地下妄の手記

男子三日逢わざれば…。小川裕夫さんは御変わり無く(笑

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   雑事が重なり、秋庭さん、梅原さん、小川さんと言った皆様の事どもについてはなかなか追う事が難しくなっておりますが、適宜に続けたいと思っております。
   最早旧聞に属しますが、2014年8月21日午後7時よりのBS日テレ(衛星放送)「緊急潜入!誰も知らない巨大地下 東京」に何と秋庭俊氏が!
 何年振りでしょうか生存を確認させていただきました(笑
  しかし、還暦前のはずの同氏、どう見ても70歳過ぎにしか見えなかったが…。ご苦労をされてるんでしょうか。まぁ、捏造作家の身から出た錆び。日テレも
 当たり障りの無い構成にしてたけど、何で使うかなあ。バラエティーとは言え。
  これも旧聞になってしまいましたが、秋庭さんに近著も無く、種々の慌しさの中で、しばらく小川氏「都電跡を歩く」に関しては手が付けられなかった中、性懲りも無く2014年3月末にこんな物を彩図社さんから上梓されたり。

                  

  同年8月には、株式会社イースト・プレスさんから、こんな本を出されたり。ご盛業ですなあ、パクリも、と言うことのようです。

                 

 上記「鉄道王たちの近現代史」、実は「鉄道王」とは、我が国鉄道史にエポックを劃した人達を皆「鉄道王」にしちゃうと言う、関西テレビ月曜~金曜朝9時50分からの「よーいドン『となりの人間国宝さん』」、毎日ほぼ2人が「人間国宝さんに」認定されてしまう、彼の番組の斯くや
な「鉄道王」大認定大会。それも斯界に於いて著名な方を「何だかなぁ」な小川裕夫俺様認定何等根拠無しで決めておられて載せておられるんですが。
  まぁ、こんな感じです。

                

  「フロム・ファイブ」って、井上勝1997年に細川護煕氏等と語らって、新党結成したのか知らん。
  それを仰るなら「長州ファイブ」とかじゃないんでしょうか。まぁ、この「長州ファイブ」ってのも近年出来合いの胡散臭い用語ではありますけど。

  さて、慌しさも一寸手が空いて、小川さんについては本来なら、ちっとも歩いておられない「都電跡を歩く」の第一章の残り位は片付けて置きたいところなんですが、秋庭さんと言い、梅原さんと言い、小川さんと言い、兎に角下手をすれば一行毎に突っ込みを入れなければならなくなる様な「ジャーナリスト」さんのお相手をさせて頂いている身としては、間を空けるとペースを戻すまでが一寸シンドイので、肩慣らしとして「都電跡」とも係わりが出てきますので「鉄道王たちの近現代史」について断章的に本項で突っ込みを入れて見ました。
  
  でっ、この井上勝の項「鉄道王」とは何か、言ってみれば定義について、小川さんいつも通りにアヤシイ日本語で、独りでお相撲をとって居られるんですが、

    鉄道王を取り上げる本書では、私鉄の経営者が多く登場する。井上は「鉄道は国有であ
    るべき」と一貫して主張していたから、〝鉄道王〟として取り上げるにはふさわしくない
    と感じるかもしれない。しかし、〝日本の鉄道の父〟とまで呼ばれるはど鉄道に一生を捧
    げた井上は、まさに鉄道王と呼ばれるのにふさわしい人物といえる。

 何なんでしょうねこのヘタな独りボケ・ツッコミは(笑
  
  何だか、薬師寺の管主さんの名科白「貴方も菩薩、私も菩薩」みたいな、「あの方もこの人も鉄道王」、そんな視点で本邦鉄道の近現代史を騙ろうと言う御本なのですね、「鉄道王たちの近現代史」は。
  「騙ろう」と書いて差し上げたのは、お書きになっていることが、間違いと申しますか、嘘八百と申しますか、余所様のオリジナルな省察や、歴史の検証をパクッてこられて、しかも多くがその事実関係を誤っていたり、勝手に改変されている。一番顕著なのがあのwikipedia。よりによって大学生ならレポートや論文で当てにならないから、絶対参酌してはならないと言われるあのwikipediaから「著作権フリー」を勘違いして複製し、かつ、中途半端に牽いて来るので、偶さかに正しいwikipediaの記述を一人合点で勝手に改変して間違えると言う、最早芸としか言いようのない泥棒ワザを展開されておられると言うことです。
  さあ、項順としては順不同となりますがまずは、自著から牽いても牽きがおかしい編。「鉄道王…」の28頁「最初に鉄道に着目した高島嘉右衛門」の項から見ていきましょうか。

     現在、高島は高島易断の創始者として世間に知られている。しかし鉄道史にも大きな
    功績を残している。たとえば東海道本線を建設するにあたって自分の土地を無償提供し、
    その地には高島にちなむ高島町駅がつくられている(のちに横浜駅の移転により国有鉄道
    の駅としては廃止)。

 と書いておられます。
  ところで、「都電跡を歩く」46頁9行目~12行目には

      貿易商だった高島は、先見の明のある人物でもありました。彼は、新橋-横浜間に鉄道
     が開業した際、横浜駅(いまの桜木町駅)付近の埋め立てを請け負った実績があります。
     しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。高島は単なる利益優先の商人ではあ
     りませんでした。

 斯様にお書きあそばされているのですが。
  現在の横浜市西区高島のいわれについてお書きのつもりなんでしょうか。どちらにもと言うか、同じ小川裕夫著なのに相反する記述になっていますね。
 「都電跡を歩く」では、

              横浜駅(いまの桜木町駅)付近の埋め立てを請け負った実績があります。
              しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。

とされている、高島が請け負った埋め立て(入浜の築堤工事)の場所は、

              横浜駅(いまの桜木町駅)付近

 ではありません。

    今の横浜駅付近です。

すなわち新橋-横浜間鉄道開業当時の、

    初代横浜駅(いまの桜木町駅)、

 は当時の開港場、横浜居留地の北側、「今の横浜駅」の約2km南に位置していました。だから、根岸線の桜木町の次駅が「関内」、開港場横浜への関門の内側なのですが。
  一体何の本からの受け売り、パクリなんでしょうか?

              しかも、その工事は損得抜きでおこなわれたのです。高島は単なる利益優先の商人ではありませんでした。  

  損得抜きで請け負った結果、埋め立て部分の線路用地以外9割程度の部分全てが高島に下げ渡しとなっていて、一般に高島の地名が
 埋め立ての功績に由来するものとされていますが、高島の土地に他に名付け様も無くって言うのが実際じゃないかと思われるんですが。
  また、高島嘉右衛門は開港場横浜(居留地)内外に多くの施設や権益を持っていたのではなかったのでしょうか?
  一方「鉄道王…」では、「入り浜の築堤工事」の部分位置関係は

              その地には高島にちなむ高島町駅がつくられている(のちに横浜駅の移転により国有鉄道
              の駅としては廃止)。

 と微妙な正解が書かれているのに、この部分は

              たとえば東海道本線を建設するにあたって自分の土地を無償提供し、

 と、逆でしょ、埋め立て工事を請け負って線路用地以外の埋立部分の9割が高島に御下げ渡しになった訳ですから。
  高島嘉右衛門。まあ、これはたいした話じゃないけれど。
  小川裕夫さん、
調べない、確認しない、偉人は自分の都合でネームドロッピング。秋庭さんや梅原さんと本当に同類なんですね。

  おまけに小川さん、秋庭さんと同じ様に自分の過去記事を劣化コピー、いわゆる駄ビングもされるんですね。いやほんと小川さんって、秋庭さんの
 ソックリさん。

  高島嘉右衛門つながりでこんなのもあります。──鉄道王たちの近現代史 第一章 鉄道王がつくった「この国のかたち」57頁8行目~61頁3行目

            大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄
            先述した上野駅と上州、東北地方を結んだ日本鉄道は民間資本で建設されている。その
            ことから日本鉄道が日本初の私鉄と思われがちだが、日本鉄道より早く誕生した私鉄があ
            る。それが明治一五(一八八二)年に運行を開始した東京馬車鉄道だ。
             明治五(一八七二)年八月、つまり新橋駅―横浜駅が開業する直前に日本で初めて馬車
            鉄道の計画が持ち上がる。
             申請書を受理した大隈重信は馬車鉄道の計画に乗り気だった。大隈はお雇い外国人の
            フォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。そして馬車鉄道が有望な交通機関であるとの
            調査報告を受けて、大隈は馬車鉄道運行に関する規則を制定した。
             現在、日本国内に馬車鉄道は営業運転していない。そのため馬車鉄道という言葉は死語
            と化し、いまでは馬車と馬車鉄道とを同じような乗り物と考えるかもしれない。
             従来の電車は電気を動力にしているが、馬車鉄道は文字どおり動力を馬に依存している。
             線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。馬車鉄道
            は馬車とも異なり、線路の上しか走ることはできない。他方で馬車より輸送力か大きいの
            で公共交通としてすぐれていた。
             馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。林は馬車鉄道の開業を
            申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
            悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられるこ
            とになった。
             高島は馬車鉄道計画を提出したが、東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。
            これらの反対で、東京における馬車鉄道計画はそのまま潰えた。                                 
              明治一三 (一八八〇) 年、再び東京で馬車鉄道計画が浮上する。今度の申請者は種田
            誠一と谷元道之を中心としたメンバーだった。種田と谷元はともに鹿児島県出身だったが、同
            じく鹿児島出身で大阪財界の風雲児として台頭してきた五代友厚が二人の資金を援助して
            いた。五代は関西を地盤にしていたので、種田と谷元の二人に東京の事業を任せたと思わ
            れる。
             五代は関西では阪堺鉄道(現・南海本線)の開業にも寄与し、「東の渋沢(栄一)、西の五代」
            と並び称される実業家だった。しかし、五代は商人としての顔だけでほなく大阪株式取引所
            (現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪
            市立大学)などを設立するなど、決して利益だけを追求したビジネスマンではなかった。
             東京府知事の松田道之は都市交通の整備をする必要性を感じていたことから、種田と谷元
            の馬車鉄道開業申請を許可した。
             明治一五年、馬車鉄道は開業。東京馬車鉄道は総延長約二・五キロメートル、新橋-日本
            橋間という小さな規模だったが、順調に客を増やして路線も延びていった。しかし、社会環境は
            目まぐるしく変わっていた。
             明治時代には公衆衛生という概念が社会に浸透してきていた。馬車鉄道ほ馬の排泄物が
            路上に放置されるなど不衛生だった。世の中は急速に馬車鉄道を嫌悪し、代わって電車が
            新時代の公共交通機関として注目される。
             そこで東京馬車鉄道は明治三六(一九〇三)年に動力の変更を行い、馬車鉄道から電気
            鉄道へと姿を変える。同時に社名も東京電車鉄道に改称した。
             東京電車鉄道を皮切りに、東京市内にほ東京市街鉄道、東京電気鉄道が運行を開始
            し、東京市内のあちこちに線路が敷設されることになった。三社の鉄道会社は、明治三九
            (一九〇六)年に合併して東京鉄道として再出発する。しかし、合併したのも束の間、明治四四
            (一九一一)年には東京市に買収されて東京市電になった。東京市営になったことで私鉄では
            なくなったのである。
             長らく東京市電として親しまれた東京の路面電車は昭和一八(一九四三)年に東京都制
            が施行されるにともない、東京都電車(都電)へと名前を変えている。

  実は以上の件は、「都電跡を歩く」44頁11行目~47頁12行目の項題「否定された馬車鉄道計画」から、51頁6行目~52頁9行目項題「都電の礎
 までの劣化コピーです。しかも、この「都電跡を歩く」の項題記事群は、

   平成元年刊行の東京都公文書館「都史紀要33 東京馬車鉄道」調査担当白石弘之氏

 からの想像を絶するパクリから成り立っていて、その無断複製には小川裕夫氏の妄想と言うか、インチキとしか言いようのない間違いが含まれているのでした。
 まあ、その辺り詳細の検証は別途「都電跡を歩く」の4稿目で新にさせていただくこととして、上記「大阪資本が東京で作った日本初の私鉄」について本稿では検証して行こうと思います。


  そこで、上記の文章をまずは一通り読んでいただきましょう。
  何だか訳の判らない、何が本旨で何が仰りたいのか、日本語として皆目わからない文章なのですが。整理してみましょう。

  まず項題、「大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」はひとまず措くとして、

            先述した上野駅と上州、東北地方を結んだ日本鉄道は民間資本で建設されている。その
            ことから日本鉄道が日本初の私鉄と思われがちだが、日本鉄道より早く誕生した私鉄があ
            る。それが明治一五(一八八二)年に運行を開始した東京馬車鉄道だ。

 私設鉄道「日本鉄道」の明治16年(1883年)開業より早く、明治15年に東京馬車鉄道が開業したというエピソード、これが項題に沿った記述で完結しているところに、突然10年時間が遡ります。

              明治五(一八七二)年八月、つまり新橋駅―横浜駅が開業する直前に日本で初めて馬車
            鉄道の計画が持ち上がる。

こう繋いで、馬車鉄道の沿革を辿ると言う意図かも知れませんが、上記二行以下の部分は、項題から孤立したエピソードであり、本項では不要でしょう。

             明治五(一八七二)年八月、つまり新橋駅―横浜駅が開業する直前に日本で初めて馬車
            鉄道の計画が持ち上がる。
             申請書を受理した大隈重信は馬車鉄道の計画に乗り気だった。大隈はお雇い外国人の
            フォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。そして馬車鉄道が有望な交通機関であるとの
            調査報告を受けて、大隈は馬車鉄道運行に関する規則を制定した。
             現在、日本国内に馬車鉄道は営業運転していない。そのため馬車鉄道という言葉は死語
            と化し、いまでは馬車と馬車鉄道とを同じような乗り物と考えるかもしれない。
             従来の電車は電気を動力にしているが、馬車鉄道は文字どおり動力を馬に依存している。
             線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。馬車鉄道
            は馬車とも異なり、線路の上しか走ることはできない。他方で馬車より輸送力か大きいの
            で公共交通としてすぐれていた。
             馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。林は馬車鉄道の開業を
            申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
            悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられるこ
            とになった。
             高島は馬車鉄道計画を提出したが、東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。
            これらの反対で、東京における馬車鉄道計画はそのまま潰えた。  

 でも、何故書いたのか。 それは、この文章が小川氏のこれに先駆ける、「都電跡を歩く」の項題「否定された馬車鉄道計画」の劣化コピーであり、その「否定された馬車鉄道計画」以降項題「都電の礎」までは、平成元年刊行の東京都公文書館「都史紀要33 東京馬車鉄道」(調査担当白石弘之氏)からの盗用だからです。盗用なので、自分の記事として整理できず、かつそれを引用ですと誤魔化すために、怪しげな解説を入れたり、おかしな書き換えをしておられるからです。

  まず、


              明治五(一八七二)年八月、つまり新橋駅―横浜駅が開業する直前に日本で初めて馬車
            鉄道の計画が持ち上がる。


この部分は、都史紀要33の49頁に

    馬車轍路規則
     我が国最初の馬車鉄道が計画されたのは明治五年(一八七二)のことであった。この年八月、林和一なる人物が東京府
     を経て政府に馬車轍路敷設願を提出した。この出
願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費
    積」(「明治七年公文録」、国立公文
書館所蔵)によれば、
……以下略


 とあります。「都史紀要33 東京馬車鉄道」は歴史の経緯を書いた書籍ですので、事実は発生順に書かれています。ですから、
 上記は49頁にあり、小川氏が冒頭に書いている、

 
                               …日本鉄道より早く誕生した私鉄があ
            る。それが明治一五(一八八二)年に運行を開始した東京馬車鉄道だ。 

 は、都史紀要58ページ末に

      2 東京馬車鉄道会社の設立

         出願
      高島嘉右衛門の馬車鉄道計画が却下されてから五年後の明治一三年、再び東京の目抜き通り
     に鉄道馬車を走らせようという計画が持ち上がった。同年二月二三日、東京市街馬車鉄道建設
     発起人種田誠一ほか三名から松田道之東京府知事に対して以下のような願書が提出された。

 にあります。
  もちろん、これらの中で、事実の部分は原資料に当たったならば(パクリで当たって無くともそう主張すれば)、誰が確認しても同じになりますから、それだけでパクリとは言えません。
 しかし、
内容的にも、表現的にも小川氏が旧内務省だの、総務省だのを専らとするライターさんなら、

             申請書を受理した大隈重信は馬車鉄道の計画に乗り気だった。大隈はお雇い外国人の
            フォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。そして馬車鉄道が有望な交通機関であるとの
            調査報告を受けて、大隈は馬車鉄道運行に関する規則を制定した。

 と言う書き振りはおかしいのです。大隈重信はどう言う立場で申請書とやら言うものを受理したのでしょうか。実は、「都史紀要33 東京馬車鉄道」には経緯がきちんと書いてあります。


  ここは、「都史紀要33」の50頁に、

     政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、六年一〇月一四日、
    太政大臣三条実美に、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サ
    レハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書)として、まず精密な馬車轍路規則を制定し、それに基づいて再
    度出願させることにしたいと伺い出ている。これは同年一一月八日認められた。

 と書かれています。まぁ、パクリと言うか、パクって歪曲ですね。

       小川氏:
申請書を受理した大隈重信は馬車鉄道の計画に乗り気だった。
       白石氏:
政府はこの計画に乗り気で、これを主管した大蔵省事務総裁参議大隈重信は、

 「乗り気」この部分は、事実と言うより、資料に基づいた著者の推測部分です。普通一致はしない言葉です。そして小川さんは、何故「乗り気」と判じたのかの説明をしていませんが、白石氏の方は、大隈の「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サレハ他ノ障碍亦少シトセス」(前同書=「明治七年公文録」、国立公文書館所蔵)の前段を基に「乗り気」を説明しておられます。

 そしてこの部分

                                                 …大隈はお雇い外国人の
            フォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。そして馬車鉄道が有望な交通機関であるとの
            調査報告を受けて、大隈は馬車鉄道運行に関する規則を制定した。

   は、「都史紀要33 東京馬車鉄道」の50頁にその実際が書かれています。

      大蔵省では、土木寮のオランダ人お雇い工師フォン・ドルーンに諸外国の事情を調査させた上で馬
      車轍路規則案をまとめ、七年二月一四日太政大臣の許可を得ている。

 奇妙なことには、上記の内容は「こと」の順序が違いますし、「こと」の内実も異なります。

      小川氏  1.大隈はお雇い外国人のフォン・ドルーンに馬車鉄道の調査を依頼。
             2.馬車鉄道が有望な交通機関との調査報告を受ける。
             3.大隈は馬車鉄道運行に関する規則制定。

      白石氏  1.大隈、太政大臣に説く、馬車轍路は「公私ノ便益ニ属シ、至極ノ良挙卜存候へ共、其施設ノ法宜ヲ得サレハ
          他ノ障碍亦少シトセス」)

             2.大蔵省では、土木寮のオランダ人お雇い工師フォン・ドルーンに諸外国の事情を調査させた
             3.大蔵省では、車轍路規則案をまとめ、七年二月一四日太政大臣の許可を得ている。


 2014年刊の小川氏に対し、1989年刊の白石氏、この白石氏がまとめられた「都史紀要33 東京馬車鉄道」以降に小川氏は何か新資料を発掘されて、白石氏の経緯と異なった経緯をお書きになられたのでしょうか。違いますよね。根拠を示した見解に対して、根拠を示さずに同じ見解が書ける理由。そして、当時の政策決定のルールを背景に示された白石氏の経緯記述と、それを誤読して事実関係を捏造した経緯記述の小川氏。他者の事跡を盗用するだけでなく、自分の都合に合わせて書き換える。検証せずに誤読もしくは意図しての捏造を己が確認した事実の如く書く。酷いものです。

             現在、日本国内に馬車鉄道は営業運転していない。そのため馬車鉄道という言葉は死語
            と化し、いまでは馬車と馬車鉄道とを同じような乗り物と考えるかもしれない。
             従来の電車は電気を動力にしているが、馬車鉄道は文字どおり動力を馬に依存している。
             線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。馬車鉄道
            は馬車とも異なり、線路の上しか走ることはできない。他方で馬車より輸送力が大きいの
            で公共交通としてすぐれていた。

  ここの元は、「都電跡を歩く」の「否定された馬車鉄道計画」からの小川氏自著コピーですが、元が悲惨

              馬車鉄道という用語は、いまや死語になっていますので、すこし説明が必要かも知れま
            せん。これは、道路上を自由に往来する、いわゆる馬車ではありません。馬が引っ張る客
            車は、道路に敷設された線路の上を走ります。電車の動力源が電気であるように、馬車鉄
            道は馬力で動かす鉄道です。そのため、一般的な馬車とは異なり、線路の上しか走ること
            ができない、現代の感覚からすると不便な乗り物です。

 を通り越して滑稽なものでしたので、見方によっては大分良くなっているのですが、なお、


             現在、日本国内に馬車鉄道は営業運転していない。そのため馬車鉄道という言葉は死語
            と化し、

 歴史上で術語的に使われる名詞を死語と言って良いものか、なお疑問は残りますが、「言葉」は、「用語」よりはましかも知れません。しかし、

              従来の電車は電気を動力にしているが、

「従来」の電車も、現行の電車も、「電気を動力にしている」、正確には電気を動力源としている、訳ですが、いつも通りにおかしな日本語、これ何とかならないんでしょうか。
  
                                    …馬車鉄道は文字どおり動力を馬に依存している。

  「馬車鉄道」何か他に依存できる動力があるんですか。

              線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。

 言わずもがななこの「線路の上を車両が走るという点では電車と変わらないものの、馬が車両を引く。


                                                           …馬車鉄道
            は馬車とも異なり、線路の上しか走ることはできない。

 何なのでしょう。「馬車」鉄道と書いてあるから馬車じゃあないんですか。線路の上を走る馬車だと思うんですが。この部分どう読んでも、「馬から落馬」、「余談の話」。同じことを続けて書いてるだけではないでしょうか。

  次の記事も当然、

             馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。林は馬車鉄道の開業を
            申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
            悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられるこ
            とになった。
             高島は馬車鉄道計画を提出したが、東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。
            これらの反対で、東京における馬車鉄道計画はそのまま潰えた。


 再度置きますが、白石氏=「都史紀要33 東京馬車鉄道」49頁から、この記述をパクって来ています。

    馬車轍路規則
     我が国最初の馬車鉄道が計画されたのは明治五年(一八七二)のことであった。この年八月、林和一なる人物が東京府
     を経て政府に馬車轍路敷設願を提出した。この出
願書類は未見だが、六年五月二日林の提出した「轍路馬車仕様並入費
    積」(「明治七年公文録」、国立公文
書館所蔵)によれば、
……以下略

          小川氏:明治五(一八七二)年八月、…中略…馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。
          白石氏:明治五年(一八七二)のことであった。この年八月、林和一なる人物が東京府を経て政府に馬車轍路敷設
           願を提出した。


  「林和一という人物」(小川氏)、「林和一なる人物」(白石氏)。そして、白石氏=「都史紀要33 東京馬車鉄道」には、ご丁寧にも

      この出願書類は未見だが、

 とあります。小川氏は何を以って、

         明治五(一八七二)年八月、…中略…馬車鉄道の営業許可を申請したのは林和一という人物だった。


 と確認されたのでしょうか。出願書類の複製でもご覧になったんでしょうか。どうして解ったんですか。
  この部分について、

                                                …林は馬車鉄道の開業を
            申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
            悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられるこ
            とになった。

 都史紀要にはどう書かれているか、

    紀要55頁

        高島嘉右衛門と馬車鉄道
     出願人の林和一へは、右の規則に基づいて更に車路建設の道筋を詳細に
     取調べ、絵図面を添えて願い出るように達したところ、同年(明治七年)
     六月、林から「今般御規則等御下ケ相成、奉拝見候処、微力之私迚も成功無覚束懸念仕候」(前掲「明
     治八年公文録」)として御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高
     島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。

  パクリと歪曲と言うか、改竄ですね。

         小川氏:……
林は馬車鉄道の開業を申請したが、政府から計画書を提出するように命じられると、自分の手に余る事業だと
                 悟って辞退する。林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられることになった。
         白石氏:……出願人の林和一へは、右の規則に基づいて更に車路建設の道筋を詳細に取調べ、絵図面を添えて願い出る
                 ように達したところ、同年(明治七年)
六月、林から「今般御規則等御下ケ相成、奉拝見候処、微力之私迚も
                 成功無覚束懸念仕候」(前掲「明
治八年公文録」)として御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった
                 神奈川県横浜入船町二〇番地高島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。

 
  何処をどう捻ったら、白石氏の

     ……御免願い出、且つ事業は同人の身元請人であった神奈川県横浜入船町二〇番地高島嘉右衛門が引き継ぐ旨申し出たのである。

 から、こんな唐突な記述が引っ張り出せるんでしょうか?

                 林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられることになった。

  何で高島嘉右衛門が新たに担当させられることになったのか、小川氏説明無しです。
  流れから言って、「林和一なる人物が」は高島のダミーって含みが白石氏にはあるように思えるのですけど、少なくとも身元請人と
 言うことは、後で示しますが東京馬車鉄道の種田、谷本の後ろ盾が五代であったように、林の後ろ盾として高島がいて、

            
林の代わりに高島嘉右衛門が東京の馬車鉄道を新たに担当させられることになった。

 訳ではないんじゃないんですか?元々高島の起業という話だったんでしょ。

  この部分も唐突で、
 

             高島は馬車鉄道計画を提出したが、東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。
            これらの反対で、東京における馬車鉄道計画はそのまま潰えた。


 何で、「東京府知事の大久保一翁は馬車鉄道計画に反対した。」のか。「これらの反対で、」とは大久保一翁以外の誰かなのか。

 小川氏が説明できていないことが、白石氏の「都史紀要33 東京馬車鉄道」に説明されています。

   紀要56~58頁

      高島の願書は、七年六月一四日、東京府知事大久保一翁を経て内務省(所管が大蔵省から内務省へ
     代わった)へ進達されたが、その際大久保は「御指揮中一般之洪益ハ暫ク置、新橋・京橋中間ヲ除ク
     之外市街道路狭隘ニシテ未轍路等之設置方ハ如何可有之哉」(前同書)と意見を付し、道路監督者の立
     場から馬車鉄道の敷設に反対の意向を表明した。
      大久保は更に同年九月一四日、内務省の尋問に対し、旧町会所積金を原資として当時府下の道路修
     繕事業を行っていた会議所の意見を添えて、「本町三丁目より浅草広小路迄実地道幅、掛ニ於而検査及
     ニ、狭キハ四間壱尺、或ハ五間三尺之場所も有之、因而轍路等取設候ハ、多少迷惑相生シ可申」(前同
     書)と答え、内務省の再考を促している。大久保が参考のため内務省へ提出した会議所の意見は次のよ
     うなものだった。
      高島屋嘉右衛門馬車轍路取設度願書并右書類御下渡ニ付、及評議候処、於御府御伺案之通規則方法
      等ハ差支も無之候得共、京橋以南ハ格別、日本橋通、本町通之道幅未タ取広無之候間、道路中央ニ
      轍路相通シ無間断往来仕候様ニ而ハ、殊ニ薄暮老人小児歩行ニ難渋可仕、街路広闊相成候迄見合候
      様仕度奉存候也。
       明治七年八月十二日
       会議所 印
       御掛御中

                                               (前同書)

     Ⅰで述べたように、この年府下目抜き通りの人車道区別工事が一応完了し、八月には千里軒の二階
    建馬車二輌が新橋・浅草間の往復を始め、乗合馬車時代の幕開けを告げていた。しかし、道幅は依然
    として狭く、単に車道部分に砂利を敷き詰めた程度の道路修築では本格的な馬車交通には充分ではな
    く、千里軒の大馬車は開業直後から相次いで事故を起こし、九月には早くも二階建馬車が禁止される
    ありさまであった。
     こうした状況のもとで、道路上にレールを敷設し、千里軒の大馬車よりも更に大型の馬車を走らせ
    ることに、府知事が強い危倶の念をいだいたのも無理からぬことであったと言える。
     これに対して内務省の見解はきわめて楽観的なものであった。七年一〇月一二日付で内務卿伊藤博
    文が太政大臣三条実美へ提出した馬車轍路敷設許可に関する伺書には次のように述べられている。
     人家稠密之市街道路改正之挙ハ、於政府数百万金之鉅額ヲ費スニ非サレハ幾年ヲ経ル共其期有之間
     敷、既ニ千里軒大馬車ノ如キ、其他是ニ類スル馬車と雖モ通行被差許候上ハ、唯此議之紛紜スル所
     以馬車通行之可否ニ非スシテ、轍軌ヲ設タルト不設とニ有ルノミ。畢竟轍軌アレハ順行シ、轍軌ナ
     ケレハ漫行ス。然ラハ則轍軌ヲ設クルハ都而危険之予備ニ可有之、尤道幅八間以上ノ所ノミ往復轍
     軌ヲ設ケ、其他狭少之処ハ単轍軌相設候ハ、他ノ差支有之間数、殊ニ轍軌上右馬車往復間ハ他ノ車
     馬縦横通行ヲ得候儀ニ付、前件同府申立も有之候ヘ共、右ハ一般之洪益相成候儀ニ而、営業之儀ハ
     廿五ケ年間別紙方法之通賃銭取立、貢税并在来道路修繕、上水伏替等之節入費出金等規則約定之通

     ニ而不都合も無之ニ付、願之趣ハ前書之通築造候積ヲ以許可致と存候。
                                                    (前同書)

   
 正院は高島の願書を審査した結果、内務卿の上申どおり馬車轍路の敷設を許可することとして、七

   年一二月その指令文を起案したが、太政大臣の決裁を得ることが出来なかった。そこでやむをえず起
   案しなおし、半年後の八年五月二四日「伺之趣難聞届候事」と却下の指令を下したのである。却下指
   令の起案文中に「右ハ(馬車鉄道敷設のこと)目今容易御指揮不相成方可然歟」とあり、政府高官た
   ちの中に馬車鉄道敷設に対する根強い慎重論があったことをうかがわせる。千里軒の大馬車による事
   故の続発が政府首脳の間にこの慎重論を呼び起こしたものと思われる。
    高島の馬車鉄道計画は、こうしてついに日の目を見ることなく終わった。以後東京の目抜き通りで
   は、人力車とガタ馬車の黄金時代がしばらく続くのである。

 小川氏は長い記述なので省略しました。とでも仰りたいのかも知れませんが、何故反対があったのかは等閑にできないんじゃないかと思います。パクルならちゃんとパクリましょうね。出典を明らかにすれば、ここまで要約しても引用でおさまるのですから。

  いよいよ、「大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」の根拠部分の記述です。

              明治一三 (一八八〇) 年、再び東京で馬車鉄道計画が浮上する。今度の申請者は種田
            誠一と谷元道之を中心としたメンバーだった。種田と谷元はともに鹿児島県出身だったが、同
            じく鹿児島出身で大阪財界の風雲児として台頭してきた五代友厚が二人の資金を援助して
            いた。五代は関西を地盤にしていたので、種田と谷元の二人に東京の事業を任せたと思わ
            れる。

  まず、

             五代友厚が二人の資金を援助していた。

 根拠は何でしょうか。何処に記録があるのでしょうか。

             種田と谷元の二人に東京の事業を任せたと思われる。

 と言う事なら、五代は明治18年(1885年)に亡くなっていますので、明治15年に盛大に挙行された東京馬車鉄道の開業式に列席していたかと思うのですが、その様な記録は何処かにあるのでしょうか。
  上記の元ネタは、当然東京都公文書館調査担当白石弘之氏「都史紀要33 東京馬車鉄道」からのパクリですし、その後の東京馬車鉄道開業の経過も白石氏からのパクリです。「都史紀要33 東京馬車鉄道」62頁に、「五代友厚伝」(五代龍作編)からの引用があります
が、小川氏の話とはまるで違います。

   この馬車鉄道は、鹿児島出身の種田誠一と谷元道之が、同郷の先輩であり、財界の重鎮であった五
  代友厚の後楯を得て計画したものである。『五代友厚伝』はその間の事情を次のように伝えている。

     明治十二年の交、薩摩の人種田誠一、谷元道之の二名は、官命を帯びて欧米各国を視察するや、
    到る処の都市に馬車鉄道の開通せるを見て深く感ずる所あり、帰朝後幾もなくして官を辞し、東京
    に馬車鉄道会社を創設せんとし、種々奔走する所ありしも、未だ其の力の足らざるを感じ、郷里の
    先輩にして財界の雄たる君に謀りて之れが達成を図らんとし、相伴ふて大阪に至り、君に会して会
    社の計画内容を示し、切に其の発起人たらんことを請へり。
     当時君は、都市に於ける交通機関の発達、改善方に関し、種々考慮せる折柄なりしを以て、両人
    の示せる計画書を見るに及むで大に喜び、直ちに之を諾すると共に、或は両人を各方面に紹介し、
    又は自ら東西に奔走して活動を開始し、機熟して其の計画を発表し、発起人の筆頭に君の名を掲げ
    て株式の募集を開始するや、忽ちにして申込者殺到し、僅に両三日にして之を締切るの盛況を見る
    に至れり。
                                    (五代龍作編『五代友厚伝』)

  当時東京より大きな経済力を持っていた大阪で、薩摩出身で明治政府の行政官から経済開発の事業家に転じた五代が、

    発起人の筆頭に君の名を掲げて株式の募集を開始するや、忽ちにして申込者殺到し、僅に両三日に
    して之を締切るの盛況を見る
に至れり。

 だからと言って、

    両人を各方面に紹介し、又は自ら東西に奔走して活動を開始し、

 募集がわずか「両三日」で締め切れるとなれば、五代以上に資金を出した金主、出資者、投資家が多々いるわけで、「自ら東西に奔走して」とある様に、五代以外の出資者も大阪の資本家とは限りません。

            五代は関西を地盤にしていたので、

 とか、

             五代は関西では阪堺鉄道(現・南海本線)の開業にも寄与し、「東の渋沢(栄一)、西の五代」
            と並び称される実業家だった。

 とか書かれても、小川氏は何等具体的に「大阪資本が乗京でつくった」ことを論証しておられないのです。


          東京馬車鉄道は、薩摩出身の実業家・五代友厚のバックアップを得て、種田誠一と谷元
         道之が設立したことから始まります。

  「都史紀要33 東京馬車鉄道」62頁にこうありますね。


    この馬車鉄道は、鹿児島出身の種田誠一と谷元道之が、同郷の先輩であり、財界の重鎮であった五
   代友厚の後楯を得て計画したものである。『五代友厚伝』はその間の事情を次のように伝えている。

  どうなんでしょうか?

       小川氏:五代友厚のバックアップを得て
       白石氏:五代友厚の後盾を得て


  ナルホドナルホド。
  ところで、都史紀要58ページ末に

      2 東京馬車鉄道会社の設立

         出願
      高島嘉右衛門の馬車鉄道計画が却下されてから五年後の明治一三年、再び東京の目抜き通り
     に鉄道馬車を走らせようという計画が持ち上がった。同年二月二三日、東京市街馬車鉄道建設
     発起人種田誠一ほか三名から松田道之東京府知事に対して以下のような願書が提出された。

 この様な記述があり、それで、「都史紀要」61頁には願人として

        東京市街馬車鉄道建築発起人

                               日本橋区新右衛門町拾六番地川村伝衛同居
    明治十三年二月廿三日                     川 村 伝 蔵 印
                               芝区三田町壱丁目四拾六番地
                                                 谷 元 道 貫 印
                               日本橋区本材木町二丁目二番地
                                         久 原 庄 三 郎 印
                               京橋区三十間堀壱丁目二番地
                                         種 田 誠 一 印

 種田、谷元以外に、発起人2名いますけど。
  「五代龍作篇『五代友厚伝』」には、


     明治十二年の交、薩摩の人種田誠一、谷元道之の二名は、官命を帯びて欧米各国を視察するや、
    到る処の都市に馬車鉄道の開通せるを見て深く感ずる所あり、帰朝後幾もなくして官を辞し、東京
    に馬車鉄道会社を創設せんとし、種々奔走する所ありしも、未だ其の力の足らざるを感じ、郷里の
    先輩にして財界の雄たる君に謀りて之れが達成を図らんとし、相伴ふて大阪に至り、君に会して会
    社の計画内容を示し、切に其の発起人たらんことを請へり。

 とありながら、上記には五代の名はありません
。   
 小川氏は何を以って、大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」と書かれるのだろうか。

   さて、 「明治の郵便・鉄道馬車」(篠原宏著 雄松堂出版1987刊)と言う本の111ページ以降には、

     第四章鉄道馬車
 

     東京馬車鉄道会社

     円太郎馬車が東京の町を走っていた明治十五年ころ、東京では新
     しい交通機関として、鉄道馬車が計画され実現した。つまり今の都
     電の前身で、レールの上を二頭の馬が客車を引っばるというわけで
     ある。
     文明開化の日本独特の馬車ということになるが、この鉄道馬車、
     実は計画は明治六年からあった。「日新真事誌」(六年十二月十九日〉
     によると、横浜の高島嘉右衛門が新橋ステーションから大通りを経
     て筋違万代橋、北は本町通りより浅草並木町まで出願したという記
     事がみえる。しかし、この計画は許可にならなかったとみえて、鉄
     道馬車の計画が再び起こったのは明治十三年である。

     初めの計画者は鉄道作業局長であった松本荘二郎、富田鉄之助な
     どであったが、この計画を種田誠一、谷元道之、河村伝衛、久原庄
     三郎などに譲った。これらの人々のバックは五代友厚である。三十
     三銀行から資本金三十万円を借りて「東京馬車鉄道会社」を設立、
     明治十三年十一月十一日に許可になった。ただちに起工して、十五
     年六月二十五日新橋-日本橋間の試運転、六月二十五日から営業を
     開始した。
     資本金三十万円の会社といえば、当時としては東京市内一、二を
     争う大会社である。(例えば川崎銀行が三十万円、大倉組が二十万円であ
     る)それだけに開業までにこぎつけるには海外での調査、通交量の実
     態調査、索き馬の調達など大規模なものであった。その概略を知る
     ために、明治十六年三月二十四日に東京府に提出された「実際考課
     状」の中から次に引用して置く。

  この辺りの記述、篠原氏は、「東京市史稿」(東京都引き続き東京都刊)と言う、東京都総務局曰くところの「江戸・東京の歴史に関する資料を年代順にまとめた、編年体の史料集
から牽いてこられています。
  ただし、以下の点は「東京市史稿」からは直接には見えません。

    ・初めの計画者は鉄道作業局長であった松本荘二郎、富田鉄之助などであったが、

    ・三十三銀行から資本金三十万円を借りて「東京馬車鉄道会社」を設立、

  「初めの計画者」については、別資料で確認されたのか。詳細はありません。「三十三銀行から資本金三十万円を借り」も資料の提示はありませんが、「東京市史稿」には第三十三国立銀行に東京馬車鉄道の勘定口座があったことが記載されていますので、そちらから採られたのかもしれません。ちなみに、第三十三国立銀行は当時東京にあった銀行です。
  
  一方で、篠原氏が参考とされた「東京市史稿」の市街篇67には、本件に就いては、上記東京馬車鉄道会社が東京府に提出した「実際考課状」、決算報告書の様なものですが、そこに附された「東京馬車鐡道會社株主姓名表」と言うものが、当該「東京市史稿」の270頁~272頁にあります。



      

 ここには28名分の姓名、住所、株数、金額がありますが、次頁272頁に30株保持者1名の姓名、住所、株数、金額と25株保有者3名の姓名と所在府名、20株保有者5名の姓名と所在府名、15株以下の保有者は人数のみが79名と書かれています。面白いことに、小川氏が、

             「東の渋沢(栄一)、西の五代」と並び称される実業家だった。

 と書かれた、「渋沢栄一」と思しき「澁澤榮一」の名が(東京府)20株保有者の中に見えます。
  上表第二位の株主が五代であり、四位と八位に


        東京市街馬車鉄道建築発起人
                               日本橋区新右衛門町拾六番地川村伝衛同居
                                          川 村 伝 蔵

 の川村傳衛と名があり、同住所地の川村迂叟の名がみえますがこれが、川村伝蔵でしょうか。株主筆頭の川村鐡太郎も一族でしょうか。
  この姓名表等で、株数と住所地の明らかな株主は37名で、保有する株式数と資本金額は東京馬車鉄道の発行株数3,000株の内2,500株、資本金額300,000円の内の250,000円と六分の五を占めます。これの住所地で資本金額を集計すると、

住所地 人数 人数比 株数 資本金額 金額比
大  阪 11人 29.7%   653株  65,300円 26.1%
東  京 25人 67.6% 1,817株 181,700円 72.7%
その他(愛知)  1人 2.7%    30株   3,000円  1.2%
37人 2,500株 250,000円


 
 
 
 


となります。これがなんで、「大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」になるんでしょうか。


  残りの六分の一、79名の株主の住所地が全員大阪であったとしても、資本金額比、株数比は東京60.6%、大阪38.4%です。

  これのどこが、「大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」になるんでしょうか。

  
   以下はどちらから盗ってこられたんでしょうか。wikipediaでしょうか。何だか高島嘉右衛門ageと同じ筆致で、五代友厚をageておられるんだが。鹿児島城下薩摩藩下士長屋近縁出身の五代、大坂へは官吏として、そもそもは築港計画に参画して、やがて西南戦争後の不況に喘ぐ西日本の中小船主を糾合して大阪商船を発足させるなど、明治新政府が政策的になかなか動きがたい状況、場面で、当時の経済をオーガナイズしてきたゆえに、政商とも言われた人物。

             五代は関西では阪堺鉄道(現・南海本線)の開業にも寄与し、「東の渋沢(栄一)、西の五代」
            と並び称される実業家だった。しかし、五代は商人としての顔だけではなく大阪株式取引所
            (現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪
            市立大学)などを設立するなど、決して利益だけを追求したビジネスマンではなかった。

 五代が主宰したとする、「東京馬車鉄道」と言えど、これを「大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」とは、出資者の所在と出資金額からは到底言えません。
  小川氏は他者著作の表面のみから牽強付会して思いつかれ、ゆえにトリビアルな見解を「ドヤ」顔で披瀝したい、商品化したいがために、他者著作を引用の要件を満たさずに無断で複製した上に、原典が示唆すらしていない事象を捏造し、しかも
大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」たる根拠を明確にし得ないから、原典に無い上記のような「決して利益だけを追求したビジネスマンではなかった。」等と言う、似非倫理観で五代を持ち上げることにより、斯様な言説を用いることで自身の無責任な断定、「大阪資本が乗京でつくった日本初の私鉄」を補強しようとされたと断ぜざるを得ないのです。

             東京府知事の松田道之は都市交通の整備をする必要性を感じていたことから、種田と谷元
            の馬車鉄道開業申請を許可した。

  この部分については、白石氏の都史紀要64頁の

       願書は、一三年四月二八日、松田府知事から内務省へ進達された。市街馬車鉄道に対する松田の態
      度は、先の大久保一翁とは対照的に、きわめて好意的かつ積極的であった。松田はその内務省への伺
      書の中で、「前年林和一外三名ヨリ馬車轍路取設方願出有之、其節伺出候処、御聞届不相成候得共、今
      日ニ至リ候而ハ自ラ時勢モ異り、既ニ都下之外部品川板橋へ向ケ鉄道汽車被取設候ニ付而ハ、都下
      之内部ニ於而通行運搬之便利ヲ開カサレハ人民之便否都府之勢衰ニ関渉不少ニ付、抑本願之如キハ今
      日施行スヘキ時機ニ際シタル時ト存候」(前出、「明治十三年公文録」)と、馬車鉄道の必要性を熱心に説
      いている。松田は、当時東京中央市区改造計画の立案に没頭しており、馬車鉄道は彼の都市改造構想
      の中で都市交通の中核として位置づけられていたのであろう。


 としているものからのパクリです。何故ならば、松田の認識は小川氏が調べた結果ではなく、上記の如く「都史紀要」での白石氏の検証の結果の見解だからです。故に小川氏は松田の認識の根拠を説明できていません。
 松田知事が「種田と谷元の馬車鉄道開業申請を許可した。」ことの事実の根拠については「都史紀要」66~67頁にあります


       願書は、太政官において審査の後、内務省伺どおり計画線のうち京橋際から馬喰町に達する丙線路
      を除いて許可となった。一三年一一月二四日、松田東京府知事から願人に下した指令書は以下のとお
      りである。

        第一万七千七十六号

        書面馬車鉄路建築並営業之儀聞届候条、別冊命令書ニ準拠シ可致執行候事。
        但、会社設立願之義追テ何分之儀可相達候事。


        明治十三年十一月廿四日
          東京府知事松田道之 印
                      (「五代友厚関係文書」、大坂商工会議所商工図書館所蔵)
 

  せっかく、ここに五代の関与を示す、出典が書かれているのに。まあ、パクリが余りにもあからさまになるのは、という事かも知れませんが。

             明治一五年、馬車鉄道は開業。東京馬車鉄道は総延長約二・五キロメートル、新橋-日本
            橋間という小さな規模だったが、順調に客を増やして路線も延びていった。しかし、社会環境は
            目まぐるしく変わっていた。
             明治時代には公衆衛生という概念が社会に浸透してきていた。馬車鉄道ほ馬の排泄物が
            路上に放置されるなど不衛生だった。世の中は急速に馬車鉄道を嫌悪し、代わって電車が
            新時代の公共交通機関として注目される。
             そこで東京馬車鉄道は明治三六(一九〇三)年に動力の変更を行い、馬車鉄道から電気
            鉄道へと姿を変える。同時に社名も東京電車鉄道に改称した。

  このことは何によって論証されておられるのでしょうか。

             明治時代には公衆衛生という概念が社会に浸透してきていた。馬車鉄道ほ馬の排泄物が
            路上に放置されるなど不衛生だった。世の中は急速に馬車鉄道を嫌悪し、代わって電車が
            新時代の公共交通機関として注目される。


  小川さんの説の根本的におかしなところは、馬車鉄道の動力変更は、何に拠らず「公衆衛生」が原因と主張されていることです。
  「明治時代には公衆衛生という概念が社会に浸透してきていた。」と「時代」とか「概念」と言う曖昧な括りで如何にも確認した風に書かれていますが、何も調べておられないのがあきらかです。都心でも汲み取り式の便所が常体ですね当時は。東京都区部で下水道普及率が30%を超えたのは昭和39(1964)年の東京オリンピック前後です。
  「明治時代には公衆衛生という概念が社会に浸透してきていた。」ことと「しかし、社会環境は目まぐるしく変わっていた。」を何も論証されていないので、これらは相互に繋がっておらず、小川氏には言葉としても論旨としても関係が示せていないと言うことです。
  もちろん、排泄問題については、「都史紀要33」にも、98頁~102頁言及がありますが、「不衛生」などよりもよっぽど合理的な説明です。それは、鉄道馬車車両が集まるターミナル、これを「駐止場」と呼んだようですがここが、「兎に角臭ーんだよ」と言うことに尽きます。また、このことの主要な問題点には明治16年馬車鉄道開業直後に手当てをしていることも書かれています。どうも小川氏はこの部分を摘み食いして、「概念」や「社会環境」を妄想し捏造されたような節があります。
  「世の中は急速に馬車鉄道を嫌悪し、」と言うことの憑拠もありません。しかも小川氏自身が、

            順調に客を増やして路線も延びていった。

 とお書きになっておられる。
  「都史紀要33 東京馬車鉄道」170頁に「表10 東京馬車鉄道営業成績(明治24年~34年」と言う、「日本帝国統計年鑑」を参考とした表があります。
 これに拠れば、「乗客数」明治32年27,616,374人、明治33年33,458,121人、明治34年40,999,332人、明治35年42,206,917人と、明治36年こそ、19,334,480人と不景気と電車化と言う動力変更工事によって減少をもたらされたとの白石氏の説明がありますが、これの外は乗客数大きく増えております。「嫌悪」されたなら、乗客数が増加するのは変じゃあありませんか。
  馬車鉄道の最盛期、東京馬車鉄道の電気への動力変更(明治36年)直前の明治34年東京馬車鉄道の馬匹は白石氏「都史紀要33」に拠れば2,125頭、客車体は307両を数えるにいたっています(177頁)。鉄道馬車は二頭引きですから、客車に対して3倍の頭数が必要であり、そのことは、紀要67頁に馬車鉄道創業時の馬匹と馬車の要数でも触れられています。

       創業にあたって発起人たちが最も苦心したのは本社位置の選定である。当初一八〇頭の馬と三〇余
       輌の馬車で営業を始める計画であったが、これだけの馬と車を収容できるまとまった土地を確保する
       ことは容易なことではなかった。

 この時は新橋駅に隣接する官有地を鉄道局長官井上勝の支援、指令で一万八千坪も借地することができたと「都史紀要 33」にはあります。この時点では馬車鉄道も持て余すほどの広さの土地とありますが、20年間で馬も車両も10倍以上になっています。
  さて、ここに馬車鉄道会社が動力を電気に転換する最大の理由があります。2,000頭を超える馬は産業動物とは言え、生き物ですから、排泄は言うまでもなく、給餌から厩舎から何から管理と維持が大変です。馬車鉄道が、運用車両の3倍以上の馬を確保するなどは当時としては極めて良心的な(産業動物の維持管理について何を持って良心的かは措くとして)姿勢だと思われます。「都史紀要 33」には零細な馬車業者、「ガタ馬車」とまで言われていますが、の牽引馬の惨状も書かれています。
  維持管理だけではありません、2,000頭を超える馬による300両を超える客車のオペレーション。言って見れば、1,000両(組)の機関車をとっかえひっかえ300両それも1両単位でつないで運行させてる訳です。言って見れば編成数300。現今の大手私鉄でもそんなには扱っていない位のオペレーションです。此れが楽と言うか、生き物である馬に煩わされない方法があるなら、それを指向しないほうが不思議ではないでしょうか。

  そうは言うものの、電車の上野公園でのデモンストレーションが明治23年、京都電気鉄道の営業開始が明治27年、東京馬車鉄道の電力への動力転換が明治36年と東京における市内鉄道の電力への動力転換には時間が掛かっています。「都史紀要 33」に拠れば、原因は2点、「一つには市街電気鉄道の出願者が多過ぎた(馬車鉄道すら大儲け出来ている。いわんや…。敷設権の転売も美味しそうだし)」、「もう一つには、長年の独占企業東京馬車鉄道のような市街鉄道の市営化を求める声が市民から強く上がっていた(儲け過ぎだろ、運賃下げろ。乗り継ぎ乗り継ぎごとに金が架かる)」、そしてオマケとして「出願者大杉問題を政治的に利用しようとして、或いは権利関係に介入しようとして、星亨とか利光鶴松とか怪しげな連中が市会で蠢いていた」からだったようです。要は馬のションベンが電化の原因、は捏造と言うことです。

             東京電車鉄道を皮切りに、東京市内にほ東京市街鉄道、東京電気鉄道が運行を開始
            し、東京市内のあちこちに線路が敷設されることになった。三社の鉄道会社は、明治三九
            (一九〇六)年に合併して東京鉄道として再出発する。しかし、合併したのも束の間、明治四四
            (一九一一)年には東京市に買収されて東京市電になった。東京市営になったことで私鉄では
            なくなったのである。
             長らく東京市電として親しまれた東京の路面電車は昭和一八(一九四三)年に東京都制
            が施行されるにともない、東京都電車(都電)へと名前を変えている。

  もう、wikipedia丸写しの様な要約ですが、馬車鉄道では、「何故そうなった」について一生懸命捏造されていたのに、この段ではパクリの元ネタが見つからなかったのか、纏められなかったのか、あっさりしたものですね。
  「何故、三社は合併したのか」、「何故、東京市に買収されたのか」これも近現代史の内だと思うのですが。この節では一体誰が「鉄道王」だったんでしょうか。五代?種田?谷元?大隈?松田?何も説明がないのですけれどどうなんでしょうか。
  この手の方々の著作権に対する意識の低さ、他者の業績に対する敬意の無さと言うのは、特に、「ジャーナリスト」を自称される方に顕著な のはどういうことなんだろうと思う次第ですが、これらのどうしようもない破廉恥漢のうちのお一方小川氏、法規範に対する意識の低さ、誤認や意図的な歪曲に よる先人への敬意の無さは次節(「続・男子三日逢わざれば…。小川裕夫さんは御変わり無く(笑」作成中)にも見えます。
  次節でも東京の市街電車を取り上げられておられますが、本節にご紹介した記事以上に悲惨なものになっています。

               OP.2015.08.28 11:30

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