っちゃう人たちがいる。
「インターネットの元であるARPANETは軍事用ネットワークだったんだぞ!」みたいな大嘘を
未だにバラ撒いている人たちでもあるが、それは脇に置いておく。この人達の言っている事は本当か?
本当に戦争のおかげで我々はより優れた技術の恩恵を受けているのか?
サルファ剤もペニシリンもレーダーもその起源は軍事目的とは関係のないところで始まっている。
それらを「戦争によって(後々民間でも普及するほど)広く使われた」なんて言い出したら何でもありじゃないか?
最初に結論じみた事を言っておくと、「戦争のおかげで科学技術が発展した」という言葉は
間違ってはいないが誤謬がある。話を分かりやすくするためとりあえずターゲットを両大戦に絞ろう。

おれが言いたいことは二つだ。ひとつは「その予算が別に使われたらまた違った『発展』があり得た」事だ。
「戦争のおかげで科学技術が発展した」というのは、分解すれば「戦争という非常事態では、
国家によって採算性や費用対効果を度外視した大量の予算と人員が動員される。ために
日頃日の当たらない分野が劇的な進歩を遂げたり、ある分野の研究が大きく加速したりする。
よって戦争には技術を発展させる効用がある」と言い表せよう。だが、国家がその予算を別方面に
使っていたらどうだろうか。マンハッタン計画では現在の価値にして約250億ドルの予算が投じられた。
その金によって人類は原爆と原子炉と放射線障害に関する幾ばくかの知見を手に入れた訳だが、
例えば同じ金額が平時に教育と産業振興に投下されていたら、別分野で大きな進歩があったのではないだろうか。
その多くは「今までの3倍頑丈なミシン」とか「今より半分の価格のゴムタイヤ」とか「ちょっとイケてるコーヒーショップ」
といった地味極まる結果として出てくるだろう。しかしそれらが相互作用し、あるいは積もりに積もって、
「収穫加速の法則」的結果を生んで今より遥かに科学技術が進歩した世界が表れないとは限らない。

もうひとつは「戦争による死傷者が起こすはずだったイノベーションはどうなる」って点。
太平洋戦争で軍民合わせて約310万人の人々が亡くなった。戦傷者や震災関連死ならぬ戦災関連死、
戦争で将来をズタズタにされた人を含めればもっと多くの人が未来を失っただろう。彼ら彼女らが
生み出すかも知れなかった「科学技術」とやらは、君たちカウントしてるのか? 科学技術に限らない、
生まれてくることの無かった名社長・名先生・名作家・名俳優・名選手始め名哲学家から名漫画家まで
途方もない可能性が潰えてしまった。戦争があったからこそ生まれた名作や優れた発明があるのも事実だろう。
だがそのために十万百万単位で人が死ぬことを肯定してしまっていいのか?
ヘンリー・モーズリーや沢村栄治を知らないとは言わせんぞ。なるほど確かに生み出されるのは
「科学技術」では無いから「戦争のおかげで科学技術が発展した」という言葉の範疇ではなくノーカンだという
論法もアリだろう。じゃあ聞くが科学技術とやらはそんなに偉いのか?

ところで、太平洋戦争によって失われた国富はどのくらいだろうか。資料に寄れば
「昭和10年の資産的一般国富総額は1,868億円(昭和23年末価格12兆1,388 億円)、終戦時の残存
 資産的一般国富総額は1,889億円(同12兆2,754億円)であった。つまり、日本は太平洋戦争で、
 昭和10年から20年まで10年間に蓄積した国富を全て失ったことになる」そうだ(出展:戦争と石油6)

ここまで言ってなお戦争の効用を信じる人たちに聞きたい。
310万人+αの人たちの未来を潰し、10年分の国富を吹き飛ばして、それで得られる『科学技術の発展』ってなんなのか。

(ここでは全く触れなかったが、上記の主張をひっくり返して「平和なおかげで文化が花開いた」と主張することも出来る。
江戸時代250年の平和のおかげで浮世絵や歌舞伎が発展したとか、パクス・ロマーナの平和の元ローマ建築が興ったとか。
言うなればそのくらい無茶苦茶な理論なのである)


オウムの合唱

1941年6月17日、作家の石川達三は当時日本の委任統治領だったパラオの公学校を参観した。校長の計らいで女学生達の唱歌を見せて
もらうことになったのだが、その歌について「それが立派な日本語であったことに、私は裏切られたような気持ちがした」と記している。

「少女たちは愛国行進曲をうたい、軍神広瀬中佐をうたい、児島高徳の歌をうたった。日本の伝統を感じ得ないこのカナカの娘たちにとって、
八紘一宇の精神や一死報国の観念が理解される筈はないのだ。美しい鸚鵡の合唱であった。しかも少女たちは懸命に声を
張りあげてうたっていた。歌をうたうことの生理的な喜びに満足していたのではなかろうか。私は少女たちのいじらしさに胸が詰まった。
これがもしも彼女たちの日本人になろうとする努力の表現であるとすれば、その憐れさはひとしほである」

最後に校歌を歌うことになった。その校歌について彼はこう書いている。

「生徒たちは唱歌帳の頁をめくつた。校長は白墨を握りながら拍子をとつた。私は生徒の唱歌帳をのぞいて見た。
五線紙におたまじやくしを書いてその下に片仮名の歌詞をつらねてあつた。コーラスははじまつた。

みいつかしこきすめらぎの、深き恵みの露うけて、椰子の葉そよぐこの丘に
そそりて立てるまなびやは、日毎に集ふ我等の庭ぞ、あな嬉しやな、楽しやな

私は悲しくなつて来た。元気なコーラスはますます元気に、楽しげに第二節に移つた。

天恵うすきこの島に、盲人(めしうど)のごと産れきて、西も東も知らざりし
我等が眼にも日はさしぬ、みなまなびやの賜ぞ、あな嬉しや、楽しやな

この歌を作つた人が誰であるか、私は知らない。ただその作者の支配階級意識に驚嘆した。そしてこの歌を嬉々として歌ふ
少女たちを涙なくして考へることはできなかつた。天恵うすき島に盲人のごとく生まれて、西も東も知らなかつた。この民族の悲劇は、
スペインに占領されドイツに譲渡され、さらに日本の統治をうけてゐる、この事実だ。しかし、私は疑ふ、この少女達にかくも
悲惨な民族の悲劇を教へ自覚させる必要があるだらうか。かういふ侮蔑的な歌をうたはせて恩に着せる必要がどこにあらう」

南洋諸島は確かに委任統治領だった。しかし「領土化」を既成事実にするため移民が推奨され、昭和16年には全人口の62%、
サイパンとパラオ管内では90%以上を日本人が占めるようになった。支配被支配の関係はここでも有効であった。
支配している側の日本人移民者の間にすら、沖縄出身だ朝鮮出身だという差別感情が存在していた。パラオと言うと二言目には
やれペリリュー島の激戦だとか、やれ世界でも指折りの親日国だとか(天下のwikipedia様でさえ嬉々としてそう書いている)
そんな枕詞とセットで出てくる。

おれは思う。時が時なら「皇帝陛下万歳」や「ラインの守り」を歌っていたであろう少女達の胸中如何であったかと。
おれは悲しい。巨大な主語に押しつぶされた無名の人々と、たとえばパラオの国旗にまつわる、すでに否定された話で
気持ちよくなってしまうような、未だに兄貴分なつもりの人々がいることが。


よく考えればイタリア軍より都市伝説が多い件

ソ連軍の「パラシュート無しで空挺降下」都市伝説ってあるじゃんよ。wikipediaには「続ラスト・オブ・カンプフグルッペ」を出典にして1942年2月に
1000人ものパラシュート無し降下があったと書いているが、肝心の「何故そうしたか」が書いていない。残念ながら出典の本を持っていないので
ググってみると……あれまぁ、英語圏でも根拠不明の都市伝説として扱われてるじゃないの。しかも
「冬戦争中の1940年11月30日に行われた」なんて話まで出てくる。が、やはり理由は書いていない。

ソ連は空挺降下のパイオニアで30年代から地道に研究と部隊の創設をしていた。思いつきでバカをやるとは思えない。
パラシュートが不足していた? まさか。飛行士用のパラシュートをかき集めても良いしグライダーで降下しても構わないはずだ。
第一、空挺隊員も輸送機も足りているのにパラシュートだけが無いなんて話がそうそうあるだろうか?
さらにググる。ここのフォーラムへの書き込みによるとスティーブン・ザロガの"Inside the Blue Berets"の72pに記述があるという。
曰く、ヴャジマを巡る戦いが行われていた1942年3月12日に4th Airborne Corps麾下の第204空挺旅団が行ったもので、低空低速で跳ぶPo-2から
パラシュート無しで飛び降りたと。しかしここでも理由は書いていないし、その数も"Some troops"とあやふやだ。Po-2は二人乗りの練習機で
どう考えても3人も4人もの空挺隊員を乗せられそうにはない。じゃあ何か? 1000機のPo-2が投入されたのか? んなわきゃない。
攻撃自体には約1200名が参加したと書いてあるが、まさか前述の「約1000人がパラシュート無しで降下した」はこの数値をごっちゃにしたんじゃなかろうな。

で、具体的な日時と部隊名(第204空挺旅団は第214空挺旅団の誤記。投稿者が間違えたのかザロガ本が間違えているのかは不明)が分かったのと、
ソ連の空挺部隊について書かれた米軍の教本(pdf注意)が見つかったので調べてみる。調べてみるが…別段記述がない。ああ、もう。分からん。

ネット上でこの都市伝説を面白可笑しく書いてる人、是非その辺を教えて下さい。なんでもかんでも「おそロシア」と言って思考停止したくないんです。


「爆弾よりヒルが怖い」話

これは父が祖父から聞いた話(つまりおれにとっては又聞き)なのだが、戦時中都市部から疎開してきた人たちが勤労奉仕か何か
で田んぼの作業を手伝った際「爆弾よりヒルが怖い」と言ったことがあるそうだ。もちろん爆弾の方が怖い訳で、ジョークに過ぎな
いのだが、実際問題として戦略爆撃はどこまで有効だったのか?戦略爆撃調査団のレポート(page26の段落)には「累積した多くの原
因の一つだけを、日本の無条件降伏の原因とする試みはあまり意味がない」と断りながらも「1945年12月31日前に間違いなく、恐ら
く1945年11月1日以前に、日本は、原子爆弾が投下されていなかったとしても、ロシアが参戦していなかったとしても、本土侵攻が
立案も熟考もされなかったとしても降伏していたであろう」と記している。陸海空における軍事的敗北、海上輸送網の破壊、戦略爆
撃の全てが功績をあげたのだ、と。日本人の感覚からするとちょっと楽観的な見方であり、日本軍なら負けまくろうが殺されまくろ
うが本土決戦やったんじゃねぇの?という疑問が出てきてしまうのだが、しかしpage21からの「民衆の64%は降伏前に、個人的に戦
争を続けることはできないと感じた域に達していたと述べた。そのうち、十分の一以下は軍事的敗北に原因を帰し、四分の一は食糧
と民需物資の不足として、大多数は空襲のせいだとした」との聞き取り調査は結構納得がいく。

このへんの爆撃する側とされる側の感覚のズレってのは海外でも結構論争になっており、「ドイツの軍事生産は終戦直前までずー
っと増加している。低下したのは領土そのものを奪われたからであり、米英合わせて2万機の爆撃機と1万8千機の戦闘機、16万人の
飛行士を失った割りには効果が低い。人道的にもいかがなものだったか」みたいな主張が存在する。ただ戦略爆撃する側の理論も戦
前戦中を通して結構変化しており「工場だけを潰してスマートに勝つ」「インフラを攻撃して国民経済を目茶苦茶に」「都市を破壊
して敵国民の士気を崩壊させよう」「もう面倒だし敵国民の殺害が最優先」などと様々なアイデアが出ている。この士気だの厭戦感
情だのっていうのもくせ者で、爆撃されて士気が下がるどころか敵愾心を発揮させ一致団結させてしまうことがなぜかある。

スペイン内戦における鉄鋼工場の爆撃について、イギリス統合委員会スペイン小委員会議長は「3千人中150人が死亡する被害を受け
たが、工員は驚くほど元気で脱走したのは2人だけだった」と報告し、その原因について「10日のうち9日がカンカン照りのスペイン
では、陽気な気質の人々は悲観的に物事を見ることはめったにないからに違いない。雨が多く陰気なシェフィールドであれば破壊さ
れた鉄鋼工場は非常に精神を阻喪させるだろうが、スペインではそうならなかった」とあんまりな結論を出している。もっともそれ
は洋の東西で変わらず、重慶に対する爆撃の効果について第三飛行団長遠藤少将は「重慶はいまだ死の町ではなく、中国のように文
化の低い民族に対し爆撃だけで屈服させようとすることは無理である」ともう目茶苦茶なことを言っている。後の英本土・日本本土
空襲に際し、イギリス人や日本人が「爆撃だけで屈服」せず本土決戦を大まじめにやるつもりだったことを考えるともう皮肉としか
言いようがない。「当時の価値観」とやらを考慮に入れたとしても、空爆というシステムの複雑さとは比べようもなくお粗末な理論
である。戦略爆撃とはちと違うが、近年も「ハイテク無人機でテロリストに誘導爆弾をぶち込めば全部解決」みたいなハッピーすぎ
る理論は生きており、それで結婚式の車列を吹っ飛ばしたりしている。する側とされる側の感覚はどこまでもズレ続ける。

夏の暑い日、たまには空を見上げてB-29やランカスターやHe111の集団が編隊飛行している姿を想像してみるのも悪くないかも知れ
ない。今この瞬間に自分の頭の上から爆弾が落ちてくるなんてことは全く現実的でないが、しかし無意味ではない。


廃墟と戦争

――第二次大戦において市街の80%が廃墟と化したワルシャワは、市民の鬼気迫る修復・復元作業により「レンガの割れ目一つに至るまで」再現したという。

「ふしぎの国の世界大戦」でトークのネタにしているこの話を読む度、翻って本邦ではどうかと考えこまざるを得ない。
戦時中たまたま京都では空襲の被害が少なかったが、本格的に爆撃を受け廃墟になっていたら、果たして日本人はポーランド人のように
「カワラのひび割れ一つに至るまで」古都の町並みを再現しただろうか…と。焼け野原になった東京に今何が建っていて、どれだけ
戦前の建築物や風景が残っているかを見るに限りなく怪しいとおれは思う。こんな事を書くと必ず「地震や台風に備える必要があるから」と
突っ込まれるのが分かっているので、じゃあ現在の京都や奈良ではどうしているんだろうと調べてみると、あれまぁ30年で10万軒が取り壊される
ほど破壊が進んでいるらしい。(しかし、「東京は洗練された平壌」とボロクソな言われ様はもはや痛快ですらある。)

明治の始め、廃仏毀釈の暴風により国宝級・重文級の仏像仏具が盛大にぶっ壊された。明治維新の実行者である薩摩藩ではその風は
いっそう苛烈であり、鹿児島県史によれば「江戸末期まで寺院が1066カ寺あり、僧侶が2964人いた。ところが1874年(明治7年)には双方ともにゼロになった」
というのだから普通じゃない。そのせいで鹿児島県は今も文化財過疎県なのだそうだ。興福寺の五重塔は売りに出され、
しかも買い手が付き、後一歩のところで薪にされそうだったのを住民達がなんとか食い止めたのだが、この「薪」というのがポイントで、
破壊した仏像やらなんやらで風呂を沸かす「仏風呂」なんてのを明治の人間はマジでやっていた。

明治を生き延びることが出来なかった無数の神々と、大戦後ついに再建されることの無かった建造物を思うと好きなだけゲンナリ出来る。
地震や台風で失った寺院や仏像より人間の手で壊したそれらの方が多いであろう事を想像すると、最後は知恵の問題じゃないかと思うけどね。
コロッセオが今でもその姿を留め、いつまで経っても完成しないサグラダ・ファミリアが世界遺産に指定され観光地となっているのを見るに、
建築学のケの字も分からないおれですらいろいろな物に思いをはせてしまう。
(イスラム国や国立競技場についてもひと言書いてやろうと思ったがあまりにもデンジャラス過ぎるので止めたのはここだけの秘密)


巨人と倫理

戦時中、日本も原爆の研究をしていたことはそれなりに知られている。マンハッタン計画に比べれば資源・人材・予算の面で比較にならないほど
劣っていたこと、例によって陸海軍別々に研究していたこともあり、基礎的研究の域を出る物ではなかった。だがしかし。
万が一億が一何かの気まぐれと間違いで完成してしまったとしたら、果たして「何を目標に」「どうやって」使用されただろうか?
航空機に乗せられないような巨大な核爆弾は使い道に困る。しかし乗せられるように小型化が相成ったところで一体どこに?
「核兵器をどう作るか」というのと同じくらい「どうやって使うか」も手探りの中で各国の核開発は進行していたのだ。
マンハッタン計画が始まったとき、科学者と軍人と政府高官達の中で以下の4つについて知っている者は誰もいなかった。
  • 20ktという非常に高い威力を持つ核兵器が製造できる
  • 核兵器は航空機に搭載できるほど小型化できる
  • 上記の両方の特徴を併せ持った核兵器を45年夏には実戦投入できる
  • 45年夏の時点でドイツは降伏しているが日本とはなお戦争中であり、米国は目下戦略爆撃を続行中である
戦略爆撃理論と航空機搭載可能な核兵器の組み合わせがあって初めて広島・長崎の惨劇は起こったのであり、
二つの内どちらかが欠けても「世界初の核攻撃」は全く違った様相を呈したに違いない。核兵器の小型化が出来るかどうか不明だった当初、
核爆弾は船に乗せ、ラジコン操作するなり乗員を脱出させるなりして敵中に飛び込ませたあと自爆させて使う予定だったそうだ。
とすると攻撃目標は当然港湾にたむろする敵艦や海岸近くの敵航空基地であり、被害は史実のそれとだいぶ異なっていただろう。
核が戦術目的で使用された場合も、例えば(時期的に前後するが)沖縄上陸直前に守備隊を殲滅するため投下するとか、
本土決戦に備え集結する日本軍に投下するといった、だいぶ違った未来が起こりえた。かように、核兵器を何に対してどう使うか、
そもそも使って良いのかを巡るやりとりは色々と残っているが、マンハッタン計画に参加した科学者の一人、
レオ・シラードのエピソードをひとつ紹介したい。

米国における核開発の始まりは彼がアインシュタインの署名を添えてルーズベルトに手紙を送ったことが切っ掛けだった。ドイツから
亡命してきたユダヤ人であるシラードはこの手紙の中でナチスが核研究を行っていることを示唆し、米国も注意・研究すべきであると述べている。
彼としてはナチスが先に核兵器を完成させるような事態はなんとしても防ぎたかったのだ。実際のところアメリカは「ドイツが各研究では先行している!」と
思いながら大急ぎで研究を進めており、43年8月の大統領宛の報告ではようやくドイツに並んだと言っている。ところが45年にもなるとナチスの
核兵器は影も形もない事が明らかになり、シラードは一転して核兵器の使用に否定的になる。いろいろな筋を頼ってみたものの成果は上げられず、
45年7月にはマンハッタン計画に参加している科学者約70名の署名と、科学者150人に実施したアンケートを添えた請願書を提出している。
アンケートの質問はシンプルだ。「核兵器はどのような形で使われるべきか?」。回答は以下のとおりだった。
  • 軍事的な観点から、アメリカ軍の損害を最小限に抑え、日本の降伏を早めるうえで、もっとも効果的になる方法で使用する。(15%)
  • 日本で軍事的な示威を行い、あらためて降伏の機会を与えたのちに、降伏しなければ、完全な形で使用する。(46%)
  • アメリカ国内で日本の代表の立ち会いのもと、示威のための実験を行い、あらためて降伏の機会を与えたのちに、
    降伏しなければ、完全な形で使用する。(26%)
  • 軍事的な使用は控えるが、示威のために公開実験を行って、威力を示す。(11%)
  • 新兵器の開発の状況をできるがきり秘密にし、今回の戦争での使用を控える。(2%)
穏健的な意見が多数を占めるが、しかし核の威力をデモンストレーションして見せつけたところで、
「勝ち目がないのに降伏もせず自殺攻撃を図るような」日本人が本当に降伏するかどうかは不透明であり、オッペンハイマーも
その効果については「分からない」としている。結局2発の核は戦略爆撃の延長として使用され、冷戦期も戦略核と戦術核という
(曖昧ではあるが)2種類の核兵器が存在し続けた。その意味で広島と長崎に投下された原爆は「とどめの一撃」ではなかった。
それは「次の戦争の最初の一発」だった。オマール・ブラッドレーは相当な切れ者だったらしく、早くも48年には
「我々は核の巨人と倫理の幼児の世界にいる。(中略)もし我々が知恵も慎重さも無しに科学技術の発展を続けるのならば、
我々の使用人が実は我々の死刑執行人であることが証明されるかも知れない」と断言している。キューバ危機のさなか、
1隻の空母と11隻の駆逐艦からなる艦隊から訓練用爆雷による威嚇攻撃を受け、ソ連海軍潜水艦B-59はあと一歩のところで
核魚雷による反撃を行うところだった。それを食い止めたのは乗船していた艦隊司令ワシリー・アルキポフの倫理と良心だった。
しかし、英雄個人個人の倫理に期待するには、世界にはどうにも核弾頭が多すぎる。

我々が核の手綱を握っているのか。それとも核が我々の手綱を握っているのだろうか?


殉教とおもねりの間で

「丸」や「歴史群像」にさっぱり乗らないが見過ごすわけに行かない戦時日本の大まじめな問題のひとつに宗教の戦争協力がある。
平和を愛さず暴力を咎めない宗教などない。にも関わらず戦前から戦中にかけて、おおよそあらゆる諸宗教と宗教家は
戦争を防ぐどころか、積極的に推進する側となった。一体全体なんでなのか?
国家による弾圧があったからというのが一般的なイメージだが、これは半分だけ正解で、実際には宗教の方も生き残りと布教のため
国の太鼓持ちを買って出た相互関係というのが真相らしい。そのような相互関係の枠から飛び出て真に教義を守ろうとすれば
竹中彰元のように逮捕されたり自分の宗派から格下げを喰らったりする「殉教」の道しかなかった。
竹中は造言飛語のかどで逮捕されたのだが、僧侶が「戦争は最大な罪悪だ」と言っただけで禁固刑になる世界で神仏の教えを守るのは
想像を絶する覚悟が必要だっただろう。なにせ法による罰だけでなく市民レベルでも「非国民」という村八分的扱いが待っているのだから。
なので諸宗教が国の先棒を担がざるを得なかったのも分からないではない。

だが、一方でもう少しなんとかならなかったのかと言いたくなる資料が残っている。
その名前は「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」。
戦争に負けかかってる44年4月に発表された。まぁ要するに東アジアのキリスト教徒達に日本の戦争の正当性を宗教的側面から
アピールする物だが、「日本人キリスト者のよって立つ基礎が日本の『国体』にあること、また教団の存在目的が『宗教報国』にある」ことが
明言されているとんでもない代物である。キリスト教と天皇制、日本の戦争とがぐっちゃぐっちゃに混ざり合いキメラ的な文言になっている。
「わが国体の尊厳無比なる基礎に立ち、天業翼賛の皇道倫理を身に体したる日本人キリスト者」が
何の矛盾も問題もなく「宮中に参内、賜謁の恩典に浴するという破格の光栄」を喜び、
「一意宗教報国の熱意に燃え、大御心の万分の一にも応え奉ろう」としたのだとこの書簡は述べている。
キリスト教徒は「あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はない」(ホセア書13:4)とか
「わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている」(コリント人への第一の手紙8:4)
といった教えに従っているはずだが、そちらの神と「現人神」が並び立つ矛盾は見ないようにしているらしい。

もっとも「もう少しなんとかならなかったのかと言いたくなる」のは日本の宗教家だけでなく、時のローマ教皇ピウス12世は
無神論を掲げる共産主義者よりかはファシストの方がまだカトリックに対する理解があるだろうと判断し、反ナチより反共を優先させたため
ナチスによるユダヤ人迫害を事実上黙殺した。この点は今でも批判と擁護が繰り返されており、英語版wikipediaには
「ピウス12世とホロコースト」「ピウス12世とユダヤ教」「カトリックとナチス」みたいな記事がいくつもある。

戦後の47年、全国の宗教団体が集い全日本宗教平和会議が開かれ「懺悔の表明」が宣言された。
「身命を賭しても、平和護持の運動を起し、宗教の本領発揮に努むべきであった。この点、われわれは深くわれらの無為にして
殉教精神に欠けたるを恥ずるものである」とまで言い切る真剣な宣言だが、それが難しかったのは前述の通り。
「~基督教徒に送る書翰」を出した日本基督教団も、67年に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を出した。
「まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるに
わたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました」
とこちらも誠実さが見て取れる文章で、今更何をと言う気がしないでもないが、しかし両者とも間違っていたことを間違っていたと
認める(分かると思うけど、人間も組織もこれが難しい)潔さはまこと宗教者としての真摯さが感じられる。竹中彰元を処罰した
真宗大谷派も87年の全戦没者追弔法会で総長が「私たちは単に、『過ち』といって通り過ぎるにはあまりにも大きな罪を犯してしまいました」と述べ、
07年には遅まきながら名誉回復がなされた。

しかし、これでハッピーエンドというわけではない。我々はこの一連の流れから何を学ぶべきなのか。近代以降、国家の統制を
受けないのが当たり前だと思われている宗教ですら戦時には中立・知らぬ存ぜぬではいられず、打算と信仰心とを天秤に掛けざるを得なかった。
信仰の力をもってしてもなお抗いがたい圧倒的な抑圧を受けた時、身を殉じるものが無い我々は本当に正しい道を選べるのだろうか。
すなわち「殉教」するほど何かに入れ込んでいるわけでもないおれが、果たして「世間の空気」「社会の常識」「国民世論」に徒手空拳で
挑むことが出来るのだろうか? 愛想笑いしながら当たり障りのない「常識人」を演じてしまうのが関の山ではないのか?
「宗教家のくせに戦争に賛成しやがって」と非難するのはあまりにも簡単だが、では宗教家ですらない人間は何を掲げて戦えばよいのか?
その気になれば殉教できる、つまり信仰を守ったが故に死ぬのは犬死ではないと見なされる宗教家ですら命が惜しくなったり(でもそれが普通だよね)
国に進んで、あるいはいやいや協力せざるを得なかったのが歴史的事実なのだ。そしてそれは宗教家だけでなく、絶対普遍の
真理を追い求める学者とて変わらない。戦前日本の考古学者は大量の地雷原に囲まれており、「1万年前は神話の時代」と教科書に
書いてあっても黙っているしかなかったし、トロフィム・ルイセンコがピンピンしている間、ソ連の農学者・遺伝学者は
言いたいことも言えず口をつぐむほか無かった。

その道のプロである宗教家や学者もが沈黙を余儀なくされるとき、おれや君に何が出来る余地があり、それはどのくらい正当性を持ちうるのか。
極限状態でこそ人間の本性が垣間見えるのだ、なんて無人島で遭難したみたいな言い方の結論にはしたくないんだけどさ…。


100年前の手のひら返し

大津事件の際、ロシアの皇太子に斬りかかった犯人津田三蔵を取り押さえたとして、向畑治三郎と北賀市市太郎という
二人の人力車夫は大変な称賛を受けた。事件後にロシアの軍艦へ招待され、そこで皇太子から勲章を授与、報奨金に年金までもらい
水兵達からも歓迎されたという。それを見ていた日本政府も勲章と年金を与えることを発表し、二人は「帯勲車夫」として一躍時の人となる。
今で言うならタクシーの運転手が日本を視察中の外国首相・大統領を襲撃したテロリストを捕まえたような話であり、
「この事件にかこつけてロシアが攻めてくるかも!」と気が気でなかった国民からの人気はものすごいものだった。
ところが、日露戦争が勃発すると手のひらを返したように露探(ロシアのスパイ)扱いをされ、
「お前が津田を放っておけばこの戦争は起こらなかった」「お前のせいで夫・息子が戦死した」などと言いがかりに等しい中傷を受けることになる。
北賀市は「家の表門に飾っていた勲章を取り外し、無実を証明するとして軍隊に志願した」が当時40歳を過ぎていたこともあり受理されなかったそうだ。

同じ頃、国民から露骨に手のひらを返された男がもう一人いる。当時の第二艦隊司令長官だった上村彦之丞という人物だ。
第二艦隊は神出鬼没なロシア艦隊と日本海の濃霧に手を焼きなかなかこれを捕捉することが出来なかったのだが、
そうこうしている間に陸軍の輸送船3隻がロシアの装甲巡洋艦に相次いで撃沈・撃破され1千名以上が戦死する常陸丸事件が起きる。
ロシア艦は翌月には東京湾沖にまで現れ、さらに船を沈め続けたため国民は恐慌状態になり、例によって上村を露探扱いした。
自宅は投石を手始めに襲撃まで受け、果ては「切腹勧告状の類や『腹を切れ』という意味合いで本物の短刀を投げ込む者も現れた」のだそうだ。
それからひと月後、第二艦隊はついにロシア艦隊を捕らえ、常陸丸事件の敵役である3隻のうち1隻を撃沈、残りの2隻にも手ひどい損害を
与えることに成功した。上村は乗艦の弾切れを伝えられたために手負いの2隻の追撃を諦めたのだが、その際残弾無しを伝える黒板を
叩き付け何度も踏みつけたというエピソードが残っている。これは彼の悔しさや気性を示す物と解釈されるが、「撃沈1隻だけでは汚名返上出来ない」という
打算もあったのではないかとおれは勝手に思っている。恐怖以外の何物でもなかったロシア艦隊を撃退したことと、戦闘終了後に敵兵の救助を命令し
600名以上を救出・保護した紳士的行為が知られると、上村をボロクソに中傷していた民衆は速やかに手のひらを返した
武士道の模範だのなんだのと持ち上げられ、彼を称賛する軍歌「上村将軍」まで出来てしまう。その後の日本海海戦でも活躍し、
かくして上村は「屈辱と栄光の両方を味わった男」という、誉めているのだか貶しているのだが分からない言い方で現代でも一定の評価を受けている。

日露戦争でこれなのだから、日中戦争・太平洋戦争ではどれだけの「英米・中国のスパイ」が「発見」されたのか想像も付かない。
この二つの話にとどまらず胸くそ悪い話がいくらもごろごろしていて、社会学者でも文化学者でもないおれですら
これ――おれの乏しいボキャブラリーでは表現しづらいが、非日常における国民の倫理というかモラルというか、
あまりに急変するものの見方や態度、無責任さ――にややもすれば絶望しかけるのだが、これを読んでいる君はどうだろうか。


人が死んだら感動する、という奇妙な話

おれは昔から作文コンクールというものが嫌いだ。いや正確には、作文コンクール特有のあの胡散臭さが嫌いだ。
やれおじいちゃんが死にました、いとこが障害者です、僕は難病を患っていますなどなど、不幸自慢っぽくて好きになれない。
そんな内容の作文を送るなって言ってる訳じゃないよ。そんな内容の作文ばかりが受賞しまくるってのはどういうことなんだ?
と中学生の時から思ってたんだよ。

思い込みで物を言うのはアレなのでググって実際の入賞作を読んでみる。募集テーマにもよるが「ばかり」ではないようだ。
しかし「思い込み」で済ますには少々多い気がする。「はがき作文」なんかは割合のほほんとした作品が多いが、
人権作文コンテスト」や「感動作文コンクール」なんかは不幸話の数が急増しているように見える。
募集する側が自分で「テーマは感動です」と宣言するそのセンスは理解しかねるが、ともあれその感動作文コンクールの
平成26年度の文部科学大臣奨励賞作品(pdf注意)と平成25年度の文部科学大臣奨励賞・高校の部最優秀賞同時受賞の作品(pdf注意)に
ちょっと目を通して欲しい。そこではおれが危惧したとおり、「誰それが死にました、病気になりました」という話が展開されている。
そしてそんな話が「感動」と銘打った作文コンクールで最も栄誉ある賞を与えられている。どうなんだそれは。上記のリンクと
平成25年度の受賞作の一覧からさらに調べてみる。

「その日、私はある一人の女性の告別式の式場にいた」(リンク)
「私の母は膠原病の一種、混合性血合組織病という難病を患っている」(リンク)
「曾祖母が入院したとき、祖父母や両親は既に覚悟はしていたらしい」(リンク)
「それは僕が小学二年の春、彼は難病にかかりました」(リンク)
「父は二年前の三月に病気で亡くなりました」(リンク)
「今からちょうど三年前、母が入院した」(リンク)
「あの日、私の大事な人が死にました」(リンク)
「耕運機に両足を巻き込まれてしまったのだ」(リンク)
「僕の悲鳴が何日間も小児科病棟にひびき渡った」(リンク)
「そのおじいちゃんが数年前、治らない病気だと宣告された」(リンク)
「きょ年の十月とつぜんお母さんのお父さんが、病気になりきんきゅう手じゅつをしたのです」(リンク)

以上は数ある入賞作品の中からおれがピックアップしたものである。だから恣意的だし、これを以て
「ほら見ろ! 不幸話ばかりだろ!」とは言わない。絶対数で言えば不幸話で無い方がずっと多い。それは認める。
割合的に不幸話が多いのか少ないのかはおれには判断がつきかねるが、少なくとも中坊時代のおれが
「不幸話多くね?」と思う程度にはある。

我々はいまや、いちいち人が死んだり病気にならないと感動もできないのだ、なんて聞いた風なことは言わない。
だがこうは言わせて欲しい。我々はいまや、人の生き死にや病気をも「感動作文コンクール」のネタにし、
不幸と感動とを勝手に結びつけては「泣いた!」「切ない!」と享楽的に消費するゲス野郎に成り下がっている。
「ネットに投稿された漫画が静かな感動を」とか言って、来月にはもう忘れている。不幸も感動も使い捨てなのだ……。

追記:読売新聞主催の全国小・中学校作文コンクールで2年連続文部科学大臣賞を受賞している女子中学生の作文を見つけた。
中1の時に書いた作文は「1年前、私は海外で手術をするという、特殊な経験をした。」から始まり、
中2の時に書いた作文は「父が、逮捕された。」から始まる。作文を読む大人の評者達がいかにも
喜びそうな書き出しから始まる、しかしそれ自体は上記のテンプレ不幸自慢を拡大発展させより過激にした物でしかなく、
結局「誰か一人でも欠けていたら、今の私はなかったかもしれない」だの「生まれてきたことを感謝したいと思う」だのと
ありきたりな締めで終わる作文に乾いた笑いが出る。しかし「毎年、この賞の中学生を憧れと尊敬の眼差しで見上げて来」たと
語る彼女が「いつかは受賞してみたいという、夢に近い目標」を達成するためなら父親が逮捕されたことすら平気でネタにできる
という事実を考えると、まるで笑えない。

高田さんよ、あんたと会ったことも話したこともないが、おれはあんたとはとてもじゃないが仲良くなれそうにないぜ。
それともおれがこう書いたことを作文のネタにするかい。「私はその日、ネットで誹謗中傷を受けた」なんて書き出しでさ…。


何にもせずに世界を救った男の話

「巨人と倫理」の続きの話。
何か凄い事をして世界を救うのがよくある英雄の話だが、その男は「なにもしない」ことによって世界を救った。

1962年10月27日、キューバ危機の最中にキューバ周辺へと派遣されていたソ連潜水艦B59は米海軍の駆逐艦11隻から
演習用爆雷による攻撃を受け浮上を迫られていた。数日前からモスクワとの通信が取れず、米国の民間ラジオ放送を
通して情報収集に努めていたが、攻撃をかわすため深く潜航したためそれも不可能になる。

もしかしたら米ソが開戦したのかも知れない。B59の艦長はそう判断し、搭載されていた核魚雷による反撃を目論む。
通常、艦長が政治将校から許可を得るだけで核魚雷は使用可能だったが、B59は他の潜水艦と違い副艦長兼小艦隊司令の
Vasili Alexandrovich Arkhipov(ワシリー・アレクサンドロヴィチ・アルキポフ 「ヴァシリ」だったり「アルヒポフ」
だったりするがすまねぇロシア語はさっぱりなんだ)が乗艦しており、また艦長と同階級のため核魚雷の発射には
彼の許可を得る必要があった。艦長・政治将校・アルキポフの3人の間で口論が起こる。

2日前の25日には国連安保理でキューバにミサイルが配備されている事が暴露され、また同日27日にはU-2偵察機が
キューバ上空で撃墜されるなど、米ソの緊張は極限まで達していた。仮に核を発射すれば、どう転んだって
第三次大戦は避けられない。発射に反対したのはアルキポフだけだったが、最終的に2人は折れ発射は取りやめになった。
ディーゼル潜水艦のB59は長時間の潜航のためバッテリー残量が僅かであり、艦内の空気も危険な状態にあった。
アルキポフは艦長を説き伏せ敵のど真ん中で浮上する事を決定する。

本当に開戦しているのならばたちまち蜂の巣にされるはずだ。

だが、「敵」は威嚇はすれど撃っては来なかった……。

冷戦構造や軍隊という巨大なシステムの歯車でしかない個々の人間が、システムに対して「勝利」を収めた非常にまれな
ケースだなんてのは格好つけすぎ&誉めすぎですかね。いやでもさぁ、周りがいけいけなムードの中首を振らないってのは
そう簡単にできる事じゃないでしょ。エアコンがぶっ壊れた潜水艦の中で酸素も薄くなって頭もよう回らんし。
艦長は目が血走ってるし、政治将校は小うるさいし。よく我慢を突き通せたと思うよ、マジで。

上の文章は英語版wikipediaのご本人のを意訳したものなんだけど、つい最近日本語版に翻訳記事が出来てやんの。
ネタが一つ潰れちまったよ! という訳で急いで投稿する次第。

ちなみに1983年にもスタニスラフ・ペトロフという軍人が、監視衛星と繋がったコンピューターからの攻撃警報を誤報と
判断して核戦争の危機を防いでいる。誤報と判断した理由が「何百発もの核ミサイルを持っているアメリカが
たった5発の核で戦争を始めるはずがない」ってのがマジキチじみててイカす。詳細は以下のリンクを参照のこと。



かくて象は人を恨む

英語には「Elephants Never Forget(象は忘れない)」ということわざがある。
象は記憶力が良く、受けた恨みは決して忘れない…というような意味だそうだ。
象繋がりで話を続けると、童謡「ぞうさん」の作詞を手掛けたまど・みちおという詩人は、戦時中に戦意高揚のために詩を
作ったことを生涯悔やみ続けたという。彼が「戦争協力詩」と呼ぶそれらの詩は、一生の間に作った約2000の詩の中に
たった5つ存在するに過ぎない。その中身の一部をここで見ることが出来るが、
死ぬまで悔やむほど過激で不穏当で残虐という風には、少なくともおれは感じない。

だがまどさんは後悔し続けた。それどころか全集の後書きで謝罪までした。彼にとって詩に綴られた言葉にはそれだけの
重みがあったからだ。戦中自分が言ったこと、書いたことについて口をつぐんだのは何も「愛国者」や「知識人」だけじゃない。
作家も新聞記者も学校の先生も村のご隠居も似たり寄ったりだった。さらに酷いことに、黙っていれば
それでやり過ごせ、過去の言動を「無かったこと」に出来ると大勢の人間が思っていた。先の記事を引用するなら
「戦争詩を書いた詩人のほとんどは戦後、作品を闇に葬り、口を閉ざした(略)鮎川信夫が半世紀前に指摘したように、
問題は戦争詩を書いたか書かないかではなく、書いたことを隠したり弁解したりして反省がない点だった」

今だって状況は変わらない。適当なことを言って「炎上」した後にこっそりツイートやエントリを消したり、アカウントを削除したり、
「そんな意味で申しあげたのではない」「発言が誤解されている」などと言いつくろったりする。
そこには言い逃れや弁明はあっても、自省や自戒は無い。「変な事言ってごめんなさい」はあれども
「何で俺はそんなことを言ったのか」には至らない。(何も「自己批判」や「総括」をしろなんて言ってる訳じゃないよ)

ま、おれも人に説教垂れる事が出来るほど聖人君子ではまったくないが、せめて自分の言ったことぐらいは忘れずにいたいものだ。

象は忘れない。しかし人間は?


零距離射撃って結局なんなのか

ニコニコ大百科: 「零距離射撃」について語るスレにおいて大変興味深いやりとりがあったので紹介する。
「零距離射撃とは(相手に砲身が密着するくらい)至近距離からの射撃ではなく、仰角が0度の射撃である。密着させるのは接射という」
と軍オタは散々宣ってきた。だけどもその出典が語られることはなく、具体的に何時の時代どこの軍隊の用語なのかも定かではなかった。
例えば防衛省規格 火器用語(射撃)には「零距離射撃」も「接射」も載っていない。だから少なくとも自衛隊の用語じゃない。
大体、仰角0度の射撃ならなんでも「零距離射撃」なのだろうか? 例えば拳銃で撃ち合いするような距離なら、大抵銃身は水平だろう。
ガンマンが悪党と撃ち合うのを「零距離射撃」と言って良いのか? あるいは水平飛行する戦闘機が固定機銃を撃つときは?
宇宙戦艦が水平方向にいる敵にビームを撃つ場合はどうなんだ?

もうちょっと具体的な例を挙げると、Steel Furyでお馴染みGraviteamの戦車シムSteel Armor: Blaze of Warのマニュアルによれば
T-62がAPFSDSを使用する場合、高さ2mの目標ならば距離1870mまでは直射(directly hit)が可能であり(23P)、実戦においては
1600m以内の目標に対して事前の測距(prior measurement)なしに命中させることが可能(50p)となっている。しかし
「T-62が1600m先の敵を撃つこと」を「零距離射撃」と呼ぶのは、日本語としてあまりにも違和感がある。

ところがさらに調査が進められると実際に「零距離射撃」の語を使用している文献が発見された。
支那事変 野戦重砲兵の初陣」では零距離射撃のことを以下のように説明している。
ある夜は敵の襲撃部隊は五千人もの大部隊に増え、野重部隊もやむを得ず零距離射撃を行って、この敵襲を
阻止することができました。零距離射撃とは、榴散弾を使用し、信管を砲弾が砲口を出た瞬間に爆発させるという
砲兵部隊が近接戦闘に自衛のため行う非常手段的な射撃方法です。この一五センチ榴弾砲の射撃は、発射の瞬間、
天地も裂けたかと思うほどの凄まじい爆発です。爆発後は暫時、彼我共に「シュン」として全ての物音も絶え、
現世の終わりの様相を呈する凄まじさです。翌朝砲の前面には数十名の敵の遺棄死体が粉砕状態で転がっていました。
野戦重砲一門に対する携行弾は、何分にも重いので二〇発くらいです。
敵襲の都度、零距離射撃で敵を撃退するわけにはまいりません。

また1932年発行の平凡社「大百科事典. 第11巻」の63pには以下の項目がある
サンダンシャゲキ 霰弾射撃
零距離射撃のこと。即ち榴霰弾の信管を零距離に測合して発射する射撃をいう。零距離(霰弾)射撃は
放列線の直前に現出した目標に対して行うもので、例えば、砲兵陣地の直前または最近距離に
敵騎兵の襲撃部隊が現出せるような場合は、この射砲を採用し、榴霰弾が砲口を飛び出すと、直ちに破裂して
弾子を前方に散発せしむるのである。この場合における榴霰弾の平均破裂点は、初速の如何によって
異なるものであるが、通常砲口前一五メートル付近において破裂し、その効力を及ぼすに足る縦方面の距離は、
野砲、騎砲、山砲にありては砲口前より三百メートルないし四百メートルであって、十五センチ榴弾砲、
十センチ及び十五センチ加農砲にありては、砲口前四百メートルないし七百メートルに及ぶものである。
(一部表記を現代仮名遣いに、旧字を新字に直した)

ここまで決定的な証拠が出てくれば問題解決と言って良いだろう。零距離射撃とは
「榴散弾の信管を、砲口から飛び出すとすぐ破裂する(=零距離)ように設定して行う自衛的射撃法」である。
上記二つの資料を基に書き換えられたwikipediaの項では山本七平を出典に
「名称の由来は方向角、高低角、仰俯角、射距離、そして榴散弾の曳火信管の信管距離に至るまでの全てを零にすることから」と記してあるが、
だったら「零射撃」でいいはずで、やっぱり信管の調定距離がキモなんじゃないかなぁ…と個人的には思っている。

未解決の話として「接射」の語源が残っているが、上記スレッドの52が張ったリンクを見るとどうも医学用語らしい。
もう訳が分からないが、おれにも分からん。

それはともかく、スレの>>77氏はお疲れさんでした。おれもずっとwikipediaを鵜呑みにしてました。猛省。


お嬢様とジャンクフード

お嬢様お姫様にジャンクフード食わせて『こんなおいしい物食べたことがない』とか言わせる話の展開が嫌いだ。
最近だと異世界の人物だったり、外国人だったり(で、誉める対象がウォシュレットだったり自販機だったりと
しょーもなかったりする)とかさ…。バカのひとつ覚えで済ませるにはカビが生えそうなほど使い古されており、
反吐を出し切って胃液が出るくらいだ。少し考えてみてよ。火星人に正体不明な食い物押しつけられて笑顔でいられるか?
アフリカの凄い伝統文化とか言って戦士の踊りを見せられて「超クールだぜ!」とか言うのか?

金もない親もない行く当てもない、バイト代の振り込みは来週な高校生主人公が明日の朝飯と晩飯が抜きになるのを覚悟して
なけなしの金でお姫様にハンバーガーを奢るから粋なんだろ? で、そのお姫様の方も店の客層を見てどうやら上等な店じゃないと
瞬時に理解するわけだ。美味そうにハンバーガーを食べる主人公を見て彼・彼女の貧乏な生活をこれまた察し、
(なんたって「どんなものを食べているか言ってみたまえ、君がどんな人間であるかを言いあててみせよう」な階級の人間だ)
それでも精一杯のもてなしをしようとする主人公の心意気に感心して、お姫様は不味いハンバーガーを笑顔で食べるんだろ?
フィンガーボウルの水を飲んじゃった客人に合わせて自分も飲んじゃう話みたいなもんだ。
「こんなおいしい物を食べたのは初めてですわ」なんて、どう考えても相手をバカにしてる風にしか聞こえないから口が裂けても言わない。
お姫様が返すべき台詞は「この飯、おろそかには食わぬぞ」…もとい、「今度はわたくしが晩餐に招待いたします」とかじゃねぇのか!
なあおいそうだろう!

さっきからおれは一体なんで熱くなっているだろうか。お嬢様と食事を共にしたことのない(でも実際したら超疲れそう)男のひがみだと思ってくれ。





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最終更新:2021年06月14日 08:16