私の評論は、歴史的、技術的、論理的に構成してあるため、また単純な推進とか反対という議論をしておらず、問題点を深く掘り下げるようにしているので、変な誤解や中傷は極めて少ないが、ゼロではない。読者の中には、私が原子力推進の論者であったのに、その後、方向を変えたかのように誤解している者もいるが、昔も今も、推進や反対に係わりなく、冷静に技術論の研究をしているだけである。変化したのは世の中の方である。私は何も変わっていない。
吉岡氏は、自身の論理を構築し、九大教授の科学史家として、できる範囲で社会に寄与すればよいのであって、それ以上の期待をかけるのは酷であろう。原 子力資料情報室の会員として会費を払っているだけで、他には何もしない佐々木氏が、吉岡氏の言動が気に入らぬと言って批判しても仕方がない。しょせん研究 室というタコ壷の中で保身にうつつをぬかす同じ穴のムジナではないか。世の中ではそれを目くそが鼻くそを笑うと言うのだ。佐々木氏よ、つまらん議論は止め たまえ。吉岡氏の本当の心がまだ理解できないほど理解力がないのか。もう、そっとしてやりなさい。(2002/12/3)
先日はご多忙にもかかわらず、お目にかかれる時間を作っていただき、まことにありがとうございました。いただいた文献を熟読いたしました。途中で止められず、夜中の2時まで読み続けました。深い感銘を受け、目からうろこが落ちる思いでした。今後の研究の指針(教科書)にしたいと思います。
論文には、先生の人生が凝縮されており、哲学の形成過程と基盤が読み取れました。吉岡、米本、村上への批判内容は、驚くほど一致しておりました。武谷と高木への評価もよく一致しておりました。論文を読んで、大きな自信がつきました。先生と私は考え方が非常に近いのです。
このS教授が、佐々木力教授なのか、は、あくまでも「哲学の形成過程」という所からの推論だが、ほぼ同時期に、
今月のテーマ(2004年7月)
作家の榛名遥さんへのメール(9)
(略)
私は、東大で議論をするようになってから、過去の仕事のやり方に疑問を感じ、どう修正し、方向転換すべきか悩みました。最初から学術研究書をまとめるべき だったのかもしれません。それに英文の著書が一冊もないことにも頭を抱えております。いままで何をしてきたのだろうと。東 大大学院総合文化研究科広域科学専攻相関科学系の佐々木力教授は、私の直接的な指導教官ではありませんが、話す機会があり、仕事のやり方の差に気付き、自 身、もっともっと哲学の側にシフトしなければならないと感じたものです。佐々木先生は、米国でもトップのプリンストン大博士課程修了の学歴ですから、私と は雲泥の差です。結局、佐々木先生の著書を読み直し、問題把握に努めました。
と、佐々木力教授をまさにべた褒め。このことから鑑みてS教授=佐々木教授で問題はなさそう。
ただ、わずか1年半でのこの評価の激変ぶりは何?と考えると・・行き着く先は東大大学院の学籍にたどり着くことになるのか。
(とってもありがとうございます。
http://science3.2ch.net/test/read.cgi/math/1106986110/298-299
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