地下妄の手記 一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その5

一つ二つは面倒だ束にして燃してしまえ。 その5



     21」[中野富士見町駅]本線ではない支線のこの駅に車庫があるのは、なぜ?

      中野坂上駅から方南町に向かう丸ノ内線の支線は、神田川を渡って中野新橋駅に着くと
     西の方向に直進する。再び川にぶつかる手前にあるのが、中野富士見町駅である。この駅
     の先、善福寺川が神田川に合流するあたりに、丸ノ内線の車庫(車両基地)中野検車区が
     ある。
      丸ノ内線の本線から離れたここに、どうして車庫があるのだろうか? 

そりゃぁ、本線経過沿線に車庫用地が確保できなかったからですが。

      丸ノ内線のもうひとつの車庫、小石川検車区は、茗荷谷駅から分岐して入るようになって
     いて車内からも見ることができる。普通、車庫は本線の近くにあるものではないだろうか?
      丸ノ内線の建設史をひもとくと、戦後初の地下鉄である丸ノ内線の起点は当初、池袋で
     なく小竹向原駅で、終点は荻窪駅でなく中野富士見町駅だったことがわかった。

 丸ノ内線建設史には次の様に書かれています。

 大正9年の東京市告示第2号 高速鉄道線路の部

  第3 内藤新宿より四谷見附、桜田門、万世橋を経て巣鴨に至るの線路

 大正14年の内務省告示第56号 東京都市計画高速度交通機関路線

  4. 省線新宿駅付近より、四谷見附、日比谷、築地、蛎殻町、
     御徒町、本郷三丁目、竹早町を経て省線大塚駅付近に至る

 昭和21年の戦災復興院告示第252号 東京都市計画高速鉄道

    4 起点 中野区富士見町 終点 豊島区向原町 
      主なる経過地 新宿駅、四谷駅、赤坂見附、永田町、日比谷、東京駅、
               神田駅、御茶ノ水駅、富坂町及池袋駅付近、

 昭和28年の建設省告示第1400号 

    4 起点 中野区富士見町 終点 板橋区向原 
      主な経過地 新宿駅、四谷駅、赤坂見附、永田町、日比谷、銀座、
               東京駅、御茶ノ水駅、富坂町及池袋駅付近、

 昭和31年の建設省告示第104号  略

 昭和32年の建設省告示第835号

   4 本線 起点 杉並区荻窪三丁目荻窪駅付近 終点 板橋区向原町
      主な経過地 馬橋、高円寺、本町通、柏木、新宿駅、四ッ谷駅、赤坂見附、
              永田町、霞ヶ関、数寄屋橋、東京駅、御茶ノ水、本郷三丁目、
              茗荷谷、池袋駅各付近、
     分岐線 起点 中野区本通三丁目 終点 杉並区方南町
      主な経過地 本郷通二、三丁目、富士見町

で、何が問題なんだろう?

      丸ノ内線の建設史をひもとくと、戦後初の地下鉄である丸ノ内線の起点は当初、池袋で
     なく小竹向原駅で、終点は荻窪駅でなく中野富士見町駅だったことがわかった。

なんで、秋庭さん得意の「戦前」と「江戸」が出てこないんだろう?なんで、戦後で止まってるの?「丸ノ内線建設史」ひもとくなら、ちゃんと紐解いて欲しいんだが。
 念の為に言えば、富士見町の用地は昭和19年に確保されているから、戦災復興院の告示以前に富士見町起点の計画はあったものと思われます。

実 際の営団の免許は戦前のそれこそ東京高速鉄道等の免許を活用するなど、実際に敷設されるという前提で言えば、これらの告示とまた別の部分もあるわけで、 「板橋区向原」であって、「小竹向原駅」ではないのだし。(小竹町が「ウチに掛かっているのに何で向原町だけ駅名に?」と言ったか何かで小竹向原駅になっ たらしいが。)

     終点の近くに車庫を造るのは、意外に少ないのだが、きわめて常識的な選択だ。

きわめて常識的な選択?って何を元に言っておられる、最前に

      丸ノ内線のもうひとつの車庫、小石川検車区は、茗荷谷駅から分岐して入るようになって
     いて車内からも見ることができる。普通、車庫は本線の近くにあるものではないだろうか?

と仰ったのでは?

      ところが、新中野駅の項で述べるが、東京地下鉄道のトンネルを利用して荻窪線が建設
     され、丸ノ内線に統合されると終点は荻窪駅となり、中野富士見町駅は支線の終点に変更
     された。

「ところが、」の接続詞意味不明。「終点は荻窪駅でなく中野富士見町駅だったことがわかった。」に掛かるとどうやって読めと。(「東京地下鉄道のトンネルを利用」云々の嘘については私も後述。)

      中野富士見町駅は支線の終点に変更された。

 支線の終点は秋庭さん方式で言っても、最初から「方南町」ですけど、で、上記昭和32年の建設省告示第835号に対して、荻窪線、方南町支線の免許は昭和33年、荻窪線、方南町支線の全通昭和37年。荻窪線の丸ノ内線呼称統合は昭和47年ですので以下の

      中野坂上~中野富士見町は本線と車庫をつなぐ支線となって、車庫に入る電車以外では
     新宿方向から直通で行けなくなり、たいていは中野坂上で折り返し運転の電車に乗り換え
     なければならなくなった。
      その後、支線は方南町駅まで延長されて、中野富士見町駅は支線の終点でもなく「途中
     の駅」となっている。

は、中野富士見町までの開通と方南町までの開通時期がずれたこと(当然ずれますわね、順番に開業するんだから)を良い事に事実を捏造されているわけです。

      このように計画が変更されたり路線が延長されたりして」当初は起
     点であったり終点であったりした駅がそうでなくなった例は他にもある。
      たとえば、日比谷線の終点は北千住だが、営団の路線図には終点が2つ、北千住と南千
     住が書かれている。これは、戦前の計画(2号線)の起点が南千住だったものを戦後、北千
     住に変更したことを示している。
      南千住駅の少し先、隅田川の近くに日比谷線の車庫があり、中野富士見町駅に似ている。
     東西線の東の起点は現在、西船橋駅だが、路線図は南砂町で、開通したときは東陽町だっ
     た。車庫は東陽町から分岐した深川検車区にある。

 おやおや、こんなところで、大好きな「戦前」を。
  丸ノ内線では、戦前の免許に言及せず、日比谷線と東西線では、戦前の免許に言及される。それならば、「日比谷線建設史」、「東西線建設史」をキチンと紐 解いて、部分的に既存免許が失効していなかったのでそれを利用した、とか都市計画告示の変遷に拠った結果、「当初は起点であったり終点であったりした駅が そうでなくなった例」について正確に説明されるのが、「なぜ」に対する正しい答え方じゃないんでしょうか?


     22」[中野新橋駅]神田川の「水音」が聞こえるって、ホント?

      丸ノ内線の支線、方南町に向かう地下鉄は中野坂上を出ると、青梅街道の中野新橋入口で
     左にカープして南下し、神田川を渡ったところで右にカープする。そこが中野新橋駅だ。
      市街地の下ということでホームは地下2階に造られていて、地下1階には何もなく地上
     の改札につながっている。この駅のすぐそばを流れているのが神田川で、そこに架けられ
     ているのが「新橋」だ。地下鉄が新橋の真下を通って神田川を渡っているとき、「川の水
     音が聞こえた」という話を近所の住人から聞いたことがある。私は半信半疑で丸ノ内線に
     乗ってそこに行ってみたところ、確かに聞こえたのだ。

 どこの「近所の住人」、本町五丁目?弥生町?近所の住人でなければ聞こえないのか?

      トンネルのなかで車輪とレールの接触する音がうるさくて、普通なら聞こえないのだが、
     駅の直前で減速しているせいだろうか、思っていた以上に静かで川の流れる音を耳にして、
     ふっと気持ちがなごんだ。

 「川の水音が聞こえた」、「川の流れる音を耳にして、ふっと気持ちがなごんだ。」。どうしたら川の水音と特定できるのか?こちらでもそうでしたが、秋庭さんは不思議な聴覚の持ち主のようです。
 現代の地下鉄は軌道、軌条、車輪、台車の改良などで相当に騒音そのものが低減されていますが、車内への外部音の侵入抑制は防・吸音材の使用や窓の常時閉 止に由るところが大きいのです。車内で相当に静粛であっても、車外では相当な騒音が発生しています。つまり、川の流れる音が、余程にこれらの材質や、他の 干渉音を突破できる音質・音量でなければ、聞こえません。
 もし、秋庭さんが聞かれたのが「せせらぎの音」の様なものであれば、秋庭さんが昔居られた業界、アナログ時代の放送業界では、「せせらぎの音」は最も再現の難しい音の一つだったはずですが?


     23」【新中野駅】中野坂上の東と西でトンネルが変わるのは、なぜ?

      丸ノ内線に新宿から乗り、中野坂上をすぎて新中野駅に着くと、何かが変わったような
     感じがしたことはないだろうか?
      実は、地下トンネルが中野坂上を境に東と西でまったく異なっているのだ。上りの電車
     から下りの電車の方向を見ると、東の新宿~中野坂上は薄茶色の壁、柱、空洞、黒っぼい
     コンクリートなどが目に入る。

 丸ノ内線の「上り」、「下り」って何?で、A線側からと、B線側からとでは対向線側の風景が異なるのだろうか?

      ところが、中野坂上から西荻窪までは、壁も空洞もコンクリートも見えず、あるのは柱
     だけなのだ。それに、トンネルのなかが中野坂上の東より少し明るい感じもする。

トンネルの中の明るい、暗いって何?照明が明るいの?壁の色相が明るいの?壁がなく柱だけだから間に遮蔽物が少なく明るい感じがするの?それとも単なるイメージ?憑拠は明確に提示してください。

      これを見たとき、「別の会社がトンネルを造った」と感じた。GHQ(連合軍最高司令官
     総司令部)が戦後に制作した地図「AMS-L774」を見ると、中野坂上を境にして別
     の路線名が書かれているのだ。
      東は「SAIBU SHINIUKU(西武新宿)」 で、西は「TOKYO SUBWAY RAILROAD (東京
     地下鉄道)」。

 西武軌道は複雑な履歴を持った会社で、結果的には地下鉄荻窪線の開通により廃止される「都電杉並線」となるまでには、営業主体が変遷します。
 昭和10年頃は西武鉄道新宿線と名乗っていました。
 その頃西武鉄道は路線上の競合者「東京乗合自動車」(つまりバスです)に西武軌道の営業を委託しちゃいました。現代でしたら独禁法違反で公取が来ますね。
 そして、昭和13年には「東京乗合自動車」は別の競合相手だった「東京地下鉄道」に合併されちゃいます。で、この西武軌道の営業委託も「東京地下鉄道」に引き継がれたのです。
(「都営軌道線と西武鉄道から見た中野の交通史」益井茂夫:鉄道に見る中野の歴史 中野区教育委員会、山崎記念中野区立歴史民俗資料館編平成10年刊より)

 さて、上記秋庭さんの「重宝な(秋庭さん的には諜報の)地図」“AMS-L774”は、米軍(正確には米陸軍)が大日本帝国陸地測量部昭和12年修正の1万分の1地形図等を参考にして作製したものとほぼ特定できます。根拠の一つは、秋庭さんの

      東は「SAIBU SHINIUKU(西武新宿)」 で、西は「TOKYO SUBWAY RAILROAD (東京
     地下鉄道)」。

これと、「都営軌道線と西武鉄道から見た中野の交通史」の「西武鉄道新宿線」、「東京地下鉄道」の経過を対比するとそう推定されるからです。

      新宿~中野坂上は、五島慶太が1921(大正10)年に原敬首相の特命で線路を敷い
     た「西武軌道」の地下にある。西武軌道は狭軌だが、この地図を見ると広軌だから路面
     電車でなく地下鉄に違いない。

 これは、ここに書きましたけれど、「原敬首相の特命」と言うのは「五島慶太伝」(三鬼陽之助)から、秋庭さんが捏造した妄想です。

 “AMS-L774”秋庭さんの提示する図からは「広軌」とは読み取れません。一号で潰れたメチル雑誌「銀太郎」にあった「凡例」の複線、単線夫々の4フィート8インチハーフの記号と一致しません。


       MILLION MOOK 銀太郎 2003年8月10日 ミリオン出版刊 「慎太郎もびっくり!? 東京都が封印した幻の地下鉄が存在した!!!!」 86頁

      五島は、東京高速鉄道を率いて地下鉄建設に熱心だった事業家。ここに地下鉄を造って
     いたとしても何の不思議もない。東京地下鉄道は、地下鉄の父・早川徳次の会社である。
      新橋で五島に敗れたものの、浅草~新橋に地下鉄を走らせた早川なら、荻窪~中野坂上
     に地下鉄を建設していた、ということは充分に考えられる。トンネルの明るさに、私は早川
     の存在を感じるのである。

 秋庭さんは、「五島慶太伝」から、

      彼は、荻窪から新宿までの軌道を建設し、これを川越鉄道に合併したのである。

と抜いてきてますから、中野坂上以西も「五島慶太」作でなければ可笑しなことになります。

      そして、1938(昭和13)年、東京高速鉄道・連絡線の資料に、「四谷見附~赤坂見附 旧
     新宿起点(始点)四谷見附 4キロ874メートル 920」 とあるのを私は見つけた。

昭和13年、東京高速鉄道・連絡線の資料ではありません、秋庭さん自身が、鬼の首を取った様に、あげつらっていた「丸ノ内線建設史」の、戦後は昭和31年の申請文の記述です。ですから「旧新宿起点」と(旧)がつくのです。

      四谷見附から西に4キロ874メートルというと、新宿を越えて中野坂上あたりになるのだ。
     つまり、四谷見附~中野坂上に五島が率いる東京高速鉄道の地下鉄が戦前からあった
     ことを、この資料は示している。
      丸ノ内線は戦後に造られたものだが、地下のトンネルは戦前に造られた、と私は確信し
     ている。

東京高速鉄道新宿線の起点は、「東京高速鐵道略史」によれば、

 高速鐵道は新宿裏口の新設廣場地下に新宿驛を直ちに省線下を成るべく淺く横斷して新宿通の地下を東進し

とあるので、「旧新宿起点」が中野坂上にあるとなると、秋庭さんの拠って立つところの「東京高速鉄道・連絡線の資料」が「丸ノ内線建設史」でないなら、

     つまり、四谷見附~中野坂上に五島が率いる東京高速鉄道の地下鉄が戦前からあった
     ことを、この資料は示している。

この資料は何なんでしょうね?


     24」[中野坂上駅]中野坂上には、かつて地下ロータリーがあった?

      私が『帝都東京・隠された地下網の秘密』(洋泉社刊)を出版したころ、読者で白井幹夫
     さんという熟年の男性からメールを頂いたことがある。白井さんの父上は陸軍におられた
     そうだが、その父上から「中野坂上には地下ロータリーがある」と聞いた、というのだ。
      そのメールを読んだとき、私は直感的にGHQの地図を思い出した。中野坂上のところ
     に円が描かれていた。それは地下のロータリーを示す印だったのだ。
      ロータリーとは米語で環状交差点という意味だが、地上の中野坂上交差点にロータリー
     があったという話はなく、あるとすれば地下鉄か地下道のロータリーである。
      前項で述べたように、戦前、中野坂上の西には東京地下鉄道が、東に西武高速軌道の地
     下鉄が走っていたらしい。しかし、この2つの地下鉄は交差していない。ロータリーとい
     うなら、交差する地下鉄や地下道があったはずである。

「東京1万分1地形図集成」柏書房1983年刊の昭和十二年修正測図「中野」を見ると、中野坂上に西武軌道の単線が真ん中を東西に貫通して走っているロータリーがちゃんと描かれています。

また、国土地理院の1947年米軍撮影の空中写真でもロータリーの姿が写されていますけど。
  空中写真(標準画像)
  作業名:USA10kKT, 地区:東京西部, コース:M698, 番号:106
  撮影機関:米軍, 撮影日:1947/12/20, 形式:白黒, 撮影高度:1,524m, 撮影縮尺:1/9,890
これは、地下のロータリーなんでしょうか?

     「地上の中野坂上交差点にロータリーがあったという話」

なんですけど。
 従って、以降のロータリー話は、「ロータリー」と言う単語に秋庭さんが勝手に概念付与した「ロータリー」と言う造語の話になります。
 しかし、ロータリーって、どうやって地下鉄が交差するんだろう?
 平面交差?
 阪急西宮のダイヤモンドクロスのような?伊予鉄道の大手町の平面交差のような?
 危なかないかい?

  秋庭さんの言うようなロータリー「米語で環状交差点」、英語では‘ROUNDABOUT’の意味するところは、交差点内部を円環状にすることで、交差点 内での侵入進行方向を一定にすることにより、信号機無しでの平面交差を可能とすることなので、ポイントの切換えを要する鉄道とは別の世界の話なんだが。

      今は、交差する山手通りの地下に都営大江戸線が走るようになり、その下を首都高も建
     設中で、ロータリーができつつあるといっていいかもしれない。

翻訳しよう

      今は、交差する山手通りの地下に都営大江戸線が走るようになり、その下を首都高も建
     設中で、環状交差点ができつつあるといっていいかもしれない。

重ねて言います、「しかし、ロータリーって、どうやって地下鉄が交差するんだろう?」

      もしかして戦前にも地下にトンネルがあったのだろうかと近くを調べてみると、大江戸
     線が都庁前駅から西新宿五丁目駅を経て中野坂上に来る途中に、かつて地下鉄が走ってい
     たらしい痕跡が残っていることがわかった。
      大江戸線の項で詳しく述べるが、かつて地下鉄が走っていたトンネルがないと解けない
     謎が、そこにあったのだ。そのトンネルが中野坂上の東西を走る地下鉄と交差していた可
     能性がある。
      昭和に造られた地下道や地下トンネルの整備という責務を課されている大江戸線、ここ
     でも、かつてのロータリーの再現をしたのだろうか?

「99 [都庁前駅]その昔、ここにも秘密の地下鉄が走っていた?」読んでみましたが、「街路四号」の位置関係など支離滅裂で、言ってる事が好い加減だと言う事は解りますが、

     大江戸線が都庁前駅から西新宿五丁目駅を経て中野坂上に来る途中に、かつて地下鉄
     が走っていたらしい痕跡が残っていることがわかった。

具体的な「痕跡」の話など一言もありません。

 上記はどうも、

 「痕跡」=「地下鉄が走っていたトンネルがないと解けない謎」

 期待可能性だけを以って「痕跡」に見立てると言う作業を行われていると言う事のようです。こんなもん、証拠性「0」ですよ。秋庭さん。


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