地下妄の手記

一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その6

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一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その6



      25」[西新宿駅]丸ノ内線40年ぶりの新駅だが、実は昔からあった!?

      西新宿駅を利用された方ならお気づきのことだろうが、1998(平成10)年にできて10
     年足らずにしては、駅の造りも新宿西口の高層ビル街と駅を結ぶ連絡通路も古びている。
      この駅が造られたのは、ずっと以前ではないだろうか──私は駅ができたときから疑問
     を感じていた。そこで、丸ノ内線建設史を見てみることにした。案の定、線路図には西新
     宿駅あたりに駅を示すマークがあった。どうやら、その存在は国民には長く伏せられてい
     たらしい。

  丸ノ内線建設史の線路図って?「図77 西銀座・新宿間線路平面図及縦断面図」のこと?この図のどこに、西新宿駅の辺りまでが描かれているのでしょう か?あるいは、「図85 新宿三丁目並びに新宿駅」でしょうか?いずれの図もせいぜい「常泉院」の辺りまでしか描かれていませんが、しかも駅を示すマーク なんてものはありませんよ。今は丸ノ内線と統合されているけれど以前は荻窪線を名乗っていた、新宿~荻窪についての線路図?
だけど、荻窪線は「荻窪線建設史」で、「丸ノ内線建設史」じゃないもんね。
 案の定意味不明な捏造話ですね。

      丸ノ内線を長く利用しているという中野区に住む高齢者に聞いてみると、「駅ができる
     ずっと以前から見たことがあるよ」という人がたくさんいた。電車の窓ガラスの向こうに
     駅の姿がぼんやり見えたそうだ。
      しかし、それが「駅だった」と彼らが確認できたのは、西新宿駅が開業してからである。

この記述についてはここで mori-chiさんに聞いてみようね。

     ここで戦前に計画され、工事が行なわれたかもしれない地下鉄新宿線の歴史をひもといて
     みよう。

「地下鉄新宿線」?はぁ?そんな固有名詞にしちゃって良いんですか?それぞれの申請って、「起点~終点」と言う記述はあっても「新宿線」なんて路線名称的なものになってません。

      今からおよそ90年前、1919(大正8)年に東京高速鉄道は地下鉄4路線の建設を国に
     申請し、新宿~霞ヶ関と霞ヶ関~大塚の2路線に許可が下りている。このときの新宿~霞
     ヶ関の建設計画が、最初の「地下鉄新宿線建設計画」ということになる。

ま た、詐術ですか?計画が、「日比谷公園東隅を起点として、霞ヶ関、平河町、四谷見附、四谷塩町を経由して新宿追分。と神田橋、神保町、真砂町、音羽町を 経て院線池袋停車場」で、免許が「新宿を起点とし鉄道院線大塚停車場付近に至る区間」具体的経過地として、小田急電鉄50年史には「日比谷、万世橋を経 て」と書かれてます。免許は、霞ヶ関で路線を切り分けてなどいないと言うことです。

     このときのルートは、東京高速鉄道が東京市に提出した手書きの計画図によると、霞ヶ
     関~虎ノ門~赤坂見附~四谷~新宿三丁目~西武新宿、となっている。
      しかし、公式に発表されたルートは、日比谷~桜田門~三宅坂~麹町~四谷~新宿であ
     る。どちらが正しいのだろうか? 私はどちらも正しいと考えている。

手 書きの計画図というのが、「利光送電図」とか、「小田急送電図」とかいうものでしたら、鉄道院の認可内示の時の説明資料(途中経過のメモ)ではないかと 推察されます。したがって、この計画図とやらの通りに免許されたということではありません。小田急五十年史53頁に「東京高速鉄道計画路線図」があり「免 許線」と「原申請線」と切り分けた表示がされています。したがって、「日比谷~桜田門~三宅坂~麹町~四谷~新宿」(正確には、日比谷~桜田門~三宅坂~ 麹町通~四谷~新宿追分[内藤新宿町])が正しい。但し、大塚までの全線の半分ですが。

     前者は海軍省、後者は陸軍省の「不測の事態のときの退避ルート」だったのかもしれな
     いからだ。

不 測の事態の堆肥ルート(笑、西武農業鉄道ですか?と一人ボケ突っ込みしちゃいました)随分と惰弱な軍隊であることよ。首都内での不測の事態に軍中枢が退 避しとったら、誰がお上を護るのか?ってか、軍政軍令の中枢、省部を放り出して不測の事態に対して軍が機能するのかしら?

     この計画は3年後に許可が取り消され、かわって1923(大正12)年に東京市が申請し
     た地下鉄新宿線建設計画が登場する。

申請?実際には市会を通るのが、13年7月、それから申請じゃなかったのかな?

     この計画のルートは、淀橋町~永住町~市谷見附~五番町~東京駅前~永代橋~洲崎。
     淀橋町は今の西新宿駅あたりで、そこから新宿大ガードを抜けて靖国通りを市ヶ谷駅に向
     かう前半は、都営新宿線と多くが重なる。

秋庭さんの淀橋町は西武新宿駅周辺だったり、西新宿駅だったり、その都度の都合に拠って変わるんですね。実際当時の淀橋町域、高野や中村屋つまり角筈の二丁目からもう、淀橋町。豊多摩郡淀橋町が淀橋区になってもその位置関係は変わってませんし。
この辺の秋庭さんのでっち上げの詳細は此処を見てください。

     認可されたのは淀橋町から新宿通りを四谷見附~半蔵門~桜田門~日比谷のルートだが、
     この計画が実施されていれば、西新宿駅は戦前に造られたことになり、駅や連絡通路が古
     びていてもなんら不思議ではないのだ。

大 正12年前後、西新宿駅を起点とすることに何のメリットも見い出せないんですが、仮令陰謀家の皆様であっても。青梅街道のあの辺りって、専売局と浄水場 の土地沿いで、ボチボチ日本中学とか、学校が出来かけた、かなってところ、集客期待できないので、西武軌道も大ガード下、或いは、東口駅前延伸でなければ ならなかった訳でしょ。

      計画され、工事が行なわれたかもしれない

仮の話が何故、

     西新宿駅は戦前に造られたことになり、駅や連絡通路が古びていてもなんら不思議ではないのだ。

ってことになるのかな?駅や通路の古い新しいが何故秋庭さんに判定できるのか?秋庭さんは客観的に経年、経時変化を測定する術をお持ちなのか?主観ですらない、思い込みを披瀝されてもなぁ。


     26」[新宿駅]戦前の新宿西口地下鉄ターミナルを改造?

      丸ノ内線の新宿駅はJRの線路の下にあり、JRの東口からも西口からも乗り換えに便
     利なように地下通路がつながっている。
      この形が完成したのは、戦後、丸ノ内線が開通したときだが、あのトンネルはいつ造ら
     れたのだろうか?地下鉄の歴史をひもとくと、その原型は今から80年も前に造られてい
     たことがわかる。

いままでは捏造の接尾語は「と言う」とか、「国民には知らされていないものの」だったのですが、このところ多用されている、捏造、改竄、歪曲の枕詞は、「地下鉄の歴史をひもとく」ですかね。 
これらの言葉が現れると私は身構えることにしている(笑
「原型」って、全然別物じゃないですか。東日が言っているのは、省線「新宿駅の地下道」、駅構内の地下通路です。

      1925(大正14)年、新しいJR新宿駅が完成すると、東京市電の線路が東口の二幸
     (現在のアルタ)前まで延伸し、バスのターミナルも新たにでき、私鉄の西武軌道も開通し
     て、新宿は新しい東京の盛り場となる。

ほほうっ、大正14年に「新しい“JR”新宿駅」とな?まぁ、突っ込んでも背負うも無いとこやけど、詐術、詐話の小道具と言うことで、はっきり言っときます。院鉄の新しい駅舎が東口の位置にできたと言うことでしょう?

      当時の東京日日新聞の新宿特集によると、「あの明るいタイル張りの新宿駅の地下道は、
     機械文明の明るい氾濫だ。早朝から深夜まで間断なしの人間の群れ、カバンを持ったサラ
     リーマン、お弁当片手に和服、かかとの高い靴をはいた女事務員、女車掌、プロ芸術家、
     イートン・クロップに刈りこんだ前髪が三筋ばかり垂れ下がっている洋装のモダンガール
     が、紅棒でやけにこすりつけた唇をゆがめ、肩で風を切って群衆のなかを泳ぐ」
      こんなふうに、当時のモダンで活力にあふれた地下道の往来を説明している。

東日の特集は昭和5年で、大正14年から5年後。

      五島慶大が建設した西武軌道は、新宿駅東口から北進して大ガードをくぐって西口へ、
     青梅街道を西へ荻窪まで丸ノ内線と同じルートを延びていた。

単線、狭軌で、経営不振を抱えて、

      西新宿駅の項で述べた地下鉄新宿線の計画が次々と申請されたのもこのころだが、新宿
     西口には、このころ地下鉄のターミナルが建設されている。「市電地下鉄」と「西武地下鉄」だ。
      当時の内務省の地図を見ていただきたい。

「内 務省」の地図じゃありません、一般に販売されていた、東京地形社の昭和10年の地図です。同じ地図の昭和12年版には、それぞれ、「計画線」となって いますけれど、10年に建設されたものが12年に計画になるんでしょうか?今度お騙りになるのは、「新宿タイムマシン」説かな?

      「市電地下鉄」は、東口の市電・新宿停留所から地下に入り、JRの線路をくぐって西口
     のターミナルにつながっている。
      一方、「西武地下鉄」は西口の西武軌道・浄水場前駅とターミナルを地下でつないでいる。
      地下鉄としては距離は短いが、丸ノ内線新宿駅は、この2つの地下鉄をつなぐような位
     置に造られている。このときのトンネルを改造して駅ができたのだろう。

「西武地下鉄」については、西武高速鉄道として「中野區内より地下線」と昭和12年版の「秋庭印内務省の地図」こと東京地形社の淀橋區地図の「新宿廣場計畫圖」には書かれてますけど。
「西武地下鉄」は建設された地下鉄なんでしょう?「重宝な地図」のところでもそんな風な「五島慶太が敷いたとか、早川徳次が敷いたとか、意味不明なことを仰ってましたが。

     27」[新宿三丁目駅]丸ノ内線開通式が途中駅の「新宿三丁目駅」で行なわれた謎

      新宿駅と新宿三丁目駅とのあいだの距離は、300メートルしかない。地下鉄に乗るよ
     り地下1階の通路を歩いたほうが早い距離にあり、「なぜ、こんな近くに駅を造ったのだろう?」
      と誰もが疑問を抱く。
      JRとの乗り換えを考えると新宿駅は必要だが、新宿三丁目駅の必要性はどこにあるの
     だろう。首を捻りたくなる。

 昔から、新宿追分、新宿三丁目周辺の方が、繁盛していたから。都電も新宿通りが元々メインだったし。伊勢丹や三越、東宝系映画館などなど、宿場町新宿の中心内藤新宿、そして国鉄新宿駅接着。「誰も疑問を抱かない」「便利」って思うのが普通ではありますまいか?

      新宿三丁目駅の謎といえば、1959(昭和34)年3月に行なわれた丸ノ内線・池袋~新
     宿の開通式に、当時の総理大臣・岸信介が出席してテープカットをしている。
      現職の首相が地下鉄の開通式に出席したのは、これが最初で最後、前代未聞の出来事だ
     った。いくつかの理由があげられていたが、私には言い訳としか思えないものばかりだ。

「言 い訳」誰に対しての?、似た様な事を「近況報告」で宣うてましたね、「次週担当者の説明が必要では」とか何とか、言い訳ってのはする相手が居るってこ とですが?「丸ノ内線建設史」に、あるいは、「新宿三丁目一色」だったと言うその日のマスコミの記事記録にその言い訳が、言い訳として載っていたんでしょ うか?

     そして、その開通式が当時の起点・終点だつた新宿駅でなく、新宿三丁目駅で行なわれた
     ことも謎なのだ。

別 にぃ~っ!新宿まで開通したけれども、国鉄の線形や配線の変更や、西口の再開発工事が尚行われている最中だったので、「新宿駅」は仮駅の形で開業してい るんだものね。丸ノ内線建設史の「図85 新宿三丁目並びに新宿駅」によれば、完成時のホーム長120メートルとなるところが、仮駅開業のためホーム長 95メートル、実際に使える有効長80メートルほどで、開通式を「新宿駅」で行える余裕が無かったのが真相でしょ。

      地下鉄に限らず、鉄道の開通式が途中駅で行なわれたという話を私は聞いたことがない。
     距離は近いが新宿三丁目駅は途中駅なのだ。どうしてこういうことになったのだろうか?

部分開業でも、その区間の開通式をやってたんじゃないんでしょうか?丸ノ内線も延伸開通する毎に開通式をしてきたんじゃないの?

      この謎の答えはすべて、戦前の地下鉄新宿線にあった。

答えに「地下鉄新宿線」なるものは関係有りません。

      地下鉄新宿線の建設認可を最初に得ていたのは小田急電鉄で、小田急電鉄の創始者は、
     銀座線を造った早川徳次や五島慶太と並んで東京の地下鉄建設史にその名を残す、利光鶴
     松である。

利光の地下鉄計画は、上記──25」「西新宿駅」丸ノ内線40年ぶりの新駅だが、実は昔からあった!?──でも否定した通り、新宿~大塚間であり、「地下鉄新宿線」なんて呼称もついていませんでした。

      利光の計画にある新宿駅は「新宿区新宿三丁目九」にあった。現在、丸ノ内線の新宿駅
     がある場所でも新宿三丁目駅がある場所でもなく、都営新宿線の新宿三丁目駅のある場所
     である。

 違います、新宿三丁目九の嘘八百についてはここに詳述しました。当時の新宿三丁目九は伊勢丹(まだ出来てなかったけど)の西側になります。
 第一、利光の計画当初の新宿駅の場所が「西武新宿」って──25」[西新宿駅]丸ノ内線40年ぶりの新駅だが、実は昔からあった!?──で書いておられたのは何処の秋庭さんでしたかネェ?

      丸ノ内線のルートは建設中に何度も変更されているが、1956(昭和31)年12月に四谷
     ~新宿三丁目のルートが靖国通りから新宿通りに変更されたときに、「新宿三丁目停車場」
     を「新宿三丁目停留所」に変更したことが文書に残っている。

これの捏造もここに書いたとおりです。

      これは、それまで「新宿三丁目を始点・終点として丸ノ内線が計画されていた」ことを
     示している。なぜなら、戦前の地下鉄では「停車場」は起点・終点・分岐点を意味し、
     「停留所」は途中駅を意味するからだ。計画は何度も変更されているが、利光の地下鉄新
     宿線計画にあった「新宿駅」は戦後も丸ノ内線が建設される直前まで、関係者のなかに生
     きつづけていた。

 いままで、同じネタの解釈で、「新宿三丁目を始点・終点として丸ノ内線が計画されていた」なんて言ってたかなぁ?
 使い回しのネタにしても、もう一寸脈絡のある話をしていただきたいものです。

      戦時中の東条内閣で商工大臣だった岸信介は、誰にも増してその意識が強く、地下鉄新
     宿線ゆかりの地、新宿三丁目駅での開通式を望んだのではないだろうか?

  だから人の心情や、感情、意識を捏造するのは人格の侵害行為だって、何度言ったらわかるのだろうか?例えそれが、右翼反動の巨魁、米帝の走狗で、T一協 会、商況連合とお友達の日帝野郎の岸信介だからと言って、秋庭さんに、その人の人格を損ねることが許される訳ではないんだが。
商工大臣岸信介と地 下鉄丸ノ内線の接点をキチンと述べる事も無く、岸の意識を、本当に岸が発言したかどうかもわからない「(東京に地下鉄運営主体が)二つ あってもいいじゃないか」とかに根拠をおいて「新宿三丁目駅での開通式を望んだ」と言うのは完全に他者の意識の捏造じゃないのか?
ノンフィクションで意識の捏造をしていいのか?

      営団のなかにも同調する人は少なくなかったはずだし、総理大臣が出席となれば断る理
     由はなかったはずだ。これが開通式の真相ではないだろうか。
      この開通式は、過去の歴史が脈々として受け継がれている「東京の地下」を象徴するも
     のだと、私は思っている。

「何々のはず、何々だったはず、」で要は「私は思っている。」ってだけの話?それで他者人格を歪曲、捏造?極悪非道だな。


     28」[新宿御苑前駅]上りと下りのホームが、大きくズレている秘密

      新宿駅からでも四ッ谷駅からでも、丸ノ内線の先頭車両に乗って新宿御苑前駅で下車し、
     向かい側のホームを見ると、ホームでなくトンネルの暗い壁が目に飛びこんでくる。
      おや? と思って右を見ると明るいホームがある。上りのホームと下りのホームの位置
     がズレているのだ、と気づくと再び、おや? ということになる。こんな駅は東京の地下
     鉄ではここだけだ。なぜ、こんな駅が造られたのだろうか?

方向別且つ、別線だけど赤坂見附なんかも島式でホームの位置ずれてますけど。
さて、新宿御苑駅の対向式ホームのズレは、連絡通路設置や、地上出入口の確保、出入口用地が取得できる場所が限られていたなどに制約があったためだと思いますが。ズレていても、特段問題があるわけじゃありません。これで驚いていたら、南海本線春木駅で乗り降りできない。

      1956(昭和31)年に四谷~新宿三丁目間のルートが靖国通りから新宿通りに変更され
     たことはすでに述べたが、靖国通りのルートの工事はすでに進められていて、トンネルが
     できあがっていた場所もあった。

最初っからルートの変更など無かったのですから、そんなトンネルなど存在しません。

      たとえば、市ヶ谷富久町にある東長寺というお寺の地下。都営新宿線が開通したとき突
     然、地下ギャラリー、地下博物館がオープンして明るみに出たが、ここの地下と新宿御苑
     前駅をつなぐことはできないだろうか?

 東長寺と言うと、三角の敷地で、源慶寺との間の茗荷坂をはじめ、三方が坂と言うか、崖上みたいな一段高いところにある旧永住町(現四谷四丁目)のお寺さんだから


  靖国通り富久の交差点から一寸降った位置南西方向から東長寺の庫裏側です

南東側では地上の部分が南西側では地下一階部分になる非常に浅い地下だけど、

      靖国通りのルートの工事はすでに進められていて、トンネルができあがっていた

そのトンネルを利用したものだとでも言うんだろうか?その根拠は何なんだろう?
それに、地下ギャラリー、地下博物館って、別物の様に書かれているけど、企画展専門美術館(アートスペース)と言う一体のスペースだったんですが。
 当初のアートスペース形式から現在は、「きあん」と言うギャラリー兼カフェに変わっているけどね。


  これが東長寺の地下ギャラリーの入口です、富久町西の交差点から外苑西通りに入って直ぐ車道からもこの半地下が見えるくらいに浅い。

しかも、1989年に出来ていて、都営新宿線が最初の開通目標だった、京王線との相互乗り入れで新宿~岩本町間を開業したのはその9年前の1980年なんです。都営新宿線が開通してから9年も経ってからを

     都営新宿線が開通したとき突然、地下ギャラリー、地下博物館がオープンして明るみに出たが、

と仰るのは、ひょっとして、都営新宿線の篠崎~本八幡間が1989年に開通しているので、この時を「都営新宿線が開通したとき」といわないと反則ってことになるんでしょうか?

      新宿大ガードから新宿三丁目まで、靖国通りの地下1階には「サブナード」という大地
     下街がある。その下に大ガードそばの新宿プリンスホテルの地下駐車場と新宿三丁目のア
     ドホックの地下駐車場をつなぐトンネルがある、という。実は丸ノ内線のルートが変更さ
     れる前、新宿三丁目駅はアドホック前の地下に造られる予定だった。

「という。」なんですか?自分で確かめられたようなことを「新説 東京地下要塞」で書いておられたようですけど。確かめに行って。新宿プリンスもアドホック新宿も自前の駐車場は持っていないってことを知らなかったんですか?
サブナードの地下駐車場自体が、プリンスとアドホックの駐車場になっていると言うことなんです。アドホックのお店は、「サブナード地下駐車場」の割引駐車 券を来店者に配布してます。自前の駐車場があるなら、「サブナード地下駐車場」の割引駐車券を来店者に配布する必要は薄いと思いますけど。新宿プリンスホ テルも駐車場は公共駐車場の「サブナード地下駐車場」なんですが。で、「サブナード地下駐車場」の出入口が新宿プリンスとアドホックビルと新宿区役所付近 とかにあって、アドホックビルと新宿区役所付近は24時間開いているとプリンスホテルのサイト

http://www.princehotels.co.jp/shinjuku/hotelguide/index.html

に説明書きがあります。要するに新宿サブナードの物販フロアーの下全面がサブナード地下駐車場なんです。構内図がサブナードのサイトにあります。

http://www.subnade.co.jp/parking/jyonai.html

      新宿プリンスホテルの地下駐車場と新宿三丁目のアドホックの地下駐車場をつなぐトンネルがある、という。

上記のように、プリンスもアドホックも自前の地下駐車場は持ってませんから、それぞれをつなぐトンネルなど存在しません。やはり、「という」は捏造の合言葉なんですね。と言うか、実際の取材、誰でも行ったら出来るのに、秋庭さんはしてないってことですね。あ・き・れ・た。

      ここから新宿御苑前駅に向かうことを考えると、ホームを四ッ谷駅方向にずらしたほう
     が無理のないカープで入れそうだ。
      新宿通りに変更されてから駅が造られたとされているが、それ以前に靖国通りに新宿三
     丁目駅のトンネルができていたとしたら、新宿御苑前駅もすでにあったかもしれない。た
     とえば、靖国通りへ支線の建設を営団が考えていたのかもしれない。
      私は、東長寺よりアドホック前から入る説が正しいのではないかと考えている。

「東長寺と新宿御苑前駅をつなぐ」ってのと、アドホック前、昔の「新宿三光町の電停付近から新宿御苑前駅に向かう」と言う説も、どっちも秋庭さんオリジナルなのに、「正しい」か正しくないかなんて無いと思いますよ。


     29」[四ッ谷駅]南元町公園の地下は地下交通網の「分岐点」だった?

      丸ノ内線四ッ谷駅を出て、迎賓館に向かって右の道路を歩いて行くと、右側に公園があ
     る。ここはもともと皇室の土地だったが、戦後、東京都に寄付されて公園になり「南元町
     公園」と名づけられた。
      この公園の地下に、深さ5メートル、公園の半分くらいの広さの大きな空洞がある。空
     洞といっても太いコンクリートの柱が何本も林立していて、なんとも不気味な空間なので
     ある。現在、雨水調整池として使用されているが、「池」と呼ぶには似つかわしくない構
     造で、何か別の目的で造られたとしか私には思えない。

公園名は、「みなみもと町公園」で、雨水調整池の名前が「南元町雨水調整池」

     現在、雨水調整池として使用されているが、

現在、過去、未来最初っから雨水調整池として作られました。「池」と呼ぶに似つかわしい構造の、「雨水調整池」ってのがあるんでしょうか?

      丸ノ内線も南北線も地下鉄は四ッ谷駅を出ると、迎賓館に向かって左にカーブして外堀
     通りを赤坂見附方面に向かう。
     一方、JR中央線は四ッ谷駅を出ると地下トンネルに潜り、逆に右にカーブして信濃町
     方面に向かう。
      その中央線の電車がトンネルを出るところ、左側に見えるのが南元町公園である。
      中央線と公園に挟まれるように首都高速道路が走っている。ここを逆に信濃町駅方向
     から見ると、違った姿が見えてくる。
      それまで並走していた中央線と首都高が地下トンネルのなか、南元町公園の付近で左
     と右に分岐している。

「左側に見えるのが南元町公園」だったり、「公園の付近で左と右に分岐なら」、みなみもと町公園そのものとも、南元町雨水調整池とも何の関係も無いんじゃないんでしょうか?公園の下で分岐しているならいざ知らず。

      中央線は左にカープして四ッ谷へ、首都高は右にカープして赤坂見附に向かう。
      そのカープの角度がほぼ同じ、雨水調整池は分岐点として理想的な場所なのだ。私は、
     この空洞が雨水調整池でなく、地下交通網の分岐点として掘られたと考えている。

で すから、カーブの角度がほぼ同じ──何に対して同じなのか意味不明な上に、仮の中心線をとってニ分割しても、ってかニュアンス的にしか出来ないがそれでも 同じ角度で開いていない──なのは「雨水調整池」の真下ではなく、北西側、空洞の位置が理想的な分岐の場所なら、その位置でもカーブの角度がほぼ同じ(や はり意味不明だが)になるはずですが、ならんでしょう。じゃあ秋庭説は間違いですね。

      ちなみに、目には見えないが、地下鉄丸ノ内線は地下で首都高と、南北線は地下で中央
     線と交差し、首都高を挟むようにして赤坂見附駅と永田町駅につながっている。

それを言うなら、地下鉄丸ノ内線は中央線と地上で交差していて、東京駅、新宿駅、荻窪駅で中央線とつながっている。って言えるんだが。

  ちなみに、御著書の76ページの写真に「左側の木々が南元町公園」とあるように、中央線や首都高新宿線より一段およそ5メートルほど下に下がったところ に「みなみもと町公園」はあります。写真の撮影場所は学習院初等科の裏の道にある跨線橋「朝日橋」で、その北西端あたりでしょうか。


  私も朝日橋の北西詰めから撮って見ました「みなみもと町公園」が首都高新宿線より下にあるのが判ると思います。

中 央線はこの橋の北東 側で、御所トンネル、旧御所トンネルに入り、四ツ谷側で出たところで丸ノ内線をアンダーパスしているわけです。そして「みなみもと町公園」の南西側を通り 首都高と中央・総武線を潜る道路は公園よりさらに深い位置にありますから、もし、雨水調整池から南側に抜けるルートがあったとしたら、その地下鉄なり、地 下道路なりはどうやっても地表に露呈せざるを得ないのではないかと思われます。

     30」[四ツ谷駅]地名に「ツ」がないのに駅名に「ツ」がある理由

      JRの駅名も地下鉄の駅名も「四ツ谷」だが、地名もバスの停留所名もすべて「四谷」
     である。丸ノ内線の隣の駅も「四谷三丁目」である。どちらが正しくてどちらが間違いな
     のか、知りたくなって地名の由来を探ってみた。
      すると、「四ツ谷」と「四谷」の2説あることがわかった。ひとつの説は、梅屋、木屋
     (久保屋)、茶屋、布屋という4軒の茶屋があったから「四ツ屋」-「四ッ谷」と呼ばれる
     ようになったというもの。
      もうひとつの説は、千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷(紅葉川渓谷、鮫河谷、渋谷川渓
     谷、蟹川渓谷という説もある)という4つの谷があったので「四谷」と呼ばれるようになっ
     たというもの。どちらも間違っていないように思える。前説のほうが有力だそうだが、両
     説あるから呼び名が2つに割れたのだろうか。

  注意深い人には、上記は「よつや」の地名の由来であって、「ツ」の有無の由来を説明したものではないことが解ると思います。どこから盗んで歪曲したのか? いつもどおり原典となるものに明示が無いので、茶屋が四軒、然もその内の一軒の屋号は文字通り茶屋と言うのが一層の不思議を醸し出していますが、この説の 原典何なんでしょう?
 例えば四谷區史などでも、「よつや」と言う地名の由来に上記の様な「四軒の店屋」説と、「四渓谷」説の二説があるということは説明していますが、上記に拠って、地名に「四ツ谷」と「四谷」の2説が有ると言うような事を説明してはいません。
 さて、秋庭さんが盗んだ先ですが、梅屋、木屋(久保屋)、茶屋、布屋を四軒の茶屋(休憩所)と説明し、なかんずく「木屋」を「久保屋」と説明している本です。
 四谷區史は、梅屋は梅渋の染物を、木屋は濁酒の製造販売、茶屋は茶店、布屋は紡績織物屋だったと「町方書上」にあると言っていますし、特に「木屋」は「今保久屋」と、つまり秋庭さんの( )括弧書き(久保屋)ではなく(保久屋)と四谷區史その他に書かれてますから。
 この四軒の家が四軒になる時期、つまり四谷なり四ツ谷なり、四屋なりが揃う時期ですが江戸幕府成立後に記録に現れるのだそうですが、家康江戸入府時に道 案内に立った人物(在地の人)に「よつや某」と言う人が居たと、四屋が揃う前に書かれた記録にあると言う事ですので、四屋説も以下の市谷説同様、本当の由 来は不明と言うことのようです。

      同じように、JRと地下鉄の駅名は「市ヶ谷」だが、地名は市谷田町のように「市谷」
     である。こちらも地名の由来が2説ある。山の手台地の一番めの谷だから「一谷」─
     「市谷」となったという説と、「市が立つ場所」という意味の「市買(いちがい)」がなまって
     「いちがや」─「市ヶ谷」となったという2説がある。こちらも、どちらも正しいように思われる。

こちらも、すり替えです。やはり、原典は「ケ」の有無の由来を説明しているのではなく、「いちがや」の地名そのものの由来に2説あることを言っているのに、秋庭さんは「ケ」の有無の説明にすり替えているのです。
 しかも、1312年(正和元年)市谷孫四郎という人の名が出たのが、記録上に市谷が現れた最初と牛込區史他に書かれたいますから、既に名前が先にあった わけで、「一買」も「一谷」も後付の由来と言うことになりますので、「いちがや」の由来としてこの二説が正しいかどうかすら判らないのです。

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