地下妄の手記 大東京の地下400年 九層倍の嘘 和蘭編 坤二の巻

大東京の地下400年 九層倍の嘘 和蘭編 坤二の巻

14」江戸城の設計に深く関わっていた2人の外国人の謎

 徳川家康は、幕府を開いて2年、1605(慶長10)年に将軍職を秀忠に譲り、1607
(慶長12)年に静岡の駿府城内に新たな政府組織をつくっている。その後、この組織が幕府
の実権を握り、「天下普請」という大事業を計画し進めるのだ。
 その組織の顔ぶれは、大名の本多正純、藤堂高虎が軍事、行政を担当し、豪商の茶屋四
郎次郎らが貿易を、大久保長安らの代官頭たちが税制を、ウイリアム・アダムスとヤン・
ヨーステンが外交を、金地院崇伝らの僧侶、学者の林羅山が宗教政策を担当していた。
 宮元健次氏の著書『江戸の都市計画』によると、江戸城建設と江戸の防衛計画は、多く
の城を手掛けた 「築城の名人」藤堂高虎がつくったプランに、徳川家康が朱を入れるとい
う形で進められたという。しかし、私は、ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが家
康にアドバイスしていたと考えている。

  宮元健次氏の「江戸の都市計画―建築家集団と宗教デザイン」を読まなきゃ、江戸城建設と江戸の防衛計画は、藤堂高虎のつくったプラン?(普通は縄張りってんじゃ無いの)に、徳川家康が朱を入れると言う形で進められたということはわからなかったわけだ。その上で、ウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンが家康にアドバイスって何の記録も無い、証拠も無いことを捏造するわけか。以下の文章では、アダムスとファンローデンシュタインの築城にかかる土木技術の何ものをも説明していないに関わらず、オランダの城とやらに二人が精通していることになるのだが、

 ウイリアム・アダムスはイギリス人。1588年に海軍に入り、スペイン艦隊を負かし
たイギリス艦隊の貨物補給船の船長を務めている。翌年に結婚すると海軍を離れて、イギ
リスの商船の航海士や船長として北欧やアフリカに航海している。

  ウィリアム・アダムスに築城の知識があったとはね。彼は、船大工の修行をした後、航海術を修めて、船乗りになり、前半生ずーっと海で暮らした人。

 ヤン・ヨーステンは、世界一といわれる大砲をつくっていたオランダ軍の砲手であった
が、ロッテルダムから5艘の船団を組んで東アジアを目指す航海に参加。リーフデ(オラ
ンダ語で愛という意味)号の航海士であるアダムスと出会う。


また、ヤンヨーステン・ファンローデンシュタインの秋庭さん曰くところの世界一といわれる大砲をつくっていたオランダ軍の砲手、と言う謎のような言葉は何なんだろう?リーフデ号がロッテルダムを船出した1598年頃あるいは1600年代初頭オランダが、世界一といわれる大砲をつくっていた記録は無い。何しろまだ、地域実効支配の実体はどうあれ、スペインと戦争中、この時点では、リーフデ号も英国製の鋳鉄砲を搭載していた可能性が高い。1620年以降になると、オランダは英国、スウェーデンと並ぶ大砲生産先進国となるが。


 1598年にロッテルダムをスタートした航海は惨たんたるもので、太平洋を横断して
目的を果たしたのはり-フデ号だけ。乗組員も110人からわずか24人に減っていた。今
の大分県臼杵に漂着したのは、オランダを出発してから約2年後のことだった。

  ウィリアム・アダムスはまぁ、航海士なのだろう、では、ヤンヨーステンは何なのか?オランダ軍の砲手なのか?リーフデ号の砲手なのか?掌砲長なのか?甲板士官なのか?貿易船なのだから、砲術の特殊技能者は要らない。24名のリーフデ号生き残りの乗組員はどうなったのか?臼杵で保護された翌日に3人(一説には6人)死んだと言われているが、彼等も家康に拾われたのではないのか?ひょっとしてその中に、築城の名手は居なかったのかい(笑

 家康と何度となく会った2人は、航海のルートや目的ばかりでなく、ヨーロッパでのプ
ロテスタントとカトリックの戦争についても話したに違いない。家康は、宣教師たちの
「海賊船」という情報が偽りであることを知ってからは、宣教師たちの声を無視して彼ら
を釈放して江戸に招き、幕府のブレインにする。


  この記述は時制がおかしい、家康との面談と、江戸への拘引、幕府のブレイン?の前後が逆な上に入れ子になっている。プロテスタントとカソリックの戦争っていつ話したんだ?家康と?ブレインになる前か?「海賊船」云々だってネットから仕入れた耳学問か、誰かの本の斜め読みをそのまま書いているからおかしくなる。「海賊船」は元々江戸拘引の前の話で、豊後の領主だか、代官だかにバテレンが言ったことじゃないの?その点で、「海賊船」云々は書かれている時制も意味も不明になってますが。
  アダムスと、ファンローデンシュタインがプロテスタントだった証拠は無い。英国国教会派はプロテスタントとは一線を隔す。清教徒だったかもしれないし、カソリックだって根強く残っていたわけだし。また、プロテスタントだったとしても、プロテスタント千差万別だから、「ヨーロッパでのプロテスタントとカトリックの戦争」と言うような世界観が当時確立していたか?は確かでは無い。程度に、欧州情勢は複雑怪奇だったんだが。

 2人には屋敷を与え、日本の女性と結婚させ、ウイリアム・アダムスには三浦按針とい
う名を与え、旗本に取り立てている。いかに2人を信頼していたか、これだけでもわかる。

屋敷を与えた以外は、アダムスのことだけなんですが。ファンローデンシュタインは何処へ行った?  

 ところで、藤堂高虎が「築城の名人」といっても、オランダの城については別である。
高虎のプランについて2人が意見を具申して、家康が高虎のプランに朱を入れていたので
はないだろうか? 家康を通してであれば、高虎も耳を傾けたはずだ。

  どちらが先の妄想か知らないが、東京には隠された地下妄が江戸時代前から存在したと言う妄説を合理化せんがために、「地下を多用する」オランダの築城術なるものをでっち上げ、それが江戸築城に適応されたことに(根拠は無いけど妄想していた)するために、江戸初期に家康と交流のあった、新興欧州系の代表格、家康の外交顧問的な役割を担えたアダムス、江戸の港湾防衛の最前線を任されたと推察されるヤンヨーステン、飛び抜けて明確な記録があるので、有りもし無い築城アドバイザーなんて役割を有名人にとって付けたか押し付けたか。要するに秋庭さんにして見りゃ、誰でも良かった、ヨーロッパ人なら、と言うご都合主義な妄想に他ならないんじゃね?(失笑
  スペイン、ポルトガルから新技術は入ってこなかったのかい?スペイン、ポルトガルの築城術や、砲術が遅れていたと?オランダ式築城とやらの元はイタリア式築城じゃなかったっけ?
  少なくとも後二名、リーフデ号の乗組員として名が記録されており、家康の用に任じた生き残りが居る。彼等にだって、秋庭式築城術を家康や、高虎に吹き込む能力と機会があったんじゃないの?ねぇ、歴史なんだから、そのことを検証しないで、秋庭さんの知ってる名前だけに役割を担わせるのって、ご都合主義の極致なんじゃない(爆笑

15」「正五角形の砲術」から生まれた「正五角形の城」

 江戸城のような五角形の城や要塞がヨーロッパで築かれるようになったのは、ダ.ピン
チの『正五角形の砲術』といわれる理論が完成してから、といわれている。
 ダ・ピンチは、古代ギリシャ時代から、人間にとって最も安定し、美しい比率とされて
きた「黄金比」に着目し、正五角形の辺と対角線が「黄金比」になつていることに気づい
た。これを砲術に応用したのが「正五角形の砲術」だ。

  歴史の中で判っているのは、ダ・ビンチが五角形の中に黄金比を見い出したと言う、「ダ・ビンチ・コード」からの話くらいじゃないのかな?もう、ダ・ビンチ・コードって時点で、妄想的与太話なんじゃないの?
  まぁ、正五角形の中に「辺と対角線」「互いに交わる対角線」に黄金比があるのは、「定理」だけど。

  『正五角形の砲術』といわれる理論

をダ・ビンチが見出し完成させたと言う事実も、記録も何処にも無い。

  正五角形の一辺と対角線の比が黄金比になっているとか、正五角形の対角線はお互いに他を黄金比に分けると言うことが、つまり黄金比が以下の記述とどのように関わるのか?論理付けできるのか?


 大砲を直線で結べば正五角形になる位置に置くと、正五角形の対角線がつくる五角形の
なかならどこでも「十字砲火」が成立する。つまり、2つの砲台から発射された砲弾が十
字に交差して命中し、敵をやっつけることができる。

  このことに黄金比が何の関係があるのか?黄金比とクロスファイヤーの関係が全然見えない。

 点でなく面で攻撃できるのが「正五角形の砲術」の特長で、正四角形や正六角形、正八
角形では、中心と辺でしか「十字砲火」が成立しない。

「十字砲火」と言うのはの円に内接する多角形により包囲された中に対する射撃では中心と辺?、且つ正五角形の中でしか成立しないのか?
  「中心」は一個しか無いから「中心」って判るけど、「辺」ってどれよ?
  「十字砲火」と言うのは、鋭角を挟んだ二辺からの射撃で十分成り立つんじゃないの?

 大砲を直線で結べば正五角形になる位置に置くと、

と言う位置は、五角形の各頂点と言うことになるが、それじゃぁ、装填に時間のかかる当時の砲では二つの砲台の砲からしか「十字砲火」とやらは成立しないから、交差するとこは点だもん、「面」制圧できないでしょ。クロスする一点でしか制圧できないじゃないの。
前に、ここで教えてあげたはずだよね。二辺に銃砲を並べて挟撃するから面制圧で十字砲火なるものが成り立つんだと。

「正五角形の砲術」が広がると、
当然、城や要塞のつくり方が変わった。
 そこで生まれたのが「正五角形の砲術」を敵に使わせない城だ。その形は実にさまざま
だが、最もシンプルなのが正五角形である。城の中心にいる城主は城を正五角形にしてお
けば、敵は正五角形の位置に大砲を配置できず、安全でいられるのだ。

ほら、もうここで論理矛盾を起している。

「正五角形の砲術」を敵に使わせない城その形は実にさまざま最もシンプルなのが正五角形敵は正五角形の位置に大砲を配置できず

じゃぁ、正五角形の城さえ造っときゃ良いんで、「その形は実にさまざま」である必要ないじゃん。


「オランダ式築城術」は、この正五角形の城に海や川、掘割などの水で大砲の射程圏から
逃れる方法を加え、さらに射程距離の長い砲弾が飛んできても反撃できるよう地下道網を
加えているのが画期的だ。

地下妄があると何故、

更に射程距離の長い砲弾が飛んできても反撃ができる。

のか、全然説明になっていないんですが。「射程距離の長い砲弾」自体が日本語になっていないと言うか、英語とかにしても意味を持っていない言葉としか言いようが無いんですが。砲弾そのものに射程距離の長短があるんでしょうか?
  ここまでで、「正五角形の砲術」なんてものが有ったとしたら、ダ・ビンチとんだ間抜けだね、と言うことになることがよく判ると思う。謎本44頁の「私の考える江戸城の五角形」と言う図をチョッと加工させてもらった、射程が、五角形の辺の長さ分有った場合の「秋庭式十字砲火」なるものの範囲を緑と赤の線で示した。そして、射程がその半分の場合の範囲を青とピンクで示した。御覧のとおり、「正五角形の砲術」が、砲の射程距離に依存することがわかると思う、そして、射程が五角形の辺の二分の一以上無ければ十字砲火そのものが成り立たないことが判ると思う。






 そして、城を取り囲む都市や地域をまるごと要塞化して戦うという考え方を導入した。
いうなれば、城から都市要塞に発想を変えたのが「オランダ式築城術」 で、ヨーロッパで
は多くのプロテスタント系の都市国家に採用されたのだった。

城郭都市っていうのは、大陸系の諸国では中国から西、紀元前って言うか、都市ができたら外敵からの防衛のため、有史以来存在し発達してきたんで、オランダ式で城から都市要塞に発想を変えたわけでもなんでもないんだけど。プロテスタント系の都市国家って何?

 日本では、徳川家康がこの 「オランダ式築城術」を江戸城建設に採用したことで戦国時
代が終わり、黒船来襲まで江戸の防衛は危険にさらされることなく維持されたのだ。

  そうすると、後に出てくる、五稜郭とかと平仄が合わなくなるんだけど。都市型城塞江戸っていうのは墨引き内か朱引き内か知らないが、それと、五稜郭の間に、オランダ式築城術としての技術の連続性や、継承があるのか?「オランダ式築城術」の何の説明にもなっていない。


16」都市型城塞・江戸は、このようにつくられた!

 江戸城を中心にした大きな円、仮にそれを江戸の町とすると、その円弧に8個の正五角
形を敷き詰める。ただし、敵に読まれないように、実際はわざと円弧の一部をへこませた
りしているので、城壁は必ずしも円を描いているわけではない。

最前の図は「私の考える江戸城の五角形」とあった、今8個の正五角形が敷き詰められるのだと言う。すると、何角形になるのだろう?16角形?あの五角形は何処へ言ったんだろう?以下のように書かれているから、

 円弧に敷き詰めた正五角形の外側、角のところに砲台をつくり、

  角の砲台は稜堡と言うことになるのだと思われる。すると、江戸は八稜郭と考えざるを得ないのだが。八角形では「正五角形の砲術」を破れないのではなかろうか?


 円弧に敷き詰めた正五角形の外側、角のところに砲台をつくり、その地下に弾薬庫を置
く。砲台と砲台をつなぐ正五角形の辺のラインと砲台と江戸城をつなぐラインには、人や
弾薬を運ぶための地下道をつくる。

  弾薬庫は砲台の側に置いては危険なのではなかったか?ここでそう言っておられるのだが。あれは明治以降の話とでも言うのだろうか?
  また、江戸城から弾薬を運ぶと有るが、江戸城に各砲台に弾薬を補充する機能があるということは、江戸城は巨大な弾薬庫?ますます危険なのではなかろうか?

その内側に、江戸城から8つの砲台に向かって延びる地下道のラインを辺とする
五角形を敷き詰める。いずれの五角形も実際は1辺が400~500メートルの小さい
ものだったろう。こうして敷き詰められた五角形の中心に、やはり五角形の江戸城
がつくられた。

  いつの間にか、五角形の前の「正」が取れているが、地下道のラインを辺とする、五角形は正五角形では無さそうだ、地下道のラインを辺とする、五角形が正五角形なら、敷き詰めることができない、隙間が空くか、重なる部分が出来るかと言うことに必ずなる。正五角形の内角は、108度になる、従って、地下道のラインを辺とする正五角形は隣り合う、角が36度分重なるか?或いは角が隣り合わず、後に、

 五角形と五角形のすきまには、比較的スペースの広い地下拠点が設けられた。

とある様に、隙間が生じるか、このどちらかになる。敷き詰められないのだ。更に、五角形は、江戸城に近づくにつれ、その面積を減じていく。何故なら、地下道のラインは、江戸城と言う扇形の要に向かって、窄まっていくから。つまり五角形を敷き詰めていく理屈がまるで存在しないまま正五角形の江戸城(町?)八稜郭が出来上がっていることになるのだが、この理屈はこれから出るという、角川印の盗用ダビング本で説明されるのだろうか?

中心の江戸城には天守閣、本丸が建てられ、城壁の下には石垣が積まれ、濠が周囲を取
り囲んでいる。円弧の外側に外濠ができ、神田川の水路が隅田川まで延びて、五角形の城
の形が整うのが1607(慶長12)年。

  神田川の水路が隅田川まで延びて、と言う記述自体が不思議だ、石神井川の隅田川への放水路そのものが神田川で、それの成立は1620年と秋庭さんのダビング元参考書、鈴木理生氏の「江戸の都市計画」に書かれているのだけれど。
  なんで、また五角形が復活するのかな?「 江戸城を中心にした大きな円、仮にそれを江戸の町とすると、」円弧の内側、江戸の町は八稜郭じゃなかったっけ?

 その後、江戸城が西に広がると中心の五角形も拡大し、新たに城壁と石垣、濠がつくら
れる。それができあがったのが3代将軍家光のころ(1620年代)だ。参勤交代が制度化
されて、今の霞ヶ関に大名屋敷群ができ、外濠が右渦巻きの形に江戸城を囲むようになっ
たのは1636(寛永13)年のことだ。

  「3代将軍家光のころ」って家光治世が案外長くて、1651年まで続いてるんだが、参勤交代も武家諸法度によるらしいから、1635年正式化だし、
西の丸は、1611(慶長16)年の天下普請だと、秋庭さんのダビング元参考書、鈴木理生氏の「江戸の都市計画」に書かれているのだけれど。

 五角形と五角形のすきまには、比較的スペースの広い地下拠点が設けられた。その地下
拠点の上に神社仏閣を置くため、日枝神社や神田明神など神社仏閣の移動が江戸時代の初
めに行なわれている。今の三宅坂には「隠れ砲台」があったらしい。

  日枝神社の最初の遷座は、1604(慶長9)年、神田明神の遷座は、1616(元和2)年、12年の隔たりは何なんだい?特定の意図があっての遷座にしては、時間が空きすぎていないかい?歴史ってのは、有名な史実のつぎはぎで成り立っているんじゃないことがまだわからないのかなぁ?そして、普通の幾何学の理解からいくと、秋庭式五角形理論は、隙間だらけな上に、外から内へと並べる五角形を小さくするか、何とかしないと絶対成立しないんだけど。正五角形の内角って、108度でしょ、円を八等分したら、中心と分割線とが作る扇形の角度は45度その45度の角度をなす直線と一辺の一部を共有する正五角形をどうやったら「敷き詰められる」のやら?仮令重ね合わせて敷き詰めたとして、それは最早、建築学的な意味で、或いは軍事工学、軍事土木の上から言っても、正五角形じゃないし、第一、秋庭式「正五角形の砲術」とか言う、十字砲火の基準線にすらならないのだけれど。秋庭さん自分の言ってることを図に書いたことある?無いでしょ。都合の好い五角形、鴎外の「東京方眼図」なんて、測地図としては怪しいものの上に、更に「五角形の内角は108度」とか言いながら、「108度ぐらいだ」なんて、あいまいな目の子勘定で、正五角形とは似ても似つかないいびつな五角形を引くぐらいが関の山でしょ。こんなんでは何も証明したことにはならないんだが。


 このように江戸の町全体に敷き詰められた五角形の辺に地下鉄を走らせれば、さらに大
きな都市要塞を建設することが可能になる。
 第一次世界大戦後、それが計画され実行された可能性はあるが、公式には、実現しない
まま、戦後の地下鉄建設を待つことになる。

  するとこのこと

このように江戸の町全体に敷き詰められた五角形の辺に地下鉄を走らせれば、さらに大
きな都市要塞を建設することが可能になる。

は、昭和初期まで、有効な築城要塞理論と言うことになるが、そんなに命脈が保てたのか?オランダ式築城術とかは?ヴォーバンの築城理論(秋庭さん当然ヴォーバンが有る意味での権威だとは分かっているが、理論は分かっていない、っていうか理論は秋庭式だから端から、理解して無い。)に変質していく秋庭式妄想の築城術は。
  もっと言やぁ、東京市?東京府?地下鉄何ざぁ言ってる時点で、江戸じゃないんだが、何で都市要塞化されなきゃならなかったの?空襲に備えることと都市要塞って話は、全然別個なことなんだけど、第一次世界大戦後に東京だけを都市要塞化しようとしたってことですか?徳川家康の都市計画を引き継いで?レオナルド・ダ・ビンチの「正五角形の砲術」とやらを引き継いで?
  秋葉式築城術ってそういうことだと、言ってるわけなんですが、秋庭さんのこのパートの記述はね。
  初版本で、参考文献一覧に「東京地下鉄道史」の著者を「乾坤二」って書いちゃう人だけのことはあるは。ねっ、秋庭さん(哄笑

 
17」「五角形」で浮かび上がる江戸の町の謎

 江戸の町に五角形を敷き詰める、といってもピンとこない読者も多いのでないだろうか。
そこで、実際の地図で五角形を探してみることにしよう。使用するのは森鴎外の「東京方
眼図」だ。この地図を見ていると、私には五角形が浮かび上がって見えてくる。

  と言うので、てっきり、五角形を敷き詰めた図が、「東京方眼図」上の展開されるのかと思いきや、これだ(蔑

 たとえば、靖国社(今の招魂社)の北に築城本部がある。その東に沿って外濠に向かう道
と右折して赤十字社の方向に向かう道の角度が108度(五角形の内角)ぐらいだ。2つの
道に沿ってラインを引く(道のないところも)。
 水道橋の南、少し東に108度くらいの曲がり角がある。一丁目と三丁目を分ける道路
と三崎町から飯田町停車場に向かう道路に沿ってラインを引く。すると、築城本部東側の
ラインと飯田橋停車場の西で交わる。その角度も108度くらいだ。
 このようにしてラインを引くと、次ページの図のような五角形が浮かび上がってくる。

  文字で説明しているだけ、図はあることは有るんだけれど、飯田橋界隈とは、全然別な場所、「次のページの図」のような五角形って、これなんだけど、


木挽町の歌舞伎座→浜離宮→水路部(現御成門小学校)→裏霞ヶ関町(当時)イタリー大使館→日比谷の交差点→木挽町

  の歪な五角形が線を結んでいるんだけど、で、この方の五角形の説明は、何処にも無し、この本の何処にも。ひょっとしてこれは、角川印のダビング本のなかで説明されるんでしょうか?
  上記の文章を、もう少し細かく見ていくと、図が無いから皆目な話なんで、図がなくとも判るところだけ指摘しておこう。

    靖国社(今の招魂社)の北に築城本部がある。


  また、右翼に締め上げられても知らないよ。靖国社(今の招魂社)って何?靖国神社は、今は招魂社と言われてるんだ。へぇ~っ!

    一丁目と三丁目を分ける道路

  何処の一丁目と三丁目を分ける道路?地図に地名が無いからって好い加減な。判んなかったら書くなよ。三崎町の一丁目と猿楽町の三丁目じゃないの?

    飯田橋停車場の西で交わる。

  おいおい、飯田橋駅ができたのは昭和3年だろうが、明治42年にあったのか?飯田町の間違いだろうが、

  この「次のページの図」と、冒頭の、小石川、牛込、麹町の境辺りをチマチマと切り分けてる五角形、大きさが倍ぐらい違わないかい?

正五角形とはいえないが、築城本部東側のラインは南に延ばすと「宮城」に達する。ここ
は、かつての江戸城西の丸、多くの将軍がここを住まいとしていた。
 江戸城のいちばん外側の五角形のひとつは、これだったのかもしれない。このすぐ東に
は、砲台があった御茶の水を頂点にした五角形があったはずだ。このように108度ぐら
いの曲がり角をさがすと、意外なところに五角形が見つかる。

  あのね、飯田橋界隈の五角形と御茶ノ水を頂点に持つ五角形大きさ違いすぎないか?円弧に沿って正五角形を8個敷き詰めるんだったか、並べるんだったかするんだろ?

 江戸城のいちばん外側の五角形のひとつは、これだったのかもしれない。

8個並ばないんじゃないの?一番外側の五角形がそれじゃぁ。
  

 神田明神や平川天神のように、外濠の内側から外に出された神社仏閣の移動ラインを、
正五角形の中心線と考えてみると、そこからも五角形が見つかる。
 地図にさまざまな五角形を描くと、2つの五角形が必ずしも辺と辺をピタリと接してい
たわけではなく、重なっているところもあったこともわかってくる。その五角形のどのラ
インに地下道が走っていたのだろうか? それは次のPART3で探ることにする。

  
 地図にさまざまな五角形を描くと

  だから、さまざまな五角形を書いちゃいけないんじゃないの?「正五角形の砲術」と「正五角形の砲術に対抗する築城術」ってのがあるんでしょう?それの法則性って五角形であることだけなのか?
  そらぁ、もう、戦術とか、そんなんじゃあねぇ、オカルトだよ。五角形だか五方陣だかを描く、呪い、呪術の世界だぁな。
  歴戦の兵、野戦の達人、海道一の弓取り徳川家康と、縄張りの名人、彦根を凌ぐ先手の精兵藤堂高虎を舐めるにも程がある。そんな児戯にも等しい、何の理屈、裏付けも無い「五角形の戯言」にコロッと騙されたとでも?
  いや、そんな児戯にも等しい、秋庭式「オランダ式築城術」とか「イタリア式築城術」をウィリアム・アダムスが助言したって?アダムス、五分で家康に切り殺されてるよ。当時、17世紀初頭世界で一番、戦術的にも、戦略的にも洗練され、精強な軍隊は何処に存在したか?我が日ノ本にあったんだよ。秋庭さんの粗雑なお頭に較べたらはるかに緻密で論理的な、知能と、深い経験に基づいた戦争の権威を相手に、それなりに知恵があったから重用されたアダムスや、ファンローデンシュタインをはじめとするリーフデ号乗組員がそんな馬鹿なこと言わないって。
  ど阿呆ぅが、秋庭俊お前の戯言で構成された、「オランダ式築城術」とか「イタリア式築城術」なんか、世界に存在しないんだよ。江戸の町はそんな戯言で造られちゃ居ない。反論のできない、歴史上の人物の所業を貶めるな。
  念のため言っとくが、バッキ式パッチもんじゃなかった「イタリア式築城」ってのは、一応歴史に記録がある。だが、「オランダ式築城術」とか「イタリア式築城術」なんてものは、存在しない。