地下妄の手記
水の下に眠る城は何故燃えた?①
最終更新:
619metro
水の下に眠る城は 何故燃えた? ①
出張ついでに五稜郭を見てきました。市電を五稜郭前で降り、ファミレスかハンバーガーショップか微妙な店、「ラッキーピエロ」の「イタリア夫人アドゥリアーナ直伝のミートスパゲッティ」に心動かされながら。
小さいです。城と言うより堡塁。多角形の星形稜郭に直径と言う表現はおかしいかもしれませんが、直径500メートルとの説明が五稜郭タワーの案内にありました。
切れ目がある胸壁と言うか土盛の土堤を一周して見ました20分くらいで回ってしまいました。司馬遼太郎氏の「オランダ紀行」でも堡塁と表現されています。
もちろん、司馬氏が五稜郭について言われているのは、この「オランダ紀行」でナールデンを語っておられるからです。
わたしも、五稜郭をまくらに振って、秋庭氏の虚言について語ってみたいと思います。
地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 54頁1行目~7行目
水の下に眠る城
天下を統一した徳川家康は、なぜ、江戸に幕府を開いたのだろうか。なぜ、わざわざ原生林と湿原が入り組んでいた辺境の地を選んだのだろうか。
東京の歴史のこの大きな謎については、関東平野という広大な土地を選んだ、あるいは、
江戸の水運に目をつけていたなど、三、四通りの回答が考えられていて、その総合的な
判断ということにされている。だが、東京の地下がその謎を解明する。その決め手はおそらく
「築城」 にあった。
「おそらく」のあとに「『築城』にあった。」と断定が続くのが不思議です。秋庭氏のこの「築城」と言う言葉自体が、何の決め手にもなっていないことが、以降読んでいくと判ってくるのですが。
取り敢えずは、この徳川家康の「築城」とやらについて、秋庭氏が提示するものの、前後の時間軸を見ていきましょう。
1470年6月30日
~1498年4月7日 シャルル八世(生・没年)
1494年 イタリアへの遠征
1515年 「マリニャーノの戦い」のことかな?「鉄砲伝来の30年前フランス軍と
スペイン軍がヨーロッパの中部で衝突」
1543年 鉄砲伝来
1574
~1596年 ナールデン12稜郭の造成完成時期(オランダ戦争で直前にスペインに
より全滅させられている)
1578年 信長麾下九鬼水軍の鉄甲船は大砲3門を船首に配置、本願寺・毛利
連合軍と交戦
1590年 秀吉「小田原攻め」において大砲を攻城戦に使用
1590年 徳川家康関東移封(江戸入府)
1598年 豊臣秀吉没
1600年5月12日 徳川家康、リーフデ号乗組員ウィリアム・アダムス、
ヤンヨーステン・ファン・ローデンシュタイン等と引見
1556年?
~1623年 ヤンヨーステン・ファン・ローデンシュタイン(生・没年)
1564年9月24日
~1620年6月16日 ウィリアム・アダムス(生・没年)
1600年9月15日 関が原の戦い
1603年 家康征夷大将軍宣旨江戸幕府開府江戸城修築開始
1605年 秀忠、将軍襲職
1607年 駿府にて大御所政治開始
1615年 大阪夏の陣
1616年 家康薨去
1636年 江戸城築城完成
1657年 明暦大火で天守閣焼失 以降本丸はじめ度々火災焼失(江戸三大
大火他)
1633年5月15日
~1707年3月30日 ヴォーバン(生・没年)
地下網の秘密「2」(単行本秋庭俊著洋泉社2004年刊) 55頁18行目~56頁9行目
わが国では、関ケ原の戦いに大砲が登場している。しかし、まだ、主要戦力には育っていなかった。とはいうものの、今後の戦いでは、大砲が主役になるであ
ろうことは、おそらく、誰の目にも明らかだった。大砲の攻撃に備えて本格的な城を築いたのは、おそらく、わが国では、徳川家康が最初で最後だった。
徳川家康はオランダ人を重宝していた。ヤン・ヨーステンは「やよす」などと呼ばれて親しまれ、この「やよす」が東京駅の「八重洲」になったのだと いう。しかし、このとき家康がオランダ人を重宝しており、ヤン・ヨーステンがお堀端に住んでいたのは、それなりの理由があったからではなかったのだろう か。かつての川を地下の上水に変え、内堀や外堀の下に地下空間を築くという手法は、わが国ではいまだに伏せられているものの、当時のオランダの城づくりと 同じだった。
上の時間軸を示した年表を見ていただくとわかる様に、関が原を遡る事22年前より大砲は使われております。「主要戦力」とか、「大砲が主役」と言うのも歴史的事実から見れば意味不明といわざるを得ません。
また、家康の江戸入府は、オランダの漂流船リーフデ号乗組員を謁見する10年前であり、リーフデ号の遭難(豊後漂着)、謁見と偶然の結果であり江戸に首巴置くこととは何の関係も持たないことです。
ましてや、16世紀末から17世紀初頭のオランダに「内堀や外堀の下に地下空間を築くという手法」などと言う、「城づくり」は存在していません。後のヴォーバン候の築城第一、二、三方式にもそのようなものはありません。