地下妄の手記

小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」弐

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支離滅裂さ更に続きます。

  前項項題

         銀座を劇的に変えた煉瓦街計画

 は、こんな書き出しで始まっていましたね。

         (前略)
       昭和四二(一九六七)年一二月九日。この日は、土曜日ということもあり、電停【銀座
      四丁目】周辺には多くの人が詰めかけていました。ただ買い物に訪れてにぎわっていたわ
      けではありません。都電1系統の〝さよなら電車〟が運行されたからです。

  その後36~38頁、約3頁に亘って、この記述と何等の関わりも持たない項題

         銀座を劇的に変えた煉瓦街計画

 の話が続き、突然に38頁11行目で以下の項題

         鉄道が時間感覚を変えた──銀座四丁目の時計塔

 と「ようやく」繋がります。
  何がしたかったんでしょう、

         銀座を劇的に変えた煉瓦街計画

  という項題で、【銀座四丁目】の銀座という言葉が欲しかったからとしか思えないのですが。
   なので、これだけ間が空いちゃあ、この廃止の日がいつか何て、読者は忘れちゃいますよね。それが付け目かも(笑

         鉄道が時間感覚を変えた──銀座四丁目の時計塔
          都電最後の勇姿を一目見ようと、銀座に多くの人たちが詰めかけたその日、昼から増え
         はじめた人の群れは、夜になっても減る気配はありません。そのため、警察官が出動して
         交通整理に追われました。
                                               (38頁11行目~14行目)

  昭和42年(1967年)12月9日は都電「銀座線」の運転最終日のことですが。この後も続々と各路線が廃止されていきます。

          都電最後の勇姿を一目見ようと、

 って何のことですか?この後も以降5年間、順次の廃線が続きます。その度毎に、

          都電最後の勇姿を一目見ようと、

 が繰り返されたんですねきっと。
  念のために申し上げれば、銀座四丁目の交差点には、南北に昭和42年12月のこの日廃止の小川氏が「トップナンバー」と仰る1系統
 以外にも東西方向に日比谷から築地に至る路線が敷かれていたかと思います。これの廃止は昭和43年9月。
  昭和42年12月9日は最初の撤去だったので、終車前には都知事と警視総監の挨拶の様な行事も予定されていたとか色々あっての
 「銀座に多くの人たちが詰めかけた」──4000名ですね警察発表で、──訳でしょう。
  銀座四丁目交差点を南北を走る都電の

          都電最後の勇姿を

  その目に焼き付けた人々は、翌日師走の築地通り、銀座四丁目を東西に粛々と亙る都電の雄姿を目の当たりにしたのでしょうね。

  そして、

          都電最後の勇姿を一目見ようと、

 の最終回は昭和47年(1972年)11月11日、23、24、28、27の一部、29,38系統が廃止されています。
  彼の鉄道趣味の泰斗高松吉太郎氏をもって日本橋に見送りに言ってやろうとのたまわしめた、24系統日本橋-錦糸町もこの日でしたね。

          特に多くの人が集まった 【銀座四丁目】 の交差点には、いまも待ち合わせ場所に指定さ
         れることが多い銀座和光があります。待ち合わせ場所に選ばれるのは、なによりもその外
         観が特徴的だからでしょう。銀座和光は、その最上階が時計台になっています。
          江戸から明治に時代が変わり、庶民の生活も大きな変革が起きました。政治体制の変革
         が庶民の生活に少なからず影響を与えるのは当然のことですが、明治政府は庶民の生活
         スタイルに大きく手をつけます。それが時間感覚を変えることでした。
          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。これは夜明けから日暮れまでを六等分し
         て、一刻を約二時間としています。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動するので不定時
         法といわれます。そのため、正確な時間を把掘することは困難でした。
                                                 (39頁1行目~15行目)
 
  まずは小ネタから、

          特に多くの人が集まった 【銀座四丁目】 の交差点

  どうやって確認されたんですか?そんな資料ありましたっけ?

          特に多くの

  他との比較を言われてますよねこれ、比較対象の存在を確認されて書いておられませんよね。単に言葉のアヤですか?

                                         ……いまも待ち合わせ場所に指定さ
         れることが多い銀座和光があります。待ち合わせ場所に選ばれるのは、なによりもその外
         観が特徴的だからでしょう。銀座和光は、その最上階が時計台になっています。

  和光前で待ち合わせ、あんまりセンス良くないなあ。というか、少なくないですか?正面何もないもん。雨降ったりしたとき避難する場所
 ないし。三愛や三越の方が良くないですか?銀座線からの階段も狭いし。
  それはさておき、和光の

         その最上階が時計台になって

 いることと、これに続く事柄は何の関係もないんですが。と言うより、銀座とも都電とも東京の歴史とも何の関係もありません。

          江戸から明治に時代が変わり、庶民の生活も大きな変革が起きました。政治体制の変革
         が庶民の生活に少なからず影響を与えるのは当然のことですが、明治政府は庶民の生活
         スタイルに大きく手をつけます。それが時間感覚を変えることでした。

  何となく判ったような判らないような書き方ですが、

          庶民の生活も大きな変革が起きました。
          庶民の生活スタイルに大きく手をつけます。

  ここで言う庶民とは何でしょうか?以下のような小川氏の記述から言えば、庶民以外の階級にあっても、 効果を除外できない訳ですから。
 何故なら、明治維新という

          政治体制の変革

 が何かといえば、結果として、江戸期を含めての封建社会は適用される法や政の効果が階級によって異なっている社会だったものを近代
 帝国主義国家に改めることだったからではないでしょうか。
  したがって、まずもってこの変革は庶民以外に適用されたのではないでしょうか。

          それが時間感覚を変えることでした。

  「時間感覚を変える」意味不明です。

          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。これは夜明けから日暮れまでを六等分し
         て、一刻を約二時間としています。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動するので不定時
         法といわれます。そのため、正確な時間を把掘することは困難でした。

  「時間感覚を変える」が

         正確な時間を把握すること

 だと仰りたいようなのですが、

          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。

  月の満ち欠けに基づいて一箇月の周期を決めるのが太陰暦ですね。
  そして、これを地球が太陽の周囲を廻る周期で調節したものが、

          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。

 と小川氏が仰る日本社会が採用していた暦です。
  月の満ち欠けに基づく暦である太陰暦を、地球が太陽の周囲を廻る周期で調節した太陰太陽暦の一種、和暦ですね。

          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。これは夜明けから日暮れまでを六等分し
         て、一刻を約二時間としています。

  あれ~ぇ?日暮れから夜明けまではどこへ行ってしまわれたんでしょうか?
  そして、

          日本社会はそれまで太陰暦を採用していました。これは夜明けから日暮れまでを六等分し
         て、一刻を約二時間として

 いません。
  
                          ……。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動

 しません。
  と言うより、太陰太陽暦であれ、太陽暦であれ、一日の長さは変動しないので、昼夜の長さを規定していません。

                          ……。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動

  することを規定していません。

                          ……。太陰暦は、季節により昼夜の長さが変動するので不定時法と

 いわれていません。

         太陰暦は

 不定時法 とは関係ありません。
  一日とは、太陽の南中から次(翌)の南中まで、あるいは微差は出ますが、ユダヤ・キリスト教或いは回教での規定の様に、日没から次の日没まで
 をその長さとしていませんか?これは、太陰暦でも、太陰太陽暦でも太陽暦でも異ならないと思いますが。小川氏の世界では異なるのでしょうか?
  すなわち、太陰太陽暦でも太陽暦でも一日の長さは異ならないので、不定時法も定時法も、いずれでも採り得るのではないですか?
  と言うより、不定時法も定時法も「暦法」とは関係無い、あるいは別の規則なのではないでしょうか?
  正確さを求めると異なった規則、計算法を取ることになりますが、基になったものは、自然現象からの把握しやすさから、

   1日の長さは、太陽の南中から次の南中まで。

   1月の長さは、新月から次の新月まで、または満月から次の満月まで。

   1年の長さは、春分から次の春分まで。

  ですよね。地球の自転と太陽に対する地球の公転、地球に対する月の公転。元になっているものがそれぞれ違います。
  明治5年11月9日(旧暦)の太政官布告337号に改暦とあり、太陽暦の採用と、12時間制の定時法の採用がありますので、混同が生じているよう
 ですが、太陽暦と12時間制の定時法は別のルールです。

         そのため、正確な時間を把掘することは困難でした。 

  不定時法の時代に、正確な時間を把握する必要が「庶民」にあったのでしょうか?
  あるいは、明治維新以降、正確な時間を「庶民」が把握する必要があったのでしょうか?
  そもそも庶民にとっての正確な時間とは何でしょうか?

          時間の流れがスローで、おおらかな生活スタイルだった江戸時代なら、この古い暦でも
         支障はなかったかもしれません。ところが、明治五(一八七二)年に鉄道が開業します。
         鉄道はたくさんの人がひとつの車両に乗り合わせて、時間に合わせて発車します。そこに
         求められるのは団体行動に対する意識で、たったひとりの遅刻が列車ダイヤを乱すことに
         つながります。
          ですから、鉄道に乗ろうとするなら、まず時間を守る必要がありました。単に時間どお
         りに発車、到着しないばかりではなく、時間を遵守しない運行体制は、衝突などの事故
         を起こす原因にもなりかねません。正確な時間は、安全運行を金科玉条とする鉄道にお
         いて、とても重要なことです。
                                               (40頁1行目~9行目)

  何を根拠に、

          時間の流れがスローで、おおらかな生活スタイルだった江戸時代

と仰っておられるのだろうか?これが、小川氏の唱えられるところの、

          それが時間感覚を変えることでした。   

  の変えるべき「時間感覚」のことなのでしょうか?

          時間の流れがスローで、おおらかな生活スタイルだった江戸時代
  
  何をベンチマークにおっしゃっているのだろうか?

          ……、この古い暦でも支障はなかったかもしれません。

  「太陰暦」のことを仰っているのでしょうか?
  ならば、年と月の時間感覚を変えると言う事になりますが。

  年は3年に1度閏月などで調整して太陽暦の年とほとんど異ならないように調整されていました。

  月は、29日の小の月と、30日の大の月からなっていて、これも太陽暦とほとんど異なるところがないと思いますが。

  日は上記のとおり、基本は南中から次の南中ですが、時計などの計時装置の発達により、夜半から次の夜半までと定時法も不定時法も
 変わりません。

  時間(時刻)については「太陰暦」にも、太陽暦にも定めはありません。

           正確な時間を把掘することは困難でした。

  本当に正確な時間を把握することは困難だったのでしょうか?
  正確な時間の把握が困難であるならば、なぜ、

    子の正刻等と言う言葉があるのでしょうか?

  言い方を変えましょう、ある日の巳の初刻がいつかと言う事はその日その刻限に約束をした人同士で、正確ではないのでしょうか? 
  巳の初刻と言う設定が客観的であるから、約束に使えるのではないかと思いますけれど。
  もう一つ言い方を変えましょうか。明治のこのとき定時法の方が時間の把握が容易であったとする憑拠は何ですか?
  どこの家にも輸入されたボンボン時計があったのですね?
  誰もが、12時間表示の懐中時計を持っていたのですね?
  でっ、その時間を合せる手段は?宮城で大砲がドンですか?お城から太鼓がドンですか?
  当時、時計も携帯もスマホも何も手持ちは無いわけで、暮六つの正刻が日没、明六つの正刻が日の出正確な時間を共有できるのはどっち?

  以下の駄文、知性を疑わせるに十分でしょう。

                            ……ところが、明治五(一八七二)年に鉄道が開業します。
         鉄道はたくさんの人がひとつの車両に乗り合わせて、時間に合わせて発車します。そこに
         求められるのは団体行動に対する意識で、たったひとりの遅刻が列車ダイヤを乱すことに
         つながります。

  その1.鉄道以前に、乗合馬車が走っていませんでしたっけ?定刻発車じゃなかったんでしょうか?

  その2.鉄道以前に、石松代参の遥か以前から、三十石舟とか河川舟運ありませんでしたっけ?

  それぞれそれなりに、

         たくさんの人がひとつの車両(船)に乗り合わせて、時間に合わせて発車(出港)

  してたんじゃありませんか?乗合馬車については定時法で、河川舟運は不定時法で。

         そこに求められるのは団体行動に対する意識で、 

  遅刻者がいると、列車は発車できないんですか?

         そこに求められるのは団体行動に対する意識で、 

  はなく、契約に対する意識じゃないんでしょうかね。

         時間に合わせて発車します。

  なんだから遅刻しようがしまいが、発時間に来なけりゃ、時間通り汽車は出て行く煙は残るってだけの話ですね。
  ところで当時列車番号を指定してその列車に乗らなきゃ乗車券は無効だったんでしょうか?乗り遅れたら次の列車。庶民が何とか乗れる
 かも知れない下等は指定席とか定員指定は無かったでしょ。
  現代でも、新幹線(本人の有責により)指定に乗り遅れたりしたとき、指定券は無効になりますが、新幹線特急券は当日限り有効で自由席
 に乗れませんか?乗車券に至っては、距離に応じて複数の日数で有効じゃありませんか?並べば自由席に座っていけないことも無いでしょ。
 始発駅なら。

         たったひとりの遅刻が列車ダイヤを乱すことにつながります。
  
  乗り遅れたから、列車の前に立ちはだかりでもしたんでしょうか?それだったら

         列車ダイヤを乱すことに

 って、そら犯罪でしょう。それとも乗務員の話でしょうか?駅員の寝坊とか、運転手・車掌の便意とか(笑

          ですから、鉄道に乗ろうとするなら、まず時間を守る必要がありました。単に時間どお
         りに発車、到着しないばかりではなく、時間を遵守しない運行体制は、衝突などの事故
         を起こす原因にもなりかねません。正確な時間は、安全運行を金科玉条とする鉄道にお
         いて、とても重要なことです。

  何だか、客が乗務して、列車が運行されているような書きぶりなんですが、鉄道の安全運行は御乗客の時間遵守にかかっていると、そう、
 仰りたいのでしょうか?

   速度は、距離を時間で除したもの、熱機関で走る鉄道の様に従来の徒歩や馬車に比して格段に高速な乗り物の速度が距離を不定時で除
  したものでは正確性に欠けて危険である。

 くらいの事が書けないかなあ。もちろん、昔の人も不定時(本当は物理で言う時間ではない)で速度は出せないから、定時法でと言うより一定の
 基準時間で距離を除してましたけれど。だから、小川氏の記述は時間と時刻の混淆と言うことで問題でもあるんですけど。

  すくなくとも、

          この古い暦
  
 の説明にはなってません。以下の文章も、支離滅裂です。

          現在、日本の鉄道は世界一正確に運行されていると海外から称賛されます。では、いつ
         から日本の鉄道は正確になったのでしょうか。
         定時運行の正確性の原点をさかのぽると、鉄道が開業したばかりの明治初期から、すで
         に時間厳守が徹底されていました。当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。
         切符を買うには乗車人数、行き先、手荷物の有無などを窓口で申告しなければなりませ
         ん。当然、いまのように機械化されているわけではありませんし、もちろん券売機はあり
         ません。駅員が一枚一枚、切符を発行しています。切符を発行するだけでも時間がかかり
         ます。さらに、切符を買って汽車に乗る習慣がまだ定着していない時代ですから、人々は
         停車場に足を運べばすぐに乗れるものと思い込んでいたかもしれません。だからこそ、慌
         てて混乱をおこさないようにとの配慮で、鉄道当局は発車一五分前に駅に来るように通達
         していたのです。一五分前到着の徹底は、時間を厳守するという文化を深く刻み込みまし
         た。こうして、時間どおりに運行される鉄道へと成長していきます。
                                            (40頁10行目~41頁7行目)

  小川氏どうも、三戸裕子氏の本を斜め読みしたか、読まずに妄想したかされてこの辺をお書きになったんじゃないかと思われるのですが、
 前の文から、暦と時法の混淆なんて、三戸氏その様なことをお書きになっておられるんでしょうか?愚生は三戸氏の御本は未見ですが、
 前稿「小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」壱 補遺」に挙げさせて頂いたようなパクリ振りを見るにつけ、三戸氏の御記述が、歪曲、改
 竄、されていないか、冒涜されていないか、不安を感じております。

          現在、日本の鉄道は世界一正確に運行されていると海外から称賛されます。では、いつ
         から日本の鉄道は正確になったのでしょうか。
         定時運行の正確性の原点をさかのぽると、鉄道が開業したばかりの明治初期から、すで
         に時間厳守が徹底されていました。当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。

  何が仰りたいのか?

         では、いつから日本の鉄道は正確になったのでしょうか。

 のお答えが、

         鉄道が開業したばかりの明治初期から

 って、頭虫が涌いとるのとちがいますか?
 我が国の鉄道は、いつから正確な運行をしていたのでしょうか?最初から正確でしたって言っておられるのだけれど。
  しかもその根拠が、

                           ……当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。

  我が国の鉄道東京-横浜間は、その範をイギリスに求めました。何のノウハウも設備も無かったのですから、既に営業を行っている国の
 仕組みを導入するしかありません。したがって、正確な運行といったら時間に対してだけではありませんけれども、時間に対して正確な運行を
 せねばならないということも、彼の国から教えられたもので、従って原点をさかのぼると、英国の鉄道が時間に正確であったからと、明治どころ
 か、更に過去の英国にその源を汲みに行くことになるんじゃないでしょうかね?
  路線計画から、敷設から、運行まで、お雇い英国人に全てを委ねた明治初期の鉄道において、

                            ……当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。

 こんなことを我が国の方で独創できたんでしょうか?

         切符を買うには乗車人数、行き先、手荷物の有無などを窓口で申告しなければなりませ
         ん。当然、いまのように機械化されているわけではありませんし、もちろん券売機はあり
         ません。駅員が一枚一枚、切符を発行しています。切符を発行するだけでも時間がかかり
         ます。さらに、切符を買って汽車に乗る習慣がまだ定着していない時代ですから、人々は
         停車場に足を運べばすぐに乗れるものと思い込んでいたかもしれません。

  他に乗り物は無かったんですか?我が国に?少なくとも舟運による旅客輸送と言うものが存在し、江戸時代でも、関や渡しについて、切手
 や手形と言う通行のための書面、通牒もあったと思いますけどね。
  第一に、

                            ……当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切
         符を購入すること」という通達を出していることにも驚かされます。

 発車15分前に来て、時間通りの発車が保証されてて、発車していたんでしょうかね?15分前に切符を買えと言うことが正確な時間での発車
 を意味していないんじゃないでしょうか。
  この項ひたすらに思い込みによる記述。事実と主張されているのは、

                            ……当時の鉄道当局が、「発車一五分前までに駅に来て切
         符を購入すること」という通達を出している

 これだけです。後は全部「……じゃ無いのかなあ」と言う妄想ですが。

                                                   ……だからこそ、慌
         てて混乱をおこさないようにとの配慮で、鉄道当局は発車一五分前に駅に来るように通達
         していたのです。一五分前到着の徹底は、時間を厳守するという文化を深く刻み込みまし
         た。こうして、時間どおりに運行される鉄道へと成長していきます。

  そんな状態になるような庶民は、鉄道になんか乗れるような存在ではありませんでした。下等車で体験するだけで1ヶ月2ヶ月の稼ぎが飛んで
 行く位の運賃なのですから。

         一五分前到着の徹底は、時間を厳守するという文化を深く刻み込みました。

  何を持ってそう仰れるのだろう?
  明治以前に、

         ……時間を厳守するという文化……

 が無かったとされる根拠は何ですか?
   例えば極々一般的な状況として、江戸の町々の木戸は四つの刻限を以って閉められたのではないのでしょうか?人々には、既に

         ……時間を厳守するという文化

 が、深く刻み込まれていたのではないでしょうか?
  こんな話が、銀座四丁目の交差点と、都電と、東京の歴史とについて何の関わりがあるのでしょうか?以下もそうですが、ひたすらな
 牽強付会ですね。

          太陰暦から新たに太陽暦を導入した背景には、鉄道以外にもさまぎまな理由があったこ
         とでしょう。しかし、鉄道がその導入を後押ししたことは間道いありません。それは新し
         い暦に切り替えられた経緯をたどることで浮かび上がってきます。
          太陽暦に切り替えられたのは、明治五(一八七二)年一二月三日のことでした。一二月
         三日の切り替え日が明治六(一八七三)年一月一日になったのです。ここで重要なこと
         は、太陽暦に切り替わった日ではなく、いつ太陽暦を採用することを決めたのかというこ
         とでしょう。太陽暦を採用する太政官布告が出されたのは、明治五(一八七二)年一一月
         九日。切り替えまでに一カ月もありません。いくら時間感覚がおおらかだった明治時代と
         はいえ、急な切り替えには相当な混乱が起こりました。
          太陽暦を採用するとの布告が出る前から、すでに品川-横浜間で鉄道の試運転が実施さ
         れていました。そのときの時刻表には、すでに分単位での運行ダイヤが組まれています。
         このとき、すでに鉄道当局は太陽暦に切り替わることを察知していたと思われます。三〇
         分単位でしか時間を表現できない太陰暦では、とても鉄道は運行できません。鉄道運行に
         携わる部署では、いち早く二四時間制が導入されたのです。
                                              (41頁8行目~42頁6行目)

  全くもって、

          太陰暦から新たに太陽暦を導入した背景には、鉄道以外にもさまぎまな理由があったこ
         とでしょう。しかし、鉄道がその導入を後押ししたことは間道いありません。それは新し
         い暦に切り替えられた経緯をたどることで浮かび上がってきます。

 そんなものは浮かび上がってきません。

          太陰暦から新たに太陽暦を導入した背景には、鉄道以外にもさまぎまな理由があったこ
         とでしょう。

 先述の通り、定時法は太陰暦、太陽暦とは別の規則です。
  定時法は既に江戸時代に在っても、天文学や舎密等々では使われていましたし、これらの導入の必要性は、鉄道以前に

    船舶の運航
    軍隊
    学校教育
    郵便制度

 に於いて普及と実用が求められ、我が国国民への普及は、鉄道より遥かに早く全国に対して整備された、第一義的にこれらによるものです。

    船舶の運航:潮待ち、風待ちを要しない洋式帆船、汽走帆船は速度や距離を見るのに、既に幕末期より定時法に拠らざるを得無かっ
            たんじゃないでしょうか。

    軍隊:明治4年それこそ、ウォートルス設計施工の竹橋陣営に時計塔──おそらく日本最初の──が設置されています。

    学校教育:東京で言えば、明治6年の工部大学校時計塔ですが。もっとも定時法の普及に貢献したのはこの制度であろうと思われます。

    郵便制度:明治7年駅逓寮の時計塔も然ることながら、明治4年、5年に郵便線路が全国主要地点に普及し、郵便物の逓送体系の点と
          線が確立する中で、ボンボン時計が郵便局毎に設置され、多くの職員に懐中時計が普及したことを考えれば、鉄道など後発
          も後発と申せましょう。

  これら以外にも時間にシビアな業界があったことが、庶民に対する定時法の普及を促したことは興味深い事実として措く訳には行きます
 まい。

    明治6年横浜遊郭岩亀楼時計塔
    明治17年新吉原遊郭角海老時計塔
    明治22年州崎遊郭八幡楼時計塔

 線香の燃える速度で、料金が定まるこの業界に定時法はいつ頃から根付いていたのでしょうか?興味深いところがありますね。  
  
                ……しかし、鉄道がその導入を後押ししたことは間道いありません。それは新し
         い暦に切り替えられた経緯をたどることで浮かび上がってきます。

  誤った経緯をたどっておられるので、金輪際、そんなものは浮かび上がってきません。

          太陽暦に切り替えられたのは、明治五(一八七二)年一二月三日のことでした。一二月
         三日の切り替え日が明治六(一八七三)年一月一日になったのです。ここで重要なこと
         は、太陽暦に切り替わった日ではなく、いつ太陽暦を採用することを決めたのかというこ
         とでしょう。太陽暦を採用する太政官布告が出されたのは、明治五(一八七二)年一一月
         九日。切り替えまでに一カ月もありません。いくら時間感覚がおおらかだった明治時代と
         はいえ、急な切り替えには相当な混乱が起こりました。
          太陽暦を採用するとの布告が出る前から、すでに品川-横浜間で鉄道の試運転が実施さ
         れていました。そのときの時刻表には、すでに分単位での運行ダイヤが組まれています。

  明治5年10月14日(旧暦9月12日) 新橋-横浜間鉄道開業
  明治5年旧暦11月9日(新暦12月9日)改暦の詔書と太政官布告
  明治5年旧暦12月3日をもって新暦明治6年1月1日となされる。

           太陽暦を採用するとの布告が出る前から、すでに品川-横浜間で鉄道の試運転が実施さ
         れていました。そのときの時刻表には、すでに分単位での運行ダイヤが組まれています。

 これも「相当な混乱」の内ですか?
  品川-横浜間の仮開業が明治5年5月7日(旧暦)。試運転は、明治4年に既に行われていたのではないのでしょうか?小川氏の仰っている

           すでに分単位での運行ダイヤが

 と呼ばわられているのは、試運転なのでしょうか?5月8日以降1日6往復だかの営業運転が行われていた仮開業のことではありますまいか?

         このとき、すでに鉄道当局は太陽暦に切り替わることを察知していたと思われます。三〇
         分単位でしか時間を表現できない太陰暦では、とても鉄道は運行できません。

  察知するも何も、定時法以外での運行ありえないでしょう。定時法でシステム構築していて、お雇い英国人が取り仕切っているのですから。
  繰り返して申し上げますが、太陰暦だから、

         三〇分単位でしか時間を表現できない

  訳では在りません。不定時法だから、「小半時」一刻の四分の一まで時隔区分をしているだけです。
  ところで、不定時法なのに、何で、

         三〇分単位で…時間を表現でき…

 るんですかね?太陰暦(笑
  「三〇分単位でしか時間を表現できない」それって定時法ですな(笑

  そもそも、小川氏の論点の立て方がおかしいのですが。万が一に、太陰暦=不定時法だとして、問題点は

         三〇分単位でしか時間を表現できない

 ことではなく、時隔区分が一定ではないところにあるのですから。
  確認を取るということを一切為さらない方のようですね、小川氏は。

                                                    ……鉄道運行に
         携わる部署では、いち早く二四時間制が導入されたのです。

  よく知られた話ですが、鉄道省が24時制を採用するのは、昭和17年(1942年)10月11日からです。

          鉄道にとって時間という概念は、非常に重要でした。〝都電の花道〟とも称され、七系
         統が行き交った【銀座四丁目】の交差点に、銀座和光の前身である服部時計店が立地して
         いたのは、偶然とはいえ絶妙な取り合わせといえるのではないでしょうか。
          明治二七〈一八九四)年にお目見えした初代時計台は、高層建築の少ない明治期におい
         てひときわ異彩を放っていたそうです。昭和七(一九三二)年、時計塔は二代目に建て替
         えられます。昭和二七{一九五二)年には、和光が服部時計店の小売部門として独立し、
         いまも路面電車が消えた銀座四丁目の交差点を見守っています。
                                                (42頁7行目~14行目)

  意味不明です。

          鉄道にとって時間という概念は、非常に重要でした。

 定時法であれ不定時法であれ、時間の概念は時間の概念です。

    船舶の運航
    軍隊
    学校教育
    郵便制度
    郭の打ち出し

 何れにとっても

    時間という概念は、非常に重要です。

                                         〝都電の花道〟とも称され、七系
         統が行き交った【銀座四丁目】の交差点

  〝都電の花道〟誰が称したんですか?小川氏?
  出典は?
  正確に調べていないか、何かと勝手に混同してるんじゃありませんか?「花道」辞書引きましたか?
  そう言えば、秋庭さんの造語に「地下のメッカ」と言うのがありましたが、その類いの話でしょうか?

          鉄道にとって時間という概念は、非常に重要でした。〝都電の花道〟とも称され、七系
         統が行き交った【銀座四丁目】の交差点に、銀座和光の前身である服部時計店が立地して
         いたのは、偶然とはいえ絶妙な取り合わせといえるのではないでしょうか。

  電停銀座四丁目について、適宜な題材を捻出する能力がなかったことで、斯様な牽強付会をしてペラ稼ぎを謀られる中で、間違いだらけ、
 フリーランスライターとやら、プロのライターを気取られているなら、これだけ間違っておられたら、それは嘘をお書きになっているとしか言い
 ようが無いのですが、これほどに歪曲、捏造を繰り広げられたのですね。秋庭さん、梅原さん同様に陳腐な妄想を流布される才には恵まれ
 ておられるようですね。
  繰り返します。
  東京で最初の時計塔が、明治4年に、それこそウォートルスの手になる御(近衛)親兵が駐屯する竹橋陣営に、設けられています。
  (1871年竣工日本建築学会説)
  時計塔が日本人の何かの象徴であるならば、以降の有名な時計塔は、

   1873年横浜遊郭岩亀楼
         工部大学校
   1874年駅逓寮
         横浜会所
   1875年陸軍士官学校

  時計店の時計塔といえば、1876年(明治9年)に競う様に

    1876年小林時計店本店……京橋区八官町
         小林時計店日本橋支店……日本橋区通4丁目
         京屋時計店本店……神田区外神田
         京屋時計店銀座店……京橋区銀座4丁目
    1882年小島時計店……日本橋区堀留町

 が建設されています。この内小川氏の大好きな1系統の都電がらみで言えば、

    小林時計店本店の八官町は現在の銀座8丁目の銀座通りにあったとのことですし、

    小林時計店日本橋支店は現中央通と現八重洲通りの交差点付近にあったと言います。

    京屋時計店銀座店は現在の三越デパート北側部分の銀座通りにあったと言います。

  和光の時計台といいますが、服部時計店精工舎の時計塔、初代が明治27年1894年、二代目(現)は昭和7年1932年竣工です。

           明治二七〈一八九四)年にお目見えした初代時計台は、高層建築の少ない明治期におい
         てひときわ異彩を放っていたそうです。

  銀座通りを挟んで同じ町内向い、当時の繁華街である日本橋により向かってのところに、京屋時計店銀座店が既に18年も前に……、
  新橋からの銀座大通取っ掛かりに、小林時計店本店「八官町の大時計」が既に18年も前に……、

   ひときわ異彩を放っていたそうです。

 が

         いまも路面電車が消えた銀座四丁目の交差点を見守って

 いないと、相手にしてもらえないんでしょうかね?今は無き、京屋時計店銀座店の、小林時計店本店の時計塔。都電も消えてしまっている
 のにね。
  小川氏の都電と銀座四丁目と時間の三題話、箸にも棒にも係らない前座も形無しのお粗末な一席でございましたな。

                                                                       OP.2013.09.14

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