地下妄の手記

大東京の地下400年 九層倍の嘘 壊乱編

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619metro

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  大東京の地下400年 九層倍の嘘 壊乱編

  6」井戸掘りが見つけた「地下の横穴と地下屋敷」の謎

  私にはこっちの方がもっと謎、

   享保年中に、右白山に住まいし御右筆が井戸を掘らせけるに、いかほど掘りても水出でず。
井戸掘り出でて申しけるは、はるか下に大なる横穴ありて水出でず。穴のうちに家のかたち見
えたりという。
屋敷主怪しく思いて、井戸掘りに替わりて井戸に入り、かの穴に行きてみれば、広々として
書院造りの家あり。上がりてみれば、砂子の絵間ありけり。唐紙を開きて次の一間を見れば、
同じようなる座敷なり。いま一間開きて入らんと思いしが、ものすごく思いて、はりたる絵間
を少し切りて持ち上がり、右の井戸を埋めてしまわれたりとなり。かの切れは草花の絵ありて、
砂子また金の雲形などありしとかや。見たりし人一席にありて直談を聞きしかど、主の名は忘
れけり。

   江戸時代の話とはいっても、現代語訳はいらないのではないだろうか。井戸の中に下りていく
と大きな横穴があって、その中に書院造りの家が建っていたということである。
信じられないような光景につられて、家に上がり、唐紙を開け、そこで主君は事の大きさに気
づいた。いったん気づいてしまった後は、もう、一歩たりとも進めなくなった。この話を誰に話
すわけでもなく、すぐに井戸を埋めたのだろう。このようなウワサが広まったときは、命もない
ものと覚悟していたにちがいない。その理由は一つしか考えられない。おそらく、これが江戸幕
府の抜け穴だった。

                             帝都東京・隠された地下網の秘密[2]より


  「享保年中に、右白山に住まいし御右筆が井戸を掘らせけるに、いかほど掘りても水出ず。
井戸掘り出でて申しけるは、はるか下に大なる横穴ありて水出でず。穴のうちに家のかた
ち見えたりという。
屋敷主怪しく思いて、井戸掘りに替わりて井戸に入り、かの穴に行きてみれば、広々と
した書院づくりの家あり。上がりてみれば、砂子の絵馬ありけり。唐紙を開きて次の一間
を見れば、同じようなる座敷なり。いま一間開きて入らんと思いしが、ものすごく思いて、
はりたる絵馬を少し切りて持ち上がり、右の井戸を埋めてしまわれたりとなり」
江戸時代の随筆集「一話一言」にある随筆の一部だ。現代語に訳す必要がないような文
章だが、訳すとこうなる。

  白山に住んでいる人が井戸を掘らせたところ、いくら掘っても水が出ない。井戸掘り職
人は「地下深くに横穴があって、のぞいて見ると家の形が見えた」という。
自分が井戸に入って横穴を進むと書院づくりの家があった。上がって2部屋見たが、怖
くなって絵馬を少し切って持ち帰り、その後、井戸は埋めてしまったとか。
見てはいけないものを見たから埋めてしまったわけだろうが、書院づくりの家の主にば
れたら命がない、と思った理由は、ただひとつ。そこは幕府の将軍とか老中の屋敷で、江
戸城につながる地下道だったに違いない。

                                大東京の地下400年 99の謎 より

  同じ太田南畝の「一話一言」のはずですよね、「絵間」と「絵馬」どっち?切り取るサイズが随分と違うんだけど?
  「絵馬」ってまさか、正月にどこぞの神社で見かけるような巨大なもんがあったんだ、何ぞと言い出すんじゃなかろうね。

  しかも、地下網の方は、「見たりし人一席にありて直談を聞きしかど、」って、見ちゃった人公言しているのに、

 「この話を誰に話すわけでもなく、すぐに井戸を埋めたのだろう。このようなウワサが広まったときは、
命もないものと覚悟していたにちがいない。」って言い出すし。

 九層倍の謎の方じゃ、何の前振り伏線も、根拠もなく、ご祐筆が思ったか思わなかったかの記述も無い、

 「書院づくりの家の主にばれたら命がない、と思った」なんて書き込むし。

 ダビングし捲ったある種のアナログビデオでも、なんだか海草みたいになった髪の毛でも、御ネェちゃんの髪の毛には見えるもんだが、襖紙と願掛けの板切れとの区別すらつかんのでしょうか?秋庭本の駄ビングは。


  7」国会議事堂裏の地下防空壕に「木造の家」の謎


   中央省庁の非常時の行政中枢を組織的に確保する必要が生じたため、政府首脳のための
防空壕が「中央防空壕」として企画された。この中央防空壕は国会議事堂裏の道路の地下
に計画されたのだ。
大蔵大臣官房営繕課では、1944(昭和19)年春から調査を開始し、同年秋には工事に
着手した。実施にあたっては、当初の計画を変更し、地下13~14メートルの位置とし、地
表部分に厚さ80センチの耐弾層を設けることとなった。
この防空壕の断面図がある。地下14メートルほどのところに逆U字型のコンクリートの
トンネルがあって、そのなかに木造2階建ての家が描かれている。地下深いところに防空
壕を設置するのは理解できるが、なぜ木造2階建ての家を建てているのだろうか?
この不思議な図面を見ていて私は、白山の井戸の下の横穴から家を見たという江戸時代
の小話(前項で紹介)を思い出した。
防空壕ができる前から、この家が建っていたのだ。そう考えないと説明がつかない。そ
の幅は10メートルほどだから、かつて木枠のトンネルをつくり水を流した「上水」のつく
り方に似ている。家が建っているところは江戸の地面ということだろうか?
「上水」といえば、玉川上水の水路は、国会議事堂付近まで延びていたことがわかってい
る。だとすれば、こうは考えられないだろうか。
このトンネルには、江戸時代のいつの日からか水が流されなくなって、誰かが隠れ家を
建てた。当時は深さ5メートルくらいだったのだろうが、100年以上の時を経て、地面
には10メートルほど土が盛られ、防空壕に適した深さになっていた。そこで、大蔵大臣官
房営繕課が防空壕をつくり、逆U字型のコンクリートでトンネルを補強した。


  筆力が無いんだから、ちゃんと絵図を出さなきゃ、読者に言わんとすることが伝わんないでしょうが。それとも、駄ビングじゃぁ、「京成」じゃなかった、「形勢」って誤記って言うか、そう思い込んでいたのがバレるのが嫌だったのか?

ハイ、「霞ヶ関100年、中央官衙の形成」からパクって来た地下網[2]の挿画を無断複写して差し上げますね。

 

でっ、この二階建ての江戸時代からあった木造家屋とやら、防空壕に使いまわしたんですか?それとも廃屋の事を何かの憶えのつもりで描いたのかな。使い回しじゃなかったら、防空壕使えないじゃないですか、この二階家なんとかしないと。


8」江戸城から脱出する「抜け穴」や「地下道」の出口はどこに?

  吉良上野介が隠れていたとされるのは、物置ではなく、炭小屋じゃなかったっけ?庭に物置ってヨド鋼製かしら(笑
  んで、吉良の脱出ルートと、将軍様の脱出ルートって?なんか意味があるのかな?

  江戸城からの脱出が必要となる時っていつ?そんな時に周辺の神社仏閣って無事なのか?
  平時のお忍びでの出入口ってことかな?「若い吉宗であった」なんて、旗本の次男坊とかに身をやつして?「辛酸」とか言われちゃうのかな?

  はじめに地下ありきだから抜け穴ごっこになっちゃうんだよ。後の方に出てくる、戦術上の地下道の類と、チャント切り分けた説明が出来なくなるから、こんな詰まらんことは書かんようにね。
  

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