地下妄の手記 虚言の極北 「新宿・都営軌道」 (((((-_-;)ヒエェー

虚言の極北 「新宿・都営軌道」 (((((-_-;)ヒエェー



  さて、秋庭さんの新宿に関わるハチャメチャを語る上では、まず、都営新宿線の国鉄市ヶ谷駅下の工事についての秋庭さんの脳内における略史から書き起こさなければなりません。

      帝都東京・隠された地下網の秘密 186頁

      都営地下鉄新宿線が開通したのは一九八〇年(昭和五五)のことになる。新宿、市ヶ谷、九段下、
     岩本町と、この路線は東京を東西に横断している。途中、靖国通りが市ヶ谷で遠回りするところで
     は、外濠の下へともぐってショートカットしている。
      建設業界の専門誌『土と基礎』にこのときの工事の話が載っていた。ここに出てくる「線路」
     が気になって、私はずいぶんムダな勉強をすることになった。カンのいい人であれば、専門用語
     など読み飛ばしても、この「線路」が何のことか、ピンとくるのかもしれない。

       地下鉄⑩号線建設の環境要因は以下のようなものであった。
       (イ)国鉄営業線の真下を通過すること
       (ロ)有楽町線との関係で線路との土被り(距離)が一・七五メートルしか取れないこと
       (ハ)国鉄線の下を通過した先には、線路保護の石垣があり、基地は外濠内となること
       (ニ)営業線を背負うことから絶対安全な工法を取ること
       (ホ)なるべく線路をいじらないですむ工法にすること

      この「線路」を普通の言葉だと受け取って、国鉄線(JR)のものかと思って読んでいると、
     最後にNGを宣告される。都営地下鉄の設計士が国鉄の線路を「いじる」 ことなど、考えられな
     いことだった。
      しかし、(ロ) には「有楽町線との関係で」とあって、この「線路」はどう考えても有楽町線
     の線路ではなく、また、線路との距離、線路保護の石垣などとある以上、これは都営新宿線自身
     の線路でもなかった。
      何度も読み返しているうちに「営業線」という言葉にようやく気づき、つまり、ここには「営業」して
     いない線路があるとわかってきた。

                     (中略)
      (188頁先頭)
      地下鉄路線図を見るまでもない。いま、そこには南北線が走っている。南北線は開通してまも
     ないから『建設史』はまだ出ていないが、ここでは都営新宿線とスレスレのところにあるはずで、
     推定距離は「一・七五メートル」ということではないか。


      78◆「新宿区新宿三丁目九番」 (帝都東京・地下の謎86)

      靖国通りを走る都営地下鉄新宿線は、市谷の外濠の下にトンネルを建設する際、建設省から次
     のような指示を受けていた。

      (1)国鉄線の下を通過した先には、線路保護の石垣があり、基地は外濠内となること
      (2)営業線を背負うことから絶対安全な工法を取ること
      (3)なるべく線路をいじらないですむ工法にすること

      「なるべく線路をいじらない」ということについて、専門家の方に話を聞いたところ、常識的に
     は、すでに敷設されている線路のことを指しているだろうが、そうでない可能性もないわけでは
     ないということだった。
      都営地下鉄新宿線は、いま、京王線に乗り入れている。他の路線に鉄道が乗り入れるときは、
     初めにその路線の駅に乗り入れる。駅に入ったところで責任の所在が変わり、乗務員も交代する
     ことが多い。
      だが、都営新宿線はダイレクトに京王の線路に乗り入れている。常識では、ありえないことで
     ある。この事実から考えられることは、その線路は以前から敷設されていたということである。
     京王線の線路が新宿三丁目まで敷かれていたか、そうでなければ、都営新宿線の線路が笹塚まで
     敷設されていたということである。
      地下鉄新宿線が認可された頃、この区間は一般に京王新線と呼ばれている京王新線は、戦後、
     営団地下鉄が建設し、京王に譲渡したとされている。とはいえ、営団には唐突にそんなことをする
     理由がない常識的に考えて、この部分のトンネルは戦前、京王が建設していたのだろう。
      戦前、地下鉄新宿線の認可を得ていたのは、いまの小田急電鉄である。小田急電鉄の創始者は
     利光鶴松ある。小田急と京王は、いまはしのぎを削っているが、どちらも利光がおこした会社
     である。
     京王の会長は利光だった。
     戦前の地下鉄新宿線の新宿駅は「新宿区新宿三丁目九番」に建設することが認可されていた。
    認可を持っていたのは、当然、利光である。新宿三丁目の住所表示は、戦前からほとんど変わっ
    ていない。いま、都営新宿線の新宿三丁目駅がある場所こそ、利光が新宿駅の認可を得ていた
    ところである。当時、ここは小田急の始発駅になる予定だった。


      新説 東京地下要塞 164~165頁

     おわかりだろうか。靖国通りに建設する予定だった新宿三丁目駅は、まだ、工事の申請段階だ
    ったにもかかわらず、ルートが変更になったとたん、あっというまに新宿三丁目停留場に変更さ
    れたということである。停車場は地下鉄丸ノ内線の駅のこと、停留場というのは都電の停留場だ
    ったはずである。
     その新宿三丁目停留場があった場所が新宿アドホック、新宿区役所の目の前である。このアド
    ホックのとなりは、新宿・伊勢丹。アドホックも伊勢丹も、もともと、巨大な都電の車庫の一部
    を譲られたものである。

     都営新宿線が建設されるにあたって、建設省は東京都に次の(イ)から(ホ)の五つの指示を
    出していた。『78土木工事施行例集』からの引用である。

     (イ)国鉄営業線の真下を通過すること
     (ロ) (省略)
     (ハ)国鉄線の下を通過した先には、線路保護の石垣があり、基地は外堀内になること
     (ニ)営業線を背負うことから絶対安全な工法を取ること
     (ホ)なるべく線路をいじらないですむ工法にすること

     つまり、そこには都電用の線路が敷設されていて、線路保護のための石垣もすでにあって、都
    営新宿線は京王線に乗り入れるから、なるべく線路をいじらずにそのまま乗り入れろということ
    である。新宿三丁目に停留場があったように、市ヶ谷の外堀の下にも停留場があったのではない
    だろうか。その停留場が大切だから、大正通りは外堀を東西に横断することができず、靖国通り
    になったのだと思う。そしてその停留場は形を変えながらも、依然としてそこにあるのではない
    かと思う。国民には極秘の地下都電は、関係者の間では「都営軌道」と呼ばれていたように思わ
    れる節がある。


  秋庭さんはまず、読者に誤認をさせるために「土と基礎」からの盗用、あっ、違った「引用」と言います。違うと指摘されると、出典を暈かす、或いは「『78土木工事施行例集』からの引用である。」と書き換えられます。

   私、最初正直に「土と基礎」の該当すると思われる巻号全部捲りました、何せ雑誌ですし、巻号索引では詳記もみれないですから、各号各年度見ましたよ。 でも、該当記事が無い、これは、2チャンネルに書いた様に、出典が違うんじゃないか、と気付き、「参考文献一覧」から秋庭さん曰くところの『78土木工事 施工例集』に辿り着くまでに、半年掛かりました。
  「土木工事施工例集」は雑誌「土木施工」掲載の論文や記事を「土木施工編集委員会」が工事の類別に纏めたものです。英題名は Civil engineering  journal 「土木工学雑誌」ですし、版元も山海堂。
  一方の「土と基礎」は「土質工学会」が編集し、「土質工学会誌、地盤工学会誌」として「地盤工学会」が刊行している学会誌です。土木工学、土質、地盤工学、総元締めは土木学会かもしれませんけれど、全然別種の研究誌見つからない訳です。

  この盗用の根本的な問題点は、以下の原著を御覧いただけば、もう明らかですね。
   以下は原文の冒頭で、原文の総文章量の凡そ20分の一程度の部分です。内容は「この工区には種々の制約があり、通常の隧道掘進工法が使えないから、こ う言う特殊な工法(アーマー工法)を用いることになりました、」という説明です。ところが秋庭さんは、その種々の制約の原因についてのみに妄想を膨らま し、そこで何が実際に行われたかを記述した原文の残り20分の19には一切お触れにならないのです。普通に考えたら、

       (イ)国鉄営業線の真下を通過すること
       (ロ)有楽町線との関係で線路との土被り(距離)が一・七五メートルしか取れないこと
       (ハ)国鉄線の下を通過した先には、線路保護の石垣があり、基地は外濠内となること
       (ニ)営業線を背負うことから絶対安全な工法を取ること
       (ホ)なるべく線路をいじらないですむ工法にすること

と いうことの具体的なスペクタクルが原文のこの後に書かれているはずじゃないですか?秋庭さんが妄想した、石垣がどうたらこうたらとか、営業線と営業して いない線があるのか無いのか、制約の克服なんですからね、そこに何が制約として存在し、克服されたのかどうかが書かれているはずですよね。そう、実際に書 かれているんですね。
  そして、もっと言えば、この工区はまったく、仰る通り「都営地下鉄の設計士が国鉄の線路を「いじる」 ことなど、考えら れないことだった。」んで、建 設省も東京都に(イ)~(ホ)、或いは(1)~(3)と言うような指示は出していませんし、都営地下鉄の設計士も東京都も、金は出しても、手出ししていま せん。はい、国鉄委託工事です。設計施工(まぁ、実際はゼネコンがやりますが、ここは西松建設)日本国有鉄道東京第三工事局様ですが、何か。
では、以下原文の上記の部分をどうぞ。


通勤幹線の下を掘る国鉄市ヶ谷駅下横断地下鉄10号線建設工事
           (土木工事施工例集4巻424頁)

 (2)環境条件(地理,地質,ほか)
  市ヶ谷駅下横断地下鉄10号線工事の場合,環境条件
は以下のようなものであった.
(イ)国鉄営業線(中央線,総武線=通勤幹線)の真下を通過すること.
(ロ)営団8号線(有楽町線)との立体交差の関係で線路との土被りが
   最小1.75m しかとれないこと.
(ハ)国鉄線の真下を通過した先は線路保護の石垣と,市ヶ谷駅本屋,
   等があり,作業基地を外濠内にしかとれないこと.
(ニ)営業線を背負う位置関係から絶対安全な施工法を採用すべきこと.
(ホ)なるべく線路をいじらないですむ工法を採用すること.
等という条件が付され,また,
 a)土質は一部,昔外濠を掘ったときの埋めもどし土があるほかは,
  濠に向かって,傾斜している砂質土で,概して均質,Ⅳ値=30前後であること.
 b)原則的に異物はなく,大きなれきもない.
 c)水位は予想している1次掘削の下端(線路から-7m くらい).
等の地質条件であった・これらの条件から,(1)アーマー工法,
(2)開削工法,(3)シールド工法,(4)他の工法,がそれぞれ比較
検討されたが,
(2)開削工法は線路内における作業が多く,長年月にわたって,
線路内の作業(閉塞,通常,等)が必要とされ,営業線に対する
危険度と作業員の安全が懸念され,保線区の作業もまた多い.
(3)シールド工法は土被りが薄く,線路に対する影響が大きく,
切端の安定も大断面なるがゆえに保持しにくく,短区間なため
経済的にも割高である.
などのことから,土被りの薄い所でも施工可能なアーマー工法
に,さらに下部掘削にさいしてより安全なメッセル工法併用という
形が採用されたものである.


   ところで、私、本項冒頭で「都営新宿線の国鉄市ヶ谷駅下の工事についての秋庭さんの脳内における略史」と申し上げましたが、これはなにも、この項目 が、年を経て刊行された3誌に夫々記述されたからの「略史」ではありません、JR中央・総武線の市ヶ谷駅の地下の地下鉄⑩号線すなわち都営新宿線の工事を 制約した秋庭さんの脳内にだけ存在する構築物が、秋庭さんの脳内で以下のような変遷を遂げられているからです。

1.「南北線となった」戦前の地下網の隧道。
2.「市ヶ谷付近では使われなくなったが新宿から先笹塚まで、京王新線の元となった」戦前のしかも旧東京
  高速の新宿線の隧道。
  あるいは、「都営新宿線がそのまま京王新線笹塚まで利用している」戦前のしかも旧東京高速の新宿線
  の隧道。
3.「都営新宿線がそのまま京王新線笹塚まで利用している」戦前の「都営軌道」の隧道。

♪♪~三つの顔の地下鉄のホントの顔はどれでしょう~♪♪


  「帝都東京・隠された地下網の秘密 186頁」の記述については、「南北線建設史」も出たことですし、都営新宿線とメトロ南北線は外濠の外側(新宿区)で交差していることが明らかですから、改めてお見当外れと申し上げるまでも無いでしょう。

 「78◆「新宿区新宿三丁目九番」 (帝都東京・地下の謎86)」の記述は、3項目に圧縮された制約と後の

      都営地下鉄新宿線は、いま、京王線に乗り入れている。他の路線に鉄道が乗り入れるときは、
     初めにその路線の駅に乗り入れる。駅に入ったところで責任の所在が変わり、乗務員も交代する
     ことが多い。
      だが、都営新宿線はダイレクトに京王の線路に乗り入れている。常識では、ありえないことで
     ある。この事実から考えられることは、その線路は以前から敷設されていたということである。
     京王線の線路が新宿三丁目まで敷かれていたか、そうでなければ、都営新宿線の線路が笹塚まで
     敷設されていたということである。

の間に何の連続もなく、制約を冒頭に持ってこられた事自体が謎なのですが、まぁ、京王線に牽強付会したかったが故と思っておきましょう。
   で、上記の「都営新宿線はダイレクトに京王の線路に乗り入れている。」意味が不明なのですが、笹塚まで、乗務員の交代が無いということなのだろうか? あるいは、新線新宿駅が京王の駅ではないとか、新宿三丁目から先が都営新宿線ではなく、京王の所属だと言う事なのだろうか?ダイレクトに乗り入れていると いう証拠が挙げられていません。
  ですから、

      この事実から考えられることは、その線路は以前から敷設されていたということである。
      京王線の線路が新宿三丁目まで敷かれていたか、そうでなければ、都営新宿線の線路が笹塚まで
     敷設されていたということである。

何て事はありません。「この事実」が存在しないからです。新線新宿では、「他の路線に鉄道が乗り入れるときは、初めにその路線の駅に乗り入れる。駅に入ったところで責任の所在が変わり、乗務員も交代する」と言う事が無いと言われるのでしょうか。
  新線新宿は京王の管理駅ですから、駅に入ったところであろうと無かろうと、駅とその構築物の管理責任は京王にありますし、運行管理の責任は笹塚側に向 いては京王にあります。境界駅として都営と京王の乗務員引継ぎもあるし。4番ホーム笹塚方向には京王線用の出発信号機もあります。他の相互直通運転とどこ が違うんでしょうか。

      地下鉄新宿線が認可された頃、この区間は一般に京王新線と呼ばれている京王新線は、戦後、
     営団地下鉄が建設し、京王に譲渡したとされている。とはいえ、営団には唐突にそんなことをする
     理由がない常識的に考えて、この部分のトンネルは戦前、京王が建設していたのだろう。

  今も、「京王新線」ですが、何か?
  京王新線は「戦後、鉄道建設公団が建設し、京王に譲渡した」のですけど、何か?
  もちろん、譲渡と言っても、無償じゃないですよ、全部とは言いませんが、建設費相当部分は分割で京王が負担してます。鉄道建設公団のP線のPは“PRESENT”のPじゃなくて、常識として私鉄線“PRIVATE”のPです。
  私「地下網の秘密」単行本の頃から、営団じゃなくて鉄道建設公団の「P線事業」だと申し上げてきたんですがねぇ。

      戦前、地下鉄新宿線の認可を得ていたのは、いまの小田急電鉄である。小田急電鉄の創始者は
     利光鶴松ある。小田急と京王は、いまはしのぎを削っているが、どちらも利光がおこした会社
     である。

   小田急と言うより、利光の「旧東京高速鉄道」の得ていた「内藤新宿~万世橋~大塚町」の免許は1924(大正13年)年9月2日に失効しています。秋 庭さんの戦前って、高天原の時代まで遡れそうですね。なお、この「旧東京高速鉄道」は1920(大正9年)年8月に「内藤新宿~万世橋~大塚町」の支線と して「内藤新宿~小田原」の免許を申請、これを得ると1923(大正12年)5月会社名も「小田原急行鉄道」に変更、支線の方(結局電気使ってくれりゃ どっちでも良かったんでしょうね、元来が鬼怒川水電と言う電力業者だった利光としては)は昭和2年4月に開通させました。
  なので、小田急(小田原急行鉄道)の創始者は利光鶴松ですが、京王電軌の創始者は違いますし、利光が「京王」の草創に関わったという事実はありません。
   最近、1998年まで京王電鉄は京王帝都電鉄と称してましたが、それは、現在の京王電鉄が「京王線の京王電軌」と「井の頭線の帝都電鉄」が一緒になっ たと言う経緯を社名に表していたからです。この帝都の創始者の一人は利光です。1927年に東京山手急行電鉄と言う山手線を外周する免許を取得した、後の 帝都の母体の一つとなる小田急系列の会社です。利光は免許後用地取得難から環状鉄道計画がぜんぜん進捗しない山手急行と、利権としての渋谷~吉祥寺の免許 を持っていて、利光に身売りして来た渋谷急行電鉄を合併させて、東京郊外鉄道と名乗らせ社長に就任して、渋谷~吉祥寺の建設に着手しました。更に1933 年帝都電鉄と改称、渋谷~吉祥寺間(今の京王井の頭線)を完成させています。そして1941年には小田急電鉄帝都線になりました。そう、帝都電鉄は都営新 宿線と相互直通運転を行っている「京王」路線とは無関係の会社だったのです。ですから、利光と「京王」も当然無関係です。
  では、京王と帝都が くっついた経緯は?簡単に言うと、1942年小田急と帝都の経営を五島慶太に投げ出した利光(五島慶太を見込んで経営を託したとも 言う)、これで、小田急・帝都とその傘下の企業が東京横浜電鉄に「陸上交通事業調整法」の主旨に則り吸収されます。1944年京王が「陸上交通事業調整 法」でその気があろうと無かろうと東京横浜電鉄=東京急行電鉄の傘下に入ります。戦後1948年東京急行電鉄は「陸上交通事業調整法」で傘下に収めた京 急、小田急、京王を分離独立させなければならなくなりますが、その時、経営基盤が弱いと見られた京王に持参金として帝都電鉄=東急井の頭線が付けられま す。利光鶴松1945年に幽冥界を異にされてます。念の為。
 
     京王の会長は利光だった。
     戦前の地下鉄新宿線の新宿駅は「新宿区新宿三丁目九番」に建設することが認可されていた。
    認可を持っていたのは、当然、利光である。新宿三丁目の住所表示は、戦前からほとんど変わっ
    ていない。いま、都営新宿線の新宿三丁目駅がある場所こそ、利光が新宿駅の認可を得ていた
    ところである。当時、ここは小田急の始発駅になる予定だった。

  「『帝都電鉄』の社長は利光だった。」ですね。
   「新宿三丁目の住所表示は、戦前からほとんど変わっている。」秋庭さんの得意技、住居表示の「まやかし」はこちらのブログが 詳しいのですが、この「新 宿三丁目」もそうです。ご存知のとおり新宿区は戦後牛込、四谷、淀橋の三区が合同したものです、現在新宿三丁目と言われている地の半分、新宿駅寄りの部分 は「淀橋区角筈一丁目」、昭和48年の住居表示の変更で新宿区角筈一丁目が消失して三丁目の一部になりました。
  「今、都営新宿線の新宿三丁目駅がある場所は、利光が新宿駅の認可を得ていたところと別の場所である。」です。
  具体的に見てみましょう現在の新宿三丁目の地番表記については、この秋庭さんの「帝都東京・地下の謎86」195頁の「新宿区新宿三丁目付近」を挙げておきます。


  さて、こちらが昭和10年の新宿三丁目の地図です。東京地形社の「大東京区分図三十五区之内四谷区詳細図」原本からの複写です。



  もう少し拡大したのがこちら



  ご覧の通り、当時の新宿三丁目9は今の伊勢丹の西側、今は一寸北側奥に移りましたが、当時は表通りに面していた、新宿三丁目郵便局があった辺りです。
  また、秋庭さんが新宿三丁目9として示された場所は、これもご覧の通り、当時は「新宿二丁目55」辺り、大負けにオマケしても「新宿三丁目23」辺りになります。
  どうやったら、都営新宿線伊勢丹の西側を通過させられるんでしょうか?「1-8計画」と同じ戯言がここにあります。