地下妄の手記 小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」壱 補遺

  前稿「小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」壱」に続けて「小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」弐」及び「参」を綴るに当たり、「参」
 の主題が都(市)電の前身である馬車鉄道についての記事でしたので、以前に秋庭さんの怪しげな記事を検証するために参照した「都史
 紀要33東京馬車鉄道」(東京都平成元年刊)を再読しました。
  往々にして秋庭さん、梅原さんの類いの方のおやりになることは、お定まりの通と言うものがあるのですが、小川氏も類に洩れずやらかし
 ておられました。
  まあ、何となく「都電跡を歩く」の記述には、初見でしたが、都史紀要等の文言を過去に見ていたことからくる、既視感はありましたけれど。
  一応以下小川氏の文章を青字で、その中の気になる部分と、紀要の文章の気になるところを赤字で示させていただくことにします。
  なお、都史紀要一寸出典表記が難しいのですが、東京都が出している「東京市史稿」と言う現在で177巻刊行の大部の史料集があるの
 ですが、その中に「市街篇」と言う現在87巻刊行(一応完結)と言う街の成立ち等を記した史料を年代順に集成した史料集があり、ここから
 の出典の場合、出典表記は「東京市史稿」を略し『市街篇』第何十巻と示されていますので、以下の紀要の文章もそれによりました。原典に
 ついて前以って補足します。
  まず、


      第一章 1系統 ~日本の鉄道史に彩られた路線~

 は人力車の行(くだり)

      人力車と馬車の時代

        (中略)
        参勤交代の大名行列は、馬や駕籠による移動でした。道路上を多くの人が行き交うよう
       な光景は見られません。それが明治に移ると、馬や駕籠に替わって人力車が登場します。
       人力車は駕籠よりも速く、馬のように管理する手間が省けて飼料代もかからないことから
       爆発的に人気を博しました。

        明治三(一八七〇)年、政府は正式に市中における人力車の営業許可を出します。人力
       車の普及に拍車がかかり、明治九(一八七六)年には、東京市内で約二万五〇〇〇台の人
       力車が営業していたといいます。
        人力車が誕生した時期は、諸説あって年代を特定することは難しいのですが、どうやら
       一八世紀あたりに発明されたとするのが一般的のようです。江戸時代、すでに日本にも人
       力車は伝えられていました。それにもかかわらず普及しなかった理由は、江戸幕府が人力
       車の使用を禁止したからです。市中で大八車より大きな車は使用してはならないという
       お触れを出していました。これには、幕府から見た防衛的な意味合いがありました。
        そのため、交通上の問題においては、人が通れるぐらいの幅があれば十分で、わざわざ
       道路整備にお金を費やす必要はなかったのです。
                          (28頁10行目~29頁9行目)


 のこの部分について、「都史紀要33 東京馬車鉄道」には何と書かれているか?ですが、
  紀要35頁にはこうあります。

   この人力車のアイデアをいつ、誰が考えついたかについては議論のある所だが、幕末横浜開港直後
   にいち早く我が国に持ち込まれた馬車の影響を無視するわけにはいかないだろう。先に述べたように、
   明治二年外国人・日本人とり混ぜて横浜と築地を結ぶ乗合馬車営業の花が開いたが、東京市中での馬
   車渡世は往来危険という理由でしばらくの間許可されなかった。人力車はまさにこういった時期に、
   いわば馬車の代用品として生まれ出たのである。馬車と荷車を融合したこの奇抜なアイデアは、しか
   し当時の道路事情にきわめて適合したものであったため、爆発的な人気を呼んでたちまちのうちに東
   京中に広まっていった。


  何故人力車が普及していったのか。小川氏と紀要どっちが説得力があるか、と言うか。愚生は
前稿「小川裕夫さん 支離滅裂
 「都電跡を歩く」壱」で以下の部分について、

                  ……それが明治に移ると、馬や駕籠に替わって人力車が登場します。
       
人力車は駕籠よりも速く、馬のように管理する手間が省けて飼料代もかからないことから
       爆発的に人気を博しました。


 馬ってなんですか?江戸墨引き内で乗馬による人員の輸送があったんですか?「馬のように管理する手間が省けて飼料代もかからない」
と言うのは、馬車を牽かせる馬のことでしょう?馬車での輸送より人力車の人件費の方が安くついたと言うことではないんでしょうか?馬車の
普及を誤魔化しておられるようですね。後の文章と合せて読むと。


 と、書いたとおり、やはり乗合馬車の普及を誤魔化しておられるようです。
  またこれについても、

        明治三(一八七〇)年、政府は正式に市中における人力車の営業許可を出します。人力
       車の普及に拍車がかかり、明治九(一八七六)年には、東京市内で約二万五〇〇〇台の人
       力車が営業していたといいます。


 明治3年に出されたのは、まず、発明者と目される者への東京府による人力車の製造と販売の許可じゃなかったんでしょうか?そして東京
の話に、何で政府(国)が営業許可を出すんでしょうか?

 と書きましたが、
「都史紀要33 東京馬車鉄道」33頁で

   東京府はこの「人車自力引車」を実地検査の後、「格別相危き車とも不相見、随分弁利ニ可相成哉ニ
  付」として同月二四日これを許可した。

 と東京府の許可であることを書き、34頁でその許可文を(「府治類纂」舟車、『
市街篇』第五十一、一六四~一六五頁)
 より引いています。

  続いて、これの、

        ところが明治政府は人力車を解禁しました。さらに横浜開港によって、西洋人が東京に
       も姿を現わすようになりました。西洋人は馬車に乗って移動する習慣があり、東京でも馬
       車が道路を疾走します。江戸時代から引き継いだ狭い道のままでは事故が起きますし、な
       により不便です。
        東京府は、明治四(一八七一)年に道路を改良する計画を立てます。道路を改良するに
       は莫大な資金が必要です。東京府は「三厘道」なる車税を課すことにしました。三厘道と
       は、車の売上から三パーセントを徴収する営業税です。
        新たに財源を得た東京府は、道路を改良するための四路線を選定します。選定されたの
       は、日本橋から浅草までの区間、高輪ロから芝口橋を渡って尾張町二丁目(いまの銀座六
       丁目)付近までなど、特に外国人の通行が多い道でした。芝口橋という地名は、すでに聞
       かなくなってしまいましたが、これは現在の新橋になります。
                                    (29頁10行目~30頁5行目)

        改良する四路線を選定しましたが、東京府は、ほかにも尾張町から築地ホテルまでの道
       路を改良する必要があると政府に主張します。こちらの財源は、運上所余金から捻出す
       ることになりました。運上所とは現在でいうところの税関です。さらに東京府前通りから
       外務省までの道路など、三路線の整備計画を東京府定額金から支出する計画も立てまし
       た。また、これとは別に、鍛冶橋御門内、馬場先御門内大手までの道路は、宮城(皇居)
       に通じる道であることから大蔵省が費用を負担し、東京府が工事を担当することが決めら
       れました。
        東京府が三厘道という税金をもって道路の改良に着手する一方、政府は明治六(一八七
       三)年に「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定します。これは馬車や人力
       車、遊船などの所有者に課税をするもので、いわゆる〝ぜいたく税〟といえます。財源不
       足に苦しんでいた政府は、成長著しいこれらの新業種に目をつけました。
        政府が新たに課した税金の特徴は、これが道路や橋梁の修繕費や貧民教育に充てる
       目的であるならば、府県が同じような税金を制定してもよいとしていた点です。早速、東
       京府は三厘道を廃止して、政府に追随する形で新たな車税を徴収することにしています。
                         (30頁6行目~31頁4行目)

 この部分ですが、

      ところが明治政府は人力車を解禁しました。さらに横浜開港によって、西洋人が東京に
 
    も姿を現わすようになりました。西洋人は馬車に乗って移動する習慣があり、東京でも馬
 
    車が道路を疾走します。江戸時代から引き継いだ狭い道のままでは事故が起きますし、な
 
    により不便です。

 
     東京府は、明治四(一八七一)年に道路を改良する計画を立てます。道路を改良するに
 
    は莫大な資金が必要です。東京府は「三厘道」なる車税を課すことにしました。三厘道と
 
    は、車の売上から三パーセントを徴収する営業税です。
 
     新たに財源を得た東京府は、道路を改良するための四路線を選定します。選定されたの
 
    は、日本橋から浅草までの区間、高輪ロから芝口橋を渡って尾張町二丁目(いまの銀座六
 
    丁目)付近までなど、特に外国人の通行が多い道でした。芝口橋という地名は、すでに聞
 
    かなくなってしまいましたが、これは現在の新橋になります。
      
 新たに財源を得た東京府は、道路を改良するための四路線を選定します。選定されたの
 
    は、日本橋から浅草までの区間、高輪ロから芝口橋を渡って尾張町二丁目(いまの銀座六
 
    丁目)付近までなど、特に外国人の通行が多い道でした。芝口橋という地名は、すでに聞
 
    かなくなってしまいましたが、これは現在の新橋になります。
 
     改良する四路線を選定しましたが、東京府は、ほかにも尾張町から築地ホテルまでの道
 
     路を改良する必要があると政府に主張します。こちらの財源は、運上所余金から捻出す
      ることになりました。運上所とは現在でいうところの税関です。
さらに東京府前通りから
      外務省までの道路など、三路線の整備計画を東京府定額金から支出する計画も立てまし
      た。また、これとは別に、鍛冶橋御門内、馬場先御門内大手までの道路は、宮城(皇居)
      に通じる道であることから大蔵省が費用を負担し、東京府が工事を担当することが決めら
      れました。



  「都史紀要33 東京馬車鉄道」
(東京都平成元年刊)10頁12行目~11頁13行目に

   高輪□から筋違橋御門まで車馬の通行量が多くなり、事故も増加して危険であるので、人道と車馬
   道を区別したいが、路盤が軟弱でそれもままならない。
そこでまず道路改修を行い、その上で人道と
   車馬道の区別を立てたいが、その経費は「三厘道」(車の稼ぎ高一〇〇分の三を徴収する)という方法
   で車税を徴収して充てたい
と言うものである。この車税によって普請する予定の道筋は次のとおりで
  あった。

      外国人凡通行道

   一、高輪口ゟ大通り芝口橋ヲ渡り尾張町二町目迄

   一、尾張町ゟ京橋ヲ渡り畳町、五郎兵衛町、鍛冶橋御門迄

   一、畳町ゟ筋違橋御門迄

   一、日本橋ゟ浅草迄

                        (前同書、市街篇』第五十一、九八四頁)
    このほか、尾張町より築地ホテルまでの道路は運上所余金から、尾張町より山下御門内、芝口一丁
   目河岸通りより幸橋御門内両路、東京府前通り外務省までの道路は東京府定額金から支出することに
   している。また、鍛冶橋御門内、馬場先御門内大手までの道路「御場所柄」の所は市井とはまったく
   異なる場所であるから、大蔵省で費用を負担し、工事は東京府で行いたいとしている。
これは同年四
   月五日認められ、二五日には、道路修繕のため諸車賃銀取り入れ高のうち百分の三を車税として徴収
   する旨管内に達した。

 と書かれています。
  怪しげなノンフィクションライター諸氏は、

   「事実を書いたら誰でも同じような文章になる」

 とか、

   「資料として繰り返し見ていた結果、知らず知らずに書いてしまった」

 とか、

   「巻末に参考資料としてあげてある」

 とか、仰いますが、それは、──「政府へ建白伺願録」、『市街篇』第五十一、九八三~九八四頁──を参考資料としてお読みに
 なった上での話でしょう。

      改良する四路線を選定しましたが、東京府は、ほかにも尾張町から築地ホテルまでの道
 
     路を改良する必要があると政府に主張します。こちらの財源は、運上所余金から
捻出す
      ることになりました。
運上所とは現在でいうところの税関です。さらに東京府前通りから
      外務省までの道路など、三路線の整備計画を東京府定額金から支出する計画も立てまし
      た。
また、これとは別に、鍛冶橋御門内、馬場先御門内大手までの道路は、宮城(皇居)
      に通じる道であることから大蔵省が費用を負担し、東京府が工事を担当することが決めら
      れました。


 繰り返しになりますが、上は平成25年刊行の小川裕夫著「都電跡を歩く」の記述です。
  そして下は平成元年刊行の東京都公文書館「都史紀要33 東京馬車鉄道」調査担当白石弘之氏の記事です。

                     ……この車税によって普請する予定の道筋は次のとおりで
  あった。

      外国人凡通行道

   一、高輪口ゟ大通り芝口橋ヲ渡り尾張町二町目迄

   一、尾張町ゟ京橋ヲ渡り畳町、五郎兵衛町、鍛冶橋御門迄

   一、畳町ゟ筋違橋御門迄

   一、日本橋ゟ浅草迄

                        (前同書、市街篇』第五十一、九八四頁)
    このほか、尾張町より築地ホテルまでの道路は運上所余金から、尾張町より山下御門内、芝口一丁
   目河岸通りより幸橋御門内両路、
東京府前通り外務省までの道路は東京府定額金から支出することに
   している。また、鍛冶橋御門内、馬場先御門内大手までの道路「御場所柄」の所は市井とはまったく
   異なる場所であるから、大蔵省で費用を負担し、工事は東京府で行いたいとしている。


 これは、

   「事実を書いたら誰でも同じような文章になる」
   「資料として繰り返し見ていた結果、知らず知らずに書いてしまった」
   「巻末に参考資料としてあげてある」


 のどれに当たるんでしょうかね?

  愚生前稿
「小川裕夫さん 支離滅裂「都電跡を歩く」壱」でこう書きました。

    小ネタですが、「東京府前通り」なんて固有名詞あったんですかね?

 と。
  都史紀要を見ると「
芝口一丁目河岸通りより幸橋御門内……、東京府前通り外務省までの道路」とあります。芝口一丁目河岸
 通りは今の外堀通りの一つ北側の通で、御幸橋御門は現第一ホテル東京の東の外濠内側にありました。東京府庁は明治27年ま
 で内幸町にありましたから、この二つの道は接続していたと考えられます。また、府庁の所在明治27年までのことですから、
 「東京府前通り」は「都史紀要」執筆者東京都公文書館調査担当白石弘之氏の考究の結果の表現かと思われます。

        東京府が三厘道という税金をもって道路の改良に着手する一方、政府は明治六(一八七
       三)年に「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定します。これは馬車や人力
       車、遊船などの所有者に課税をするもので、いわゆる〝ぜいたく税〟といえます。財源不
       足に苦しんでいた政府は、
成長著しいこれらの新業種に目をつけました。
        政府が新たに課した税金の特徴は、これが道路や橋梁の修繕費や貧民教育に充てる
       目的であるならば、府県が同じような税金を制定してもよいとしていた
点です。早速、
       京府は三厘道を廃止して、政府に追随する形で新たな車税を徴収することにしています。

 

  また、以上の部分についても、「都史紀要33 東京馬車鉄道」の12頁14行目~14頁の8行目にこうあります。

    明治六年一月、僕稗馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則が制定された。これは財源不足に苦しむ政
   府が
歳入増加のため、僕稗を召し使う者や、馬車・人力車などを所有する者に課税するもので、一種
   の奢侈税であった。
この税金は「全国一般ノ税」 であって「全国ノ経費」 に支出するもの、つまり
   税であったが、
その地方限りの道路橋梁修繕費や貧民救育、小学費用などに充当するため府県におい
   て同
種の税を賦課することはかまわないとされた。
  
  右の諸税は僕婢税、車駕籠税、馬税、遊船税の四つからなっていた。このうち本書に関係のある車

   駕籠税についてみると以下のとおりである。

         
中略

    馬車・人力車・駕籠渡世の者にまで課税したのは、当時乗合馬車や人力車を利用することが僕婢を

   使用したり自家用馬車を乗り回したりするのと同じくらいにぜいたくな行為だと考えられていたこと
   を示している。
   同年七月七日、東京府は、従前の車税を廃し、大蔵省諸税規則にしたがって新たに車税を徴収する
   こととし、
以下のように達した。

         以下

  これについて、愚生は前稿「小川裕夫さん 支離滅裂 「都電跡を歩く」壱」でこう書きました。


    「三厘道」明治4年(1871年)に賦課、それから2年(足掛でも2年は2年)も経って、政府が新税なんですか?外国人だぁ、
    馬車だぁという割には道路整備えらく時間が掛かるんですね?

            ……「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定します。これは馬車や人力
            車、遊船などの所有者に課税をするもので、

     「僕婢」、「駕籠乗馬」が抜けてますけど、小川氏の書き方に従うと、

      
……『僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定します。これは下僕、婢女、馬車や人力車、
      駕籠や乗馬、遊船などの所有者に課税をするもので、

     維新政府奴隷制を認めていたんですか?「所有者に課税」って。

     
                ……いわゆる〝ぜいたく税〟といえます。財源不
          足に苦しんでいた政府は、成長著しいこれらの新業種に目をつけました。

     だから、
「僕婢」、「駕籠乗馬」の立場はどうするんですか?「成長著しいこれらの新業種」って、税創設の意図の説明、どこか
    おかしくないですか?

   
        政府が新たに課した税金の特徴は、これが道路や橋梁の修繕費や貧民教育に充てる
          目的であるならば、府県が同じような税金を制定してもよいとしていた点です。早速、東
          京府は三厘道を廃止して、政府に追随する形で新たな車税を徴収することにしています。

     得意分野が、内務省だぁ、総務省だぁと仰っているけれど、

           政府が新たに課した税金の特徴は、これが道路や橋梁の修繕費や貧民教育に充てる
          目的であるならば、府県が同じような税金を制定してもよいとしていた点です。

  
     政府と地方長官って、一体じゃなかったんでしょうか?そして、この「諸税規則」分は国税と地方税同一目的で重複課税されてなか
    ったですか?
     それに、「府県
が同じような税金を制定してもよい」って、これ特定地域課税だったんじゃなかったかな?

 
  上記小川裕夫氏の「都電跡を歩く」の該当部分は、あきらかに東京都公文書館(白石弘之氏)の「都史紀要33 東京馬車鉄道」
 の考究記述を盗用したものです。
  しかも、記事内容を改変して白石氏の考究を蔑ろにしておられる。
  それは愚生が、
前稿「小川裕夫さん 支離滅裂 「都電跡を歩く」壱」で指摘した部分

    小川氏   ……「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」を制定します。これは馬車や人力
           車、遊船などの所有者に課税をするもので、
いわゆる〝ぜいたく税〟といえます。財源不
          足に苦しんでいた政府は、

  
     白石氏   ……
僕稗馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則が制定された。これは財源不足に苦しむ政
               府が
歳入増加のため、僕稗を召し使う者や、
馬車・人力車などを所有する者に課税するもので、
               
一種の奢侈税であった。 

  のみならず、

     小川氏   ……
これが道路や橋梁の修繕費や貧民教育に充てる
          目的であるならば、府県が同じような税金を制定してもよい


     白石氏   ……
その地方限りの道路橋梁修繕費や貧民救育、小学費用などに充当するため府県におい
              て同
種の税を賦課することはかまわない

  白石氏の記事は、「貧民救育、小学費用」であり、「貧民教育」ではありません。読み違いにしても、この様なパクリは、
 白石氏の考究を毀損するものです。

  続いては、小川氏の

       人道と車道とを区別する
        もう一度、時間を明治五(一八七二)年に戻しましょう。前年に道路の改良を決定した
       東京府が、高輪-新橋-日本橋-筋違(いまの神田須田町あたり)とつづく大通りから工事
       を着手したのは、先にも述べたように、この一帯で西洋人の往来が多かったからです。
        その理由には、いくつか考えられます。貿易港として栄えていた横浜から鉄道に乗って
       東京に到着するのが新橋駅でした。そして、新橋で下車した西洋人は、築地に設けられて
       いた居留地を目指しました。繰り返しますが、横浜から鉄道に乗って到着する当時の新橋
       駅とは、現在の汐留駅近辺です。尾張町から築地ホテルまでの区間を運上所余金で整備す
       ると東京府が主張したのも、ここを西洋人が多く通行するからです。
                              (34頁3行目~11行目)

      さて、ここまで道路の改良と書いてきましたが、東京府が実施した道路の改良とは、い
     ったいどのようなものだったのでしょうか。簡単にいえば、それは人道と車道とを区別す
     ることでした。
      現在、東京に限らず日本全国において、自動車往来の激しい道路では、歩行者と自動車
     の通行部分が区別されています。江戸時代まで、人力車の通行は許可されていなかったわ
     けですから、人と車を区別する道路は必要ありませんでした。人力車や馬車が通行するよ
     うになると、歩行者の安全を確保することが求められるようになります。
      人車道区別工事は、明治六(一八七三)年四月時点で、新橋から南側の約四九〇メート
     ルが完成し、つづいて東京府は京橋以北の工事も始めます。
      人と車とを区別した道路には、文明開化によって欧米諸国から学んだハイカラな工法を
     用いていました。とはいえ、現代の感覚からすればお粗末なもので、車馬道部分に砂利を
     敷き詰め、両側に縁石を並べただけの道路です。すぐに破損し、雨が降ると沿道の民家に
     雨水が流れ込み、もっぱら市民には不評でした。そのため新しい人車道は、〝カマボコ道
     路〟と椰揺される始末でした。それでも欧米の先端技術を取り入れられた道路です。長ら
     く東京の道路は、このカマボコ道路が整備されて増えていきました。
                          (34頁12行目~35頁12行目)

 と、
  白石氏「都史紀要33 東京馬車鉄道」15頁7行目~16行目

   
人車道の区別
     東京府は、この車税によってまず高輪から新橋・京橋・日本橋を経て筋違に至る大
    通りの道路修繕及び人車道区別の工事にとりかかることにした。明治六年四月東京府
    から大蔵省への伺いには、品川より筋違まで往来雑踏の大通りは道幅平均八、九間あるので、この中
    央四間をまず車税により車馬道として整備し、左右各二間ないし二間半は地先地主の負担によって人
    道として修繕させたいとしている。
     また、このうち新橋から京橋までの区間は、明治五年二月の大火を契機に銀座煉瓦街の建築工事中
    であるので、落成のうえ修繕にとりかかりたいとしている。銀座煉瓦街は従来の道幅七間を一五間に
    拡げ、中央八間を車馬道、左右各三間半を人道とし、歩道には煉瓦を敷き詰め、車道の両側には街路
    樹を植付け、すべて欧米式の大通りとする計画であった。
     道路中央車馬道を東京府の車税負担とし、その左右人道部分を地先地主の負担とする案は認められ、

 と16頁15行目~19頁2行目(愚生の責で改行、行詰あり)

  
  明治六年四月現在の人車道区別工事の進捗状況は、新橋から南へ源助町まで二七二間半(約四九〇
    ㍍)が落成ずみで、京橋以北南伝馬町二丁目までの一八一間余(約三二五㍍)に着手中であった。源
    助町より南へ高輪までは「鉄道御開業後源助町ヨリ品川駅迄ノ間ハ、外国人馬車通路無数相成」(「太政
    
類典第二編第百七十七巻国立公文書館所蔵)、工事中止となり、主力
は京橋以北筋違までの区間に移さ
    れている。
     工事の方法は、図2のように道路中央四間幅に砂利を突きかため、両側に土留め縁石を敷き並べ
    て人道と区別するものである。砂利は六度突きかため、雨水排水に都合がよいように車道縁石の所で
    六寸五分、道路中央で一尺八寸の高さになるよう築造された。形が似ていることから俗に「カマボコ
    道路」と呼ばれた。
     人車道の区別とは言うものの、単に車馬道部分に砂利を敷き詰めただけで、排水溝の設備もない応
    
急工事であった。車馬の往来が激しい東京の道路はそれだけ破損も頻繁で、その都度土と砂利で補填

    するため、だんだんカマボコの中央が高くなり、通行は困難となって、雨の日には両側の人家に雨水
    が流れ込むなど評判は良くなかった。明治九年八月一〇目付の朝野新聞はこの「カマボコ道路」を皮
    肉って次のように述べている。

      試ニ眼ヲ東京繁華ノ街衙ニ注セヨ。道路ハ尽ク蒲鉾形二築キ、少シク損壊スレバ他所ヨリ泥土ヲ搬
     シ砂利ヲ運シテ之ニ増加シ、以テ彼ノ蒲鉾的ヲ改築スルコト一年幾次ナルヲ知ラズ。築ク毎ニ必ズ
     其地ノ高サ幾寸幾分ヲ加ヘテ左右ノ人家ハ依然タル旧日ノ水平線ニ在り、現今蒲鉾ノ最高点卜人家
     ノ床面トヲ比較セバ、既ニ大ナル高低ヲ生ゼリ。今ヨリ数十年ノ間増築猶斯クノ如クシテ止マズン
     バ遂ニ幾尺幾丈ノ差ヲ生ジ、数百年ノ後ニ及バヾ其ノ高峻ナルコト殆ド雷声ヲ行人脚底ニ聴クニ至
     ラントス。昌之ヲ畏レザル可ケンヤ。且ツ蒲鉾的ノ或ハ其ノ恰好ノ度ヲ失スルガ故ニ、其中央ヲ行
     クニ非ザルヨリハ馬車人車殆ド傾側セントスル所ロ有り。古人言ハズヤ。坦々大道卜。道ハ坦ヲ以
     テ佳トス。彼ノ蒲鉾亦甚ダ不便ナラズヤト。

     このように不評の 「カマボコ道路」 であったが、しかしこれは当時としては 「文明開化ノ本家タル
    欧米諸国ヨリ学ビタルモノニテ、道路ヲ修繕スルニ於テ重要ノ法則」 (前同書)とされ、ずいぶんハイ
    カラな工法であったのである。ちなみに、東京の道路はその後長い間このカマボコ式砂利道路のまま
    であった。市内の道路舗装が進むのは関東大震災後のことで、それ以前の旧市域における舗装状況は、
    道路総面積のわずか〇・一㌫にすぎなかったと言われている (東京市役所編『東京市土木読本』)。

    
 明治六年十二月二十一日京橋から新橋まで銀座煉瓦街の新築馬車道が完成し諸車の通行が許された。
     
翌七年二月二日には人車道の区別が立てられた。

  改めて対比する必要も無いかと思われます。省略による改竄や、誤読誤認といわれるのでしょうが、歪曲、捏造が目に余りますが、
 ご覧の通りの盗用ですね。

  まず、項題タイトルからして

        小川氏……人道と車道とを区別する

        白石氏……
人車道の区別

  そして本文はと見れば、小川氏の

      人道と車道とを区別する
      もう一度、時間を明治五(一八七二)年に戻しましょう。前年に道路の改良を決定した
     東京府が、高輪-新橋-日本橋-筋違(いまの神田須田町あたり)とつづく大通りから工事
     を着手したのは、

 この部分は、白石氏(都公文書館)の

     人車道の区別
     東京府は、この車税によってまず高輪から新橋・京橋・日本橋を経て筋違に至る大
    通りの道路修繕及び人車道区別の工事にとりかかることにした。明治六年四月東京府
    から大蔵省への伺いには、品川より筋違まで往来雑踏の大通りは道幅平均八、九間あるので、この中
    央四間をまず車税により車馬道として整備し、左右各二間ないし二間半は地先地主の負担によって人
    道として修繕させたいとしている。

  この部分のパクリですが、
  この手の方々の得意ワザ時期ボカシ、彼等にとって一般的な自己の言説に都合の好い改竄のテクニックでしょうか?

     小川氏:
明治五(一八七二)年東京府、高輪-新橋-日本橋-筋違とつづく大通りから工事を着手したのは

    白石氏:
明治六年四月東京府大蔵省へ伺い。品川より筋違まで大通り中央四間車馬道整備、…させたいとしている。

  明治5年に工事着手(小川氏)しているはずの高輪=品川-筋違間の着工申請(白石氏)が何故明治6年4月に出るんで
 しょうか?

  愚生が前稿でこう書いた、

             その理由には、いくつか考えられます。

     とお書きになっておられるんですが、理由一つしか挙げておられないようなんですけど。
     しかも、

       
   ……この一帯で西洋人の往来が多かったからです。

     の理由が、

       
   ここを西洋人が多く通行するからです。

     ということのようなんですけど。

 と書いたこの部分

                             ……、この一帯で西洋人の往来が多かったからです。
        その理由には、いくつか考えられます。貿易港として栄えていた横浜から鉄道に乗って
       東京に到着するのが新橋駅でした。そして、新橋で下車した西洋人は、築地に設けられて
       いた居留地を目指しました。繰り返しますが、横浜から鉄道に乗って到着する当時の新橋
       駅とは、現在の汐留駅近辺です。尾張町から築地ホテルまでの区間を運上所余金で整備す
       ると東京府が主張したのも、ここを西洋人が多く通行するからです。


 白石氏のこの記述を、小川氏は自らに都合よく歪曲されています。

                                                               ……源
    助町より南へ高輪までは「鉄道御開業後源助町ヨリ品川駅迄ノ間ハ、外国人馬車通路無数相成」(「太政
     
類典第二編第百七十七巻国立公文書館所蔵)、工事中止となり、主力
は京橋以北筋違までの区間に移さ
   れている。

 新橋(芝口町)まで鉄道開通後、高輪(品川)から源助町(新橋から南500メートル弱の地点)は外国人の馬車が通らなく
 なったので、ここから高輪までの道路改良は中止されたと書かれています。

      新たに財源を得た東京府は、道路を改良するための四路線を選定します。選定されたの
     は、日本橋から浅草までの区間、高輪ロから芝口橋を渡って尾張町二丁目(いまの銀座六
     丁目)付近までなど、

 とか、

      
明治五(一八七二)年東京府、高輪-新橋-日本橋-筋違とつづく大通りから工事を着手したのは

 とか、書いておられたものが、

         横浜から鉄道に乗って東京に到着するのが新橋駅でした。

 と、

                                                               ……源
    助町より南へ高輪までは「鉄道御開業後源助町ヨリ品川駅迄ノ間ハ、外国人馬車通路無数相成」(「太政
     
類典第二編第百七十七巻国立公文書館所蔵)、工事中止となり、主力
は京橋以北筋違までの区間に移さ
   れている。


 をパクッて軌道修正でしょうか。、

      
現在、東京に限らず日本全国において、自動車往来の激しい道路では、歩行者と自動車
     の通行部分が区別されています。江戸時代まで、人力車の通行は許可されていなかったわ
     けですから、人と車を区別する道路は必要ありませんでした。人力車や馬車が通行するよ
     うになると、歩行者の安全を確保することが求められるようになります。


  馬車と人力車が危険だから、人車道を分ける工事が必要だった。「歩行者の安全があぁ!」と言うのが小川氏の御説であった
 わけですが、源助町から高輪、馬車の通行はなくなっても人力車は走っていたでしょうから、人車道を分ける工事を中止しても
 良かったんでしょうか?人車道の整備、本来は白石氏(都公文書館)が書いておられるように、馬車の通行に耐え得る舗装をな

 すためだったのでしょう。
  ご自身の御説「歩行者の安全があぁ!」に都合の好い様に、明治5年にしたかったんでしょうね。鉄道開通前から、馬車の乗
 り入れは可能で頻繁であったことを誤魔化すために。時期を書き換えたってところでしょうか。
  ですのでこれも、

        小川氏: 人車道区別工事は、明治六(一八七三)年四月時点で、新橋から南側の約四九〇メート
            ルが完成し、つづいて東京府は京橋以北の工事も始めます。


     白石氏:
明治六年四月現在の人車道区別工事の進捗状況は、新橋から南へ源助町まで二七二間半(約四九〇
          ㍍)が落成ずみで、京橋以北南伝馬町二丁目までの一八一間余(約三二五㍍)に着手中であった。
              (中略)
              
主力は京橋以北筋違までの区間に移されている。

  「誰が書いても事実だから記述は同じ様になる。」と仰りたいのかも知れませんが、都史紀要がネタ元なら、記述歪曲ですし、
 誰が書いても同じになるにしろ、上記の事実を調べあげた人に対して失礼じゃあないでしょうか。出典を明らかにしなければ。

  以下は明らかにパクリです。


       小川氏: 人と車とを区別した道路には、文明開化によって欧米諸国から学んだハイカラな工法を
            用いていました。とはいえ、現代の感覚からすればお粗末なもので、車馬道部分に砂利を
            敷き詰め、両側に縁石を並べただけの道路です。すぐに破損し、雨が降ると沿道の民家に
            雨水が流れ込み、もっぱら市民には不評でした。そのため新しい人車道は、〝カマボコ道
            路〟と椰揺される始末でした。それでも欧米の先端技術を取り入れられた道路です。長ら
            く東京の道路は、このカマボコ道路が整備されて増えていきました。



      白石氏:工事の方法は、図2のように道路中央四間幅に砂利を突きかため、両側に土留め縁石を敷き並べ
         て人道と区別するものである。砂利は六度突きかため、雨水排水に都合がよいように車道縁石の所で
         六寸五分、道路中央で一尺八寸の高さになるよう築造された。形が似ていることから俗に「カマボコ
         道路」と呼ばれた。
          人車道の区別とは言うものの、単に車馬道部分に砂利を敷き詰めただけで、排水溝の設備もない応
             
急工事であった。車馬の往来が激しい東京の道路はそれだけ破損も頻繁で、その都度土と砂利で補填

         するため、だんだんカマボコの中央が高くなり、通行は困難となって、雨の日には両側の人家に雨水
         が流れ込むなど評判は良くなかった。明治九年八月一〇目付の朝野新聞はこの「カマボコ道路」を皮
         肉って次のように述べている。

         (朝野新聞記事 中略)

          このように不評の 「カマボコ道路」 であったが、しかしこれは当時としては 「文明開化ノ本家タル
         欧米諸国ヨリ学ビタルモノニテ、道路ヲ修繕スルニ於テ重要ノ法則」 (前同書)とされ、ずいぶんハイ
         カラな工法であったのである。ちなみに、東京の道路はその後長い間このカマボコ式砂利道路のまま
         であった。


  さて、前稿で愚生は、
この部分について、

 
      人と車とを区別した道路には、文明開化によって欧米諸国から学んだハイカラな工法を
      用いていました。とはいえ、現代の感覚からすればお粗末なもので、車馬道部分に砂利を
      敷き詰め、両側に縁石を並べただけの道路です。


  馬鹿なのか?

  
     車馬道部分に砂利を敷き詰め、両側に縁石を並べただけの道路です。

  それが、


       欧米諸国から学んだハイカラな工法

 の正体ですか?

       
車馬道部分に砂利を敷き詰め、

 たら、車輪が砂利で空回りして取られるは、轍は出来るは、到底馬車も人力も走れたもんじゃない。
  何故、

       人道と車道を区別

 したのか?単に危険だからではない、車道人道それぞれに適した舗装が必要だったからじゃないの?車道は車馬の往来に耐えられ
 るように。馬車で1トン以上、馬一頭でも500キログラムそれが関東ローム層の上や、砂を撒いた広小路を走れますかってんだ。
  荷重に耐えられる路床、路盤、路面それが、

       欧米諸国から学んだハイカラな工法

  マカダム式舗装、砕石舗装、さ・い・せ・き・ほ・そ・う、じゃ無いんですか?

 と書きましたが、「都史紀要」には当該舗装の図が17頁に示され、マカダム式舗装についての記述が別項108頁にあり、この
  「ハイカラな工法」は路床、路盤を設けるなど洋式舗装ではあったものの、マカダムではなく砂利舗装だったと書かれていました。
  併せて、補足しておきます。

                                                                           OP.2013.09.13